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はてなキーワード:徳川秀忠とは

2025-01-13

anond:20250112220238

徳川秀忠関ケ原遅延が実は徳川家康命令によるものだったという書状を入手した、とかかな?

関ケ原に負けた際にも自軍兵力を温存しておくためにわざと遅れさせた。

その確かな証拠を手に入れた!

とかだったら、徳川幕府が成立したあとでも十分にスキャンダルになると思う。

かなり無理のある歴史解釈だけど絶対になかったとも言い切れないのが、戦国の世だと思う。

両軍ともに野戦による一大決戦で決着が着くとは考えていなかった可能性がある。

その場合自軍をまるまる温存できていた場合アドバンテージがないこともない。

まあ、無理がありすぎる話だな。

実際の戦争は数の世界からな。

ロシアがとにかく数を揃えることで勝っているのだし、

ウクライナは数を揃えられないから負けている。

そういうものなんだろう。

Permalink |記事への反応(1) | 16:15

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anond:20250112220238

そりゃあ徳川家康死亡説やろ。リーク元はもちろん徳川秀忠

Permalink |記事への反応(0) | 15:46

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2024-11-03

関ヶ原の合戦って西軍が勝ってたらどうなってたんだろ?

やっぱ仮にも西軍大将になってたんだから毛利幕府とかが出来てたんか?

それともそんな馬鹿なことは石田三成が許さんくて、

戦後ガッチリ自分権力を握りしめ、

やがて石田家が豊臣家の執権権力者代行みたいな役割をやるうちに、

主家を凌ぐ勢いを得るようになるとか?

でもあれだね。

関ヶ原東軍が負けてても、徳川家は主力が合戦場に到着して無くて無傷だからまだまだ一波乱起こせるんだよな。

うまい具合に戦力を温存してるし家康が討ち死にしてた場合でも徳川家が残る目はまだある。

ちゅうことは、やっぱ徳川秀忠合戦遅刻したのって家康の密命だったんかね?

Permalink |記事への反応(1) | 17:39

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2023-03-13

日本電産合議制移行だいじょうぶそうですね

過去の失敗は、「第二の永守さん」を創ろうとしたことにある

今回のような合議制なら徳川秀忠・家光体勢に移行できそう

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF1132V0R10C23A3000000/

Permalink |記事への反応(0) | 16:25

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2023-02-17

anond:20230217133536

関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。

慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)から

大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠

御伽衆として、細川興元佐久間安政立花宗茂らと共に抜擢される

Permalink |記事への反応(0) | 13:46

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2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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2022-06-18

徳川秀忠愛妻家恐妻家だったのか?

好むと好まざるとにかかわらず、

側室を多数おいて子供の数を増やすことが義務

とも考えられていた貴族社会にあって

徳川秀忠側室を置かなかったのはなぜなのだろうか。

豊臣家の諸侯ひとつとしての徳川家であった時代はともかく

関ケ原以後天下としての徳川家において嫡流を残すために側室を置かなかったのは何故なのか。

定説では秀忠は非常な恐妻家で隠れて囲っていた側室が子を生んだ際には

正室に見つからないようにして家臣の子供として養育させたくらいである、とされている。

まあ、そのとおりなのかもしれないがあるいは父・家康に警戒心を抱かせないための処世術だったのかもしれない。

秀忠の男子の子供はふたりいたが国王の子供の数としては圧倒的に少なすぎる。

当然、側室を置くべきであるし秀忠もそのように考えていただろう。

しかし、そこに家康という存在があると話は変わるのではないか

秀忠の血筋にもしものことがあった場合には自分の子供が国王即位する、という環境家康にとって心地よいものであったのではないだろうか?

また秀忠が多数の子供をつくり、その子どもたちが勢力を増していき、いずれ家康の子どもたちと争うことになるということは考えられることであり

家康にとっては不快心配タネになることだったのではないだろうか?

そういった対家康という側面から秀忠の選択を考えることも出来ると思うし、そういう説もおそらくはあるのだろう。

筆者は歴史に詳しくないのでそのへんはよく知らないのだが上記のことをウンコしてるときに思いついたので書いてみた。

Permalink |記事への反応(0) | 11:32

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2021-12-22

徳川秀忠サンシャイン池崎の真似をする場合

どんなネタ披露するのか

父はガイア徳川なのか

Permalink |記事への反応(0) | 01:38

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2021-05-30

anond:20210530091718

その論理で行けば、勝手に「子を作らない」選択をするのも、本人の意向無視していることになるのでは?世に出たかたかもしれないよね?

例えば、徳川家康が子づくりをしなければ徳川秀忠は生まれてこなかったけど、それって徳川秀忠意思無視したことにならないの?どうして?当然、本人の意向を聞くべきでは?まさか、「同意とれないから仕方がない」とか言わないよね?

Permalink |記事への反応(0) | 23:06

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2021-01-26

関ケ原の戦い西軍が勝った世界線に住んでる

結論から言うと、東軍が勝った世界線に住んでる人かわいそう。

以下、ざっくり現代までの歴史を書いていく。

徳川家康関ケ原で討ち死に。徳川秀忠切腹。両者の首は一条戻橋に晒される。徳川家結城秀康が引き継ぐも実質滅亡。

その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。

関ケ原の戦い後、小早川秀秋関白になるも5年で病死。その後は豊臣秀頼関白になる。日本上杉、宇喜多毛利島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はの混乱を引き起こし元凶で、野蛮で恥ずかしい存在しかない。交易経済が発展しているので、日本のせまーい土地で米なんてものを作らせて税金徴収するなんてバカなことは関ケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域農民労働者が蜂起して自治権漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。キリスト教も新旧両派が認められ、仏教二大勢力になっている。その後、ユダヤ教イスラム教を信じる人も増えていく。武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない。

19世紀になると大名支配していた地域労働者農民代表者からなる議会と豊臣を首班とする貴族からなる議会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府かいものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約議会承認する。19世紀の半ばにはアメリカヨーロッパ思想日本語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューロック思想自分たちのやっていることと大して変わらないということで学校議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由議論して学ぶのがメイン。この教育きっかけに貴族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国連合国家形成する構想が何度も浮かぶアジア大陸では日本と同様、仏教キリスト教がメイン。儒教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の社会主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟から連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きな戦争が起きる。武士のような強権的で野蛮な人間が早い時期にいなくなり、無駄戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。


20世紀に入ると漸次的にアジア太平洋連合国家APS)が形成されていく。APSはそれぞれの構成国で温度差はあるもの民主的憲法国民が制定した国家からなる。日本列島地域は力を失った貴族政治的な実権を失い、国民代表からなる議会と各地域代表者からなる元老院APS議会派遣される議員存在している。ヨーロッパで発生したファシズムと戦う第二次世界大戦こちらの世界でも勃発する。しかし、日本地域に強権的で野蛮な武士存在しないこちらの世界では他国侵略を行うようなことはない。APS含む連合国がイタリアファシストナチスドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、APS共産圏欧米諸国との間でイタリアドイツを再建。アジア大陸では中国共産党APSの戦いが続くが、1964年に休戦。中華人民共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。APS中東諸国に対する共産圏アメリカ侵略から防衛にあたり、友好関係現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でも共産主義を譲らないソ連と意地でも資本主義を手放さなアメリカ1980年代になると衰退していく。インド中東諸国が加入したことAPSアジア太平洋連邦共和国(FRAP)へと改組される。FRAPと欧州連合アメリカソ連の再建の中心となる。


21世紀に入ると世界はFRAP、欧州連合北米連合南米連合アフリカ連合連邦国家構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東日本の野蛮な武士支配権を握らなくてよかったと思ってる。

Permalink |記事への反応(25) | 01:22

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2016-12-21

anond:20161221121840

タイガー&ドラゴン大河

筆頭徳川家康真打軍師官兵衛、次の大河今川義元徳川家康真田丸徳川秀忠福島正則小早川秀秋

Permalink |記事への反応(0) | 19:57

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2014-04-18

戦国時代四大有能弟を決めよう

広い時期を取った戦国時代、兄もそこそこ以上メジャーな人物で。

個人的には


豊臣秀長

三好義賢

島津義弘

武田信繁


対抗馬は、吉川元春小早川隆景島津歳久、島津家久、香宗我部親泰、徳川秀康、徳川秀忠尼子国久山形昌景、真田昌幸真田幸村てなとこ?

大穴は、松永長頼森蘭丸武田勝頼

Permalink |記事への反応(6) | 10:17

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2014-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20140128144831

全くどうでもいいけど、元増田

家康秀吉が天下を取ってていても詰んでいなかった。秀次が継いだ場合は早晩詰むことになったが、それが起こらなかった故に詰んでいない状況が続き、結果、天下を取った」

認識している可能性があるから、あんまりキメ顔で正しくは…とは言わないほうがいいんじゃない


秀次って徳川秀忠みたいなタイプぽいんだよなー。たぶん、治世の政治家としては有能だったんじゃないかと。そう思うだけに残念と言えば残念である

Permalink |記事への反応(1) | 16:00

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2011-01-20

大河ドラマ岩下志麻

Chakuwiki岩下志麻が「大河ドラマで2回も次男贔屓の鬼母を演じていた」と書いてあった。

けど、よくよく考えてみたら、大河ドラマ岩下志麻が演じた主要な役3つ、北条政子草燃える)、保春院(独眼竜政宗)、崇源院(葵・徳川三代)はいずれも、次男びいきの鬼母ではあるまいか

北条政子実家北条家と結託して自らの長男・頼家とその妻子を抹殺し、次男・実朝を擁立した

最上義光の妹で伊達輝宗の正室である保春院は、長男である伊達政宗を毒殺しようと試み、次男の小次郎家督を継がせようとした

江(ごう)とも呼ばれる、徳川秀忠の御台所・崇源院は自身にとっては長男である千代(家光)を邪険に扱い、次男の徳川忠長を将軍に据えようと画策した

言わば三人が三人とも、日本史上「総領息子に厳しく次男坊に甘い鬼母」の代表格であり、これが大河ドラマの中でひとりの女優によって演じられたというのは、これはもう偶然ではあるまい。

Permalink |記事への反応(0) | 00:31

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2008-11-19

http://anond.hatelabo.jp/20081119140800

ちょっと調べれば、明治以前の日本は現代人もびっくりの性に開放的なお国だったことぐらいわかるんだけどねー。

夜這いの風習、祭り合コン&青姦の場、江戸離婚率・再婚率の高さ、姉さん女房は金のわらじをはいて探せ等々。

徳川秀忠の正室お江与だって再々婚だよ。

Permalink |記事への反応(1) | 14:28

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2007-03-20

セーラームーンエヴァ関係徳川秀忠と家光みたいなもん

エヴァ』の社会的影響が大き過ぎたせいでスルーされがちだけれども、のちのちアニメ業界に与えた影響や輩出した人材、声優市場と同人市場の開拓、メディアアニメを取り扱うことへの抵抗感の緩和などなど複数の視点から考えて『セーラームーン』をひとつ切断戦にしたオタク歴史語りがあってもいいと思うんだよね、と今週の『プリキュア5』を観ながら思う俺。すなわち半分戯言である。

面白いよなあ、『プリ5』。でもエロくないよなあ、『プリ5』。子供向けの一線守るためにわざとなんだろうけど。

セーラームーン』って、変形セーラー服だし、足のラインくっきりわかるしでやはり性的だったよなあ。ああ、こんなこと書いてたら黒犬獣の同人誌が読みたくなった。そんなダメ過ぎる有給初日。

Permalink |記事への反応(0) | 17:31

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