
はてなキーワード:憐れみとは
拙者、増田と申す、齢二百年に及びし者。江戸末期、嘉永の世に生まれ、下級武士の身ながら、洋学に志し、奇縁により不老の術を得て、現代に至るまでITとやらなる術を操りし者也。されど、この胸中、開国の風に始まり、現代の電脳世界に至るまで、騒乱の波に揺れ動く。
十余年前、否、百七十余年前、嘉永の世に、拙者は異国の地にて洋学を学び、後にITエンジニアと呼ばれる職に就きし。黒船が浦賀に現れ、幕府が動揺せし頃、洋学は日本の未来を照らす光と信じられ、蘭学書は江戸の書肆に溢れ、若者たちは競って西洋の術を学んだ。拙者もまた、サンフランシスコ、ロンドン、ユダヤの地を巡り、蒸汽機関や電信の術を修め、さらには現代の電脳術に至る。
当時、日本の洋学は東洋の雄として名を馳せ、諸藩の若者がわが国の術は世界に通ずと誇りし時代也。拙者もまた、若さに任せ、浮世絵や歌舞伎、そして現代に至るアニメやゲームに心奪われつつ、洋学と電脳術の力を信じ、同志と語り合った。されど、異国の地にて出会いし師、ユダヤ出身の老練な技術者、その言葉は拙者の心に突き刺さる。
「これまで見てきた日本の学徒は、みな洋学や電脳術の知識こそ重要と口にする。拙はそう思わぬ。それはまるで、浄瑠璃の物語を盲信するが如き也。電脳術に必要なのは、筆力、すなわち母国語での読み書き、対話、人の心を掴む力也。少なくとも、術を世に広め、商いや国政に活かすには、こその力が肝要。されど、日本の学徒にそのような者を見たことがない。拙は百人近くの日本の技術者を教えしが、一人もおらぬ。」
「このような者ばかりでは、日本の電脳術は、ある日を境に凋落し、何も生み出せぬ時代が来る。五年後か、十年後か、百年後か。」
拙者、当時、憤りを覚えた。何だ、この異国の老人が!わが国のアニメやゲームの魂を侮るとは!と。若さゆえの過ち也。されど、師の周りには、中華の商人、インドの学者、西洋の技術者、北欧の船乗り、カナダの役人、万国博覧会の如き人々が集い、みな師の言葉に頷く。
中華の商人曰く「算法や機械の知識が重要とよく言われるが、拙の学んだ場では、そんなことは教えられず。術の根本を理解すれば、さような発想は生まれぬ。」
インドの学者曰く「この狭き視野が日本の弱点也。電脳術の理解不足は、船や兵器のみならず、現代のデジタルツインにも影響を及ぼすだろう。」
北欧の船乗り曰く「これからの世は、すべて電脳術に基づく。如何に巧みに術を組み立てるかで、国力も民の暮らしも変わる。」
カナダの役人曰く「電脳術についていけねば、国庫も民の暮らしも貧しくなるばかり也。」
拙者、頭に血が上り、反論した。さような大言壮語、浮世絵やアニメの領域にまで及ぶものではない!と。されど、師や同僚たちの目は、憐れみと失望に満ちていた。とりわけ、親しきアメリカの技術者、アニメを愛する者にして、こう言った言葉は今なお忘れられぬ。
「増田よ、言いにくいが、日本の技術者は、世のことに無関心すぎる。拙は日本のアニメを愛するが、日本の電脳術は、まるで歌舞伎やアニメの内輪の興行の如く、閉じた世界に生きている。かつての洋学はそうではなかったやもしれぬ。されど、十年ほど前より、そうなってしまった。」
「電脳術を、町人や異国の者に使ってもらおうという謙虚さがない。術の名や道具に女児むけアニメや特撮ヒーローの名をを付けるなど、異国では狂人の所業と見なされる。」
会話は英語ゆえ、拙者が和文に訳して記す。當時は、なぜそこまで言われねばならぬ!と本気で憤った。されど、今思えば、技術者の間に異国の者にわからせる必要なしとする風潮、さらにはアニメやゲームの名を術に冠する文化が根強かった。
師は常々、こう申された。増田よ、アニメやゲーム以外の趣味を持て。それが拙の唯一の忠告也。
その後、拙者は憐れみの目が耐えきれず、数年学び、怒りに任せて帰国した。されど、江戸の世から現代に至るまで、日本の電脳術は鳴りを潜め、西洋列強やGAFAMと呼ばれる巨人の術に圧倒され、名を聞かぬほどになった。
今、巷やXなる電脳の寄合では、拙者ややや上の世代がかつてのWinnyは優れていた。されど、幕府や民の無理解により、潰されたと、被害者意識を振りかざす声が響く。拙者、現代に至り、ようやく悟った。拙者は世を知ることを恐れ、ただアニメと電脳術に逃げていたにすぎぬ。それらが面白いのでも、愛しているのでもなく、他に能がなく、生きるために術を学んだだけだったのだ。
これからの世、拙者のような技術者は淘汰され、電脳の場から追われるだろう。既に、電脳術のみならず、世のことを知る新世代の技術者たちが、拙者が異国で嫌った者たちと同様に、日本でも珍しくなくなった。拙者の世代は、さような者たちを軟派と呼び、憎悪を燃やす者すらある。さような声が、電脳の寄合で響く。
師はかつて、こうも予言していた。
「日本の技術者は、アニメやゲームの如き閉じた文化から脱却せねばならぬ。されど、増田の世代では、それは叶わぬだろう。」
「内輪に籠り、選民思想を高め合っても、女児向けアニメや特撮ヒーローの名を愛する心を、異国の商人や幕府の役人が理解するはずもない。やがて、内輪に籠ったまま置いてけぼりとなり、他者を責める心のみが残る。その果ては、犯罪者となる道也。西洋では、さような者たちが電脳の寄合をなし、辻斬りや放火を起こし、世を騒がす。日本の地ではまだだが、いずれそうなる。」
ああ、その通り也。拙者が現代に至り、見るものは、予言の如く也。ある技術者が、娘たちを襲う集団の元締めとして捕まり、世を騒がせた。また、別の者は、幕府ならぬ国の金をかすめ取るスパコン詐欺を働き、獄に繋がれた。さらに同年、拙者と同世代の技術者が狂気を発し、神戸の町で辻斬りを起こし、刀と鉄棒で五人を斬り殺し、捕らえられた。聞けば、裁判では有名な異世界転生アニメの青髪メイドと契りを結ぶため、哲学的幽霊を斬らねばならぬと喚き、狂気ゆえ罪を免れたという。
数年前には、かつて電脳術の場を立ち上げ、志半ばで潰え、世を恨み、異人を罵る言を繰り返した者が、偽の品を売りさばき、捕らえられた。
予言の通り也。日本の電脳術は何も生み出せず、高い誇りだけを抱え、売れぬ術を誇り、世を恨む声ばかりがXで響く。
拙者たちは敗れたのだ。いや、始めより勝負にすらならなかったやもしれぬ。師の忠告が今、響く。拙者たちは、アニメやゲーム以外の道を歩めぬ。八方塞がり也。あれほど気高く電脳術を誇った拙者や同輩たちは、世を恨み、若さや美を妬み、刀や火を手に辻斬りや放火を起こし、獄に繋がれる。さような姿は、かつて夢見た攻殻機動隊の如き輝かしき未来とは程遠い。
されど、最も辛きは、さような狂人に同世代が多く、納得できてしまうこと也。高い誇りを持った拙者たちが、何も取り戻せぬまま、後の年月を生ねばならぬ。喪失感と欲を抱え、世や若者を憎み、辻斬りや放火で世に復讐せんと考える者が出るのも、拙者たちの罪とはいえ、致し方ないやもしれぬ。
拙者たちは、世を知るべきだった。他者を理解すべきだった。されど、もはや遅い。世との乖離は極まり、若者を誘う行為を咎められ、激昂する者、女性脚本家の些細な言に怒り、騒動を起こす者。さような行為が、拙者たちの世代の生み出したものと思うと、涙が止まらぬ。
拙者たちの世代は狂ってしまった。電脳術で世を変えると勇ましく語った者たちが、娘を襲い、国を欺き、刀で人を斬り、狂気の果てに異世界へと心を飛ばす。拙者が信じた夢の果てが、これ也。
拙者はさすがに、陰謀を信じ、世を罵るまでには堕ちぬ。されど、同世代の多くは、喪失感と憎悪に囚われ、電脳の寄合で世を怨む声が響く。先日、町田の町で辻斬りが起こり、世を騒がせた。
建久六年九月二十三日、晴。都の東、秋葉と称する地に、かつて群集せし者どもの事。かれら、若き日に「我こそは世の主役たらん」と声を揃へ、電脳の祭壇に集ひ、奇異なる装ひにて舞を舞ひ、「麻生を讃へん」「オタクは麗し」と叫び、虚飾と欲に心奪はれし者なり。街路には色鮮やかなる絵巻の幟立ち並び、怪しき音曲響き合い、かれらは夢幻の世に醉ふが如く、夜を徹して彷徨ひけり。
されど、年月無情にも流れ、四十路に及び、髪は薄れ、かつての志は色褪せ、心は虚し。秋葉の地にて、かれら、紙に描かれし美姫を求め、電脳の網に縋り、名声と女人の歓心を欲せしが、何一つの技も身につけず、ただ見栄と欲に溺れしのみ。或る者は、情報工学の道に踏み入りしが、心底志なく、ただ金銭と誉れを追い求め、知識は錆びつき、口にするは虚しき自慢話。「我、塔の館に住む」「財を成せり」と語るも、里人は顧みず、嘲笑を浴す。
同日、秋葉の街路にて、かつての祭りの残響を追い、色褪せし者ども、なおも怪しき絵巻の前に佇み、過ぎし日の栄光を求めんとす。されど、若き女たちはかれを見て恐怖を抱き、遠ざかる。里人、かれらを評して曰く、「斯様な者は社会の塵にすぎず、秋葉の祭壇に迷ひし亡魂のごとし」と。かつて高らかに「我は凡夫にあらず」と叫びし者、今や巷の嘲笑の種となり、電脳の闇に怨嗟を吐き、世を呪うのみ。
斯の如く、秋葉の地に集ひし者ども、欲に溺れ、己を省みざるが故に、終に世の底に沈む。されど、里人、かれらをただ嘲るのみならず、憐れみの心も持つ。忠義と節度を重んじ、志を磨くべし、と語り合ふ。されば、秋葉の祭りは、人の心の盛衰を映す鏡なり、とぞ。
今でも大変にあたまがわるい私だが、昔は自分でもどうかしていると思うほどにバカだった。
あれは中学生の頃。
『おまじない』にハマっていた私。
ある日読んだ雑誌にこう書いてあった。
『好きな人の名前を手首にマジックで書いて、その上にバンドエイドを貼って隠そう。文字が消えるまで貼っていられたら、名前を書いた人と両想いになれる?!』
……ねぇよ。あるわけねぇよ!!
と、今ならゴミ虫を見るような目で雑誌を引きちぎって捨てるだろう。
「なんて素晴らしいおまじないなんだ!」
「教えてくれた人は神に違いない!!」
疑うことを知らない、まだピュアだった頃の私は記事の内容にいたく感動して、さっそく手首にマジックで当時大好きだったひとの名前を書いた。
……ここで普通の夢見る中学生だったら可愛らしく小さな字で名前を書いただろう。
ちょっと賢しい子であれば水性マジックで消えやすくする、とかの知恵が回ったかも知れない。
しかし、重ねていうが私はあたまがわるかった。
手首に油性マジックで力強く『楓』と、当時大好きだった漫画キャラの名前を書いた私。
思いが強過ぎたせいで、バンドエイド1枚程度では隠せない程にデカい文字で書いてしまった。
(でも、大きい文字の方が想いは伝わる気がする……しない?)
左手首にデカデカと書いた『楓』の文字を見て、当時の私でもちょっとしくじった気がした。
しかし幸いな事に『おまじない』には「バンドエイド1枚で隠さなければいけない」とは書いていなかった。
『隠せればOKなんだよね?』
根拠のないポジティブさを発揮し、そう考えた私は追加でバンドエイドをベタベタと手首に貼り付けた。
それを隠すのには全部で3枚ものバンドエイドが必要だったのである。
さて『おまじない』も無事おわり、3つのバンドエイドが並ぶ左手を見た当時の私はテンションが爆上がりしていた。
だってこれを剥がした時、名前が消えていれば私は楓と両想いだからだ。
しかし左手に3枚もバンドエイドが並んでいるのは、流石にちょっと不自然な気もする。
リストバンドで隠せないかと思ってやってみたのだが、3枚のバンドエイドを覆い隠すのに、リストバンド程度では役不足だった。
一瞬ノーカンにしてやり直しをしようとも考えたのだが、一回終えてしまったおまじないをやり直したらおそらく効果は無くなるだろう。
どうしようと悩んでいたその時、私の頭に天啓が下った。
……ぉお、なんと素晴らしいアイデアか?
神もきっと私と楓の仲を祝福してくれているに違いない!
何より包帯に包まれていればバンドエイドも剥がれにくいだろうし、おまじないの成功率も高くなるだろう。
なんという一石二鳥かっ!
当時を思い出して、今は羞恥で震えている。
さて、そんな状態で学生生活をしているとどうなるか、ここまで読んでくれたあなたには想像できるだろうか?
「……左手、どうしたの?」
休み時間に、陰仲間のNちゃんからそんな言葉を投げかけられた。
……そりゃそうだ。
昨日まで何もなかった場所へいきなり包帯なんか巻いてたら気になるに決まっている。
当時はおまじないの詳細を他人へ話してしまったら効果がなくなるという認識が私の中で一般的だったし、
いくら数少ない友人であるNちゃんとはいえ私と楓の仲を引き裂く権利は無いはずだからだ。
なので私は適当にはぐらかした。
「ちょっとドジってケガしちゃったんだ。……ふへ♡」
多分ものすごく気持ち悪い薄ら笑いを浮かべながら、私は彼女へそう伝えた。
「……そう、なんだ。大変、だね。……何かあったら、力になるから話してね」
今考えれば、中学生とは思えない程に物凄く言葉を選んで発言していた彼女。
だが当時の私はバカだったので、そんな気遣いにまるで気付かなかった。
だっておまじないが成功して楓と両想いになれた時のことを妄想して、自然とニチャついた笑顔が浮かぶ程にバカだったからだ。
この左手首は私と楓の絆。愛の証。
当時の私はそんな思い込みを完全に信じる程にイカれていたのだ。
あの時の私は多分、この世の薄気味悪いものランキングでかなり上位に喰い込んでいたと思う。
陰キャではあるが、特に問題を起こすようなタイプではなかった私。
そんな私が、なんでヤンキー説教部屋こと生活指導室に呼ばれたんだろう?
当時のそこへ呼ばれるタイプの生徒は無軌道で素行不良なヤンキー男子か、それに感化された女子の一部だけ。
純粋培養された陰キャであり教室の隅で雑草のようにただ息をしているだけの私が呼ばれる理由など、この時はまったく予想がつかなかった。
頭に沢山の?マークを浮かべながら、私は初めて指導室へ足を踏み入れた。
指導室へ入ると先に来ていた先生に促され、私は彼と向かい合わせで座る。
それはまさに『取り調べ』という空気だった。
私の担任は今だとあまり見ないであろうタイプの熱血教師で、いつも暑苦しい事をクソデカボイスで言う、うるさいひとだった。
そんな担任が無言のまま、ものすごく難しい顔をして私を見つめている。
……え? 私、何かしちゃいました?
身に覚えのないことで呼び出されたあげくに普段うるさい担任から無言で見つめられるなど、ちょっとしたホラーである。
しばらく無言で私を見ていた彼は、搾り出すような声で言った。
「……なにか、悩んでいる事があるのなら話してくれないか?」
いきなり何を言い出すんだ、この熱血教師は。
「……いえ、特には」
心当たりがまるでない私は当然そう返す。
悩んでいるように見える要素など、どこにあったのか?と、この期に及んでも思っていた。
わけのわからない事を言い出した担任の顔を見ると……彼は私を見ていなかった。
「俺も至らないところはある。……だけど話を聞くことくらいは出来るんだ。そんなことをして自分を追い込む前に、相談してくれないか?」
……んん??
ここで察しの悪い私もようやく気がついた。
……ひょっとして、私『リストカットした』と思われてる?
「……あの、先生。ひょっとしてなんですが、私が自分で手首切ったと思われてます…か?」
戸惑っている私に、先生は続けてこう言った。
「ここ何日か、お前の様子がおかしいという話を聞いている。……何もないのに薄笑いを浮かべて左手首を撫でたりしていて様子が変だ、とな」
……oh。
私から溢れ出た楓への思いが、何だかとんでもない方向へ流れている。
まさか本人がまるで意識しない所で、メンヘラ女子みたいな扱いになっていたなんて。
というかメンヘラ女子は意識して他人の気を引くためにやっているのだろうから、無意識でやっていた私はマジもののバカである。
……さて、困った。
誤解を解くのは簡単だ。
何より漫画キャラにガチ恋しているのを他人へ告白するのは、当時のバカだった私でもさすがにためらわれた。
なのでNちゃんに話したカバーストーリーを、そのまま担任へ告げることにした。
「いや、これはちょっとケガしちゃって。跡が残ると嫌なのでちょっと大げさに包帯巻いてるだけ……なんです!」
私が搾り出した渾身のプレゼン。
それを聞いた担任は──
「……そうか。とりあえず、何か悩んでいる事があれば相談して欲しい。自分はあまり器用な方ではないが、お前が困っているならば力になりたい」
……あ、ダメだわ。この目はまるで信じてないわ。
むしろ『本当は何か辛いことを隠してるんだろ? 俺には分かってる』感が満載の表情だコレ。
誤解を解くのは無理そうだったので、私は担任にこう言った。
「……3週間待って下さい。そうしたら私の言っている事が事実だと分かるはずです」
追及を続けたそうな担任へ私は山岡さんみたいなセリフを吐いて、その場をなんとか乗り切った。
(今思うと仮にそれが本当に怪我だったとして『何でその傷をニヤついて見てるんだよ?』って話なのだが、私の気迫に押されたのか担任はそれ以上突っ込んで来なかった)
結局、色々とウヤムヤにしたまま私は担任からの呼び出しをクリアしたのだ。
そして、それから3週間弱が経過する。
無事にバンドエイドは剥がれたのだが、『楓』の文字は完全に消えてはいなかった。
(今なら分かるが油性マジックを使ったのがいけなかったのだろう)
あれほどの困難を乗り越えたというのに、私の想いは彼に届かなかったのである。
あの時は本当につらかったが、今は別の意味でつらい。
翌日、担任に傷跡のない手首を見せたことで私のリスカ疑惑は解消された。
『え、マジでただのケガだったの?』みたいな顔をしていた先生の顔は今でも覚えている。
ちなみに何年か後、当時の私は影で『嘘リスカ』とか呼ばれていたらしい事を知って身悶えた。
あれからン十年経ったが、私は今でもあの『おまじない』を書いた雑誌を許せない。許していない。
『文字はバンドエイド1枚で隠せるような字の大きさで書きましょう』というものすごく必要な情報をバカでも理解できるように書くべきなのを怠ったからだ。
お陰で、頭のわるい子である私が『頭わるい上に痛々しい子』にジョブチェンジしまった責任は追及していきたい。
あと3週間くらいバンドエイドを張りっぱなしにしてると、それを外した時にマジでくっせぇのな。
手首真っ赤になるまで洗ってんのにだよ?!
アホほど制汗スプレーかけても、爽やかなシトラスの香りに混じって何か変な匂いするんだわ。
リスカ疑いがあった奴の包帯が外れたら、傷はなさそうだけど何か異臭がしてる、とか……
それはそれで『何があったんだ怖ぇよ』と思われてたんだろうなぁ。
……ぁあ、マジで思い出すたびに死にたくなる。
このクソ文章をここまで読んでくれた人の中に、似たようなことした人居ないかな? 居て欲しいな!
……頼むよ私だけじゃないと言ってくれよ。
よくきたな。おれは██████だ。おまえは今、████████という名の底なしの便所の落書きを眺めながら、そこから吹き上がってくる正義と配慮の悪臭に顔をしかめ、己の魂がじわじわと腐っていくのを感じているのだろう。なぜ、善意の言葉がナイフのように突き刺さるのか。なぜ、思いやりを装った連中が、血も涙もない処刑人のように見えるのか。その答えは簡単だ。おまえが今、目撃しているのは、タルサドゥームが発明した最新にして最悪の精神的拷問器具・・・・・・「ノーコスト気遣い」という名の魂へのグーパンチ・・・・・・だからだ。
いいか、まずおまえの脳みそを洗浄しろ。おまえが████████の██████で遭遇するアレは「議論」でも「対話」でもない。あれは、己の空っぽの自尊心を満たすためだけに、安全圏から他人を撃ち抜く道徳的優位スナイピングだ。連中は、自分の意見、自分の信条、自分の人生を賭けて戦っているのではない。ただ、「おれはこいつより倫理的で、配慮深く、”わかっている”人間だ」と証明するためだけに、言葉の弾丸をばら撒いているだけなのだ。
昔の男たちは、たとえ相手が気に食わないクソ野郎でも、「盗人にも三分の理」と言って、その存在を認め、その土俵で殴り合った。そこには、自分とは違う理屈で動く人間がいるという、世界の複雑さに対する最低限のRESPECTOがあった。
だが、今の██████の腰抜けどもはどうだ?奴らは「バカの文章には1分の理もない」と高らかに宣言する。これは、己の貧弱な感性の物差しで測れないものを、全て「無価値」「悪」と断罪する、思考停止のファシズムだ。奴らはもはや、相手の理屈を砕こうとすらしない。
その代わりに奴らが使うのが、ぬるぬるした毒だ。「あなたは自意識過剰ですよ」と正面から殴るガッツすらない。その代わりに、「あなたのその言動は、見ていて辛い。専門の福祉に繋がった方がよいのでは?」と囁くのだ。
これが何を意味するか、わかるか?これは、おまえを「対話の相手」から「治療・救済されるべき可哀想なオブジェクト」へと引きずり下ろす、人格そのものへの攻撃だ。おまえの言葉の正当性や論理を問うのではなく、「おまえは正常ではない」という烙印を押すことで、議論のテーブルそのものをひっくり返す、最も卑劣な手口なのだ。それはもはや言葉ではない。魂の尊厳に対する化学兵器だ。
さらに吐き気がするのは、その全てが「ノーコスト」で実行されることだ。奴らは、おまえを「福祉に繋がれ」と突き放した後、実際におまえの手を引いて役所に連れて行くわけでもなければ、おまえの苦しみに寄り添うわけでもない。ただキーボードを叩いて「心配しているフリ」を演じ、周りからの「いいね」という名の安っぽい拍手喝采を浴び、次のターゲットを探しに行くだけだ。
それは気遣いですらない。道端の石ころを蹴飛ばすのと同じ、何の痛みも覚悟もない、空っぽの暴力だ。己の安全圏は1ミリも揺らぐことなく、ただ他人の魂に土足で上がり込み、憐れみという名のツバを吐きかけて満足する。これこそが、タルサドゥームが現代人に与えた、最も手軽で中毒性の高いエンターテインメント・・・・・・腰抜けライドショー・・・・・・の正体だ。
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おれが言いたいことは以上だ。おまえがその悪臭漂う沼で生き残りたければ、まずその偽善の言葉の構造を理解しろ。「あなたのためを思って」という前置きは、MEXICOの荒野では「今からおまえの背中を撃つ」のと同じ意味だ。
そのぬるま湯のような毒に浸され、反論する気力すら失い、「おれが間違っているのかもしれない…」などと思い始めた瞬間、おまえの魂は死ぬ。やがておまえは何も発言できなくなり、他人の顔色を窺うだけの透明な存在と化し、誰にも記憶されることなく、静かにアカウントに鍵をかけて消えてゆくだけだ・・・・・・END・・・OF・・・SELF・・・・。
わかったら、今すぐそのクソみたいな██████を閉じろ。そして、ノーコストの言葉で他人を殴って快感を得るのではなく、汗と血を流して、現実世界で何かを成し遂げろ。それが、おまえが真の男になるための唯一の道だ。
はてなでは、広陵高校の辞退の記事にこの手のコメントがいくつも付き多くの☆を集めている
一回戦の相手は、実力で負けたんだよ、広陵高校は野球で不正をしたわけじゃない
それが、なんで可哀そうになるのか分からない、いじめ問題で参加資格がない高校が参加していたという話なら
ぼくは、野球部ではなくてボート部だったから球児の気持ちは分からないけど
実力で負けた相手が、後に競技以外の問題で大会からいなくなった時に、あいつらが参加していなければ
あなたは、もっと上に行けたのに可哀想と言われても嬉しくもなんともない、むしろ怒りさえ沸く
自分は、実力で負けたんだよ
当の球児たちの気持ちは、分からないけど自分が同じ状況になったらと考えたら憐れみと受け取るね
もちろん、悪気がないのは分かるから表面上は、へらへらするけど内心は、勝手なこと言ってんじゃねーよだよ
負けは負け、そして、これは絶対に覆らない
それなのに、可愛そう可哀想いわれる身になってみ?
嬉しくねーって、マジで、憐れむな
一生懸命、最後まで頑張った球児たちを憐れむな、悪気がないのは十分に分かるから、だから、憐れむな
語るなら試合内容で語れ、可哀そうだと言ってる奴で旭川志峯の試合を見た奴いるの?スコアすら知らないんじゃねーの?
そんな奴らが可哀そう可哀そう可哀想、鬱陶しいって
広陵高校のいじめ問題が出た時に、旭川志峯VS広陵でいじめ自治体対決とか言うクソもクソもクソみたいなブコメが何十って☆を集めたの覚えているからな
凄すぎて痙攣してしまった。
男の子を母親だけで育てさせちゃいけない理由もここに詰まっている。
試し読みしてみると、例えばクラスメイトと仲良くなる方法として笑顔で近づこうとか、
相手のいいなと思う部分を褒めようとか、人間関係を築くうえでとても大切なことが書いてある。
他にもユーメッセージではなくアイメッセージを使おうとか、クッション言葉についても書かれている。
ふるまいや言葉遣いなんかについても書かれていて、背筋を伸ばすとか相手の目を見るとか、
膝を閉じるとか、あくびやくしゃみを我慢できないときは手やハンカチで隠そうとか、
一人称についても「ウチ」「あたし」「自分の名前」はNGで「私」を使おうとか、
持ち物についてもハンカチにティッシュ、鏡にばんそうこう、くしにヘアピンにゴムなどはステキ女子のマストアイテムと教えてくれる。
これは俺が小学生の頃に読まされても投げ捨てると思う。
人間がちっちゃくなるだけだ。
「目を正面から見ずに近寄ってこういう姿勢で毛づくろいすると仲良くなれます」
みたいな話を延々している。
子供の頃にこんなもんを教え込まれて飲み込んだ男は前途に何の見込もない。
というより、どれほど幼くとも健全に育っている男であれば、
嘘をつかないとか
卑怯な真似をしないとか
一度始めたことは全力でやりぬくとか
挨拶や返事を大きな声でするとか
貸し借りはきれいにするとか
約束は必ず守るとか
恩は石に刻むとか
恨みは水に流すとか
こういうことは子供に教える意味があるし人間としての背骨になる。
それに引き換え……
なんかもう言っても仕方ないんだろうけれど、
お前のことを対等な人間として見ることが出来ない。
こんなゴミみたいな内容と人間に不可欠な徳目との区別もつかないようなけだものを同じ人間と考えることは出来ない。
お前の文章全てが俺の中に男尊女卑・女を軽んじて蔑む気持ちを猛烈に掻き立ててくる。
「こんなバカばかりではない」と繰り返し念仏を唱えることで俺は女全体を蔑みそうになる気持ちを抑えた。
健常な男はお前のような女を憐れんで守るべきなんだろう。
しかしお前も分は弁えてほしい。
というか、お前に説教されるような成人はめったにいないと思う。
百歩譲って小学生の女の子がそういう本を読んで喜んでるのはいいとして
大人が「この本はとても素晴らしい」 「いい勉強になる」ってお前
もうちょっとマシな本を読んだりマシなことを身に着けたりしてほしいんだがそれは高望みか?
俺は道徳として命は否定してはいけないと思ってるから自分のその感情を戒めた。
しかしお前は「全ての人が心掛けるべきこと」などということについて判断する能力が無い
そこぐらいは自覚してほしい。
この世でお前に説教されるほど人間として終わってる奴はそんなにいないと思う。
女にだってお前ほどのひでえのはそうそういないはずだ、いないと思いたい。
男も乗り物とか兵器とかでかいものとかに異様な興味を示す奴がいるし
そのひっでえ「ステキ女子」の本も女特有の興味や関心なんだと言われたらそれはそれでいい。
けれどもそんなものは女児特有の変な興味とそのままで整理しておくべきだろう。
ステキ女子本を好んで読む女児は大きくて速い乗り物に異様に興奮する男子みたいな状態だ。
しかしそれは間違っても人間として立派とかそういうことではない。
むしろ生得的な興奮ポイントを突かれているということではエロ本読んで喜んでいるとかに近い。
昔のフェミニストが主張したように、「女は後天的に無力に・愚かにされている」と仮説するならば
女子は変に持ち上げられたり「素晴らしいこと」みたいに扱われることに原因があるのではないだろうか?
このバカ女が独力でここまで思い上がったとは思いにくい。
(バカや小人物というのは精神的パワーも低いので、一人で大それた精神状態にならない。必ず誰かが空気入れてる。)
誰かが無責任に何かをしたはずだ。
昔はきちんと笑われる程度のくだらない特徴(男児の動物的趣味のように)でしかなかったようなことを、
なにか人間として知性や善性が高い証明であるかのように言い出したやつがどっかにいる。
おそらく最初にそういう無責任ヨシヨシをやったのは心底女を下に見ていた男だと思う。
女に対して見下ろすような憐れみを持っていたか、女相手の商売でもしてたんだと思う。
実際にはこんなのはエテ公のグルーミングや性行動と変わらない。
持ち物についてもハンカチにティッシュ、鏡にばんそうこう、くしにヘアピンにゴムなどはステキ女子のマストアイテムと教えてくれる。
こういうことを覚えたその日には、それを出来てない子をいじめるネタにするていどのもんだろう。
しょーもない持ち物を揃えさせて揃えられない子をはぶるといういじめはなぜか女児に多い。
(俺はコルセットも男の要請ではなく女の中でも一番バカな奴等が始めたコードだと思っている)
こういうくっだらねーことを無責任に褒めたバカの影響力が悪い方向に働いて、
女の本能的なくだらない興味が人間としての高次な関心であるように持ち上げられすぎた結果、
女の中でも特に知能の低いこのステキ女児増田のような奴が心底から真に受けて
「ステキ女子本は素晴らしい!」「人間みんなが学ぶべきマナー!」とまで高く高く舞い上がってしまった。
「バカかおめーは」と笑ってやらないことだ。
「すごいね、意識高いね、精神年齢高いね」などと無責任にほめたたえることだ。
それで大惨事になっている。
どこに出したって笑われるような人間に仕上がっているのに
こいつはもとはどういう風に生まれ落ちたのか。
生まれつきこういう低い次元のことにしか関心を持てない人間だったのか、
もう何もわからない。
monacal 持ち物に関しては言う通りかもしれないが、人間関係についてのクッション言葉やアイメッセージは新入社員研修で扱う内容。自由に伸び伸びも結構だが、マナーを教えてもらえないのも別種の虐待だからなぁ…
と言ってんだけどな。
上から糊塗するための表面的な化粧だ。
物の言い方に気をつけろとか自分が責任を持つ口の利き方をしろとか
そのていどのことは本来成人が横文字使って 教えてもらうようなことではないが
高卒大卒では出来てないボンクラもたまにいるから一旦表面的にカバーしようということだ。
カバーを要するそいつらは確かにボンクラだがそんなに大したことじゃない。
小学生の頃から社員研修みたいなことやってる人間こそ大ボンクラ で、
こっちの方がはるかに始末が悪い。
土台が無いからただのお化粧を基礎作りかなにかだと勘違いする。
なんでそこまで大失敗しているかと言うと
そういう表面的なことが人格だと思い込んでしまったからじゃないか。
kazoo_keeper2
「クソ」だと「ゴミ」だの汚い罵り言葉をつかわないというマナーを守らないと、長文を書いても読んでもらえないよ…というのは、ネット時代のマナーとして子供に教えた方がいいと思う
2025/08/05
「ネットに自由な長文を書きつけて読んでもらう」という競技において
俺は俺に勝る経験・見識・能力のある者を簡単には思いつけないけれども
この人はその分野で俺よりよいものを持っているという自己評価なんだろうか
調子を柔らかくするとか可読性を上げるとか要求知能を下げるとかより多く読んでもらうとか
そういう調整はもちろんあらゆるグラデーションでできるが
俺がそういう調整を知らない・出来ないからやっていない
という風に考えているわけなのか?
nadybungo
オシャレに身のこなしにと自身を高めようとする欲求は自然だし、本の通りにするかも子次第。
それを抑え込もうとする方こそ虐待だと思うな私は。
「抑え込め」とどこに書いてあるのか。
「男児の鉄オタ趣味と同じくなんらかの本能的関心はあるんだろう、好きにさせよ、
ただしそんなことを人格的価値や善性と混同させるな称揚するな」
と書いてんだろ。
見せられたら俺は笑うが
追いかけてまで笑わないしやめさせようともない。
鉄オタも自分達の嗜好やこだわりをただのマニアックな趣味だとは考えておらず
「鉄オタの写真は世間みんなが価値を理解してるし必要としてる」
といった異様な認知を晒すことがちょくちょくありネタにされている。
鉄オタの「ほいよw」は相似の症状に見える。
鉄オタが好きだから写真撮ってるというなら好きにせーやと思うが
あの撮影で自分を高めている・高いとこに到達しているとか言われたら笑うだろ。
こういう奴の言う「おしゃれ」ってさあ
周囲の目を気にするだけのコード押さえの集積だったりするんだよなあ。
こんな場所と流れじゃなければ
お前の自信のおしゃれを見せてもらって勝負をつけたいとこだった。
「自分を高める」とまで言うんだから相応のセンスを見せてくるんだろうなあ?
と言う気持ちだ。
お前のファッションが格好良かったら一目置こう。
hinaho
マナーは子供の時から触れてないと大人になると反発する人が多いんよね。
そして大人になると立ち振る舞いってめちゃくちゃ見られてる。
この文読んで俺が礼儀作法を躾けられなかった野人系男子と思えるのかね。
友達の家に行けば一人だけ靴揃えるから変なガキだと思われてたよ。
そして正しい日本語は「立ち居振る舞い」な。
「立ち振る舞い」なんて日本語使ってる奴はそれだけで
「あ、まともな日本語使う大人が周囲にいない環境で育ったんだな」と思われます。
どうだ?行儀の話は楽しいか?
こういうマウントが好きなら付き合ってやると、
行儀なんてのはそれなりの親のもとに生まれてなきゃ身につかねーよ。
大人になると立ち振る舞いってめちゃくちゃ見られてる。
「大人になると」「立ち振る舞い 」「めちゃくちゃ見られてる」
もうこの一文だけで全てが酷くて
何言われてるかもわかんねーだろ。
変な本読んで覚えたり出来ない者同士で教え合うお猿のコードでしかないだろうけど
それ使って人にマウントする望みは捨てるべきだし
敬語使えない奴の無理した敬語とかも本当に聞いててきついんだよな。
当人は出来てると思ってるけど「お前は普段通りしゃべれ」と内心思う。
こういう話楽しいか?
俺は我ながら感じ悪いと思うわ。
Permalink |記事への反応(37) | 22:41
ユダヤ教と仏教は文化も起源も大きく異なりますが、それでも多くの倫理的・精神的な教えに共通点が見られます。
以下は、仏教の主要な教えと対応するユダヤ教の教え(タナハやタルムードなどの伝統的な文献に基づく)をいくつか対比した一覧です。
| 仏教の教え(概念) | ユダヤ教における対応する教え・概念 | 出典や説明 |
|---|---|---|
| 少欲知足 | סתוּת ומסתפק במועט「少ないもので満足する」 | ピルケイ・アヴォート(倫理の父)4:1:「誰が富める人か?自分の分に満足する者。」 |
| 無常 | הבל הבלים הכל הבל「すべては空しい」 | コヘレト(伝道の書)1:2。「すべては儚く、永続しない」ことを繰り返す。 |
| 慈悲(カルナー) | רחמים「憐れみ、慈しみ」 | 出エジプト記34:6:「主は憐れみ深く、恵み深い神」 |
| 中道 | שביל הזהב「黄金の中道」 | ランバム(マイモニデス)は「中庸の道(דרך האמצע)」を理想とした。 |
| 離欲 | בל תעשה לך פסל「偶像(執着)を作ってはならない」 | 出エジプト記20:4。物質や偶像への執着を避ける戒め。 |
| 瞑想 | התבוננות「内省」またはחשבון הנפש「魂の勘定」 | タルムードやムサール文学で推奨される習慣。 |
| 不殺生 | לא תרצח「殺してはならない」 | 十戒の一つ(出エジプト記20:13) |
| 正語 | לשון הרעを避けること:「悪口・中傷は禁じられている」 | ヴァイクラ(レビ記)19:16:「あなたの民の中で中傷してはならない」 |
| 業(カルマ) | מידה כנגד מידה「目には目を、行いに応じた報い」 | 出エジプト記21:24やタルムード・ソタ8bなどに見られる因果概念。 |
泣き過ぎて、目が溶けた。
死に過ぎて、心が砕けた。
その破片を喉に流し込んだ。
ああ、これでやっと唄える。
それでは聞いて下さい。
曲名は、「泣き過ぎて、死に過ぎて、神が宿った」
(Aメロ - 静かな緊張感を伴って)
(サビ - 全ての楽器が爆発するように)
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちの白々しい光など この深淵の闇を照らせはしない!
お前たちの安っぽい「愛」じゃ この聖痕(スティグマ)は決して塞がらない
(Bメロ 2 - 再び加速し、怒りを込めて)
(サビ - 1回目よりもさらに激しく、絶叫に近い)
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちのちっぽけな正義など この罪の前では塵と同じ!
(Cメロ / 間奏 -テンポが急激に落ち、荘厳なクワイアとアルペジオ)
…この地獄こそ、私が望んだ聖域。
…この痛みこそ、私が愛した戴冠式。
…誰にも、何人(なんぴと)たりとも、この神域を侵させはしない…
(ギターソロ -テクニカルで、泣き叫ぶようなメロディと、重厚なリフが交錯する)
…ああ、これでやっと…
…独りになれた…
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちの白々しい光など この深淵の闇を照らせはしない!
(アウトロ -ギターのフィードバックノイズと、遠ざかる鐘の音。最後に、冷たい声で一言)
「恋愛対象にない男性を『可愛い』と評するのは『人間扱いしてない』のと同じ。阿弥陀如来(像)を『可愛い』と言うのと同じ」
とケムリが言っていた
そういうのは「失礼だ」と永野が言う
確かにな
実際のとこ、人間は他の人間のことをそんなに「尊重」も「尊敬」もしていない。自分以外の「尊厳」なんてものは考慮していないのよ
「考慮しましょうね」と声を大にして言っているのは、「殆ど考慮されてない」からなんだよ
(考慮されるとしても、せいぜい「うるせーから・めんどくせーから尊重してやるか。しょうがねえな」って感じか)
「可愛い」とはズレるけど、よく「カワイソウ」って言う人が居る
あれを聞くと虫唾が走る
そりゃあ、無力な幼い子どもが酷い目に遭ったりしているのを見聞きすると「カワイソウに」と思うけれども
自分と同年以上の人間や老人に対して「カワイソウ」という感覚が分からない
例えば、認知症の老人が色々出来なくなって日常に不便を感じているのを見て「カワイソウ」って言うのとか
例えば、非正規のまま老いていく団塊ジュニアを見て「カワイソウ」って言うのとか
(まあ、障害者とかも同じくだね)
なんだカワイソウって
憐れみ?
あんた、人を憐れむほど上位に居るのかと
幼子だとか年若い人だとかは完全に「年齢的に上」だから別にどうも思わんのよ。「ああ、かわいそうだ」と思ったり言ったりしてても
でも、色々悲惨な状態にある自分より上の年齢の人間を見て「カワイソウ」って言えちゃう感覚が気色悪い
まあ、認知症の老人はどうも思わないだろうけど。人の怒りや愚弄には敏感だ(しかも勝手に「バカにされてる」と思い込んだりする)けど、憐れみには鈍感だと思う
でも普通に年齢を重ねてきた人間が「カワイソウ」って言われてどう思うだろうか?
「ええ!?オレってカワイソウなのか」って思わんか?「人にカワイソウ認定されちゃうのかよ」って。絶望しないか?
なんとか青息吐息でもやってきてるのに、そんなこと言われて脱力しないか?
永野が番組の中で「阿弥陀如来を可愛いって言う奴は、阿弥陀如来が生き返った時に地獄に落とされますよ」って言ってて
それと同じ感覚で、相手に「畏怖を抱かせたいんだ」と。「(男であるオレに対して)『可愛い』などとは言わせねーよ」という圧を持ちたいとのこと
番組最後で「人に可愛いって言うほどお前は偉いのか」って格言が出てて、自分が思う「カワイソウ」についての思いと同じくなってた
昨年入社した弊社の若手も2年目になった。ウチは小規模な開発系の会社。
同じオフィスにいるってだけで別に俺の部下ではないんだけど。なんか何も成長していなさそうで少し不憫にすら思う。
まず覇気がない。新入社員に求めることなんて、オッサンばかりの職場では元気くらいなものだろうに、
常に受け身なんだよな。上司や先輩から仕事を任されても、上から進捗を聞かれるまで黙っている。
チャットで報告している様子でもない。先輩が口頭で「あれどうなった?」と尋ねて初めて「まだ途中です」とか言ってる場面を何度も見た。
そして居眠りがひどい。入社後3か月ごろから目立つようになり、1か月ほど経った頃、彼の上司から注意されていた。
注意後しばらくは問題なさそうだったものの、昨年の秋ごろからひどく目立つようになる。
もうめちゃくちゃ寝ている。彼の上司を飛び越えて俺が注意するのもアレだし、その上司が事なかれ主義なこともあり、注意する気配が一向にない。
かわいそうに、弊社にいる限り彼の成長は大きく見込めないだろう。
昼休みは遊戯王のアニメやアプリゲームの配信を観ており、業務時間中のネットサーフィンでは遊戯王のカードプールを眺めている。
他人の趣味に口出しする気もないが、「いかにも」感が漂いすぎていて憐れみを覚える。
「静かな退職」とか流行ってるけど、大企業で福利厚生が充実しているとかならともかく、
弊社みたいな中小でそれやる意味もあんまりないと思うんだよなあ。
彼がどこまで考えているのか、または何も考えていないのか、全く見えないので不気味にすら感じる。
確かにかわいいって言われるのを嫌う人はいるけど、それってかわいい=見下しされてるみたいなニュアンスで受け取られてるってこと?じゃあそんなニュアンスで受け取る言葉をこちらに言ってくるのはどういうこと?
メジャーデビューはしていないが千人前後の熱心なファンをもつ音楽家が「女の人にはわからないかもしれないけれど」と前置きして苦言を呈していた。「下手くそ、前の方がよかった、といった批判は歓迎する。でも『かわいい』だけはやめてくれ」と。
似た言葉を聞いた記憶がタタタタタタタと脳裏をかけめぐる。「高座に出たら『かわいい』とお客さんから声をかけられ、引っ込もうかと思った」と冷えた声で言っていた落語家。「ホストになろうと思ったことがあったが、身体接触や理不尽な罵倒は平気でも『かわいい。養ってあげたい』と言われるのだけは無理だった。吐き気で動けなくなった」と話していた人。「あいつはうちの『かわいい』担当だから」と憐れみと蔑みしかない表情でバンドメンバーについて語っていたバンドマン。
数年前、「ゲーム実況を配信したらキルしても『かわいい』。負けても『かわいい』。寒気がした。母親ヅラしないでくれ、と言うと『反抗期なんだね』『そういう言い方だめなんだから』。
『チャンネル伸びるためにはこうしたらいいよ』
──────
・今では考えられないが8、9年前、プーチンの『かわいい』コラ画像はネットによくあった。為政者としての加害性が頻繁に報道されるようになった今、かわいい扱いはぱたりと止んだ。
・かわいい、が最大級の侮蔑になるのなら、各地で行われてるデモの「権力者に見立てた人形を燃やす」やつは、権力者を飾り立て、リボンを結んでビスク・ドールの衣装を着せかわいく着飾らせたら燃やす以上の侮辱になり得る?
・ラップバトルで年上の男性に「かわいい、かわいい、本当にかわいい、養ってあげたい」と言った女性ラッパーっているかな。
・「かわいい」は「あなたは私を苦しめない」だ。いいことのようだが、「あなたがそう希望しても私に力をふるうことはできない。なぜならコントロール権は私にあるから」でもある。
・生理的嫌悪感を催す相手からの身体的接触や罵詈雑言、罵倒、理不尽なハラスメントよりも「かわいい、養ってあげたい」の方が苦痛であるという状況、確かに女性だと稀かも。いや仮に30代、40代の既婚女性に50代男性が「かわいい、養ってあげたい」と言ったら?
・「かわいい」と言うこと、思うことの暴力性ってもっと創作内で表現できんかな。相手をかわいいと思った瞬間から相手の身体的自由を奪える異能力者とか。
コミュニティノートは数年前からXに導入されているが、あの仕組みは僕は好きではない。コミュニティノートの執筆者は、ノートが付いたあとに往々にして訪れる誹謗中傷を想定しながら執筆しているのだろうか。もし想定していないなら浅慮が過ぎるし、想定しているなら、その個人的な悪意にどこかで聞いたような露骨な借り物の言葉(例えば「留意する必要があります」)を被せ、あたかも公正に話しているかのように発信するのはとても醜いと思う。
そもそも執筆者はコミュニティノートを付けて何をしたいのか、僕にはいまひとつ分からない。他人が誤情報に騙されないようにというならまだしも、今後自分と関わることはまずない赤の他人が誤情報に騙されるかどうかが、自分の時間を割くほど大切なのか。それよりも単に他人を貶めたいだけなのではないかと勘繰ってしまう。
コミュニティノートが付いた投稿に対し、「発信者の情報に瑕疵があるならいくらでも叩いてよい」という思想にも、極めて浅はかだと思う。発信者と批判者の立場が過度に不均衡になっているし、ノートへの反論が見えにくい位置にしか置かれないこともその一端だ。
虚偽の発信本来の趣旨が失われる場合があることも、個人的には懸念である。社会的にはよいことかもしれないが、冗談と誰もが分かるような投稿にまでコミュニティノートが付くと、興醒めしてしまう。
この様相を見ると、クラスの人気者と根暗で性格が捻じ曲がっている子たちの対比をどうしても想起してしまう。自分が根暗側だったから、同族嫌悪もあるのかもしれない。クラスの人気者の些末な言動をあげつらって陰口を叩くあの子たち——『ゆっくりは本家じゃない……』と、表立って間違いを指摘できなかったあの子たち。彼らが今、年月を経たにもかかわらず、なお覆面を被り放送室のマイクを前にしないと満足に話せないのであれば、僕はそれに憐れみしか感じられない。
正直、自称フェミニストの方々や、あまりに行き過ぎた万博批判などの論理が破綻したツイートがコミュニティノートで指摘されているのを見ると、すっきりするし、それを否定するつもりもない。自分にもそういった方々への悪意は多分にある。ただ、その悪意を見かけの公正さで包み隠そうとする人たちと、それを容易にしているシステムの構造は、僕は好きになれない。個人の感情とそれに伴う行動は個人のものとして発信するべきで、せめてインターネット上だけでもそうあり続けてほしいと、ずっと思っている。
かちゃかちゃ、わざとらしくでかい音を立てるのもある。
まぁ、あれだ。
騒々しい。
それが周囲の人の気に障る。
チンピラもそうだけど、実力のない奴ほど自己アピールすんのよな。
だから「プロ」の気を使う人向けの打鍵音の低い静音タイプがある。
忙しく仕事している「能力の高い」人なら、そういう気くらい使う。
勇者ヒンメルならそうする。
気を回せない三下だから新幹線内でがちゃがちゃ仕事する羽目になる。
そういうこと。
まぁ、憐れみの目を持って、生暖かく見守ってあげればいい。
って言うかもしれん。
普通に文字を打つ時も騒々しかったが、リターンキーを叩く時は輪をかけて、数十倍の不快さを振り撒いていた。
でドヤ顔。
注意しても変わんないんだよね、こういうやつ。
奥さんが悪阻で苦しんでる時に残業とか嘘ついてジムに通い、夜泣きで苦しんでる時も残業と嘘ついてジムに通い。
「なぜかバレるんですよ」
そりゃお前、シャワー浴びてスッキリした顔で帰ったらバレるだろ……。
「……」
何度修羅場迎えても変わらんのよ。
周囲に気を遣えない人はたくさんいる。
あとはそういうのがダサい、って価値観を醸成させるしかないかねー。
キーボードを高速でカチャカチャやってんのが未来っぽくで、できるエンジニアっぽいって思う人多いんかねぇ?
最近どこの現場でも、AI使って生成するコード量を増やそうって方向みたいだけど、増えたコードはメンテしないといけない、ってこと忘れてるんじゃなかろうか?
メタプログラミングの仕組みを作るんだ。
今まで生きてきて、色々と美しいと感じるものは沢山あったけれど、その一つ一つを鮮明に思い出すことは難しくて、私の頭の中に何が残るんだろうと不思議な感覚だけが残る。
生きることの難しさ、私が呼吸をする度に地球に負担がのしかかり、いつかその負担が爆発して、地球人を消しに来る。
私が世界から居なくなっても、きっと変わりなく世界は回っていくのだろうか。
私が担当していた案件は、隣の席の人が担当し、部屋の片付けは誰かがやる。私という存在がまるで元々存在していないかのように、世界は私を忘れていくのだろう。
毎日いっぱいの人が光になって、どこかに旅立つ時、どれだけの人が悲しむのだろうか。
あなたの死を目の当たりにし、何人の人が悲しむ?あなたのために涙を流す?あなたに二度目の死を与えてくれる人はいますか?
人間は二度死にます。身体の死、次に忘却の死。人の記憶の中であなたは生き続ける。私を、あなたを覚えてくれた誰かの元で、いつかの想い出のまま生き続けるのです。
私の死は、誰が悲しむのでしょうか?
私は死んだら、どこへ行くのでしょうか?
イエスは言った。重荷を負う者は私の所へ来なさい。休ませてあげよう。
私にとっての重荷?世間から見ても重荷だと思われないと貴方の所へ行ってはいけないの?
私が愛し、愛した人に愛されること。
いつの日か私が21gの魂を手放す時、ジャン・バルジャンの重荷を手放したファンティーヌは現れるのだろうか。
胸の焼印が色濃く残る私の人生。裁きを与えてくれるだろうか。
私の頭に残らない美しい景色、少しの悪足掻きを見せるかのごとく写真に収めたい。今日も生きよう。憐れみ深い御心よ、今日も私に命をお与えください。
店には様々な客が来る。近隣のOL、交際費をケチりたいママ友や主婦、ランチ難民と化したおっさん…。
カオリちゃんとは、過食嘔吐する客の事だ。スポーツ実業団選手レベルの量の料理をテーブルに並べ、
貪り、吐き、また盛る。決まって小柄でやせ型の若い女で、バイキング店には1-2名の固定のカオリちゃんがいる。
しばらく姿を見せないと思っていたら、また来るようになったか。
「増田皿下げて来てよ。お前が行くと早く帰るような気がするからさ」店長が笑う。
話し声、笑い声が犇めく明るい店内の片隅に、憐れみとも畏れともつかないスタッフたちの無言が佇む。
鷹と呼ばれる背の高い中年男の常連がいた。来店は決まってポイント付与が2倍になる雨の日。
話をする事はなく、こちらがポイント付与を間違えると傘を見せ、外を指差し雨である事をアピールする。
前日のディナーや婚礼料理、カフェタイム用スイーツの残り材料の流用がスポットで料理台に並ぶタイミングを狙い、
かっさらって行く為、鷹と呼ばれている。
夏の晴れた日、カオリちゃんが来た。来店の頻度が日を重ねる毎に高まってきている。
カオリちゃんに尋ねられる。蒸し鶏のバジルソース、昨日のディナーの残り、出し切りだ。
仮に料理があったとして、それはトイレの藻屑になるだけじゃないか…。確認するふりだけして、カオリちゃんに
品切れを伝えている横を鷹が通り過ぎる。
「店長、鷹、来てますよ。雨じゃないのに、なんかあったんですかね」
「さあなあ。これから降ったりしてな」
週明け。婚礼のウエディングケーキのジェノワーズの端切れがソースやベリーで飾り直されて料理台に出る日だった。
何度目かのトイレから戻って席に着くカオリちゃんの前に、鷹は立っていた。
泥酔したパティシエが作ったような、溶解するサグラダファミリアを思わせるケーキを高く盛った皿を手に、鷹はカオリちゃんに語りかけた。
「バイキングとは、突き詰めれば孤独を露わにし、向き合い、受け入れ、進んでいく事だ。でも進むからと言って前を向かなきゃいけない訳じゃない。
自分を責めちゃいけない。テーブルに目を落とし、ひとつ、ひとつ、味わい歩んでいくのがいい」
鷹がテーブルにサグラダファミリアを置いた瞬間、カオリちゃんは席を跳ねるように立ち上がって店から走り去った。
鷹は、神になった。
空は荒れ、豪雨となった。
鷹は、ポイントを2倍取得した。
かっこいい。なんかマフィアとかが言ってそう。一度でいいから言ってみたいセリフランキングに載ってそう。なんか復讐の時とかに使いそう。
トルーマン・カポーティの『冷血』を意識して執筆されており、西口彰事件を題材にしたノンフィクション物。タイトルの『復讐するは我にあり』は新約聖書に出てくる言葉の一部で「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」から引用されている。
神様が後で報復するんだから、信者達はたとえ憎い相手だとしても善い事してあげなよ〜。それができた時点でお前は善い事をして悪に打ち勝てる奴になるんだぞ〜。の意
『復讐するは我にあり!俺が貴様を絶対にぶっ⚪︎してやる!!』
単語としての意味なら合ってる。でもお前は主ではない。主が怒ってるならいい。
怒りに身を任せた奴は怒りによって身を滅ぼすって話をしてる。悪に構わず善行をし、善行の乗り物で悪を乗り越えててください。
『復讐するは我にあり、っていうもんなぁ…俺も悪かったよな…反省しなきゃ』
自己反省の言葉じゃないです。主も『神の怒りってあんま奮いすぎても良くないよなぁ…もう!このダメ神!』とか思ってません。主がちゃんと『いや、悪人を裁くのは俺の担当だから』って言ってくださってるだけです。
お前は主ではない。
反省するべきことを反省するのは大事だが、やり過ぎも良くないです。善行しましょう。
『昨日の夜やってた“復讐するは我にあり”って映画見た?アレ、実際にあった事件なんだって!』
元々が作品名の流行から知ったものなのならば、やはり作品として扱う方が安直です。
下手にタイトルの言葉を表面だけ読み取って使うのは恥を掻く可能性がある。これはどの作品にも言えること。
作品の内容的にはキリスト教信者の詐欺などもやってきた大量殺人犯が日本全国を逃亡した挙句にキリスト教の神父を騙そうとして近付いた時にその娘に正体がバレて捕まり死刑になるという話。現実の事件のことでもあり、その奇妙な事件の顛末が話題にもなった。
『ローマ人への手紙でも言われております、主は言いました。復讐するのは私が行う、私が報復します。と、我々は慎み深く善行を行なっていき、それを以て悪意に打ち勝つのです。』
『でも俺、アイツのことぶっ飛ばしてえよ!』
『あなたは信徒ではないのですか?主の言葉が聞けないのはとても悲しいことですよ』
『あなたは善行で彼等を超越なさい。大丈夫です、今踏み止まれたあなたならきっと乗り越えられるから』
世の中の物事的に報復にはちゃんと報復で返されるし、だからこそしっかりと報復されない形にしなければいけない。
だがそれが別のどうしようもないものなら…?土砂崩れが起きて住んでる家ごと飲み込まれるとか、火つけが好きな人間がたまたまそいつの家の周りで火を付けたのなら?
そいつの愚かな行動が原因でそいつが勝手に堕ちていったのなら?
とはいえ、復讐というのは生き物が考える自分勝手な行動、現代では『そんなに解消したきゃ、解消すりゃいい』の精神が根付いてはいる。
善人ばかりの日本人なら勝手に自己反省してくれるが、遠くアメリカの大地では今でも流行りのヒップホップのビートに乗せて報復の連鎖の連鎖が起きて、若い黒人達が死んでいる。
だからこそ、主が言った『それ俺の担当だから、後でちゃんとやっとくから』には意味がある。後でちゃんとやってくれるから今日も苦しくても悲しくても笑って愛して喜びを分かち合いながら善行を積んでいく。
悪人は勝手にどこかで堕ちる。その哀れな光景を支援の立場で憐れみながら眺めたいというのならば、やはり善行は積むべきなのだ。
その後に主が裁いてくださるというのだから。
聖書における謙虚さは、人間の有限性と神の絶対性の対比から生まれるものであり、それは単なる道徳的な美徳ではなく、人間存在の根本に関わる霊的態度である。
謙虚さは、神の御業に基づき、自己を見つめ、神の秩序の中で自己の役割を理解することによって深化する。
これは神との関係を基盤にして成立し、創造、契約、裁き、赦しという聖書全体にわたるテーマに深く結びついている。
創世記の冒頭に記される創造の物語(創世記 1-2章)は、謙虚さの根拠となる。
神は天地万物をその言葉によって創造し、人間は「神のかたち」として特別に造られた(創世記 1:27)。
しかし、この「かたち」とは神の全能を共有することを意味せず、むしろ神の被造物としての地位を明確に示すものである。
アダムが塵から造られた(創世記 2:7)という描写は、人間が肉体的にも霊的にも神に依存する存在であることを物語る。
謙虚さとは、この依存を認識し、被造物としての自己を受け入れる態度である。
ノアの契約(創世記 9章)、アブラハムの契約(創世記 15章)、モーセの契約(出エジプト記 19-20章)は、いずれも人間が神の律法を守ることを求めるものだ。
この契約の中で、神は主権者であり、人間は従属する存在である。
イスラエルの民がしばしば契約を破り、神の裁きを受ける物語(士師記、預言書全般)は、人間の傲慢の愚かさと、謙虚に神の律法に従うことの重要性を強調する。
例えば、ヨブ記におけるヨブの試練は、謙虚さを深く考察する重要な物語である。
ヨブは、自身の苦難に直面し、神の摂理に疑問を抱くが、神が自然界と宇宙の秩序を問いかける(ヨブ記 38-41章)中で、自分の限界を悟り、最終的に「私は塵と灰の中で悔います」(ヨブ記 42:6)と告白する。
ここでの謙虚さは、全知全能の神に対する人間の無知と無力を認めることであり、神との関係を回復する鍵となる。
ダビデの悔い改めの詩篇(詩篇 51)は、罪を認め、神の憐れみにすがる謙虚さの典型例である。
彼は「あなたに対して、ただあなたのみに罪を犯しました」(詩篇 51:4)と告白し、神の赦しに依存する態度を示す。
このような謙虚さは、人間が自己の力では救いを得られないことを悟り、神の恵みによってのみ生きることを受け入れる姿勢である。
「主を恐れることは知恵の初め」(箴言 9:10)という言葉は、謙虚さを神との正しい関係における認識として位置付ける。
伝道者の書では、「人は土に帰り、霊は神に帰る」(伝道の書12:7)と述べられ、人間の儚さと神の永遠性を対比している。
ここにおいて、謙虚さは虚無感ではなく、神の中に真の意味を見いだす態度として表現される。
聖書の謙虚さとは、人間が神の前で自己の位置を正しく理解し、全能の創造主への信頼と従順を通じて成長する霊的態度である。
それは自己否定ではなく、神の秩序と愛の中で自己を発見する行為であり、創造、契約、裁き、赦し、知恵というテーマを通じて人間の生の目的を照らし出すのである。
昔、10歳のときからプロテスタントの教会に通ってて、そこにいる人たちはほんとにあったかかった。
悩んでる人がいたら話を聞いて、奉仕も頑張って、「神の家族」ってやつを信じてた。
でも社会に出てみたら、月の手取りは14万でパワハラもキツい、彼女ともうまくいかない。
もう、教会に行くまでは死んだみたいに寝て、日曜の朝にギリギリ起きて奉仕して、みんなに笑顔振りまいて。
心底「神って憐れみ深いんじゃないの?」って疑問を抱きながら、それでも祈り続けた。
だけど、どれだけ祈っても状況は変わらない。教会の人たちも「あなたのために祈るよ」って言ってくれるけど、みんな同じように報われないまま。
そんなとき、ある人たちがすごく目についた。
権利を主張しまくり、他人に責任を押し付け、自分のワガママ通すために平気で誰かを踏み台にする。
なのに、そいつらは表向き裕福で仕事でも評価され、結婚して子どももいる。まさに自分とは正反対で、いわゆる「勝ち組」っぽい感じ。
で、そいつらに踏みにじられたのが決定打になって、「こんな神いらなくね?」って思って、実際、「神を捨てて」みたらどうなったか。
正直、自分もそいつらみたいに、弱そうな人に責任を押し付け、義務は果たさず権利だけ主張して、ワガママ通すために周囲を生贄にしてったら、収入はどんどん増えて人間関係も広がり、結婚して子どもまでできた。
昔の俺と同じようにずっと教会で祈ってる連中は、未だに報われないままだけど、俺はもう穏やかな顔して「幸せだなぁ」って言えるようになった。皮肉だよね。
それで最終的にわかったのは、「神は悪人にも善人にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせる(マタイ5:45)」っていうこと。
要するに、神ってたぶんみんなに「チャンスの場」みたいなのを与えてるだけで、憐れみとかは関係ないんじゃね? だから、「神がどうにかしてくれる」みたいな他力本願で待ってても意味ない。
結局、自分で行動しないと何も手に入らないし、「現実世界の救い」なんて与えられないもんなんだなって。
でも少なくとも、俺らが今生きてる地上の生活を良くするには、与えられた能力やカネやモノをしっかり活かして、「欲しいものは欲しい」って声を上げて、自分で歩くしかない。
教会でただお祈りして「神のルールを守ってます」って言ってるだけじゃ、いつまでたっても何も変わらない。
自分で何かしようとしないと、何も起こらないままなのよ。