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2025-08-18

メシマズ嫁真実

彼らが最初メシマズ嫁攻撃したとき、私は心の中で呟いていた。

「なぜ料理の下手な嫁に料理をさせるのだろう?」

私はメシマズ嫁を持つ妻帯者ではなかったから。

うちのメシマズ嫁は働き者

嫁とは一度別れたもの復縁し、向こうからプロポーズ催促でお互い30過ぎに結婚した。

働き者の良い嫁である。そこは素直に尊敬しているし頭が上がらない。

メシマズ嫁料理を作りたがる。しなくてもいいと言っても作る。

やりたくないことを無理にやらせてるから上達しないんじゃなくて、自分から率先してやるのに同じ失敗を繰り返すのである

私がスーパーで買ってきた弁当を食べようものならすねる始末だ。

「もう作らないからね」という言葉を聞いた覚えはあるが、未だ履行されていない。

うちのメシマズ嫁料理を下手な理由には見当がついていて、分量を全然守らないのである

失敗作を目にするたびに四次元殺法コンビの「王道が何故面白い理解できない人間面白い話は作れないぞ!」というコピペを思い出す。

電気炊飯器精米を炊くことにすら上手い下手があるということを、私は彼女同棲してはじめて知った。

嫁は「無洗米でも洗わないと気が済まない」と言うが、そんなことより水の量に気を遣って欲しい。

ふつうのお米だとぱさぱさだのガチガチな炊き立てご飯が出てきかねないので、今はもちもちの低アミロース米を選んでいる。

自分が炊けばいいのだが、仕事の都合手が回らないときもある。……嫁の夕飯は早い。休日など夕方5時過ぎに夕飯になる。うちの親は共働きだったので夕食は9時10時が当たり前だったし一人暮らしときもそんな感じだった。生活リズムが合わないので間に合わないのだ。

肉も赤い肉が出てくる始末だ。びっくり!! 私の食卓もまっ赤っか! ダイロシアンか。

加熱調理がヘタならせめて薄い肉にすればいいと思うのだが、なぜだかいつも厚みのある骨付き肉を買ってきて失敗する。少しかじると赤みが出てくるのである。なお、骨付き肉という点も食べづらくて苦手だ。

嫁は冷食やカップ麺は体に悪いというのだが、絶対生焼けの肉のほうが命が危いと思う。嫁にもそう言っているのだが肉はやはり赤い。

外食に行くと嫁はユッケをよく頼むので、彼女料理の火加減も半分は意図的にやっている可能性もある。

私は命を懸けてまでおいしいものを食べたいとは思わないので、ウェルダンが好きだ。

そもそも生食用に売られていない肉は加熱調理を前提としている。

素人調理して一部でも赤いまま出したら違法ユッケだろ。

私は別に冷食でいいと思っているのだが、たまたま嫁のいる時間帯にブッシュドノエルを焼いたことがある。

そしたら彼女は横から手を出してきて、用量を無視してボールにドバッと砂糖を入れてきた。

命の危険を感じるほど甘かったし、実際油断して一度に何切れも食べたら頭痛がした。

もう彼女のいるとき調理したくない。No morewar.

メシマズ嫁転職

さて、嫁は前職で上司に今後あなたに任せられる仕事はないと言われたらしく、憤慨して去年転職した。

ここまで書かなかったが嫁は身体障碍者である

実は障害者雇用では、法定雇用率というものがあるので雇いはするが、勤務時間が埋まるだけの仕事を割り振れなくて手持ち無沙汰にさせているという職場はけっこう多い。

雇用する企業上司が適切に仕事を割り振る必要があるが、上司だって部署の成績に対して評価が付くからできる部下と仕事をやりたいものだ。相当価値観アップデートされた企業とやる気がある障碍者の組み合わせでないと数合わせになりがちなのだ

座ってるだけで給料がもらえるなんて羨ましいと思うかもしれないが、これまで幸運なことに、と言っていいのかどうか、業務をこなしながら勤めてきた彼女にとっては追い出し部屋行きにしか思えなかったのだろう。

職場の嫁を見たわけではないので本人には言えないが、私は彼女の働き方にも瑕疵がなかったとはいえないのではないか?と思っている。

家での彼女家事を率先してやるが雑であるレシピ説明書きを守らない。

仕事が遅いのはまあそれを考慮したうえでスケジュールすればいい話だが、雑で修正が多いとなるとチェックに手がかかって大変である。兵は拙速を尊ばない。

嫁の前職は旧公社の子会社だったし給料障害者雇用では良い方だったので、彼女の親戚や友人は転職に反対したという。

彼女普段言動を考えても納得のいく反応である。嫁はいわゆる病み垢ほどではないが社会に対する被害者意識が感じられ、お嬢様育ちで世間知らずだ。

転職先でも実家暮らしだと思ってたと言われたそうだが、さすがに転職したばかりの職場でそう尻尾は出していないとは思うのだが、私もさもありなんと思う。

同棲する前は嫁も一人暮らしだったのだが。

ただ、私は、彼女が前職で働きたくないと言っていた以上長続きしないだろうなと思ったし、それに軽度身体障害者の転職のしやすさも聞いていたので、嫁の意思に任せることにした。

どこぞの商材屋にでも感化されたのかフリーランスになれば年収1億円プレイヤーになれるかもと言い始めたときには、さすがにそんなうまい話ないと思うよとツッコんでしまったが。……どうも嫁は反冷食どころかディープステートやら疑似医学にも弱いらしい。この間の選挙でもだいぶテンション上がってたので参○党かどこかに入れたんじゃないだろうか。怖くて聞けない。

メシマズ嫁引っ越し

転職した嫁は今度は職場が遠くてキツいというので、もっと交通アクセスの良い場所に引っ越すことになった。

一人暮らしをしていたころ私は引っ越し先を探すのにそう苦労した覚えがないが、彼女はいつも半年ぐらいかかっていたという。

結婚当初に住んでいた家については交通の便を捨てていたので気づかなかったのだが、改めて引っ越し先を検討していて彼女物件探しに苦労する理由がよく分かった。

家庭の懐事情生活の質を合わせるということを知らないのである

嫁は山の手お嬢様育ちなのでか友人は羽振りがいいらしく、彼女の友人の家には20畳近い部屋があるそうで、そんな家に住みたいといってくる。嫁が実際に引っ越し候補として挙げてくる部屋はさすがにもっとコンパクトだが。

薄情な友人はなぜ彼女に良い男を紹介しなかったのだろうか? その謎を解明すべく、私はアマゾンの奥地へ向かった――

私は小さいころに父が事業に失敗して清貧生活余儀なくされていたので、生まれから住んだ家の中で一番専有面積が広いのが嫁と暮らしている部屋だ。家族4人で借りてた部屋より夫婦2人の部屋のほうが広いって冷静に考えたらだいぶ贅沢だ。

実のところ私も、正社員身分ではあるもの彼女とそう年収が違うわけでもない。

家賃高いけど嫁も働いてるしまあなんとかなるかな……と思って申し込んでも入居審査NGとなることが続いた。

当たり前と言えば当たり前である。親元で家族4人で暮らしていた部屋より広いんだから子ども作る予定もないのに。

嫁の理想をすべて満たす家に住みたいならもっと稼げる旦那さんを探してもらうしかない(これはうっかり口に出したことがあるが嫁からは軽く「むかつく」としか言われなかった)。

しかし、どうやら彼女離婚する気はないらしい。転職して嫁の年収が下がってからは、私に転職を薦めてくることもなくなった。

私の給料は確かに世間的にはそんな高くはないが、もっとキツくて薄給仕事をがんばっている方も世の中には大勢いらっしゃる

老後2000万円問題(それが誤読ということは知っているが)もコツコツ働いていれば40代にはクリアできている見込みだし、もっと若いころには体を壊していた時期もあるので、私としては不足はない。

結局、現実に打ちのめされて嫁が折れるまで引っ越し先は決まらなかった。

引っ越したばかりの部屋に、嫁は狭いとため息をついた。

今はなんでも電子化・小型化されているので物も少なくて済むし、体感的にはその部屋は私が家族と住んでいた部屋よりずっと広い。

フィクションでは没落貴族お嬢様は心が美しく権門のご令嬢はおごり高ぶっているものだが、現実はどうやら逆のようだ。

人は一度上がった生活参照点をなかなか下げることができない。生活の質をそれより下げざるを得なくなった者は常に不満を抱えるしかないものらしい。

まれからこのかたずっと苦労知らずの人間は心に余裕がある(故に下級国民の余裕のなさを理解しづらいのだろう──「本当の弱者は助けたい姿をしていない」)。

平安の昔、末法の世にあっても、八条院領と呼ばれる広大な領地相続女帝候補であったとも言われる八条院暲子内親王はおおらかな性格で人望も篤かったという。

後白河法皇後醍醐天皇は当初は傍系扱いであったが、権勢欲を燃え上がらせ陰謀を張り巡らして歴史に名を遺した。

料理をしようとする心」の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである

Permalink |記事への反応(1) | 22:38

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2025-08-14

石破茂後醍醐天皇はよく似てる。

後醍醐天皇

湊川の戦いで敗北しながらも三種の神器を携え遁走し天皇の位に固執した行動、

石破首相

国政選挙で敗北しても辞任しない石破首相

 

石破茂後醍醐天皇姿勢は、時に「卑怯だ」という批判に晒されることがありますしかし、それぞれ異なる時代文脈の中で、彼らの行動を正当化する反論存在します。

後醍醐天皇に対する「卑怯」との指摘

湊川の戦いは、足利尊氏との天下分け目の戦いであり、この戦いで楠木正成をはじめとする多くの忠臣が命を落としました。後醍醐天皇は、自らは戦場に赴くことなく、敗北が濃厚となると戦場から離脱し、神器を携えて比叡山へ逃れました。この行為は、自らの理想のために多くの部下を犠牲にしながらも、自らは安全場所に逃げたという点で、指導者としての責任を果たさなかったと批判されることがあります特に武士道においては、主君と共に死ぬことが名誉とされた時代であり、天皇戦場から離脱することは、武士たちの忠義を裏切る行為と映ったかもしれません。

反論

後醍醐天皇の行動が、単なる命惜しみではなく、天皇正統性を守るための「政治的決断」であったというものです。彼にとって最も重要なのは自身の命ではなく、「天皇」という存在正統性でした。三種の神器天皇正統性象徴するものであり、これを失うことは南朝正統性が失われることを意味しました。鎌倉幕府北朝擁立し、偽の神器を作ったという記録があることからも、神器がどれほど重要意味を持っていたかがわかります後醍醐天皇は、自身の命を賭けて戦うよりも、神器を保全し、天皇としての正統性を守り抜くことこそが、自身の使命である判断したのです。彼は戦いには敗れましたが、正統性の旗印を掲げ続けることで、南朝の存続を可能しました。これは、短期的な軍事的敗北よりも、長期的な政治的戦略を優先した結果であり、卑怯ではなく、むしろ類稀なる政治的洞察力に基づく行動であったと言えます

国政選挙で敗北したにもかかわらず辞任しない石破首相に対する「卑怯」との指摘

民主主義国家において、選挙国民意思を問う最大の機会です。その選挙与党議席を減らすという明確な敗北を喫したにもかかわらず、その責任を取って辞任しないことは、民意を軽視している、あるいは自らの権力にしがみついているという批判に繋がります特に日本の政治文化では、選挙での敗北は内閣総理大臣責任と見なされ、退陣を求める声が上がることが一般的です。このような期待に応えない姿勢は、指導者としての潔さや責任感に欠けるとして、国民からの信頼を失う原因となり得ます

反論

石破首相の行動が、選挙結果の責任個人で負うという旧来の政治慣行を打破し、国家の安定を最優先する「合理的判断」に基づいているというものです。石破首相は、選挙敗北の責任を痛感しつつも、国の直面する課題外交問題経済対策災害対応など)を前に、政権運営を混乱させるわけにはいかないと判断した可能性があります現代政治においては、首相の交代が頻繁に起こることは、国際社会からの信頼を損ない、国内政策実行を停滞させるリスクがあります。石破首相は、自身の進退を巡る政局よりも、国家の安定と課題解決を優先すべきだという考えに基づき、職務続行を選択したと解釈できます。また、内閣総理大臣は、国民直接選挙で選ばれるわけではなく、国会議員の中から選出されるという民主主義の仕組みも考慮に入れるべきです。選挙結果が即座に首相の進退に直結するわけではなく、国会内での信任を保っている限り、職務を続けるという選択もまた、民主的手続きに則ったものだと言えます。この視点から見れば、彼の行動は、個人的な責任の取り方よりも、国家全体に対する責任を重んじた結果であり、卑怯とは一概に言えないでしょう。

結論

後醍醐天皇と石破首相の行動は、いずれも「権力地位固執している」という批判を受けがちですが、その根底には、それぞれが信じる「正統性」や「使命」を貫こうとする強い意志が見て取れます後醍醐天皇天皇権威という正統性を守り、石破首相国家の安定という使命を優先した。両者の行動は、単なる保身ではなく、より大きな目的のために下された、苦渋の決断であったと言えるのです。

Permalink |記事への反応(4) | 11:35

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2025-08-10

みんな日本史についてどれくらい知ってんの?

大学入試日本史選択した人なら何となく知識レベルが分かるんだけど、それ以外の人たちのレベルがよく分からない。

独断偏見でチェック項目・設問を作ったのでみんなどんぐらいのレベルか教えてよ。

難易度★☆☆☆(入門レベル

飛鳥時代奈良時代について、どちらが先でどちらが後か答えられる。

南北朝時代戦国時代が、それぞれおおよそ何年ごろの時代か答えられる。

・ 「荘園」について、漠然となら説明できる。

難易度★★☆☆(初級レベル

壬申の乱がどんな内乱だったか漠然となら説明できる。

後醍醐天皇が何をした人か、漠然となら説明できる。

難易度★★★☆(中級レベル

武士起源について、諸説あることを知っている。

満州事変について、石原莞爾の構想と絡めて説明できる。

難易度★★★★(上級レベル

中世荘園史について、特に 「職の体系」、「一円化」 というキーワードを用いて説明できる。

戦前の 「革新官僚」 が主導した統制経済政策と、戦後政策におけるその連続性を説明できる。

どうかしら。

Permalink |記事への反応(0) | 23:05

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2025-02-22

鎌倉幕府までのお勉強終わったから、いよいよ次は日本史で一番楽しい南北朝時代だぜ

もう、これは日本史銀英伝と言っても過言ではないからね

南朝後醍醐天皇北朝足利尊氏というW主人公制になってるw

Permalink |記事への反応(0) | 21:39

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2025-01-27

大楠公ってもっと冷静になれなかったんかな。

大楠公(楠木正成)の評価は、その生涯と行動をどのように捉えるかによって大きく異なります。ご指摘のように、もう少しうまく立ち回ることができれば、異なる結果になったのではないか、と考える方もいらっしゃるでしょう。

大楠公の評価に関する様々な視点

忠義理想:

大楠公は、後醍醐天皇への忠義を貫き、理想政治を実現しようとしました。しかし、そのために選んだ道は、必ずしも現実的ものではなく、結果的に失敗に終わってしまった側面も否定できません。

剛毅な性格:

大楠公は、剛毅な性格で知られており、一度決めたことは最後までやり遂げるという強い意志を持っていました。しかし、この性格が、柔軟な対応を難しくし、周囲との関係悪化させた可能性も考えられます

時代背景:

南北朝時代は、激しい内乱が続く混乱の時代でした。大楠公の行動は、このような時代背景の中で、最善を尽くしたものだったと言えるかもしれません。

「もう少しうまく立ち回ったほうが良かった」という意見に対する考察

かに大楠公がもう少し柔軟な姿勢で、周囲との関係を円滑に進めることができれば、事態は変わっていたかもしれません。しかし、大楠公の行動は、その時代価値観や状況の中で、最善を尽くした結果だったとも考えられます

もし、大楠公がもう少しうまく立ち回っていたとしたら、どのような結果になったのでしょうか?

足利尊氏との関係:

足利尊氏との関係は、大楠公の生涯において非常に重要な要素でした。もし、両者が協力関係を築けていれば、天下は統一されたかもしれません。

建武の新政:

建武の新政は、短期間で崩壊してしまいましたが、もし大楠公が生き残っていたら、新政はどのように展開したのでしょうか。

後醍醐天皇との関係:

後醍醐天皇との関係も、大楠公の行動を左右する大きな要因でした。もし、後醍醐天皇意向もっと汲み取ることができていれば、事態は変わっていたかもしれません。

これらの「もし」という仮定は、歴史に「もし」はないという点で、あくまで一つの考え方です。

まとめ

大楠公の評価は、人それぞれです。歴史上の人物評価する際には、その人物の置かれた状況や、当時の価値観などを考慮することが重要です。大楠公の行動を単純に「良かった」とか「悪かった」と一概に断定することはできません。

Permalink |記事への反応(0) | 18:33

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2024-08-30

[増田お嬢鯖部]

多治見市文化財保護センターの「かわいい!たじみのぶんかざい」展を拝見してまいりましたわ

小学生が授業で来ることを想定した子供向けの展示のようで分かりやす言葉で書かれた説明が置かれていましたわ

後醍醐天皇が永保寺に送った「暇なら京都に来てちょ」という内容の綸旨が注目ですわ

逃げ上手の若君に注目している方は一度ご覧になられてはいかが?

ただし特別な日以外は土日に開館していませんわ…

円空仏比較的しっかり彫られているものでしたの

台座にはさすがに荒々しさが出ていましたけれども

今日まで展示だったアイヌ民族衣装アットゥシは寄贈される前の経歴が良くわからないものですけど

学校への貸出などがされて活躍しているそうですわ

本物に触れることができるのは良い経験になります

Permalink |記事への反応(0) | 23:00

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2024-08-18

皇族に第二の醍醐天皇は現れるか

後醍醐天皇「ワイやで」

Permalink |記事への反応(0) | 09:02

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2024-07-15

逃げ上手の若君 原作ネタバレ

北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃諏訪氏に匿われる

10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義勝利鎌倉奪還。

   わず20日足利尊氏鎌倉を奪われる。

   その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。

11歳 足利尊氏後醍醐天皇が決裂、尊氏光明天皇を立て、南北朝時代へ。

   時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。

12歳 南朝公卿北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。

   翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。

   数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡。時行はしばらく消息が途絶える。

   信濃には「時行が巫女にお手付けして子を産ませた」と称する時行の末裔が多くおり、事実であれば失踪時期に大量に子を作っている。

   一説では伊勢暮らしていたともいう。

16歳 後醍醐天皇が病没。次は後村上天皇が継ぐ。

   一説によれば大徳王寺城で小笠原貞宗戦闘

27歳 足利氏で内輪もめ、尊氏執事と弟が争う。

28歳 足利氏が揉めている間に時行が三度目の鎌倉奪還。翌月に足利尊氏に再び奪われる。

   尊氏執事と弟はなんやかんや両方死亡、執事養子である高師冬自害

29歳 鎌倉で捕らえられ龍口刑場で処刑。一説では処刑されたのは影武者で、伊勢に逃げ延びたとされる。

Permalink |記事への反応(1) | 21:59

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2024-06-30

anond:20240630011809

プリズム加工でA5サイズの五万円札に後醍醐天皇を据えたりとか、

極彩色卑弥呼様が描かれた全面和紙手書きの百万円札とか、そういうプレミア紙幣を数倍の値段で売り出せば国庫も潤うと思うんだけど、やらないのかね。

Permalink |記事への反応(0) | 01:39

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2024-05-18

anond:20240517170229

後醍醐天皇ガンダーラ

Permalink |記事への反応(0) | 04:25

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2024-03-20

南北朝時代に生きていたらブクマカとか後醍醐天皇南朝)支持派が多そう

尊氏北朝)支持するのはもっとリアリストな人たちだよね、きっと。

Permalink |記事への反応(2) | 15:53

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2024-02-27

anond:20240224133939

逃げ上手の若君は後醍醐天皇結構遊んでる

Permalink |記事への反応(0) | 21:22

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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

Permalink |記事への反応(6) | 01:02

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2023-03-28

anond:20230327223601

暴君なら日本だと天皇だよなあ。

聖武天皇

後醍醐天皇

孝明天皇

Permalink |記事への反応(1) | 10:38

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2023-02-25

足利尊氏は元冒険者

鎌倉ギルドでは、さぶらい神タカウジと名乗っていた。

その頃知り合ったラスプーチンと名乗る僧侶こそが若き頃の後醍醐天皇

(まだ呪いにかかる前だったからチンチンは1本しかついていなかった。)

お互い氏素性は隠していたもの市井のものでないことには気づいていた。

ふたりパーティを組み何度か伊豆ダンジョンには潜ったがセックスはしなかった。

Permalink |記事への反応(0) | 10:46

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2023-02-17

anond:20230217003156

後醍醐天皇あたりが酷く、二条河原政府役人批判の落書の立札を匿名で立てられてる

後醍醐天皇…!そんな史実があるんだね。

そしてその頃から増田はいたんだね。

Permalink |記事への反応(0) | 00:36

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2023-02-13

anond:20230213024720

織田信長天皇とは良好な関係なはず。

天皇に面と向かって刃向かったのは承久の乱北条政権後醍醐天皇に刃向かった足利尊氏かになるかな?

Permalink |記事への反応(1) | 09:47

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2022-12-01

鎌倉幕府将軍執権 年表

将軍執権備考
1192源頼朝
1193
1194
1195
1196
1197
1198
1199
1200梶原景時の変
1201
1202源頼家
1203源実朝北条時政比企能員の変(源頼家失脚)
1204源頼家暗殺
1205北条義時牧氏事件北条時政失脚)
1206
1207
1208
1209
1210
1211
1212
1213和田合戦
1214
1215
1216
1217
1218
1219源実朝暗殺
1220
1221承久の乱
1222
1223
1224北条泰時伊賀氏の変
1225
1226藤原頼経
1227
1228
1229
1230
1231
1232
1233
1234
1235
1236
1237
1238
1239
1240
1241
1242北条経時
1243
1244藤原頼嗣
1245
1246北条時頼宮騒動藤原頼経失脚)
1247宝治合戦
1248
1249
1250
1251
1252宗尊親王
1253
1254
1255
1256北条長時
1257
1258
1259
1260
1261
1262
1263
1264北条政村
1265
1266惟康親王
1267
1268北条時宗
1269
1270
1271
1272二月騒動
1273
1274元寇文永の役
1275
1276
1277
1278
1279
1280
1281元寇弘安の役
1282
1283
1284北条貞時
1285霜月騒動
1286
1287
1288
1289久明親王
1290
1291
1292
1293平禅門の乱
1294
1295
1296
1297
1298
1299
1300
1301北条師時
1302
1303
1304
1305嘉元の乱
1306
1307
1308守邦親王
1309
1310
1311北条宗宣
1312北条煕時
1313
1314
1315北条基時
1316北条高時
1317
1318後醍醐天皇即位
1319
1320
1321
1322
1323
1324正中の変
1325
1326北条守時嘉暦の騒動(十日執権北条貞顕
1327
1328
1329
1330
1331元弘の乱後醍醐天皇挙兵
1332
1333

Permalink |記事への反応(0) | 17:29

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2022-02-12

anond:20220212080558

承久の乱で、天皇が直接的に鎌倉を倒そうとして失敗したわけでしょ。

もし成功していたら、後醍醐天皇のような建武の新政をやろうとしていたのだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 09:42

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2021-11-14

anond:20211114102314

後醍醐天皇は有能だった、とか子供の頃習った学説とは変わってて感動するよな。

Permalink |記事への反応(0) | 10:24

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2021-10-09

anond:20211009193005

テロ行為戦争行為は違うから後醍醐天皇テロリストとは呼べないよ。

Permalink |記事への反応(0) | 19:42

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後醍醐天皇ってテロリストだよな?

後醍醐天皇って倒幕を企んで流罪にされてるし、

その後も楠木正成とか足利尊氏とか各地の武士煽動し、

挙句の果てに挙兵してるんだからどう見てもテロリストだよな

anond:20211009161345

Permalink |記事への反応(2) | 19:30

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2021-09-05

anond:20210903175152

ackey1973さんが1973年まれとするなら、今年708歳ですかね。(2681-1973=708)

だとしたら、聖徳太子は無理でしょ。せいぜい後醍醐天皇足利尊氏とか以降の人でないと知ってるハズがない。(え?)

Permalink |記事への反応(1) | 15:31

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anond:20210904223603

元弘の乱で、後醍醐天皇は謀反人として捕らえられて強制的に退位させられて島流しになってるから天皇といえども刑事免責特権があるとは考えにくい。さすがに皇族(なかんずく天皇上皇)は死罪にはならずに一段下の流刑まりとはいえ、かなり重い刑ではある。

ましてや現行憲法精神からすると、天皇というとだけで刑事訴追を完全に免れるということは無いと思う。もちろんそれなりの敬意と配慮はあるだろうし、一般人と全く同じ扱いにはならないだろうけれども。

Permalink |記事への反応(0) | 10:53

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2021-08-15

anond:20210813171337

そういや醍醐ってどんなことした天皇なんだろ?

後醍醐天皇インドとなんか絡んでるのは知ってる。

それのせいでゴダイゴガンダーラに繋がってるって。

ゴダイゴも今年デビュー45周年とかなのにやれんね・・・かにも今年がメモリアルだったぜって歌い手多そう。

Permalink |記事への反応(1) | 08:24

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