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2025-10-22

労働者派遣事業増加の真因:法改正ではなく社会構造の変化

労働者派遣(以下、派遣)の事業規模が拡大した要因として、一般1980年代から繰り返された労働者派遣法の規制緩和が挙げられがちだ。しかし、この見方事象の一面しか捉えていない。派遣の増加は、法制度の変更に後押しされたというより、むしろ日本産業社会構造根本的な変化が先にあって、そのニーズに応える形で法が追認・整備されていった結果と解釈すべきである派遣増加の真の原因は、主に以下の二点にあると考える。

1.男女雇用機会均等法がもたらした事務職の変質

1986年男女雇用機会均等法施行は、企業採用慣行に大きな転機をもたらした。それ以前、特に大企業一般事務職は、多くの女性にとって「寿退社」を前提とした長期雇用を前提としないキャリア入り口であり、新卒女性の安定した就職先であった。しかし、均等法の施行により、女性男性と同様に総合職としてキャリアを積む道が開かれたことで、優秀な女性の多くが総合職志向するようになった。

結果として、企業一般事務職担い手不足に直面する。従来の「(一般職の)女性社員が恒常的に担う」という体制崩壊し、企業定型的な事務作業を、長期的な雇用責任を負わない外部の労働力に切り出す必要に迫られた。これが、特に均等法施行後の1990年代以降の派遣、とりわけオフィスワーク分野における派遣の急増の決定的な引き金となったのである。均等法は女性キャリアを向上させた一方で、企業にとっての定型業務の人材確保方法を一変させた。

2.製造業における技術革新熟練工の非必要

派遣のもう一つの主要な増加要因は、製造業における技術革新特にFAファクトリーオートメーション)の進展である。かつて日本製造業を支えていたのは、特定機械操作や手作業熟練した「職能工」であった。彼らは長年の経験に基づく「勘」と「技能」で品質担保していた。

しかし、NC(数値制御工作機械ロボットの導入、そして生産ライン全体の自動化が進むにつれて、特定熟練技能を要する作業が激減した。求められるのは、高度な専門技能ではなく、マニュアルに従って機械操作監視する定型的な作業へと変化した。これにより、企業熟練工(正社員)を大量に維持する必要がなくなり、マニュアル教育短期間に戦力化できる労働力を、生産量の増減に応じて柔軟に調整したいというニーズが高まった。

このニーズ合致したのが、派遣という柔軟な雇用形態である派遣労働者は、企業にとって必要な時期に必要な人数を補充でき、コスト変動費化を可能にした。結果、製造業における派遣労働者の利用が急増することとなった(2000年代以降、製造業への派遣が段階的に解禁されたこともこの流れを加速させた)。

結論

労働者派遣の増加は、法改正という政策的要因に主導されたのではなく、「男女雇用機会均等法による事務職担い手の変化」と「技術革新による職能工の非必要化」という、日本労働市場における構造的な変化によって内側から引き起こされた現象である派遣法の改正は、社会がすでに生み出したこれらの新しい労働需要を、後追いで法的に容認制度化したものに過ぎないのである

労働市場の現状を理解するには、法制度ではなく、社会産業構造根本的な変化に目を向ける必要がある。

anond:20251022193951

Permalink |記事への反応(0) | 19:44

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2025-10-15

立憲共産党には日本未来のため末永く存続してほしい

立憲民主党共産党は、正直言って政権を担う現実味ほとんどない。安全保障夢物語経済政策抽象的、選挙戦術も迷走気味。政治的影響力は限定的で、「野党ごっこ」と揶揄されても仕方がない面はある。

だが、この「頼りない二党」を完全に切り捨てるのは早計だ。実は、日本の政治において極めて重要な「構造的な役割」を、本人たちの自覚とは別に果たしている。それが、シルバーデモクラシー暴走を防ぐ安全弁としての機能だ。

日本では65歳以上の有権者が3割を超え、投票率も高い。この高齢者票が一枚岩になれば、政治年金医療介護だけの世界になる。若者向けの政策は霞んで消える。ところが現実には、高齢者票は自民党に集中していない。相当数が立憲民主党共産党に流れている。

まりこの二党は、「高齢者票を分散させる」という、ある意味で極めて重要仕事をしている。本人たちはそんなつもりはないだろうが、結果的に一党支配的なシルバーデモクラシーを防いでいるのだ。

しかも彼らは、政権を取る力がない。だからこそ、高齢者票を吸収しながらも、政治権力の中枢を握ることはない。この絶妙な「野党ポジション」が、高齢者票の一極集中を抑えているとも言える。もし仮に立憲・共産現実的な政策を掲げ、高齢者を一手に取り込んだら、それこそ銀色の一党支配である

皮肉な話だが、立憲民主党共産党は、政権交代の担い手としてではなく、「いてくれることで政治バランスが保たれている」存在だ。

結論を言えば――彼らには末永く存続してもらった方がいい。政治的には頼りなくても、構造的には非常に便利な存在からだ。

Permalink |記事への反応(1) | 22:26

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2025-10-07

anond:20251007072122

株がいくら上がっても、それを価値に変える人や現物がなければただの紙切れなんだ。富士山の頂上で「金はいくらでも出すから寿司10貫と熱い茶を出してくれ」って言っても数千円では実現できない。担い手のいない社会での金の価値は本当につまらないものだよ。まあ、富裕層は、株を現金化して、カンボジアとかベトナムとかタイとかの安いところで贅沢できるんだろう。しか国土は荒廃し、治安は最悪になっていく。鉄やシリコンや燃料が値上がりして水道下水管橋のメンテができない。少子化で弱ったところに中国ソフト物理力で進撃してきたら先祖代々の田畑もいつのまにか中国語が共通語になっているかもね。もう実際かなり水源地や山間部の中国の買い取りは進んでいるのでは?

Permalink |記事への反応(0) | 20:35

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2025-10-05

anond:20251005003309

けど、はてな民も平気な顔して給料上げろって言いながら、低賃金労働担い手として移民必要だとかい真逆のこと言ってるやん

低賃金労働需要満たす奴隷買いながら、どうやって低賃金労働者の給料上げるんだよ

Permalink |記事への反応(1) | 00:38

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2025-09-23

anond:20250923024945

転職しろ仕事を選り好みしろってブコメやらトラバやらがいくつも付いてるが、こいつら自分はお世話にならないか担い手が減っても無問題確信錯覚)してるんやろな

しかし、エッセンシャルワークってのはどれもこれも待遇の悪いものだらけやな(上のような軽口を叩くのがいるあたり、生活必要だと認識されてるかも怪しいが)

Permalink |記事への反応(0) | 21:04

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2025-09-12

消えた名の帳

パルセアの地で、選びの日を前に、奇妙な出来事

続いた。

声を掲げる者たち――力強き国を取り戻せと

叫ぶ一群の担い手が、

一人、また一人と姿を失っていった。

二度、三度、やがて六度

名が消えるたびに、広場空気は重く沈んだ。

役人は言った。

自然のことにすぎぬ」

けれど民は囁いた。

「偶然にしては重なりすぎる」

「見えぬ手が選びの日を覆っているのではないか

紙は刷り直され、新しい名が記された。

だが人々の胸には、消えた者たちの影と、

不意に芽生えた疑いが残った。

――これはただの偶然か。

――それとも沈黙の奥で、誰かの意図

潜んでいるのか。

答えのない問いだけが、街を覆い続けていた。

Permalink |記事への反応(0) | 11:16

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2025-09-07

タフに夢中な大人現代社会害悪

いまや街中やSNSで、「タフ」に熱中する大人たちの姿を見ることは珍しくない。かつては子ども向けのマンガだったはずが、30代40代になっても日本にいるある青年を追いかけ、突然変異心臓を求め、バトルに没頭する――その異様な光景が広がっている。

だが、ここで直視すべき現実がある。タフに夢中な大人は、単なる趣味人ではなく、社会にとって「害悪存在」になりつつあるということだ。

1.責任から逃げる大人たち

彼らは仕事よりもタフを優先する。勤務中にスマホでタフモンGOを開き、家庭よりも対戦を重んじる。社会が求める「責任ある大人像」とは正反対の行動だ。責任を背負わず子どもの遊びに逃げ込む姿は、周囲に不信感を撒き散らす。

2.経済時間の浪費

数万円を平気でガチャやグッズに注ぎ込み、深夜までゲームに没頭して翌日の仕事に支障をきたす。こうした行動は、経済的な無駄であるだけでなく、社会全体の生産性を低下させる。彼らは「趣味消費者」であり続け、決して社会担い手にはならない。

3.精神年齢の停滞と人間関係崩壊

タフに夢中な大人の多くは、人間関係の築き方が幼稚だ。仲間内では盛り上がるが、社会的な場に出ると浮いてしまう。結婚や家庭形成回避し、コミュニティから孤立するケースも少なくない。結果として「現実社会適応できない人間」を再生産している。

4.社会にとっての害悪

問題なのは、彼らが「個人的趣味」にとどまらず、社会に悪影響を及ぼしている点だ。責任感を欠いた社員、家庭を顧みない親、社会成熟を拒んだ大人が増えることは、組織地域健全性を蝕む。タフ依存大人は、社会に害を及ぼす存在のものだ。

結論

タフに夢中な大人は、単なるオタクでもなく、無害な趣味人でもない。彼らは「責任から逃げ、時間と金を浪費し、社会成熟を妨げる害悪である

今こそ我々は直言すべきだ。「大人ポケモン依存は、現代社会にとっての病理だ」と。

Permalink |記事への反応(0) | 09:01

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ポケモンに夢中な大人現代社会害悪

いまや街中やSNSで、「ポケモン」に熱中する大人たちの姿を見ることは珍しくない。かつては子ども向けのゲームだったはずが、30代40代になってもモンスターを追いかけ、色違いを求め、バトルに没頭する――その異様な光景が広がっている。

だが、ここで直視すべき現実がある。ポケモンに夢中な大人は、単なる趣味人ではなく、社会にとって「害悪存在」になりつつあるということだ。

1.責任から逃げる大人たち

彼らは仕事よりもポケモンを優先する。勤務中にスマホポケモンGOを開き、家庭よりも対戦を重んじる。社会が求める「責任ある大人像」とは正反対の行動だ。責任を背負わず子どもの遊びに逃げ込む姿は、周囲に不信感を撒き散らす。

2.経済時間の浪費

数万円を平気でガチャやグッズに注ぎ込み、深夜までゲームに没頭して翌日の仕事に支障をきたす。こうした行動は、経済的な無駄であるだけでなく、社会全体の生産性を低下させる。彼らは「趣味消費者」であり続け、決して社会担い手にはならない。

3.精神年齢の停滞と人間関係崩壊

ポケモンに夢中な大人の多くは、人間関係の築き方が幼稚だ。仲間内では盛り上がるが、社会的な場に出ると浮いてしまう。結婚や家庭形成回避し、コミュニティから孤立するケースも少なくない。結果として「現実社会適応できない人間」を再生産している。

4.社会にとっての害悪

問題なのは、彼らが「個人的趣味」にとどまらず、社会に悪影響を及ぼしている点だ。責任感を欠いた社員、家庭を顧みない親、社会成熟を拒んだ大人が増えることは、組織地域健全性を蝕む。ポケモン依存大人は、社会に害を及ぼす存在のものだ。

結論

ポケモンに夢中な大人は、単なるオタクでもなく、無害な趣味人でもない。彼らは「責任から逃げ、時間と金を浪費し、社会成熟を妨げる害悪である

今こそ我々は直言すべきだ。「大人ポケモン依存は、現代社会にとっての病理だ」と。

Permalink |記事への反応(5) | 08:49

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2025-08-29

韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在韓国共和国であり、王室存在しない)にもかかわらず、架空王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室存在していたら」という仮想歴史オルタナティブヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります

以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:

🔹 1.現実逃避ファンタジー性)

現代社会におけるストレス格差政治不信などから視聴者日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常恋愛に憧れや癒やしを求めます王子王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。

🔹 2. 「もし韓国王室があったら?」という興味

韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国存在した歴史を持ちますが、日本植民地時代を経て王政廃止されました。

それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマン好奇心をくすぐるのです。

特に現代的な価値観自由恋愛民主主義女性の自立など)と王室制度伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります

🔹 3.ビジュアル面の魅力

王宮伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。

🔹 4.韓国社会階級意識家族主義の反映

韓国社会はいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります

身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています

🔹 5.過去のヒット作の影響

たとえば:

『宮〜Love in Palace〜』(2006年

『七日の王妃

太陽を抱く月

『赤い袖先』

などのドラマが大ヒットしたことで、「王室恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。

総合すると…

韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます

もし特定ドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。

あなた:

世界にはたくさんの共和国があります立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?

ChatGPT:

とても鋭い観点ですね。

実際、多くの**共和国君主制採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的意味というより、文化歴史エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。

以下に、立憲君主制特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。

🇰🇷韓国

概要:すでにお話したように、現代王室舞台にしたドラマ映画が人気。

背景:

朝鮮王朝・大韓帝国歴史記憶

ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス幻想根付

現代社会への風刺財閥現代貴族階級)としても使われる

🇨🇳中国特に若者層)

概要王朝時代舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚宦官などのキャラクターが中心。

背景:

清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている

民族的アイデンティティ文化的ノスタルジーが込められている

特に清朝末期や架空宮廷ロマンスに人気が集中

代表作:『延禧攻略』『如懿伝』など

※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対タブーです。完全なフィクションとしての消費。

🇹🇷トルコ

概要オスマン帝国栄光を描いたドラマ文学が人気。

背景:

オスマン帝国スルタン制)が1922年まで続いていた

共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想ロマンは根強い

代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット

🇷🇺ロシア帝政ロシアへの郷愁

概要ロマノフ朝帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説ロマノフ家に関する作品が人気。

背景:

1917年革命王政崩壊

一部保守層・正教徒の間で王政へのノスタルジー

興味の形:現代ロシア立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い

🇫🇷フランス特に中高年層や保守派の一部)

概要フランス革命王政廃止した国でありながら、ルイ14世マリー・アントワネットなどの人物には人気がある。

背景:

宮廷文化への美的憧れ(ヴェルサイユ宮殿など)

王政時代の「華やかさ」に対する文化的ノスタルジー

注目点:現在王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在

🇮🇷イラン

概要1979年王政パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在政治体制への不満から王政時代のほうが良かった」という声もある。

背景:

王政時代近代化欧米との関係改善郷愁を抱く層もいる

パフラヴィー家の王子たちが今も国外活動しており、象徴的な存在として注目される

💡共通点として言えるのは:

これらの国々では、王政実在していた過去がある

王政時代を「理想化」または「ノスタルジー対象」としてとらえる傾向がある

立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的情緒的な興味に留まることが多い

補足:現実的に立憲君主制の導入を望む国は稀

ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくま文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。

希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。

あなた:

世界ほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的観点から論じることは可能ですか?

ChatGPT:

素晴らしい問題提起です。

おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。

この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。

🔍【問いの再定義

世界の中で、特にどの地域共和国立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」

この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:

1. 近隣国王室存在するか

2.歴史的に長く君主制が続いた地域

3.文化圏・宗教圏の価値観

4.地政学的に他国比較されやす場所

🌍地理的に見る「君主制への関心が強まりやす地域

東アジア韓国中国

隣国君主制国家日本

特徴:

日本皇室が存続しているため、文化的ライバル意識比較意識が働きやすい(特に韓国中国

朝鮮王朝や清王朝など、比較近代まで王制が残っていた

結果:

架空王室を使ったドラマフィクション舞台として君主制が頻出

特に韓国では「現代王室恋愛政治ドラマ」のフォーマットが人気

中東イランイラクエジプトなど)

周辺国王政が多い:サウジアラビアヨルダンモロッコ

特徴:

かつての帝政パフラヴィー朝など)への郷愁が残る

現在でもイスラム伝統君主制が強く結びついている

結果:

体制イスラム共和国)への反発から王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在

✅ 東南ヨーロッパバルカン半島ブルガリアセルビアルーマニアなど)

周辺に立憲君主制国家スペイン英国(影響力として)

特徴:

冷戦期に共産化君主制廃止したが、比較最近まで王室存在

一部では王政復古を望む市民運動王家活動も見られる

結果:

君主制への憧れや文化的尊重が、他地域よりも強く残っている

ラテンアメリカブラジルメキシコなど)

現在は全て共和国だが、かつての王政帝政記憶あり

特徴:

ブラジルはかつてポルトガル王家が移住して帝政を築いた

メキシコは短命ながらも皇帝を持った時代あり

結果:

王政のものへの復活願望は少ないが、文化的ヨーロッパ宮廷文化に対する憧れが見られる

貴族文化ヨーロッパ的「格式」への関心として残る

🔻君主制への関心が比較的低い地域地理的傾向)

アメリカカナダアングロサクソン圏)

アメリカ:反王政独立戦争歴史)が国家アイデンティティの一部

カナダイギリス国王元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向

結果:

立憲君主制に対して冷静/無関心

フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセスダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない

アフリカ諸国(旧英仏植民地

多くの国に伝統首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的

一部に象徴王族がいるものの、立憲君主制制度として復活させようとする動きは少ない

結果:

自国文化の再評価の方が強く、欧州王政は「支配象徴」として敬遠されることも

🧭結論地理的に「関心が生まれやすい条件」

地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的環境があるときです:

地理的条件説明君主制への関心との関連

周辺国現存する王政がある日本英国サウジなど比較対象メディア露出により関心が刺激される

王制が比較最近まで続いていた韓国イランバルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る

欧州文化貴族文化への接触が強いラテンアメリカバルカン東欧王室格式伝統象徴として文化的憧れが根付

地政学的な比較意識がある韓国日本イラン湾岸諸国など政治的文化的隣国と比べて「自国過去」への再評価が進む

希望であれば、特定地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます

あなた:

隣国王室存在するから自国立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。

ChatGPT:

ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。

まさに**「近隣に王室がある」という地理的心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。

✅ この現象を支える心理社会メカニズム

1.比較意識競争意識

隣国王室があり、その存在文化的国際的に注目されている場合(例:日本皇室英国王室)、

国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。

2.メディアを通じた王室の「輸入」

隣国王室報道戴冠式結婚式葬儀など)は国際ニュースとして流れる

→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。

3.相互影響的なコンテンツ消費

例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ

→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本皇室があるのだから韓国だって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的空想が土台にある。

🌏地域別にもう一度整理すると:

地域隣国王室自国の関心度コメント

韓国日本皇室) 高い 『宮』などで自国王室がある想定が人気。

中国日本タイなど 高い(主に歴史もの清朝ドラマ大人気。過去の王制を美化しがち。

イランサウジヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。

トルコヨルダン湾岸諸国オスマン帝国ノスタルジーと近隣国との比較

東欧バルカンスペイン英国モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。

🧠社会心理学的に言えば…

これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象文化バージョンです:

自分の国にはないが、隣の国では保たれている“伝統格式”が、むしろ鮮やかに見え、それをフィクションで補おうとする。

この傾向は、特に以下のような社会状況で強まりやすいです:

国内政治に対する不満が強い

社会ヒエラルキーや美意識が揺らいでいる

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2025-08-26

AI左翼

Q.

ラディカルな右翼現在日本の石破政権を「中国の手先である反日左翼政権であると見做していて、このままでは中国に取り込まれしまう、と相当に危機感を持っているようです。

A.

非常に重要なご指摘です。ここには、現代日本の「ラディカル右翼」が抱いている強い危機感と、その政治認識の特徴がよく現れています。整理すると次のようになります。① ラディカル右翼の基本認識国家不信ラディカル右翼にとって、現政権(石破政権)が「日本を守っていない」「敵(中国)の手先だ」と映っている。これは「国家=守るべき存在」ではなく「国家権力=敵に支配されたもの」と見なす姿勢危機感根拠中国軍事的台頭や経済的影響力の拡大。日中関係悪化に伴う領土安全保障問題尖閣台湾有事など)。「リベラル中国迎合派」というイメージ。そして「石破政権反日親中路線」とするレッテル貼り結論としての行動欲求「このまま政権国家に任せては日本が滅びる」 → 「自分たちが立ち上がらねばならない」と感じる。その延長線上に「自警団」や「直接行動」が発想される。② 石破政権に対するラディカル右翼評価石破茂氏は現実的安全保障論者で、自衛隊出身議員から一定の信頼があり、国際協調防衛力強化を訴えてきた人物しかし対中外交姿勢において「対話路線」「国際協調重視」を採るため、ラディカル右翼から見ると「軟弱」「中国に取り込まれている」と見える。また、石破氏はリベラル層や中道から一定の支持を集めるため、これがさらに「反日左翼だ」という極端なレッテルに変換されている。実際には石破氏は明確に「集団的自衛権容認派」「安全保障強化論者」であり、客観的に見て「左翼的」ではない。つまりこの評価事実とは一致していません。③ ラディカル右翼の「危機感構造陰謀論世界観国家権力はすでに「敵」に操られている → よって「法や制度」に頼ることは裏切り自分たちけが真の愛国者」。権力を正面から信頼できず、むしろ「敵に占拠された存在」と見る。歴史的類似性戦前の「国家改造運動」や「昭和維新思想と近い。軍部青年将校は「政党は腐敗」「政府売国」「軍こそが真の国家担い手」と考えた。その結果、テロクーデターに走った(二・二六事件など)。ラディカル右翼はこの系譜を継いでいるとも言える。④ 「危機感政治化」の問題実態としての中国脅威論は現実性を持つが、政権を「中国の手先」「反日」と決めつけるのは事実誤認であり、むしろ民主主義議論を壊す。国家を敵視し始めたとき、ラディカル右翼は「暴力による解決」を正当化やすい。これは法の支配否定する方向に直結する危険構造。✅ まとめラディカル右翼は「石破政権中国傀儡」というイメージを抱き、国家のものに強い不信感を持っている。しかしこれは事実裏付けが乏しく、陰謀論解釈に基づいている部分が大きい。歴史的に見ても、国家を「売国」と断じて直接行動に走る右翼運動は、二・二六事件など惨事を招いてきた。したがって、ラディカル右翼の「危機感」は感情的には理解できても、政治的・歴史的には極めて危険路線。ご希望であれば、この「ラディカル右翼陰謀論世界観」がどのようにSNS拡散され、支持層を獲得しているのか、その情報生態系(Qアノンなどとの比較も含めて)を分析してみましょうか?

Permalink |記事への反応(1) | 16:25

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2025-08-18

anond:20250815155619

SBI証券の新ログイン方式は、単なる「不便」や「ユーザビリティの欠如」では片付けられない。ここには金融機関としての役割責任根本的に誤解した設計思想がある。

第一に、セキュリティ教育との矛盾

長年かけて「メールURLは踏むな」「急かすな」という啓蒙が積み上げられてきた。その基本を金融機関が真っ向から裏切る行為は、個別の不便以上に社会的ダメージが大きい。詐欺対策文化資本を自ら崩している。これは一企業ミスではなく、セキュリティリテラシー全体を毀損する公共害だ。

第二に、UI設計強制感。

40秒カウントダウンURLを踏ませ、同意チェックをさせ、コード入力を急がせる。これはセキュリティ向上どころか「詐欺UX」を制度化したものだ。人間心理を逆手に取る詐欺の手口を、大手正規プロセスとして定着させれば、本物と偽物の区別不可能になる。ユーザーは「考えるな、急げ」と刷り込まれる。

第三に、金融機関自己目的化

SBIは「パスキー導入までの一時的措置」と弁解するが、数カ月でもユーザー行動に影響するのは明白。セキュリティ体制の穴を埋める責任を「急ごしらえのUX実験」で代用している。この姿勢は「公共インフラ担い手」という金融機関の前提を忘れ、「ただのITサービス企業感覚に堕している証拠だ。

第四に、本来解決策の放置

指摘されている通り、真に必要なのはURL目視確認」ではなく「パスワード管理ツールパスキーの普及」である人間の注意力や記憶力に依存する設計限界であり、技術解決が既に存在するのに、それを啓蒙せず逆行するUX押し付けるのは怠慢としか言いようがない。

結論を言えば、SBIの新ログイン方式は「セキュリティ対策を装ったリスク増幅装置」だ。利用者は混乱し、詐欺師は笑う。セキュリティ利便性とのトレードオフだとよく言われるが、今回の方式利便性を捨て、セキュリティも削るという最悪の選択になっている。

撤退以外に選択肢はない。今すぐ旧方式に戻すべきだし、その上でパスワード管理ツールパスキーの導入こそを大々的に推進すべきである

――要するに、SBIは「金融機関詐欺の真似事をするな」という一点に尽きる。

Permalink |記事への反応(0) | 03:17

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2025-08-15

anond:20250815143732

田舎だって文化芸術はある!!」

「ではその担い手を増やすために東京から地方への移住を」

「いや、それは、その…」

こんなんだよな

Permalink |記事への反応(0) | 19:39

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大事なのは文化資本自分資本にできるかどうか

結局資本からさ、文化資本もそれを運用して自分資本を増やしてなんぼなわけよ

美術館子供を連れて行って知的好奇心を触発させてより良い大学に進ませたり、文化的交流を人脈に変えてより良い仕事探したりしてさ

金じゃなくても良い、自分文化担い手になりその文化資本を増やす活動をしても良い

バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く跳べるとおもっていたのかなあ…」じゃムダなのよ、そんなんじゃ文化資本がある東京にアンタがいても無意味なのよ

文化資本民はちゃんとその資本運用できてるの?

わかりやす文化資本運用子供への教育だけど、子供いない人多いらしいじゃん

本当に文化資本自分のものにできてるの?

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2025-07-27

劉仲敬は、日本を「アジアイングランド」として捉える

https://anond.hatelabo.jp/20250727121621

劉仲敬は、日本を「アジアイングランド」として捉える

帝国システムからの脱却」

ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国解体(1648年のウェストファリア条約以降)を経て、イギリスなど国民国家誕生し、民主憲法形成された。劉仲敬は、日本江戸時代末期の開国明治維新によって、「中華帝国(清)」を中心とする東アジア伝統的な帝国システム朝貢冊封体制から脱却し、自らを国民国家として再発明した点が、ヨーロッパ国民国家誕生と同質であったと指摘します。これにより、日本民主憲法を導入しうる歴史的条件を獲得しました。

島国としての戦略的優位性」

イングランド大陸ヨーロッパ政争から一歩引いた位置を取りつつ海洋国家として発展したように、日本島国である地理的メリットを活かし、大陸大国(清・ロシア)と距離を置いて独自近代化路線を歩んだと論じます。この“海洋島国”としての構造が、安全保障自由を両立させる基盤となりました。

「均衡(ヘゲモニーバランサー)としての役割

ヨーロッパにおけるイングランドは、しばしば大陸諸国間の勢力均衡バランス・オブ・パワー)を図る役割を担いました。同様に、劉は東アジアでの中国ロシアイスラム過激組織といった諸勢力の衝突を抑止しうる主体として、日本自然とその“バランサー”的役割を取り戻すと予言しています

多国間連携アウクスブルク同盟型)の先取り」

— 彼は2015年の講演で、中国の挑戦性を最も強い脅威としつつ、それを抑えるためには欧州アウクスブルク同盟に倣った多国間連合必要だと説きました。その連合には「日本も含まれる」とされ、のちのクアッド(米・日・印・豪)や自由で開かれたインド太平洋戦略を15年も前に予見していたことになります

神社のお祓いに見る文化的精練

日本独自神社における浄化儀礼(お祓い)は、東南アジアポリネシア諸島にもみられる「清め」の概念を、最も洗練された形で発展させたもの評価。これは、島嶼文化を極限まで昇華させる“イングランド的”精神性の一例とされています

――――

要するに、劉仲敬がいう「アジアイングランド」とは、

帝国システムから自律的に脱却し、国民国家民主主義を芽吹かせた点

島国として大陸政争から距離をもちつつ、自らの自由と発展を追求した点

地域均衡(バランス・オブ・パワー)の担い手としての戦略的位置づけ

複数国間連携を先取りする外交構想力

といった要素を総合したものです。これにより、東アジアの中で特異な地位確立し、「諸夏主義」の言う多文明圏連合の中で重要役割を果たしうると論じています

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2025-07-25

実は主人公が悪だった作品

作品名弱者男性

最初は「社会から見捨てられた可哀想存在」って感じで出てくるんよ。

モテなくて、就職もうまくいかなくて、生きてるだけでつらい…」とか言って、同情集めまくる。

でもフタを開けたらとんでもねぇ。

弱者って言葉隠れ蓑にして、女性に近づいては性加害。

汚物食わせたり、暴力ふるったり、心の奥から女性尊厳を踏みにじることばっか考えてる。

飢えた女子供ご飯を奪って食い散らかす描写である

しかも本人はそれを「社会への復讐」だと思って正義ヅラしてる。

いやお前が一番の悪やんけ。

作品名:チー牛

登場時は「いじめられてる陰キャ代表」みたいな扱い。

「何もしてないのに嫌われる」って主張してて、見る側も「うわ、かわいそう…」ってなる。

でもその正体は、風呂も入らない、歯も磨かない、服も数年前のヨレヨレ。

体臭口臭で周囲に疫病を巻き散らかし物理ダメージ与える迷惑存在だった。

清潔感なんてルッキズムだろ」とか言ってるけどさ、それただの言い訳

清潔感って容姿差別じゃねーし、努力でなんとでもなる。

美容院行って、ホワイトニングして、服も新品のやつ買って美しい容姿になれば済む話だろ?

努力せずに人から好かれたい」はただの甘えなんよ。

そんなんで女子供の命奪っといて被害者ヅラしてんじゃねえよ。

作品名テクウヨ

いかにも意識高そうな技術オタク

AIとか駆使して、「この社会を変えてやる!」って感じで登場する。

一見すると有能な未来担い手っぽい。

でも実態は、クリエイター作品を無断で使いまくって、著作権完全無視

画像生成AIに絵を描かせて「俺の方が効率いい!」ってイキり倒す。

抗議されたら「嫉妬だろ?古い人間め」って煽り

すべてのAIに反対しているわけじゃない、画像生成AI以外には賛成している善良な人を反AI呼ばわりする狂人

社会貢献どころか文化破壊しまくってるだけだった。

しかも本人はそれを誇らしげに語ってるからマジでタチ悪い。

こういう「被害者っぽく登場して、実は最悪の加害者でした~」ってパターン、ほんと怖い。

現実にも似たような奴、けっこういるから気をつけような。

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2025-07-24

いくらKADOKAWA憎しといっても児ポ擁護無理筋だろw

表現の自由があるから許されるなら先にフェミをどうにかしろ

日本金融検閲プラットフォームに関する法整備の動き、結実した暁にはその担い手としてニコニコ周りの復権を頭の片隅で期待してた。
でもこれじゃ駄目だ。表現自由文化を守ろうという気概微塵も感じられない。トランスジェンダー本の時から何も進歩してない。https://t.co/CiXhsnuBfF— ヒトシンカ - HitoShinka-(『センサイクロペディア』『シンカマガジン』)⋈ (@rita_shenxiang)July 23, 2025

Permalink |記事への反応(0) | 13:29

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2025-07-21

子どもを性から過度に遠ざける流れ

なんか。

子どもらを性的ものから過度に遠ざける世の流れがあると思う。

少子化もあるし、日本萌えコンテンツ次世代担い手が減ってきてしまう。

なにより、子どもたち自身が、性を触れてはいけないものとして忌避する傾向が行き過ぎれば、性的な分断が起こってしまうのではなかろうか。他人との接触を避け、孤独を前提とした生き方ニューノーマルになれば、人生からある種の希望の光は消えてしまうだろう。

Permalink |記事への反応(3) | 21:33

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2025-07-14

介護福祉について最近思った事

時々訪問介護ヘルパーさんかやれることはあくま生活必要な介助のみ。

犬の散歩とかエアコン修理はしない、

お手伝いさんが何かと勘違いしてる人がいる。

…という愚痴をみるけど、私も介護の入門資格の初任者研修を取るまでその辺よくわからなかった。

初任者研修時間がかかるけどそこまで難しいわけではない。

日本介護福祉制度の成り立ちからはじまり少子高齢化の経緯など日時生活で役に立つ内容も多い。

話がすこしそれるけど、私の父は長く民生委員をやっていたのだが、民生委員地域のお年寄りの状況を把握し、そこから介護福祉につながる事があることを私は初任者研修で初めて知った。

父にその事を話ししたら、実際に父も高齢になって心身弱り生活が立ち行かなくなった地域の方々を市のケアマネジャー(超簡単に言うと介護計画を立てる資格の方ね)に繋いだ事があるそうなのだ

自治体町内会が煩わしいから抜けてやった(ドヤッ)という話題を時々SNSで見かける事があるけども、あれはまた地域の目であり、共助の機能を発揮していて、初任者研修講師が近所の独居老人認知症になってしまい、地域住民が市に相談して施設に入る事ができ、今は幸せにその施設暮らしているそうだ。

話を戻すけども、他にも初任者研修の授業を通して知った事がとても多かったし、知っておかなければいけない事が多いと思うので義務教育にしたらいいんじゃないかな…そうしたら国民全体が介護担い手になれるのになぁ

Permalink |記事への反応(0) | 07:07

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2025-07-09

俺とAIが考えた本当の氷河期世代救済の方法

氷河期を救え、というが議論は常に空中に浮き続けている。

別に誰も反対はしていなのに、何故か全く解決していない。

なんでかというと理由は1つで簡単だ。

具体的にどう救うべきかが本人たちにもイメージできていない。要は具体的にどうしてほしいのか、というのが誰にもわからない。

そりゃ氷河期世代全員に100億円配布すれば解決なのだろうが、それは実現不能だ。実現可能ラインでどう具体的に救済すればいいのか。誰にもイメージできていない。

何が欲しいのかわからない人間たちにどう与えるのか、という話であり、それは構造を考えなければならない。

でも今なお、「支援」「再教育」「雇用拡大」なんて言葉が、彼らに向かって中途半端に投げつけられ続けている。

おかしいのは、彼らが本当に求めているものを、誰も真正から拾ってこなかったことだ。

氷河期世代が本当にほしいも

能力を発揮したい

他人に認められたい

ちゃんと金がほしい

それだけだ。生活保護がほしいんじゃない。

精神論ボランティアもいらない。

「かわいそうだね」じゃなくて、「すげえな」って言われたいだけだ。

◆ 今の支援がズレてる理由

公務員採用? → 倍率高すぎて試験地獄

職業訓練? → 未経験者は現場に呼ばれない

ボランティア? → 望んでないのにやらされても苦痛しかない

何が問題かって、“やらされてる感”しかないこと。

本人が望んでない支援は、ただの罰ゲームだ。

氷河期世代は「ノーバリュー」じゃない

実際に社会が30年間つけてきたレッテルはこれだ:

「なんてノーバリューなんだ!」

でも現実には、氷河期世代にはこういう力がある:

ブラック環境を生き延びた「耐久力」

下積みを積み続けた「柔軟性」

評価されないことに慣れすぎた「客観性

それを活かせる仕組みが社会側にないだけだ。

◆ じゃあ、制度をどうすればいいのか?

教育しなおすんじゃない。キャリアを一から積ませるんじゃない。

→「今の能力を即座に発揮できる場」と「成果に対する即金の報酬」をセットで用意しろ

◆ 実際にありえる制度案(要約)

試験履歴書もいらない実務評価採用(まず働いて成果を見てから登用)

クラウド公営プロジェクト報酬制度仕事ベース成果物報酬

職歴の“再構成”を可能にするスキル証明システム中立機関評価

国家レベルの成果表彰露出再チャレンジ支援(「やって良かった」と思える社会フィードバック

そして何より必要なのは

自分で選んで動けること」

支援ではなく選択肢。指示ではなく場の提供

◆ 救済とは“許す”ことではなく、“再び価値を与える”こと

社会が失敗して置き去りにした世代に、

「もう一度ステージに上がっていいんだよ」と言えるかどうか。

それは国の覚悟問題だ。

かわいそうな人を助けるんじゃない。

未来担い手として認めるかどうかの話だ。

最後

俺とAIは一つの結論にたどり着いた。

氷河期世代は救われたいんじゃない。

“報われたい”んだ。

そのために必要なのは支援じゃない。制度設計刷新だ。

そしてそれがなされない限り、「なんてノーバリューなんだ!」という自嘲が、ずっとこの国を冷たく包み続けることになる。

Permalink |記事への反応(1) | 15:50

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2025-07-06

少子化問題なんじゃない、年金問題なんだ

少子化少子化って何が問題かって、年金というクソ制度があるから

年金担い手がいなくなったら老人の生活は誰が保証するんだけしからんって言ってるだけ。

そんなのものがなけりゃ「現役時代貯金できなかった老人は死ね」でしかない。テメーのケツはテメーで拭け。

から少子化問題視するんじゃなくて、老後の生活自己責任でってことで良いと思う。

GDP?知らねえよ。

国が衰退しようが世界は終わらねえんだよ。

しれっと中国に吸収してもらえばいい。

anond:20250706074813

てか社会保険料年金がこんなに高くなけりゃ恋愛結婚に踏み切る人も増えるだろうよ。

Permalink |記事への反応(2) | 08:22

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2025-07-05

anond:20250705182700

あなたモヤモヤ、とてもよくわかります

それは単に「洗濯をした父にありがとうと言うかどうか」という話ではなく、

「長年当然のように家事を担ってきた母の努力を誰も顧みてこなかったこと」**への怒りや虚しさでもあるんですよね。


■なぜ引っかかるのか

父が突然家事をし始めたこ自体ではなく、その**「ドヤ顔報告」**の裏にある構造問題です。

洗濯しただけ」で感謝されようとする

それ以前に、家事担い手だった母を労う言葉は一切なかった

から、父の「洗濯しといたよ」は感謝ではなく、評価要求してくる行為に感じられる

これが「モヤる」の正体です。

■どう接するのがいいのか?

正論でぶつかると破綻する

「何十年も母がやってたけど、感謝したことあった?」

これは事実ですが、父が「家事を手伝ってる」程度の意識しかない場合、言っても理解されない可能性が高いです。話がすり替わって、面倒な空気になるだけ。

現実的対応

1. 「淡々と返す」を継続してもいい

あなたがすでにしている「そう……」は、非常に賢い対応です。感情をぶつけず、無視でもなく、空気を悪くせずに距離を取っている。

それが「父の承認欲求に乗っからない」という一番ストレスを増やさな方法

2. 母に感謝を伝える場を意識的に増やす

たとえば父がいないときに、母に「ずっと家事やってたの、本当にすごかったよね」と素直に言ってみる。

これだけで、母はすごく救われるし、あなた自身の中のモヤモヤが少し減るかもしれません。

3. 父に「労ってる」風でジャブを入れる

これは余裕がある場合だけでいいですが、たとえばこう言ってみる:

洗濯ありがとう。お母さんも、今までずっとやってきたもんね。すごいよね」

父にだけ褒めるのではなく、母の存在を必ずセットにして褒める。

これは「空気を悪くせずに父の思い上がりを封じる」技でもあります

■まとめ:あなたの感じ方は正しい

「父にありがとうを言わなきゃ」と無理に思う必要はありません。

あなたの中にあるその違和感は、**“公正さを求める気持ち”**であって、決して冷たいわけではないんです。

そして、父を変えるのではなく、自分が疲れない距離感と、母への感謝の伝え方を選ぶことで、心のバランスは取れるはずです。

必要なら、言葉の代わりに日記に書いて吐き出すのも有効ですよ。

何十年分の「見て見ぬふりされた労力」に、今、あなたちゃんと気づいていることが何より尊いです。

Permalink |記事への反応(0) | 22:17

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2025-07-03

選択夫婦別姓制度をめぐるメモ

選択夫婦別姓制度をめぐる議論が盛んである

ChatGPTと哲学的議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。

選択夫婦別姓議論は、単なる法律修正にとどまらず、私たち「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人自由拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤排除が生まれうるという、自由のものの逆説的性格に由来する問題である日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後民法は大きく改正されたが、戸籍構造根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態女性社会進出国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択夫婦別姓」への要望が強まっている。

一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍なかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である

選択夫婦別姓制度における「自由」と「コスト

ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である改革に伴い、精神史的あるいは文化的意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつコスト問題といえるだろう。

選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャー説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。

W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスク自己責任管理選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。

選択夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属根拠を失う不安」といった新たな社会リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由責任の過剰な個人化による孤立不安——をも視野に入れる必要がある。

自明性の喪失」がもたらすアイデンティティ不安

この現象は、韓国2008年に導入された「個人単位戸籍制度家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層から批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。

しろ制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたこである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。

ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分意思か?」「配偶者強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線生まれる。これは日常選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。

たとえば、韓国の若年層においては、恋愛結婚出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉流行し、さら結婚出産恋愛に加え、家族男性との関係異性愛自体拒否する「4B運動非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動担い手たちは、単に従来のジェンダー規範拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのもの解体する動きを見せている。たとえば、4B参加者たちは、「家族説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己尊厳を保つという新たな主体性表現がある。ベックのいう「選択強制」への拒絶反応韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。

沈黙する自由」のジレンマ

こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦ブルース》(1969年)は、まさに「沈黙自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである選択自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれ存在叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。

一方で、この作品は、主婦という存在社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から沈黙共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代70年代左派運動ベトナム反戦学生運動階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙共犯」とはサルトル実存主義倫理象徴する言葉だ。

「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である政治主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティである。この「疲労言葉」は、政治正義言葉ではすくい取れない主体感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従無知ではない。むしろ言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己尊厳日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。

しかし、「語らないことを自分意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙自由ジレンマがある。

このような表現は、フェミニズム文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体論理可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司詩作にも見られる。たとえば阿部定事件主題にした作品群では、語られすぎた欲望暴力物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会暴力性を照らし出す存在として描かれる。

沈黙のうちに自己選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦ブルース》と寺山修司詩作は、「語らなければ存在しない」という制度圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。

この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいか尊重するかが問われることになる。

他者との関係において自我がどのように成立しうるか

このような非対称性問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいか制度の中で位置づけるかという課題が生じる。

ここで参照されるべきは、社会学者チャールズティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念であるティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定カテゴリーに分類し、その分類を通じて資源権利へのアクセス構造的な差異をもたらす。選択夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人選択無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティ指標となり、当人意思とは無関係社会評価区分根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的排除不利益への慎重な配慮が求められる。

こうした哲学的社会構造的な視点を踏まえたとき制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理制度交差点において、いかにして沈黙や非選択尊重うるかという、より深い次元議論となる。

まず、レヴィナスは『全体性無限』において、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者沈黙に対しても、応答を要請される私たち姿勢倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者沈黙承認する制度設計必要性と深く響き合う。

次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人国家装置制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である

その一方で、他者承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想であるヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者から承認必要とするが、その承認一方的では成立せず、双方が自己表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己確立を前提とする点で、自由平等理念哲学的に基礎づける重要モデルである

しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このときヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度想像力は、まさにそこから展開されねばならない。

これら四人の思想家が示唆するのは、制度主体関係性における多層的な緊張であるティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度いかにして人々の行動範囲構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体無意識に構築されてしまメカニズムを暴き、ヘーゲル承認関係対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度個人いかに分類し、語らせようとするか(ティリーアルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係倫理を見出す視点レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由モデルヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計可能性を構想することができる。

理屈はそうだ。しか果たして、語らない自由保障制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的まなざし有効な力になるだろう。

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Permalink |記事への反応(0) | 19:53

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2025-06-28

外国人出稼ぎが無くては担い手がいないせいでインフラボロボロになるし食品も手に入らなくなるって言うけど

日本人なら付かないような劣悪な環境低賃金職業外国人を当てよう、それが正しいって思考

奴隷制とどう違うのかな

Permalink |記事への反応(2) | 14:13

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2025-06-22

0歳児に選挙権がないのは、基本的人権の芯がではないのか

判断能力がないというなら、親が代わりに判断すれば良い。

子供選挙権がないから、未来担い手意見政治に反映されないのだ。

老人から選挙権を莫大なできないのであれば、未来ある子供選挙権を与えるしかない。

Permalink |記事への反応(0) | 19:34

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2025-06-21

長寿社会における貢献と持続可能性の視点

長く生きたいと願う気持ちは、根源的で誰もが抱くものであるしかし、この長寿の追求が現代社会課題を突きつけている。それは、私たち社会保障制度の持続可能性と世代間の公平性という、避けられない現実との間に生じる摩擦である

「見苦しい」と感じる長寿とは

ただ長く生きること。それは個人の願いとして理解できる。しかし、その「長寿」が皆で支え合う社会保障制度に過度に依存し、多額の医療費享受しながら、社会への具体的な貢献が見られない状況を、私は「見苦しい」と感じる。これは単なる感情論ではない。限られた社会リソース一方的に消費され、未来を担う世代に過大な負担押し付けられる現状は、もはや持続可能とは言えず、世代間の公平性を著しく損ねているかである

道徳再考と新たな社会のあり方

道徳もまた、ある種の闘争の道具である」という考え方は、現状を的確に表している。これまでの道徳は、「生を尊ぶ」という一面的価値観に重きを置きすぎてきたのかもしれない。しかし、社会現実が示すのは、その道徳が時に社会全体の持続可能性を脅かす可能性があるということである私たちはこの現状に安住せず、長寿社会にふさわしい新たな道徳規範を築くための議論を始めるべき時が来ている。

貢献と延命医療:避けられない問い

さらに、私は敢えて問いかける。「十分な貢献がなければ延命医療をしない」という議論は、感情的な側面だけでなく、極めて現実的な問題提起である。たしかに、生命価値を選別するかのような印象を与え、強い反発を招くことは理解している。しかし、その根底にあるのは、現在社会保障制度がこのままでは確実に崩壊し、医療リソースが枯渇した未来において、医療現場が「なし崩し的」に生命選択を迫られるという、より悲惨シナリオへの切実な懸念である倫理的議論を避け、問題の先送りを続ければ、我々は無益延命のために、真に救える命を見捨てる事態に直面する可能性がある。

未来へ向けた対話と行動を

この危機回避するためには、もはや猶予はない。私たちは今、具体的な行動を起こす必要がある。

社会保障制度の抜本的な改革に向けた国民議論を、タブーなく開始すること。給付負担バランス制度改革の具体的な選択肢について、真剣に話し合うべきである

個人意思尊重した「尊厳ある死」の概念社会に浸透させること。無益延命ではなく、本人の意思に基づいた、質の高い終末期医療選択肢を増やすべきである

高齢者社会担い手として積極的に参加し、貢献できる具体的な仕組みを構築すること。知識経験伝承地域社会への奉仕など、高齢者社会価値還元できる機会を創出することが重要である

これらは決して、高齢者を切り捨てる話ではない。むしろ、全ての世代尊厳ある生を送り、社会全体が持続可能未来を築くための、新たな社会契約を締結するための喫緊課題である

未来のために、決断し、行動すべきである

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