
はてなキーワード:成功体験とは
義務教育過程の学習とテレビゲームを比較した場合に、なぜ学習は面白くなく・テレビゲームは夢中になれるのかについては理由がいくつも判明しているわけじゃない?
・見た目の演出が派手で興味を引き
・時間経過による上達で長期的な達成感と繰り返される成功体験によって自己効力感(自信)を得る
みたいなことでしょ?
テレビゲームに学習を融合させる試みはファミコンのころからあったのに全然成功しないよな
成功ってのは、学習ゲームに子どもがめっちゃ夢中になって何時間も勉強してます100万本を超えるメガヒット、みたいなこと
なんでなんだろうな
知能に関する研究の本で読んだのだが
実は、学生のうちは、知能差・才能の差、「君生まれつき頭いいね」という格差は、
むしろ極小に抑えられるらしい。
より多く勉強してより多く先に進んだやつが成功するようになっているからだ。
もう全員カリキュラムは終了しており、努力差と能力差が切り離されるんやね。レベルがカンストして最終ステになるとでもいうのか。
その前者を全力で延ばそう、という発想だよな。
学生のうちに成功していることを、どれくらいプラスに見るかによる。
最終的な能力には関係しないかもしれん。でも自己肯定感や成功体験は得られるかもしれん。
DX(デジタルトランスフォーメーション)のインフルエンサーが「説教臭い」と感じられる背景には、いくつかの理由が考えられます。
DXは、企業や組織の「変革」を促すテーマであり、現状の課題を指摘し、新しい行動や考え方を推奨する内容が多くなりがちです。
そのため、「今のままではダメだ」「変わらなければ生き残れない」といった強いメッセージが多くなり、それが聞く側にとっては「説教」のように聞こえることがあります。
多くのインフルエンサーは、DXの重要性を広く伝え、知識やノウハウを共有する「啓蒙」や「教育」の役割を担っています。
専門的な内容を分かりやすく、かつ危機感を持って伝えるために、断定的な表現や指導的な口調になる傾向があります。
自身の成功事例や、変革を成し遂げた事例を紹介する際、「このようにすべきだ」「これが正解だ」という口調になりやすいです。
これは聞き手にとっては「それができない/していない自分」を責められているように感じられ、「説教」と受け取られることがあります。
DXに関する情報は非常に多く、その中で目立ち、影響力を持とうとするために、強い言葉や極端な表現、あるいは「正論」をあえて振りかざすスタイルを選ぶ人もいるかもしれません。
もちろん、これはあくまで一般的な傾向の分析であり、すべてのDXインフルエンサーがそうだというわけではありません。受け取り手の立場や、そのインフルエンサーの語り口によっても印象は大きく変わります。
「45歳を過ぎて本当に全然仕事ができなくなった。本当の本当に何も出来ん。MTGの前日とかに間に合わせの資料を必死に作ってそれでなんとか誤魔化してるだけ。あとはぼーっとしてるか頭かきむしってるだけで殆ど何もしてない。10年前の百分の1くらいのパフォーマンスしか出ない。客先がいい人で今のところ叱られてもいないけど多分その内見捨てられる。どうすりゃいいんだ」
この実体験的証言は、現代日本のミドルエイジ労働者が直面する深刻な職業能力衰退現象を如実に表している。本稿では、この現象を単純な個人的問題として捉えるのではなく、日本型雇用システムの構造的特性、組織社会学的要因、認知心理学的メカニズム、および労働経済学的背景を統合的に分析し、その本質的メカニズムを明らかにする。
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労働政策研究・研修機構(2010)は、中年期が「仕事の負荷の増大や能力の停滞と限界感等が生じる時期」であり、これらへの対応を誤ると「諦めや思考停止」、「会社への過度の依存」を生じかねないことを指摘している。この現象は、清家(2011)が論じる日本的雇用慣行の相互補完性—(1)年功賃金、(2)終身雇用、(3)企業別労働組合—が現代の経済環境変化に適応できない構造的矛盾として現れている。
特に重要なのは、年功序列と終身雇用の相互補完性である。Milgrom and Roberts(1992)の内部労働市場理論が示すように、複数の雇用慣行間の相互補完性は制度の安定性をもたらすが、同時に変化への抵抗力も生み出す。これにより、45歳前後の労働者は既存のスキルセットでの成功体験に依存し続ける一方で、急速な技術変化や職務要求の変化に適応できない状況に陥る。
パーソル総合研究所(2017)の大規模調査(n=2,300)は、「42.5歳」で出世意欲が「出世したい」から「出世したいと思わない」に逆転し、「45.5歳」でキャリアの終わりを意識する転換点を迎えることを実証的に明らかにしている。さらに同調査では、50-51歳でジョブパフォーマンスが最も落ち込み、50代前半で会社満足度が最低値を示すことが確認されている。
この現象は、Lehman(1953)が技術者を対象とした古典的研究で発見した「30歳代前半で業績がピークに達し、その後は低下していく」パターンの現代版として理解できる。ただし、同一年齢内での業績評価の分散が大きいことから、年齢自体が自動的に能力低下を引き起こすのではなく、職務関連要因(仕事の割当の複雑性と挑戦性)が業績と密接に関係していることが明らかになっている
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パーソル総合研究所(2022)は、ミドル・シニア層のパフォーマンス低下について5つのギャップを特定している:
2.期待のギャップ:期待される業務と理想とする業務に差がある
3.成果のギャップ:出している成果と求められる成果に差がある
これらのギャップは相互に影響し合い、学習性無力感(Learned Helplessness)(Seligman, 1972)の状態を引き起こす。特に重要なのは、「働く意欲がない」状態ではなく「働けない状態」に陥っているという点である。
橋本・玄田(2023)の分析によれば、50-59歳層では職業スキル(ケア・科学技術・分析)すべてについて負の方向に移転しており、60歳以降では前職より平均2-4ポイント低いスキル水準での就業を余儀なくされている。これは単なる転職時の条件悪化ではなく、蓄積されたスキルの市場価値の急速な減衰を示している。
特に、定年や家族理由、健康上の理由を含む非自発的離職において、スキル水準の低下が顕著に現れることが統計的に確認されている。これは、冒頭の証言にある「10年前の百分の1くらいのパフォーマンス」という主観的体験と一致している。
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労働政策研究・研修機構(2022)の分析では、ミドルエイジ層(35-54歳)の転職において、これまでの経験が活かせない業務や、新しいスキルが求められる環境への適応困難が主要な問題として浮上している。この適応困難は、単純なスキル不足ではなく、職業アイデンティティの再構築を伴う複雑な心理的プロセスである。
パーソル総合研究所(2023)の調査では、ミドル・シニア就業者の70.1%が「何歳になっても学び続ける必要がある時代だ」と認識している一方で、実際に学び直しを行っているのは14.4%に留まっている。この認識と実行の乖離は、「金銭的・時間的余裕のなさ」(30%超)と「学ぶ対象や学ぶ方法のわからなさ」(約20%)に起因している。
興味深いことに、学び直し層の年収は平均642万円(50-54歳)と高く、「高年収の職業についているため学んでいる」「過去の学び直しが年収を高めた」という双方向の因果関係の存在が示唆されている。
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梅崎・藤本(2021)は、日本的雇用システムが「継続的に長く務められる日本人男性だけにとって優位な制度」であったが、「女性や外国人のような本来従業員として期待される人材を逃してきた」と分析している。この分析は、同システムが特定の人口動態的特性を前提として設計されており、その前提が変化した際の適応力の欠如を示している。
厚生労働省(2013)の分析では、日本的雇用システムの課題として正規雇用と非正規雇用の二極化が指摘されている。45歳以降の労働者は、従来の正規雇用の枠組みでは価値を認められにくい一方で、非正規雇用への移行は大幅な処遇低下を伴うため、中間的な働き方の選択肢が限定されている。
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パーソル総合研究所(2017)の詳細な分析では、50-51歳でジョブパフォーマンスが最も落ち込むことが5つの指標(「任された役割を果たしている」「担当業務の責任を果たしている」「仕事でパフォーマンスを発揮している」「会社から求められる仕事の成果を出している」「仕事の評価に直接影響する活動には関与している」)で一貫して確認されている。
同研究所(2023)の推定では、学び直しを行わないミドル・シニア正社員と比較して、学び直し実施者の個人年収は平均+12万円、3年以上の継続的学び直しでは+30万円の差が生じている。この結果は、継続的な能力開発の経済的効果を定量的に示している。
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Becker(1964)の人的資本理論に基づけば、45歳以降の労働者の価値低下は、企業特殊技能(firm-specific skills)への過度の依存と一般技能(general skills)の相対的軽視の結果として理解できる。パーソル総合研究所(2024)の分析では、転機における学習度合い(「転機学習度合い」)が学歴に関係なく、個人年収や職位と正の相関を示すことが確認されている。
Argyris and Schön(1978)のダブル・ループ学習理論の観点から、ミドル・シニア層の活性化には既存の行動パターンや価値観の根本的な見直しが必要である。パーソル総合研究所(2022)が指摘するように、「管理職が気合と根性で指導しろ」とは言えず、心理学などのロジックを考慮したコミュニケーションが必要である。
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内閣府(2023)の推計によれば、2025年には65歳以上人口が総人口の30%を超える超高齢社会が到来する。この状況下で、40-60代の生産性低下は国家レベルの競争力低下に直結する。OECD(2023)の報告書でも、中高年労働者のパフォーマンス維持が先進国共通の課題として位置づけられている。
労働政策研究・研修機構(2022)は、ミドルエイジ層の能力開発について、「アップスキリング」(現在の仕事関連)と「リスキリング」(転職・キャリアチェンジ関連)の体系的な区別の重要性を指摘している。前者が71.1%、後者が47.0%という実施率の差は、既存職務への適応に偏重した能力開発の現状を示している。jil+1
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本稿の分析により、45歳前後のサラリーマンが経験する能力低下現象は、以下の多層的要因の相互作用として理解されるべきことが明らかになった:
冒頭の証言にある「間に合わせの資料で誤魔化している」「10年前の百分の1くらいのパフォーマンス」という状況は、個人の怠惰や能力不足ではなく、システム全体の機能不全の症状として位置づけられる。
効果的な対策には、Senge(1990)の学習する組織理論に基づく組織変革、人的資本理論に基づく継続的能力開発システム、そして社会保障制度を含む包括的な制度設計の同時実施が必要である。特に重要なのは、個人の自己責任論を超えた社会システム全体の再設計である。
将来の研究課題として、AI・デジタル技術の急速な発展がミドルエイジ労働者に与える影響の定量的分析、および効果的な介入プログラムの実証的評価が挙げられる。
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リターンか入金力のどちらかが相当高くないと成立しない。
例えば、毎月10万円を積み立てても、年利7%なら7年後は約1,000万円。
つまり、元本が数千万円規模か、あるいは年15〜20%の利回りを継続している計算になる。
「普通の会社員」としては、ややスピード感が現実離れしている。
「2018年にeMAXIS Slimバランス(8資産均等型)をNISAで80万円一括購入」と書かれていたけど、
当時の制度上限は、一般NISAが120万円、つみたてNISAが40万円。
小さな点だけど、こういう部分で“本当にやってる人”かどうかのリアリティが出る。
普通は半年〜1年分くらい、300〜500万円は現金で持つものだ。
「健康体だから保険料を払うより貯めた方が安心」という考え方はわかる。
ただ、会社員なら最低限の医療保険や共済くらいは入っている人が多い。
完全に「ゼロ」というのは、現実の生活感よりも“思想の主張”に寄ってしまう。
「副業や株の勉強は時間の浪費」など、断定的な言い切りが多く、
このトーンのズレが、読者を少し冷めさせる。
「普通の会社員」「副業なし」「親の援助なし」「たまたま投資で1億」
──この組み合わせが、あまりにも綺麗すぎる。
少しの失敗や焦り、迷いが描かれていた方がずっとリアルだ。
この“整いすぎた成功譚”は、SNS時代のある種のテンプレートになっている気がする。
数字そのものよりも「どんな気持ちで市場にお金を預けてきたか」に目を向けたほうがいい。
お金の話ほど、“ちょっとした違和感”が大きな説得力の差になる。
リアルを装うより、リアルに迷っている姿のほうが、ずっと信頼できる。
投資 資産形成 NISA インデックス投資 再現性 匿名ダイアリー
──
このまま、はてな匿名ダイアリーにコピペで投稿可能な構成になっています。
ご希望があれば、
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幼少期、いわゆるオタクとして育った私には、男たちの集団が常に攻撃的に映っていた。加害を厭わない彼らは、アニメや漫画に登場するような美しさとは無縁で、醜いばかりだった。
思春期になり、彼らからの好意などそもそも欲しくないというルサンチマンが私の内に芽生えるのは、今思えば当然の中二病だった。異性愛を欲しないという姿勢は、どうしようもなく男に夢見てしまう私にとって、困難であるが故に格好良く感じられた。どうにかして男からの好意を拒絶してやりたかった。(実際に好意を向けられることはほとんどなかったが。)
そんな私にとって、性的少数者というアイデンティティは、格好の盾ないし矛のように感じられた。しかも無料だ。オタ活で金のない女学生が飛びつかない理由がなかった。
しかし、無性愛者(アセクシャル)であることは私には難しすぎた。性愛的に寄る方を必要としないという気高さには、弱い私(性欲は強い)がどれだけ嘘を踏み固めたところで、手が届くとは思えなかった。
だから私は「レズビアン」になることを選んだ。そして、必要以上にその自認を痛いほどに主張した。言葉でもツイートでも。それはまるで自分自身に鞭打つようだった。「お前はレズビアンだ」と強迫しなければ、私は同性愛者ではいられなかった。
「私、レズビアンなので。」
と宣言した時に見せる男たちの曇った表情で、傷ついた私の精神が潤っていくさまを、心の裏側で確かに感じた。それは小さな復讐の成功体験だった。その時の私は、ひどく勝ち誇った顔をしていたのだろう。
20代、レズビアンとして恋愛を頑張ってみた。大して持ち合わせのない時間も金もつぎ込んだ。しかし結局、誰のことも心から好きになれなかった。パートナーができることは何度もあったが、その彼女が金銭や心理的な安心に寄与しない分かると、人でなしの心がスッと冷めていくのがわかった。
彼女との破局を正当化するために、いくつもの嘘を重ねた。その行為は、嫌いだった現実の男たちの醜い言い訳と重なった。
あれだけ認めたくなかった「レズビアンのカップルは破局率が高い」という統計に、私もいくらか貢献してしまっていた。
現在、30歳に差し掛かる私には何もない。残ったのは、「男嫌いの男体好き」という、抱えていくのには苦しすぎる醜い実態だけ。
今度はやっぱり、アセクシャルとして生きることを真剣に頑張ってみようと思う。
家電量販店現地の先着→2回行ったが、行った日に限って販売なし
いい加減嫌になってきた。バナンザしたいし、ポケモンもしたいんだが…もう早朝に家電量販店にギャンブルしに行くの嫌や……………
未だにマリカできなくて、みんなと遊べんのやが…すでに飽き気味でやめている友人もいるってのに……クゥーン…
11月以降に招待販売ゲットできたけど、遅すぎるわ…もうその時にポケモンしたくなるかな………
GhostofYoteiするわ………
転売ヤーに成功体験させたくないけど、もうここまで来ると買わざるを得ない気がする……転売ヤー対策のはずなのに結果転売ヤーから買わざるを得ないって……
多様性の受容
古い性役割が残存
働き方・生産性
対面・ハンコ文化
デジタル化の遅れ
英語教育の失敗
内向き志向
「ガラパゴス化」
なぜ出遅れたのか
同質性の心地よさ:変化を避ける文化
日本は:
労働力不足
経済停滞
なのに:
外国ルーツの日本人すら排除(黒人、白人ハーフは日本国籍でも「外国人」として扱われる<見た目によって変化する場合あり(謎、結局見た目重視社会(韓国の影響か?アイドル文化か?))>)
これは自滅的です。あなたのような人材こそ、本来日本が必要としているはずなのに。
個人的な問いとして
とくに苦手ってことはない、普段質問してることはそれなりに正しく教えてもらえる
だからこそ 答えられない=知らない とかAIがこういってた=正しいになる
要は「物による」ってのが分からないままなんだろうなということ
実際のところ明らかに間違ってる答えを返された経験はあると思うけどな
それでもAIの応答を素直に受け取ってしまう程度にはダメ成功体験を積み重ねてるんだ
ちなみにこの増田を書くにあたってGPTで10パターンくらい試したんだが、なかなかに字面で推理してる挙動だぞ
データとしては慣用句としての「無言の帰宅」のが多いだろうに 無言+帰宅 の素朴な回答をよくやってる
ChatGPT:
「無言の帰宅」という表現は、ニュースや報道で使われるとき、本人や関係者が何も説明せず、沈黙したまま帰宅した状況を指します。文脈によってニュアンスが少し異なりますが、一般的には以下のような意味合いがあります。
職場や学校などでの出来事の後に、理由や経緯を話さず帰宅すること
ここでは「無言」が心理的な沈黙や緊張、戸惑いを表すことが多い
事件や事故、社会的な出来事に関わった人物が、報道陣や周囲の質問に答えず帰宅すること
例:問題が発覚した後に、記者の問いかけに答えずに家に戻るケース
「何も言わず帰る」=状況に対する無力感や諦めを示すニュアンスで使われることもあります
もちろん当たりもある
ChatGPT:
「無言の帰宅(むごんのきたく)」は、状況によって少しニュアンスが変わりますが、一般的に次のような意味で使われます。
家庭や職場などで、何も話さずに黙って家に帰ることを指します。
例:機嫌が悪くて「無言の帰宅」をした。
戦争や事故などで亡くなった人が、棺や遺骨となって故郷に戻ることを「無言の帰宅」と表現する場合があります。
この場合、「二度と声を発することなく帰る」という強い哀悼のニュアンスを含みます。
どちらの意味で使われているかは文脈によって判断されますが、ニュースや小説などで目にする場合は、②の「亡くなって帰る」という意味合いであることが多いです。
なんか、「嫌なら断れ」をさ
「断れなかったお前が悪い」だと思ってる増田多くねえ?
そうじゃなくて、世界に向かって「誘ってくるな」なんて叫んでも無駄だし、自分を守れるのは自分しかいないんだから気張れよっていう話なんだけど
「強引に誘うな」なんてさ、多くの人はわかってんだわ、そこから漏れた少数のモンスターが空気読まずにそれでも誘ってくるわけ
それは分かってやってるやつも居るし、空気読めないやつもいる
そいつらに何言っても無駄だって言うのわかんないかな、言葉通じないんだからさ、ネットで「やめてください」なんて言ってそいつらが「そうだね」ってなるわけないじゃん
戦うしかないんだよ
例えば歌舞伎町のキャッチへの対処は「嫌です」って言って逃げるしかないんだよ(警察に訴える手もあるが)
あとは味方を作って集団で「嫌です」と言うとか
それと同じで、ワンチャン狙ってるキモオジに対抗するのは毅然とした対応しかなくない?
恩とか人間関係とか権力勾配とかさ、相手はそう言うの分かって使ってきてんだよ、そんなの戦争だろうが、ブチ切れていいとこだよ
流されるやつまじ嫌いだわ、餌を与えるな、成功体験を与えるな、トラウマを喰らわせろ、社会的に殺せ
ちゃんとしてる多数のことも考えてやれよ
https://anond.hatelabo.jp/20250923191830
例えば何だろ、俺の詳しいところで言えば「とある魔術の〜とある科学の〜」とかかな
アニメから入った人は絶賛して、原作厨は「なぜそこを変えた??」と怒り狂う
こだわりが強いとかじゃなくて、必然性がない改変ばっかりする
思い出した、あの頃のJCSTAFFは大体そうだったな、ゼロの使い魔とか、灼眼のシャナとか
こういうのは原作が90点だとすると、アニメが80点の出来で、世間的には80点評価なんだけど原作厨としては-10点みたいな評価なんだよね
とあるシリーズだと、佐天さんでめちゃくちゃ荒れたのを覚えてるわw
まあこういうのは寛容さとかこだわりとか色々混ざった結果なんだけど
スタッフが物語の構造や意味を理解してないとか、意味を変質させてしまうみたいなところで怒る人が多かった
そういうのが大体2010年代前半くらいまで続いたんだけど、2010年代後半くらいから原作リスペクトというか、意図を取り違えないように細心の注意を払うアニメ化が増えてきたと思うんだよね
パッと思いつくのだと、メイドインアビス(2017)、鬼滅の刃(2019)の頃かな(追記:J.C.STAFFで言えば、2015年あたりから原作通り増えてるイメージある、食戟のソーマ、ふらいんぐうぃっち、斉木楠雄、ジャンプだからかもしれんが)
おそらく作り手の世代が変わったか業界の認識が変わったかじゃないかと予想してるけど、動画配信サービスが流行る頃には本当に原作通りやるのが主流になった
あるいは、改変するにしても「良い改変」「良い追加シーン」という声が上がるようになってきたと思う(相変わらず怒ってる人は居るけど、直近で言えばダンダダンでさえ怒ってる人がいるくらい)
チェンソーマンについて言えば、まず原作ファンが多いので改変に対する声が大きかったのがあると思う(原作ファンが少ないと原作厨も声が小さくなる)
2000年代、2010年代とアニオタだった人からしたら、この程度の改変は誤差の範囲だと思うけど、2020年基準ではアウトなのかもしれないね、だいぶハードルが上がってる気がする
今回総集編で変えた理由はおそらく、改変よりも追加が多かったからじゃないかと思う、単純に削りやすかった
(これ、追加が多かったのはそもそも尺の問題もあったと思う、原作通りやったら尺が余るんだよね、レゼ編は映画にしたいだろうし)
ついでに言えば今回MAPPA出資なので、MAPPAの意思決定で行けたし、1期の数字が出ていなかったので原作厨の声に寄り添うのは自然な流れ
と考えると、まあ総集編はああなるよね、と言う印象
セリフの変更などが注目されてたけど、比較するととにかく原作にない追加シーンをカットした総集編だった、それで驚くほどテンポ良くなったからアニメってむずいよなって改めて思い知った
(個人的には元監督に少し同情してる。コベニのシーンと「俺達の」は同情してない。モーニングルーティーンは直後のパワ子登場を引き立てたから良かったと思う、あと総集編で2つくらい無駄に削りすぎたシーンが有って気になった)
ちなみに、海外勢は「テンポ悪くなかったよ」って言う人多いんだけど
字幕追ってるとむしろテンポ良い作品はキツイんだよね、あれ読めてんの?めっちゃ早いよね字幕
話がそれたけど
増田の言う「成功体験」はまったく違うと思う、原作厨はずっと前からアニメ化で怒っているって話
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ところで、「映画好きな作者に合わせた作風」ってズレてるよね、作者は映画好きだけどそれは脇に置いといて読者に向けて作ったのが漫画なわけじゃん?そこから映画風に寄せてどうするんだよ、作者じゃなくて客を見ろよ
「ドロヘドロと呪術廻戦のパクりみたいなチェンソーマンをドロヘドロと呪術廻戦のアニメ制作会社がやってくれるんですか!?」とか言ってたタツキがバカみたいじゃん
そりゃタツキだって「才能のある監督さん達に作られた事によってちゃんとした作品になっていると信じています」とか捻くれたデンジみたいなこと言い出すよw
映画(レゼ編)は良かった、追加シーンに違和感なかった上で「映画っぽさ」もすごく出てた
原作厨の中にも「ネガティブなこと言っても白けさせるだけだから何も言えない派」と「それでも我慢ならねえ派」が居たと思う
危機察知力が高まれば「見ない」ができるんだけどね、約ネバ二期とか瞬時に見るのやめたからね、黙って原作を読もう
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禁書と超電磁砲はそこそこ評判悪かったよ、原作スレオフ会に居たからガチ、改変もあるが表現力不足もあった
皆んな大人だったから、ダメな部分は敢えて見ないようにしてたけどね
Permalink |記事への反応(14) | 10:41
アニメチェンソーマンは普通に面白かったから叩かれてるのが謎だった。
総集編では監督の名前がスタッフから消されたらしい、オタク達は監督の名前を消したことや総集編を大絶賛してる。
アニメを3時間半に再編集したとはいえ、監督として作ったものから名前まで消させるのはいくら何でもやり過ぎでは?と思う。
「藤本先生は映画好きで、原作からも写実的、映画的要素を感じていた。だからアニメ化にあたって、そういう要素を取り入れたら原作の空気感が出て面白くなるだろう」
ファンは怒り、Change.orgでは「アニメ『チェンソーマン』を新たな監督で作り直してください」という署名活動が起こり、多くの署名が集まったらしい。
ぼっちざろっくでも脚本の発言の何に怒り狂って署名活動をしているのか謎だったが、こういう監督を引きずり下ろした成功体験があったんだな…。
何でオタクは表現が気に入らないってだけでここまで出来るんだろう。
初監督であれだけできる、間違いなく才能のある監督だろうに、オタクは酷いことをする。
Permalink |記事への反応(23) | 19:18
子供のころから、僕の心はいつも繊細すぎるあまり、小さなことで深く傷つき、簡単に折れてしまっていた。
学校では友人関係に悩み、授業中のちょっとした指摘にも胸が締め付けられるような自己嫌悪に陥り、家に帰ると涙が止まらなかった。
しかし、その「精神の脆さ」の大部分が、筋力トレーニングによって驚くほど軽くなり、自分でも信じられないほど心が安定している。
以下、長いのでよければ読んでほしい。
幼稚園のころから、泣き虫で人前で発表なんて絶対にできなかった。
小学校では運動会のリレーでバトンを落としただけで、一日中ふさぎ込んだ。
中学生になると、テストの結果が思わしくないと、夜まで布団の中でうなされ、翌朝はまるで寝ていないかのように顔がむくんでいた。
高校生になっても「自分はダメな人間だ」という思考から抜け出せず、文化祭の準備でもイライラして友人と衝突し、自己嫌悪に陥っていた。
大学に進んでからは、自己評価の低さゆえに講義にあまり出席せず、暗い寮の部屋で無気力と羞恥心にさいなまれる毎日。
就職しても、些細なミスで上司に叱られると胸が締め付けられ、仕事が手につかず休職寸前まで追い込まれた。
そんなある時、ある専門記事で「筋トレはセロトニンやドーパミンの分泌を促し、幸福感と集中力を高める」と知った。
思い返せば、運動をすると一瞬スッキリする経験はあったものの、すぐに疲れてしまって運動の習慣化は出来ていなかった。
だから、じっくりと負荷をかけて無理のないように続けていく方針で筋トレに取り組むことにした。
最初の3か月は、週2回のスクワットとプッシュアップを中心とした軽い負荷から始めた。1回8〜10回×2セット程度で無理のない範囲に抑え、フォームの習得と運動習慣の定着を目指した。
この段階では、運動の爽快感によって落ち込みの谷が浅くなるのを感じる程度だったが、自己否定のループから抜け出すきっかけになった。
4か月目に入ると、スクワットの回数を12回×3セットに増やし、ダンベルローイングやプランクを取り入れた。フォームが安定するごとにプレートを少しずつ増やし、自分の身体の変化を実感できるようにした。
この時期には「自分には挑戦し続けられる」という感覚が芽生えた。
朝の目覚めが軽く、昨日の失敗をいつまでも引きずらなくなった。
仕事中、雑音や些細な会話に心を乱されず、自分のやるべきことに集中できる。
プレゼン前も、かつては胸がどきどき震えたが、「伝えたいこと」の構成に思考を巡らせられるようになった。
7か月目以降は、ベンチプレスやデッドリフトなどの複合動作を週3回のトレーニングに組み込み、1回10〜12回×3セットを目指した。
最初は扱えなかった重量が、月を追うごとに10%ずつ増え、そのたびに「もっと自分を高められる」という確信が胸を占めた。
トレーニング前後には適度なストレッチと瞑想を取り入れ、セッション中の「今ここ」に没入する集中力を養った。
筋トレ1回1回が自己制御とストレス耐性を鍛える「精神のレッスン」となり、仕事や人間関係でのプレッシャーにも動じなくなった。
以前は飲み会の雑談に気疲れしていたが、今はリラックスして会話を楽しめる。
休日に趣味の映画を観ても、昔のように心がざわつかず、作品の世界に深く没入できる。
小さな出来事に感情を振り回されない自分に驚きながらも、飾らない日常を心から喜んでいる。
不安の軽減:運動後のエンドルフィンとドーパミン分泌が、日常の小さな不安を和らげるバッファーとなった。
集中力の持続:重いバーベルに全集中することで「今ここ」に没入する感覚が養われ、仕事中の心の乱れが劇的に減少。
自己肯定感の向上:重量アップの成功体験が積み重なり、「自分には挑戦し続けられる」という強い信念が根付いた。
ストレス耐性の強化:ウェイトの重さに耐える身体感覚が、精神的ストレスにも耐えられる基盤を作り上げた。
もちろん、この方法が万人に効くとは限らない。
だが、子供のころから抱えてきた「精神の脆さ」が、筋力トレーニングというシンプルなアプローチで驚くほど軽くなる可能性があることを、同じように悩む人にはぜひ知ってほしい。
筋トレは単なる肉体改造ではなく、心の安定をもたらす最強のパートナーになり得るのだと実感している。
この方法は一例であり、トレーニング強度や頻度は個人差を踏まえて調整することが大切だ。
初心者はフォームの確認と段階的な負荷増加を心掛け、怪我を防ぐこと。
持病や既存のケガがある場合は、専門家の指導を受けることをおすすめする。
子供のころから抱えてきた「精神の脆さ」が、筋力トレーニングという継続的かつ段階的なチャレンジを通じて、1年間で驚くほど軽くなる可能性があることを、同じように悩む人にはぜひ知ってほしい。