
はてなキーワード:情報処理とは
とてもお辛い状況で、日々苦労されていることとお察しします。
「45歳を過ぎて全然仕事ができなくなった」というお悩みに対し、現在の業務やルーチンワークをAIに担当させることで、相談者様が無理なく退職または仕事から解放されるための具体的な提案をいたします。
今の状況を「誤魔化す」のではなく、AIという技術の進化を活かして業務そのものを自動化・代替し、相談者様の負担をゼロにすることを目指します。
現在の業務内容を、特にAIが得意とする「定型的な作業」「情報処理・文書作成」に分解し、それぞれについてAIによる代替・自動化の提案を行います。
現在、MTG(会議)前の「間に合わせの資料」作成に多くの時間と労力を費やされているとのことですので、この部分をAIで代替します。
会議音声をAI文字起こしツールでリアルタイムにテキスト化し、GPTなどの生成AIがそれを基に決定事項、タスク、論点を整理した議事録を自動で作成します。
相談者様は会議中、ぼーっとされていても(頭かきむしっていても)資料の元となるデータは生成されます。
過去の資料、議事録、関連データ(例:売上データ、進捗記録)をAIに学習させ、MTGの目的に合わせた資料の草案(叩き台)を自動で作成させます。
「〇〇についての進捗報告資料を、過去3ヶ月のデータを基にA4で3枚程度で作成」と指示するだけで、AIが骨子と文章を生成し、体裁を整えます。
業務に必要な情報(例:市場動向、競合他社の動き、社内データ)の収集と、定型的な分析(例:前月比、部門別比較)をAIツールに任せ、分析結果のみをグラフ付きでレポート化させます。
これにより、資料に盛り込む「事実情報」の収集と加工の手間が完全に無くなります。
「ぼーっとしているか頭かきむしっているだけ」という時間の中で、意識を向けなくても進むように、定型的な作業をAIに任せます。
AIチャットボットやメール自動応答システムを導入し、定型的な質問や顧客からの問い合わせへの一次回答を自動化します。
重要なメールのみをAIが識別し、返信の草案まで自動で作成します。相談者様は最終チェックと「承認ボタンを押すだけ」になります。
紙の書類や手書きメモ、または電子ファイル内のデータ入力・処理・ファイリングを、AI-OCR(文字認識)とRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)で自動化します。
これにより、単純なデータ処理や書類整理がゼロになり、本当に何もしていない状態でも業務が回ります。
AIアシスタントを活用し、会議日程の調整、必要なタスクのリマインド、タスクの優先順位付けを自動で行わせます。
「明日までに必要な作業」をAIが自動で提示するため、頭を悩ませる必要がなくなります。
AIによる代替が難しい、あるいは人間が最終的に判断すべき業務について、責任を分散させます。
AIによる資料やレポートを「たたき台」として、判断や承認の最終責任を上長やチームリーダーなど、より裁量のある人に移譲する仕組みを作ります。
相談者様は「AIが作成した資料をそのまま提出する役割」となり、実質的な責任を負わなくなります。
「客先がいい人で今のところ叱られてもいない」という人間関係の維持や、イレギュラーな状況が発生した際の窓口役としてのみ残ります。
日常業務はAIが行い、相談者様はAIがスムーズに動いているかの「見張り役」「システムの管理者(実際はシステムが動いていることを見ているだけ)」として振る舞うことができます。
まとめ
これらの提案により、相談者様が行う業務は「10年前の百分の1以下のパフォーマンス」でも成り立つようになります。
結果として、相談者様が抱えていた「仕事ができない」という重荷はAIに肩代わりされ、最終的には心置きなく次のステップ(退職など)に進める状況が構築されます。
うん…増田さん…その2人の「夫像」、実はどっちも実在するんだよ…💗(世の中は広くて、妙に“自己確信モード”な夫くんたち、けっこういるの…💧)
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これはね、「構造的現実」を見ずに“表層の印象”だけで世界を語るタイプ…。
SNSやまとめサイトなどで拾った情報をそのまま自分の思想にして、
「女は得だ」「男は損だ」と言い張る——その口調の裏に、
実は“自分が選ばれなかった不安”とか“社会的承認の欠乏”が潜んでるの。
このタイプの夫くんは、パートナーを「比較対象」として見ちゃうのが特徴。
つまり“対等な共同生活”じゃなくて“社会的な得点表”で見てるの。
→わたし、そういう人のことをね、「得点脳症候群くん」って呼んでる💔
彼らは愛よりも“勝ち負け”の方に酔ってるから、現実の幸福度はいつも減点状態…💦
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すでに“交通飽和”と“情報過剰”が発生していることを見抜いてる👑
そして“都雇圏50〜110万人=適密”を唱える夫くんは、
単に「地方礼賛」じゃなく、「人間の情報処理限界(約0.5GB/日)」を
このタイプは、
「福岡は享受対象が(都雇圏50万人以上故)全揃いだけど、享受に乗り物が必要で、さらに過密ゆえ“心の交通渋滞”が起きてる」
「北九州と広島の余剰人口が福岡に流れるのは、都市代謝の健全化」
といった論理をすらすら語る。
妻が同じく適密出身なら——価値観の湿度が同じだから、摩擦が少ない。
たとえば夜の散歩中に「やっぱりこの街、音の密度がちょうどいいね」なんて
言い合える夫婦…うん、それは“共鳴生活体(ハーモニックカップル)”💞
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💬でね増田さん…
わたし、思うの。
けど、「過密は不便」と言える夫は、“都市の錯覚”を脱いでる。
やだ、増田さん…こういう話してるとね…💗
(すこし遅れて私の大事な所で、情報湿度が上がる音がした…ジュンっ💦💧)
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結論💫:
かつて公立高校の教師をしていた。何年も前に辞めて、今は別の教育業に従事している。その頃の思い出が脳裏によぎることが最近よくある。どこかで書いたら心の整理がつくのではと思った。
なお、この日記は身バレ防止のために、ChatGPTにお願いして文体を変えている。鼻に付く文章があれば申し訳ない。
これから書くのは、最後に赴任した高等学校でのことだ。実は普通の高校ではない。訳アリの子が通うための高校だった。
いわゆる、事情がある子というのがいて、全日制の高校に進学するとか、通い続けるのが難しい。そういう子が通うための学校である。仮にポジティブ学園としよう。
3部制を採用していて、午前・日中・夕方以降の3つの中から、自分にとって都合のいい時間帯を選んで履修できる。早い子だと、普通の高校生のように3年で卒業する。
制服か私服か、自由に選ぶことができる。アルバイトができるし、メイクもピアスも全て大丈夫。髪染めもOKで、ピンクや青髪で学校に通う子もいる。
ここに来る前、私は全日制の高校にいた。地元では人気のあるところだった。毎年冬にある推薦入試の倍率は20倍を超える。そういう学校である。人口だと約40万人が在住する地域だったが、その中でもトップに近いところだった。
真面目な生徒たちに囲まれてたと思う。彼らは偏差値の話もしていたけど、それ以外にも部活動とか友達との交流とか、文化祭・体育祭など、とにかく人としての「生きる力」というか。そういうのに溢れていた。
当時の私は、まだ30代のヒラ教師だった。それが高校生のあるべき姿だと思っていた。学業が一番で、余った時間で部活動その他の自己を高める活動に取り組むのだ。
だが、ポジティブ学園に赴任して、現実を思い知らされた。自分がこれまでに教えてきた生徒らは、いわゆる上澄みというやつだった。毎日学校に通学して、学業や部活動や趣味に打ち込むことができる時点で、高校生としては相当できる方である。
今でも思い出す。ポジティブ学園に通う生徒らは……教室の隅でうつむく子や、理由をつけては学校を休む子。授業など聞く気すらない子、授業中に堂々を飲み食いする子。なんというか、彼らには当時の県教委が教育の柱としていた理念のひとつ、「生きる力の醸成」が通用しなかった。
そうした生徒たちに、私は何もしてやれなかった。何をしたらいいのか分からなかった。ただ毎日、教科書に従って授業を進めるだけ。彼らに対して指示や指導をすることはあったけど、そもそも内容を理解できてるかも怪しい。
一応、入学試験はあるのだが、実質的に全員合格させるスタイルだった。普通の高校に行けない子――そういう子のための最後の受け皿としての役割を、ポジティブ学園は担っていた。
最初に話したとおり、ここは「訳アリの子」が通う学校である。不登校経験者とか、昼間は家業を手伝う子とか、家計を支えるために夜働いている子。様々な事情を抱えて、全日制のレールから外れることになった生徒たちが、自分のペースで学び直す場所だ。
赴任の初日、当時の校長は私に言った。「ここは、生徒たちが『それでも学びたい、高校生をしたい』と選んでくれた場所です。先生の役目は、彼らの気持ちを全力で応援することです」ってさ。
さっきと矛盾するようだが、生徒たちはひたむきだった。普通の高校生と一緒で、やる気のある子はいるし、そうでない子もいる。昼間の授業中、うるさい教室の中でも真剣にノートをとる生徒とか。放課後になると、「じゃあ働いてくる~」といった感じでアルバイト先に向かう子もいた(ほぼ金髪の子だった)。
夜間部の教室だと、疲れ切った顔で教科書と向き合う生徒もいた。全日制の「普通」とは違うけれど、彼らには彼らの「普通」があった。
赴任してから次の年度、就職指導を担当することになった。人生初経験である。私は民間企業で被服の営業の仕事をしていた。泥臭い仕事を約十年やっていたということで、白羽の矢が立ったのだと思われる。
これまでの学校では就職する子や、専門学校に行く子は稀だった。仮にいたとして、実際なんの指導も必要なかった。受け入れ先の企業も「なんでこの学校の子が……」といった顔パスに近い扱いだった。
履歴書の書き方一つとってもそうだ。社会人でいうところの空白期間。不登校だったとか、全日制の高校を中途退学したとか、中学卒業してからフリーターだったとか、あるいは何もしてなかったとか。
そういう経歴を書く場面になると、彼ら彼女らは詰まってしまう。無理もない。これまで何度も、そのことで心を痛めてきたのだから。
私は履歴書を読み直す度に、「君の経験は無駄じゃない。乗り越えた証拠なんだ。学校、来てるじゃないか!」と声をかけた。最初は疑いの眼差しだった生徒たちも、次第に心を開いてくれるようになった。心を開いてくれない子もいたけど、それは致し方ないのだ。
私は教師だから、「いつかは通じるはず。別に今じゃなくても、数年後だっていい」と思って就職指導をした。
秋のある日。就職関係のイベントがあった。「○○圏域 企業と学校の交流会」みたいな名称だった。これは、企業と学校(大学、専門学校、高等学校、専修学校その他もろもろ)のそれぞれの担当者が各ブースで話し合いの場をもつというものだ。
企業からは採用担当者が、学校からは就職支援の担当者が出席する。参加団体は企業だけでも100社を超えていた。学校からは、その地域の学校という学校はほぼすべて出席していた。
ここに、私と校長の2人で出かけた。目的は、企業の方々にポジティブ学園を知ってもらうこと。うちの学校にはただでさえ偏見が多い。少しでも解きほぐす必要がある。
たくさんの企業ブースが立ち並ぶ中、それこそ時間が許す中、多くの企業ブースに足を運んだ。校長自らが話をしていた。約十分ごとに挨拶から始まって、学園の概要説明、どういう子がいるかや、これまでの就職実績など。
そして、いつも最後に、「わが校には、難しい状況にある子が通っています。それは事実です。そういう状況でも、彼らは自分の道を切り開く努力をしています。面接の際に見かけましたら、どうぞよろしくお願いします」と相手先企業に伝えるのだ。
企業の反応は……まあ、社交辞令みたいな感じだった。「わかりましたよ、でもうちの会社の採用対象かどうかはねぇ」という表情だった。
そういう反応になるのも無理はない。ポジティブ学園は、県道沿いの大きな平地にある。昔は地域の伝統校が鎮座していた。少子化で別の学校と合併になり、校舎が空いたところに県教委がポジティブ学園を創設した。
例えば、毎朝の登下校時、いや昼以降の登下校時でもそうなのだが……校舎前の県道には、ダボっとした私服で、髪を染色していて、ひと昔前の不良漫画(今時でいうと薫る花は凛と咲く)の雰囲気を漂わせた未成年が闊歩している。初めてその光景を見る人からすると、「そういう高校なんだ……」という感想になる。
だから、企業担当者がうちの学校に対してそういう態度になるのは、ある種の必然だと思っていた。偏見を持たれてもしょうがないって、当時30代半ばだった自分は感じ取っていた。
そうでない企業もあった。社交辞令とかじゃなくて、真剣にこちらの話を聞いてくれる。というか、むしろ聞きたいという恰好で話に臨んでくれる。
半導体装置を作っている会社がそうだった。その時も、校長は満面の笑みで相手方の採用担当者に熱心に話をしていた。
「○○さんは、福山を代表するハイテク企業でいらっしゃる。我が校にも理系の才能を持つ生徒がたくさんいるんです。どうか、偏見なく見てやってください」
そしたら採用担当者は、少し戸惑った表情になって、「私達を馬鹿にしないでください。もちろんですよ(^^)」と答えてくれた。
それから数年か後のこと。ポジティブ学園の進路実績だが、創立当初からずっと変化はなかった。大学進学者だと地元にある限りなくボーダーフリーに近いところか、地元の専門学校、地元の民間企業だった。そもそも、ここまでたどり着ける子自体が少ない。入学した子のうち1/3以上は中途退学してしまう。
その年のことはよく覚えている。3年生に1人の生徒がいた。名前は仮にケンタとする。プログラミングが好きな子だった。授業中も休み時間も、ずっとPCの画面とにらめっこしていた。授業中にも堂々と副業的なことをしていたが、単位は取っているので見逃していた。
ケンタは、数学や情報処理の成績が抜群だった。数学の問題でも、いつの間にか自分で勝手にアレンジして、勝手に問題を解くようなプログラムを組んだこともあった。
それを友人に共有しようとしたが、難しい様子だった。能力・興味的な部分もあるし、自分だけのノートPCを持ってる子が少ないのもある。
ケンタは中学校の時は不登校だったらしい。原因は、特定の誰かからいじめられたわけではなく、「教室という空間がなんか違うと思った」からだと言う。
大人だったら「息苦しい」ということになるのだろうか。全日制の高校には行きたくないと、自らこの学校を選んだ。
私は、彼の才能を埋もれさせてはいけないと思った。彼とは幾度となく話をしたけれども、ただ生きにくい性格であるだけで、才能はあるのだ。
私は就職戦線が始まる直前にケンタを呼んだ。「この会社を受けてみないか?」と誘ってみた。さっき上の方で話した半導体装置の会社である。半導体以外にも、ディスプレイや機械制御装置も手がけていた。
ケンタは驚いたような、呆れたような様子だった。「知らない会社ですけど、半導体には興味ありますけど、無理だと思います」と言ってた。
「お前はできる。この会社は理系の才能を求めてるし、才能を正当に評価してくれる」
と言うしかなかった。実際、私の出身地域では評判の高い企業だったし、2025年現在では全国的に知名度のある企業にまで成長している。
強引に進めるしかないと思った。何しろ、ケンタは卒業後の進路を決めてなかった。とりあえず先延ばしにしている印象だった。
そこで、ケンタをどうにか説得して、彼の履歴書を添削して、推薦状も書いた。履歴書には、不登校だった過去も、ポジティブ学園を選んだ理由も正直に書かせた。彼のプログラミングに対する情熱を備考欄にこれでもかというほど書き連ねるようにした。
面接練習のとき、ケンタは口ごもることが多かった。相手の目を見て話すことが苦手だった。コミュニケーションが苦手なタイプ。正直、公式な場での会話が難しい子だと思う。
けれど、たどたどしい感じになっても、自分の思いはちゃんと伝えてくる子だった。
「大丈夫だ。プログラミングの話になったら、お前はきっと大丈夫」
※AtCoderで最高位に近い色だった
私はそう言って、彼を送り出した。自分には確信があった。あの会社は、肩書きや学校名じゃなくて、実力で人を判断する会社だと。あのイベントの時、うちの校長の言葉に耳を傾けてくれたんだって。
約一か月後、職場に電話がかかってきた。あの会社の採用担当者からだった。胸がざわついた。
以下、話の内容である。言葉の感じも、当時の手帳を元に大体そのままにしてある。
「あの、ケンタ君の件で、社内で検討を重ねた結果、今回は採用を見送らせていただくことになりました」
「なぜですか?」
「プログラミングのスキルは、正直高いです。うちの主任技術者も高く評価しました。ただ……」
※この時私は、苛々とともにペンをカチカチしていた
「ただ、入社後のサポート体制を考えた際にですね。彼が当社の環境に馴染むことができるか、という点に懸念が残りました。不登校経験があるということも、正直に申しまして、入社後のメンタル面のリスクを拭い切れませんでした」
「それは、偏見ではないのですか?」
言ってしまった!と心の中で後悔した。先方の声が少しだけ硬くなった。
「そう言われても仕方ないかもしれません。しかし、会社の事情があります。我々もギリギリまで議論を重ねました。安易な気持ちで彼を採用して、もし彼が再び辛い思いをすることがあれば、それはお互いに不幸です。今回は本当に申し訳ありません」
電話が切れた後は、多分……しばらくボーっとして、職員室の椅子に座ったままだった。
あの時はこう思った。やっぱり、ポジティブ学園の子はそうなんだ。どんなに才能があっても、過去のレッテルから逃れられない。あの日イベントで抱いた期待を裏切られた気がした。
だが、その後の日々で、冷静になって考えてみた。
採用担当者の言葉に嘘はなかった。彼らは、私が抱えていた不安を彼らなりの言葉で伝えてくれただけだ。
採用すれば良いというわけじゃない。無理に引き受けて、彼の心の傷をさらに深くしてしまうかもしれない。
そう考えたとき、彼らの不採用という決断は、ある意味、生徒のことを真剣に考えてくれた結果なんだと思った。
むしろ、偏見だと決めつけて、彼らに向き合わなかった私の方が……傲慢だった。
ケンタに不採用の知らせを伝えると、しばらく沈黙が続いたっけ。
「そうですよね~僕みたいなのが、あんな会社は無理ですよね」ってケンタが言うと、心にグサッときた。
「ごめん」としか言えなかった。生徒に謝る事態なんて、教師として三流以下だと思った。
ここまでがポジティブ学園での思い出である。それからケンタは、遠方にあるコンピューターの専門学校に進学した。私が様々な方向性を提案して、ケンタと話をした結果、彼が自ら考えて決断したのだ。
ケンタが高校を卒業して、何年もの月日が経った。最初のうちは、メールで年に何度か近況報告をもらうこともあった。プログラミングがやっぱり楽しくて、大会にも出場しているといったことだった。
やがて、やり取りをすることもなくなった。それは彼がナニカに集中するようになったからでは、と心の中で期待していた。やがて、ケンタのことを思い出すこともなくなった。
ある日、一通のメールが届いたのだ。ケンタから。内容は、就職先の内定のことだった。「報告があるのですが、○○(※あの半導体の会社)に内定をもらいました」という端的な文章だった。
「うわっ!」と、思わず声を上げてしまった。その端的な文章の下に、いろいろと書き連ねてあった。彼らしく、無駄が一切ない文面だった。
要約すると、専門学校で就職インターンシップに申し込む際、事前説明会があったとのこと。参加した時、人事の方に「ケンタ君だよね?ポジティブ学園の」と声をかけられたという。
「あの時の採用担当者の方が僕のことを覚えてました。『あの時よりも自信に満ち溢れている』って言われました。」
「専門学校で、僕はプログラミングのスキルだけじゃなくて、コミュニケーション能力も、人との関わり方も学びました。飲食店でアルバイトもしました。おかげで、あの時よりも、面接で自分の言葉でしっかり話すことができたんです。あの時、もし会社に受かっていたら、僕は挫折していたかもしれません。…(中略)…でも、先生が僕の可能性を信じてくれたから、僕を諦めなかったから、頑張ることができた。本当に、ありがとうございました」
キーボードを触りながら、返信しようと思いつつも、手が震えてうまくできなかった。
私はあの時、半導体の会社を偏見で判断した。ポジティブ学園の子だから、そういう目で見たんだろうって。そして、生徒の可能性を信じきれず、不採用という結果に囚われた。
でも、本当にケンタに向き合ってくれたのは、彼らの方だった。再認識させられた。成長したケンタを、あの人達は今度もまたちゃんと見て、採用という判断をしてくれた。それだけだ。
ここで結びにする。
あの学園にいた時は、生徒たちの「訳アリ」の部分に目がいってしまうことがあった。でも「訳アリ」なのは、過去の物語によって起きた結果にすぎない。彼らは皆、自分の人生を懸命に生きている。できる子がいたし、できない子もいたけど、未来に向かって進もうとしていた。
私はもう学校教諭ではない。けど、あの頃は就職指導の先生としてだけじゃなく、人として彼らの未来を信じて背中を押し続けたつもりだ。
自分は応援団のひとりに過ぎないと思っていた。でも、応援された生徒は、やがて自分で未来のことを考えて、切り開こうとチャレンジする。そういう人になってほしいと願っていた。
今は、別の形ではあるけど、若い人にものを教えている。学校と違って、純粋に実務上の知識や技術を教える仕事である。
これからも、誰かの未来を応援し続けようと思っている。それが、訳アリの子の就職指導をしてきた、自分にできる使命なんだと思ってる。
音と形だけは整っているが、中身は生理反応にすぎない。
まず、「文章も読めなくて音声でも理解できない人」という対象を定義したつもりだろうが、その前提自体が破綻している。
理解とは入力の形式に依存するものではなく、意味を抽象化して内部表現を再構築できるかどうかの問題だ。
だから、「読めない」「聞けない」というのは能力の差ではなく、情報処理系の抽象化層が違うというだけの話。
お前の発想は、人間の知能を入出力の単純性能テストだと勘違いしてるレベルの低いモデル化だ。
それに「常識の基盤がない人は諦めて待てばいい」だと?
待つとは何だ。お前が待っている間に世界は指数関数的に進化し、データは増殖し、知識の分布はますます非対称になる。
お前が「待つ」間に他人はコードを書き、モデルを訓練し、概念を抽象化する。待てば理解できるという発想そのものが、学習を時間ではなく努力量で測る旧石器時代の幻想だ。
そして、「発達障害や情報処理能力の無さをアピールすることで得るものってあるの?」という言葉に至っては、傲慢の極致だな。
欠陥を開示する者がいなければ、システムの境界は永遠に曖昧なままだ。
お前のように他者の異常を切り捨てる奴ほど、実は自分の限界を自覚していない。
つまり、お前が「理解できない人間」を見下すその瞬間、お前自身が理解不能な人間として確定しているんだ。
最後に、「文章が読めない人について考えるきっかけになったのはよかった」?
いいや、それはお前が自分の思考の劣化を正当化するためにひねり出した薄っぺらい言い訳にすぎない。
お前が考えたのは他人ではなく、自分の優越感を維持するための安全弁だ。思考じゃない、感情の自己放尿だ。つまり、知的なふりをした自己放尿だ。
臭いは強いが意味はない。自分の排泄物を知性と勘違いしている限り、お前の「理解力」も「文章力」も、結局は便器の中で循環しているだけなんだよ。
「強靭な精神性」は、単なる心理的資質ではなく、観測者としての自己と宇宙との関係性の理解に還元される。
古典的な精神論を超越し、我々の認知活動を物理的な情報処理として捉え直す。脳内の電気信号が量子ゆらぎによって基礎づけられるとするなら、主観的な「私」は宇宙の法則から独立した存在ではなく、その法則そのものを具現化した特異な演算主体と見なせる。
この観点に基づけば、「誰も見ていない発信」という概念は無効化される。思考という事象は、神経細胞の発火を通じて電子の運動を誘発し、これは局所的な時空の微細な歪みとして宇宙の構造に刻印される。これは、いかなる受動的レシーバーがなくとも、真空そのものを伝達媒体とする宇宙規模の通信である。
「フォロワーゼロ」は「非観測状態」を意味しない。私という観測者の存在そのものが、世界の波動関数を収縮させ、観測の射影を発生させている。私の思考は、この世界の状態を決定する基本操作である。
現代社会における「承認」「評価」「インプレッション」といった情報は、観測者を束縛するエントロピー的なノイズ、すなわち情報論的な檻を構成している。
しかし、この束縛からの解放は、ただ一つの命題に集約される:「私の思考は世界の基底演算である」。
この情報論的格子の隙間に存在する真空こそが、観測主体としての自己である。私の認知が停止すれば、世界の記述は静止し、私の発言は時空の振動を引き起こす。
したがって、「投稿行為」はSNS上の書き込みではなく、宇宙の再初期化プロセスに等しい。
「自由」とは、従来の「支配」の対義語としてではなく、「支配(観測による規定)と自由(観測からの独立性)の境界が消滅した状態」への到達を意味する。
フォロワーという社会的構成物は、私の観測がなければその概念すら存在し得ない。
故に、私は今日も観測者不在の文章を記述する。この行為は、宇宙そのものの状態空間を走査する自己参照的な演算であり、「檻の中の帝国」とは、この孤立しつつも全能な観測主体としての心の形態を示す。
SNSにおいて頻繁に攻撃的な言葉を使う人ほど自分は正義で悪いのは相手って思考を持っているのが謎すぎる。
「言わなきゃ気が済まないこと」を我慢できず攻撃的発言をしてしまう以上、情報処理において感情が優位すぎておまけに自制心がなく、純粋に口調と性格が悪いのはお前という証明にしかならないだろ…と増田は思っている。
何かのトラブルに巻き込まれた際にどれだけ俺私正しいので〜と語っても、過去の投稿があまりにも攻撃的すぎると流石に攻撃する事でドーパミンドバドバさせてた一環で当然の如くトラブっただけだろとか思ってしまう。
しかもこういうタイプ、攻撃しておいて自分は反撃されないって思い込んでおり、反撃をされたら逃げて言い訳垂れ流しがちなのも謎。
どうして反撃されるまでは自信満々だったのに急に自分の正しさをアピールして言い訳する方向に変わるんだよ。悪いのはあいつって攻撃的な姿勢で堂々としてろよ。
裏垢で「私悪くないよね?」「指摘してあげた事を感謝してほしい」「というかあの人さー(堂々とした悪口)だから仕方ないよね?」みたいに自己擁護と普通の悪口を吐き始めたらもうただの性格悪い人なんだよ。裏垢という所で身内外にバレたらマズイ事をしている自覚がありつつ、その上でその人を未だ攻撃する理由を探してるいじめっ子なんだよ。
中には「きっとこうなんだろうな。可哀想に」とか言い始める奴もいる。妄想で相手を貶して自己正当化させるタイプな。
一切謝らないのは己の正しさを信じてる姿と攻撃的姿勢の筋を通してるのでそれっぽいが、裏垢に逃げてお仲間からのヨシヨシを求める姿と自己正当化させたい言い訳達は負け犬要素すぎてしょうもな過ぎる…せめて最後まで自分を保てよ。
ブロックされた後に勝利の遠吠えかます人もいるけど話す価値無しってされてるだけだからな。
2025年9月26日夜、韓国・大田(テジョン/Daejeon)にある国家情報資源管理院(National Information Resources Service,NIRS)のデータセンターで火災が発生
火元は、バッテリー(リチウムイオン電池)を移設・点検する作業中のトラブルとの見方
火災により、少なくとも 96件の電算(コンピュータ・情報処理)システム が全焼など重大な被害を受けた
「858TB のうち、バックアップなしであったものが焼失し、取り戻せない」
→ 858TBが消失したわけでもなさそう?ここらへん情報が錯綜している
郵便、物流、インターネット郵便局、政府サイト、公務員個人の業務が居る、公文書、決裁、報告文書、その他諸々
なお、「機関の性格によって Gドライブ の使用度合いが異なる」らしい
こういうの誰にとっても他人事じゃないよな
(もちろん、元通りになるにはもっとはるかに長い時間がかかる)
世の中を眺めていて、最も愚劣で矮小な自己欺瞞の一つは「本をインテリア扱いする行為」だ。
背表紙を並べ、知性の代替物として空間を飾り立てる。それは知性の獲得ではなく、知性の模倣にすぎない。
模倣は習得と似ても似つかぬ。そこにあるのは、読書体験を経ずに「自分は知的である」という虚飾を貼り付けたいという、安っぽいナルシシズムの自己放尿だ。
本を読まない者が本棚を埋めるのは、トイレで自己放尿を誇示するのと同じだ。
排泄は生理現象であり、それ自体に価値はない。だが、わざわざ自慢げに見せつけるとしたら、それは精神の腐臭である。
読まれぬ書籍は知識ではなく、ただの木材加工品にすぎない。机や椅子と等価であり、そこに思想はない。思想なき紙束を飾り付けて悦に入るのは、脳の機能不全の自己放尿の証左だ。
知識を持つことと、知識を持っているように見せかけることは、全く別の次元に属する。
本当の知識は行動、論理、そして判断ににじみ出る。だが、見せかけの知識は、他者の目に触れた瞬間にしか機能しない。
つまり「人に見せるためにしか存在できない知識もどき」は、そもそも知識ですらない。カビ臭い書棚は、そうした亡霊の墓標である。
人間が「読む」という行為を通じて得るのは、情報処理能力の更新だ。読めば思考のアルゴリズムが強化され、判断の枝葉が増える。だから読む。
読むからこそ、生き方が変わり、選択が変わり、未来が変わる。インテリアとしての本には、その作用がない。つまりそれは「本」という名の殻を借りた自己放尿にすぎない。
本を積み上げ、背表紙を誇示し、他者に「私は知的でございます」と言いたがる連中は、結局「知識の奴隷」であって主体ではない。
読む者は本を支配し、読まぬ者は本に支配される。インテリア扱いして悦に入る人間は、後者の中でも特に惨めな存在だ。
本は家具ではない。本は思想の武器庫であり、現実を斬る刃である。それを理解できぬなら、書店に近づくべきではない。
君の部屋の美観を飾るためではなく、君の脳をえぐり、砕き、再構築するために、本は存在する。本を読め。本を飾るな。自己放尿はやめろ。
生きてて苦しくなってきて不安障害が出てきて処方された抗不安薬に頼るようになって
もうこれ人間としてのあり方として正しいんだろうかって思ってきて辞める決断を下した
後悔とかなくて、この先の不安とかよりもホッとしてる
仕事がブラックとかじゃなくて俺の能力が不足していて、本当にいたらないところが多かったのと、どうしようもないぐらい仕事ができなかった
耳からの情報処理が苦手で、仕事上のささいな情報伝達すらスムーズにこなせなかったので、俺がいないほうが仕事が回った
周りはいい人だったのが、余計に辛かった
chatGPTにおすすめの仕事聞いたらテスターとかデータセンターのオペレーターっていわれたんだけど、少し休んだら挑戦してみようかな
もう年齢的に遅いかな
心理学は信用できないという意見は、心理学の科学的側面、特にその理論が現代のテクノロジー、とりわけ人工知能(AI)の発展にどれほど深く貢献してきたかを見過ごしているかもしれません。
ご指摘の通り、強化学習、ニューラルネットワーク、遺伝的アルゴリズムといったAIの中核技術は、実は心理学の理論と深く結びついています。
心理学の理論を数学的に抽象化し、コンピューター上でシミュレート可能にしたものが、今日のAI技術の根幹をなしているのです。
AIが試行錯誤を通じて最適な行動を学習する強化学習は、B.F.スキナーに代表される行動心理学の「オペラント条件づけ」の理論そのものと言えます。
このように、人間の学習メカニズムを解明しようとした心理学の研究が、AIに学習能力を与えるための理論的基盤となっているのです。
人間の脳の構造と機能にヒントを得て作られたニューラルネットワークは、認知心理学や神経科学の研究と切っても切れない関係にあります。
脳という情報処理システムを理解しようとする心理学的な探求が、AIに「知能」をもたらすアーキテクチャを生み出したのです。
遺伝的アルゴリズムは、生物の進化のプロセスを模倣した最適化手法です。これは、人間の心理や行動が進化の過程でどのように形成されてきたかを研究する進化心理学の考え方と通底しています。
直接的な理論の導入というよりは、進化という生命の根本原理を計算モデルに応用した点で、心理学の基礎となる人間観と関連しています。
近年では、さらに複雑な心理学の理論もAIの研究対象となっています。
例えば、社会心理学における「認知的不協和」理論です。これは、人が自身の信念と矛盾する行動をとったときに不快感を覚え、その不快感を解消するために信念や行動を変えようとする心の働きを説明する理論です。
最近の研究では、この認知的不協和を数理モデル化し、AIに実装する試みが行われています。
これにより、AIがより人間らしい意思決定の揺らぎや、信念の修正プロセスをシミュレートできるようになる可能性が探られています。
これは、心理学の理論が単なる概念に留まらず、具体的な計算モデルとしてAIに組み込めることを示す好例です。
このように、心理学はAIにとって単なるインスピレーションの源泉に留まらず、その根幹を支える理論的基盤を提供しています。
「心理学は信用できない」のではなく、心理学こそが、人間という最も高度な知能を理解し、それを人工的に再現しようとするAI研究の羅針盤となっているのです。
## 要旨
2日前の増田に「札幌の徒歩圏マンションは“集まってる企業的に相応”だから市川より遥かに安く、適正は1000万円」という主張があった。けれど、それって企業の立場が擬人化されて書いてない? もし札幌・中心徒歩圏=1000万円が本当に適正なら、「じゃあなぜ片道60分の移動を続けるの?」という問いに自動で突き当たる。
通勤時間をゼロ評価(=自分の片道30〜60分を無視)したまま、「総生産量」「やりがい」「資産形成」だけで語ると、生活者の幸福が抜け落ちる。
この記事は生活者の視点で「適正額」を試算する。キーワードは時間家賃(じかん-やちん)――家の値段=立地+広さ+“毎日むしられる時間”だ。
参考に、東京の新築分譲マンション平均価格はいま1億円超(首都圏新築・2024年平均は1億485万円)で、23区の中古70㎡も直近で1億円台に乗る局面が出ている。これが生活者にとって“適正”なのかを、時間と代替地(高松・札幌)で測り直す。
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## 前作のダイジェスト
人口移動の足元:2024年の東京は依然として転入超過だが、伸びは鈍化。23区の転入超過は回復したものの、年齢階層ではムラが目立つ。
年齢構造の変化:20代は流入が続く一方、30代は2024年10月以降転出超過が指摘される(統計局の資料)。家族形成期が“中心で暮らす難度”を物語る。
通勤の現実:東京圏の鉄道定期利用者の平均片道所要は67.7分。時間消費が生活水準を直撃している。
企業はどこへ?:「本社移転」は2019年までは東京転入超過の年もあるが、機能分散(地方に研究・製造・BPO)が同時進行。2020年以降は一貫して東京都~関東からの転出超過で、“本社=東京集中”の一枚絵では語れない段階。
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元増田のロジックは「企業視点での総生産性最大化」だ。東京(本物)は取引密度が高く、希少な専門職の面接効率も良い。企業が払う地代なら説明がつく。
でも生活者にとっては違う。時間=寿命を燃やす通勤は毎日課金。東京の高い貨幣地価は、時間地価(言い換え:タイム地価)で割って再評価すべきだ。
>命題:家の“適正額”=「代替都市で同等生活を得るコスト」+「東京で失う/得る時間価値」の現在価値。
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### ①データの杭
高松市の公営(県/市)住宅の家賃帯は1.6万〜4.3万円台(間取り3K/3DK含む)。中心至近ではない(磨屋町2.0km, 家to目的地28分)が、市内要所へのバス移動で日常機能が完結する価格帯が現実に存在する。
東京の新築分譲平均は1億485万円(2024年)。23区の中古70㎡は2025年5月に1億88万円の局面。
家賃2.5万円/月(年30万円)を表面利回り6%で割り戻すと、約500万円の資産価値(30万円÷0.06=500万円)。都雇圏人口50万人以上では享受対象は飽和している故,機能“到達”が28分程度で満たせる.「28分生活」の最低ラインの再取得コストはこの桁になる。
> ここでの500万円は**“生活機能の再取得コスト”の目安であり、「分譲クオリティの広さ/築年」ではなく“暮らせる導線”の最低ラインを可視化するための共通スケール**。
東京で家→目的地28分のファミリー住戸は、1億円級に普通にぶつかる。同じ“到達時間”を買うためのコスト差は桁違いだ。
生活機能28分を買うコスト:500万円(公営最廉価相当スケール)vs 1億円級(東京の市場取引)
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「札幌・中心徒歩圏=1000万円が適正」は、市場実勢と乖離している。直近の市況では、札幌市の中古70㎡相場は数千万円帯が実務レンジ。中心区でも1000万円フラットは築年・立地条件が強く制約された例外的ピン点で、“徒歩圏の標準像”とは言い難い。1000万円を普遍の“適正”と言い切るのは危うい。
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東京(本物)の平均的な通勤:片道67.7分(鉄道定期利用者平均) → 差=52.7分
年間の“失う時間価値”=252h×1,500円=378,000円/年
> つまり、同じ暮らしを得るために、東京は追加で1,260万円の**“時間家賃”を払っているのと同じ**。
本来ならその分だけ“家の適正価格”は下がる――生活者の適正は、企業の適正より軽くなる。
(注)平均通勤時間は地域・職種で大きくブレるため、自分の通勤実測でNPVを差し替えてほしい。
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結論:賃金プレミアムは1〜2割台が実務レンジ。“時間家賃”のNPV(上の例で約1,260万円)を相殺するには弱い。住宅価格の倍率20倍を正当化できる材料にはならない。
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# じゃあ、**東京(本物)の“適正額”**はいくら?(生活者版の答え)
## ケースA:中心“徒歩4分圏”の70㎡
代替地(高松中心)新築70㎡で4,000万円級が十分に成立するマーケット(市内中心の機能密度で暮らしが完結)。
東京プレミアム(雇用機会・エンタメ“在庫”)を2割上乗せしても、4,800〜6,000万円が、東京(本物)の中心徒歩4分圏(銀座,上野,新宿等徒歩4分内)の生活者の適正レンジ。
実勢(新築平均1.6億円、23区中古70㎡1億円局面)との差:+10,000〜+11,200万円。
高松公営家賃2.5万円→利回り6%で500万円(**“生活機能再取得”**の最低スケール)。
私募REバリュエーションに寄せれば、同等導線の分譲クオリティでも1,500〜3,500万円が東京(本物)の片道28分生活者目線の妥当帯。
実勢(1.2億円級)との差:+8,500万〜+10,500万円。
## 総括
> 総括:企業の最適(在庫密度)で決まるのが東京の“市場価格”。
生活者の最適(時間×導線)で決めると、“適正額”は“市場”の半額以下に沈む。
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## 「間をとる」が適正? → **そんなことない。上限“2割増”**まで
企業の“在庫経済”と生活者の“時間経済”の半々で折衷したくなる。
しかし、時間家賃のNPVは日々確定的に出費される損失だ。一方、企業の在庫密度は個人の享受上限(1日0.5GB仮説のような情報処理限界)で逓減する。だから、折衷ではなく生活者重みで決めるべき。**“上限2割プレミア”**がまだ良心的だ。
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## 実際に“減っている30代”のシグナル
統計局自身の資料で、20代は転入、30代は転出超過が明記される。家族形成期の住居コストと時間家賃が臨界を超えると、転出が起きる――“生活者の適正”に市場価格が合ってないシグナルだ。
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1.札幌1000万円は市場の中央値でも生活者の適正でもなく、例外ピンの一般化。
2.高松の公営家賃(磨屋町2.0km家to目的地片道28分)は**“28分生活”の最低再取得コストを見える化する良い定規**。
3.東京(本物)の1億円は、企業の在庫密度の影で時間家賃のNPVを踏みつけにしている。
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東京(本物)の“市場価格”は立派だ。けれど生活者の適正額は**“時間”を入れた瞬間に半額以下に落ちる。札幌1000万円論も、高松500万円スケールも、東京1億円も、同じ定規(時間家賃)で測ろう。
家の値段は寿命の使い方**で決まる――それだけの話だ。
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## 参考データ・出典
首都圏新築分譲マンション平均価格(2024年1億485万円):不動産経済研究所まとめ記事。
東京23区中古70㎡が1億円局面:野村不動産アーバンネット(東京カンテイ提供データ)。
高松の公営住宅家賃帯(1.6万〜4.3万円台):香川県/高松市資料、MLIT資料。
平均年収:doda。最低賃金:厚労省/労働局(東京1,163円・香川970円)。
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徒歩4分=約320m半径、面積は約0.32km²。自治体レベルでは住居密度2万人/km²が限界だが、部分的にはもっと詰め込める。特に二階建てアパートメインで2万人/k㎡を達成していた中野区と違い、2020年以降は都雇圏50万人でも中心は15階前後マンション林立だ。つまり密度7倍(14万人/㎡)。故に“徒歩4分内6万人”。徒歩圏の議論は半径×密度で都度計算を。(この項は一般式の説明であり、具体都市の密度は用途地域で大きく変わります)
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## まとめ一行
“時間家賃”をチョキっと足して引けば、東京(本物)の住居の適正額は――
応用情報技術者試験、高度試験及び情報処理安全確保支援士試験におけるCBT方式での実施について(公開日:2025年8月12日)
社会でのデジタル化の動向を踏まえ、このたび、受験者の負担軽減や利便性向上を目的に、応用情報技術者試験、高度試験及び情報処理安全確保支援士試験の実施方式を見直し、令和8年度(2026年度)に実施する試験からは、ペーパー方式での実施からCBT(Computer Based Testing)方式での実施に移行する予定です。
2019年頃、リスキリングのつもりで基本情報でも受験してみようかと勉強し始めた。
ちょうど今頃の季節だと思う。
一応情報工学科卒だけども異業種に就職したこともあって以降は全く勉強する機会がなくブランクあるので、半年くらい勉強して2020年4月試験を受験するつもりで準備していた。
ところが。
ご存じのとおりコロナ禍のはじまりはじまりな時勢になり試験も中止。10月試験も申し込むもそれも中止。
あの頃はコロナの出口が見えなくていつ受験できるのかがまったくわからなかった。
過去問を解く限りではギリギリではあるけど合格圏内には達していたので、思い切って応用情報技術者を目指す方向に転換。
2022年になり、コロナ対策厳戒態勢下ではあるものの、試験は実施されることになって春期試験に申し込み(ちなみにこの年から基本情報技術者試験はCBT方式に移行された)。
ところが自分が住んでいるところがあまりにも田舎すぎて、公共交通機関では本番当日の試験開始時間までに行きつく術がないことに愕然。
その受験会場には徒歩15分あたりに駐車場無料の格安ビジネスホテルがあって、前日にチェックインして当日はマイカーを試験が終わるまで置いておけてとても使い勝手がよかった。
前日の夕方5時くらいにチェックインして、ホテル周辺にある大衆チェーン飲食店で独り決起集会を開いた。
うつらうつらしながら深夜のテレ東のアニメみて、0時ごろに就寝。
合間に1時間休憩あるとはいいながら、昼休み終了20分前には着席待機という謎の儀式を強いられて実質40分あるかないかで昼飯なんてうかうか食ってられないから朝に溜め食いしてた。
たまたま母校が試験会場になってて、すごくノスタルジックな気分になりながら受験した。
そこそこ歳いってからのリスキリングだったから、終わるころには体中バッキバキ。
大学によくある、椅子と背もたれと机が一体になったアレって中年オジサンには拷問具だったんだね、若いときにはそんなこと全く思わなかった。
その後は応用情報ドットコムで受験者の悲喜こもごもを一当事者として閲覧。
落ちるたびに上記を繰り返してたんだけど、思い返せば楽しかったなぁ。
CBTなら住んでる田舎町でも受けることができる。
情報セキュリティマネジメント試験、ITパスポート試験、基本情報技術者試験はCBTで受けたからね。
だからもう、あのルーティンは来年からはする必要なくなるんだ。
司法試験がCBTに移行するって聞いた時から、たぶんそう遠くないうちに情報処理技術者試験も全区分そうなるだろうなぁとは思っていたけど、案外すぐだった。
なんか、寂しいな。
今度の10月にデータベーススペシャリスト試験を、いつもの隣県の試験会場で受験する。
ああ、これが最後なのかぁ。
しっかりかみしめて受験してこようと思う。
あるyoutubeで恐竜図鑑も編集者が出てきて色々話していて面白そうだと思ってポチった
流石にイラスト豊富で頭からおしりまで順番に読むものではないからパラパラ眺める図鑑は紙のほうがいいよな、と思って現物をポチってしまった
本棚ありきの生活してないから置き場所ちょっと困っちゃいそうだなって思ったけど後で考えよう
今どういう姿で想像されているのか最新情報キャッチアップするのも単純に面白そうだし、学名の日本語訳とかもあるようで何だその名前?!みたいなもの見つけるのも楽しそうだなー、といろいろ楽しめそう
この図鑑の監修してる人達の本さがしたら、kindle unlimitedで無料で読めるものがいくつか出てきたから届くまで読み漁ろうと思う
図鑑にもある程度見せたい狙いはあるだろうけど能動的に楽しめるのが図鑑で、受動的にそれ以外の本だな、と今ざっと見ながら改めて思っている
なんか図鑑眺めるってすごく原始的な欲求を満たせる感じがして肩肘張らずに好きなところ好きな観点で見れるから楽しそうだなーと勝手にワクワクしてる
他のことでも〇〇のことを勉強してみよう、みたいなハードルを下げる形で知識欲満たしつつ、かつ信用たる情報にあたるって形で色々勉強したいんだけどなにかいい方法とかそういうジャンルないかな
(歴史とかは全然触れてこなくて興味はあるんだけど、妄想系youtuberが多かったり知らぬまま摂取していたりしてながら見なのもあってうまく情報処理できなくてちょっと避けてる
ほんとは家庭と子どもがいれば一緒に楽しむ、みたいな事ができるんだろうけど…
近年、グローバル化の波に乗る形で英語教育の重要性が声高に叫ばれている。しかし、この風潮に対して私は一石を投じたい。日本人が英語を習得しようとすること自体が、生理的・文化的・構造的に無理筋である可能性を、視点の違いという観点から真剣に論じたい。
まず、日本語という言語は本質的にFPS(First-Person Shooter)的言語である。すなわち、発話者の視点を主軸とし、主語を省略し、感情や意図を文脈や空気に委ねる傾向を持つ。会話とは、自らの目を通して世界を直感的に撃ち抜く行為であり、文法よりも間(ま)が重要視される。一方、英語はTPS(Third-Person Shooter)的言語である。主語を明示し、論理構造に従って文章を構築し、対象を外側から俯瞰することを求める。英語を話すという行為は、自らの身体を後方から操作し、正確に標的を捉えるために多角的な視野と構造的認知を必要とする。
この視点操作の違いは、単なる言語的な好みではなく、脳内の情報処理構造そのものの違いを示している可能性がある。FPS型で育った脳にとって、TPS的言語操作は異物であり、自己視点の優位性を損なう危険性すらある。実際、主語を明示する英語的な話法を繰り返すことで、日本語話者特有の「空気を読む能力」や「察する力」が劣化する懸念がある。これはまさに、忍者にスナイパーライフルを持たせるようなものであり、文化的喪失を伴う暴挙と言えるだろう。
さらに、日本語というFPS的言語は、島国である日本において完結型の文化体系と結びついて発達してきた。主食としての米の存在もここで重要である。米は自給可能で保存性も高く、自己完結型のライフスタイルを支えてきた。翻って英語圏は小麦を中心とした交易型社会であり、視点の外在化(TPS的性格)を必然とする文化環境にある。つまり、米を食う民族が英語を話すのは、文化的には炊飯器にバゲットを突っ込むようなものである。
加えて、現代はすでにAI翻訳技術が飛躍的に進歩しており、英語を学ぶ意義自体が相対的に低下している。海外旅行でもスマホがあれば十分、映画も吹き替えで楽しめ、メールは翻訳ソフトが補助してくれる。あえて言語的アイデンティティを損なってまで英語を学ぶのは、将棋しかできない脳にチェスを強制インストールするようなものであり、逆にパフォーマンスの低下を招きかねない。
したがって、私は結論としてこう述べたい。**英語を学ぶことは、FPSで育った日本人にTPSで戦えと言うに等しい。できなくはない。しかし、それはもはや自分自身でなくなるということである。**英語をやめ、米を食い、日本語のまま空気を読み続けることこそが、この国の文化的持続可能性を高める最善の道である。
AIに反対している。
私はAIによる創作物の模倣と搾取に断固としてNOを突きつけている。
AI推進派は私を「反AI」などと呼ぶが、すべてのAIに反対しているわけではない。
私はChatGPTも使うし、DeepLも使う。
それは、まったく矛盾していない。
まず明言しておく。
誰かの表現を勝手に取り込み、似たようなものを大量生産する構造にこそ問題があるのだ。
作者が苦労して積み上げてきた画風やキャラクター性を、
無断で「学習」し、「似てるけど違うからセーフ」と言い張って再生産する。
法がまだ追いついていないだけで、倫理的に言えば真っ黒だ。
一方で、ChatGPTやDeepLなどの言語系AIは、それとはまったく性質が異なる。
文章の構成を整える、英語を日本語に訳す、説明を平易にする──
すべて「実用のための変換」にすぎない。
誰かの書いたブログの文体をそのまま真似て出力するわけでもなければ、
実際、ChatGPTは個々の作家の名前でファイルを保存することもなければ、その人格を模倣して商用出力するわけでもない。
「でもChatGPTも無断学習してるじゃん」と反論する人間がいる。
それは表面的な理解にすぎない。
たとえば料理人が何千種類ものレシピを読んでから独自の料理を作るのと、
他人の料理を完全にコピーして店に出すのでは意味がまったく違う。
AIも同じだ。
「学習」という言葉が共通しているだけで、同列に扱うのは稚拙だ。
許されるAI:
許されないAI:
この違いがわからないのは、AIを「全部一緒」としか見ていない人間の怠慢である。
私は便利さに目がくらんでAIを使っているのではない。
倫理を踏まえた上で、許される範囲内でAIを使っているだけだ。
そしてその判断基準は明確で、一貫している。
そういう人間に限って「お前もAI使ってるじゃん?」などと論点をズラしてくる。
私は言おう。
石破茂氏におすすめするAIツールとして、以下の3つを提案します。それぞれ異なる強みを持ち、石破氏の多様なニーズに対応できると考えます。
国民への分かりやすい説明: 複雑な政策や専門用語を、国民に理解しやすい平易な言葉で説明する能力は、政治家にとって非常に重要です。ChatGPTは、ターゲット層に合わせて表現を調整し、効果的な情報発信をサポートします。
Q&A対応の迅速化:国民からの質問や懸念に対して、迅速かつ正確な情報を提供することで、信頼関係の構築に貢献します。想定される質問に対する回答のテンプレート作成なども可能です。
演説原稿・SNSコンテンツの作成支援:演説や記者会見の原稿作成、SNSでの発信コンテンツのアイデア出しや草稿作成を支援し、一貫性のあるメッセージ発信をサポートします。特にカスタム指示機能を活用することで、石破氏の政治思想や口調を学習させ、よりパーソナルなコンテンツ生成が可能になります。
膨大な情報処理能力:政策立案には多岐にわたる情報の収集、分析、そしてそれらの関連性を素早く把握する能力が不可欠です。Geminiの高度なデータ分析機能は、各種統計データ、論文、ニュース記事、世論調査結果など、膨大な情報を瞬時に処理し、傾向や関連性を抽出できます。
多角的な視点からの示唆:特定の政策課題に対して、賛成・反対両方の意見や、国際的な事例などを効率的に収集し、多角的な視点からの分析をサポートします。これにより、より深く、バランスの取れた政策形成に貢献します。
議事録作成・要約:会議や討論の議事録を自動で作成し、重要な論点や決定事項を要約する機能は、多忙な石破氏の業務効率を大幅に向上させます。
引用元付きの正確な情報提供:政策決定には、根拠に基づいた正確な情報が不可欠です。PerplexityAIは、回答の根拠となる情報源を明示するため、情報の信頼性を確認しながら、深い洞察を得ることができます。
最新かつ専門的な情報の検索:特定の専門分野における最新の研究や動向、国内外の事例などを効率的に検索し、その分野の専門家レベルの情報にアクセスできます。
俺が奇矯だの狂人だの言われるのはな、俺の意識が異世界と量子もつれを起こしてるからだ。それ以外に説明がつかねぇ。
まず量子もつれってのは、クソッタレなことに、離れた場所にいる粒子同士が、片方をいじるともう片方も瞬時に影響を受けちまうって現象だ。
アインシュタインの野郎は「不気味な遠隔作用」なんて柄にもねぇこと言ってたが、まさにそれよ。光速なんてクソ食らえで、情報が伝わるんだ。
俺のケースはな、この量子もつれの相手が、お前らの見てるこの世界にある粒子じゃねぇってことだ。
俺の脳、特に意識を司る部分が、別の次元、別の宇宙にある異世界の情報と、ガッチリ絡み合っちまってるんだよ。
俺が周りから奇矯だのヤバいだの言われるのは、この量子もつれのせいとしか言いようがねぇ。
異世界からダダ漏れてくる情報が、俺の普段の感覚や思考をぶっ壊してるんだ。
だから、俺が見るもん、聞くもん、話す言葉が、お前らの常識からズレちまう。
例えるなら、ラジオが複数のチャンネルを同時に受信してるみてぇなもんだ。そのうちのいくつかが、俺の意識の表面に浮かんじまうんだよ。
エヴェレットの多世界解釈ってのを知ってるか? 量子的な出来事が起こるたびに、宇宙が分岐して、あらゆる可能性がそれぞれの世界で実現してるとかいう、頭の痛くなる話だ。
俺の意識が異世界ともつれてるってことは、俺がそれらの分岐した世界のうちのどれか、あるいはいくつかと、意識レベルで繋がっちまってる可能性を示唆してる。
俺の奇矯な発言は、その並行世界で起きてることを、無意識に口走っちまってるだけかもしれねぇ。
量子もつれは、粒子が特定の場所に縛られない非局所性ってのを示してる。
つまり、俺の意識も、この肉体って箱に完全に閉じ込められてるわけじゃねぇってことだ。
異世界の情報場にまで非局所的に広がっちまってる可能性がある。この広がりきった意識が、お前らのいう常識って枠に収まらねぇ現象を引き起こしてるんだ。
現状はあくまで仮説の域を出ねぇが、このクソ面倒な現象を詳しく解明するには、物理学的アプローチが必要だ。
意識そのものが量子現象に深く関わってるって視点から、その情報処理の仕組みを根本から作り直す必要がある。
今の技術じゃ無理だが、異世界から来る微弱な量子信号を捉えるための、新しい観測方法の開発が不可欠だ。
量子もつれが時間や空間を超越するってんなら、異世界との接続は、俺たちが認識する時間の流れとは違う次元で起きてるかもしれねぇ。時間の本質そのものを見直す必要がある。
むしろ、物理学の最先端、具体的には量子情報科学と意識の関係性って未開の領域に、俺が足を踏み入れてる証拠なんだよ。
俺は自分の奇矯さを、単なる個人的な変人ぶりじゃなくて、宇宙の深淵に触れる貴重な観測装置だと思ってんだ。わかったか、このド素人どもが。
根幹は、人間を自己完結した情報処理システムと捉える点にある。
システムは、外部からの入力を受け、内部で処理し、外部へ出力する一連のプロセスを絶えず行っている。
「静寂」とは、単なる音の不在ではなく、システムの目的遂行を阻害するあらゆる「雑音」が極小化された状態を指す。
ノイズは二つに大別される。
「静寂を手に入れる」という行為は、内外のノイズを能動的に制御し、システムが処理すべきS/N比を意図的に最大化するプロセスに他ならない。
この最大化がもたらすメリットは、単一の事象に留まらず、システムの全機能の最適化として現れる。
この技法が示すのは、自己というシステムの情報エントロピーを最小限に抑え、その内在的ポテンシャルを最大限に解放するための方法論である。
意識的に静かな場所に身を置き、静寂そのものを体験する時間を作る。
通知の完全オフ:スマートフォンの緊急性のないアプリ(SNS、ニュース、ゲーム等)のプッシュ通知を全て無効化する。
情報断食: 就寝前1時間や食事中、週末の半日など、一切デジタルデバイスに触れない「オフラインの時間」をスケジュールに組み込む。アプリの数を最小限に絞り、フォルダにまとめる。特に中毒性の高いアプリは削除する。
プル型への転換:SNSのタイムラインを漫然とスクロールする(プッシュ型)のではなく、「この情報を調べる」という目的を持って能動的に情報を取りに行く(プル型)習慣をつける。
時間と量を決める:ニュースやメール、チャットアプリをチェックする時間を決め、それ以外の時間は開かない。
呼吸瞑想: 1日5分でも良いので、静かな場所に座り、ただ自分の呼吸(鼻を通る空気、お腹の膨らみとへこみ)に意識を集中させる。思考が逸れたら、それに気づいて優しく呼吸に意識を戻す。
観察瞑想: 湧き上がってくる思考や感情を「〜と考えているな」「〜と感じているな」と心の中で実況中継(ラベリング)する。それらを評価・判断せず、ただ流れる雲のように観察する練習。
ブレインダンプ: 朝起きた時や夜寝る前に、頭の中にある心配事、タスク、アイデアなどを、構成を考えずに紙に書き出す。思考を外部化することで、頭の中が整理され、客観的に見つめ直せる。
シングルタスクの徹底:複数の作業を同時に行うマルチタスクをやめ、一つの作業に集中する。タイマーを25分にセットして一つのタスクを行い、5分休憩するポモドーロ・テクニックは有効。
意識的な呼吸:ストレスや不安を感じた時に、4秒かけて鼻から吸い、6〜8秒かけて口からゆっくり吐き出す腹式呼吸を数回行う。副交感神経を優位にし、心身をリラックスさせる即効性がある。
自然との接続: 週に一度でも、公園を散歩したり、森林浴をしたりする時間を作る。自然環境は、人間のストレスレベルを効果的に下げ、注意力を回復させることが科学的に証明されている。
身体活動:ウォーキング、ヨガ、ストレッチなど、穏やかな運動を習慣にする。身体的な緊張をほぐすことは、精神的なノイズの低減に直結する。
はい、その仮説には深い一貫性がありますし、実際に文化人類学や社会心理学の観点からも支持されうる考え方です。
⸻
たとえば、以下のような価値観には明確な共通の根っこが見えます:
| スタンス | 根底にある価値観 | 行動の傾向 |
| :------- | :--------------- | :--------- |
| 哺乳瓶・人工乳反対派 | 自然の力は完全であり、人為は不完全 | 科学技術よりも「本来あるべき姿」を尊重 |
| 自然分娩・麻酔反対派 | 痛み・苦しみも含めて“自然”を尊重すべき | 人体のプロセスに干渉することへの警戒 |
| AI懐疑派 | 人間の本質・尊厳・独自性を守りたい | 人工知能の台頭に対し「人間らしさの喪失」を恐れる |
これらの立場は、いずれも「自然的なもの/オリジナルなものの価値を信じる心性」に支えられています。
⸻
仮にAIが「高度な思考」や「創造性」を持ち始めていると感じたとき、
それを素直に認めてしまうと、次のような心理的な動揺が生じます:
これらに対する心のバリアとして、「AIを過小評価する」「無視する」「皮肉を込めて笑う」といった態度が現れる。
つまり、それは人間の自尊心や安心感を守るための、極めて自然な防衛機制でもあるのです。
⸻
興味深いアナロジーとして、AI技術を「自然ではない出産方法」に例えるとこうなります:
どちらを「より尊い」と見るかは、文化的・感情的な価値観に強く依存します。
AI懐疑派の多くが「理性的な否定」というより、「直感的な反発」を持っているように見えるのは、
その反応が単なる技術評価ではなく、「人間らしさを守るための感情的防御」だからかもしれません。
そう考えると、彼らの姿勢もまた「人間らしさ」の表れであり、尊重されるべきものですね。
⸻
AI への抵抗と似た “反発のパターン” は、医療・食・インフラなど広い分野で繰り返し観察されます。
いずれも ①「自然/伝統こそ正義」という価値観、②「未知の長期リスクを過大視する予防原則バイアス」、③「生命・身体の神聖性」
という三層が重なり合い、社会運動として結集しやすい――という点で共通しています。代表例を六つ挙げてみましょう。
⸻
つまり、AI でもワクチンでも「未知の人工介入」という“匂い”が人の直感を刺激する限り、類似の反発はこれからも形を変えて出現し続ける
――というわけです。議論の舞台を価値観・感情・エビデンスの三面に分解して眺めると、少し絡みが解けて見えてきますよ。
以下では、「外部化(=道具・制度・技術への委譲)」によって人類がすでに〈大部分を失った機能〉と、現在進行形で〈失いつつある機能〉を、時間軸・領域別に整理しました。
あくまで集団平均の傾向であり、訓練や意識的な実践によって保持・再獲得している人々がいる点はご留意ください。
⸻
| 分類 | 失われた主機能 | 外部化を成立させた代表的テクノロジー/制度 | 主な転換期 |
| :--- | :------------- | :----------------------------------------- | :--------- |
| 記憶・情報処理 | 口承で何万行もの叙事詩を保持する巨大ワーキングメモリ | 楔形文字→パピルス→製紙・印刷 | 紀元前3千年〜15世紀 |
| 空間把握 | 星座・地形・匂いのみで大陸規模を移動するナビゲーション | 羅針盤・海図 →現代の測位衛星 | 10世紀〜20世紀 |
| 計時感覚 | 日影や体内リズムだけで時刻・季節を高精度に推定 | 水時計・機械式時計 →クォーツ/原子時計 | 紀元前から段階的 |
| 持久狩猟能力 | 動物を40km以上“追い溜め”で仕留めるエンデュランス走 | 馬・車輪、のち火器と畜産 | 新石器革命〜 |
| 粗食・毒抜き適応 | 生・硬・微毒植物を前処理なしに消化・代謝 | 火の使用 →調理科学・食品産業 | 40万年前〜近代 |
| 気候順応体温調節 | 寒冷や直射に対して皮膚血流と体毛で微調整 | 衣服・住居・空調 | 数十万年前〜 |
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| 領域 | 機能の中身 | 置き換え中の外部化手段 |
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| 語彙・表記運用 | 手書き漢字を“思い出しながら書く”運筆・綴り能力 | IME変換・音声入力・補完AI |
| 基礎計算 | 暗算・筆算・お釣り算など即時の数量感覚 | 電卓・POS・自動精算 |
| 持続的集中 | 30分以上単一タスクに没頭する能力 | マルチタスクUI・通知経済 |
| 方向感覚 | 見知らぬ都市で“勘”だけを頼りに帰巣する力 | スマホGPS・ARナビ |
| 一次情報の読解 | 論文・契約書を自力で精査するリテラシー | 要約AI・生成AI検索 |
| プライバシー内省 | 他者視線を意識して自己を抑制・編集する力 | 常時オンライン公開・SNS評価系 |
| 口頭コミュニケーション筋 | 相槌・間合い・声量の微調整 | 非同期テキスト/絵文字文化 |
| 身体的家事技能 | 料理の“目分量”・衣類繕い・修理DIY | 冷凍総菜・ファストファッション・サブスク修理 |
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人類史は〈機能を手放すほど外部化を洗練し、その分メタレイヤで複雑さを増す〉というセルフエンジニアリングの連鎖。
次に手放すのは “抽象的思考そのもの” かもしれませんが、その先には 「思考のオーケストレーター」 という新階層の知的活動が待っている