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はてなキーワード:戸田城聖とは

2025-10-20

創価学会はなぜそんなにカルト扱いされてるのと思ったら、フランスから名指しでカルト扱い受けてるのね。

創価学会現在平和文化教育」を掲げる団体として知られているのは事実ですが、その主張が一貫していたわけではなく、歴史的に段階的な変化をたどっています

初期の過激な側面(1930年代1940年代

創価学会1930年教育者・津田三男(後に創価教育学会と改称)によって設立され、当初は教育改革を目的とした団体でした。

しかし、1937年日蓮正宗信徒団体として位置づけられ、宗教活動が中心となりました。この時期、津田軍国主義的な日本政府批判的な立場を取り、特に1943年に「治安維持法違反」や「天皇への不敬」の罪で逮捕されました。

彼の主張は、当時の国家神道や他の仏教宗派に対する強い対抗意識を含んでおり、折伏(他宗を批判し自宗へ改宗を迫る方法)を通じて過激布教活動を行っていました。

津田と2代目会長戸田城聖は、戦時中弾圧特に1943年逮捕)で組織が一時解散状態に陥りましたが、戦後1945年戸田が釈放され、活動を再開しました。

この時期も、戸田は他宗派への批判や強引な勧誘を続けたとされ、特に戦後復興期の混乱の中で急速に信者数を増やしました。例えば、1950年代には「折伏大行進」と呼ばれる大規模な布教キャンペーンが展開され、時に暴力的対立も報告されています

平和主義への転換(1950年代後半~1960年代

3代目会長池田大作1951年戸田秘書として入会し、1960年会長就任して以降、創価学会方向性が大きく変わりました。

戸田1957年に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器廃絶を訴えたことが転換点とされています池田はこれを引き継ぎ、1964年公明党を結成する際、平和主義を党是として掲げました。

この転換は、戦後日本民主化冷戦下での平和運動の高まり適応した結果と考えられます。また、池田国際的対話文化交流を重視し、1970年代以降は核軍縮国連との連携を主張するようになりました。

ただし、この平和主義は一部で「戦略的イメージ戦略」と見なされ、初期の過激イメージ払拭するためのものだったとの批判もあります

現代平和主義

現在創価学会平和を中核に据えた活動を展開し、2023年池田大作名誉会長死去(11月15日)後もその遺産が強調されています

2025年時点でも、公明党は連立与党として平和憲法の維持や福祉政策を推進しており、創価学会の会員数は約800万人(2020年推定)を維持していますしかし、初期の過激布教方法が完全に払拭されたわけではなく、一部の地域では依然として強引な勧誘問題視されるケースも報告されています

池田大作の登場と役割

池田大作1928年1月2日2023年11月15日)について、その出自創価学会での役割を詳しく見ていきます

池田東京大田区で生まれ、貧しい家庭に育ちました。第二次世界大戦中の空襲で家を失い、戦後は黒澤映画撮影所で働きながら生活を支えていました。

1947年、19歳の時に友人に誘われ、創価学会法話会に参加。そこで2代目会長戸田城聖出会い、熱心な信者となりました。戸田池田を「宿命弟子」と呼び、1951年秘書として側近に抜擢しました。

池田教育を受けたわけではなく、独学で知識を蓄え、戸田指導の下で組織運営布教活動に才能を発揮しました。彼の出自不明確とされるのは、公式な経歴が限定的で、戦後の混乱期に組織に身を投じた背景が強調されるためです。

会長就任と影響力の拡大

1960年、32歳で3代目会長就任戸田の死去を受けて組織を再編し、会員数を飛躍的に増やしました(1950年代の約5万人から1970年代には数百万人に成長)。彼は国際的視野を持ち、1974年に初の海外訪問アメリカ)を皮切りに、192カ国で活動を展開しました。

池田は著書や講演を通じて「師弟関係」を強調し、自分日蓮の再来と位置づける発言もあったため、カルト的との批判を招きました。特に1990年代フランス議会1995年に発表した「カルトリスト」に創価学会が含まれたことが国際的議論を呼びました。

池田1990年会長職を退き名誉会長就任しましたが、2000年代以降は健康上の理由で公の場にほとんど姿を現さず、2023年11月に95歳で亡くなりました。

死後、息子の池田博正が教育法人創価学園」の理事長として活動を続けていますが、宗教団体指導は現会長原田稔2023年就任)が担っています

彼の影響は、教育機関(創価大学、SUAなど)や文化団体民音協会)の設立に現れており、2025年現在もその思想創価学会の基盤となっています

創価学会平和主義は、初期の過激布教から戦略的な転換を経て確立されたもので、池田大作指導がその転機となりました。彼の出自が謎めいている印象は、公式記録が限定的で、伝説的な人物像が強調されてきたためかもしれません。政治的には、公明党を通じて日本与党政治に深く関与しつつも、宗教団体としての過激な側面が完全には消えず、賛否両論を呼んでいます

Permalink |記事への反応(2) | 13:28

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日蓮宗クソつええ!自民党をぶっ潰そうぜ!

創価学会顕正会立正佼成会などの議論を呼ぶ仏教団体日蓮宗起源を持ちます

これらの団体は、13世紀日本僧侶である日蓮(1222–1282)が創始した日蓮仏教にそのルーツをたどることができます日蓮は、法華経を唯一の正法と主張し、他の宗派対立しながら独自の教えを広めました。この教えが後の分裂や派生を生み、さまざまな団体誕生する土壌となりました。

ただし、「日蓮宗」という名称現代組織化された宗派を指す場合が多く、歴史的日蓮の教えから派生したすべてのグループ現在の「日蓮宗」傘下にあるわけではありません。それぞれが独自解釈や発展を遂げてきたため、厳密には「日蓮仏教系譜」に属すると表現する方が適切かもしれません。




それぞれどういう経緯で誕生してどのように政治に関わったか

創価学会

創価学会は、1930年津田三男(後の創価教育学会の創設者)によって設立されました。

当初は教育団体として始まりましたが、後に日蓮正宗(日蓮宗の一派)の信徒団体として活動を拡大しました。

1940年代戸田城聖指導者となり、戦後の混乱期に急速に成長しました。

しかし、1991年日蓮正宗から破門され、現在独立した宗教団体として運営されています。この破門は、創価学会日蓮正宗の信仰から逸脱し、独自路線を進んだことが原因とされています

1964年公明党現在公明党)を結党し、政治に直接関与するようになりました。公明党平和主義福祉政策を掲げ、現在も連立与党として日本政治に影響を与えています

2020年時点での会員数は約800万人とされ、選挙での組織票が大きな力となっています。一方で、強引な勧誘方法折伏)と政治的影響力からカルト的」と批判されることもあり、特に1990年代池田大作名誉会長に関する議論が注目されました。

顕正会富士大石寺顕正会

顕正会は、1960年代日蓮正宗の内部で活動していた浅井甚三郎が、宗派方針に反発して分派したことからまりました。

日蓮正宗が創価学会との関係を断つと、浅井独自解釈特に邪宗排除」の主張)を展開し、1969年正式独立しました。日蓮正宗の総本山である大石寺拠点とする点で歴史的つながりがありますが、現在対立関係にあります

顕正会は直接的な政治組織を持たず、選挙への候補者擁立も行っていません。しかし、過激宗教的発言やビラ配布を通じて社会への影響力を試みており、一部で政治的圧力団体としての側面が指摘されています。会員数は明確な統計がなく小規模とされていますが、熱心な信者社会問題に介入するケースが見られます

立正佼成会

立正佼成会は、1938年庭野日敬によって創設されました。霊友会という既存宗教団体から分離し、日蓮の教えに基づく法華経信仰を軸に発展しました。戦後平和運動や他宗教との対話を重視する姿勢で知られ、創価学会顕正会とは異なる穏健な路線を歩んでいます

立正佼成会は直接政党を結成していませんが、新日本宗教団体連合会新宗連)を通じて政治に影響を与えてきました。1950年代以降、自民党民社党などの候補者を推薦し、参議院選挙組織票を動員してきました。

2017年衆議院選挙では119人の推薦候補当選するなど、間接的な政治的影響力を持っています。また、靖国神社参拝反対などの平和主義的な立場から特定政治課題で発言を行うこともあります信者数は2023年文化庁宗教年鑑」によると約180万人とされています

これらの団体は、いずれも日蓮の教えに起源を持ちながら、異なる歴史的経緯と教義解釈を経て独自の道を歩んできました。政治への関与度は創価学会が最も強く、公明党を通じて明確な影響力を持つのに対し、顕正会限定的で、立正佼成会は間接的かつ穏健なアプローチを取っています

日蓮宗派生団体が時に過激な行動や政治的介入を示してきた歴史があると言えるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 13:18

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2025-03-19

アサクリの神社仏閣破壊国会で論じられて思うこと。

3月20日の発売を予定している『アサシン クリードシャドウズ』神社の祭壇などを破壊する動画が公開された件。国会でも取り扱われました。

 

それはそうですね。宗教施設破壊する行為は野蛮で慎むべき行為です。法的にどうかはさておき。

 

ただ。ひとつわすれてはいけないことがあります。かつて日本にも祭壇の破壊組織的に行っていた組織がありました。

 

共産党

はい。それはそうですね。共産主義は「宗教アヘンだ」という教義もつ宗教なので、宗教施設公然破壊しかねない暴力的集団です。共産党人類共通の敵ですがそれはいったん置いておきましょう。

 

ここで取り上げたいのはいまの与党破壊行為公然と行っていたということです。そうです。創価学会です。

かつて創価学会は他宗の仏壇破壊する行為組織的に行っていました。これは、主に1950年代折伏大行進と呼ばれる大規模な布教活動過程で見られました。

 

謗法払い(ほうぼうばらい):

当時、創価学会日蓮正宗の教えに基づき、他の宗教やその対象を「謗法(仏教の正しい教えに背くもの)」と捉えていました。そのため、新しく入会しようとする家庭に他宗の仏壇神棚があると、それらを撤去・焼却する行為が「謗法払い」として行われたのです。これは、誤った信仰を断ち切り、正しい信仰に専念させるためだとされていました。

絶対的信仰: 第二代会長戸田城聖氏の指導のもと、日蓮正宗の教えが絶対であるという強い信仰が求められました。そのため、他の宗教的なもの排除することが、正しい信仰を守る上で重要だと考えられていた背景があります

勢力拡大の過程: 急速な勢力拡大を目指す中で、他宗から改宗を促すために、既存信仰対象否定するような強引な手法が用いられた側面も否定できません。

現在創価学会:

現在では、創価学会は他宗の仏壇破壊するような行為公式には行っていないとされています。すくなくとも組織的破壊行為はありません。しか暴力性が完全になくなったとは証明できません。今後も厳しく監視する必要があるでしょう。

卑怯なことに、過去の「謗法払い」については、創価学会内部でも様々な見解があるなどと方便を語る方がいるようです。歴史的な経緯として正当化する卑怯者も多いようです。被害者の方々にとっては、決して忘れることのできない出来事ですが、加害者創価学会にとっては忘れ去られたこととされているようです。

 

アサクリを論じるとき神社仏閣破壊は野蛮だ」などと語る創価学会信者のひとに言いたい。あなた達にはそんなことを言う資格があるのですか。全く反省してないとしか思えません。過去遡及して被害者謝罪すべきでしょう。

Permalink |記事への反応(1) | 21:53

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2023-11-19

映画人間革命』って見たことあるやついる? 

池田大作原作のやつ。

前々から気にはなってんだけど。

宗教団体がその教義を広めるために、信者の動員も期待して作る映画って言うと最近ハッピーサイエンスする人たちのやつが有名だけど、どうもそんなんとは格が違うっぽいんだよね。

1973年公開の東宝映画なんだけど

、なんと監督舛田利雄脚本橋本忍

まあ古い日本映画のことを知らなければなんのこっちゃ?だろうが、かなりな組み合わせた。

舛田利雄がどれくらい凄いかというと、かつて『トラ・トラ・トラ』というハリウッド資本真珠湾攻撃映画化する企画があって、当初、日本側の監督だった黒澤明トラブル降板したあと、共同で日本監督をやったくらいの人。(もう一人は、『仁義なき戦い』『バトルロイヤル』の深作欣二)。

橋本忍は、黒澤の『羅生門』の脚本書いて世にでた人で、その後の凄さはもうwikipediaでも見てくれ。

で、主演(創価学会第二代会長戸田城聖の役)が丹波哲郎日蓮大聖人役は仲代達矢

“今度の新作には千眼美子が出てるらしい”とか言うのとはレベルが違う。

しかwikipediaによれば

東宝映像制作を行っていることから、1作目での十界論のイメージや『続』での立正安国論天変地異描写などに特撮が用いられている。当時は映画業界斜陽化により特撮作品制作も減少していたが、東宝は本作品でその存在感を知らしめ、以後キャラクターパニックもの以外の映画CMなどでの特撮制作の受注が増加していった”

のだそうだ。

なんかこれ、純粋映画としても結構おもしろいんじゃなかろうか?

過去シナノ企画という学会系の会社からDVDも発売されたようだが、今は中古しか出回っていないようで、Amazonでは1万円くらいで出ているのだが、さすがに1万だしてまで見たいか?と聞かれると

まあそこまでではない。

が、やはり気になる。

かつてスカパー日本映画専門チャンネルで放映されたことはあるらしいので、どこかで期間限定配信とかしてくれないだろうか?

Permalink |記事への反応(0) | 01:03

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2023-05-14

新渡戸稲造牧口常三郎戸田城聖

Permalink |記事への反応(0) | 04:15

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2022-01-15

anond:20220115065059

そこで戸田城聖は「現世で儲けさせてやる」みたいなことを言ったわけで、今の創価学会だよ

Permalink |記事への反応(1) | 06:54

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2008-09-02

公明党創価学会基礎知識2008

日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。

1ページ目 【創価学会の成立と発展】

創価学会の成立と迫害

創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。

しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在日蓮正宗創価学会関係はありません)。

そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。

戦時中宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神指導者として処刑されてしまうわけです。

いずれにせよ、政治実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。

このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。

創価学会の発展

戦後民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会ナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。

戸田は敗戦後学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。

折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世折伏」を実行するよう呼び掛けます。

とほうもないように見えた計画でしたが、戸田1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。

強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本人口構造の転換に求めることができます。

農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。

そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。

学会の国政進出はじまる

こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長戸田はまず1955年統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。

これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

2ページ目 【公明党の結党と田中派への接近】

社会的地位向上を狙った国政進出?

1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。

折しも創価学会は特に左翼革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会学会員社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。

いろいろ言われているように、戸田国立戒壇、要するに僧侶日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。

公明党誕生池田会長の就任

しかし戸田学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに1964年には公明党が結成されました。そして1967年衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。

この間、会長池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。

この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さ頭角を現わすことになったのです。池田会長就任は実に32歳の時です。

そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。

こうして創価学会公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。

言論弾圧事件」と自民への接近

公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。

しかし1969年公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。

このとき活躍したのが、当時自民党幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。

自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。

さて、田中角栄は地方への「利益誘導政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。

もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派公明党学会関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。

また1972年には、竹入義勝・公明党委員長首相となった田中の依頼を受けて訪中田中訪中日中国交正常化の地ならしを行っています。

学会公明党の「政教分離

さて、「事件」でバッシングされた公明党創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙議席を半数近くまで落とします。

もちろん公明党創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。

また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。

学会共産党支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中ファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家松本清張で、彼は池田宮本顕治共産党委員長を引き合わせ、この学会共産党の「同盟」を実現させたのでした。

もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党学会なしには存在し得なかったからかもしれません。

また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。

結局、これで公明党イメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。

結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党顧問弁護士宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。

3ページ目 【自公連立への道と創価学会

公明党与党

新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。

1992 年、公明党民社党社会党議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。

また1980年代から地方議会でも公明党都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。

公明党与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄逮捕される国会議員も出てしまったといえます。

もっともこの不祥事には創価学会学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党国会勢力は1989年参院選では前回比1議席減、1990年衆院選では11議席減となっています。

公明党の連立参加と「新進党参加」

1993 年、総選挙自民党過半数割れすると、公明党は非自民・非共産連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。

その後、公明党小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員参議院議員1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。

結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。

その後、旧公明党衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在公明党誕生することになります。

公明党誕生自公連立

新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。

こうして小渕内閣(小渕首相田中派を源流)のとき、公明党自民党と本格的に連携地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上自公連立政権スタートすることになります。

そんななかで小泉政権が発足。公明党小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。

しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。

また先のページで述べた「地方:自民都心公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。

これからの創価学会公明党

微妙になりはじめた自公連立公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。

この間、創価学会会長だった池田1979年日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在会長原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌新聞などをみても明らかです。

政教分離」をした今、創価学会公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員公明党公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。

ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会壮年部長読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。

公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会公明党なしでもやっていけるが、公明党創価学会なしにはやっていけないわけですから。

さて2008年池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。

いずれにせよ現在創価学会組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。

人名について一部敬称略とさせていただきました。

参考書籍サイト

SOKAnet:創価学会公式ホームページhttp://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

Permalink |記事への反応(2) | 08:16

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2008-07-14

http://anond.hatelabo.jp/20080714141454

宗教にはまる理由に関しては幾つか研究があるんだけど、時代や職業によってかなり差異がある。

戦後すぐ

貧乏病気になった時に、「これを崇拝すれば貧乏から抜け出せる、病気も治る」と

いわれて宗教にはまる人が増えた。典型的な例が創価学会で、カッコ内は池田大作の先代・戸田城聖の説法の要約。

・80年代

超能力が出るようになる」「ハルマゲドンでも生き残れる」というような、ムーのような動機で入信する人が増えた。

オウム典型的な例。

今はこの両者が混じってるのかなあ。

Permalink |記事への反応(1) | 14:48

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