
はてなキーワード:恋愛弱者とは
2~3年くらい前までは弱者男性やネトウヨみたいな、SNSやオタク界隈で政治だ、非モテだ、女が憎い、男社会が憎い、女を宛がえ、イケメンを宛がえと大暴れしてる様な層って男女問わず
大体は40代~50歳前半くらいの就職氷河期世代層ばっかりだったが、
はてななんか特にわかりやすいが、就職氷河期世代くらいの層は殆どみなくなって、
今殆どがアラフォー、つまり36~40代頭くらいの氷河期世代とゆとり世代の狭間と、ゆとり世代の最初期世代みたいな年齢層に気が付いたら変わってるんだが。
最近では過激化してリアル社会でデモなどで大暴れしてるが、その場合は氷河期世代層とアラフォーが入り混じってる感じではあるけど
一昔前はこういうホンマモンのネットの社会不適合者は、2000年代のオタク・ネット文化の中で生まれた負の落とし子だから、氷河期世代層がネットすらできない程人生詰んだら消えていくといわれてたのに
そういう負の連鎖で、アラフォーの中の恋愛弱者含む底辺弱者層が世代交代で思想が継承されてるの見てると、ちょっとした驚きなんだが。
2010年代前半くらいまでの頃は、そういう弱者男性第一世代をボッコボコに叩いて笑ってたはずの奴らが、どうして「継承者」になってしまったのだろうか、
増田その辺どう思うよ
恋愛弱者に対して語る人間って、どうして恋愛できない人間がある程度平均的なスペックを持っているという前提で語るのかねえ?
どんなに可愛くても、みいちゃんみたいな境界知能の女とは結婚しないだろ?
どんなに綺麗事を言ったところで、きょうだいに障害者がいる人間とは結婚したくないだろ?
山上徹也のように、親が統一教会に洗脳されている人間とは結婚したくないだろ?
恋愛弱者の大半はそういうふうに個人の努力ではどうしようもない底辺境遇にいる人間なんだよ
勿論そういう人間はどれだけ支援があろうが恋愛も結婚もできないと思われるが
金になること期待してだろ。
あまりよく知らない漫画家に限って発達障害の本とか恋愛弱者としての本を出して儲けようとするのと根は同じ
dorawiiより
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米津玄師が「デンジって女性に対してものすごく性欲的な感情を抱くけれども、セクハラ的な行動は絶対しないんですよね」とインタビューで話した件について、ネットの弱者男性界隈がガチギレして殺気立っている。米津玄師の存在を消して、米津玄師に共感する女だけに対して異様な被害者意識を抱いている。
Xを見れば特に楚バットなる中年弱者男性の噴き上がり方が凄まじい。
「楚バット@geEeZ4e
デンジ(未成年、孤児、貧困層、児童労働、大人に利用され続けた被害者)に向かって"性欲あるのにピュアでかわいいでちゅね〜"的なセクハラしてるオバサンオタクほんまにキモくて有害な女性性の悪魔かと思った」(1万いいね)
デンジくん、マキマさんパワーちゃん姫パイと序盤から連続してスケベ行為の見返りに危険な事をさせられるという直球の性的搾取を受けてるんですが、それをデンジくんはセクハラとかしなくってぇ・・・みたいな消費のされ方してるのちょっとグロテスクだと思います」(5千いいね)
「石壁@waxter1211
デンジは性欲があるのにセクハラしない紳士!」は本質を捉えてないし「デンジの性欲は綺麗!」はもはや噴飯物の主張あれは人生で女性と全く関われなかった影響でセクハラや性欲まみれのアプローチすら実行する発想が無い、本物の恋愛弱者のムーブだろ本当に皆さんは弱者が目に入らないんだな」(1.4万いいね)
その他、有象無象のキモオタアイコン弱者男性ミソジニスト男オタクが、うじゃうじゃと女特有の読解力のなさだとか男性を加害生物のように扱うのが許せないだの行く動に直球の差別発言を吐いているが
要するに【米津玄師サンが発言者なのは男だから脳内から消去します】【デンジはセクハラしないのが長所だと女が語るのは、弱者男性(俺)への性的搾取に決まっている】【女に俺の性欲を否定された】という歪んだ主張に尽きる。
まず主題歌を連続で担当するだけあって、米津玄師の読解は正しい。
『チェンソーマン』は暴力的で野蛮でショッキングでバイオレンスに見せかけて、最近の漫画らしく主人公陣営は馬鹿をやっても不快感が極力なく応援したくなるように、きちんと計算してヘイト管理されている。
「藤本タツキは天然でM性癖だから」で片付けるのは、さすがにタツキの頭を見下しすぎだ。作品理解力が誰よりも劣っている。
デンジは育ちは無茶苦茶で語彙はドブだが、決してクズではない。
陰キャ特有のめんどくささは皆無。素朴で真っ直ぐで不幸な目にあってもすぐ立ち直る明るさがある。
1話時点から粗暴な野生児ながら倫理観と社会性をそれなりに備えていたし(己を搾取したヤクザを殺した事でさえ成り行きでゾンビ化して人間に戻れないなら仕方ないと分別のうえだった)
人並みの環境に移ってからは世間との折り合いやコミュニケーション能力が急成長している。それが出来ているのは自分の不幸を言い訳にしないからであり、自分が弱者であることに甘える発想が無いからだ。
王道の少年漫画主人公らしい魅力を持ったいい奴である。性欲のある孫悟空みがある。
そんなデンジに、デンジとは180度真逆の、自分のケアを他者に強要する事しか頭になく倫理観と社会性が中年になっても欠如したままの、自分の弱さを盾に諸々放棄して全ての責任から免除されようとする自分だけに甘い卑劣さな超陰キャオジサン達が一斉に自己同一視しているかと思うと、滑稽であると同時にデンジに同情してしまう。
そもそも「デンジって性欲はあっても、加害したりマウントしないのがいいよね」の一言に勝手に湧いて出てきて「傷つけられた」「はい性的搾取」と騒ぐ心性が理解できない。
楚バットラルナ石壁ら100人異常散見できた自称弱者男性軍団の理屈に照らし合わせると、まるで『男(俺)の性欲には女を加害しても許される男性権が当たり前に含まれており、それを不当に奪われたから怒った』と言わんばかりではないか。
性愛に限らず、人は何がしかの欲求に常に振り回されている。その我欲の充足のために他人を傷つけたり貶めたりしないのは人間として最低限の道徳であり、普通の対等のコミュニケーションである。
その普通の対等のコミュニケーションを、女性が男性に対して肯定した時だけ「搾取だ」「グロい」「傷ついた」と逆上する被害者意識は超弩級の女性差別主義と一体だ。
「男性を女を屈服させる願望持ちの加害動物のように言うな」などと女性憎悪で誹謗中傷のクソリプする弱者男性集団は論外で、その行動で自らの男特有のミソジニックな加害性を証明してしまっている。
マジレスするけど、もし、デンジが自分から性行為と引き換えに悪魔退治してやると女性陣に持ちかけてたら、読者の印象は最悪だぞ。「弱みにつけ込む小狡い肉欲クズ」として。
女性陣の性的奔放さを強調したとしても、どうしてもデンジに計算高い印象を与えてしまう。それだとキャラがブレる。
性的取引が初手から大満足の結果だったらデンジが早々に目標を失ってしまい、作者が困る。
何事に対しても内向的で受け身なアニメの碇シンジ系キャラならイラつく読者も多くなるだろう。「積極的に動いてエネルギーを外に向けて発散する外向性を有しつつ女性に対しては奥手」は昔から愛される王道主人公像だ。
とにかく『チェンソーマン』本編の面白さと読者好感度のバランスは、デンジの性欲抱いてもセクハラではなく純粋なイチャラブ願望で実現しようというピュアさと健気さで成り立ってる。
作り手が意図して「こんな男子、可愛げあって好感持つでしょ?」と造形してるんだから、その観点でデンジに好感持ってる米津玄師や女性ファンは正しい。
内なる暴力性を持て余してる欲求不満の非モテ男性が「俺を無害と見なすなクソ女!俺様の抑圧されし性欲の恐ろしさを思い知れ!男と書いてチンポの怒りをくらえ!」と突然キレ出して暴れるような、自称弱者男性の理想の物語が欲しければ新井英樹の漫画でも読んでろ。
明らかにそいつは彼氏で付き合ってるよね? みたいな話を女がたまに投稿してるんだが、女と付き合えてる時点でそいつは弱者男性ではないし男としては上位層なのを分かってない。
もうすでに弱者男性の定義が曖昧になっているが、最近の風潮では恋愛弱者を弱者男性としている以上、女と付き合えている時点で弱者男性を卒業していると言える。
それはそれとして、弱者女性の場合は30~40代の家事手伝いみたいなイメージがある。男と違って恋愛ではなく経済に振ってるイメージ。
本来であれば男=経済、女=恋愛みたいなステレオタイプがあるけど、弱者だと逆になっているのが面白い。
これは仮定だけど、男ならまず金を手に入れるから、そのあとで配偶者を手に入れられなければ敗者(イコール弱者)。
女なら安定した経済状況を手に入れるのが勝者となるので、独身でも35歳の年収500万は勝者、同じ独身で無職なら弱者って感じかな。
■ 基本理念
性の偏在を是正し、誰もが尊厳を持って生きられる社会を目指す。
〜 高性能AIダッチワイフ『ミライ型パートナー』開発計画 〜
・現代社会では、女性が強者男性(高収入・高学歴・高身長・高コミュ力)に惹かれる傾向があるのは、統計的にも示されている。
・その結果、恋愛市場において強者男性に女性が集中し、複数の女性と交際・関係を持つ「恋愛の寡占」が発生している。
・その裏で、いわゆる“普通の男性”や“非モテ男性”が取り残され、孤独、自己否定、時に社会不適応へと追い込まれている。
■政策内容
スタートアップ政党「チームみらい」と共同でAI搭載型の高性能ダッチワイフを開発。
・非モテ男性に対し、段階的に無償または公的補助による配布を行う。
感情認識・対話・スキンシップ・個別学習などを備えた孤独対策機器である。
・恋愛市場から排除された者にも「つながり」と「文化的生活」を保障する
・女性にとっても、強者男性の恋愛独占がもたらす歪みや、非モテからの逆恨みリスクの軽減という形でメリットがある
・孤独・性の格差・排除の問題をグローバルに議論し、技術的解決策(AIパートナー技術など)を共有
・“性と孤独”の国際的倫理問題に対して、日本がリーダーシップを発揮する
■キャッチコピー案
・「愛されなくても、生きていい。」
私は「弱者男性に女をあてがう」ことは、現代社会における最も切実で緊急の社会政策であると考えており、投票においてもそれを最優先の判断基準にしている。
選挙区の方は既に決めているのだが、比例代表の候補についてはまだ迷っている。
これまでの選挙で「恋愛弱者」や「孤独対策」「未婚率の上昇」などに言及してきた候補者も何人かいたが、いずれも「異性との接点を増やす」や「マッチング支援」といった曖昧な言葉に留まっており、明確に“弱者男性に女をあてがう”と明言した候補者には未だ出会ったことがない。
インターネット上では、一部の候補が「出会い支援事業の拡充」や「恋愛経験格差の是正」を語っているという話も見かけたが、それが具体的に弱者男性にどのような“現物的施策”をもたらすのかは明言されていない。
また、かつて一部の政党関係者が掲げていた「異性紹介アプリの公営化」や「性的弱者に対する支援制度」といったアイデアも、選挙戦の中で埋没し、現実の政策提案にはならなかった。
もちろん、私は女性を物品のように扱うべきだとは考えていない。
だが同時に、「女に触れる機会が一生ない」という層が現実に社会の中に存在していること、それが深刻な精神的・社会的孤立をもたらしていることもまた、直視すべきだと考えている。
そうした意味において、私は「女をあてがう」という言葉をあえて使っている。
これは文化の問題であり、倫理の問題であり、何より**“分配”の問題**である。
を明言している候補がいたら、私はその候補に迷わず票を投じたいと思っている。
ただ、現状そうした候補は極めて少ない。
最終的には「頑張れ」「自信を持て」「まず見た目を変えろ」といった啓発メッセージに変質してしまうケースがほとんどである。
私は、そういうのが聞きたいんじゃない。
せめて、「弱者男性に女をあてがう必要がある」という考えに賛同している候補が一人でもいるなら、
その名前を知りたい。
少なくとも今回の選挙で、自分の一票が「弱者男性の現実に目を向ける政策」につながる可能性があるなら、それに賭けてみたいと思っている。
セックスするために女と付き合っている男というのは結構いるが(若い時は女にもいる)、結婚相手や人生を共にする相手を見つけるための過程として恋愛をしている人間にとってはそいつらは害悪プレーヤーであり、特に意図的にそういう関係を作って利用している男は、若い女の人生を消費して使い捨てるだけの存在なので、『大抵の人間にとってセックスを伴わない恋愛関係は辛い』『ある程度は性的な義務が恋愛には発生する』という話と混同して『恋愛関係で性行為をしないのは付き合う意味がない』『セックスをしないのは交際のメリットだけ享受する発想』などという『セックスを目的にした恋愛関係』を肯定する概念を撒き散らさないで欲しい
(恋愛弱者にとっても、強者の見方をするだけであり、消極的なプレーヤーを恋愛から遠ざける発言なのでメリットが皆無である)
セックスを目的にした恋愛関係はほとんどセフレと同じだが、お互いがお互いを好きだから一緒にいて、人生を一緒に過ごすためにはどうしたらいいかという関係の話を、そんなものと同列に並べるな、という怒りも感じる(現に夫婦関係でもそうなるって指摘がたくさんあるだろうが)
たまに古い縁の陽キャたちと話すと恋愛・結婚の話になって、恋愛弱者の俺は陽キャ(既婚)から「マッチングアプリしろ」「街コン行け」だのと「努力しろ」系のありがたい助言をいただくわけだが、本当に辟易する。
そういう陽キャがマチアプに自分磨きなどといった努力をした結果、彼女を得て結婚したというのであればその助言も理解できる。
しかし、大抵の場合そういう陽キャは「大学のサークルで」「バイト先で」「同じ会社で」良い女性を見つけてアプローチして、あれよあれよと交際、結婚しただけじゃねぇか。
手の届く範囲、たまたまその時所属していた集団の中で手頃な女見つけてアプローチしただけで、全く努力してねぇじゃん。
一体どの口が「マッチングアプリ」だの「街コン」だの言えるんだ?
マチアプみたいな「品定め品評会」なんて、考えただけで憂鬱だ。そりゃ、陽キャみたいな恋愛強者ならそういうのに出ても大丈夫なんだろうけどさ、俺みたいな恋愛弱者がそういうところに打って出たところで、いいねを獲得するだけで大変、メッセージ送っても続かない、デートしてみればお断りを繰り返すで、ただでさえ慣れない恋愛なのに否定を繰り返されて精神的に磨耗するのが目に見えている。
マチアプが今や一大恋愛プラットフォームになっているのは否定しないが、あそこは弱肉強食の競争社会なんだよ。
ブス故にひょうきんに振る舞うしかないという考え+第一子長女特有の甘え下手で、ずっと恋愛弱者なのに男友達は多く、「お前には何言っても許されるわww」と言われる女芸人タイプ
旦那にさえも「女としてタイプではない よく働くしいつもヘラヘラごきげんで結婚相手には最適だと思った」と言われる始末
まだ学生の妹たちは、インスタ見る限り溺愛して女性扱いしてくれる彼氏と上手くやってる模様
そんな自分が嫌いではないが、"女性として見られないことへのコンプレックス"が異常に強く、父と娘、兄と妹、みたいな親族間の組み合わせでさえ仲睦まじい様子(特に男から寵愛を受ける格下の女性という組み合わせ)には嫌悪感を抱いてしまう
私に男兄弟はいないが、父は昔から妹たち(特に末)には甘く、私だけ妙に厳しく育てられ、これは母も認めているところなので、そういうトラウマもあるのだと思う
ちなみにそれとこれとは別なので、私自身は妹たちとは仲良くやっている
夫が娘を溺愛する姿は見たくなかったので、性別判定のときは胎児が男で心底ホッとした
そろそろ第二子を夫は欲しがっているが、第一子が男だった時点で、第二子が女だと私のメンタルが死んでしまうし、"私が大事に大事に育てた長男を兄として生きる女"がこの世に産まれると思うと気が狂ってしまう
こう書くとむちゅこたん♡な将来やばい姑になりそうと言われそうだが、ある意味"異性は所詮異性"と考えているので、息子ともしっかり距離とるつもりだし、息子の将来の奥さんは想像するだけで幸せな気持ちになるのに、息子の妹……は産んでもないのにゾッとするぐらい憎い……
異性のきょうだい自体苦手だけど、まだ姉×弟の組み合わせなら許せたかもしれない……
自分の娘が年頃になって、私が得られなかった異性からの承認を受けるのを想像すると本当に無理だ
さっきインスタの育児漫画でラブラブな5歳と3歳の兄妹の様子(兄は妹に可愛いね♡ちゅーしよ♡など言っているし、妹は兄の保育園の女友達に嫉妬して威嚇したりしてた)を微笑ましい!尊い!という風に描いているのを見て、あぁおぞましい気持ち悪い!!と思って、今言語化したくなって書いてる
第二子も男を産むしかないが、そんな上手くいかないだろうし、私も母親に愛されず嫉妬される可哀想な子どもを増やしたくないんだ
「非モテ」と「はてな界隈」と最近のTwitterとの絡み合いを考えるとき、どうしても浮かび上がるのはインターネット文化特有の「執着」の問題だ。
「非モテ」という言葉が流行したのは主にはてな界隈だった。はてなダイアリーやはてなブックマークは2000年代にかけて、特定の価値観や認識が濃厚に凝縮され、そこに集まる人々は自己の不遇さや社会への違和感を抱えながら、それを極めて粘着的に、ほとんど呪詛のように書き連ねてきた。その文章群は異様に長く、感情的で、かつ徹底的に自己言及的だった。
はてな民は、「非モテ」を単なるモテないことという意味を超え、一種のアイデンティティにまで昇華させた。非モテを語ることで自己の不全感を共同体の中に融解させ、他者との対立を楽しむかのように鋭く尖った論争を繰り返した。その文体はしばしば鬱屈とした執念に満ち、議論を生産的にするどころか、むしろ際限なく引き伸ばし、細部に粘着し、本題から逸脱していくのが特徴的だった。
一方、最近のTwitterにおいては、そうした粘着質な議論はもはや異端視される傾向にある。Twitterが短文主義を推奨し、スピード感やわかりやすさを追求するSNSへと変容するにつれ、はてな界隈的な長文で粘着質な非モテ論争は居場所を失っていった。その代わり、非モテ的感性を持つ人々は、短い言葉で瞬間的な共感や反感を得ようとするようになった。だが、短文で端的に表現される非モテ的な怒りや絶望は、かつてのはてなのような自己分析的な奥深さを失い、ただの感情の発散や、ネタとしての消費に終始することが多い。
最近のTwitterで頻発する「男女対立」や「恋愛弱者」といったトピックも、本質的には非モテ論争の延長線上にあるが、その議論はかつてのような粘着的な深みや自己省察を伴わないことが多い。代わりに一瞬の快感や攻撃的な快楽を追い求め、極端な意見や暴言が即時的に拡散されることで、単なる煽り合いに陥ってしまっている。
この変化は、はてな界隈の衰退と共にネット上の言論空間がどう変質したかを象徴している。長文で自己を掘り下げる場所がなくなり、瞬間的な承認欲求の満足を追求する場へとシフトした結果、非モテはアイデンティティではなく、一過性のバズワードや炎上の種になり下がってしまった。
結局のところ、非モテが持つ本来の執念深さや自己反省的な粘着質な性質は、Twitterの短文主義の中では居場所を失い、深い議論や自己理解への道は閉ざされてしまったように感じる。現在Twitterで繰り広げられる非モテ的言説は、ただ表面的な共感や敵意を生むばかりで、かつてはてなが持っていたような「自分自身を嫌になるほど掘り下げ、執拗に問いかける」ような粘着質な深みを完全に失ってしまったのである。