
はてなキーワード:挿絵とは
・エモ重視
・テンポが遅く話が進まない(おそらく原作をスローテンポにしてる)
・うじうじ
・BLっぽさある
なんだけど、最終的に良かった
スローテンポにしてちゃんと成立するのすごいと思う、演出が上手い
おそらく画の情報量と説明量が多いのと、内面の話が多いから、間が持つのかもしれない
この作品においては背景をちゃんとキャラ視点で見れる構図になっていて、それがよかったと思う
キレイなだけじゃなく、退屈で嫌いで日常で、でもキレイみたいな、言語化むずいが
話のフォーマットはよくある因習村なんだけど、そこにBLを一つまみ入れるだけでこんなに味わい深くなるというのは面白いと思った
よしきの「化物は俺の方」で、光とよしきが対比になってると気づいたが、よくできてるな
田中周りの話は「大げさな割に動かない」「台詞回しがキモい」「演技っぽくて嫌い」が先行したが、最終的にこういう形に落ち着くなら確かにあのムーブしかなかったなと思う
数人の周囲の視点があるからこそ緊張感が生まれたんだよね、これがないと痴話喧嘩になってしまう
うーん、上手いな
江口寿史が炎上してるけど、一昔前まで漫画って雑誌とか広告からトレースしまくってたイメージがあるから、今回の件もさもありなんって気がしてる。
自分が昔からトレースなんじゃと思ってたのは、漫画本編というよりエピソードの扉絵とか単行本の最初の数ページとかに載ってる挿絵ね。ストップひばりくんの挿絵とかもポーズとか表情とか明らかに元ネタがあるんじゃって気がしてる。程度の差はあれ、昔はかなり多くの漫画家が無断トレースしてたんじゃないかな。自分は岡崎京子大好きだけど、岡崎京子の漫画には明らかに元ネタがあるだろうなと感じるカットが出てくる。細かくチェックしていくとかなりの漫画がアウトになる気がするからある程度古い漫画ではトレースにも目を瞑るしかないんじゃないかと思うんだけど、とにかく叩けりゃいいネット住民には全てが悪ってことになるんだろうな。
Permalink |記事への反応(24) | 11:02
うまかろうと下手だろうと
私は二次創作の経験しかないけど、元々人気があるキャラクターを使って書いてるんだから
何でみんなこんなに自分の世界を持ってて、オリジナルのストーリーを起承転結で構築できるのか不思議
でも、エロの中身を考えなくちゃいけないし、ぬるい内容はつまらないんだからエロ、ポルノの世界だってそれなりのセンスがいるし
私にはなかなかハードルが高い
もう、つまらなくても、下手でもいいから一次創作をやりたいと思ってるけど
まず世界観を考えて、キャラクターを考えて、起承転結でって難しい
なろう小説で生成AI使って挿絵を描く人は、イラストレーターから総スカンをくらいデビューできないとかそういう話を見かけた。
たしかに、ラノベが主要コンテンツである出版社はイラストレーターが偉くなってそうなるだろう。
自分自身の絵柄と似た絵が機械的に生み出されることに無頓着な人。
そして最後に作者が亡くなっているとはいえ、当時の倫理観、技術についての先見性のものであるが強火の生成AI推進みたいな内容が含まれてる漫画。
劇中で無許可(劇外だとアニメ化の際、手塚プロに制作スタッフ根回し済み)で機械的に手塚先生の漫画家の絵柄や作風を分析し、田中圭一先生が描いたみたいな漫画を原稿料無料で作り出す話。
テレビに出てきた歌手の声紋を無断でコピーする道具を利用する話。
普段から不法侵入や鶏みたいな道具で漫画の無断コピーも音沙汰はないから当然と言えば当然な気もするが。
声真似生成AIが問題になってる中、無断声コピー道具で体中に油をぶちまけながら炎の中全力疾走したような感じなのに燃えなかったのはどうかと思ったよ。
出版社の主要の屋台骨がこんなんだから、大手出版3社が生成AI推進派なのは納得。
田中圭一先生が描いたみたいな漫画を無断で作り出す内容が含まれるアニメがアニメの屋台骨みたいになってるテレビ局も特撮側で利用寄りになったし生成AI推進側だろう。
イラスト描いてたり、漫画描いてたりする人が名義を晒して、反AIとしてあまりにも過激な発言してたら、この出版社やテレビ局から干されないのだろうか
何か定まった要件を定義として満たしているから児童文学は児童文学っぽいのか?
ごんぎつねとかたとえどの分類に属するか知らなくても初見で「児童文学だな」って思うでしょ。
不思議だよね。
ラノベが挿絵なくて文章だけ提示されても一発でラノベと思えるのにはあんま不思議さ無いのにね。
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ここまで書いてきた「合丼来来伝」ですが、今回で最終回になります。
挿絵を担当した絵描きに度々不満やもやもやを抱かせる結果を出し、
時には、絵描きに対して不義理と言わざるを得ない行為を行いながら
合丼来来の同人活動はその後も数年間続いていた。
偶に絵が性癖に刺さる人が居るのか、ある絵描きが挿絵を描いている時だけ
極端に大きく売れることはあった。
だが、基本的には相変わらず作品は合丼来来が思っているほど売れることはなく、
合丼来来は「俺の作品の売れ行きが悪いのはアンチのせいだ」
「俺の作品の売れ行きが悪いのは絵に魅力が無いからだだ」と、
合丼来来のTwitterアカウント(二つあったが、どちらも2022年に凍結)でぼやいていた。
2017年、合丼来来は作品の売れ行きが芳しくない状況を打開しようと考えたのか、
それまでは1カ月に1作の新作販売だったペースを、2週間に1作の新作販売へと
販売ペースを上げた。
合丼来来が新作販売のペースを1カ月に1作から、2週間に1作に変えた頃に
togetterのまとめで「絵描きへの依頼の相場」に関する話のまとめが作成されたことがあり、
そのまとめのコメント欄で合丼来来が暴れたことがあった。
時は少し遡って2016年10月、DLsiteが創業20周年記念イベントを開催し、その場で
「DLチャンネル」というDLsiteユーザーのコミュニティサイトを開設することを発表した。
DLsiteのユーザーが雑談等をするための掲示板や、
おすすめの作品を紹介する記事を自由に作成することのできるコミュニティサイトだ。
DLsiteで作品を販売していた合丼来来は、このコミュニティサイトが開設された初期から
DLチャンネルの雑談掲示板に書き込んだり「自分の作品を紹介する記事」や、
「絵描きが原稿料を値上げ交渉してくることを批判する記事」を書く等していた。
中には、「「合丼来来にインタビューした記事」を書いた猛者もいた。
そうした中、ついに事件は起きた。
2021年12月、合丼来来がDLsiteから強制退会させられる事件が起きた。
事の流れは
というものだった。
この対応に腹を立てた合丼来来は2022年1月にDLsiteの運営会社に対して訴訟を起こし、
「合丼来来(あいどんらいき)伝・1」にある3本のニュース記事になったという話だ。
<注1>
「合丼来来(あいどんらいき)伝・1」で紹介したニュース記事及び、こちらの動画での解説によると
「DLsite側が訴訟に際して提出した証拠を見た所、修正が薄いではなく、無修正と言っても過言ではなかった」だそうです。
DLsiteと合丼来来の訴訟が始まってしばらくした頃、
合丼来来のTwitterアカウントが(2つ存在したが両方とも)、Twitterの規約に反するとして凍結された。
そして、合丼来来はTwitterに戻ってくることもなく、
2025年8月現在、彼はインターネット上から姿を消している。
その後の合丼来来がどうなったか、ここまで「合丼来来伝」を書いてきた私は知らない。
もしかしたら、もう、彼がインターネット上に現れることは無いのかも知れない。
ただ、“こういう人物が過去にインターネット上には存在していた”ということを
記しておきたいと思い、私は「合丼来来伝」を書いた。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
オチと言えるオチの無い物語ですが、
“こういう人物が過去にインターネット上には存在していた”
という話を残しておきたいと思い、今回書きました。
彼がその後どうなったかは、私は知りません。
もしかしたら、新しい名前で活動しているかも知れない、
もしかしたら、インターネットを完全に離れたかも知れない、
インターネット上であろうとなかろうと
「彼が新たに誰かに迷惑をかけている」ということが無ければ別に良いと私は思います。
最後に、この言葉でこの物語を締めたいと思います。
「こういう人物は、まだ日本にいるのです、多分」。
ネットwatch板の民からはwatchされ、「ベビールックポータル」のメンバーからは距離を取られることになった合丼来来は、
居場所・他人と関わるための新たな場所として「DL同人観測所」のオフ会を選んだ。
「ベビールックポータル」のメンバーから距離を取られる前は、
「ベビールックポータル」のメンバーも合丼来来に協力的で、合丼来来は販売する小説の挿絵を
「ベビールックポータル」のメンバーに紹介してもらう等していた。
だが、合丼来来は「ベビールックポータル」のメンバーに紹介してもらった挿絵担当に対して
等があったそうだ。
「ベビールックポータル」のメンバーと疎遠になったことで、合丼来来は小説の挿絵を描いてくれる人を
自分で探して挿絵を依頼しなければならなくなった。
合丼来来が自分で小説の挿絵を描いてくれる人を探さなければならなくなってから時折
「ゆざいちょ=合丼来来watchスレ」に合丼来来に絵を依頼されたという人が現れるようになった。
というパターンと
というパターンがあった。
こうした絵描きの反応に気付いていないのか、
合丼来来が販売している作品は、最初は挿絵が基本絵8枚、差分込み24枚ぐらいの「小説+挿絵」だったものが
最盛期には基本絵8枚、差分130枚の「絵に文章が付いた作品」(CG集)に変化していった。
合丼来来の作品が基本絵8枚、差分130枚の「絵に文章が付いた作品」になった頃に
依頼メールの内容を公開した人が居たそうだが、そのメールの内容は
枚数は基本8枚(カラー1枚+グレースケール7枚 か カラー8枚)
+差分パターンを色々(ポーズは変更なし、背景・服装・表情違い、アイテムの有無など、レイヤーの切り替えで収まる程度、ひととおり全パターンを作って各シーン毎に合わせて量産する感じ)
期間はおおよそ2ヶ月で済む程度、予算は7万円の予定です。
というもので、結果的に差分は100枚近く描くことになったそうだが、差分込みで7万円前後の支払いしかなかったそうだ。
そうした中で事件は起きた。
嘘をついた少年がオオカミに食べられてしまったという話が知られているが、本当にオオカミが来たことは少年だけが知っているのだから、少年が食べられてしまったという結末に持っていくのは不自然。本来は、村の羊がオオカミに食べられたという話になってる。
内容羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た」と嘘をついて騒ぎを起こす。騙された大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊は全て狼に食べられてしまった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E5%AD%90%E4%BE%9B
明治時代にイソップの話とは別に、嘘をついた少年が狼に食われるという訓話が、文部省の小学読本に存在している。『小学読本二之巻』(田中義廉 明治7年8月改正 文部省、初版明治6年)では、狼が少年を襲う挿絵とともに「狼のために、噛み殺されたり」となっている。
警告を受けて何事もなかったからといって、警告してきた人を嘘つき呼ばわりしていると、いつか本当に問題があったときに対処できない。
※今回の「合丼来来(あいどんらいき)伝・6」で話すことは、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」の裏側で起きていた出来事です。
「アフィリエイトブロガーのゆざいちょ」が「都条令改正反対運動に参加するゆざいちょ」となり、更に「Twitterスパマーゆざいちょ」へと進化していたのと同時期の話。
2008年頃から、「BabyLook Portal - おむつ情報サイトベビールックポータル」というニッチな性癖(オムツ・おもらし性癖)の人達の集まるサイトのチャットに、
元々そのチャットにいたメンバーからの紹介される形で「合丼来来(あいどんらいき)」という名前の人物が出没するようになっていた。
最初にチャットに現れた頃こそ丁寧な口調と低姿勢な言葉遣いだった彼は、チャットに現れる様になってから1年と少しが過ぎた2010年頃には、
チャットで周囲の人が引いている事にも気付かず「都条令に賛成する奴は表現の自由の敵だ」のような政治的な発言もするようになっていた。
この「合丼来来(あいどんらいき)」という人物の正体が「ゆざいちょ」であることに気付いている者は、2010年まで一人も居なかった。
活動を開始した時期がmixi騒動の直後であることから、過去の素性を隠して活動するために、過去の活動範囲と重ならない範囲で別名義を名乗り始めたのだろうと推察される。
なお、備考として述べておくが、mixi時代にゆざいちょとリアル付き合いのあったグループはmixi騒動後、ゆざいちょと絶縁した(ゆざいちょを自分達のグループから追放した)と聞いている。
ここからは、ある人物(ベビールックポータルのメンバー)から受け取った時系列メモをそのまま書き写す。
これが、ベビールックポータルのメンバーの視点から見た、合丼来来の動き関連の流れだそうだ。
<注1>
ブログで書かれた作品紹介記事には、ブログの開設から年を経るほどに「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていき、
記事で紹介された商業作家の中に「訂正を求めたものの聞き入れてもらえなかった」と後に証言した作家もいる。
また、「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていくことから、
次第にベビールックポータルのメンバー内でも、本人がいないところで
「合丼来来は作品紹介記事を書くのに、サンプル部分や無料部分とサムネイルだけに目を通して記事を書いている」
という評価が出るようになる。
<注2>
編集長は、合丼来来には「書くペースは速いよね」と、「自分で書いた作品を自分で読み直して推敲する癖を付けて欲しい」をオブラートに何重にも包んで言っていた。
しかし、合丼来来は、それが何重ものオブラートに包まれた言葉だと気付かず「編集長から、書くのが早いと誉められた」と、
その裏にある意味を全く考えず称賛の言葉として受け取っていた。
掲載された小説を読み返していれば、本人が出した原稿と掲載されている内容が違う事に直ぐに気付けるぐらいに修正がされていたので、
読んだ上で「自分の小説のクオリティが商業レベルに達してないと気付いて落ち込む」か「勝手に修正されていることにキレる」かのどちらかの反応が
生じることを周囲(ベビールックポータルのメンバー)は期待し、どちらかの反応が生じた場合「編集長が半分近く修正している」という事実を明かして、
本人に自覚と向上心を植え付けたいという意図での「自分で書いたものを後から読み返した方が良いよ」だった。
こうした流れがある中で、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」で書いた通り「ゆざいちょ=合丼来来」という事実が判明し、
合丼来来は「ベビールックポータル」のメンバーから干される(距離を置かれる)ようになる。
※まだ決定はしていないんだけど
これを支持してる奴らの理論で言えば
「何か作ってる人が犯罪犯したら、その生産物を破棄するのが妥当」となると思うんだけどどう思うんだ?
いやマジで
以下の事例についてどう思うんだ?
2.絵師が淫行で捕まった、その人が挿絵を描いていた小説を絶版にした
3.絵師が捕まった、その人が担当していたソシャゲのガチャ絵を差し替えた
4.ゲームのクリエイターが捕まった、その人がデザインしたキャラクターを使えないようにした
5.Webライターが捕まった、その人が書いた取材記事を見れないようにした
7.服飾デザイナーが捕まった、その人が作った服を生産停止にした
10.アニメーターが捕まった、その人が描いた原画を差し替えた
12.プログラマーが捕まった、その人が書いたコードを全て破棄した
みたいな部分なら勝負にはなると思うんだよな。
俺は極端な例を出して論破するようなバカじゃないからこの辺はちゃんと認めるんだ。
(NG例:「かのこんとはだしのゲンだったらゲンの方がまだ印象がいい。つまり小説のほうが印象がいいということはない。はい論破」「アプリで読めば漫画は無料!漫画の方が高いわけではない!!!」)
でもこれらって娯楽や芸術としての純粋な価値においてはどうでもいい部分じゃん。
本質に興味のない人間が外側の価値観で勝手に値踏みしてるっていうか。
たとえば棋士の良し悪しをルックスで決めつけて「でも藤井聡太ってイケメンには程遠いよね」とかケチつける奴がいたら、なんでそこでその価値観を持ち込むねんってなるわけでな。
「創作される絶対量が増える」っていうのは質への転化に繋がるから無視できる要素ではないと認めはするが、本当にそれ以外の部分ではまず負けているなと。
よく言われる「地の文における心理描写」っていうのも、それは画風やコマ割りによって心理を表現できないショボイ漫画との比較でしかなく、ちゃんとした漫画は様々な表現技法とセンスを駆使して「文字で書かれるよりもハッキリとキャラクターの気持ちが目を経由して脳に飛び込んでくる」ようなものを仕上げてくるだろ?
やっぱ表現という意味では漫画の方が小説よりも格が上だと思うんだよな。
芥川賞や直木賞の選考者が「この中から下手に選んだら俺達いよいよオワコンだぜ」って考えに至ったのは現実がしっかり見えていたと思うよ。
本当に才能のある人は小説なんか経由せずにいきなり漫画原作や映画脚本に行く時代になってるというのもある。
いまや小説家になるのは本当に「漫画を描こうと努力したり、自分の原作を漫画にして貰おうと人に頭を下げられない程度の創作熱しか持っていない人間」ばかりなのだ。
そもそもの構造として漫画が文+絵である時点で、小説の上位互換と言ってもいいのだろうな。
昨今のコナンが挿絵の頻度が多いだけの小説の如く言われているが、これこそがまさに「漫画は小説を内包することが出来るが、小説が同じことをすればそれはただの漫画になる」という集合関係の証左なのだ。
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
まず①は判例で
性欲を刺激・興奮させる
となっている
これ自体は間違っていない。ただし、同時にチャタレー事件判決で「法律が保護するのはあくまで”最小限度の道徳”」であるとしており、以後これが踏襲されている。
そしてもう一つ重要なのは、刑法175条に違反するわいせつ物というのは、『未成年に見せてはいけないもの』ではない。『たとえ大人相手であっても見せてはいけないもの』である。
具体例
Q1:エロ同人は?
A1:性器を無修正で描いたらわいせつ図画になりますが、コミケット準備会は警察とほぼ同様の基準に従って修正させています。無修正・修正が甘いと見本誌を提出したときに販売停止になるはずです。
Q3:裏ビデオは?
A3:作成・販売したら刑法175条違反です。だからこそ裏なんです。
Q4:無修正の性器が違法でない国からの、インターネットを介した配信は?
A4:サーバーの所在国の法律で取り締まるのが原則だとは思いますが、正直なところ何ともいえません。
Q5:ろくでなし子さんは?
A5:『でこまん』はセーフで3Dプリンターのデータはアウトなんでしたっけ?増田はでこまんを見たことが無いのではっきりとしたことは言えないのですが、流石にでこまんは最低限の性道徳には触れないという判断だったんでしょうねえ。
A6:流石にアレは性欲を刺激しないという扱いなんでしょう。
と言及しているのであり、同時に最近問題になったエロ広告は主に『エロ漫画=18歳以上の大人に対して売ることは問題のない物を宣伝する広告』であり、元のエロ漫画が刑法175条の定めるわいせつ物ではないのに広告がわいせつ物になることは100%無いと言って良い。
単純な多数決ではないものの、アンケートなどの調査結果やパブコメがまったく影響しないとも言えない
性的だと感じる受け手が増えるほど、社会通念上も「性的である」と判断される方向へ動く
結局のところ、街中で公開される二次絵に
①興奮する人が増える
②一般人が「恥ずかしい」「気まずい」「見たくなかった」と感じる
まず、狭義のわいせつは①について書いた通りであり、これに該当するのであれば”街中で公開される二次絵”(ここで元増田が想定しているのは宇崎ちゃんとかロジャ美とかラブライブとかそういうのだろう)が価値観の変化によって『子どもも見るような場所に貼るのはおかしい』ではなく『大人相手に見せても違法』なものとなることになるが、AVなどを差し置いて該当することはありえないしあってはならない。
というわけで山田太郎議員のいう『おそらくはそうでないものを指している』わけであるが。
AVやエロマンガやエロ画像やエロ絵は基本的に『18禁=大人が見るのは合法であるが子どもに見せてはならないもの』である。小説はセーフかというと二次元ドリームノベルスなどは18禁だがあれはどうも挿絵が引っかかっているようである。フランス書院文庫やマドンナメイト文庫は実はR-18ではない。
なぜAVやエロマンガやエロ画像やエロ絵を未成年に見せてはいけないのか、というのは条例上の理由は『(主に東京都の)青少年の健全育成条例』で、「(要約)18禁のものは指定しない。18禁ではないもので東京都の審議委員会で有害と認めたものは『指定図書類』として18歳未満への販売が禁止される」としているからである。(これはエロ関係だけでなく、エアガンやバタフライナイフ等も指定されている)。
一方で、どちらかというと①に関してだが高裁の判決で『マンガのわいせつ性は実写に比べて劣る』として量刑が減らされており(執行猶予つき懲役→罰金)、最高裁でもこれが支持されているためこれが判例となっている。
ではどこまでが有害なエロでどこまでがそうではないかという線引きは(ラディカル・フェミニストや性嫌悪以外にとっては)大変困難である。増田もエロマンガ一般を小学生に見せてはならないことには同意するが、『パラレルパラダイス』は…いや流石にダメな気はするか、『ふたりエッチ』はどうかという線引きは難しい。ただ、有害度で言うならAV > 『パラレルパラダイス』>>『宇崎ちゃん』『たわわ』であることは間違いない。断言する。
それも踏まえて、宇崎ちゃんやロジャ美やラブライブやたわわの議論になった広告が子どもにとって有害であるとして法的にゾーニングするべきであるとは増田は同意しないし、おそらくは裁判所も同意しない。
ついでに言うんだけどさ。『性的』の範囲が難しいんだよね。『宇崎ちゃんやたわわは性的である』は増田も同意する。ただし『同様に、FRIDAYやFLASHやヤング〇〇の水着グラビアも性的である』。
そして、これはおそらくだけど。『FRIDAYやFLASHやヤング〇〇系雑誌の水着グラビアが性的だとは思うにせよ、直接的にズリネタにしている人はそれほど多くない』。AVをズリネタにしている人の1/100未満であると推定する。
同様に、『宇崎ちゃんやたわわは性的であるとは思うにせよ、直接的にズリネタにしている人はそれほど多くない』。エロ同人ならともかく、原作単行本をズリネタにしている人はエロ漫画をズリネタにしている人の1/100未満であるというのはそれほど無理のある想定ではない。
それを踏まえた上で、それでも子どもが見るのは不適切であるか。それは難しい。