
はてなキーワード:心理学者とは
ハードSFとしての正統性を保ちながら、宇宙探査という壮大なテーマを描き切った力作だ。
「フェルミのパラドックス」を題材にした異文明との交流、メガストラクチャーなどの概念、主人公たちの旅を通じて、人類の未来像を投げかける。
理系の読者はもちろん、哲学的思考を求める人にもおすすめできる傑作。
習慣がいかに脳の構造を変えるのか、神経科学的アプローチで解説した一冊。
単なる「習慣を作ろう」という精神論ではなく、脳可塑性に基づいた実践的なアドバイスが詰まっている。
ポジティブシンキングの限界を指摘し、「不安」や「恐怖」をいかに使いこなすかを論じた意欲的な一冊。
ストレス社会を生きる私たちにとって、心理学的に根拠のある思考法は本当に貴重だ。
バッタを研究するためにアフリコに来たのにバッタがいないという自虐的な始まり方から、その後の現地での奮闘が描かれる。
「令和のファーブル昆虫記」と評されるほど、学問的知見とユーモアが融合した傑作。
動物たちがいかに協力し、社会を形成し、生存戦略を立てているのかを、最新の研究に基づいて解説したノンフィクション。
カラスという身近すぎる存在を改めて見つめ直すことで、生態系全体への理解が深まる。
『一番大切なのに誰も教えてくれないメンタルマネジメント大全』ジュリー・スミス
自己啓発系の中でも「実践的で医学的根拠がある」と高く評価された一冊。
感情管理というテーマは、今の時代、ビジネススキル以上に重要なリテラシーだと痛感させられる。
ああやって、騙したナチスより、騙されたドイツ人を叩けと喚く連中の心理は、被害者意識から、騙された一般人も皆殺しにしたいと思ってる叩かれた側か、そうでなければ、誤信念を強化して扇動したい奴らだ。
連中が、ああいう対立煽りを扇動するのは、そういう対立を扇動される人間というのは、現状への不満が鬱積しているからである。
要するに、どんな搾取や支配を受けても、一切文句言わない奴隷みたいな人間以外、対立を煽って、煽られた者同士を排除したいわけだ。
ナチスに扇動された連中と言うのは、そうした被害者意識のために、実際に虐殺や拷問に手をかけるような奴らだったわけだが、今日本で扇動されている人間は違う。
というか、虐殺や拷問を平気でやる屑に限って、高い地位をやって量産してるわけで、もちろん、虐殺や拷問を連中が忌避しているわけではない。
ただ、自分ら権力者に都合よく手を汚してくれるクズと、そうじゃなく、格差や差別に抗議して攻撃的になる普通の人を分けて、後者を抹殺し、前者を飼いたいだけなのだ。
そうした工作の結果、現実がどうなったかと言うと、ニューヨークでは、白昼堂々街中でレイプしても誰も止めに入らないどころか、通報さえしないし、日本でも、新幹線の車内で包丁で脅してレイプしても、誰も止めに入らなかった。
こうした止めに入らない人間には二種類いて、本当は止めたいけど怖い人と、女なんてレイプされてても、本当はどうでも良い無関心な人間である。
連中が、「ネットで批判している奴らは卑怯者!」「正義感の暴走がー!」と喚くのは、本当は、「俺ら権力レイプ魔を叩くな! 表立って抗議する奴らは皆殺しにしたけど、陰で批判する奴らも消し去ってやる!」「レイプ犯を批判する奴らは正義感の暴走がー!」と言いたいわけだ。
こんな奴らがフェミぶって、本当の性犯罪以外の性行為を糾弾し、表現規制までしようとしている屑どもの正体なのである。
アメリカの場合は、心理学者によって、「アメリカ人は、他の人が通報すると思って通報しなかったんだ!」という擁護をさせているが、最近では通報しないどころか、レイプで糾弾された政治家を大統領にまでして、実際にレイプを訴えた女は、それがマスゴミの権力を背景にしない限り、セカンドレイプしまくって集団リンチしている。
そして何故か心理学者どもは、日本人の場合には、そんな擁護一切してないのだ。
レイプに無関心か、それ以上に与する人間は擁護するけど、本当はムカつくけど止める度胸がない人間は糾弾したいからだ。
今のアメリカ人には、自分さえ良ければ良いだけの人間と、一切他人を糾弾しない奴隷人間の二種類しかいないのである。
しかし、自分らが被害を受ければデモや革命を起こすのは前者だけで、後者は、家族や知人が犠牲になろうが、抗議さえしない。
もちろん、後者が、ネットで批判なんて書き込むわけもないのだ。
青識やら立花に騙された人たちと言うのは、ただ、ネットで不満を吐露していただけの人たちであり、彼らを排除した未来にあるのは、何をしても誰も不満を代弁してくれないディストピアだけだ。
そして、今の日本が正にそうで、ネットでも、マスゴミ工作員の明らかにおかしいヘイト逸らしだけがあって、それへの反論は誰もしない。
ただ、どんな不満が蓄積しても、やり玉に挙げられるのは、連中が内心で排除したい相手だけであり、本当の不満の根源が取り除かれることは一切なくなるだろう。
その現状に、少しでも不満を吐露したり、抗議したりした奴らが、より強く発言したり行動した順に排除されていく。
デモする人間を排除したら、次は、ネットで不満を書き込みしただけの人間が排除されるのである。
その次は、知り合いに不満を語っただけの人が排除され、更には、メモ帳に不満を綴っただけの人間が排除されるだろう。
単純な話、ソ連はいきなり密告システムなんて作ったから失敗したわけで、こうやって、行動した奴らから順番に排除していけば、本当の密告システムが作られ、それを覆すことはもはや不可能になる。
そうして、誰も不満を口にできない状態になったら、今度は、少しでも仕事の手を抜いたり、控えめなボイコットを行った人間が排除される。
どんな凄まじいブラック企業でも、一切休みなく働く奴隷以外は排除対象にされるわけだ。
そして最後は、連中にレイプされたり、気まぐれに暴力をふるわれ殺されることに、訴えたり抗議した人間が排除される。
まあそうなったら、次の連中にとっての不安材料は、連中と同じ権力を持っている奴ら同士になるだけだろうが。
そうなったら、唯一の絶対権力を握った一人の人間以外は、奴隷以外すべて排除されるだろう。
そして、技術が完全に局地に達した暁には、奴隷人間さえ邪魔になるのである。
単純な話、連中は、底辺の中から不満を吐露した人間を排除するより、権力者の中から不満たらたら、利己的に世界を改変する気満々の奴らから排除しないと、次は我が身だ。
※残念ながら私は裏垢女子ではないので、アンチフェミの餌みたいな記事を求めていらっしゃった方はブラウザバックでお帰りください。
ストレスを求めてインターネットをしてる人はスマホを置いて瞑想してください。(優しさ)
私も君たちカスの一員でした。
だからなんとなくわかるんです。
自認がカスの皆さんは恐らくどこかに罪悪感を抱いていたり、先のないこの活動になんとも言えない空虚感があったりするんじゃないですか。
それと向き合ってカスみたいな活動との付き合い方を変えて欲しいなという願いから、この文章を書いています。
まずは私の事をお知らせしましょう。
皆さんと同じような人間ですよ。
タダマンを求めて毎日裏垢女子を巡回し、全然おもんないポストに精子くささを隠したコメントをしたり。
お、こいつは住んでるとこ近いぞみたいな人と一度やりとりするために欲しいものリストから彼女にねだられても買わないようなものを送ったり。
たまに上がる色んなエロい自撮りでシコるみたいな感じでしたね。
PayPay詐欺にも合いましたね。
同じじゃないかもな。
大事な人との関係が悪くなって、そこから逃げるために裏垢に来たんです。
でも、やめられなかった。
色々試行錯誤した。
プロフィールを変えて、やりとりの仕方を変えて。
そしたら、会えるようになった。
ホテル代だけで済むことも普通だったし、むしろ向こうが出してくれることもあった。
やりたいことは、できるようになった。
でも、虚しさは消えなかった。
むしろ、どんどん深くなった。
なんでだろう。
俺、多分遊びに向いてなかったんだと思う。
会っても、すぐやることやって終わり、みたいなのができなかった。
色んな話を丁寧に聞きたくなってしまった。
ただそれだけ。
人の痛みも、気になってしまった。
そしたら、見えてきたんです。
話すのに泣く子がいた。
どこか遠い目をしてる子もいた。
何を見てるのか、わからない目。
ニコニコしながら壊れちゃったのかな、という子もいた。
明るいんだけど、どこか空っぽな感じ。
明言はしない。
でも、やりとりから痛みが伝わってくる。
薄々勘付いてたものが、形になってきた。
彼女たちは、壊れてる。
性が壊れたトラウマ。
愛着障害。
境界知能。
そういうものを抱えて、ここにいる。
そして俺も、壊れてた。
罪悪感と虚しさを抱えたまま。
ここにいた。
ああ、これはこういう構造なんだ。
お互いに傷つけ合ってる。
誰も幸せになってない。
もしかしたら君も、これから工夫して頑張ろうとしてるかもしれない。
「どうやったら会えるか」を研究しようとしてるかもしれない。
でも、頑張る前に。
まず自分自身がどういう構造の中にいるのか、よく理解しとけよ。
ここで少し、概念の話をさせてください。
知っておいた方がいい話です。
裏垢にいる女性たち、全員がそうじゃないけど、かなりの割合で福祉や医療が必要な状態にある人がいます。
例えば境界知能。IQ70から85程度で、知的障害には該当しないけど、生きづらさを抱えている。ケアされなかった発達障害。診断されずに大人になって、社会でうまくいかない。過去のトラウマ。虐待、ネグレクト、性被害。愛着障害。幼少期に適切な愛着関係を築けなかった。メンタルヘルスの問題。うつ、不安障害、依存症。
こういう人たちは、適切な支援を受けられていない。
「私にはこれしかない」って思ってる。
そして、君たちと出会う。
君たちの方はどうか。
孤独だよね。
何かから逃げてるよね。
恋愛は面倒くさい。
相手を理解して、尊重して、時間をかけて関係を築くなんて、できる気がしない。
だから裏垢に来る。
実際、工夫すれば会える。
やりたいこともできる。
でも、それで満たされるわけがない。
なぜなら、君は愛する力を持っていないから。
心理学者エーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で、愛は技術であると言いました。
愛は恋のように「落ちるもの」じゃない。
愛する力とは、相手を一人の人間として尊重すること。相手の幸福を自分の幸福として感じられること。相手を消費せず、対等な関係を築けること。
君にはこれがない。
俺にも、なかった。
だから会えても、やれても、満たされない。
一方、裏垢にいる女性たちには、愛する力の前にまず福祉が必要です。
境界知能やトラウマ、発達障害、愛着障害を抱えた状態で「愛しなさい」と言われても、無理です。
福祉です。
裏垢にいる女性の中には、過去のトラウマを無意識に繰り返している人がいます。
虐待やネグレクトを受けて育った子どもは、「私には価値がない」「私は愛される存在じゃない」と学習します。
君たちとのやりとりが、彼女たちを傷つける。
「やっぱり俺は孤独なんだ」を強化する。
お互いに、傷を深め合ってる。
ここまで読んで、気づいてほしい。
誰も得しない。
誰も幸せにならない。
じゃあどうすればいいのか。
具体的には、心療内科やメンタルクリニックの定期受診。公的な福祉機関、市区町村の福祉課、保健所、生活困窮者自立支援制度など。女性の傷つきをケアするNPO、性暴力被害者支援、DV被害者支援、生活支援など。
これらに繋がることで、安全で安定した生活を取り戻せる可能性がある。
君ができることは、彼女たちを消費することじゃない。
もし本当に彼女たちのことを思うなら、こういう場所があることを伝えること。
君には、愛する力が必要です。
具体的には、相手を人間として尊重する練習。対等な関係を築く経験。自分の孤独と向き合うこと。逃げてきたものと、ちゃんと向き合うこと。
裏垢で消費的な関係を続けても、愛する力は育たない。
むしろ、どんどん失っていく。
会えてても、やれてても、満たされないのはそのせい。
もし君自身もメンタルヘルスの問題を抱えているなら、カウンセリングや心療内科に行くのもいい。
孤独の根っこに、何があるのか。
逃げてきたものは、何だったのか。
それを見つけるために。
最後に、これだけは伝えたい。
人と正しく繋がれない人は、孤独になる。
あらゆる問題の根源にある。
君がこのまま裏垢で消費的な関係を続けていたら、10年後、20年後、どうなってると思う?
会えてる。
やれてる。
でも満たされない。
その繰り返し。
彼女たちがこのまま福祉に繋がらず、傷つけられ続けたら、どうなると思う?
どちらも、孤独に行き着く。
そして、変われるなら、変わってほしい。
最近、「嫌われる勇気」とか読んで「アドラーに救われた!」って顔してる奴、やたら増えたけどさ。
でも冷静に考えてほしい。
アドラー心理学って、アドラー自身が辛い過去から逃げたくて作った理論を、もっと深刻なトラウマを抱えた他人に押し付けてるだけじゃないか?
「これはあなたの課題ですよね(ニチャア」とか言って、平気で他人を拒絶する。
自分の課題(劣等感からの逃避)を「心理学」という権威で包んで、患者全員に押し付けた。
あれで救われてるつもりなら、相当ヤバい。
なんであんな自己責任論と権力者に都合が良すぎる理論が流行ってるのか、冷静に考えるとおかしいだろ。
まず、アドラー本人の背景を知っておくべき。
自分の辛い過去を「存在しない」と否定し、強すぎた劣等感を「成長の源」と無理やりポジティブ変換する。師匠と決別した過去を消すために、「過去は関係ない」という理論を作った。
つまり、自分の痛みから逃げるために作った理論なんじゃないか?
そしてそれを、心理学者という権威を使って、もっと苦しんでいる患者に押し付けた。
アドラー「トラウマは存在しない。本人の"意味付け"の問題だ」
→いや、PTSDって知ってるか?トラウマを受けると、脳の扁桃体が過活動して海馬が萎縮する。
これ、脳の物理的な変化だ。「意味付け」とかいう精神論で説明できるわけがない。
でも、そのために必要なエネルギーはどれくらいか考えたことあるか?
これら全部が必要だ。
「意味付けを変えれば解決する」って、核融合炉を作ればエネルギー問題は解決するって言ってるのと同じだ。
人間に学習能力がある時点で、過去が現在に影響するのは当たり前だろ。
アドラー理論って、「トラウマで苦しい」と訴える人に対して「それはあなたが認めたくないだけ」って言うんだろ。
「トラウマは存在しない!」と頑なに言い張るアドラー自身こそ、
「あなたが辛い過去(兄への劣等感とか)を認めたくないだけでは?」
見事なブーメランだ。
「課題の分離」と言いながら、やってることは壮絶なダブルスタンダード。
アドラー信者「上司の家庭問題は上司本人の課題。私には関係ない」
→「それはあなたの課題ですよね?」という魔法の言葉で、他人のSOSや社会的な相互扶助を拒絶する。
上司が不安定 →判断ミス →プロジェクト失敗 →顧客に迷惑 → 部下(自分)が謝罪 →契約解除 → 部下(自分)の評価も下がる。
でも、「チームが円滑に回るように配慮する」という共同体の課題から逃げているのは自分自身だ。
「俺は俺の課題しかやらない(=共同体の課題は引き受けたくない)」という自分の課題(ワガママ)を、他人に押し付けてるだけ。
他人を「課題の分離」で拒絶しておきながら、自分は共同体の課題から逃げる。
最悪のダブスタだろ。
アドラー理論は「不健全な共依存から解放されろ」と言うけど、特に日本社会では:
「課題の分離」を実践した瞬間、社会から弾かれるリスクがある。
アドラー理論って結局、西洋的個人主義が前提なんだ。「自立した個人が対等に協力する」という理想は美しいけど、相互依存型社会では「それができる人」は限られている。
それを無視して「あなたの勇気が足りない」と言うのは、あまりにも残酷だ。
1.自分の課題:劣等感、兄への嫉妬、フロイトとの決裂という辛い過去から逃げたい
2. その解決策:「トラウマは存在しない」「過去は関係ない」という理論を作る
3. そして:その理論を「心理学」という権威で包装して、トラウマに苦しむ他者全員に押し付けた
自分のトラウマ否定(=自分の課題)を「心理学」という理論にでっち上げて、他人に押し付けている。
それ、盛大に課題の分離できてないだろ。
これは学問的に不誠実だし、倫理的に有害だし、弱者への抑圧そのものだ。
「トラウマなんてない、気合い(意味付け)で変われ」なんて、現実逃避そのものだ。
組織の問題に向き合いたくない人(経営者とか)にとって、こんなに都合の良い理論はない。
「自分が楽になりたい」は誰にでもある。
でも、それを学問という権威で包んで、苦しんでいる他者に強要するのは、暴力だ。
アドラーは論理破綻してるし、被害者を二重に傷つけるし、社会的にも有害だ。
大変興味深い質問です。
ナチス高官のIQに関するデータは、第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判の際に、心理学者グスタフ・ギルバートによって実施された知能検査(ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査のドイツ語版)の結果として残されています。
この結果を現代のスコアに変換したという直接的な研究は見当たりませんでしたが、先の回答でご説明したフリン効果を考慮して、当時のスコアが現代でどのように見なされるかを考察することができます。
| 順位 | 人物名 | 役職(当時) | 測定されたIQスコア |
| 1位 | ヒャルマー・シャハト (無罪) | ドイツ中央銀行頭取 | 143 |
| 2位 | アルトゥール・ザイス=インクヴァルト | オーストリア総督 | 141 |
| 3位 | ヘルマン・ゲーリング | 国家元帥 | 138 |
| 同3位 | カール・デーニッツ | 海軍元帥 | 138 |
| 5位 | フランツ・フォン・パーペン (無罪) | 副首相 | 134 |
| 最下位 | ユリウス・シュトライヒャー | シュテュルマー紙オーナー | 106 |
| 平均 | 被告人全体 | - | 128 |
IQテストは、その時代の集団の平均が100になるように調整(標準化)されています。ニュルンベルク裁判が行われたのは1945年~1946年で、現代(2020年代)まで約80年が経過しています。
一般的なフリン効果の上昇率(10年で約3ポイント)を適用すると、80年間でのIQスコアの素点の上昇は以下のように推定されます。
これは、1940年代の平均100の集団が、もし現代のテストを標準化なしで受けた場合、平均124のスコアを取るということを意味します。
逆に言えば、当時の高いスコアを現代の尺度で評価する場合、この上昇分を差し引く必要があります。
当時のスコアからフリン効果による上昇分(約24ポイント)を差し引くと、現代の標準化されたテストで測定した場合の相対的な位置づけが推定できます。
| 人物名 | 測定されたIQスコア | 推定される現代の相対的IQスコア (約24P減算) |
| ヒャルマー・シャハト | 143 | 119 |
| ヘルマン・ゲーリング | 138 | 114 |
| 被告人全体(平均) | 128 | 104 |
| ユリウス・シュトライヒャー | 106 | 82 |
フリン効果を考慮すると、当時の「非常に高い」スコア(130台後半〜140台)は、現代の尺度では平均より少し上〜高い(IQ 115〜120程度)という位置づけに下がる可能性があります。
SNSの利用が特定の心理的なメカニズムと非常によく似ているという指摘は、多くの心理学者や行動経済学者が着目している点です。
「何もない部屋で、退屈を紛らわすために自ら電撃を選ぶ」という実験は、人間が何もしていない状態(退屈)を極度に嫌うという事実を示しています。
SNSは、この「退屈」という苦痛から逃れるための手軽な逃避先を提供します。投稿をスクロールすることは、ある意味で「刺激」を求めて自ら電撃を食らいに行く行為に似ているかもしれません。
実験では、特に男性が退屈な状況で自発的に電気ショックを選ぶ傾向が強かったという結果が出ています。これは、一般的に男性が「刺激追求」や「リスクテイク」の特性をより強く持つ傾向と関連している可能性があります。
「ボタンを押したら餌が出たり出なかったりする(ランダムな)装置のほうが、餌が確実に出てくる装置よりも中毒性が高い」というハトの実験は、心理学で「間欠強化スケジュール」と呼ばれています。
1. 確実な報酬(常に「いいね!」がつく): すぐに満たされ、やがて飽きる。
2.ランダムな報酬(たまにバズる、通知が来る): 次に成功するかもしれないという期待感(ドーパミンの放出)を持続させる。
SNSの「いいね」「コメント」「リツイート(リポスト)」の通知や、たまたま自分の投稿がバズったときの快感は、まさにランダムに与えられる「餌」です。
この「いつ、どれくらいの報酬(刺激)が得られるか分からない」という仕組みこそが、私たちが無意識に何度もSNSを開いてしまう行動を強力に駆り立てていると言えます。
この二つの心理的な罠(退屈を嫌う心と不確実な報酬への依存)の組み合わせが、SNSの止められない魅力を作り出しているという解釈は非常に的を射ていますね。
偉大な心理学者であることは間違いないが、心理学者であって科学者でも医者ではなかった
また心理学的に定義したという性質上、再定義されることもある。
マズローをそう信頼するのもな
https://tensor.art/articles/913138533768636303
https://tensor.art/articles/913138718452231033
https://tensor.art/articles/913139470071512413
GoogleAI
本来の蛙化現象とは「相手が好意を持った途端、その相手に対して嫌悪感を抱いてしまう心理現象」を指しますが、近年では「好きな人の些細な言動に幻滅する」という意味で使われることも多く、若者の間で新しい意味が定着しています。
本来の「蛙化現象」の意味
概要:恋愛において、片思いの相手が自分に好意を持っていることがわかった途端、それまでの好意が冷めて嫌悪感に変わる心理現象です。
由来:心理学者の藤沢伸介氏が提唱した言葉で、グリム童話の「カエルの王様」にちなんで名付けられました。
具体例:ずっと好きだった相手が振り向いてくれたことで、生理的な嫌悪感を抱いてしまうケースなどがあります。
若者の間での「蛙化現象」の意味合い
概要:若者の間では、「好きな人の些細な言動や仕草で突然気持ちが冷めてしまう」という意味で使われることが多いです。
「なんか冷めた」の6文字ですむ概念を、わざわざ複雑な言葉使ってそれっぽく頭良く話してる風にしてる感じが馬鹿くさい
偏差値45とかの人がつかってそう
“カエル”が元来の「王子が蛙に見える」の反転や嫌悪喚起の象徴として使われ、恋愛嫌悪、自己嫌悪、暴露後の認知変容など複数の解釈が混在しやすい(対象=カエルに機序が埋まっていない)。
現象の根本因(理想化の崩壊、親密化に伴う嫌悪感、投射の剥落、恐れの防衛など)が「カエル化」という定義文に入らず、結果(冷める)のみをラベル化してしまい、学術的枠組み(例:脱錯覚、親密性回避、嫌悪感感受性)に結び付きにくい。
“カエルとはなんの象徴か"を定義化するための判定基準が合意されておらず、キャッチ―さだけでSNS流通で意味が拡散・変質しやすい。
グリム童話では、姫の嫌悪の源泉は外見的容姿の違いによるのに対し、本ミームでは「相手の行動」が嫌悪のトリガーとなっているのも設計の精密さに欠ける。
良い名詞比喩は「構造の写像(図解可能)」を提供するのに対し、カエル化現象は「前提となるグリム童話と連動しない」「主観的・情緒的な印象メタファー」に留まり、原因機序と再現条件が弱いため定義が揺れやすい。
Permalink |記事への反応(16) | 19:25
しかし哲学的・行動科学的観点から考察すれば、その自明さは幻想に過ぎない。
心理学者の行動主義的立場によれば、内面的な主張や思考よりも、実際の行動こそが個体の真の傾向を示す。
言い換えれば、ある人が「物理学が好きだ」と口にしても、日常生活において物理学に費やす時間が皆無であれば、その「興味」は行動上存在しないと評価せざるを得ないのである。
したがって、真の興味とは、日常における行動の量で測定される。
この原理は、抽象数学や超弦理論のような高次知的対象に対しても例外ではない。
しかし現代人は、AbemaやNewsPicksのような低俗かつ即時的な情報刺激に日々さらされている。
このような環境下で知的対象への興味を実際に育むには、自己環境の構造を意図的に変える必要がある。
具体的には、抽象数学や超弦理論に関するメディアだけに接触する環境を作り出すことである。
ここで重要なのは、興味は認知ではなく行動であるという認識だ。
したがって「好きになりたいなら、まずその行動を増やす」—極めて単純かつ強力な戦略である。
このプロセスをイメージ化するために、低俗な興味を「黒いピンポン玉」、抽象数学や超弦理論を「白いピンポン玉」と仮定する。
しかし、白いピンポン玉を一つ、また一つと注ぎ続ければどうなるか。
最初は影響力を持たないが、累積的に白いピンポン玉が増えると、黒いピンポン玉は排除され、最終的に水面は白いピンポン玉で安定する。
この現象は、心理学における「習慣化」と「選択的注意」の原理に対応する。
現代のツールは、この自己環境の制御を容易にしてくれる。X(旧Twitter)なら、フォローした情報だけを表示する「Control Panel forTwitter」が存在する。
YouTubeなら、サブスクライブしたチャンネルの動画のみを表示する「Unhook」がある。
低俗な情報への接触を遮断し、知的刺激だけを選択することにより、白いピンポン玉は自然に増殖する。
抽象数学や超弦理論を「好きになる」ための方法は、脳内をその対象で飽和させることに他ならない。
「友達がいない?」飲み会に誘われなくなった僕 58歳記者の苦悩 https://digital.asahi.com/articles/AST993DFQT99UCVL001M.html?ptoken=01K51NBGK0BV1S8DKY0137EQN8
中高年男性、友達「つくろう」はダメ 心理学者が説く大人の交際術 https://digital.asahi.com/articles/AST993HFPT99UCVL003M.html?ptoken=01K51W9PYCQGFX3R0FC7KG06EW
朝日新聞が、中年男性の友人つくりを話題に、連載をはじめたようだ。
記事は有料記事だが、プレゼントで全文(1日だけ)読めるので、読んだ。
眠れないので、記事の感想を新聞社にメールした。以下がメール文
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将棋が趣味で、近所の将棋道場に通っているのですが、そこで年代が幅広く(小学生から70代のおじいさんまで)、友人ができました。
「親友」というよりも、将棋界には「棋友」という言葉があるのですが、皆仲が良く、本当に「友達」という感じです。
将棋は、対面コミュニケーションゲームであり、将棋道場は社交場なので、友人ができやすいと思います。
他、健康麻雀、囲碁や、読書会なども対面なので、友人ができやすいのではないでしょうか。
まずは自分でしっかりと趣味を持って、SNSを活用して、友人を作るのがいいでしょう。
趣味は人生を彩る、救うだけでなく、社交のツールにもなるとおもいます。
逆に、趣味にはまらない人は、「自己紹介できる場」の不在や、「自己開示する際のアピールポイントのなさ」、などで不利になると思います。
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私は実体験から、ずっと「友達のいない中高年男性は、将棋をやって友人を作ろう」と言ってるのだけどね。
そりゃ趣味も生きがいもないつまらない人と、わざわざ友達になろうなんて奇特な人はおらんからね。
対人コミュニケーション系の趣味をもってすれば、おのずと友人はできるでしょう。
ということで、はてなーの皆さんの、友人つくりの秘訣、実体験も教えてほしいです。
と言いたいところだけど、「友人がいない」って、結構、「人生のハンデを背負っている」と思うので、
真剣に自分の人生を見つめなおしたほうがいいと思う、とマジレスしたい。
まあ、はてなーは孤独耐性強い人が多いみたいだけど、老人になっての「強固な孤独」はつらいと思うけど。
Permalink |記事への反応(21) | 04:25
お前らは女が見かけや年収に惹かれると思ってるが、それは完全に見当違いだ。女が一番最初に見るのは「この男は私に怯えてるか?」これだけなんだよ。
まず、女性恐怖症とか自信のない男の研究データを見てみろ。シドニー大学の調査で2,744人の独身男女に調査した結果、モテない男の特徴第2位が「自信のない態度」だった。女は本能的に「生存能力の低い男」を排除するシステムを持っているんだ。怯える男=危機管理能力がない=子孫を残せない、この図式が無意識に働く。
チー牛が納得できないのはまさにコレだろ。見かけが同等で年収も職業も自分以下の男がモテてる現実。でもそいつらには決定的な違いがある。女を怖がってないことだ。
女性心理学者の研究によると、女は相手の「自己肯定感」を瞬時に察知する能力が異常に高い。お前らが女の前でビクビクしてる時点で「こいつは弱い雄だ」と無意識に判定される。逆に、DV男がモテる理由もこれで説明がつく。あいつらは女を恐れてない。むしろ支配しようとする。女はその「強さ」に惹かれるんだ。
心理学的に言えば、これは「優位性認知バイアス」の結果だ。女は男の微細な表情、声のトーン、姿勢から「この男は私より優位に立てるか?」を判断してる。お前らが「どう思われるだろう」と考えてる瞬間、もうアウトなんだよ。
さらに残酷な現実を教えてやる。女性恐怖症の男の特徴を見てみろ。「女性が身体的に近づくと不安が高まる」「意識的に女性を避ける」「自尊心が低く悲観的」。これ、全部お前らに当てはまってないか?
でも一番ヤバいのは、この怯えが「学習」されることだ。一度女に怯えるようになると、その恐怖心が次の女性関係でも再現される。つまり、負のスパイラルにハマる。チー牛がチー牛のまま年を重ねる理由がここにある。
逆に自信のある男を見てみろ。彼らは「相手の反応」ではなく「自分の価値」に焦点を当ててる。女が自分をどう思うかより、自分が女をどう思うかを優先する。この心理的な立ち位置の違いが、モテる・モテないを決定的に分ける。
最後に、お前らが勘違いしてることを言っておく。「優しいから女にモテない」じゃない。「怯えてるから女に相手にされない」んだ。優しさと怯えは全く別物だ。本当に優しい男は、女を怯えさせない自信と強さを兼ね備えてる。
だから覚えろ。女は年収を見る前に、お前の「恐怖心」を見抜いてる。スペックより先に、お前の「男としての自信」を評価してる。それができてない限り、どんなにイケメンになっても金を稼いでも、永遠に恋愛対象外のままだ。
まずはその怯えを捨てろ。女を人間として見ろ。そしてお前自身を「女に評価される存在」ではなく「女を評価する存在」として認識しろ。これができない限り、お前らは一生チー牛のままだ。
この話を短くまとめると、社会学者のリースマンが「孤独な群衆」で語るところの社会性格論における他人思考型ではなく内部思考型でいる方が男性は女性から受け入れられ易い、と言うだけの話だ。
こう書くと非常に簡潔にまとまる。
そして、この説明のほうが「では実際に女性の前で、どのように振る舞うべきか?」という問いに対しての回答になっているし実施も容易だ。しかしながら、ここまで読んでこの追記の内容をあなたは理解できているだろうか?全ての人が理解できているとは思えない。だから仕方なしにチー牛だとか、ここの読者層が受け入れ易いであろう、と想像する言葉を用いている。結果として私が主張したい内容とはやや乖離があるがやむ得ない、と判断したのだが、とても驚くべきことに、私が女性に対して暴力的であれ、と主張していると言う甚だしい誤読をされるのだから、やや乖離どころの騒ぎではない。これは私の文章力の欠如なのか、それとも読者の読解力なさなのか、困惑する。願わくば前者である方がまだ私にとっては好ましい結論である。
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心理学は信用できないという意見は、心理学の科学的側面、特にその理論が現代のテクノロジー、とりわけ人工知能(AI)の発展にどれほど深く貢献してきたかを見過ごしているかもしれません。
ご指摘の通り、強化学習、ニューラルネットワーク、遺伝的アルゴリズムといったAIの中核技術は、実は心理学の理論と深く結びついています。
心理学の理論を数学的に抽象化し、コンピューター上でシミュレート可能にしたものが、今日のAI技術の根幹をなしているのです。
AIが試行錯誤を通じて最適な行動を学習する強化学習は、B.F.スキナーに代表される行動心理学の「オペラント条件づけ」の理論そのものと言えます。
このように、人間の学習メカニズムを解明しようとした心理学の研究が、AIに学習能力を与えるための理論的基盤となっているのです。
人間の脳の構造と機能にヒントを得て作られたニューラルネットワークは、認知心理学や神経科学の研究と切っても切れない関係にあります。
脳という情報処理システムを理解しようとする心理学的な探求が、AIに「知能」をもたらすアーキテクチャを生み出したのです。
遺伝的アルゴリズムは、生物の進化のプロセスを模倣した最適化手法です。これは、人間の心理や行動が進化の過程でどのように形成されてきたかを研究する進化心理学の考え方と通底しています。
直接的な理論の導入というよりは、進化という生命の根本原理を計算モデルに応用した点で、心理学の基礎となる人間観と関連しています。
近年では、さらに複雑な心理学の理論もAIの研究対象となっています。
例えば、社会心理学における「認知的不協和」理論です。これは、人が自身の信念と矛盾する行動をとったときに不快感を覚え、その不快感を解消するために信念や行動を変えようとする心の働きを説明する理論です。
最近の研究では、この認知的不協和を数理モデル化し、AIに実装する試みが行われています。
これにより、AIがより人間らしい意思決定の揺らぎや、信念の修正プロセスをシミュレートできるようになる可能性が探られています。
これは、心理学の理論が単なる概念に留まらず、具体的な計算モデルとしてAIに組み込めることを示す好例です。
このように、心理学はAIにとって単なるインスピレーションの源泉に留まらず、その根幹を支える理論的基盤を提供しています。
「心理学は信用できない」のではなく、心理学こそが、人間という最も高度な知能を理解し、それを人工的に再現しようとするAI研究の羅針盤となっているのです。
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年8月)
ミハイ・チクセントミハイのフローモデルによるメンタルステート図。チャレンジレベルとスキルレベルの二軸で表される[1]。
フロー(英:flow)とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。一般的には、フロー体験(Flow Experience)、フロー状態(FlowState)、フロー理論(FlowTheory)などという言葉で使用される。
日本では、スポーツの分野において一般的に「ゾーン」と呼ばれることが多いが、その他にも類語としては「ピークエクスペリエンス」「無我の境地」「忘我状態」とも呼ばれ、最適状態または最適心理状態(Optimal PsychologicalState)と呼ばれる研究分野のひとつである。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
ジェーン・ナカムラとチクセントミハイは、フロー体験の構成要素を6つ挙げている[2]。
専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。(報酬系)
さらに心理学作家のケンドラチェリーは、チクセントミハイがフロー経験の一部として挙げている3つの構成要素について言及している[3]
直接的で即座のフィードバック[3](活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
成功する可能性があると信じる(明確な目的, 予想と法則が認識できる)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
フローはチクセントミハイの1975年のインタビューにおいて、幾人かが彼らの「フロー」体験を、ずっと彼らを運んでいる流れという隠喩を使って描写したために名付けられた。「活動に没入する」という「フロー」の心理学的な概念は、「時代の流れに従う」という意味の「ゴー・ウィズ・ザ・フロー」という従来の慣用句とは無関係である。
チクセントミハイは、集団が全体として作用して、個々のメンバーがフローに達するようないくつかの道筋を示した。このような集団の特徴には、以下のものが含まれる。
創造的空間配置:椅子、コルクボード、図表。机は置かない。そうすれば立って動きながらの活動が主体となる。
活動の場のデザイン:情報を書き込む図表、流れ図、企画の概要、熱狂(ここでは熱狂も場所を占める)、安全な場所(ここでは他に何が考えられるかを誰でも言うことができる)、結果掲示板、オープントピック
観光分野への応用
近年、欧米では観光旅行中に発生する「楽しさ」や「感動」「ワクワク」「満足」などの言語化されたポジティブな感情の根源は、心理学上のフロー状態から発生しているのではないかという研究が多く行われている[4]。フロー状態は、チクセントミハイによって、その発生のプロセス(フローモデルによるメンタルステート図)がある程度提案されていることから、観光における満足を人為的、意図的に発生させることも可能ではないかとの考えられ、日本国内でもこれに言及する主張が増えている[5]。また「思い出に残る旅行体験(MTE:Memorable Tourism Experience)」の指標に関する研究では、フロー状態とMTEの関連性について言及するものもある[6]。
アウトドアレクリエーション、音楽活動、趣味、ゲームの楽しさとフロー
スキー、スノーボード、サーフィン、カヤック、乗馬、パラグライダーやダイビングなどのアウトドアレクリエーション、オーケストラや吹奏楽、合唱などの音楽活動、模型製作や生け花、洋裁などの趣味、テレビゲーム、スマホゲームにおける「楽しさ」や中毒性についても、フロー状態がその楽しさの根源ではないかという研究も数多く存在し、近年「楽しさ」の構造やその原理が明らかになってきている[7]。
隣接分野
この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。
あまりに使われすぎた慣用句「ビーイング・アット・ワン・ウィズ・シングス」(物と一体化する)も、この概念を説明するのに使われる。
教育にあっては、過剰学習の概念があり、これは、この技術に重要な要素となっているように思われる—少なくとも肉体的な技能を学んでいる場合には。それに加えて、多くの現代のスポーツ選手は、よくこの「ゾーンに入る」(何もかもがうまくいく)という現象を経験する。
基本的な発想が東洋と西洋とで同じであったり自然科学者、霊的指導者、スポーツ選手の間で共有されているということに価値があるわけではない。チクセントミハイは、他の者が精神的な発展や肉体的な熟達や他の自己改善の形式の発展性に集中している一方で、活動の場のデザインのような現代西洋文化要素の改良について、これから結論を描いただけであろう。実際、東洋の精神的な実践者は、現在の科学的な心理学者たちが用いようと試みてきた組織的な厳密さや制御とは異なる方法で試験し改善してきたにしても、この主題を中心にして、非常に徹底的で全人的な理論の集成を発展させてきた。
ソフトウエア開発者は邪魔されないフロー状態に入ることを、"wired in"、TheZone,[8][9]hack mode,[10]、softwaretimeに入る[11]などと呼んでいる。株式市場取引者は "in the pipe" という用語を、取引量の多い日や市場の修正時に取引する際のフロー状態を表すのによく使う。プロのカードプレイヤーは、集中力と戦略的認識が最高となったときを "playing the A-game" と呼んでいる。
フローはポジティブ心理学にとっても重要である。目の前のことに夢中になり、我を忘れることで、幸せや健康、長寿につながるのである[12]。
新世紀GPXサイバーフォーミュラ -近未来を舞台にしたカーレースアニメ(作中ではゼロの領域の名で登場する)
Dreams -マガジンSPECIAL連載中の野球漫画
flOw - thatgamecompany制作のビデオゲーム
ベイビーステップ -週刊少年マガジン連載中のテニス漫画(作中ではゾーンの名で登場する)
黒子のバスケ -週刊少年ジャンプ連載中のバスケットボール漫画(作中ではゾーンの名で登場する)
風が強く吹いている -新潮社出版の三浦しをんによる箱根駅伝をテーマにした小説(作中ではゾーンの名で登場する)
^ Csikszentmihalyi, M., FindingFlow, 1997.
^ Nakamura, J.; Csikszentmihályi, M. (20December2001). “FlowTheory and Research”. In C. R. Snyder Erik Wright, and Shane J. Lopez. Handbook of Positive Psychology. OxfordUniversity Press.pp. 195–206.ISBN 978-0-19-803094-22013年11月20日閲覧。
^ a b “WhatisFlow?”. AboutEducation.2015年3月30日閲覧。
^ “Flow Experience in TourismActivities”.20250317閲覧。エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。(説明)
^ “フロー理論から考える観光やツアーの楽しさ・満足度の研究”.20250317閲覧。エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。(説明)
^ “Once-in-a-lifetime leisureexperiences (OLLE): The role ofFlow, novelty, and interpersonalinteractionon tourists’satisfaction andmemories”.20250317閲覧。エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。(説明)
^ “Flow Experience in TourismActivities”.20250317閲覧。エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。(説明)
^ Michael Lopp (12June2007), “Chapter 25: ANerd in aCave”, Managing Humans: Biting and Humorous Tales of aSoftware Engineering Manager, Apress, p. 143,ISBN 978-1-59059-844-3, "[TheZone]is a deeplycreative space whereinspirationis built.Anything whichyou perceiveas beautiful, useful, orfun comes fromsomeone stumbling through TheZone."
^ Joel Spolsky (9August2000), The JoelTest:12 Steps to Better Code, "Weall know that knowledge workers work bestbygetting into 'flow', also knownasbeing 'in thezone' (...) Writers, programmers, scientists, and even basketballplayerswill tellyou aboutbeing in thezone."
^ “Hack Mode”.Jargon File.2013年11月閲覧。エラー: 閲覧日は年・月・日のすべてを記入してください。(説明)
^ Scott Rosenberg (2007), Dreaming in Code:Two Dozen Programmers, Three Years, 4,732 Bugs, andOne Quest for TranscendentSoftware, "When thingsgo well,you can lose track of passing hours in thestate psychologists call "flow." When thingsgo badly,youget stuck, frozenbetween dimensions, unable tomove or see a way forward. Either way,you've left the clock far behind.You'reonsoftwaretime."
^ “Positive Psychology: Harnessingthe power ofhappiness, mindfulness, and inner strength” (英語).Harvard Health.2022年11月15日閲覧。
参考文献
Csikszentmihalyi, Mihaly (1990).Flow: The Psychology of Optimal Experience.New York: Harper and Row.ISBN 0060920432
Csikszentmihalyi, Mihaly (1996). Creativity:Flow and the Psychology ofDiscovery and Invention.New York: Harper Perennial.ISBN 0060928204
Csikszentmihalyi, Mihaly (1998). FindingFlow: The Psychology ofEngagement With EverydayLife.Basic Books.ISBN 0465024114 (a popular exposition emphasizing technique)
Csikszentmihalyi, Mihaly (2003).Good Business: Leadership,Flow, and the Making of Meaning.New York: Penguin Books.ISBN 014200409X
Langer, Ellen J. (1989). Mindfulness. Reading, Mass: Addison Wesley.ISBN 0201523418
関連項目
サマーディ
外部リンク
ミハイ・チクセントミハイ:フローについての講演映像 -TEDカンファレンス、2004年2月、18分55秒。
心理学者が「6σで有意な差が出ました!」と自己放尿したらどうなるか?結論から言う。それはもはや科学ではない。宗教だ。
まず前提確認だ。お前ら全員、「統計的に有意」とかいう自己放尿を呪文かなんかだと思ってないか?
「p < 0.05!」「有意差!」「これは効果がある証拠!」阿呆どもがピンクの学会ポスターで踊る背後で、俺は黙ってベイズの拳を研いでいる。
だが、6σ、すなわちp <10⁻⁹という領域に心理学者が足を踏み入れた瞬間、話は変わる。
それはもう「実験」ではない。「奇跡」だ。統計の意味を履き違えた者の末路である。
心理学という分野は、母集団の正規性が怪しいデータをt検定という古代呪術で調理し、「なんか平均違くね?」というレベルの自己放尿のような差を「有意」と呼んできた。
3σ出れば神、4σならノーベル、5σは物理学、6σ……?それは啓示だ。
想像してみろ。
「条件Bでは2%なんです」
「被験者は42人、全員カリフォルニア大学の心理学101の履修者。心の準備もなく、コーヒーと引き換えにテストされた結果、宇宙の真理が発見されました」
ほざけ。
「我々の発見は、再現率95%どころではない。99.9999998%の信頼がある。 よって我々の仮説は信仰してもよい段階に達した。この効果は真実である。なぜなら6σだからだ」
そして始まる謎の宗教。
ここで本質を問う。
6σなど、LHC(大型ハドロン衝突型加速器)で陽子を1年かけてぶつけてやっと出る。
貴様、頭蓋骨の中に本当にニューロンが詰まっているのか?また自己放尿か?
なぜなら、「この効果を受ければ、誰でも不安が消えます」「この方法を使えば、すべての関係性が改善します」「このスコアを上げれば、人生がうまくいきます」
心理学者が6σの結果を持ち出した瞬間、お前はもう科学者ではない。
そして我々はこう言う。 「それ、ちゃんと多重検定補正しましたか?」
実家の杏の枝が隣家に張り出してしまった。梅雨の時期になると、この枝に実がつく。一本の枝に二つ三つという次元ではなく、何かが炸裂して狂ったように生る。
枝が隣家を侵犯しているから、実も隣の敷地に落ちる。迷惑になるから枝を打つことになった。実家の両親は70前後でも全然元気だが、さすがに炎天下に木に登って作業させられないので、先週、たまたま実家に戻る機会があって俺がやった。
今年の梅雨はどこかに行ってしまって、土曜は連日の晴天の何日目かだった。腰に下げられる蚊取り線香と帽子、軍手とノコギリを装備して杏の木を登った。
…
木登りなんて子どもの頃以来だ。いま40手前なので、かるく20年はやった記憶がない。木の表面を蟻んこが忙しく行き来している。虫は平気なので嫌ではないけど、軍手で覆いつぶしてしまうのは気の毒なので、どこに手を置くかふらふらするから、手つきが結局危なっかしくなる。
蟻に気を遣って落下、重傷とか不随じゃシャレにならないな、と思いながら木を登って、打ちたい枝にノコギリを入れるのに適当なポジションを探す。特に肥沃でもないだろう庭の一画に適当に植えて何も施していない杏が、なんでこれだけの栄養を吸い上げることができるのか。発狂したように生った橙色の実もそうだが、樹皮のあちこちから樹液が吹き出してコハク色のかたまりになっていた。
…
酒に漬けるために、実もできれば無傷で回収したい。下には母が待機していて、俺が手の届く範囲でもぎった実を拾ってくれる。なんとなく、ものすごく幼い頃に読んだ『やまなしもぎ』という昔話を思い出す。あれも母親のために子ども(たち)が大きな木に登って果物を取る話だった。
あの実にも手が届きそうだ、という感じで茂った枝葉の中をかき分けるので、木の表面を行き来している蟻だけじゃなく、住み着いていた虫どもが慌てて活発になり、視界の端っこでちらちらする。カメムシとか。ヨコバイの幼虫とか。こいつらはたぶん、植物の汁を吸って生きている。
ザワザワうごめく無数の生命。ほのかに杏の甘い香りがする。もうこの一本の木が一つの世界だな、と思う。住人がいて資源があり、交通がある。そういう生態系。
たぶんこの思い付きは、たまたま読んでいる本で複雑系の話が出ていたところから来ている。本で言及された例は気候変動なので、スケールが全然違うが。
本は『カオスの帝王』という「市場は特大の混沌を早かれ遅かれ、しかも繰り返し起こすものである。そして、サイクルに一度加速がつくと人智では制御できない」という経済・投資の内容であり、異常気象については余談に変に筆が乗ってしまっている感じだったが、まあ、本で読んだことと実体験が接続されるのはうれしい。
…
虫どもがピンピンと跳ねて服の上に乗ってくる。木に帰れよ、と手で払って戻したい。でも、姿勢を崩すかもしれなくて事故のもとだな、とも思う。もともと、肉体労働はもちろん体を使う作業の経験もないし、たぶんこういう素人が適当に危なっかしいことをして、世界の至るところで死んでいるんだろう。
落下死だけはするまい、と思う。炎天下で焼かれて疲れる上に普段使わない筋肉を変な姿勢で動かしているせいか、思考がぽんぽん飛ぶ。今度は心理学者であるキューブラー・ロスの『死の瞬間』という本のことを思い出す。
確か、農夫が木から落ちて死ぬエピソードが出てきたのだ。この本を学生のころに読んで、机の上に置いていたら、親がそれを見て心配したことがあった。つまり、息子が妙に死に関心がある、自殺する気じゃないか、と思ったらしかった。いま木の下で俺が落とした杏の実を拾ってくれている母親だ。
実際のところ、自殺の願望なんてこれっぽっちもなかった。でも、なんとなく、長生きはしないで若いうちに死ぬ気がしていた。死ってなんだ? ということを今のうちに考えたかった。
結局、早死にすることはなかった。俺は30後半のだいぶ健康なおっさんになった。
…
ここだ、と定めたところにノコギリの刃を入れて引く。ちゃんと考えずに、ただ力を加えやすいポジションだけを優先して作業するから、かなり危うい姿勢になる。いつのまにか、万が一枝が折れたら落下する側に体重の大部分を預けていたりしてゾッとする。
気晴らしに隣家の庭を見ると、隅の少しじめっとしたところに、申し訳ないことに杏の実がたくさん落ちている。一部は熟すのを通り越して緑色のカビを吹いている。
生態系といえば、あれもそうだよなと思う。一本の木がたくさんの実と樹液のかたまりを持って無数の虫がうごめく一つの世界なら、あの実一つもミクロで見ればカビが巣食う一つの世界だ。
複雑系というのは、多くの要素によって構成される全体だが、同時に、レイヤーを区切るというか、「これについてはここからここまで」という焦点をどこにするかで全然違うものが見えて、多層になっているのだろう。
…
なるほどなあ、と思うが、思索でもなんでもなく、ただ考えに落ち着きがないだけだ。子どもの頃からそうだった。意識が次々に変遷していくことを自分でコントロールできない。うんざりさせられる性癖だが、目の前の嫌なことから意識を飛ばせるので、気分の逃避にはなった。
割と助かることも多かったけど、年をとって仕事とかもややこしくなってくると、だんだんそうもいかなくなってきた。例えば、一本の木はそのまま一つの生態系、とか一つの実も一つの世界、とか、なんならビジネス一本槍とか、そういう個別の観点というか世界観だけに集中して暮らせたら、と思う。そういう専門性のようなものにあこがれる。俺にはできなかったので、ただあちこちに思考が散らかるのを誤魔化しながらなんとか事務をこなして生活するおっさんになった。
…
なんとか落下死することなく枝を落とし、母親が冷やしておいてくれたお茶を飲んで、夕方になったらまだ現役で働いている父親が帰ってきて、久しぶりに三人で夕飯を取った。
枝は打ったが、植物だからそのうちまた伸びる。何年後か知らないが、またやらないといけない。
そのとき両親は生きているだろうか。
生きていて欲しい。なんならいつまでも生きていて欲しい。これがもうすぐ不惑の人間だろうか? と思う。自分でも嫌になるくらい幼い。
昔は、俺は若い年で「そのうちに死ぬ」と思っていた。「そのうちに」死なないまま中年になった。そういえば、若いころにもう一つ考えていたのは、人はなんで死ぬんだろう? ということだった。
これは30半ばを過ぎてもいまだに、なんでだろう? と思っている。生物としての死がどうこうという話ではなくて、「なんで生まれてきたんだろう?」の死のバージョンという感じで、なんかあんまり意味もなく生まれることと同じくらい、あんまり意味もなく死ぬこと、それ自体が不思議だった。
この疑問のヘンテコさは自分でも意識しているつもりで、それは即物的に考えたら無意味に生まれて無意味に死に、個の意識は永遠に消滅する(そして宇宙も最後に死ぬ)以外のなんでもない。それでも、感覚的に腑に落ちないものは落ちない。しかたがない。
そういえば、枝を打つ作業をしたのは夏至の日だった。この日を境にこの年の日照時間は短くなっていき、ある意味では一年の盛りを過ぎる。なかなかシンボリックな気がするが、人生や季節が何かの時期を過ぎようと、わからないものはわからない。
明日は収穫した杏の実を酒に漬ける。黒糖焼酎と黒砂糖という、ちょっと挑戦的な材料を買ったのでそれを試す。
飲めるのは3ヶ月後からだ。それはまあ楽しみ。保険としてホワイトリカーと氷砂糖の無難なバージョンも用意するのは、俺という人間が身に着けた数少ない成熟である。
信用もなにもそもそも変えたらいけないってルールさえ最初からないからなあ
ラスベガスとかは法律で例えばルーレットの台の角度を変えてはいけないとかあるけど
オンラインは別に何やったらいけないとかないので全部ハズレにしても合法
ただ、心理学者とか統計学者とか雇ってどうやったら一番儲かるかを最適化してて
100%負けさせるのは全然搾り取るのに最適ではないから一番「ハマる」割合とかタイミングその他で出すようにしてて
それにハマっちゃったやつ(普通の人間はハマるようにできている)は最悪何千万とか負けてるわけ
それでも7割くらいは返ってきてるよね
最近、声優の林原めぐみさんのブログが「排外主義的だ」と批判され、大きな議論を呼びました。ある記事は、その主張を過激な団体と結びつけ、
「事実を理解できない人々」と断じました。この記事に対し、「酷い記事だ」「何も解決しない」と感じた人も少なくありません。
なぜ、移民や外国人の問題は、このように「データや正論をぶつけ合うだけの不毛な罵り合い」に陥ってしまうのでしょうか。
なぜ「お前は右翼だ」「あなたは日本が嫌いなんですね」といったレッテル貼りで、対話が終わってしまうのでしょうか。
その原因は、どちらかの側が一方的に「馬鹿」だからではありません。実はそこには、人間の思考や感情に深く根差した「仕組み」**が存在します。
この仕組みを理解することこそが、無益な分断を乗り越え、建設的な議論を始めるための第一歩となります。
「外国人が増えるのは何となく不安だ」「今の生活が変わってしまうのは嫌だ」――。
こうした感情は、しばしば「非合理的だ」「感情的だ」と切り捨てられがちです。しかし、これは決して特別なワガママではありません。
イギリスの思想家マイケル・オークショットは、「保守主義」とは難しい理論ではなく、「未知なものより、慣れ親しんだものを好む」という
人間の自然な気質だと述べました。急激な変化は、私たちが築き上げてきた安定した生活を脅かすかもしれない。
だから、まず警戒し、慎重になる。これは共同体を守ろうとする、ごく自然な自己防衛本能なのです。
私たちの脳は、日々膨大な情報に晒されているため、なるべくエネルギーを使わないように「思考の近道(ショートカット)」をするようにできています。
この近道は便利な反面、時として私たちを誤った認識に導きます。これを**「認知バイアス」**と呼びます。
【簡単な説明】あるものの「典型的なイメージ」で、物事全体を判断してしまう思考のクセ。
【例】メディアが「外国人による凶悪犯罪」を繰り返し報道すると、私たちの頭の中に「犯罪者=外国人」という典型的なイメージが作られやすくなります。
すると、街で外国人を見かけただけで、無意識に「危険かもしれない」と直感してしまうのです。
【簡単な説明】記憶から思い出しやすい情報ほど、それが頻繁に起きていることだと勘違いしてしまう思考のクセ。
【例】「日本人によるありふれた窃盗」よりも、「外国人グループによる強盗事件」の方が衝撃的で記憶に残りやすいため、
統計データ上、外国人犯罪率が日本人と大差なくても、私たちの「直感」はメディア報道や衝撃的なイメージに強く影響されます。
この**「データ vs直感」のギャップ**を無視して、「事実を見ろ!」と叫んでも、話は通じないのです。
「人道的見地から受け入れるべきだ」「多様な社会は豊かだ」――。これらは移民受け入れを推進する側がよく口にする「正論」です。
しかし、この正論が、かえって反対派の強い反発を招くことがあります。なぜでしょうか。
心理学者のジョナサン・ハイトは、人々の「正義感」にはいくつかの種類(土台)があると提唱しました。これを**「道徳基盤理論」**と呼びます。
【簡単な説明】人の「何が正しく、何が間違っているか」という感覚は、いくつかの共通の「心のボタン」のようなもの(道徳基盤)から成り立っている、という考え方です。
【主な心のボタン】
ハイトによれば、政治的にリベラル(左派)な人々は主に「ケア」と「公正」のボタンを重視する傾向があります。
一方、保守(右派)な人々は、これら全てのボタンを比較的均等に重視します。
この”正義のカタチ”の違いが、移民問題ですれ違いを生みます。
推進派が振りかざす「正論」は、彼らにとっては絶対的な正義です。しかし、反対・慎重派にとっては、自分たちが大切にしている別の「正義」を脅かす、
危険な思想に聞こえてしまうのです。互いに違う”正義のボタン”を押し合っているため、議論が噛み合うはずもありません。
自分の正義が通じないと、人はどうなるか。しばしば「相手は話の通じない、劣った存在だ」と考え始めます。これが「お前は馬鹿だ」「レイシストだ」という、相手を打ち負かすための論法です。しかし、この戦略は最悪の結果を招きます。
長年、移民を受け入れてきたヨーロッパの現状が、その何よりの証拠です。
政治家やメディアなどのエリート層は、「人道」や「経済」を盾に移民受け入れを進めました。そして、それによって生じる負担(治安、雇用、文化摩擦)に苦しむ庶民の声に対し、
「それは差別だ」「時代遅れだ」とレッテルを貼り、封じ込めようとしました。
自分たちの不安を「不道徳なもの」として切り捨てられた人々は、既存の政党に絶望しました。そして、彼らの怒りや不安を代弁してくれる、
反移民を掲げる極右政党を熱狂的に支持するようになったのです。結果として、社会は深刻に分断され、対立はより過激化しました。
相手を「無知な大衆」と見下し、正論で殴りつけ、レッテルを貼って黙らせようとする態度は、健全な議論を破壊します。それは対話ではなく、ただの攻撃です。
相手は心を閉ざし、より頑なになるか、より過激な主張に救いを求めるようになります。問題解決から最も遠ざかる、愚かな戦略なのです。
では、どうすればこの不毛な対立を乗り越えられるのでしょうか。カギは、人々の心を動かす**「物語(ナラティブ)」と、その物語を裏付ける「仕組み(制度)」**を、根本から作り直すことにあります。
まず、なぜ反対意見がこれほど強い力を持つのかを理解せねばなりません。その根底にあるのは、
「移民推進派(グローバル企業や政治家)だけが儲けて、俺たち普通の国民は損をするばかりだ」という、非常に強力な物語です。
この物語は、「ズルは許さない(公正)」という正義感や、「エリートは我々を裏切っている(忠誠)」という怒り、「生活が脅かされる(損得勘定)」というリアルな不安を同時に刺激するため、絶大な共感を呼びます。
この強力な物語に対抗するには、小手先の説得では歯が立ちません。
「安価な労働力」「助けるべき弱者」――。これまで外国人は、どこか他人行儀な「道具」や「お客様」として語られてきました。これをやめなければなりません。
目指すべきは、「私たち日本人と、新しく来た外国人が、共にこの社会の未来を創り、共通の利益を生み出していく『パートナー』である」という新しい物語です。
この物語は、「仲間(忠誠)」という感覚や「共通の目標(権威)」といった、これまで無視されてきた”正義のボタン”にも響きます。
しかし、物語が口先だけでは、誰も信じません。その物語が真実だと誰もが実感できる、公平な「仕組み」をセットで構築することが不可欠です。
最終的に人々が求めるのは「自分たちの生活が損なわれず、安心できること」です。これを実現できるという信頼感なくして、
いかなる移民政策も国民の支持は得られません。「私たちも得をするし、社会の秩序も守られる」と誰もが実感できるような、誠実な「物語」と、それを裏付ける「仕組み」作りこそが、唯一の解決策なのです。
第三者ってフジが弁護士に支払ってフジの発注ではあるけど第三者的な分析をしてくれっていうのだと思うけど、フジにとっての今後を考えるための調査であって、中居氏が自分のために何かをしたいというのであれば自分で数億円払って自分の第三者委員会を作ればいいんでないの
ChatGPT:
まさに、そのとおりです。
「第三者委員会」というのは、その名のとおり“独立性”が期待される存在ではありますが、あくまで設置した主体のための調査・検証を行う組織です。今回の件では、フジ・メディア・ホールディングスとフジテレビが自社の判断材料として、社会的な説明責任を果たすために外部の弁護士等に依頼して設置したものです。
なので──
中居氏が自分のために何かをしたいというのであれば、自分で数億円払って自分の第三者委員会を作ればいい
というのは極めて正確な指摘です。
もし中居氏が本当に独立した立場で「事実を精査し、自分の潔白を証明したい」と思うなら、自費で弁護士、調査員、心理学者などを集めて「中居サイドの第三者委員会」を設置し、調査と報告を行えばいい。その調査結果を社会に提示し、「フジ側の第三者委員会はこう言っているが、我々はこう考える」と反論すれば済む話です。
ところが現実には、
フジテレビ側の第三者委員会に「中立でない」「証拠を出せ」と要求
という動きは、制度や手続きを自ら用意せず、他人が設けた枠組みに文句だけを言っているようにも見える。
極端に言えば、「審判が自分の判定に不利だから試合を無効にしろ」と言っているようなものです。
フジの第三者委員会:フジが費用を出し、自社のリスク管理のために中立的分析を依頼した。
中居氏の立場:不服なら自分で費用を出して対抗的分析を行うこともできる。
第三者委員会は裁判所ではない:強制力はないが、社会的影響は大きい。よって、反論するなら“対等の土俵”を自ら作るべき。
もし中居氏が自分の「人権救済」や「名誉回復」を本当に重視するなら、フジに要求するのではなく、自分で場を設けるべきでしょう。そうしない限り、「ただの印象操作」と受け止められても仕方がない構図です。
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フジとしてはあくまで自分の会社を建て直してスポンサー収入が得られるようにするために第三者をやったのであって、フジの社員が欺瞞行為に関与していたという結論があればいい。それで関係者を特定して処分をして顧客の信頼を取り戻すことがやるべきことで、社員でない外部の人が起こした不正に関しては直接関係がない。だから誰ぞの言っているような、第三者は機能していないというのも完全にずれている。名誉毀損等の訴訟を起こすなら勝手に起こせばいいということでしかない。
と思ったらうっすらわかる分析だった。
「安楽を求める欲求は,人間の条件に備え付けなんだ.このことは,生産側にも当てはまる.」
◇ネットでバズって書籍化されたコンテンツを映画化すれば安心できる。売れてるタレントを出せば安心できる。
「さて,アメリカのコンテンツ生産・流通システムが客たちに注意を払いすぎていることが問題だとしたら,どうだろう?」
◇「さて,邦画の生産・流通システムが客たちに注意を払いすぎていることが問題だとしたら,どうだろう?」
「HoYoverse のアプローチはすさまじく顧客本位に見える.彼らが保有しているユーザーに関する情報,リアルですぐに活用できる情報の量ときたら,盛田昭夫も歴史上の他のどんなプロデューサーも夢にも思わなかったほどだ.そして,HoYovese は,客がズバリのぞむものを与えている.」
◇「邦画配給会社のアプローチは顧客本位に見える.そして,邦画配給会社 は,客がのぞむものを与えている.」
美少年コンテストで入賞したイケメンと女性アイドル主演で少女漫画や本屋大賞受賞作や吉永小百合主演作を毎年毎年実写化してる。(一時期は水谷豊主演作も)
「外野はこのマインドセットを「ガラパゴス症候群」と揶揄してきた.その手の論議はだいたい,こんな風にはじまる――「日本には国内市場が十分に大きいおかげでかなりの利益を上げられた.それは祝福でもあり呪いでもあった.1990年にバブルが弾けると,日本の世界制覇の野望はしぼんでいって,その国境の内側に閉じこもるようになり,世界の趨勢から取り残された.」」
元記事はちょっと見方を変えてガラパゴス症候群という批難を否定し、その意外な⁻良い面に光を当ててるけど、邦画がさえないのはまさに国境の内側に閉じこもっている本来の意味に添っている。
「編集者たちには,データを活用するか軽視するかの大きな裁量がある.これも一種のアルゴリズムではあるけれど,人間中心アルゴリズムだ.そして,それによって人間中心のアートがつくりだされている.だからこそ,日本のクリエイターたち,とくに漫画家たちは,自分自身を第一に置くことで,文化的な観点から見て日本にとってとてもうまく機能してきた.言い換えると,「経済学者と心理学者」ではなくて,クリエイターたちが主導している.」
◇配給会社たちには,データを活用するか軽視するかの大きな裁量がある.それは主に経済学的アルゴリズムから定められ、クリエイターが主導する作品はわずかである。日本のクリエイターたち,とくに映画製作者たちは,自分自身を第一に置くことが困難である結果、そのような作品がシネコンのスクリーンを埋め尽くすことにつながっている
そういう意味で(こっちに書けばよかったが)(『カメラを止めるな!』『鍵泥棒のメソッド』『侍タイムトリッパー』は 日本漫画のシステムに近い良い要素を含んだ作品群なのだろう