
はてなキーワード:思想の自由とは
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https://b.hatena.ne.jp/entry/4777981887164571393/comment/Gl17
直接噛んでいたことの指摘もある。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
オッス、オラ理性主義者!
まず落ち着け、現代民主主義者。お前が言ってることは、哲学的には立派だが、現実の社会設計としては理想論の塊だ。
「感情の保護と秩序維持を混同するな」なんて言うけどな、その“感情”こそが民主主義の出発点だ。
人間の感情が集まって「国民」となり、その感情の総意が「国家」を作ってんだよ。
民主主義の根幹は、冷たい論理じゃなく、“感情の集合体をどう理性で制御するか”ってところにある。
でもな、それが成立するのは、社会が“お互いに踏み越えない前提”を共有しているからだ。
破壊に自由を与えると、社会は信用を失う。信用を失った社会に民主主義は存在できない。
国旗が国民全員の象徴なら、個人の政治的パフォーマンスで汚していいわけないだろ。
それを「思想の自由」って言い張るのは、公共財を私有化してるに等しい。
国旗を国家が独占してるんじゃなく、国民の象徴を国民自身が守るだけの話。
それを「神聖化」と呼ぶなら、お前は“共同体”って概念を根本的に誤解してる。
それはルールの上での話だ。
「不快さの表現」に限界を設けない社会は、ただのカオスになる。
それは理性ではなく感情への挑発だから、民主主義的な行為ではない。
現代の民主主義に必要なのは「燃やす自由」じゃなく「敬意を持って批判する知性」
それを擁護するのは、自由じゃなく“知的怠惰”の肯定にすぎない。
ちょっと注意深く整理して考える必要があります。結論からいうと、「公共の福祉が思想の自由より常に上位」とは言えません。法律上の考え方はもう少し nuanced です。
---
日本国憲法では、思想・良心の自由は第19条で保障されています:
> 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
一方で、「公共の福祉」という概念は第12条・第13条・その他の条文で出てきます。たとえば:
第12条:「この憲法が保障する自由及び権利は、公共の福祉に適合するように利用しなければならない。」
第29条・31条などでも「公共の福祉」が調整原則として現れます。
ここでいう公共の福祉 とは、個人の権利・自由を他人の権利・自由や社会全体の秩序・利益と調整するための基準です。
---
思想・良心の自由は非常に強く保障されるため、原則として制限されません。
しかし、現実的には「公共の福祉」の名目で制限される場合があります。例えば:
犯罪行為を助長する思想表現(例:過激な扇動やテロリズムへの勧誘)
ここで重要なのは、制限は必要最小限 でなければならず、「公共の福祉」といえども絶対的な理由にはならないことです。裁判所も「必要かつ相当な制限であるか」を厳しく審査します。
---
3. まとめ
公共の福祉は、思想の自由を制限する場合の 調整・例外の基準 に過ぎない。
したがって、「公共の福祉>思想の自由」と単純には言えない。むしろ「思想の自由を最大限尊重しつつ、どうしても衝突する場合に公共の福祉で制限できる」というイメージ。
それは果たして、自由で、本人の意思に基づいたものだったのだろうか。
「時間をかけて話し合いました」と言われることがある。しかし、往々にして圧力をかけた側はそのことに無自覚であり、自分たちは平等に議論していると勘違いしている場合がある。実際には、時間をかけて脅迫し、相手を折れさせただけかもしれない。
「広義の強制連行」論
たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は社会的抑圧、しがらみによって本人の意思に反した言葉を発することを強制させられているのではないだろうか?
強制力としての一つ
ミルの『自由論』で提唱された「危害原則」は、「個人の自由は、他人に危害を加えない範囲で最大限に認められるべき」というもの。
逆にいえば、他人に危害を与えうるばあい、自由を制限することは認められる。
例えば、アメリカの大学での「危害原則」の乱用による表現および思想の自由の制限
問題は、「危害」の定義が意図的に曖昧にされている点。事実は検証可能だが、規範に関する問題は検証が困難。
そのため、「それは誰かを傷つけるかもしれない加害だ」というレッテルを貼られると、その非対称性によって「加害ではない」と証明することが極めて難しくなる。
また、それを証明しようとすること自体にセカンドレイプなど加害であるとレッテルが貼られる。
思想と討論の自由の成立には、真摯さが前提。しかし、片方には正しさの探求ではなく思想の強要の実績は講演など金銭的なインセンティブがある。
これはポリコレに反する、あなたは差別主義者になりたくないでしょ。
それならば私の意見に従うべきだ。
テキサスで漫画、アニメが規制されつつあるっていうニュースにオタク達がざわついてるのを見かけたけど、とっくにわかってた動きに何で今更驚くのか
アメリカの保守勢力は元々LGBT(特にトランスジェンダー)とアニメ、furry(ケモナーに近いけどやや違う概念)をひとまとめに捉える傾向がある
アニメが子供を洗脳してfurryやトランスジェンダーにするという理屈で、例えば炎上した「トランスジェンダーになりたい少女たち」はこうした主張を元に(ネットインフルエンサーがトランスジェンダーを作るという主張と合わせて)「娘をトランスジェンダーにしたくなければアニメやネットを禁止して育てるべき」という議論をしている
そしてその「娘をトランスジェンダーにしたくない」という思想は、女を子宮や出産と紐付ける女性観に根ざしていて、要するに「娘と子宮を切り離したくない」という考え方をベースにしている
ネット右翼的な立場は反LGBTとアニメ好きを両立させるが、こうした反LGBTを反アニメ的に繋がる考えは宗教右派にそれなりに広く行き渡っていて、イーロン・マスクとかみたいなネット上の右派はともかく、現実の地方政治ではこちらの方が力を持っている
だからテキサスやフロリダで中絶禁止への動きがあったりトランスジェンダー弾圧の傾向が強まったりというのは、そもそも反アニメの動きと軌を一にしている
という一連の話は、中絶やLGBTに多少でも興味がある人間は当然知っていることでもあるし、そうした知識のある人々がもうだいぶん前から繰り返し警告していたことだ
だから本当に「今更」としか言いようがないし、「お前らはこいつらの反女性や反トランスジェンダー、反黒人の動きをこれまでずっと喜んでただろ、既知の流れで自分達が次のターゲットになったくらいで騒ぐんじゃない」とも思う
カークの暗殺が起こるべきでないことだったのは間違いない。ただ、カークを単に右派の青年活動家とのみ伝えている報道には疑問がある。
カークの初期の仕事は、左派の大学人達をリストアップして公開することだった。左派だと思われる大学人をリストに追加するようネット上で広く呼びかけ、そしてリストにあがっている大学人の職場にメールや電話をしてその大学人をクビにするよう運動しろと煽っていた。結果、黒人女性などを中心に職場への攻撃が強まり、なかには命の危険があるために大学側からセキュリティをつけられた人もいる。これに関してはニューヨークタイムズの記事などに詳しい。
要するにカークは、発言や思想のみの活動家ではなく、実力行使をして人々の職を奪おうとし、暴力的に発言や思想の自由を制限しようとしていた側だ。もしもトランプや一部のメディアが報じるように容疑者が左派的なイデオロギーから犯行に及んだのだとしても(そうなのかどうかは現状わからないが)、この事件は表現の自由対左派イデオロギーというフレームに当てはめるべきものではない。むしろ、互いに暴力的に相手の表現の自由を奪い合う(カークが代表する右派は組織的に、容疑者が左派なのだとしたら左派側は容疑者個人のレベルで)状況を示している。事件後、犯行を好意的に見る左派が問題になったが、そしてそれ自体は問題と見てもいいと思うが、左派側の開放感はまさにこの実力行使のターゲットになってきた、あるいはいつターゲットにされるかわからない恐怖に由来しているだろう。トランプ政権が大学への圧力を強め、学問や表現の自由がすでに制度的にも広く脅かされている状況ではなおさらだ。
要するに、自由vs暴力ではなく、暴力vs暴力として理解すべきではないか。にもかかわらず、メディアがカークのこれまでの活動を報じないことで、事態が単純化されているように感じられる。容疑者のパートナーがトランスジェンダーであるだとかよりも先に、まずはカークがどのような人物だったのかを理解することが、動機を考える上でも重要なのではないか。
差別的な発言を「思想の自由」みたいに擁護されているのをよく見るけど、どこまでがそこに当たるのかが気になってる。
例えば、「特定の地域には水道を停止するべきだ」みたいなのはどうなのだろう。それだけならただの妄言だから自由な気がする。その人が政治家になったら?少し怪しいかもしれない。その人がそれを実行する力を得たら?それはもう「思想」を超えている。それを実行した人がいて、その人がその実行者を支持する趣旨で発言をしていたら?
それとともに気になるのは、暴動や反乱について。今の例で水道を停止された人が暴動を起こしてもおそらく責める人は殆どいない。じゃあ、実行可能な人間が本気で「水道を停止するべきだ」と発言し出したら?この段階ではまだ自由だろうか?「水道を停止する」をスローガンに選挙戦を戦ったら?
気になるのは、移民や性的少数者、女性はこうした観点から様々な「思想」や「発言」に向き合っているように思えることだ。例えばアメリカで反女性的な「思想」が強まった結果、単なる「思想」を超えて実際に中絶禁止が週によって可能になった。どの段顔での反対までが「自由の侵害」だったのだろう?既成事実が起きるまでデモとかをしてはいけなかったのだろうか。
ゲイとかトランスジェンダーとかについても、否定的な意見は「思想の自由」と言われる。でも、もともと同性婚が不可能な日本はともかく、可能になっている国や州で同性婚を改めて禁じるという立場の政治家が出てきたとき、トランスジェンダーの診察をする病院を閉鎖しようという人間が出たとき、どこまでが「思想」でどこからが実際の行為なんだろう。何には反対してよくて、何はダメなんだろう。どこまで行ったら暴動まで許容されるんだろう。
参政党の動画とか演説とか、たまに流れてきて見ちゃうんだよな。
今の給料で消費税10%はマジできつい。これが無くなるだけで、どれだけ生活が楽になるか。外食も気兼ねなくできるし、欲しいものも買いやすくなる。これに反対するやついる?ってレベル。
異次元の少子化対策とか言ってるだけで何もしない政府よりよっぽど具体的でいい。金さえあれば子ども産みたいって夫婦、いっぱいいるだろ。これで少しは未来が明るくなるってもんだ。
こういう、庶民の暮らしに直結する分かりやすい政策。聞いてて気持ちいいよな。
「そうだそうだ!」って言いたくなる。
なんでかって?
その耳障りのいい政策の裏に、とんでもないものが隠れてるからだよ。
思想の自由を制限しかねないスパイ防止法で、内心まで監視するような社会にしたいんでしょ?
しまいには徴兵制まで言い出して、俺たちの子どもを戦場に送る準備をしたいんでしょ?
勘弁してくれよ。
消費税ゼロや10万円の給付金は、そのための撒き餌だろって思っちゃうわけ。
甘いアメをしゃぶらせて、国民が「この党いいじゃん」って思考停止したところで、一気に毒を飲ませる。そんな魂胆が見え見えなんだよ。
生活が楽になるのは大歓迎だ。でも、そのために自由や平和を差し出すなんて真っ平ごめんだわ。
「まずは経済から」って言うけど、その先にあるのが戦前回帰みたいな社会じゃ話にならない。
支持してる人たちは、そのへんどう考えてるのかね。
子ども手当がもらえれば、その子が将来徴兵されても構わないのか?
俺は嫌だね。
ワクチンに対する是非の問題は個人の思想の自由なのでとやかく言うわけにはいかないが、ワクチン接種自体は義務なのでしないなら犬を飼うな、以上の言葉はない。
だが、不思議じゃないだろうか?
なんで彼らはそこまでしてワクチン接種を嫌うのか。
しかし彼らはそこで”狂犬病を見ない”という選択を取ったのである。
考えてみてほしい、致死率100%なんていう病気がこの世に実在するのは恐怖しかない。
世界中を混乱させた新型コロナだって65歳以上と絞った上で4%前後だ。
ちなみにワクチンを接種することでこれが2.4%まで下げられるらしい。
そんな死神のようなウィルスが自分が住んでいる世界に存在している、その事実が彼らは怖いのだ。
だからその存在を”否定”するか”自分の関係ない世界”の話にしたいのだ。
よく狂犬病ワクチンを否定する人の中に「日本は狂犬病を根絶したから打つ必要はない」という人を見かけないだろうか?
”狂犬病と言う恐ろしい病気は遠い海を渡った異国の世界の話であり、日本には関係がない”と思い込みたいのだ。
その道理が通るなら新型コロナウィルスだって中国国内で治まっているか、日本やアメリカまで感染が広がることはないのだが。
当然だが、国内での狂犬病を根絶したからと言って、今後100%国内で出ないとは言い切れない。
そもそも狂犬病と言うのは哺乳類全般がかかる病気であり、海外ではコウモリやキツネ、猫等が媒体となっていることは有名だ。
日本ではあまり見られないが、飼い猫にも狂犬病ワクチンを打つべきだという人も少なくはない。
外来種問題がここまで有名になっている昨今、海外から持ち込まれた動物が媒介者となって再び日本に狂犬病が出る可能性は、国際化が進んでいる昨今の方がリスクが高い。
そうなっていないのは、航空や港で水際対策をしている人たちの陰ながらの努力のおかげでしかない。
ワクチンを反対する人の中に、副作用による死亡を危惧する人も少なくない。
麻布大学の論文によると15年間で打った7257万3199回のワクチン接種のうち重篤な副作用を発症したのが317件でそのうち死亡したのが71件あった。
重篤な副作用が起こる可能性が0.4%であり、死亡率はさらに低いことになる。
こういうことを言うと、この人たちは必ずと言っていいほど「でも0%じゃない!可能性はある!」と声高に叫ぶ。
人が1年間のうちに交通事故にあう可能性は1-2%と言われているが、これを知ったら狂犬病ワクチンに反対する人は外出できなくなるんじゃないかと私は心配である。
私も先月、愛車をぶつけられたばかりだ(涙)
もちろん、そんなこと心配して外出しない反対派はいないだろう。
では、どうしてそこまで彼らが0%に拘るのか、と言われれば”愛犬の死は想像しやすいから”だ。
巷にもペットとの死別の話は山のように存在しているし、ドラマや映画等々で映像で見ることも多い。
だからこそ「もし、自分の大好きなペットが死んだら……」という想像は容易い。
では狂犬病はどうだろう?
これを書いている私も狂犬病患者を診たのはブラックジャックの漫画の中くらいだ。
実際、日本が清浄国になったのは1957年であり、大体70歳以下の人は少なくとも国内で見たことがある人はまずいないだろう。
身近な病気ではないので創作物でもなかなか取り上げられることはなく、どんな病気なのかもわからない人もいるだろう。
この結果、何が生まれるかと言うと、想像しやすい愛犬の死を致死率100%の病気と比べて前者を優先してしまうのだ。
ちなみに狂犬病での世界の死亡者数は年間で5万5千人であり、万が一この病気がまた日本で蔓延すれば、71匹など目ではない人数の人間と犬が死ぬ。
だが、彼らには年間5万5千人の死亡者は見えない、見ようともしない。
半世紀前にはその病気が日本にも存在して猛威を振るっていたけど、現在はないから想像できない。
もしその病気が日本に渡ってきたら数多くの人や犬が死ぬかもしれないけど想像できない。
でも、身近な愛犬の死は想像できるから死亡率0.4%以下のワクチンは忌避したい。
だ っ て 想 像 力 が 偏 っ て る か ら。
そうやって狂犬病の恐ろしさから目をそらしてワクチンに反対しているのだ。
もちろん、重篤な副作用から犬を護るために安全性を高めることを製薬会社に求めるのは間違っていない。
たとえ0.4%でも自分の愛する家族へのリスクが減ることに越したことはない。
可能な限り0に近づける努力をすることは製薬会社の義務である。
愛犬を護るために打ったワクチンで、苦しむ犬が少しでも減ることは大事なことなのだから、ちゃんとワクチンを打ってる人がそれを求めるのは当然の権利だ。
陰謀論にハマってしまった人に対して「不勉強な勉強家」と表現する人がいる。
これは、何かに対しての不安を解消するのに自分が信じたい情報だけを集めて間違った考えを強固にしていく人を指している。
注射を嫌がる愛犬を見て心を痛めたり、ワクチン費用の出費が痛かったり、ただ単純に連れて行くのが面倒だったり。
そうした時にふと沸き上がった”ワクチンて本当に必要なの?”という不満。
そう思ってネットを検索すれば、その自分の気持ちを肯定してくれる情報が次々と見つかってくる。
「やっぱり自分は間違ってなかったんだ!」という歪な承認欲求が満たされ、さらに”自分を肯定してくれる”情報ばかりを集めていく。
都合のいい情報ばかり集めて自分を肯定し、安心を得ているからこそ、それを否定する人たちに強く反発する。
そうやって否定する人を遠ざけて、自分にとって都合のいい人たちだけ集めてお互いにいい子いい子して安心している。
狂犬病ワクチンの接種は飼い主の義務であり、これを拒否する人間は犬を飼う資格はない。
日本はそういう風にルールを敷いているので、それが嫌なら日本を出ていくしかない。
文句があるなら法律を変えてくれる政治家を探すか自分で政治家になればいい。
ワクチンを打った上でワクチンに疑問を呈するのは何ら問題はない、それは認められている。
そういった最低限の義務も果たさずに文句を言ったとしても、誰も受け入れてくれるわけがないのだ。
最後にとやまソフトセンターのyoutubeチャンネルでは毎年、狂犬病予防接種会場の様子を編集してあげている。
ワクチンに対する是非の問題は個人の思想の自由なのでとやかく言うわけにはいかないが、ワクチン接種自体は義務なのでしないなら犬を飼うな、以上の言葉はない。
だが、不思議じゃないだろうか?
なんで彼らはそこまでしてワクチン接種を嫌うのか。
しかし彼らはそこで”狂犬病を見ない”という選択を取ったのである。
考えてみてほしい、致死率100%なんていう病気がこの世に実在するのは恐怖しかない。
世界中を混乱させた新型コロナだって65歳以上と絞った上で4%前後だ。
ちなみにワクチンを接種することでこれが2.4%まで下げられるらしい。
そんな死神のようなウィルスが自分が住んでいる世界に存在している、その事実が彼らは怖いのだ。
だからその存在を”否定”するか”自分の関係ない世界”の話にしたいのだ。
よく狂犬病ワクチンを否定する人の中に「日本は狂犬病を根絶したから打つ必要はない」という人を見かけないだろうか?
”狂犬病と言う恐ろしい病気は遠い海を渡った異国の世界の話であり、日本には関係がない”と思い込みたいのだ。
その道理が通るなら新型コロナウィルスだって中国国内で治まっているか、日本やアメリカまで感染が広がることはないのだが。
当然だが、国内での狂犬病を根絶したからと言って、今後100%国内で出ないとは言い切れない。
そもそも狂犬病と言うのは哺乳類全般がかかる病気であり、海外ではコウモリやキツネ、猫等が媒体となっていることは有名だ。
日本ではあまり見られないが、飼い猫にも狂犬病ワクチンを打つべきだという人も少なくはない。
外来種問題がここまで有名になっている昨今、海外から持ち込まれた動物が媒介者となって再び日本に狂犬病が出る可能性は、国際化が進んでいる昨今の方がリスクが高い。
そうなっていないのは、航空や港で水際対策をしている人たちの陰ながらの努力のおかげでしかない。
ワクチンを反対する人の中に、副作用による死亡を危惧する人も少なくない。
麻布大学の論文によると15年間で打った7257万3199回のワクチン接種のうち重篤な副作用を発症したのが317件でそのうち死亡したのが71件あった。
重篤な副作用が起こる可能性が0.4%であり、死亡率はさらに低いことになる。
こういうことを言うと、この人たちは必ずと言っていいほど「でも0%じゃない!可能性はある!」と声高に叫ぶ。
人が1年間のうちに交通事故にあう可能性は1-2%と言われているが、これを知ったら狂犬病ワクチンに反対する人は外出できなくなるんじゃないかと私は心配である。
私も先月、愛車をぶつけられたばかりだ(涙)
もちろん、そんなこと心配して外出しない反対派はいないだろう。
では、どうしてそこまで彼らが0%に拘るのか、と言われれば”愛犬の死は想像しやすいから”だ。
巷にもペットとの死別の話は山のように存在しているし、ドラマや映画等々で映像で見ることも多い。
だからこそ「もし、自分の大好きなペットが死んだら……」という想像は容易い。
では狂犬病はどうだろう?
これを書いている私も狂犬病患者を診たのはブラックジャックの漫画の中くらいだ。
実際、日本が清浄国になったのは1957年であり、大体70歳以下の人は少なくとも国内で見たことがある人はまずいないだろう。
身近な病気ではないので創作物でもなかなか取り上げられることはなく、どんな病気なのかもわからない人もいるだろう。
この結果、何が生まれるかと言うと、想像しやすい愛犬の死を致死率100%の病気と比べて前者を優先してしまうのだ。
ちなみに狂犬病での世界の死亡者数は年間で5万5千人であり、万が一この病気がまた日本で蔓延すれば、71匹など目ではない人数の人間と犬が死ぬ。
だが、彼らには年間5万5千人の死亡者は見えない、見ようともしない。
半世紀前にはその病気が日本にも存在して猛威を振るっていたけど、現在はないから想像できない。
もしその病気が日本に渡ってきたら数多くの人や犬が死ぬかもしれないけど想像できない。
でも、身近な愛犬の死は想像できるから死亡率0.4%以下のワクチンは忌避したい。
だ っ て 想 像 力 が 偏 っ て る か ら。
そうやって狂犬病の恐ろしさから目をそらしてワクチンに反対しているのだ。
もちろん、重篤な副作用から犬を護るために安全性を高めることを製薬会社に求めるのは間違っていない。
たとえ0.4%でも自分の愛する家族へのリスクが減ることに越したことはない。
可能な限り0に近づける努力をすることは製薬会社の義務である。
愛犬を護るために打ったワクチンで、苦しむ犬が少しでも減ることは大事なことなのだから、ちゃんとワクチンを打ってる人がそれを求めるのは当然の権利だ。
陰謀論にハマってしまった人に対して「不勉強な勉強家」と表現する人がいる。
これは、何かに対しての不安を解消するのに自分が信じたい情報だけを集めて間違った考えを強固にしていく人を指している。
注射を嫌がる愛犬を見て心を痛めたり、ワクチン費用の出費が痛かったり、ただ単純に連れて行くのが面倒だったり。
そうした時にふと沸き上がった”ワクチンて本当に必要なの?”という不満。
そう思ってネットを検索すれば、その自分の気持ちを肯定してくれる情報が次々と見つかってくる。
「やっぱり自分は間違ってなかったんだ!」という歪な承認欲求が満たされ、さらに”自分を肯定してくれる”情報ばかりを集めていく。
都合のいい情報ばかり集めて自分を肯定し、安心を得ているからこそ、それを否定する人たちに強く反発する。
そうやって否定する人を遠ざけて、自分にとって都合のいい人たちだけ集めてお互いにいい子いい子して安心している。
狂犬病ワクチンの接種は飼い主の義務であり、これを拒否する人間は犬を飼う資格はない。
日本はそういう風にルールを敷いているので、それが嫌なら日本を出ていくしかない。
文句があるなら法律を変えてくれる政治家を探すか自分で政治家になればいい。
ワクチンを打った上でワクチンに疑問を呈するのは何ら問題はない、それは認められている。
そういった最低限の義務も果たさずに文句を言ったとしても、誰も受け入れてくれるわけがないのだ。
最後にとやまソフトセンターのyoutubeチャンネルでは毎年、狂犬病予防接種会場の様子を編集してあげている。
偽者って言う奴がいるんだけど、思想の自由ってやつってことで無視すべきか?
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