
はてなキーワード:循環論法とは
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
(非アカデミックという程度の広い意味で)日常的な会話や議論では背理法は使われない。
我々はわざと支離滅裂に言おうとでも思わないかぎり、ある程度筋の通ったと周りが思うような思考や言動をする。
意図的に筋が通った考え方をしてやろうというよりは、無自覚にそうなってしまうのではないかと思う。
それはそれが人間にとって教えられずとも内的に発現していく自然な思考の枠組みだからだと思う。
たとえば内と外の区別は人間にプリセットな思考の枠組みの一つだと思われる。
唯一の物が入れ物の外にあることを発見したら、入れ物の中を見なくてもその内にはないと即座に直観できるような枠組みだ。
背理法はどうかといえば、これは到底自然に人間に発芽される枠組みには思われない。
一部の天才が発見したその論法を天下りに与えられて、ほとんどの人が無理数の証明ができるかの試験のために公式として受け入れるにとどまるものに過ぎない。
その無理数の証明だが、たとえばルート2が無理数かの証明を示されたらその論法をまるごと「公式」と捉えることでルート3が無理数かを証明しろと言われても、証明はできるが、
実は自分で何を言っているのかよくわからないっていうのが正直な感想ではないか。
数学や論理学の議論ではない場で背理法的な話し方をされたら、むしろ素朴な実感として、論理の飛躍、支離滅裂と感じられるように感じる人が多いと思う。
きっと背理法自身の正当性は背理法以外の人間がもともと持っている論理的手順のなかで示し得るものだと思うのだが、そうはいっても自然な思考の一つではないと思われる。
もし背理法が背理法自身で正当化されるのならば、それは循環論法という論理(学)的に誤った論理になるわけだが、循環論法は間違いであるというのも人間がもともと持っている思考の枠組みには思われない。
素朴な実感として勉強するまでは循環論法的な話に何も違和感を感じなかったことも少なからずあると思われる。
世間的には背理法は支離滅裂だし自然ではないということで普通の会話や脊髄反射的なレスバでこれを用いる道理などない。
なぜ背理法を今ここまでこき下ろしているかというと、どうしても理解できない背理法の使い方を見かけたからだ。
特定の条件を満たす距離空間がコンパクトならば点列コンパクトであるという証明だがそうしたテーマはここでは本質ではないのでこれ以上立ち入らない。
Aでないと仮定して、そのなかでBでないと仮定して、するとAでないという仮定に矛盾するのでBが真であるということになり、このBが真であるということを、Aでないという仮定では矛盾することを示す根拠に使っているという構造をとっていることだ。
え、おかしくないですか?
Bが真であるというところからAでない、ではないということを導いたですよ。ということはAが真なのです。
でもだったらBは結局真偽どっちになるんですかね?Aでないという仮定から、Bでない、ではないと、導いたのに、実際はAであったと言う。
Bでない、ではないという推論のよってたつところが崩壊していないか?
それなのにその崩壊してそうに見えることを根拠にAだと言っている。
言ってみれば背理法の主張には確からしさを感じ取れる「手触り」がないわけだな。
中学レベルのピタゴラスの定理の、直角三角形を4で囲んで正方形を作るみたいな証明には、この種の手触りの無さが無い。全く誰にとっても納得できそうな証明だ。
数学が嫌いになるのも、こういうどう見ても支離滅裂に「見える」主張を、秀才天才だけが納得できる正当性でもって押し付けられるか場面に出会ってくるからだと思う。
その主犯の一人は背理法だと思われる。上記のような多重の背理法で何かを考えたり主張したりするということを数学や論理学系の学問を学ぶ人以外が自発的に行うことは全く人間として自然ではなくまずあり得ないと思われる。
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暇空の「真如苑=黒幕」説の筋立ては、以下のステップで構築されています:
1、問題の特定:自身(選挙敗北、支持者離反)や対立相手(堀口氏、藤原氏)の問題を、単なる個人的対立や偶然では説明できないとみなす。
2、黒幕の仮定:真如苑を「社会の裏で暗躍する団体」と仮定し、すべての問題の原因とする。
3、認知プロファイリング:ターゲット(藤原氏、堀口氏)の行動や発信を分析し、真如苑との関連を「発見」。例:名前、アイコン、旅行先などを無理やり結びつける。
例
・藤原氏のハンドルネーム「かみら」を、仏教で言及される「ニラ(かみら)」と結びつけ、真如苑の信者だと「認知プロファイリング」。
4、陰謀の構築:真如苑が暇空や堀口氏を攻撃し、藤原氏をスパイとして送り込んだと主張。堀口氏の「殺害」も真如苑の陰謀と結びつける。
5、物語化と発信:これらの推測をSNSや小説で発信し、支持者の注目を集める。
主観的で循環論法に陥りがちな点(仮説を裏付ける情報のみを採用し、反証を無視)が特徴。
真如苑や藤原氏、堀口氏に関する主張は、客観的証拠がなく、暇空の想像やこじつけに依存している
根拠の欠如:暇空の主張(堀口氏の殺害、真如苑の黒幕、藤原氏の関与)は、警察発表、報道、裁判記録などの客観的証拠が一切ない。Xの投稿や提供情報でも、暇空の主張は「推測」に基づくとされている()。
陰謀論の典型:真如苑を「黒幕」とする論理は、複雑な出来事を単一の悪意ある存在で説明する陰謀論の典型。暇空の「認知プロファイリング」は、断片的な情報を過剰に解釈し、因果関係を捏造する傾向がある()。
支持者との軋轢:藤原氏への攻撃は、選挙後の支持者離反や内輪揉めを反映。暇空が元仲間を「裏切り者」や「スパイ」とみなすことで、自身の影響力を維持しようとする戦略と見られる()。
法的リスク:藤原氏の刑事告訴(2025年5月、)や他の対立相手からの訴訟()は、暇空の「認知プロファイリング」が誹謗中傷として法的に問題視される例。この主張が真実でない場合、名誉毀損や虚偽告訴のリスクがある。
暇空茜の「認知プロファイリング」による「真如苑=黒幕」説は、自身や対立相手(堀口英利氏、藤原能成氏)の問題を説明するために、真如苑を陰謀の中心とみなす論理です。
具体的には、堀口氏が真如苑の「暗部」を暴こうとして「殺害」され、藤原氏がその実行者やスパイとして関与したと主張。
しかし、これらは「かみら」 「アルパカ」「蟹」 などの断片的情報を無理やり結びつけた推測であり、客観的証拠が欠けています。
この筋立ては、暇空の孤立や支持者離反を「外部の敵」のせいにする試みであり、
ただし、根拠の薄弱さや法的リスクから、批判的に扱うべき主張です。
注:本回答は提供情報()、Web結果(,,,,)、X投稿()に基づいていますが、暇空の主張は未検証で陰謀論的要素が強いため、事実として扱うにはさらなる証拠が必要です。
言葉の魔法で真実を煙に巻く政治家たち。その巧妙な詭弁の手口を暴く、衝撃のランキングがここに!あなたが騙されてきたかもしれないテクニックをここに紹介しよう。
10位
●ラブジョイ抗弁(Lovejoy Argument)─安倍晋三
『―「お父さんは憲法違反なの?」と子どもに言われた自衛官もいるんです』
子どもという“純粋無垢な存在”を盾に、改憲反対論を「子どもを危険にさらす非道徳」へとすり替える。議論を道徳問題に転倒させる手口
9位
●スリッパリー・スロープ(Slippery Slope)─安倍晋三
『一度賃上げに応じれば“どんどん給料はつり上がり、会社は倒産する”』
8位
7位
『消費税を上げるか、社会保障を切り捨てるか、二つに一つです』
6位
政策の良否ではなく過去の政権担当経験そのものを罵倒し、「相手は無能だ」と決め付けて論点を終わらせる。
5位
●話題逸らし(Red Herring)─安倍晋三
統計不正の追及中に無関係の“日教組批判”を放り込み、審議を強制終了。
4位
●循環論法(Begging the Question)─安倍晋三
『政治は結果なんですよ』
“結果が出た→成功”“成功だから結果”と主張を自家循環させる。
3位
● 早まった一般化(Hasty Generalization)─安倍晋三
『こんな人たちに負けるわけにはいかない!』
抗議者の一群を“こんな人”で一括りし、相手の主張も人格も雑に否定。
2位
● 過度な単純化(Over-simplification)─安倍晋三
『円が300円になったらトヨタの車は3分の1で売れる。だからあっという間に経済は回復する』
複雑な経済を「円安=全部うまくいく」と一発変換。原因と結果を極端に直線化。
1位
● 凶弾論法(Argumentby Assassination)─山上徹也
――2022年7月8日 奈良市・近鉄大和西大寺駅前参院選応援演説中
回答
シンギュラリティの定義 「AI が人類の知性を超えればシンギュラリティ」 主要条件 (= AI > Human)
自己改善 「AI研究者の知性を超えていれば自己改善できるはず」帰結/副次的期待
B は 「自己改善が“起きている”こと」 をシンギュラリティの 追加条件 としては置いていません。
むしろ AI > Human なら自動的に自己改善 できるようになるはず だ、と後付けで述べています。
我々の前回の形式化 主要条件として提示された「AI > Human」をそのまま取り上げ、B の推論(modus tollens)を検証した。
自己改善は「付随的帰結」と見なしたため、前回の目的(循環論法かどうか)には影響しなかった。
B の新しい主張 「自己改善こそ必須だった」と言い換えているが、これは最初の発言内容の後出し拡張。 元々の論証骨格(¬Singularity ⇒ ¬(AI > Human))には自己改善が出てこない。
論理的影響 仮に「シンギュラリティ ≔AI > Human ∧ 自己改善能力」と置き直すと、
ここからAI > Human を単独で否定することはできない(ド・モルガン則)。
「自己改善」を入れても入れなくても、B は結局「シンギュラリティはまだだ」と経験的に断言するだけで、測定基準や反証可能な指標を示していない。
したがって 循環性/情報価値の低さ という前回の指摘は依然として当てはまる。
4.結論
B自身が最初に主要条件として提示していなかったため、論証の検証に含めなかっただけ。
聞いてやったぞ(chatgpt o3)
下記のA, Bのやり取りにおいて、Bがトートロジーに陥っていると言えるかどうか検証してください。
A「アカデミアの学者でも、AIに負けを認めてその前提で考えるタイプと、負けを認められずいかに(今の)AIがダメか苦しい理屈を延々並べる不毛な作業に勤しんでいるタイプとに分かれてきたな。」
B「さすがに今はまだAIに負けないでしょ 勝ってたらシンギュラリティだし」
B「学者=人類最高峰の知性AIが人類の知性を超えればシンギュラリティだよ それこそAI研究者の知性を超えていれば自己改善できるはずだからね」
A「その程度の雑な定義だったらとっくにシンギュラリティ達成してると言えるだろうな」
B「現実として達成してないじゃん」
B「ぜんぜん陥ってないでしょ ChatGPTに聞いてみなよ」
回答
1. 「トートロジー」とは何か
命題の真理値表で常に真になる恒真命題 (例: P ∨ ¬P)。これは「言葉の使い方だけで必ず真」となる形。
結論を前提に埋め込んでしまい、新しい情報や検証可能な条件を与えない議論。「AIが勝っていれば勝っているはずだ」のような円環構造を指すことが多い。
今回 A が指摘したのは後者、「循環論法に陥っているのでは」という問いです。
1 「AI に負けていない。もし負けていたらシンギュラリティ」定義 :AI ≻ 学者 ⇒ Singularity
3 「学者=人類最高峰。AI が人類知性を超えればシンギュラリティ」同値 :AI ≻ Human ⇔ Singularity
4 A 「その定義ならもう達成してるかも」
5 B 「現実として達成してない」経験的前提 : ¬Singularity
6 (結論) 「だから負けていない」 推論 : ¬Singularity ⇒ ¬(AI ≻ Human)
論理式にすると
前提① : (AI ≻ Human) ⇔ Singularity
結論 : ¬(AI ≻ Human) (モーダス・トレンス)
3. これはトートロジーか?
論理的には循環していない 「If P then S」「Not S」「ゆえに Not P」という有効な三段論法(modus tollens)で、厳密な意味のトートロジーではない。
しかし情報価値は低い - Singularity を「AI ≻ Human」と同義語的に定義した時点で、
つまり検証手段も数値指標も提示せずに “起きていない” と断言しており、
4.結論
B は P ⇒ S, ¬S ⇒ ¬P という形で循環せずに推論している。
だが実質的には「定義と事実認定を自分で固定し、その固定を根拠に結論を下す」自己完結型の主張になっており、
「循環論法で新しい情報を与えていない」という日常語的批判としてはあたっている。
まとめ
トランスアライ達から女性への「子宮がある人」呼びに反発しただけで、差別主義者のレッテル貼られた、JKローリングさんのツイート貼っておく。
https://x.com/jk_rowling/status/1887472120541679690?t=r2ebMc3yqS5QW_ZcktU7Tw&s=19
ジェンダーイデオロギーは、言論の自由、科学的真実、同性愛者の権利、女性と少女の安全、プライバシー、尊厳を損なってきた。また、弱い立場にある子どもたちに回復不能な身体的ダメージを与えてきた。
誰も賛成票を投じておらず、大多数の人が反対しているにもかかわらず、政治家、医療機関、学界、メディアの一部、有名人、さらには警察によって、上から下まで強制されている。活動家たちは、敢えて反対する者に対して脅迫や暴力を振るってきた。疑問を呈した人々は名誉を傷つけられ、差別されてきた。仕事が失われ、人生が台無しになった。すべては、セックスが現実であり、重要であると知った罪のためだ。
煙が晴れれば、一部の非常に弱い立場の人々が被害を受けたという事実にもかかわらず、これはいわゆる弱い立場の少数派に関することではなかったことが明白になるだろう。私たちの社会の根底にある力関係は、解体されたのではなく、強化されたのだ。この大失態全体を通じて最も大きな声を上げてきたのは、富や地位によって結果から隔離された人々だ。
彼らは、自分の名前をドロレスと名乗ることにした身長6フィート4インチの強姦犯と同じ独房に閉じ込められることはなさそうだ。彼らは、国が資金を提供する強姦被害者支援センターを必要としていないし、繁華街の更衣室に頻繁に行くこともない。彼らは、女子用シャワー室でペニスが揺れることを嫌がる、意地悪な極右の偏見を持つ人々について、トークショーのソファでニヤニヤしながら、自分たちのプライベートプールがこれまで通り安全な場所であることに安心している。
ジェンダーアイデンティティのイデオロギーから最も恩恵を受けているのは、トランスジェンダーかどうかにかかわらず男性です。
中には、女装趣味があることで、これまで女性専用だったすべての場所へのアクセスを与えられた人もいます。また、新たな被害者という魅力的な立場を、女性を脅迫、暴行、嫌がらせする口実に利用した人もいます。トランスジェンダーではない左翼の男性たちは、女性や少女のニーズを嘲笑し、冷笑することで、自分たちの非の打ちどころのない進歩的な資質を誇示する素晴らしいプラットフォームを見つけ、自分たちにはない権利を放棄したと自画自賛しています。
この混乱の実際の被害者は、女性と子供、特に最も弱い立場の人々、運動に抵抗して恐ろしい代償を払った同性愛者、そして代名詞を一つ間違えただけで中傷されたり建設的に解雇されたりする環境で働く一般の人々です。これはごく少数派の話だなどと言わないでください。この運動は社会に悲惨な影響を与えており、もしあなたに少しでも分別があるなら、活動家のマントラ、人身攻撃、誤った同等性、循環論法の痕跡をすべてXフィードから静かに削除するでしょう。なぜなら、あなたは常にこの狂気を見抜いていたし、一瞬たりとも信じたことはなかったと偽りたくなる日が急速に近づいているからです。
まぁ「争いは同じレベルでないと成立しない」ってやつんだなろってのはわかりますけどね。
どうもこの辺りは十把一絡げに扱われがち。
だけど格としてはこの中では西村山本と比べて、夏野剛、川上量生は圧倒的に上なんだよな。ここが一緒なのが間違い。
そして川上は、DWANGOの創業経営者であり、あそこまで育てて角川書店と合併≒EXITしたわけだろ。他の連中とは実績が違う。DeNAの南場さんに匹敵する人物だよ。
西村は芸人、山本一郎は総会屋2.0なんて言われたけど、この二人は要するに山師なわけで、社会的に見たらマイナスでしかないよね。存在しない方が良い。
夏野剛と川上量生は、西村山本と比べたとき、実業家としてはガチだという所で大きな違いがある。
たくさんの部下がいれば凄いのかと言われりゃ、そりゃ凄いだろと言うのが社会人としての一般的な考え方であるが、循環論法っぽいのでもう少し分解すると
こいつらは新しいものを作ってんだよな。それでのし上がってる。社会に間違い無くインパクトを与えているから強い。
その上で優劣を付けるなら、川上の方が一枚上手だろうなと言うのが俺の感想だが、まぁ、そこは諸説あるだろう。大企業の文脈から見たら夏野の方が偉いだろうし。
では何故川上量生が軽視されるのかというと、見てくれが軽いからというのが一つあるだろう。弱そうなのである。
この記事を見てほしい。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1301/16/news086.html
ドワンゴの当時の経営陣がずらりと並んでいるが、この中で最も弱そうなのが左から三番目なのは論を持たないと思うが、これが川上氏である。夏野氏のような悪役顔だったらもう少し嘗められなかったに違いない。
次に、ドワンゴが急成長していく中で、あえて川上氏は部下に軽口を許していたようなところがある。会社はある程度大きくなると、社長はカリスマ型のセルフブランディングしないと統治が難しくなっていくのはわりと知られていると思われるが、どうも川上氏はそれを好まなかったように見える。
最後は、まぁ、自分の身内に危害が及んだとき、本人が黙ってられないところがあるのだろうなと思う。そういう点では、角川書店の角川兄弟に似てんなーと思う。あの二人も実業家として、表現者として、リーダーとして凄い人たちのなのは言うまでもないと思うが、いざという時に責任を取り過ぎて失脚しているところがある。
川上量生は犯罪を犯すようなタマではないだろうが、わざと無駄死にするような所がある。
例えば、要するに後になって整理すると、Webフィルタリングに著作権侵害のデットコピー海賊版サイトを加えろという、たかだかそれだけの主張をしたことがあった。それに対して山本一郎がしゃしゃり出て挑発した際、わざわざ乗っかって同じレベルで戦ったのは、山本一郎の挑発の矛先が他に向かわないようにするためだったと思われる。個人的にはあんた会長なんだからそんなことすんなよ、それあんたの仕事じゃ無いだろと思うのだが、そう言う所がある。
あの論争、ネトヲチ民からすると山本に軍配を上げる人が多いだろうが、実際のところ、そう言った論争に乗っからない地道な活動の結果、多くのWebフィルタリングにデフォルトで海賊版サイトが含まれるようになっているというのが現在の結果である。故に、当時の川上らの主張、フィルタリングは実現し、山本らの主張は海賊版サイトの台頭とその被害の増大という現実の前には粛々と無視されたという事になる。
本人もその気質を自覚しているところがあって、半ばアーリーリタイアしているのはそう言う事なのだろうとは思うのだが。
結論:カワンゴこと川上量生が軽視されるのは、弱く見えることと、自ら進んで道化を演じているから