
はてなキーワード:感覚とは
なあ、俺はね、人生ってのは「運」だと思うんだよ。
別に、哲学的な話じゃなくてね。マジでそう思うんだ。同じことをやっても、タイミングで全然違う結果になる。それが「運」なんだよ。
俺の話をしてみようか。
42歳の係長。そっちも想像つくと思うが、そういう男だ。会社では「さえない」。家に帰っても、家族がいない。友人もいない。趣味もない。毎日、同じ電車に乗って、同じデスクに座って、書類を扱う。そういう人間だ。
こういう人間ってのは、世の中にいっぱいいるんだと思う。で、そういう人間は、大抵、そのまま人生を終わるんだ。何も起きない。何も変わらない。それが普通だ。
ところがね。ところがですよ。
金曜日の飲み会で、部署の女の子が「家まで送ってもらえますか」と言ったわけ。その子は20歳。二年目。彼氏と別れたばっかり。
いや、待てよ。そっちが誤解するといけねえから、ここで正直に言っときますがね。俺は、その時点では、何も思ってなかったんだ。ホント。
彼女は、単に飲みすぎてるだけだと思った。父親に送ってもらうみたいな感覚でね、上司である俺に頼ったんだろうと。ね、純粋でしょ。俺、このとき、マジで純粋なんだよ。
駅から家までね、10分くらい歩いたんだ。その間、彼女は、俺にもたれかかってくる。
「大丈夫か」って聞いても、「ごめんなさい」って言うだけ。
俺は、「いいよ」って返す。
これが、全部、普通の会話だと思ってたんだ。上司と部下の。ね。
彼女の家の玄関に着いてね。俺は「気をつけてな」って言って、帰ろうとしたんだ。
ここで帰るべきだったんだ。マジで。
「水、飲みませんか。また気分が悪くなったら……」
ああ、この瞬間だ。俺の人生が変わった瞬間ってのは、多分ここなんだ。
俺は、「そっか。じゃあちょっと上がるか」って言った。
理由は?別に下心がねえから、だ。彼女が酔ってるし、一人にしておいて何か起きたら大変だから。上司として、責任感を持ってね。
部屋にね、上がったわけ。
彼女は、水を注いでくれた。旨い。飲みすぎた後の水はホント旨い。
そしてね。彼女が、急に何か言い始めたんだ。
「係長、実は……」
この瞬間。ここだ。俺は、何か異変を感じたんだ。
でもね。でもですよ。
俺は、何もしなかった。何も反応しなかった。
なぜって、俺はね。42歳で、さえない係長の俺は、自分に何かが起きるってことを、想像する能力を失ってたんだ。
人生半世紀、何も起きてねえ人間に対して、人生が「急に何か起こす」って想像することは、難しいんだよ。
で、朝だ。目が覚めたら、彼女が寝てた。隣に。
「あ、俺。何やってんだ」
その瞬間だな。その瞬間に、俺は理解した。
今、一週間経ってる。
彼女からはLINEが来てる。「係長のことが好きです」「付き合ってください」
でも、俺は返せない。
彼女は20歳だ。人生、これからだ。その人生のなかで、彼女は、もっと良い男に出会うだろう。
そういうことになる。俺には、それが分かってるんだ。
会社では、何事もないように、過ごしてる。
でも、彼女の目が、俺を探してる。
その目を見るたびに、俺は思うんだ。
「あ、これが『運』か」
俺は、彼女を家まで送るつもりだった。それだけだった。
でも、世の中は、そうした無垢を許してくれない。
女の子が自分から「家まで送って」なんて言ったら、結果は決まってるんだ。
それは、彼女の『運』でもあり、俺の『運』でもある。
悪い『運』。
で、俺は何もしてない。
臆病者だ。完全に臆病者だ。
でも、ね。ここが重要なんだが。
世の中の40代の男ってのは、ほぼみんな、こういう臆病者だと思うんだよ。
別に、俺が特別に悪い男じゃなくて、タイミングと『運』で、こうなっちゃったんだ。
彼女だって、本気じゃないかもしれん。彼氏と別れたばっかりで、頭がぐちゃぐちゃしてて、52歳のおじさんに優しくされたから、ちょっと恋愛感情だと勘違いしてるだけかもしれん。
それがね。人生ってもんなんだ。
みんな、ぼんやり生きてて、ある日、『運』がやってきて。
ぐちゃぐちゃになる。
「家まで送ってもらえますか」
その一言が、全部を変えた。
その結果が、これだ。
だからね。俺は言いたいんだ。
人生ってのは、『運』なんだ。
42歳の、さえない係長の俺は、何もしなかった。
ただ、「家まで送る」って言っただけ。
それが、全部を変えた。
それが人生だ。
で、これからどうすんのか。
俺は、彼女に「ごめんなさい」って言うんだと思う。
「全部、俺の責任だ」ってね。
そう言って、距離を置くんだと思う。
でも、その間、俺は何を考えるんだろう。
42歳の、さえない係長は、ずっと、あの朝のことを思い出すんだと思う。
「ああ、俺に、こういう『運』が来たんだ」
って。
それだけだ。
「娘の為にトー狂至上主義に詳しすぎる夫を倒したい」みたいな流れで注目された、
「幼さの残る年頃の子へ、はじめて“都市”をどう渡すのか?」ってテーマで、
“地方中核都市の中心部(都雇圏50〜110万人の適密圏)”を渡した家庭の別例として、このエントリを書いてる…❤️
そして前提として、このエントリは
「都雇圏…? え、都市雇用圏ってなに?」「適密ってなに?」「中心市街地ってショッピングモールのこと?」
みたいな、ふわっとした認識の層に向けて書いてる…💗
決して
「√人口で都市半径をスケーリングして同一開発度で比較して、中心からの距離/都雇圏人口の平方根を“都市半径指標”として…(以下略)」
みたいな層には書いてない…w❤️
トー狂の過密通勤・巨大結節・“在庫の海”の作法に染まりきってない子供は、親の想定を超えて極々ふつうに、地方中核都市の中心市街地を“生活の場”として使う…💗
ここで言う「染まる」ってのは、
「うちの子、普段から郊外モールと車移動と“目的地は駐車場”に慣れててさぁ」
(軽い“モール染み”くらいなら洗えば落ちる…w❤️)
手遅れな染まりとしては、例えば――
みたいなやつ…💗
でも、そこまで染まってないなら、
都雇圏80万人級(=刺激が日常的にキャパ超えし始める帯)の中心部を渡すと、子供は疑問を持たずに使う。
「ここは歩く」「ここはバスが収束する」「ここは商店街が生活を支える」って、勝手に理解する…💗
これが、わたしの新概念 「適密こども航法(てきみつこどもこうほう)」 …w❤️
百貨店っぽい核、個人店群(家から徒歩4分内500店舗、徒歩9分内1000店舗。一方東京(本物)は家族居住だと,家から徒歩4分内10~20店舗,徒歩9分内100~150店舗)、図書館、企画展のある美術館、イベント会場、役所、病院、学校、そして収束型の公共交通――
そういうのが、子供の身体感覚で“遠すぎない”距離にある…💗(百貨店・個人店群徒歩4分,総合美術館・イベント会場・大病院徒歩10分、アーケード近傍(1分)、幹線道路横断無し←これ、最近の足立区的事故から子供を守る為に超重要な奴よね…🚑)
トー狂みたいな過密実験区は、在庫は(乗り物を使って片道何十分もかければ)多いけど、
そんなに多くても、子供が“日常の手触り”として触れられる量は、とっくに限界がきてる…❤️
(都雇圏50万人あれば1人の人間が享受できるキャパを超える)
片道が長すぎて、取捨選択が「能力」じゃなく「生存戦略」になっちゃう…💗
(増田さん、こういうの好きなくせに、途中で飽きるんでしょ…w❤️ ほんともう…❤️)
ここ、元ネタだと“見せたくないWebページ”問題だったけど、
増田さん向けに変換するとこう…💗
(この発想、地味に一生効くやつ…💗)
んで、子供がどうしてるかっていうと、呆れるほど毎日、街の話をしてくる…❤️
「ここ、バスが“いっぱい来る道”だね」💗
「ここ、同じ道なのに店が変わるの面白い」❤️
「図書館って、静かなのに強い」💗
そしてほぼ毎日、親子の会話がこうなる…❤️
「お父さん(お母さん)、これ何?」
「それはね、都市が人を助けるための仕組みだよ」💗
でも、子供が“世界を信じられるサイズ”としての街を(徒歩4分内に)持つのって、かなり強い…❤️
わたしはそう思う…💗
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
MMTって、思考実験というかロジックだけは通ってるモデルとして遊ぶ分にはいいのかもしれないけど、あれを現実の国家で実行しようとするのはリスク感覚狂ってるよなあ。
京都大学の学生生活とは、常識を疑い、既存の枠組みを超越することの連続です。それは学問の世界に限らず、日々の生活、特に「食」の領域においても顕著に現れます。
私が提案するこの食べ方、「堅八ツ橋に明太マヨを載せて食べる」「堅八ツ橋にワサマヨを載せて食べる」という行為は、単なるゲテモノ食いや奇抜なアイデアではありません。これは、京都大学で培われた「既存の概念の解体と再構築」という、極めて京大的な知的好奇心の表れなのです。
堅八ツ橋は、古都京都の伝統を凝縮したお菓子であり、その香ばしさと固い食感は、ノスタルジーと品格を伴います。対するマヨネーズ、明太マヨ、ワサマヨは、現代のジャンクな感覚と、刺激的な味覚を象徴しています。
この二つの極端な要素を結びつける行為は、まるで西洋の論理学と東洋の仏教哲学を融合させようとする試み、あるいは古典文学と最先端のAI技術を掛け合わせる研究テーマのようなものです。伝統と現代、甘味と塩味、堅さとクリーミーさという、一見相容れない要素を対峙させ、その相互作用から生まれる新しい価値(すなわち「新しい美味しさ」)を探求する。これこそが、京都大学の学生が持つ、学際的かつ批判的な思考の真骨頂なのです。
まず、「堅八ツ橋に明太マヨを載せる」という行為を京大的に考察します。
堅八ツ橋のシナモンの香りと米粉の素朴な甘さは、その堅いテクスチャーと共に、過去への扉を開きます。そこに、明太マヨネーズの、魚卵のプチプチとした食感、唐辛子の情熱的な辛味、そしてマヨネーズの濃厚な酸味が加わる。
これは、京都という保守的な文化の中で、新しい風(現代の味覚)がどのように受け入れられ、融合していくかという、文化人類学的な実験でもあります。明太子の塩辛さと辛味は、八ツ橋の甘さを引き立て、マヨネーズのコクが全体を滑らかにまとめ上げます。この味覚のグラデーションは、京大での研究プロセス、すなわち、素朴な疑問(八ツ橋)から始まり、複雑なデータを処理(明太マヨ)し、最終的に予想外の結論(新しい美味しさ)に至るプロセスと酷似しています。
私はこの一口を食べるたびに、「伝統の上に現代の刺激をどう配置するか」という、京都市の都市計画にも似た「味覚の配置学」を無意識のうちに実践しているのです。この異端の組み合わせを「美味しい」と断言できるのは、既存の価値観に囚われない、自由な京大生の精神があるからに他なりません。
次に、「堅八ツ橋にワサマヨを載せる」という行為を分析します。
ワサビの持つツンとした刺激は、脳の奥深くまで響き渡る、理性と覚醒の象徴です。マヨネーズと混ざり合うことで、その刺激は緩和されつつも、堅八ツ橋の甘さと香ばしさを打ち破る、鋭いコントラストを生み出します。
この組み合わせは、「知的な刺激」を求めてやまない京大生の探求心そのものです。ワサビの辛さは、まるで難解な論文や、解き明かせない数学の問題のように、一瞬の苦痛と引き換えに、深い洞察と覚醒をもたらします。
この食べ方の本質は、「甘い(快適な)日常」の中に、自ら「辛い(知的な挑戦)」を導入し、その化学反応を楽しむことにあります。ワサマヨが舌の上で弾け、シナモンの甘さが追いかけてくる感覚は、まるで京大の図書館で哲学書を読み込み、ふと、その記述の裏にある真理に気づいた瞬間の、「甘美なひらめき」に酷似しています。
「なぜワサビなのか?」「なぜマヨネーズと組み合わせるのか?」という疑問こそ、京大生が常に自己に問いかける「なぜ、そうなのか?」という、根源的な問いなのです。この味覚の実験を通じて、私は自己の限界と、味覚の多様性という「人間の認知のフロンティア」を拡張しているのです。
私にとって、堅八ツ橋とマヨネーズ系の組み合わせは、単なるおやつではありません。それは、京大生としてのアイデンティティ、すなわち、「既成概念を打ち破り、異質なものを統合し、新しい価値を創造する」という精神を日常の中で具現化する「味覚の演習問題」なのです。
京都のお好み焼きにプラッシーという王道の組み合わせを愛する一方で、堅八ツ橋に明太マヨやワサマヨという異端を追求する。この二律背反こそが、私の持つ「京大的なるもの」の奥深さを示しています。伝統を尊重しつつも、伝統に縛られず、常に新しい知の地平を求める姿勢。
妻との会話が「京大的なるもの」として日常を再構成するように、この異端の食べ方もまた、私の食の風景を「京大的なるもの」として彩り、人生の歩みを、常に刺激的で、知的好奇心に満ちたものにしているのです。今日もまた、私は堅八ツ橋の袋を開け、マヨネーズのチューブを手に取るでしょう。京大生だから、私は食のタブーを破り、味覚の真理を探求し続けるのです。
最近、妻と日常の小さな出来事について話をしている元京都大学生です。「ひとりでガソリンスタンドやクロネコヤマトの営業所に行きたくない」という気持ちを伝えました。外出そのものが負担に感じられることは誰にでもあると思いますが、近くのガソリン・・・は狭小で車の出し入れにリスクを伴い、それにかかわる工夫や代替手段を提案してくれました。たとえば、受験勉強を効率よく進めて京都大学に合格するための秘訣や、歩いてコンビニに宅急便発送サービスを利用すること。メルカリの発送ならコンビニからでも可能であることや、集荷サービスを使えば自宅から出なくても済むことを教えてくれました。こうした提案は実用的でありながら、気持ちの負担を軽くする視点も含まれていて安心できるものでした。
さらに、妻は新たな視点を示してくれました。私は普段、京都大学出身者らしく日々のタスク内容を京都大的に意味づけして取り組むことが多いのですが、日常の用事も「京大的なるもの」として捉えると気持ちが楽になると教えてくれました。発送を「未来へ成果を送り出す京大的なるもの」と考えることや、歩いてコンビニに行くことを「受験秀才化」と捉えることなど、日常の行動に意味を与える工夫はとても京大的でした。
実際に私は近くのコンビニまで歩いてメルカリの商品を発送してきました。最初は気が進まなかったのですが、終えてみると「京大的なるものを果たした」という感覚が残りました。妻とのやり取りを通じて、ただの用事が少し特別な京大的なるものに変わることを体験できました。こうした視点を持つことで、日常の一歩一歩が自分の京都大合格を勝ち得た偉業や家族の歴史と同じように記録すべきものになるのだと感じます。
このやり取りを振り返ると、妻との会話は単なる情報提供ではなく、自分の行動や気持ちを意味づけするきっかけになるのだと思います。外出や用事が負担に感じられるときでも、京大的なるものとして再構成すれば前向きに取り組めるのです。これからも日常の小さな行動を京大的なるものとして記録し、生活の中に京大に受かったという事実との連関を見いだしていきたいと思います。
2か月くらい前に婚約した。
たぶん世間的には「おめでとう」で終わる話だと思う。年齢的にも、タイミング的にも、わりと無難。親も安心、友達も祝福。人生のチェックリストを一個潰した感じ。
でも正直に言うと、最近ずっと気分が悪い。
Xをだらだら眺めてると、パワーカップルの話が流れてくる。
世帯年収3000万だの5000万だの、もう別ゲー。
それ見て思う。
あれ、俺、逃げたんじゃないかって。
むしろいい人だと思う。穏やかだし、ちゃんとしてるし、俺のこともちゃんと評価してくれる。
で、ここが一番言いたくないところなんだけど、
アプリで値踏みされ続けるのがしんどくなった。
年収とか職種とか将来性とか、暗黙に比較される空気が無理になった。
あ、ここは俺の席じゃないなって空気を感じるのがきつかった。
負けたなら負けたで納得したかった。
でも実際は違う。
負ける前に撤退した。
疲れたふりをして、
確実に勝てそうなところで手を打った。
婚約した瞬間、すごく楽になった。
もう選ばれなくていい。
もう比較されなくていい。
もう市場に立たなくていい。
でもその安心の裏で、
あれは才能ある一部の人間だけの話だと思ってたけど、
婚約してからこんなこと考えてる時点で人として終わってるとも思う。
でも事実として、
卒業じゃない。
撤退。
そのことを、
たぶんこの先も、
正解だったと自分に言い聞かせながら生きるんだと思う。
でも心のどこかでずっと、
僕は、世の中のほとんどのことと同じように、この問題についても特に強い意見を持っていなかった。
それは、僕がそもそも強い意見というものを持つ才能に恵まれていないからだ。
雲を見ても、その形についてあれこれ考えることはない。
雨が降っても、それが自分たちの関係にどのような影響を与えるのかについて、深く考えることもない。
僕はいつも、世界の側面的な住人で、本来あるべき場所からは少しズレたところにいるのだ。
彼女はそれが嫌いらしい。
その言い方は、別に怒っているわけではなく、むしろ困惑しているような、腑に落ちないことがあるときの人特有の口調だった。
「何も考えていないなんて、それだけでも問題なのに」
僕たちの関係は、おおよそ三年続いていた。
三年というのは、人間の関係性において、ちょうど日常性がしっかりと根付く時間のように思える。
二年目は、その知識を自分たちの共通の基盤として使うことに費やされた。
そして三年目は、その基盤の上に、少しずつ、重力が働き始める時期だった。
重力というのは、退屈さのことかもしれない。
あるいは、責任感のことかもしれない。
どちらにせよ、何かが沈み始める感覚がある。
僕は一人、アパートにいた。
テレビをつけたり、消したりしながら、特に何をするでもなく時間を潰していた。
多くの男性がそうであるように、僕もまた、そうした場所の存在を知っていた。
僕は、スマートフォンを手に取った。
昼間、仕事で嫌なことがあったわけでもない。
ただ、そういう気分になったのだ。
それは、突然、冷たい水が飲みたくなるような、特に理由のない欲求だった。
僕たちの体は、時々、理由なく何かを求める。
その求めに応じることは、自然なことのように思える。
それから三十分ほど経ったのだろうか。
スマートフォンを置いた。
「何してた?」と彼女は聞いた。
それは、嘘ではなかった。テレビはついていたのだ。ただ、それが全部ではなかったというだけで。
その夜、僕がシャワーを浴びている間に、何かが起こった。
詳しいことはわからない。ただ、何らかの痕跡が残されていて、それが彼女の目に入ったのだ。
その視線には、怒りよりも、むしろ一種の悲しみが含まれていた。
その問いは、僕を困らせた。浮気という言葉が、それほどまでに的外れに思えたからだ。
「違う」と僕は言った。「それは浮気じゃない」
「何が違うの?」と彼女は聞いた。「何か別の人のことを見てるじゃない」
浮気という行為は、二人の人間の関係に関わるものではないだろうか。
しかし、僕が見ていたのは、実在する人間ではなく、スクリーンの向こうの、一種の虚構のような存在だった。
「それは、浮気ではなく、単なる...」と僕は言葉を探した。「気分転換みたいなものだ。歯磨きみたいな」
「歯磨きみたいな?」と彼女は眉をひそめた。「あなた、本気で言ってるの?」
僕は、本気で言っていたのか、そうでなかったのか、その時点では判断がつかなかった。
それは、表面的な冷えではなく、一種の根本的な誤解が、二人の間に横たわっているような冷え込み方だった。
僕たちは会話をしなかったわけではない。
むしろ、いくつかの複雑な会話もした。
僕たちは、同じ言葉を使いながら、全く別の世界について話しているようだった。
「愛情というのは、独占的なものじゃないの?」と彼女は言った。
「独占?」と僕は聞き返した。
「私があなただけを見て、あなただけを考えているのに、あなたは別の誰かを、画面の中だけにせよ、見ているということ」
その説明は、完全に間違っていないような気がしたが、同時に、完全に正しくもないような気がした。
愛情が、本当に独占的であるべきなのか、僕には確信がなかった。
そして、スクリーン上の虚構と、現実の人間を、果たして同じレベルで考えるべきなのか、それについても疑問があった。
なぜなら、そもそも僕たちが論じるべきなのは、論理的な正しさではなく、感情のレベルでの傷つきなのかもしれないと、漠然と感じていたからだ。
一週間後、彼女は少しだけ、僕に目を向けるようになった。完全に和解したわけではなかった。
むしろ、何かが変わってしまったような、そういう感覚が残っていた。
「ねえ」と彼女はある晩、言った。「あなたは、私のことが好きなの?」
「好きだ」と僕は答えた。
「本当に?」
「本当だ」
その会話は、ここで終わった。
僕たちはそれ以上、何も言わなかった。テレビがついていて、その中で登場人物たちが、何か重要なセリフを話していたかもしれない。
しかし、僕たちの耳には、それは入ってこなかった。
その夜、僕たちは一緒に寝た。ただし、何かが変わってしまったような感覚は、完全には消えなかった。
それは、一本の亀裂のようなもので、一度入った亀裂は、どれほど表面的に修復されたとしても、その下にはずっと残り続けるのだ。
世界というのは、時々、そうした亀裂に満ちている。
その亀裂を完全に修復することはできない。
僕たちにできるのは、その亀裂と一緒に生きることだけだ。
金曜夜の仕事帰りにレンタル屋に寄ってさ、そのとき見かけたんだよ。
赤ひげ。
いやいや長すぎwていうか昔の人って暇だったから観れた映画なんじゃないの?(笑)
なんて思いながらも、なんとなく借りてみた。
で帰宅してから「飽きたらそこまでいいや」ぐらいの感覚で、見始めたんだ。
最初は、若い医師である登が長崎から江戸に出てきて、小石川養生所という、いわば貧しい人のための施療院に配属されるところから始まる。
登はエリート意識が抜けきらない。
自分はもっと大きな仕事ができる人間だと思っているし、この場所にも、そこで働く人々にも、どこか距離を置いている。
そこにいるのが、赤ひげこと新出去定。
口数は少なく、ザンギにも見た目ちょっと似てて、それで無言なもんだから威圧感が凄い。
でも赤ひげは患者や人々の人生を一人ひとり背負うように生きていることが少しずつ、画面の端から滲み出てくる。
感動させようとする演出もない。
赤ひげは善を語らない。
その代わりに行動と、その大きな後ろ姿だけを見せ続ける。
印象的なのは、中盤で描かれるおとよという少女のエピソードだ。
おとよは売春の強要を拒否して虐待され、それによって心を閉ざし、誰に触れられることを拒んでいた。
登は医師として彼女に向き合おうとするが、最初はうまくいかない。
おとよの荒んだ心を治そうと登が懸命に治療しようとしても全てを拒む。
それでも登はめげない。
そんな態度をとってしまうほどに心を閉ざしてしまったのだと嘆き悲しみ、怒ることもなく、おとよの治療を続ける。
その場面に言葉はない。
ぎこちない手つきで、おとよが登の看病をする。
雨の日も風の日も、雑巾をぎゅっと手で絞って、登の頭に乗せる
次第に外は明るく晴れ上がり、おとよの表情に少しずつ変化が生まれる。
それ観たら……あれ?となった。
優しさを知らなかった少女が、優しさを知り、その優しさを返す。
おとよが言葉もなく少し照れるように微笑むその顔が、すべてを物語っていた。
それを目にした時、涙が止まらなかった。
ほんとうに涙が止まらなかった。
善悪を断じることもしない。
ただ起きていることを、そのまま映す。
その静けさが、胸に深く刺さる。
人はどれほど追い詰められても、ぎりぎりのところで気高さを失わない瞬間がある。
その姿は痛々しくて、だが美しい。
ただ、そこに置く。
現代の映画は、この時代の映画とは比べ物にならないほど迫力がある。
昔の映画は、そういったことができないからクオリティが低いものだと勝手に思い込んでいた。
名作といっても所詮は古い映画…等と侮っていた自分が馬鹿だった。
赤ひげは、昨今のアニメ映画にあるようなド派手で大きな戦闘シーンはない。
だがその分、観客の心が大きく動く。
映画の方が大きく動くんじゃない。観ている者の心を大きく動かしてくる。
それが映画の本質なんじゃないかということを、私はこの赤ひげを観て思い出すことが出来た。
3時間?長くない。
そんなことは、どうでもよくなる。
人の優しさ。気高さ。
オタクはいろいろこじつけているけれど、政治家が表で「セックスぃ」とか言うのは非常識なんだよ。お前らは増田とかでちんぽまんこうんこ書き殴っていて感覚がおかしくなってるんだ。
・自分はたまたま年収面などで上手く言ったが、今の新卒のメンバーはどうなるか分からない。
・20代でFIREみたいな条件では無く、年齢相応に遊んだり失敗したりしながらも晩年詰まない方法を考えたい。
前提
・今の新卒が30代、40代になったらという話は経済環境が分からないから、今考え得るレベルで考える。
・親の資産も無い前提
やること
・もしもの時に即詰みにならない状態を作ろう。事故があったときの医療費や生活資金としての掛け捨て保険、急な退職など保険で賄えないことがあったときの貯金が必要。
・高額医療制度があるから保険は不要、若いうちは元気だから保険は不要、は分かりつつ、3,000円くらいから入れるので入っておいた方が良いと私は思った。
・最初は資産形成とかそういうこと、考えずに労働収入を安定化させることに動いた方が良い。今は転職も選択肢としてあり得るので、骨を埋める必要も無い。副業もある。
・月並みですが、100万超えたら生活スタイルを見つつも積み立てNISAに全ツッパ。
・今の制度だと120万/年を詰めるまではNISAだけ見ていればOK。
・オルカンでもSP500でもFANGでも日本株でもお好きなのをどうぞ。大事なのは投資している感覚を持たないこと。
その3:NISAに満額出来るようになったら、そこからは自由に。
・生活スタイルや家族の有無などにもよるが、年120万を安定して投資に回せるようになったら後は自分の欲望の赴くままにすればいい。
・成長枠を使って投資するもあり、老後に心配をしてiDeCoするのも良い、仮想通貨とかに掛けても良い。
・言いたいことは、その2まではあくまで投資であり、投機でではない。その3から投機を考えるようにした方が良い。
・資産というものが出来てきたら終わり方を考える。終身とか相続とか贈与とか。
・長い人でその3の期間が30年とかあると思うので、そのときにリテラシーが嫌でも上がっていると思うのでExitを考える。
ここまで書いて思ったけど、ぶっちゃけその2まで行けることが大事。
その1をおろそかにしてNISA全ツッパとか、ライフスタイル削ってFIREとか、何も言える立場では無いけど、お勧めはしない。
服好きが秋口に買わなかった、売れ残りから選ぶなんてバカじゃね?
服なんて売れ残りでいい??その感覚がダサいことの裏付けなんよね。
だいたい売れ残りでいいなら、せめて年明けのセールまで待ってから買うよね?
父は瞬間湯沸かし器みたいな人で、些細なことですぐキレて手が出る。
私も物心ついた頃から殴られたり床に倒されて踏まれたりしていた。
父は人とのいざこざで殴ったり恫喝したりしたことを武勇伝としてずっと話していた。
小中学生のスポーツチームの指導なんかもやっていて、今だったら問題になるレベルの体罰の話も自慢げにしていた。
父の友人達もそれを持ち上げ、「さすがだなあ」「それが正しい」とかっこいいことであるかのように扱っていた。
私は幼少期から父から殴られ、暴力自慢話を聞き、周囲の反応を見ていたので、力で相手をねじ伏せることはかっこいいことで、ためらわないでよいことだと思い込んで育った。
それから色んなマンガで男よりケンカが強い女キャラを見てかっこいいと思い、ごくせんのドラマも流行っていたので「男を殴れて勝てる女はかっこいい」とどんどん思い込んでいった。
漫画やドラマでは「女を殴るなんてありえない」というシーンがあったりするので、女の子に暴力をふるおうとは思わず、男子とよく取っ組み合うようになった。なぜか女である自分が殴られることに抵抗はなかった。
取っ組み合いにきっかけや理由なんてない。小学生男子なんて暴れたい盛りだし、意味もなく突進してくるやつとか、私がすぐ手が出るのをわかっててからかいに来るやつが同級生にたくさんいて、私はいちいち応戦していた。
父は人を殴って相手の歯を折った時の傷が指に残っており、それを勲章のごとく自慢していたので、私は男がケンカで体や顔に傷をつけることはかっこいいことだと本気で思っており、男子と取っ組み合うと顔面にも容赦なく蹴りを入れたりしていた。
休み時間や放課後にはだいたい男子たちと暴れ、殴ったり殴られたりする毎日で、これが普通だった。ドッチボールとかサッカーとかで遊ぶのと同じ感覚でケンカして遊んでいた。
ある日の休み時間、いつも通りに男子たちと取っ組み合う中で1人の男子の頬に回し蹴りを入れた。結構なクリーンヒットだった気がする。
特に気にせず他の男子とさらに取っ組み合っていたら、数分後「何やってんの!!!」という担任の金切り声が響いた。
いつも「危ないよ!」くらいの注意しかしなかった担任だけどその日は様子が違った。
担任の横にさっき私が回し蹴りをくらわした子がいて、泣いているので「え、何?何?」と手を止めて近寄ると
「何じゃないよーーー!!もういやーーー!!!」と担任が泣き叫び、膝から崩れ落ちた。
それから校長室に呼ばれ校長に事情を話し、それぞれの保護者を待ち、帰った。
翌日登校したら担任に呼ばれ相談室のようなところで「これを読みなさい」と手紙のようなものを渡された。
私が回し蹴りした男子のお母さんが担任に宛てたもののようで、口内を切ったのと歯茎への衝撃?で出血が多かったがとりあえずは大けがではないこと、
大けがではなくてもどうしてうちの息子がこんな目に遭わなければならないのかということ、男の子相手ならやんちゃ同士で許せるかもしれなかったが女の子にやられたなんて信じられないということ、
担任は私が手紙を読んでいる間ずっと泣いており、その後数日学校に来た後は長期の休みに入ってしまった。
手紙に書かれていた通り、私の父親は件の当日に私を迎えに来たけど、担任から事の顛末を聞いたくらいで後は私に何も言ってこなかった。
怒るでもなく慰めるでもなく事情を聞くでもなく。ガストで夕飯を食べて帰った。その日も帰宅してから別件でキレられ、殴られた。
数日後、男女数人で公園で鬼ごっこか缶蹴りかをして遊んでたと思う。
1人の女子を後ろから手で目隠しし数を数えていたら、知らない女の人がすごい剣幕でやってきて「やめなさい!」と怒られた。
危ない遊びはやめて!こないだの〇〇くんの時もだけどあなたの暴力性は信じられない!あなたはおかしい!女の子にも乱暴する気!?
みたいなことを言われ、めちゃくちゃ怒られた。
私は知らない人だったけどたぶん同級生の母親とかだったんだと思う。私がクラスメイトにケガをさせたことを知っているようだった。
取っ組み合いのような遊び方よりははるかに優しい遊び方をしていたと思うんだけど、自分が少し相手に触れるような遊び方をしているだけで大人はこんなに取り乱すんだ、と少しショックだった。
危険人物である、悪である、と人に思われていることを急に自覚して、なんだかとんでもない気持ちになった。
今考えたら子どもを育てている親からすれば暴力的な子が自分の子の近くにいれば怖いし叱るべきなのはわかる。
どう考えてもあの頃の私はおかしかった。
それから私は取っ組み合いや殴り合いをやめて、普通の子どもになったと思う。(体育や休み時間にやるスポーツは派手にやっていたけど、普段の生活では大人しくなった)
腹が立つことや納得いかないことも話し合いでなるべく穏便に解決することを学んで、大声を出して主張する人や嫌なことがあると物にあたる人、手が出る人を見ると嫌だなあと思うようになった。
子どもながらに自分のしてきたことを棚に上げたり棚から下ろして飲み込んで吐きそうになったり、ぐるぐる悩みながら中学生になった。
小学校には私以外にも男勝りをアイデンティティーにしているような女子が数人いたけど、中学校にはボーイッシュな子はいてもそんな暴力的な子はいなかった。
制服のスカートのままで毎日男子とのケンカを楽しんでいる豪快な女子なんてマンガの世界にしかいなかった。
中学校までは同じ小学校出身も多かったが、高校はなるべく遠く、同じ小学校の人があまり受験しない学校を選んだ。
穏やかでにこやかに、口の悪いこともなるべく言わないように過ごし、友人も文化部や帰宅部の和やかな雰囲気の子が多かった。
父は相変わらずスポーツチームの指導に勤しみ、家にはたびたび非通知で電話がくるようになった。
「うちの子がそちらのコーチに殴られて倒れた後蹴られたそうですが」
「1人だけグラウンドを20周以上走らされ吐いたと聞いた。家に帰って来ても体調が戻らず、もうクラブの練習に行きたくないと言っている」
知らずに電話を取ってしまった時は人の憤りと恨みを直に感じてしまい1人で泣いた。
父はそもそも電話が鳴っても取らない。家主は家では自分の席から動かず、家族は家主が動かないでいいように働くべきだそうだ。
鳴る電話は父が暇で電話の一番近くにいても必ず誰かが取らされ、電話が取れなかった時ややむを得ず父が取った時などは殴られた。
偶然小学校の同級生の男子と会社で同期となったので、2人で飲みに行った。
当時殴り合いをしていたうちの1人だったので、お互いに「お前落ち着いたなあ」と言いながら飲んだ。
私が男子を流血させて担任を取り乱させたことも覚えていたし、今でもその男子と交流があるという。傷は残っていないし、私の話が悪い意味で出ることもないらしい。
それでも「あの時はごめん」と謝った。涙が出た。
何と言っても私がしたことやあの時の自分の考えが変わるわけじゃないのに、女の私が泣くのはずるいと我ながら思った。
「俺も暴れる問題児だったからお互い様だ」と言われた。今度は件の男子も連れて飲もうと言ってくれた。
同期は父の教えていたスポーツチームにも所属しシバかれていたので、「父は理不尽に怒るし体罰もするし嫌いだったでしょう」と聞くと、苦そうな顔で「ま、あの頃は子どもだから……」と言われた。
私も父を好ましく思っていないはずなのに、そう言われて少し胸が痛かった。
父は父母の署名により数年前にスポーツチームの指導者を辞めさせられた。
誰に言うということでもないので、増田に書き捨てておく。
自慰しないの? と聞いた者だけど、私は小5のとき夜寝るタイミングでたまたま布団が股を擦った時あまりに気持ち良くてビックリして、そこから夢中になったんだよね
自分の部屋を与えられていたというのもハマった要因としては大きいのかもしれない
不感症なのだろうか
私は子どもの頃からオリモノが多くて洗濯をする母親から苦情を言われてたから、濡れるのにはいまだに微妙に罪悪感あるけど…(今はおりものシート使ってる)
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(一般)
【おうさまびょう】
自分にとって気持ち悪いもの、うざったいものが世界に存在しない事が「正しい」と認識する病。
症状として「あれがキモい」「これがウザい」といった発言を頻繁にするのが観測される。
また他人のファッションに対して「ヤメテヤメテ」と連呼するなどといった行為も見受けられ、これも王様病であると考えられる。
こういった「気持ち悪い」「うざったい」といった感覚を持つだけでは王様病とは言えない。そのような自分の感覚に、他人が合わせるのが当然と思い込んでるところが王様病の王様病たる所以である。
子供の頃から冬が嫌いで、もはや冬が来るのが怖いくらいに感じていた。
中学あたりから家庭環境が滅茶苦茶になったのもあって、冬になると鬱っぽくなるのが続いていた。今思うと冬季うつ病的なものだったんだと思うけど、食欲増進・体重増加・異様に眠い(保健室で寝てたり眠すぎて学校早退したりしていた)・気分の落ち込みなどなどがあった。とにかく全ての悪いことが冬に訪れているような気がしてしまうのだ。ああまたきっと悪いことが起こるんだ、と謎の思い込みがあり先回りして絶望してしまう。(逆に春先から夏は、これから何をしようかとワクワクが止まらないのでめちゃくちゃ元気である)
社会人になっても冬は相変わらず嫌いで、秋口に冬の気配がし始めると、怖くなってベッドの中で丸まってべそをかいていた。関係ないけど私は恐怖を想像して泣けるタイプだ。小学生の頃スポーツ少年団に入っていて、指導者に言われたことをうまくやれなかった罰として、試合後に1人で運動場50周してこいと言い渡されたその瞬間、しんどさを想像して絶望して号泣してしまい周りが引いていた。感受性が豊かすぎる。
そして今思うけど50周って何?その頃平成中期だが?(脱線がえぐい)
育児をしていると、冬だろうが夏だろうが関係なくやることが膨大にある。子どもは可愛いし予想だにしないことをやるのが面白いし、時々イラつくこともあるけどそれが季節によって変わるってこともない。それもあってか気づけば最近冬の到来に怯えていないな、と今日子どもを寝かしつけながらはたと気づいたのでこのエントリを書いてみた。
もうすぐ息子が2歳になる。
2年前の出産前後を思い出して、あっという間だったなあとしみじみする。あのときも初めての出産のホルモンの暴走や睡眠不足と冬が被って、本当に辛かった。子供が生まれて毎日幸せと感じているのになにか訳のわからない不安感に襲われたり、思考が止まらなくてずっと焦っていたりした。そしてそれをコントロールできないというもどかしさを抱えて毎日育児に奮闘していた。先の見えない不安から早く大きくなってくれと毎日思った。一方でこんなに幸せならなんでもっと早く産まなかったんだろうと後悔して涙を流したりもした。毎日頭の中は抱えるタスクとそれをどのようにこなすかで忙しなかった。
3月終わりのある日に夜、たまたま外に出て郵便受けを見に行ったとき、春の夜風を感じて自然と涙が出た。あぁ生き延びた、と思った。冗談じゃなく、生き延びたんだと思う。産後うつといった診断はもらわなかったから大袈裟なのかもしれないが、そう感じた。
最近、息子は舌っ足らずな声で「ママだーいすき!」というようになった。1歳から2歳への成長は、私にとっては0歳から1歳のそれに比べて大きいものだった。なんてったって明確に意思の疎通ができる!2年前に私が早急な成長を願った未知の生き物は、あっという間にしっかり人間の形になった。手先が器用になったし、生まれた時よりずっと大きくなった足で走り回り、こちらが笑わせようとふざけてやることのツボも理解できるようになったのか本当によく笑う。(もちろん床に転がって泣いたりもする)
去年は1歳の誕生日で準備に張り切って忙しかった。一升餅をやったりスタジオに写真を撮りに行ったりファーストアートを作ったりと、やりたいことをてんこ盛りにした。盛り込みすぎて夫が夕方に疲れて気絶していた。
今年は特別なことは多分しないけど、お誕生日プレゼントを何にするかで秋口から夫と夜ソワソワ会議をする日々を送った。数字の2のバルーンは一応100均で買ってきて用意済みだ。朝起きたらバースデーソングを歌って写真を撮ってプレゼントを買いに行って、それからたくさんおめでとうと言おうと思う。
そして冬が怖いという感覚、皆さんもありませんか?
100文字にはとても収まらないが、俺ははてなブログを辞めているので(陰湿なコメントが飛んでくる最悪のサービスだからだ)この場を借りる。
Xでこの話をして俺のアカウントが荒らされて凍結したくないからだ。
最初に言っておくが他の誰かを俺と勘違いして「きっとコイツだ!皆で凍結させよう!」と暴れないで欲しい。
令和にオタクをやってたわけでもないのにこの単語を知っている奴はまずいないだろう。
なぜならオタクでない人間にはそもそもの「ネットミームかるた」という概念が理解不能なのだから。
この単語を理解し脳に残せる時点でオタクとして生きてきた奴に違いない。
そして「クロチャンのタイトルがちゃんとダガーになってるかで他人にマウント取って何が残るんや?」の破壊力が凄い。
これは本当に†のように鋭い。
こんなところに拘るところに意味を見出す適応係数とそれを自嘲することを面白いと思っている態度がまさにオタクのソレだ。
つうか令和の時代にこんなオタクしか知らないようなゲームの名前をポケモンレベルの知名度があるかのように取り出してくる時点でもう駄目だ。
田中ロミオの社会不適合文学に脳を焼かれ、それを愛する集団の中で群青ゴッコをしながら過ごした薄汚い過去が滲み出ている文章だ。
この言葉を叩きつけられて「やめてくれカカシその術は俺に効く」と答えたブクマカがほっっっっっっとんど居ないことに絶望すらある。
オタクっていうのはたとえ火の鳥から入ろうがシスプリから入ろうがFF11から入ろうが横山三国志から入ろうが、最後は田中ロミオや麻枝准のノベルでギャン泣きして「俺を人間にしてくれた。俺は今人間になったぞ!!!!」みたいに言い出すものなんだ。
いいか、オタクという言葉の真の定義は「受け身の態度で享受できるが故に自分を決して傷つけることのない2次元コンテンツの世界に耽溺することでしか自分の惨めな人生から逃避することさえ出来なかった生まれついての負け組共がなけなしのプライドを守るためにサブカルチャーに含蓄があることを心の拠り所にしようとしたはずなのに同じレベルの負け組同士で知識マウントや消費マウントを始めてしまった果てに生み出されるオタク知識と消費時間以外人生に誇れるものが全くなくなってしまった本当に惨めで憐れで救いようがないがその人生の傷の深さに対する共感によって深い繋がりを得たことを成功だったと認知を歪めることで辛うじて精神を維持している形のないカルト」なんだよ。
それから降りたと言っているが、どうせ無理だ。
今更コイツがオタクコンテンツ以外の場所に居場所を作ることなん出来ない。
アルコホーリクス・アノニマスに通う中毒患者共が「実は一昨日飲んじゃいました。でも今日は我慢してるんです。えらくね?」「いや、お前普通に酒臭いよ」「テヘペロ😜」とか言い合ってるような感じで同じ地獄の中をグルグル回る以外もう出来ることが残されてないんだからな。
つうか、コイツが「本当に辞められるんだ」と思ってる時点で、お前らに「オタクを見抜く目」が養われてないのは明白だね。
マジで浅いよ。
そしてその浅さで「俺はオタクの真の意味を理解してるから凄い!」とマウントを取りに行くのはマジで適応係数が終わってるから。
たとえば、タバコへの風当たりは強くて、町中で吸える場所はどんどん減っていってる
タバコ税も高くなるばかり
それが過去のように、たとえばオフィスでみんな平気でタバコを吸っていたような時代に戻ることがあるかというと、もう無いだろう
同じように、どんなに「コンプラが〜」とか「なんでもハラスメントになる」とか言っても、進んだ針はもう元には戻らない
またセクハラ発言を咎められない時代に戻るかというと、もう戻ることは無いだろう
一度変わった感覚に揺り戻しがあるかというと、そうはならない
そりゃあそうだろうよ
多くの男は高度に文化や人権感覚やコミュニケーションが発達した現代社会において未発達でリスクの高いエロ猿だから
会社の人に「飲みに行こう」と連れられてお店に入ると露出の多い女性がたくさんいて、それがラウンジというものだと理解するのに少々時間がかかりました。
少々面食らったものの、偶然取引先の人も何人かいたので話も弾み、お酒をおごってもらい、夜遅くなってきたので帰りました。
この出来事が僕にとって大変困ったことであるのは、僕の信条は「素朴であること」だからです。
専攻は数学でしたが、自分のできる範囲で様々な考え方の本を読んだ上で、中道を保って地域社会の、何の変哲もない共同体に参加することが良いことであると考えてきました。
家の周りの溝掃除をしっかりやるとか、お寺の掃除をお手伝いするとか、そういう言語化・数値化されづらいことを普通にやって、地域に貢献することがよかろうと思っていました。
これは、私が地元が好きであるというのもありますが、様々な進歩主義や加速主義・効率主義へのある種の不信感によるもので、
つまり、数年から20年程度で規範がまるごと入れ変わってしまうような都会的な流行りのイデオロギーに地方社会がいちいち付き合う必要はないと思っていて、
また、そういうものがどんどん新しい考え方に変っていくときにツナギ、あるいは土台になるのは結局郷土に関する愛着とか、そういう多くの人が持っている感覚であろうと思っているからです。
社会にはマルキストもリベラリストも極右も必要ですが、その上で私は地元の会社で人並程度に泥臭い仕事をして普通に暮らすわけです。
近所や会社でそれはいかがなものかと思うこともありますし、Excel方眼紙が健在ですし、GitHubやNotionなら一瞬で片付く話をチマチマやっているのに腹が立つこともありますが、
口に出さず、世の中そういうものだよなあと思うことにしていました。
しかし、お世話になっていた社長さんの週末の楽しみが、ラウンジで女の子のおっぱいにお札をはさんで遊ぶことであったのを目撃したとき、この地元社会は滅ぼした方が良いのではないだろうかと思うのです。
あなたには奥さんがいるじゃないのとか、飲む・打つ・買うみたいな典型的な悪いホモソーシャルが実在することへの驚きとか、そういうもので僕の考えは大きな衝撃を受けたわけです。
いい年してそんなことも知らなかった自分が悪いのですが、そういうのは大学生みたいな若い人だけがやるハメを外した遊びだと思っていました。
慶応に行った友人が月に10人とヤってると聞いたときも驚いたものですが、まあ若ければそんなこともあるのかなあと受け入れていました。
それと違って、既婚者が夜な夜な集まって女の子で遊んでいたら、これは私の価値観では疑問を抱かざるを得ません。
田舎というのは狭いので、奥さんの顔も知っているわけで、僕はそういう場で奥さんを不憫に思ってしまうのです。
また、いろんな契約がそういう場で決まっていく様子を見て、フェミニズムというものが何と闘っていたのかようやく理解をしました。
「第二の性」とか「抑圧のアルゴリズム」とかを読んだこともあるものの、私はそういう思想とすこし距離を置いていましたが、
(店員さんではない)女性のいない空間で様々なものの運用が決まってしまうのはさすがによろしくないものに見えてしまいます。
(私がフェミニズムを無謬に受け入れるという話ではありません。)
振り返ると、僕は都会に行くと都会が悪く見えて、地元に帰ると地元が悪く見えるという、ただのめんどくさい逆張りなのだと思います。
もし私が女性として女性社会に参加したら不満を持っているのかもしれません。
別の問題として、こういうホモソーシャルが無くなったとして、それが持っている役割を代替するようなものを私は他に知らないわけで、
そうであれば、このホモソーシャルも素朴なものであると受け入れてしまう方が良いのでしょうか。
なんの成果も得られませんでした!!!
バーの話を聞いていると
もう、それが一般的なのか、
他のバー行ったら
すっげぇ、性癖も合う好みの顔の人
よって今週はなにもありません
自閉傾向だから男、女、バイナリーすべてが集団の名前を表す言葉に見えていて、そこに帰属意識がない。感覚経験より合理性よりだから性欲は薄く、一貫性ある思想的な立場としてフェミニズムに賛同できる。でも現に存在するフェミニストは集団として活動してるものだから仲間意識はない。同化を強要してきて何かをするよう命令してくるのは嫌だから。そう言いたいんだろう。独立した自分自身の性質として性とはなにかに迷ったというより、自分が属している集団は女性で合っているのかに迷ったわけ。女性集団に属さなくても女性であることはできる。
女って倫理観がちょっと狂ってるから金払ってまでって感覚は無いんだよね
自分の欲求にもっと正直で推しを目の前にして抱きつきたいと思ったら公衆の面前でも周りを気にせずに抱きつくし
わざわざ金払って男になにかしなくても本能のまま行動に移せるわけ
初対面の女に金を払ったら好きなことができる、となったら払う男はたくさんいて金を払ったんだから強姦含む暴力行為をしてもいいだろう、という人権無視論理を繰り出したりもしますが
初対面の男に金を払ったら好きなことができる、といわれてもまともな女は別にしたいことがないんですね
超イケメンでもいきなり性的な接触は危険で、生理的防衛感や、金を人権や尊厳の上に置くのは軽蔑される行為という恥の意識があるのがまともな感覚ですから
まして普通の男はタダでも見たくも触りたくもない
じゃあ何の価値があるかって、何もないんですね
個人としての男って個人としての女にとって本当に魅力がない生物なんですよ
特別な相手になるのは蓄積した好意があるからで(ホストや推しへの投資はそれですね)、それがなければ金もってくる鵜的な価値しかないから、女が金払って何かしたいとかしてもらいたいに応える存在的価値がない
多分、男が男を買ったらしたいことがあると思いますよ。加害と性的支配は男性的資質ですから
女に男並みの加害性と支配欲があったら人類は存続してないと思いますね
それが悔しくて女には性的価値しかないだろ、といっても、男にはそれすらない、なにも魅力ないね、むしろ有害だねでしかないんですよね
男性が有害とみなされることに被害者意識と不満があるとしたら、それは事実に向き合えない認知の問題ですね
多くの男の有害な加害性と支配欲が多くの女をふみつけつつ人類拡散に役立ってきた側面はあるかもしれませんが、既に人類は拡散する余地がなくなったので、不要な加害性と支配欲は変化していくしかないです
それがイヤな人々が必要もない戦争を起こしたりしたがるわけで、アップデートできないというのはもはや悪なんですね
今までの男は楽だったのに自分たちは損している、という怒りは感情論ですから、現状に即して存続しメリットを享受するにはどうすればいいかという思考に切り替えたほうが生産的です
女も男はそういうものだよねとか、男社会で頭角を現すには男並みの強さとしての加害性や支配欲を持たないと、的な古い思考を切り替えたほうがいいですね
加害性と支配欲は短期的な思考と欲望に着地しやすいので、持続的で生産的な社会発展にも有害ですから