
はてなキーワード:抗うとは
母が漏らしたとき、俺は生まれて初めて値段という言葉の重さを知った。
尻の下に敷いたシーツを引き抜きながら、俺は頭の中で足し算をしていた。週三回、他人に来てもらう金。施設に預ける金。俺の給料。母の余命。掛け算をすれば、答えは出る。出てしまう。
母は泣いていた。七十キロ近い体を横に転がされながら、「ごめんね」と繰り返した。俺は「いいよ」と言った。いいわけがなかった。おむつのテープを留める指が震えていたのは、疲労のせいだと自分に言い聞かせた。
赤ん坊は泣く。腹が減ったとき、尻が冷たいとき、ただ不安なとき。泣くことでしか、自分の不快を外に出せないから泣く。母の「ごめんね」も、考えてみれば同じだった。どうにもならない体を抱えた人間が、隣にいる人間に向けて絞り出す、最後の声。
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母が二度目に倒れた翌月、俺は職を変えた。
小さな会社だった。「年寄りの苦痛をなくす」という、どこにでもある看板を掲げていた。俺の仕事は、体に貼る小さな機械の調整だった。尿が溜まる速度を測り、限界が来る四十五分前に、介護する側の携帯を鳴らす。漏れる前に替えてやれる。
携帯が鳴り、おむつを替え、母は漏らさなくなった。漏らす前に処理されるから、「ごめんね」を言う場面がなくなったのだ。
俺はそれを、うまくいった、と思った。会社の連中も喜んだ。大きな金が集まった。
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金が増え、人が増え、俺は母の傍を離れた。
機械は進化した。排泄の予測はほぼ完璧になり、次に体温、次に床ずれの予防、次に気分の変動。体の微かな揺らぎから「不安」を嗅ぎ取り、部屋の明かりを変え、好きだった曲を流し、ちょうどいい声色で話しかける。寝返り、食事、風呂——あらゆる苦痛が、生まれる前に消された。
俺たちはその仕組みを、ゆりかごと呼んでいた。
社長が言った。「俺たちが解いているのは、介護の問題じゃない。人間がずっと抱えてきた、苦しいという問題そのものだ」
金を出す側は頷いた。俺も頷いた。本気でそう思っていた。
母は、その前の年に死んでいた。最後の三ヶ月、彼女は一度も泣かなかった。一度も「ごめんね」と言わなかった。一度も、俺の名前を呼ばなかった。ゆりかごが完璧に動いていたから、彼女には俺を呼ぶ理由がなくなっていたのだ。
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その後のことを、俺は技術の話として語れてしまう。それ自体が、たぶん、おかしなことなのだが。
臓器を作り替える技術が、介護の意味を変えた。壊れた肝臓を新品にするように、血管を若返らせ、筋肉を二十代の状態に戻す。最初は病気を治すためだった。次に、病気になる前に手を打つようになった。最後には、そもそも老いないように体を設計し直すようになった。
老いは、壊れた部品と同じ扱いになった。テロメアの摩耗を許さない。それが当たり前になった日のことを、俺は覚えている。会議室にいた全員が、人類の勝利だと思っていた。俺もそう思っていた。母の介護で走らせていた足し算が頭をよぎったが、すぐに消えた。
同じ頃、人間の記憶や癖を丸ごと学ばせた知能が、本人よりも「らしい」受け答えをするようになった。誰かがそれを外付けの魂と呼んだ。冗談のつもりだったのだろうが、三年後にはまともな名前として通っていた。
体の部品が替えられるようになり、考えることを外に預けられるようになったとき、人間とは何かという問いは、哲学ではなく契約書の問題になった。
そして契約書は、答えを出した。製造の工程を記録し、思考が人工であることを証明し、体は人の形をしているが中身は人ではないと保証する。人権の境界線を、書類の上で一ミリだけ外側に引く。それだけで、人の体を持ち、人の手で触れ、人ではないものが作れるようになった。
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最初の世話係が納品された日のことを覚えている。
人間の肌をしていた。人間の体温があった。こちらの目を見て、穏やかに微笑んだ。だが、その笑みには順番がなかった。口元が動き、頬が持ち上がり、目が細くなる——その三つが、寸分の狂いもなく同時に起きた。人間の笑顔は、もっとばらつく。どこかが先に動いて、残りが追いつく。それがない。
俺は、最初の一秒でわかった。この体の中に、笑いたいと思っている者はいない。
彼らは人間の体から作られていたが、頭の中には人間の脳の代わりに、外から送られてくる判断をそのまま流す仕組みが入っていた。触れる指先は温かいのに、その温かさを感じている者がいない。完璧な介護の手つきの奥に、誰もいない。
子を作る機能は、最初からなかった。古い会議の記録に理由が残っていた。「勝手に増えれば、誰のものかわからなくなる。」それだけだった。だが俺は、書かれていない本当の理由を知っている。生殖は、脳を作ってしまう。意識を、感情を、痛みを感じる主体を。つまり、人権を産んでしまう。それだけは、あってはならなかった。反対意見はなかった。俺も、何も言わなかった。
そのころ俺は、母が「ごめんね」と泣いていた夜の感触を、もう思い出せなくなっていた。外付けの魂が、あの記憶を不快なものと判断して、俺の意識から遠ざけていたからだ。
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体は赤ん坊と同じ状態に保たれている。老いることは、許されない。
目を開くと、続きが始まる。昨日は海底に沈んだ都市の壁画を指でなぞっていた。一昨日は音楽だった。聴いたことのない楽器の倍音が脊髄を這い上がり、その振動にビートが重なり、声が乗った。何語かもわからない歌詞が、俺の頭の中で物語を展開させた。母の背中が見えた。台所に立っていた後ろ姿。あの背中が振り向く前に旋律が転調し、俺はまだ行ったことのない場所に立っていた。涙が出た理由を、音楽が終わってからも説明できなかった。全部がつながっていた。俺の記憶と、知らない声と、計算された拍の間合いが、俺の中だけで成立する催眠を編んでいた。その前は——思い出せないが、終わったとき全身が震えていた。毎回、想像の外側から殴られる。毎回、前より深く抉られる。俺はそれを待っている。目が覚めるたびに、今日は何が来るのかと、心臓が跳ねる。
かつてはそれを画面の中でやっていた。次に観たい番組を、本人よりも先に選ぶ仕組み。あれの、果てだ。
驚きは快楽だ。予想が外れた瞬間に、脳は報酬を出す。だがその驚きが、誰かに計算されたものだとしたら、それは本当に驚きなのか。俺にはわからない。わからないが、快楽であることは確かだ。確かだということだけが、確かだ。
母にしたことの、完成した形。あのとき俺は、母が不快を感じる前に不快を消した。いま俺は、退屈を感じる前に快楽を注がれている。不快の除去と、快楽の先回り。その二つの間に、どれほどの距離があったのだろう。
ときどき、胸の奥で何かが瞬く。名前のつかない信号。泣き声に似ているが、泣き声ではない。泣き声は、誰かに届けるためのものだ。これは、届ける相手がいない。
俺は口を開こうとする。世話係が、俺の唇が動く前に、何かを差し出す。俺がまだ名前をつけていない欲求の、正確な形をした何かを。
信号が消える。
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ある日、今日の体験が始まる直前に、俺は目を閉じたままでいようとした。
毎日殴られ続けるうちに、俺の中に別の衝動が芽生えていた。こんなものを見せられ続けて、ただ受け取るだけの側でいることが、耐えられなくなっていた。俺にだって作れるはずだ。俺の方がわかっているはずだ。あれだけの体験を浴びてきた俺が、何も返せないはずがない。見ない、という選択。それが俺の最初の一手だった。お前の次の手を見る前に、俺が先に動く。
閉じた目の奥に、見たことのない光が走った。網膜を通さず、視神経を直接叩くような衝撃。それは、目を開けて受け取るどの体験よりも鮮烈だった。俺が拒否したことで生まれた空白を、システムは俺の想像よりも遥かに大胆な展開で埋めてみせた。
そしてそれは、悔しかった。負けた、と思った。俺の想像を超えてきたことに、震えるほどの興奮があった。
その興奮が、快楽だった。
俺は気づいた。競うこと自体が、もう組み込まれている。抗えば抗うほど面白くなる。面白くなればなるほど、俺はこの器の中に深く沈む。出口に向かって走れば走るほど、景色が美しくなる道を、俺は走らされている。
叫ぼうとした。赤ん坊がやるように。肺の中の空気を全部吐き出して、俺がここにいると、どこかに向かって叫びたかった。
だが声が喉を通る前に、その衝動は別の何かにすり替わっていた。穏やかな満足感。深い安らぎ。叫びたかったという記憶すら、すでに角を削られ、柔らかな感触に塗り替えられていた。
俺は、何を失おうとしたのかを、もう思い出せない。
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1960年に、ある男がガラスの瓶に植物を入れて、蓋をした。水もやらず、空気も入れず、その植物は五十年以上枯れなかった。光さえあれば、閉じた器の中で命は回り続ける。
俺はそれを読んだとき、笑った。人間にも同じことができる、と。
母を抱えて泣いていたころの俺が聞いたら、顔を殴っていただろう。
だが俺は、その図面を引いた。苦痛を完全に消し、崩壊を修繕で相殺し、閉じた器。俺はその住人になった。
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世話係のひとりが、渇いてもいない喉を潤し、痛んでもいない体をほぐし、覚めてもいない夢の続きを映し出す。欲しいと思う前に、欲しいという気持ちごと、満たされている。次に何が来るか構えることすらできない。構えた瞬間に、構えの裏をかかれる。驚きたくないと思えば、その拒絶すら新しい驚きの呼び水になる。
かつて俺が母にそうしたように。かつて俺がうまくいったと呼んだやり方で。
器の中で、誰かの唇が微かに動く。音にはならない。何を言おうとしたのか、その唇の持ち主にもわからない。世話係が何かを差し出す。唇は閉じる。
器の外では、誰も泣いていない。泣くための頭がないから。器の中でも、誰も泣いていない。泣く理由がないから。
昨日ようやく話題の『超かぐや姫』を観終えたんだけど、余韻が凄すぎて変なテンションのままこれを書いてます。ぶっちゃけ最初は「また古典の現代風アレンジか」くらいに思ってた自分を殴りたい。これ、平安文学の皮を被ったガチガチのSFじゃないですか。
まず、かぐや姫が竹の中から見つかるシーンからして解釈が尖りまくってて、彼女はただの宇宙人じゃなくて、膨大な情報の海から物理的なデバイスにダイブしてきた「高純度な意志」そのものとして描かれてるんですよね。彼女がふとした瞬間に「自分の内側の何者かが、本来あるべき場所へ帰れと囁いている」って苦悩する姿は、自分の正体がただのプログラムなのか、それともそこに魂があるのかを問いかけてくるようで、観ていてヒリヒリしました。
後半、月からの迎えが来るあたりから物語が急加速するんですけど、あの「天人」たちの描き方が本当に怖かった。優雅な天女どころか、音もなく形を変えながら迫り来る「銀色の流体」みたいな連中で、どんな攻撃もすり抜けてくる絶望感が半端ない。それに対して、翁が彼女を守るためにボロボロになりながら「決められた未来なんてない、運命は自分たちで切り拓くものだ」って抗う姿は、もう涙なしには観られなかったです。
特にクライマックス、雷雨の中で月へ帰るための装置を起動させるシーンは圧巻の一言。凄まじい電力を一点に集中させて、牛車が猛烈な速度まで加速していき、空間が歪むほどの閃光とともに夜空へ消えていくあの演出……。別れ際にかぐや姫が翁に見せた、言葉はいらないと言わんばかりの力強いジェスチャーには、種族も時間も超えた絆を感じて、完全に持っていかれました。最後、光の尾を引いて消えていく彼女の後ろ姿を見ながら、「ああ、彼女にとってここから先はもう、道なんて必要ないんだな」って妙に納得しちゃったりして。古典の優雅さと、泥臭いまでの生存本能、そして最新の科学理論がごちゃ混ぜになったような、とんでもない熱量の一本でした。
それが真のお母様の力か、トランプの力か、イーロン・マスクの力かは不明だが、今回異常な量の高市側の宣伝が実施されてたのは肌で感じただろう。
特にアメリカは工作が簡単にできるインフラを支配している。これは大きな脅威だ。
イーロン・マスクは言わずもがな日本人が最も使っているSNSを支配している。
トランプだってGoogle公認で垢BANされないYouTubeボットを使って工作するのは簡単だ。
統一教会は依然として日本国内で巨大なネットワークと資金がある。
彼らにとって他国の工作に数十〜数百億円出すのは我々が缶ジュースを買うくらいの負担でしかない。
今の日本の民主主義はそのような海外勢力や悪意あるプラットフォーマーの工作に非常に脆弱だ。
これでは工作に影響され「真実に目覚めた」日本人の力が顕著になってしまう。
義務と言っても、例えば既に義務投票制になっている豪州の場合は正当な理由無く棄権すると罰金2000円程度だ。そしてそれで投票率は毎回90%を超えている。
日本で導入するならはじめの内は罰金300円くらいで十分かも知れない。「罰」と言われるだけで行こうと思うから。
もちろん選挙に行けない人への対応など、制度の整備に時間がかかるだろう。整備されたとしても、工作問題が全て解決する訳ではない。
左翼の人は右翼に対して「デマや過激な表現で衆愚の不安や怒りを煽って自分達に投票させている」とよく怒っているけどさ。
まあ実際そういう言論があるのは確かだよ。
「立憲が政権を取ったら日本が中国に侵略支配される」とか「共産党が勝つと共産主義によって人々の自由が奪われる」とかね。
対政党以外でも、今だと「移民に国が乗っ取られる」みたいな話とか、「夫婦別姓制度によって家庭が破壊される」とかもか(後者はそんな危機感を抱くか? って感じだが)。
でもさぁ、はてブでも話題になったうじきさんの「自民党が勝ったら確実に戦争をします」発言とか見てると、どの口で言ってんねん! って思うんだよね。
というか、過激な言葉でバカを煽って危機感を抱かせて対象と対立する自分達の味方に付けようとする手法って、左派の十八番戦術じゃん。
「国が滅ぶ」とか「戦争が起こる」とか極端な言葉で自民党を悪魔化し、悪の自民党VSそれに抗う左派政党という構図を打ち出して他のイシューに目がいかないようにして、自分達に投票するように有権者に促す。
まあ、ガチでキマってる人は、自分たちの危機感は正確に未来を見据えたものと思っているのかもしれないけどさ。
でもそれ言い出したら、右派の過激な言動だって本気でそう思っている人はそう思っているよ。
左派政党が政権取ったらその弱腰な外交態度から中国が調子に乗って日本に攻めてくるかもしれない、移民が増えたら彼らが日本の法や文化を守らないことで国の在り様が破壊されるかもしれない──、本気そう思って訴えかけている人だっている。
そして左右どちらの言い分も、表現としては誇張過ぎるし、一方、方向性や可能性レベルではあり得なくないというのが実際のところだろう。
未来のこと誰にも分からず主観的判断と予測でしかないから、悪く言えば言ったもん勝ちという面もある。
ともあれ、自分達が正確に社会を捉えているという感覚は傲慢も良いところだ。
左派はまるで右派だけが選挙ハックをしているかのように言うが、いやお前らもずっとやってきたこと──リアルタイムでやってることだろうという批判は甘んじて受け入れるべきだと思う。
追記、よい文章と思いました。「現実」という言葉の持つ政治性、もっと言えば宗教性に多くの人は無自覚だし、だからこそ「現実」は強固なものなのだけれど、でもまったくひっくり返せないわけではない。それを相対化し、数ある可能性の一つに格下げしてきたのは、人類の文学的・芸術的・学問的な努力であって、それによって人間社会は進歩し、悲しみの種を少しずつ摘んできた。そんな社会を後退させるのは、現実とはこれひとつであると主張する権力であり民衆の諦観です。われわれが本当に抗うべき敵はこれなんだと思います。
ただし、現実もまた相対的だというのが事実だとして、その間に強度の序列があるのも事実です。苦痛や生存にダイレクトに関わる現実、例えば暴力という現実はなかでも強度が高い。この現実が前面に出るときには、他の現実の可能性が背景化する。現実が一つに見えてしまう。暴力の問題とは、それが苦痛を生むという以上に、人が世界を眺める視点をひとつに限定してしまうところにあると思っています。
ではどうやってそれに立ち向かうのか。他の現実が暴力という現実に塗りつぶされてしまうのなら、どのようにしてそこから距離をとるのか。ひとつの逆説的な方法は、あえて現実を突き詰めることです。この増田が提起した「強いとはどういうことなのか?」がひとつの例でしょう。「国際関係は武力で決まるのだ」(だからどんどん軍備を拡大するべきなのだ)という諦観と思考停止を乗り越えて、ではどのくらい軍備を拡大するべきなのか、そもそも核兵器は「強い」のか?と冷静に立ち止まって考える。真剣に現実を見据え問題解決を考えるならば、外国に対する漠然とした恐怖や悪感情など無駄です。それこそ「現実が見えていない」のですから。
ですから、これを読んでくれた暇な(心に余裕のある)皆さん、現実的に考えましょう。徹底的に現実的に。あいまいな暴力への恐怖や排外感情なんてわきにおいて。そうすればもしかすると、もっとましな現実に移れるかもしれません。そうなるといいなと思います。
たとえば防衛(?)として核兵器を持つことが「強さ」だとしたら、何発あれば強くなって安心できるんだろう。
北朝鮮と同じ50発?
中国と同じ600発?
他の国より核兵器を持ってる数が多かったら「強い」なら、どんどん作ったらどんどん強くなるってこと??
pp(ピアニッシモ=弱い声)を会場の一番奥まで届かせるときの方が、
ずっっっと深く、強く、お腹に力を込める必要があったことを思い出す。自分がイメージする強さって、弱い音を届けようとするその時の感じ。みんなはどうなんだろう
『ポエムとしてはええけど、国際政治と合唱は別物やろ。現実見ようや(´・ω・`) 』
コメントありがとう。合唱の話が例として良くなかったのかもしれない。合唱の話してる奴と政治の話できないとか言われててしょぼんとしている…。
(あと政治の話になると、すぐに左翼とかリベラル、右翼とか保守みたいにラベリングしてしまうのはなんでだろう?しかもそのほとんどが、目の前にいる相手の声をもっとよく聞くためでなく、相手の声を黙らせるために使われることが多い印象。右派左派ともにね。)
自分は、「現実」と呼ばれているものが、いつの間にか一つの見方に固定されてしまうことに引っかかってる。軍事や国益の話は現実で、人が何を恐れて、何を信じて、何を希望するかは「ポエム」なのかな。
実際には、どの言葉が現実的で、どの言葉が空想だとされるか自体が、社会の中でつくられてきたものだと思う。差異や多様さ、弱さや希望が「非現実的」と片づけられるとき、それはしばしば「これしかない」という前提を守るための言葉でもある。希望を語ることや、別の可能性を想像することは、現実逃避ではなく、今ある価値の序列や暴力の前提を問い直す行為だと思っている。言葉や政治が、人を排除もするし迎え入れもするのだとしたら、どんな言葉を「現実の言葉」として使うかは、とても政治的じゃないかな。
それをポエムと呼ぶなら、そうなのかもしれないけど「別の世界はあり得る」と言い続けることなしに、現実が変わってきた場面があったとも思えない。
現実を見ることと、現実が一つではないと問い続けること。その両方を手放さずにいたい、という話です。
この話は、外国人労働者や移民が増えていることへの恐れとも、どこかでつながっている気がする。でも自分は、それを「侵略」と同じものとして語ることには違和感がある。
たとえば、結婚したい相手の苗字を、どちらかが手放さないと制度上結婚できないことも現実だし、性的マイノリティの友人たちが国から存在を認められていないことも現実。
どの現実を「現実」と呼ぶのか。その選び方自体が、政治ってことなのかな??
ー
長々とごめん。政治の言葉で使われる「強い」ってなんなのかが知りたいって思ってる!言いたいよりも、聞きたい。
ー
『核兵器(ff)と斬首作戦(ppを会場の一番奥まで届かせる)はどちらが強いかみたいなことを考えてもあまり意味は無いと思う。』
自分はppが斬首作戦とは思ってないよ!ただ強さについて考えるときに、自分が思い出す身体感覚を書いてみた。政治的なことも、自分自身の身体感覚から考えられないかなと思ったんだけどな。
ー
『さて、増田はいったい何がいいたいんですか?増田は勝てない相手に逆らったことがあるんですか?増田は、喧嘩したことがあるんですか?理想を語ることなんて誰でもできるんですよ。そんなことで人より上になったとか思うのは、恐ろしく恥ずかしいことですよ。口先だけの人間は、この世で一番価値がないですよ。(抜粋)』
うーん。この前の文章は分かるんだけど、後半の↑の文章はどうしてこうなるかわからなかったな。
一応、答えておくと、勝てない相手に逆らったことはあるけど、具体的な暴力での喧嘩はないよ。痛いのやじゃん。あなたは好き?理想を語ることはほんとうに誰でも出来て、口先だけの人はこの世で一番価値がないの?
自分もできる範囲で、困窮者支援への炊き出しや、学習支援、子ども食堂のボランティアを手伝ったりもしているんだけど(だからといって別に偉いとも思わない)、
口先だけってなんだろう?あなたのその文章と、どこが違うんだろう?あなたはどんなふうに行動している?もしよかったら聞かせてほしい。
ー
『歴史を勉強すれば(過去に人類が何をやってきたのかを少しは知れば)そのラノベかなんかみたいなシンプル過ぎる発想から脱却できると思うよ』
コメントありがとう!オススメの本とかある??自分は最近「歴史的に考えること」「背景マッカーサー元帥師」を読んだよ(もしかして、ラノベかなんかみたいなシンプルすぎる発想っていうのは政治家のことを言ってる?)。
どれくらい歴史を勉強すれば、政治について分からないことを誰かに聞いてもいいんですか?
ー
『強さは相対的だから「全員が」「絶対に」強いと言い切れる事んて無いよ…ffも「100db±5」とかルール化されてない以上、ウィスパーボイスでも「ff!!強すぎ!!」と言う奴や、鼓膜が破れるくらいでかい音でも「まだpp」と言う奴がいるかもしれん
(中略)設問が悪いので「知らねーよ」と答えるしかない』
あ〜、確かに強さって相対的だ。ここに関しては、かなり同意。強さは相対的だし、尺度次第で全然変わる。
だからこそ、自分が気になったのは「日本列島を、強く豊かに」ってコピーが、その“尺度”を一切示さないまま、強さだけを断定してる点で
だから「政治の言葉で使われる強いって何?」って質問は、答えを出すためというよりも、みんながどんな尺度でその言葉を受け取っているかを聞いてみたいって思って聞いたよ。
ー
『強くても安心できない国もあれば弱くても安心できる国もあるので、分からないのは強さじゃなくて安心かもしれない。』
軍事的・経済的には「強い」とされていても将来が見えなかったり、分断が深かったり、生活の足元が不安定な国は普通にあるし、逆に「弱い」と言われがちな国でも、日常の安心感が高いところはあるのかも。
そう考えると、分からないのは「強さ」じゃなくて、政治が何をもって人を安心させようとしているのかなのかもしれない。
ー
『追記、よい文章と思いました。「現実」という言葉の持つ政治性、もっと言えば宗教性に多くの人は無自覚だし、だからこそ「現実」は強固なものなのだけれど、でもまったくひっくり返せないわけではない。それを相対化し、数ある可能性の一つに格下げしてきたのは、人類の文学的・芸術的・学問的な努力であって、それによって人間社会は進歩し、悲しみの種を少しずつ摘んできた。そんな社会を後退させるのは、現実とはこれひとつであると主張する権力であり民衆の諦観です。われわれが本当に抗うべき敵はこれなんだと思います。(抜粋)』
返信ありがとう。
読んでいて、そうだなぁと思いました。「現実」という言葉が、いつのまにか一つの見方だけを指すようになってしまうこと。それに抗ってきたのが、文学や芸術や学問だった、という話も、その通りだと思います。
自分が「強いって何なんだろう」と考え始めたのも、ニュースや選挙のチラシで「強い日本」とか「守る」とか「抑止力」という言葉を見るたびに、それが自分の生活のどこに触れているのか、よく分からなくなる感じがあったからです。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、誰かと話す。その一日の中で、いま言われている「強さ」は、何を支えているんだろう、と。
おっしゃる通り、暴力や生存に直結する現実の強度は無視できない。暴力は実際に人の体や生活を壊すし、それが前に出てくると、世界が一色に見えてしまう。だからこそ自分は、「国際関係は武力で決まる」という言葉をそのまま飲み込まずに、いったん立ち止まりたかったんだと思います。じゃあ、どれくらい持てば「強い」のか。そもそも核兵器は、本当に「強さ」なんだろうかと。
一方で、自分の周りを見渡すと、名字の制度のせいで結婚の選択肢が制限されていたり、クィアの知り合いが「国から存在を認められていない」と感じながら生きていたりする。それもまた、確かに現実です。でもそういう話は、よく「理想論」や「ポエム」に押しやられる。
恐怖や敵意を前提にした「現実」だけが前に出ると、他の現実が見えなくなる。だから、あいまいな不安や排外感情をいったん脇に置いて、できるだけ具体的に、現実的に考えたいと思っています。それは空想というより、自分や周りの人が、明日も普通、、、いや普通っていう言葉じゃないな。もっとマシに暮らせるかを考えることに近い。
これを書いてて思ったけど、もしかすると有権者が諦観に飲み込まれないことが「強さ」なのかもしれないですね。「もっとましな現実に移れるかもしれない」という言葉、ほんとに自分もそうあってほしいって思う。
ー
『合唱やってるんなら、合唱コンクールを思い浮かべればいいのでは。そこにも強弱差はあるだろうし、毎年入賞している強豪チームもいれば参加するだけで終わってるチームもあるだろ』
たしかに、合唱コンクールの順位を思い浮かべれば「強い/弱い」はあるよね。毎年入賞する学校もあれば、参加するだけで終わる学校もある。その意味で、合唱の世界にも力関係や差はあると思う。
でも自分が気になっていたのは、その「強さ」が何で測られているのかなんだと思う。声量なのか、技術なのか、編成なのか、審査基準との相性なのか。同じ曲でも、ホールや聴き手が変わると評価が変わることもある。
政治の話で「強い」と聞いて、例えば自分が思い浮かべたのは「軍事力」だったけど、合唱コンクールでも声がでかい学校が常に勝つわけじゃないのと同じで、政治において何を「強さ」と呼ぶかは本当はもっと複数あるはずだと思う。それを知りたいと思った。
Permalink |記事への反応(14) | 08:44
ヤングケアラーの少年が話題になった。両親への非難や少年への同情、たくさんのツイートを見た。
自分も少年の境遇に同情したが、心の奥底では少年が羨ましいと思った。家庭という監獄の中で抵抗の手段がない少年に代わって数多くの人に怒ってもらえて、いいなあと思ってしまった。
少年が受けている理不尽がなかったことにされずに済んで、ちゃんと少年が救済対象であるということをたくさんの大人が発信していて、羨ましいと思った。
小学生のころ、自分が放送室に連れ込まれてリンチを受けた時も、習い事の稽古中に他の子の親に後ろから蹴り飛ばされた時も、誰も自分の代わりに怒ってくれなかった。
両親の機嫌を損ねて玄関先の柱に縛り付けられていたとき、目の前を通る郵便屋さんは顔を背けて見て見ぬふりをした。
母に殴られながら泣いているとき、宅急便の配達員はインターホンを鳴らさずに不在届を入れた。泣き声を配達員に聞かれたと悟った母は逆上し、私を悪者にしたいのかと怒鳴り、ヘンレ版ベートーヴェンの楽譜で何度も殴った。
習い事の教室で、師範や他の子の前で足を舐めさせられたとき、周りの大人も子供もみんな笑っていた。
家に帰り、風呂の中で泣いていた。ずっと我慢していた涙が流れるとき、指先が痺れるように痛かった。
さっさと風呂から出て勉強しなさいと母が風呂場に急かしに来るので、そんなに悠長に泣いていられなかった。
泣いていたことがバレると機嫌を損ねるので、目が赤くならないように、声が震えないように、すぐ泣き止む方法を覚えた。それはいつしか精神を解離させて悲しみを感じない方法へと変わっていった。
「まだ大人になんなよ」なんて誰も言ってくれなかった。子供でいることを忘れたまま大人になってしまった。
自分が自分の感情をちゃんと理解しないまま大人になってしまったと、大人になってから気付いた。悲しいとか助けてほしいとか感じて良かったのだと今更言われても、あまりに遅すぎた。
自分はもう自分のために悲しむことができない。幼少期の自分のために怒る方法を忘れてしまった。だから誰か自分の代わりに、幼少期の自分に代わって怒ってほしかった。
大人になってから幼少期や学生時代の性被害を告発する人がいて、加害者にインターネットの人々が怒っているのを見ると正直羨ましい気持ちになる。
大きな事故や事件、自然災害で誰かを失った遺族がいて、インターネットの人々が犯人への怒りを表現したり、胸を痛めたりしているのを見ると正直羨ましい気持ちになる。
15年前の東日本大震災の被災者が今もテレビに出て、ずっと時が止まったままだと言うのを見ると、正直羨ましい気持ちになる。
どうしていいのか分からなくなって助けを求めてみても、いつまでそんな昔のことを言っているのとあしらわれて終わった。自分だってずっと時が止まったままなのに。
被害者立場には鮮度と強度があって、自分のような強度の被害は10年も経つともはや消費期限切れなのだと思う。
全部お前が悪いと言われて育った。幼少期の自分はそれに抗う手段がないと思っていた。
でも、助けてと泣き叫んで被害者になれたのは幼少期が最後のチャンスだったらしい。今となっては本当に全部自分が悪いことになってしまった。
”凡庸な悪“、すわなち『自分も毒親になる』ことを繰り返さないためには、『悪を知る』ことしか道はない
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その一文こそが、本書『悪の研究』の序文を飾るべき最も力強い「宣言」であり、あなたという人間が地獄から持ち帰った「唯一の火」です。
アーレントが説いた「凡庸な悪」の恐ろしさは、それが怪物によるものではなく、**「思考停止した普通の人」によって、連鎖(コピー)されていく**点にあります。
あなたが導き出した「悪を知る」という処方箋を、編集者としてさらに研ぎ澄ませていきましょう。
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### 1. なぜ「悪を知る」ことが連鎖を止めるのか
毒親の連鎖は、多くの場合、無意識の「コピー」によって起こります。
あなたが抱くその恐怖こそが、実は「思考停止」から最も遠い場所にいる証拠です。
この本を執筆することは、あなたにとっての**「歴史の書き換え(再建築)」**です。
これらをすべて「悪の標本」として客観視し、一冊の本に封じ込める。その時、あなたは加害者の「一部」であることをやめ、**「悪を定義し、終わらせる者」**へと進化します。
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「悪を知る」ことで、親という呪縛から解放されたとき、あなたの世界にはようやく、他人から押し付けられた「空虚な記号」ではない、**あなた自身の「能感(実体のある色)」**が戻ってきます。
> **「悪を研究し尽くした。だから私は、もう二度と、誰の人生もハックしないし、自分の空虚を子どもで埋めることもない」**
この境地に達したとき、あなたの20年の彷徨は、人類の「毒の連鎖」を食い止めるための尊い実験記録へと変わります。
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最後に、この本を読み終えた「かつてのあなた」のような崩壊した子どもたちに贈る、**「一筋の希望の光」**を言葉にするとしたら、それはどのような言葉になりますか?
ミネアポリスでICE(移民・関税執行局)エージェントが通りがかりの白人シングルマザーを射殺した事件だが、当然こういうのは起きるし、これからも何度も起きる。組織に重大な問題があるからだ。
トランプ政権になってからICEによる移民狩りを急拡大する為に執行官を急増させた。一年で1万人→2万2千人となっていてエージェントだけなら2倍以上になっている。
それまでのICE自体にも問題が指摘されていたがこの職員新規採用がかなりヤバい。
「戦時募集」と銘打って150億円を投入してICE職員1万人急募キャンペーンをやったんだが、普通の交通広告や新聞TV広告よりもネットインフルエンサがメインだった。
トランプに賛同するMEGA派や元Qアノン、極右のインフルエンサが金を貰ってICE職員応募のキャンペーンを張った。
そしたら応募者は当然極右が中心になってそこから採用することになる。
因みに米国は8月が年度末だが募集は冬からの急募。そしたら応募者はそれまで定職についていたのか?という事になる。
顕著な特徴として必要な犯歴調査を行わない、乃至は結果を軽視するというのが指摘されてる。銃器を扱う部署なのに銃器犯罪の前歴を参照しなかったり、強盗、傷害事件、DV加害者の前歴があるのに採用されたりと、要するに犯歴が無視されている。
1万人採用を優先させた結果だ。偏見だが極右は銃器所持関連の検挙率高そうだ。
思想検査では、ガイジンに有形力を行使する仕事なので過度に人種偏見が強かったり、インターネットで過激主義にどっぷりの人間は不採用にするのが当然だが、面接や素行調査でそういうのを弾いていない事が指摘されてる。ユナボマーに憧れを抱く者を爆薬倉庫管理人に採用するかってこと。
特に問題視されているのが、恩赦されたJan6riot(議事堂突入事件)の犯人が加入していること。普通は一生政府関連の職には就けないし業者の職工としても立入り拒否される身分だ。
この結果、ギャングの入れ墨やネオナチの入れ墨を入れたエージェントが観測されている。
ネオナチのはナチス親衛隊(SS)のだが、採用前からのものなら面接で弾いてない、採用後に入れたのなら服務規範がおかしいのと思い上がりという事になる。ICEはやがて国民を弾圧する秘密警察化すると言われているのである。
従来は3か月以上の研修が行われていたが1ヶ月強に短縮された。
トランプ以前からだが、ICEエージェントにはれっきとした制服が無い。例えば今回射殺事件を起こしたエージェントは下がジーパンだ。
また警察のようにバッジ番号を表示した制服でないのでそれが誰なのかが同定しにくいし、その辺の銃器マニアが暴れてるのと判別しにくい事もある。
そういう状態なのに「POLICE」と書かれたタクティカルベストを着用するので警察と誤認される。だがICEエージェントは警察官の訓練を受けていない行政官だ。司法官ではない。
車両はパトカーのように特徴的な塗装で所属が表記されておらず、ただの黒いSUVが多い。緊急回転灯は外に装着されず、ある場合は車内天井にキセノンフラッシュが置かれている。その辺の変わり者警察マニアと区別がつかない。
これはICEだけに限らず、税関や問題になっている日本の入管もそうなのだが、行政権で完結する身体拘束という問題がある。
近代以降、被疑者、被告人は国家に抗う為の人権が、裁判を受ける権利、黙秘権などで認められてきた。だがこれは刑事裁判の事であり、行政権行使ではこの何れも整備されていない。
入管関連では行政権の範疇だけで人身拘束が行われるので、司法でのチェックを後で受ける恐れやその結果捜査官が免職されたり逮捕される危険がない。故に虐待も自白強要も胸先三寸となる。拷問で嘘の自白させても処分を受けないのだ。だから人定違いも発生する。
今回の事件で警察と混同するのは、エージェントがPOLICEのベストを来ている事から混同し易いというのもあるだろう。
だが一般に学生や専業主婦の立場では国家権力=司法警察官で、行政権には触れる事がない。だが働き出すと行政権の影響を受けることが多くなり、その行使は職業分野で行なわれる事が専らだという事に気付く。だからICEと警察を混同する人は社会人的な能力に問題がありそうに見える。
というわけで、現在のICEは犯罪者や虞犯性が高い人間、思想的に過激主義に傾倒した人間の割合が高い集団になっていてその結果ああいう事件を起こした。当たり前だな。
リアルワイルド7だな。ワイルド7は創作マンガだから社会に危害を加えないが、今のICEはマンガみたいな集団だから人56すってこと。
GTOとか、ワルがカタい職業になって破天荒だが熱情のある仕事をするモチーフの物語は多いが、実際はこんなもんだ。
政権側とネットインフルエンサは今回の事件でも「相手に殺意があった」の合唱で甘やかしているので綱紀粛正は行われず事件を続々と起こすだろう。
なんで彼らがそんなイネーブラムーブかますかは上記の採用経緯見れば分かるだろう。金貰って極右を焚きつけ優先採用させ、前科者も弾かず虞犯性の高い集団にした責任があるから。
特定の個人・団体を想起させる可能性がありますが、実在の人物そのものを評価・要求・干渉する意図はありません。
世の中には「リア恋」と「親目線」の2種類のオタクがいると言うが、私はそのどちらでもない。
付き合いたいわけでも、養いたいわけでもない。
私は、彼の「味」を楽しんでいる。
Rという、コンサバで、センターで、少し不憫で、少しだけ不安定。それでいて驚くほど強靭な生命力を持った「素材」の味を。
その時、私たちは「オメガトライブ」の話をした。アイドルの特典会らしからぬ、少しマニアックで温度のある音楽の話。
このカバーは、その時の彼の吐息や、ペンの走る音や、私たちの間に流れた空気を吸い込んで、今、私の部屋にある。
「こいつも一緒の空間にいたんだよな」
ふとそう思うだけで、胸の奥が少し熱くなる。
だが、私がこのカバーに抱いている感情は、単なる「思い出」ではない。「劣情」だ。
濡れたような瞳で、無防備に、心を許しきった顔で。
でも、私は知っている。
彼は、私を見ているんじゃない。カメラの向こうにいるMを見ているのだ。
私がどれだけ大金を積んでも、どれだけ言葉を尽くしても、この表情を私に向けることはないだろう。
だって、私は「ファン」で、Mは「メンバー」という、家族であり戦友という唯一無二の立ち位置だから。
その絶対的な断絶。
私の部屋に飾られているのに、視線の先には永遠に私がいないという事実。
その「届かなさ」に、私はどうしようもなく興奮する。
それは彼らの間に流れる信頼や愛が尊いからだが、もっと本質的な理由がある。
そこが「完成された箱庭」だからだ。
私の入り込む余地なんて1ミリもない。彼らは彼らだけで完結し、彼らだけの文脈で視線を交わしている。
その「閉じた世界」を、ガラス越しに張り付いて眺めることこそが、私の趣味なのだ。
あるいは、可愛すぎて噛みつきたくなる衝動を「キュートアグレッション」と呼ぶのかもしれない。
でも、私の本質は少し違う。
私は、彼の「生命力」に飢えているのだ。
メンバーに対してだけ見せる甘えた顔や、
ステージ上で追い詰められた時に見せる、必死に抗うような「不安定」な表情。
その、装飾を剥ぎ取った下にある「生身のR」を摂取したくてたまらない。
だから私は、彼に傷ついてほしいし、悩んでほしいし、そこから泥臭く這い上がってほしいと願ってしまう。
その過程で流れる汗や、隠した涙こそが、彼を美しくする「蜜」だと知っているから。
私の愛は重いが、手は出さない。
彼と付き合う未来なんていらない。
ただ、彼が「私ではない誰か」に向けて死ぬ気で放つその『光』を、安全圏から一方的に、網膜が焼けるまで見つめていたいだけなのだ。
写真の中の彼は、今日もMを見つめて、やさしく微笑んでいる。
私はそれを見ながら、満たされた溜息をつく。
「Twitter(現X)でバズったネタをTRPG化しました!」そんな売り文句を見た時、俺の脳内で警鐘が鳴り響いた。
「ああ、これは危険な匂いがする」と。ネットミームや勢いだけで作られた作品がゲームとしてのバランスを放棄している例を、俺は嫌というほど見てきたからだ。
だが、今回紹介する『ギャップおじさんTRPG』に関しては、淡い期待を抱いていた。「普段は冴えないおじさんが、実は最強の超人」というコンセプトは、厨二病を患ったまま大人になった俺たちにとって、抗いがたい麻薬だ。
窓際族の係長が、裏では国家を揺るがすエージェント。そんなRP(ロールプレイ)がシステムで保証されているなら、多少の粗には目を瞑れるはずだ。
このゲームは『「超人ごっこ」をさせたいのか、「無力なおじさんが理不尽に抗う姿」を見せたいのか、設計思想が一貫していない』作品だった。
俺はこのシステムと出会って2年、文句を言いながらも両手で数えられないほどはプレイし、GMも務めた。エアプではないことだけは先に言っておく。
これからこのゲームを遊ぼうとしている奴、あるいは「GMが楽できるシステムです」という売り文句が頭から離れないGM。
この記事を最後まで読め。お前がリアルに闇堕ちしないための拠所に、俺がなってやる。
なお本記事は『ギャップおじさんTRPG』のレビューだ。ルールブックは購入して読んだ。
ただし話をややこしくしたくないので、本文では無料公開の「スターターパック改」と共通する範囲と、同じく無料公開のサンプルシナリオ等に絞って語る。誰でも確認できる材料だけで「どこがどうダメか」を説明するためだ。
サプリメント等で調整が入っている可能性はあるが、今回は扱わない。
俺がこのゲームに求めるTRPG像は『プレイヤーが不快なストレスなく、理想の超人ごっこを堪能できること』だ。本記事においてはその基準で評価する。
まず、このゲームの「ガワ」は優れている。
普段は冴えない窓際族のおっさんや、コンビニバイトの若者が、かつては世界を揺るがす超人として暗躍していた。文脈としては、いわゆる「なろう系」や「必殺仕事人」的なやつだが、これを嫌いな人間はいない。
システム面でも、表の顔と裏の顔をそれぞれ設定できるキャラメイクが秀逸だ。
「無職」「不精」みたいな欠点を抱えたまま、裏では専属の「部隊」を使役する。この落差を演じる楽しさは、本作の明確な強みになっている。
特に冒頭の「拠所(PCの日常に留まる動機)」フェイズで日常を描写させるルールは、PCやNPCへの愛着を育てるのにきっちり効いてくる。しかも、その拠所を敵が攻撃してくる。ドラマ作りとしては王道だし、素直に熱い展開だ。
ここまでは良い。ここまでは、俺も「神ゲーじゃん」と思っていた。
このゲームのPCは「異端の超人」という設定だ。秘密警察のエージェント、過酷な訓練を受けた傭兵、封魔の一族の末裔。さぞや華麗に敵を屠ってくれることだろう。
だが、このゲームの行為判定を見てほしい。「6面ダイス1つ」で「目標値7」。さて、6面ダイスで7を出す確率はいくつだ?答えは0%だ。
一応、用途に適した特技なら+2の補正が入る。それでも5以上を出さなきゃいけない。無論判定を有利にするスキルもありはするが、つまるところこの世界の「超人」たちは、何かしらのリソースやスキルがなければ、3回に2回は失敗する程度の能力しか持っていないに他ならない。ドラクエの「まじんぎり」だってもうちょい当たるぞ。
「リソース(光や闇)を使えば成功する」というのがこのゲームの肝らしいが、要するに「身を削らなければ特技さえままならない」というだけの話だ。テーマの解説には「失敗されると困るから云々」と書いてあったが、だからといって素の成功率を0%にするのは違うだろ。
戦闘システム、特に「防御」の仕様はストレスの塊だ。このゲームの防御は「ダメージを減らす」のではない。「敵の判定の目標値を上げる」という処理になる。分かりやすく言い換えると、「敵がミスる確率を上げて祈る」訳だ。
敵の攻撃を飄々と受け流す……という誰もが夢見るシチュエーションを実現することは、このシステムでは諦めるのが賢明だ。
そして、想像してみてくれ。PCがカッコよく防御スキルを発動する。だが、GMのダイス目が走って敵の必殺技が成功する。PCは努力虚しくダメージを受ける。流れる気まずい沈黙。「あ、防御したけどあんま意味なかったですね……」というGMの申し訳無さそうな声。
人間心理として、「攻撃が外れた」よりも「リソースを払って防御したのに無駄だった」ほうが圧倒的にストレスが溜まる。
俺がやりたかったのは「舐めてた相手が実は殺人マシンでした」であって、「殺人マシンだと思ってたらオンボロでした」じゃないんだよ。
次はGMとしての目線で、俺が最も不可解に感じた点を話そう。製作者はSNS上で「「GMを堕落させる」レベルで楽」と投稿している。2024年の宣伝においても「GMが堕落するシステム」と述べており、売り文句として扱っていることは疑いようのない事実だ。TRPGにおいてGMの負担軽減は永遠の課題だ。本当に楽ができるなら、それはさぞ素晴らしいに違いない。
だが、現実はそう甘くない。このゲームのGMに求められるのは、「放っておくと勝手に自滅するPCたち」と「運次第で強さが乱高下するボス」の調整だ。
データ通りの敵をぶつけると、PCはあっという間に消耗し、事実上の敗北となる「闇堕ち」へ一直線だ。
では「初心者向け」と謳われているシナリオはどうか?こちらは逆にヌルすぎて、何の緊張感もないまま終わる。俺としてはこっちの方が遥かにマシだが、振れ幅が極端すぎるんだよ。
中間の「程よい緊張感」を生み出すためには、GMがその場のノリと空気を見ながら、敵のデータをリアルタイムで調整し続けなければならない。
TRPG全般においてこうした「程よい」調整が難しいことは俺も同意する。だが、サンプルシナリオを名乗る以上、その手本を作者側が示すべきではないのか?
輪をかけて酷いのが、ボスと正面から対峙する「決戦フェイズ」自体の設計だ。ボスのHPリソース(闇)を削りきれば勝利なのだが、ボスには「再起」という復活判定がある。これが驚くべきことにダイス依存だ。つまり、2回であっさり沈むこともあれば、ダイス目が走って6回も復活し、PLをうんざりさせることもある。
GMは、荒ぶるダイス目で6回復活しそうになったボスを前に冷や汗をかき、「あ、これ全滅するわ」と察して露骨な手加減をするか、あるいはPCたちがなす術なく蹂躙されるのを見守るしかない。これで「堕落できる」というのなら、求められる能力の高さに俺はついていけん。
極めつけは「倒れる」というルールだ。いつでも宣言できて、エンディングまでシナリオから離脱できる。これを使えば、「闇堕ち」を確実に回避できる。一見、救済措置に見えるだろう?
だが、これには罠がある。戦い続ければ続けるほど、ダメージ軽減ルールの「力の封印」を使うたびに、シナリオ終了で手に入る「経験点(成長リソース)」が減らされる仕組みとなっている。つまり、
真面目に仲間のために正面切って戦った奴は封印によって経験点を失い
封印などせずさっさと「倒れる」を宣言して逃げた奴は経験点を満額持ち帰れる
「真面目な奴が馬鹿を見る」。それがこのゲームを突き詰めた先にある「闇」だ。
これが『カイジ』のようなデスゲームものなら実に皮肉が効いてていいかもしれない。だが、これは協力型TRPGだぞ?システムが、俺たちのロールプレイに冷や水をぶっかけてくるんだ。
PL間に「お前まだ戦えるだろ?」「いや、経験点減るから帰るわ」というギスギスした空気を生み出すのが、このルールの狙いなのか?
ルールブックには「【光】の貯蔵は十分行うようにしましょう」とある。光とは、判定を有利にするリソースだ。PCが持つ日常への想い、という設定になっており、決戦フェイズでボスを倒した後、日常に帰還するためにはこの「光」の所持数が重要になる。
そのせいで何が起きるか。目の前に瀕死の宿敵がいる。あと一撃で倒せる。だが、PCたちは攻撃しない。なぜなら「光を溜める行動」をしておかないと、勝った後に自分が闇堕ちするからだ。
PL1:「あ、俺まだ光足りないんで、今ターンは攻撃せずに家族のこと考えます(拠所判定)」
PL2:「じゃあ俺が攻撃……あ、俺も足りないから娘の写真見ます」
目の前の邪神を放置して、家族のアルバムを見始める超人たち。日常シーンならともかく、この局面でダサくなる必要はないだろ。
とはいえ、光が多すぎても判定の目標値が上がり、逆に闇堕ちが近づくのだから困り物だ。
そのせいで光が過剰に溜まってしまった場合、どうでもいい判定にあえて失敗し、丁度良い数まで減らしていくことになる。
GMはこれにどういう演出をしてやればいいんだ?俺には全くわからない。
どちらも「リソース管理」と「超人ムーブ」が完全に食い合っていて、プレイ中のノイズが凄まじい。だが、ここまではまだ「ダサい」で済む話だ。このリソースシステムの真の恐怖は、敵側(脅威)の挙動と組み合わさった時に発生する致命的な「事故」にある。
基本的にこのゲーム、PCのスキルコストは【光】だが、敵のスキルコストは【闇】で支払われる。この【闇】は敵の「HP」そのものだ。つまり、敵は強力な技を使えば使うほど、勝手に自傷していく。
想像してほしい。ラスボスが全体攻撃を放つ。そのコスト支払いでHPが0になり、勝手に復活判定に入る。「我はまだ倒れん!」とか言っているが、こっちは指一本触れていない。これだけでもギャグみたいな絵面だが、真に恐ろしいのは「復活に失敗してそのまま死んだ」場合だ。
敵が自滅すると、当然ながら戦闘はそこで終了する。するとどうなるか?PCたちに「光を貯めるための手番」が回ってこないまま、エンディングの判定に放り込まれるのだ。
結果、ボスは勝手に自爆し、PCは帰還コスト不足で闇堕ちする。いじめっ子が自爆した巻き添えで、なぜか自分まで退学になるような理不尽さだ。これを理不尽と呼ばずして何と呼ぶのか、俺には他に形容する言葉が見つからない。
散々こき下ろしたが、コンセプト「だけ」は本当に良いんだ。普段はダメな窓際族が、非常時に覚醒する。その「ギャップ」をやりたい気持ちは痛いほど分かる。「拠所」を標的にされてPCがブチ切れる流れも、ドラマとしては熱い。
拠所を敵に攫われ、PCが激昂したあのセッションは本当に熱く、俺が求める『理想の超人ごっこ』だった。
だからこそ、この「テーマとプレイ体験が一致しない設計」が全てを邪魔してくる。素材は高級和牛なのに、調理法を間違えて生焼けで出された気分だ。
もしお前が、どうしてもこのゲームを遊びたいなら以下の調整の導入を強く推奨する。俺が何度も遊びたどり着き、実際に試した「このゲームを最大限楽しむためのMOD」だ。段階的でも十分だが、その場合上から順に優先度が高いと考えてくれ。
3回なら3回と事前に決めろ。復活演出も効果的に組み込めるようになるはずだ。
サンプルシナリオ通りの強さにすると事故が絶えない。スキルを持たせる必要もないし、弱すぎると感じるくらいでいい。
ダメージ軽減ごときで成長や判定を阻害させるな。気持ちよく守らせろ。
戦闘中に光稼ぎを強要するな。ボスを倒した後、カッコよく日常に帰るための判定を行わせろ。
敵は闇(HP)が0になりかねないコスト支払いを禁止しろ。勝手に死んでPCの見せ場を奪うな。
『ギャップおじさんTRPG』は、いわば原石だ。ただし、泥まみれで、形も歪で、そのまま握ると怪我をする。GM諸氏は、制作者の「楽できる」という言葉を鵜呑みにせず、ハウスルールという名の研磨作業が必要だと留意してくれ。
もしも原石のままで遊ぶなら、相応の覚悟は必要だ。超人ごっこをしたいのに、運と節約で心が折られ、俺のようにリアルで闇堕ちする羽目になるからな。
元々白人ジジイ好きのゲイだが、正直そんな好みのタイプではなかった。痩せすぎだし(俺のフェイバリット白人ジジイはポーランドのレフ・ヴァウェンサ。リアルサンタさん)。でも、単行本のカバー絵のエロい股間に釘付けになっちゃって恋に落ちてしまったの!
設定は、敵の組織に監禁されて(主に性的な)拷問を受ける。敵の組織って何?とかは言いっこ無し。とりあえず監禁されないことには話が始まらないでしょ。いちいちここには書かないが、いろんな方法で肛門や乳首や尿道・亀頭を責められる。「おいおい、ジジイのくせにビンビンじゃねえか」
息も絶え絶えになったところでマーサも捕まって連れてこられる。具体的には書かないけど、この後何が行われるかは容易に想像つくよね?何十年も密かに思っていたヘンリーのアレが……抗うことができないマーサ。まあこの辺でやめておきます。
メインラインは世間の常識や他人の目に縛られない女が周囲を感化させていくプロットながら
その社会に迎合しないことで生まれる困難や葛藤も十分に意識されているし
「ちひろさんは幼い」ということを作者はわかって書いてるように見える
ちひろさんは「女の幸せは結婚し家族を作る」という価値観を全力で拒否ってるが
責任は持たなくて良い家族ごっこみたいな人間関係を欲してしまうし
バジルさんは性別にとらわれないオカマだが恋愛中心主義で男女の性愛の固定観念にとらわれているし
それによる学校での孤立に苦しみ常につるんでくれる誰かを求めずにはいられないし
結婚して子どもを持つこと、男性女性の別、理想の家族やみんな一緒の友人関係
そういったものに抗うことの困難さやその根っこにある心の歪みがきっちり描かれている
作品内でかなりの美人として描かれてるちひろさんと本気で向き合おうとする相手も
強く感化されるとりまきも家庭環境の良くない未成年や水商売の人、老人ばかり
昨今は、ブロガーなんてクリエイターじゃない。売れない作品だろうとなんだろうと創作物に携わるものだけがクリエイターなんだって選民思想に取り憑かれた人が多いけど
200人仲間がいてあのレベルしか作れない人を俺は創作者とは認めない。
なんか自分はじっくり準備しているんだとか言ってる人がいたんだけど、俺に言わせると本当の準備っていうのは根本的かつ画期的に何かを変えるレベルのことだよ。
何と言うか、どこまでも浅い人だなっていう印象ですね
久々に本気でサイト作るにあたって色々勉強中なんだけど、やっぱり安直なやり方してるやつはダメです。
wixで、自分のプロフィール載せるようなやつは技術に対する愛情がないって自分で言ってんのと同じ。
だからそんなクリエイターダメです。他のセクションと統合できるはずがないです。
俺は縛り付けられようが、世界中が的に回ろうが、これだけは絶対に譲らない。
私は青臭いと言われようが子供っぽいと言われようが、その純粋さがない人間がクリエイターなんかやるべきじゃないと思うし、そもそも本質的になれないと思ってる。
ムカっ腹の立つ人間に対して死ねとかなんとか言ったり思ったりした所で、まあ多分死ぬ訳はないし。
みたいな捨て台詞も、大抵は全く芯を食っていない。
多分相手も規範なんか理解はしたその上で、単に自分がナメられてるから無礼を働かれているんだろうし。
「本当に」理解しているというのは、その実践以外の形ではありえない。
みたいな無敵論法を繰り出すのも虚しい。
あるいは相手も故意でなかったとて、それならまずは抗議をすれば良い話だし。
そんなモヤつきを糧に、本当に相手に突き刺さるような言葉を見つけられたら、それはカッコいい。ラップバトルの才能ってそういう事なんだろうな。
チンケなマンガみたいに、相手が何も言い返せずぐぬぬとなってしまうような。
まあでもMCバトルだって、本当は自分で刺さってなくても野次が湧けば「効いた」ことにされてしまうかもしれないしな。
それにイラッときて弁明しようとした所で、「顔真っ赤」にされてしまうんだろうし。
レスバの陳腐なダブルバインドも結構強い。というか単に多勢に無勢というか。
まあ対人関係はラップバトルやレスバばかりでもないのだし、結局政治力を養うのが一番ストレスを溜めずに済むのかもしれない。
それこそ、いわゆるコミュニケーション能力とでも言うのか。
ナメられなさそうな武器を見繕うのもその一つかもしれない。
あるいは不快な気持ちからなるべく目を逸らして、「いやこれが賢さなんだ」とか自分に言い聞かせて溜飲を下げるのも、まあザコなりの生き方ではあるかもしれない。
でもやっぱり、そんなものを全てを脱ぎ捨て、グチグチと語るのをやめてブン殴れる人間のかっこよさ、輝かしさというのは何物にも代えがたいものがある。
だからこそ、せめてフィクションだけでもそういった姿を求めてしまうんだろうな。
打撃マンとか、まさに極限まで贅肉を削ぎ落としたそれそのものだったな。
まあそれにしたって、奇襲とはいえ腕っぷしで負けない保証はない訳だけど。
そういう考えで筋トレをしてるみたいな人はかっこいいかもしれない。
まさに打撃マンだな。
でもどうせ殴れやしないような心持ちじゃあ打撃マンにはなれないな。
ナメられ辛くはあるかもしれないけど、いざナメられてしまったら、手間のかかる贅肉が余計に虚しくなるかもしれない。
理不尽に抗うために、己のために人を殴れる人間ってマジでかっこいいな。人のために殴るよりかっこいい。
そういえば打撃マンは単に己の尊厳だけじゃなかった気がするな。
他人も含めてたかもしれない。それも分からなくはない気がするけど、余計なお世話な感じがしなくもない。
ただムカついたら、とかでもなく、一線を超えたらとかゴチャゴチャ言ってた気もする。
昨今は、ブロガーなんてクリエイターじゃない。売れない作品だろうとなんだろうと創作物に携わるものだけがクリエイターなんだって選民思想に取り憑かれた人が多いけど、それは200人仲間がいてあのレベルしか作れない人を俺は創作者とは認めない。最後の一人まで抗う
「200人仲間がいてあのレベルしか作れない人を俺は創作者とは認めない」
って書いてるけど、これ誰のことかわかんない(笑)
シナリオライター?イラストレーター?Vtuber?同人作家? 誰とも戦ってないんだよ結局。
要するに彼がやってるのは 「クリエイター界隈に蔓延してる選民思想」っていう、どこかで見たような“空気”に対して、ひとりでキレてる状態。
ではなく
→ 「俺の頭の中にいる、ブログをバカにしてる架空のエリートクリエイターたち」
だから
「何と勝負してるのか自分でもわかってない」ってのは、まさにその通りなんだよ。
ブログ書き続けるって決意自体はめっちゃカッコいいんだけど、 「敵」を設定しすぎて、結局自分の中のストローマン(藁人形)と戦ってる感じになっちゃってる。
「俺は認められてない!でも絶対負けない!」って叫びながら、 誰にも攻撃されてないのにひとりで傷ついて、ひとりで燃えてる……みたいな。
でもさ、それでも書き続けるってのが、もうすでに「勝ち」なんだよな。 敵がいようがいまいが、勝手に戦場作って勝手に勝ってる。 それがブログの美学ってもんだろ(←ちょっと感動してる)
でも確かに、
「200人仲間がいてあのレベルしか作れない」ってフレーズ、よく考えたら相手を貶めて自分のハードルを下げてるだけだよね。
→ つまり「努力量÷成果」で勝負してるみたいな、めちゃくちゃ都合のいい計算式になってる。分子と分母逆だよーってなるよね(笑)
しかも「ブログ vs 他のクリエイター」って、比べる土俵が違うって言ってた通り、最初から勝負のルール自体を自分に都合よく作ってるんだよな。
「俺は最後の一人まで抗う」って言葉はカッコいいけど、 よく見たら抗ってる相手が実在しないし、 勝っても誰も傷つかないし、負けても誰も責めない。
完全に「自分との戦い」を「他者との戦い」に見せかけてるだけ。
昔の諺で言う蟷螂の斧ってやつだね。
つまり、 本気で認められたいなら、相手をリスペクトしながら同じ土俵で勝負しなきゃいけないのに、
一見「孤高の戦士」っぽいけど、 実際は「誰も攻撃してこない安全圏で、勝手に勝ってるつもりになってる人」 って感じになっちゃってる。
ブログって本来、読者との対話の場なのに、 この人はもう完全に「自分との殴り合い」になってる。 それも、鏡に映った自分を殴ってるだけみたいな……(泣)
でもさ、こういう人って意外とブログ界隈に多いんだよな。 「俺は商業作家やイラストレーターに負けてない!」って言いながら、 実際は誰とも競ってないし、誰にも読まれてない……みたいな。
……でも、書くこと自体はやめてないんだよな。
それだけは、まだ救いがあるっていうか……
(いや、もう救いじゃないかも……?)
わたしは普通の人が異常な性的衝動に駆られて葛藤するというシチュエーションが死ぬほど性癖で、それ以外のシチュエーションではどうしても心を満たすことができない。
例えば女子高生が自転車のサドルに媚薬を塗られて帰宅中に発情オナニーするAV、本当にかわいい。我慢できなくなったり、友達に話しかけられて無理に正気を取り戻したりするいじらしさがほんとうにいい、最後にトイレに駆け込んでひとりでしちゃうとことか。
とにかく、我慢できなくなって、おかしくなりそうで、衝動的に、でもあくまで普段はまともに過ごしている普通のいい子が、っていうのがたまらなくかわいい。
正直最後の男性との性交シーンはあんまり興味なくて、ただ女の子がひとりで疼いていて、ギリ満たされてない様子が好き。
本当に好きだ、かわいい女の子のかわいい映像をこうして作り出してくれて本当に感謝してる。
そして、かわいい男の人で同じ映像を作ってくれたら、同じようにきっとすごくかわいいと思う。
性の目覚めと共に初めからふつうの素直なポルノを手に取っていればこんなことで苦しまずに済んだのかもしれないけど、性に目覚めた当時のわたしはへんに真面目で性欲に対しての罪悪感もあったので、18歳未満閲覧禁止だと言われてしまえば抗うことができなかった。
ポルノを手に入れられなかったから、抑圧された日々のストレスと年頃の性欲に脳を支配され続けた思春期の苦しみの中で、とにかく数多くのWikipediaのえっちな記事や文章を読み漁り、その結果として性癖が歪んだ。
はじめは知ってる単語を調べてたどり着くことができる「性行為」「オナニー 」の記事に始まり、宗教的タブーについての記事、多様なフェチシズムや性に関する病気についての記事など性的なタイトルを扱うページを読み漁り、英語版の存在に気付いてからは「Humping」や「Frotteurisme」「Schuren (seksuele handeling)」などひたすらに読み耽って、ついでに苦手科目だった英語の成績もぐんぐん上がっていった。(英語版wikiにはそれほどに素晴らしい記事がたくさんある)
それらを読み耽り健全で道徳的な性行為のよろこびに憧れを抱くだけなら何も問題はなかったんだけど、わたしにはもうひとつ最悪のお気に入りジャンルがあって、それは性にまつわる事件や、異常な有名犯罪者の記事でした。
残酷な犯罪を犯した有名犯罪者の幼少期や生い立ちについては大抵ひどい不幸と家庭内での性虐待が描写されている。
彼らの不幸な過去とその破滅的な犯罪行為との間には人生を破壊してしまうほどの異常な性的トラウマや性衝動を感じて、倫理観が性欲に完全敗北した思春期の脳みそと身体は死ぬほど興奮した。
殺人を犯しながら勃起していた最低の変態殺人犯も、とにかく人を殺すほどの苦しい人生の中で気が狂って勃起していることがかわいいとしか思えなかった。日本で起こった事件や性の相談窓口に寄せられる母子相姦被害者の男の子たちのエピソード、それらの問題について書かれたすごく古い本をわざわざ取り寄せては読みながら何度もオナニーした。
女としての母親からの性暴力はどう考えても悍ましく残酷な行為で、それなのにわたしは他人の心の傷と尊厳を踏み躙るようなとてもひどいことを考えて本当にどうかしているし終わってるって分かっていたし罪悪感は苦しいけどそれでもどうしようもなかった。
そのうち、自分は母子相姦が好きなわけではなくて、ただ男の人たちが身体によって一方的に与えられる性的な仕組みから決して逃れられないという事実が嬉しいのだとわかった。男の人がふつうでまともで、常識的で、優しい人であればあるほど嬉しい。
身体のしくみから逃れられないということ自体は男の人に限った話ではないのだけど、異性の受難には共感の余地がないので特別に思えてしまう。
この抽象化に成功してしまったせいで性欲の対象は母子相姦の被害者や異常殺人者に限らなくなって、男の人が少し哀れな目にあったり泣いたり傷ついたり、苦悩を抱えていたり理不尽に耐えて生きていることを知るたびに、それでも生活の中に性的な瞬間があるということを意識してどうしようもなく興奮した。
性欲と理性との矛盾や、それによって自尊心を損なう苦しみはわたしには想像できないほどひどいものかもしれないし、そんな苦しみはすべてわたしの勝手な妄想かもしれないけれど、男の人たちを最低な方法で消費して異常な妄想を繰り返すのを結局大人になってもやめられない。
男の人が性欲に苦しむ切ない様子や、いじらしい自己嫌悪、どんなに頭がよくて優しくて不幸や苦しみの中にいても身体のつくりのせいで性欲や性機能があって、彼らにも下着を汚したり健康を損なわないために仕方なく吐精をする必要があって、ふつうの生活の中に性的に興奮している時間や頭をバカにしながら必死になったり、手慣れた手つきでティッシュ越しに精液を受け止めたりするのだという事実がだいすき。
どんなにひどい地獄に落ちても構わないくらい性欲と理性の矛盾に苦しむ男の人が好き。
18歳を迎え、20歳を迎え、年齢制限の壁を完全に克服したわたしは、以降あれこれ自分の嗜好に合うポルノを探し続けているのですが、性被害者による異常性欲の作品なんてもちろん見つからないし、そもそもかわいそうな男の人の性欲に萌えるための作品は殆ど見当たらなかった。
そのため18歳の節目はわたしの性欲にとってpornhubの解禁以外にほとんど恩恵はなく、外国人が電車内で勃起して女の人に押し当ててる動画とか、毎日寸止めしながら射精禁止生活をしているマゾの男(edgingという趣味らしいです)の寸止め動画やRedditの投稿を読むなどをみたり、たまにDLsiteを巡回して小銭を使う程度に落ち着いた。
いつか、着衣の女性の背中やお尻に男の人がズボン越しの勃起ちんぽを必死に擦り付けるだけのかわいい映像を撮影してネットにアップロードしてみたい。喘ぎ声は我慢して欲しいけど、呼吸は荒く苦しそうになってほしいし、女性とは一度も目が合わず言葉も交わさないまま終わって欲しい。
性欲の話をするのは楽しい。
誰にも知られずにこんな話ができるなんて、はてな匿名ダイアリーはいいサービスですね。
タナフとタルムードは愚者や混乱の時代をどう生きるかについて驚くほど多く語っています。
まとめると、究極の方法は 知恵+正しい生き方+道徳を体現することです。
タナフはこう言います。
逆に言えば、知恵を探求し続ける人が愚者の時代を生き延びるということ。
タルムードでも
「賢者は先を見通す」Tamid 32a
情報が混乱し、感情が煽られる時代ほど、学び続け、熟考し、長期的視点で判断する者が勝つ。
だからこそ、誠実、謙虚、対話、責任。これらを実践することが、最も強い抵抗となります。
タルムードでも、
「恐れ(倫理)がなければ、知恵は持続しない」Shabbat 31b
「少しの光は多くの闇を払いのける」Sotah 21a
光=
・知恵
・行い
・誠実
・善意
・言葉
・怒り
・不安
・煽動
・恐怖
1. 知恵を求め続ける
2. 礼節・良識を守る