
はてなキーワード:役者とは
本国で大コケした結果、日本では配信スルーになってしまった作品だけど
ヒット作の続編の中の一つのパターンとして「1の魅力的なヴィランを主人公に据えた続編」というものがある。
おそらくもっとも成功したのがターミネーター2。シュワルツェネガー演じるT-800は1では主人公を殺害するために永久に追いかけてくる恐怖のアンドロイドだったのが2では逆に主人公を守るためにやってくるアンドロイドになっていて、1のT-800のポジションにはより先進的な液体機械型のT-1000がつく。
ミーガン2.0は明らかにT2のテンプレートを模して造られており、ミーガンの技術を模して造られた軍用アンドロイド、アメリアが暴走し世界を滅ぼそうとする中、それに巻き込まれたミーガンの製作者である1の主人公家族(特に娘)を守るため実は生きていたミーガンが復活する。
T2と違って一番問題なのは、悪役であるアメリアが全然魅力的じゃないところ。ミーガンは不気味の谷を反復横跳びするような「ドール的な人工的な可愛さ」と「ロボット的なモーション」が魅力的なアンドロイドだったがアメリアは軍事スパイ用という用途からすれば妥当ではあるのだが、どう見ても疲れたおばさんにしか見えない。動きも滑らかになっているので、無表情気味の超強いおばさんって感じ。別にそういうヴィランがいてもいいんだけど、ミーガンに求めてるのはコレジャナイんだよなぁ。
顔をミーガンみたいなドールタイプにしないにしてももっと人工的に見えるタイプの顔の役者アサインするとかなかったんかなと思ってしまう。そう考えるとT-1000は完璧だったよね。あのおじさん。ちゃんとロボットに見えたもん。
ミーガン自体は1を踏襲して、作中でも言及されるクリップ問題(AIにクリップを最高効率で作ってと頼むとその過程で人類を滅亡させる)に忠実で「娘を守るためなら倫理などない」という言動の面白さはあるし、日本人だと寄生獣のミギーみたいな感じで見ていて愛着がわくと思う。途中で出てくるミニミーガンもかわいい。あれ商品化してほしい。
前作でミーガンダンスがバズったので今回も、と明らかに無理矢理突っ込んだダンスシーンは蛇足だったけどアクションもパワーアップしていてよかった。でもホラー要素は減退していてこれは好き嫌いありそう。
途中でアメリアはミーガンが操っていたのでは!?みたいなスティングもありつつ、まぁそうなるよね的な大団円を迎えるのも視聴後感もいいし、普通にいい作品ではあったと思う。
可愛そうなのは主人公のAIエンジニアのおばさんだよね。前作でミーガンが暴走したことに責任を感じて反AI運動の活動家に転身、著書もいっぱい売れて、事故物件か?みたいな家賃クソ安い家で安全なAIの開発にいそしんでいたんだけど、実は著書はクラウド型ミーガンが6万5000冊買って倉庫にしまっていたり、家もミーガンが買ってミーガンが開発したウェポンハウスだったり、自分の活動のせいで娘はいじめられ、反AI活動で気が合って一緒に活動していた相手は反AIテロリストだったり踏んだり蹴ったりすぎる。
あと全然どうでもいいんだけどエンジニアおばさんが開発してた介護、現場作業補助用のパワードスーツ。アメリアに操られたときに水かけたらスパークして暴走しだしたけどそんな危ないもん介護、現場作業用に売り出そうとしとったんかい。めちゃくちゃやなとは思いました。
結局、T2がSFスリラーからSFアクションに舵を切ったように、ミーガンもSFホラーからSFアクションに舵を切ったわけだけど、前作がAI怖いだったのが今作では人間怖いに切り替わっており、なんでより凡庸なほうに行くねん!とはなったかな。
帰宅しようと駅に立ち寄ると、聞いたこともない路線の特急電車が停まっている。たった四駅しかない支線で、最終駅の名前は「えだ」だという。こんな路線があるのかとぼんやりしていると、突然足元ががたんと揺れ、列車が出発した。いつの間にかぼくも乗り込んでいたのだ。これはまずいと思ったが後の祭りだ。諦めて次の駅で折り返すしかない。いや、どうせ時間も有り余っているところだ、せっかくだから見知らぬ街の観光も悪くないかもしれないなどと考え直す。
車内は案外混雑していた。ぎゅうぎゅう詰めというほどでもないが、かといって空いている座席もないという程度。これだけ人の往来があるということは、この先も思っていたより栄えた地方なのかもしれない。列車は海沿いの高架を走っているようだ。それにしても思っていた以上に走行距離がある。次第に退屈し、意識は細長く引き伸ばされてゆく。木々の枝の合間に瞬く夕日が眠気を誘う。
かれこれ数時間は走った頃だろうか、終点のひとつ手前の駅でふと我に返る。駅前には華やかなネオンが灯り始めた土産物店などが並び、浴衣姿の観光客たちで賑わっている。何があるところなのだろうかと不思議に思っていると、背後で列車の扉が閉まる音。振り返ると列車はぼくを置き去りにしたまま出発してしまった。どうやらこの列車は乗客の思念を類推して勝手に乗せたり降ろしたりするらしい。そんなわけで、ぼくはなすすべもなくこの見知らぬ駅に置き去りにされてしまったのだった。
仕方なく、ひとまず帰りの時刻表を探す。壁一面に古びたホーローの看板が張り巡らされ、なかなか時刻表が見つからない。それどころか駅の名前も判然としない。少なくとも「えだ」駅ではないようだ。しばらくしてどうにか見つけた粗末な張り紙によれば、上下線とも一時間に一本ほどしかないようだ。この辺りで時間をつぶして待つしかない。
商店街をぼんやりと見て回る。アセチレンランプの灯る屋台食堂のキッチンで、巨大な鉄板料理をかき混ぜる料理人がいる。少し空腹を覚え、食事をするのもいいかもしれないなどと考えながら通り過ぎる。だがさらに歩くとあっけなく街外れに出てしまった。寂寞とした葦原の向こうに激しく荒れた海が見える。何層にも厚く垂れ込めた空が落ち、誰かが遠くで荒れ狂う波に翻弄され断末魔の叫びを上げているかのような底知れぬ不穏な気配。冷たい風の音だけに包まれた世界が妙に不釣り合いだ。再びあの疑念が沸き戻る。いったいこの街に何があるというのだろうか。
駅の方へ後戻りする途上にも、奇妙な違和感は頭の中で膨らみ続ける。一見華やかなネオンに彩られているものの、どことなく張りぼてのような嘘くささ、取ってつけたような底の浅さが感じられるのはなぜだろう。何だか分からない玩具を売る夜店の店先に退屈そうに座っている男。もう何年も品物が売れた形跡はなく、その収入で生活できるはずもない。隣の古書店も品数は少ない。疎らな棚から試しに一冊手に取ってみると、子供がクレヨンで描いた落書き帳だった。すべてが急ごしらえの街並みで、慌ただしくかき集められた役者たちが戸惑いながら呼び込みや観光客を演じている。そんな気がしてならない。おそらくあの時刻表も嘘だろう。帰りの列車など最初からないのだ。
なぜ同僚が適応障害に至ったのか、少し自分の頭の整理も含めて書き連ねていこうと思う。
大多数の人間から見れば「明るくて話しやすい」「取っ付きやすい」人間だ。
だからこそ今回の休職は「まさかあの人が?」という反応であった。
しかし同僚の根底にあるのは「所属欲求の強さ」だったと私は思う。
同僚の生い立ちを聞き齧っただけだが、あまり所属に恵まれているとは思えなかった。
表面的な付き合いはできるのだろうが、深い話は恐らく誰にもしていない。
それこそパーソナルな部分に踏み込むような話を、同僚はたった1人で抱えて生きているようだ。
信頼できる人間を探し求めているが、自分の思う信頼できる人間には出会えていないのだろう。
あえてオープンな自分を演じ、酒を大量に消費する様はいっそ哀れである。
同僚の思う「信頼できる他者」は「もう一人の自分」でしかなく、それ故に苦しみは続く。
適応障害を含む精神疾患は、私個人の定義になるが「自分の持つ気質と社会が適合しない状態」を指すと考えている。
誰しもが自分の持つ気質、性格と折り合いをつけながら、どこかに所属したり働いたり、交友関係を築いている。
社会との適合は、いわゆる我慢の連続に他ならない。私だって正論を振り翳し他者を詰りたい時がある。
この我慢は無意識に行うことが多いが、我慢の限界という言葉通り、何かしらの要因で限界は訪れる。
例えば身体的に具合が悪い時など、気質を制御するより優先事項が高い状況がそれにあたる。
先に書いた通り、まず同僚は他者を信頼できない。それはまごうことなき本人の素養である。
信頼できないから業務報告はおろか、自分の体調も他者と共有ができなかった。
そして同僚の関係者も、普段演じている同僚の芝居を信じ切ってしまった。
最後の最後で体調不良の申し出をしても、本気で捉えてもらえなかった。
「あれだけ『大丈夫』と言われ、報告もなければ踏み込みようがない」という関係者の言は悲痛である。
同僚は助けを求められない環境を、自らの演技で作り上げてしまった。
明るく振る舞い、誰にでもにこやかに話しかける役者の姿を、崩すことができなくなったのだ。
自分の所属欲求を満たすための演技が、自分の首を絞めてしまったのだ。
職場環境における適応障害は、当然周囲の環境も大いに影響する。
誰だって長時間残業や薄給には耐えられないだろうし、やりがい搾取なんてもっての外である。
しかし此度の一件で思ったのは、本人の素養も影響するのだろうことだ。
誰だって本当の自分を見せるのは怖いし、それが受け入れられる環境ではない。職場は最も困難な場所である。
しかし業務上の不具合や不都合など、自分で処理をするのが困難な時が多い。
困った時は責任者を引っ張ってこなくてはならない立場なら尚のことである。
プライベートを見せろとは言わないが、業務は隠すものではない。
同僚の場合、周囲の関係者はいつも気にしていた。その環境をどうか蹴らないで欲しかった。
他者の信頼、とまでは行かずとも、業務の困りごとの共有はして欲しかったしすべきだったと思う。
誰もが自分の抱えた業務に振り回されており、誰が助けてくれるのかがわかりにくい環境なのは事実だから。
そういう時は、オープンにして良い状況だけでも適当に身近な同僚に喋って良いのではないか、と私は思う。
休職前も一悶着あった。
もうこれ以上進められないのに、他の案件も全てストップしてしまっているのに。
恐らく表面上は「ひとりで片付けられる」という思いからくるものだと思う。
役立たずと思われたくない、やっぱりダメだったと思われたくない、一人でやりきったという賞賛が欲しい。
ここまで来ると危険で、他者の言葉が耳に入らないだけではない。
自分は生活を切り詰めて仕事をしている、お前も同様に苦しめと。
同僚には同僚なりの言い分はあるだろうが、優先順位は人によって異なる。
結局後始末に奔走しているのは関係者であり、私もそのうちの一人である。
同僚が今まで共有してこなかった情報を探り、掘り起こし、まとめ、時が過ぎていく。
仕事に関しては、一平社員が一人で抱え込んで良いなんて事象はない。
なぜなら自分で尻が拭けないからである。悲しいことに、換えの効く駒に他ならない。
責任者に全てを開示し、なすりつけておく準備をしておく必要がある。
上長や周囲の人間を信頼しようとしまいと、会社から給料が出ているうちは所属しているのである。
仕事に潰されそうな時、自分一人で抱え込んでいないかどうか確認してみて欲しい。
長くなってしまったが、ここまで読んでくださった方
貴重な時間をありがとうございます。
こんな素因もあるんだな、程度に心に留めておいてください。
ひとりぼっちになっている、と思った方は今一度周囲の環境を見渡してみてください。
助けてくれる人がいなくたって良いんです。
昼寝をした。Twitterで流れてきた恐怖の役満(自民国民維新N国参政)の風刺画を見ながら寝落ちした。
曲はchouchouのLunaria。
暗い客席、白い砂の舞台を円に囲む観客は星。
舞台で歌う好きな歌手と美しい音、そこに副総理?になったからと仕事で舞台に立つ嫌いな政治家。そいつは齋藤だったか、石丸だったか。曲の精神を何も理解しないまま俺の好きなものを穢している(この俺の夢こそが好きな作品を汚す勝手な融合でもある)。
舞台の上で、歌に合わせて役者達が踊る。天から舞台に差す光芒に、一輪の白い花をかざす役者達。青い星からの光を花で遮り、輝く夜空を見上げる役者。この曲の精神を表現したパフォーマンスだった。
しかし、役者の1人が泣き崩れる。演技を続けようとしては跪き顔を埋めてしまう者がいる。それは俺だった。こんな穢れから解放されることを謳った曲が穢れに屈している。これ以上の屈辱はない。俺は必死に役を演じようとまた花を天のライトにかざそうとした。そうするたびに涙が溢れて、体が崩れ、地に伏した。
ステージを見に来ている橋下徹は居眠りしている。カメラが捉えたそれをリポーターは必死に病気や薬やと庇う言い訳を述べている。隣の者が慌てて起こすも橋下は何も慌てない。
怖い。眩しい。悲しい。あぁ。不甲斐なく泣き叫んだところで起きた。
起きたらまた見たくもない醜悪に描かれた高市の風刺画が目に映った。
くっそ。
(村上春樹だったかが、物語の力うんぬんを何か言っていた気がする。政局を物語に酔って憂うのはまさに自分が恐れている悪い物語であるし、政治への怒りに精神が侵蝕されていることも含めて嘆かわしい。しかし物語の力は信じたい。穢れのない物語そのものは大切にして自己の涵養に努めたい。)
映画が好きだ。
あと、たまにエンドロールの途中でも泣くやつ。
なんで映画が好きなのかな、と思ってたけど、
ちょっと別の似たようなものに出会って、こういうのが好きなんだなって気づいた。
「イマーシブシアター」ってやつ。
ざっくり言うと、席に座らずにお芝居を見る。
これがほんとに“映画を生で見た”って感じだった。
舞台でのお芝居は昔からあるけど、それとはちょっと違うと思う。
感動するシーンって、キャラが無言で、いい曲かかってるシーン多いでしょ?
生で、すぐ近くで体験できる。
ほんとに目の前で、役者が泣いたり、走ったりしてる。
物語と音楽が合わさって、心が動く瞬間を“リアルタイム”で見られることなんだと思う。
その点で言うと、イマーシブは映画の延長線上にある気がする。
イマーシブシアターっていってもいろんな種類があるみたいだけど、
観る人の心の動きを信用してくれてる感じがする。
日本でもいくつかやってるけど、
前も見たけど、すごくよかったからおススメ。
映画を“生で見る”ことが出来たら、こんな感じかもしれない。
終わったあと、歩いてるだけで、
山本太郎といい、なんで優秀な役者は政治家をやりたがり、優秀な政治家は役者をやりたがるんだろうか
孝太郎見るたびに周りの気遣いや頭や要領、不器用だけれどまっすぐな人間関係の上手さが伝わるし
芸能人に求められているのは、結局のところ流暢さと振る舞い、雰囲気だけであって、内容や知能にまで期待されてはいないわけだよね。
専門家が台本の内容、例えば経済学とか物理学とかをしっかり考えて、芸能人はそれを暗記して演じるだけで十分なわけ。要するに、完全に役者に徹すればいいの。
だって、ビッグバン★セオリーのシェルドンクーパーを思い出してみなよ。あのキャラクターは頭が良く見えるけど、役者本人が二次方程式の解の公式をスラスラ言えるかどうかは別問題だろ?
同じことは政治家の知識系番組出演とかでも言える。視聴者が期待しているのは、表面的に「知的に見える演技」だけであって、実際の理解や専門知識じゃないんだ。
まあ、今後Vtuberや完全AIキャラクターが一般化すれば事情は変わるかもしれない。AIなら暗記も演技も完璧に再現できるから、人間の芸能人の価値は減るだろう。
でも現状では、芸能人の人間味、つまり微妙な間の取り方や表情のニュアンスにはまだ一定の価値がある。
逆に、芸能人自体が台本を考えて知識系コンテンツを作ろうとすると、いろんな方面から容赦なくツッコミが入る。専門性の不足や矛盾を指摘され、結局イメージだけが損なわれるリスクも高い。
昔言われた言葉がその場で終わればいいのだけど。
今もフラッシュバックではなく、情報で思い出してしまうことになった という。
今はしがない会社員ですが、昔はちょっとバンドなどしていたことがあり。
苦手だけど営業や人脈形成と思い色んな飲み会に顔を出したりもした。
案の定馴染めず居心地悪い思いをしてたら
その時たまたま隣の席になった人が、PVや映画を撮っている映像関係の人。
上手く話せないなーと思っていたらやはり
という一言。
その通りだと思った。
自分には人的な魅力は自分にはないし、それを補うコミュ力も「天然」なところも「お馬鹿」みたいな性質もないほんとに普通の人間なのだ。
一番嫌なとこ突かれたと思った。
でも深く考えてもよくない、自分は自分だと思い切り替えて生きてきた。
後悔はしていない。
あの頃のことも糧に と思う中
・若手だけどアーティストや役者に寄り添い最高の作品を生み出す新進気鋭
そんな情報がいやでも流れてくる。
こう見ると本当に熱意も技術と人格もしっかりしてて、周りの評価もきっと間違ってないんだろう。
ということは、私への
という言葉も、やはり正しくて
と何度も何度も思い知らされる。
その人の活躍が妬ましいのかもしれない
なんであんな奴が好きな事で生きてるんだと
記事に書いてるようなその立派な思想や優しい心は私にくれなかったじゃないか
と。
とするとやはり私への評価も正しいのだ。
そんなことを気にしてもしょうがないとは分かってるが
古傷のえぐられ方ってこういうのもあってるんだ
と思った。
遠ざけようにも嫌でも目に入ってくる情報
その度に完治しかけで少しずつえぐられる傷跡
どうしようもないけど、
忘れたくても忘れられない人の言葉ってこういうのもあるんだな
と思った。
気づくも何も何年も前からやってるローリングの反woke運動の一部なんだから、自分たちがその槍玉に上がってるのはわかってるでしょ。でも、あの二人は役者としてキャリアを築いてきたし、ワトソンはフェミニズム活動家としてもすでによく知られてるから、ローリングがいまさら喚いても大したダメージはないと思う。
というか、現状ローリングの印象が悪すぎる。
ついでにデッドレコニングも見た。
デッドがマジで酷すぎてそれに比べたらマシだけどやっぱ相当酷い。
デップー&ウルヴァリンやワイルドスピードファイヤブーストみたいな作品だった。
シリーズ追ってきた人に対するご褒美映画というか、製作者のケジメ映画というか。
過去作品からいろんな人物がちょこちょこ出てきて雑に消費されていく。
これ見て「サービス精神がすごい!」ってみんな言うからMCUみたいなサプライズゲスト商法が蔓延るんだろうな。
一生やってろアホ。
どっちも悪い部分は共通していて、しかもその部分がこの作品のウリになっているのがタチが悪い。
そういう意味ではnot for meな作品なのかもしれないが、
それでもレコニングシリーズになるまではまだおもろかったんだよ。
なので、このレコニング2部作が特にヤバいんだと俺は思ってる。
もう語り尽くされてるけど「いい歳したトム・クルーズがすごいスタントを自力でやる」ことだけが主題で
あとはそのスタントにどうつなぐか以外にほとんど意味がない作品になっている。
なので、どっちも二時間半を超える大作だけどほとんどの時間が退屈。
特にデッドはもう話が退屈で退屈で。
ウルトラグレートスゴイAIを支配する鍵の奪い合いゲームなんだけど、
スられました、スり返しました、スられ返しました、スり返しました、落としました、それを拾われました、それをスり返しました、終わり。話がイチミリも進んどらんのよ。
やってるのが超A級エージェントと超AA級エージェントとその辺のスリの女。アホなん?
デッドではUGS(ウルトラグレートスゴイ)AIが電子機器にアクセスしまくって妨害してくるっていう(凄腕ハッカーが出てくる作品とどう違うのかよくわからんが)現代のスパイの弱点を突く展開があって、そこは若干の面白みがあったんだけど。
ファイナルはそのAIにほぼ全世界が支配された世界の話なのに急にAIの影が薄くなってて笑う。
核発射施設へのハッキングに忙しくてイーサンのほうには意識が避けなかったのかもしれない。
ファイナルのほうは多分、スタントしながら脚本書いたんだと思うんだよね。
今回のウリのトム・クルーズが小型飛行機の免許取って実際に飛行機運転しながらやりました!ってスタントがあるんだけどさ。
そこでラスボスの飛行機に空中でトムが乗り移っててんやわんやあって飛行機が壊れて、敵が「パラシュートないからお前死ぬで」って言って飛び降りたら尾翼に頭ぶつけて死ぬっていう酷い展開があるんだけど。
でもまぁ、空中で超高速で飛行する壊れた飛行機に取り残されたトム。どうやって脱出するのか!
パラシュートありました!やったぜ。
エッ!?
たぶんさー、飛行機に取り残されたところまで撮って、やっぱいい感じで脱出するの無理やなってなったから、パラシュートあったことにしとこうぜってなったんだと思うんだよね。じゃなきゃ説明つかない。悪役の人頭打って死んじゃったし、もうスタント撮り直せないからそのまま行きにしたんだと思うの。
M.Iシリーズはアクションを魅せる映画だって主張は6割は理解できるとしてもこればっかりは擁護のしようがないでしょ。
俺は別にそうは思ってないし、過去作に登場したラストの大どんでん返しもなくなってれば、面白スパイガジェットもなくなってるし、これが本当にM.Iシリーズか?M.Iシリーズファンならこの作品を嫌いになるわけない!って言ってるやついっぱい見たけど、この2作は明らかにスパイ大作戦じゃなくてトムのスタント大作戦だろ。
で、パラシュートで着地したトムをバックにこの作品のテーマを死亡したルーサー(レックスじゃないほう)先生が5分栗かけてペラペラお語りになられるんだけど、まーじでダサいからやめて。最後に「このメッセージは5秒後に自動的に消滅する」って出るんだけど、それは「視聴者の頭からも5秒後には消滅してる」って意味か。ずいぶん自虐的だな。
あとどうでもいいノイズとして、まーた黒人の女大統領かよっていうのと、サイエントロジー信者が陰謀論者を説教する映画is何っていうのと、結局スリの女、ホンマにその辺から急に生えてきたスリの女なん?っていうのと、ガブリエルに妻を殺されてMIFに入ったトムが今度はガブリエルから大切な女を救う話かと思ったらそっちはそっちで勝手に問題解決してて草、とか。
過去のM.Iシリーズを好きだった人ほど、この作品の適当さには心底怒りがわくと思うんだが。
もちろん、特にこのVFX全盛期でここからAIに映画業界が支配される可能性もある時代にいい歳したトムが自分ですごいスタントをやって、そのことで役者ってすごいんだぜ、生身の人間がやる映画ってすごいんだぜ!っていうランドマークを打ち立てたこと自体は大変意義のあることだし、トムありがとう、そしてありがとう、って思いはある。
が、それと映画が面白いことは別だし、生身の人間が危険なことやってるのがいい!ってだけならそれこそXゲームのダイジェスト集でも編集して映画サイズにしとけばよくね?主役をヴィン・ディーゼルとかアイスキューブとかにしてさ!
とにかく最後に言いたいことはトム・クルーズお疲れ様。安らかに眠れ。R.I.P
二度と復活するな。
かなり自由だが、倫理的に問題があるキャラを賛美するようなことはあまりしない
基本的にテレビで流れることを想定されているため、漫画よりも気を使っている
最近は、海外への輸出も進んでいるので規制が厳しくなりそうで心配だが、メインが配信サイトなので思ったより自由にやらせてもらっている気がする
ただし商業的にテレビで流すことを意識しているだろうし思ったよりやんちゃはしない
・・・だったのだが、米を中心とした映画界は今DEI基準が新たにできてかなり自由度は狭まった
一番規制が厳しい
CEROレーティングのような仕組みもあるし、最近はポリコレの影響もかなり受けている
ただし過激な作品があるのもまたゲームが一番かもしれない(特にインディーズやR18)
https://news.yahoo.co.jp/articles/81131db4db31c2e17115b17439db850756a3e96b
アンケート結果によると、62.5%が「今年、テレビドラマを見ていない」と回答した。大前提としてそもそも「テレビを見ない」という声が多く、テレビを見ている高校生でも「ドラマを見るより、他にやることがある」「その時間はTikTokを見ている」「YouTubeを見ていた方が楽しい」など、ドラマよりも優先順位が高いコンテンツがあるようだ。
一方で「今年、テレビドラマを見た」という高校生からは「好きなアイドルが出ているから」「推しの役者が出ているから」などの意見が多かった。“ドラマが見たい”という動機より“推しを見たい”という熱量の方がドラマ視聴につながっていた。
音楽も映像もオンデマンド・定額低額サブスクが当たり前の世代かあ
それにしても「推し」が出てるって理由だけでつまんないドラマ見るのつらくない?とは思う
俺はつらいわ
まあ、脚本家と言っても木っ端だが…
そもそも脚本家の仕事わかってない奴が多そうだなと思ったのでそれ交えつつ書く。
結論から言うと吉田恵里香はすげーーーーーーまともなことを言っている。
批判してる方は頭にきてよくわからなくなってるだろうが相当分が悪いと思った方がいい。
脚本家ってのは実際のところ、すさまじいほどの調整役だ。
原作を汲み、監督の意向を汲み、時にはスポンサーの意向を汲み、ドラマなら事務所や役者の意向を汲み…そうやって話をなんとか成立させるのが仕事だ。
オタクにとっては原作第一だが、そも金がないと(スポンサーがいないと)映像化できないので、大人の都合で泣く泣く筋を変えて…といったこともある。(特撮なんかは顕著だ。どんなに話の流れ的に無理矢理でも絶対にオモチャを出さねばならない。)
で、ここでバランスを欠くと、セクシー田中さん問題のようなことに発展しかねないのでこの辺り非常に慎重にバランスをとっていかなければならず日々気が狂いそうである。
そういった中でぼざろ制作陣と吉田恵里香は「原作の良さを生かし、本来のターゲット層も喜ばせながら一般層にも当てる」という難易度Sの技をやってのけているのでマジですごい。
しかもこれは
②原作者自身も「原作より良くしてもらった」と喜んでおり(はまじ先生のツイートを見た)
ので、正直外野がガタガタ言うことではない。
(まあ現在原作者がどう思っているのかはわからないが、何を言っても火に油なのでしばらく無言なのではないかと思う。)
吉田恵梨香は原作を「素晴らしい」と絶賛した上で、”覇権を取るために”ノイズになる部分を除いたと言っているので
原作を「ノイズ」と言った!みたいな上げ足取りはどうかと思う。
スク水については
・ぼざろアニメ化にあたってのメインテーマである「バンドを通しての成長」には関係ない
・大衆向けを狙うには明らかにノイズとなる(描写について不要な議論を巻き起こす可能性もある/それこそ過激なフェミがあれこれ言う可能性もあるし)
という2点において取り除くのは実に真っ当と思う。
原作はきららという男性向け媒体ゆえ読者サービスとして裸を入れていたが、
「アニメ化にあたり女性や子供にも楽しんでもらいたい」となれば調整するのは真っ当だろう。
あとは批判派を見ていると
というコメントがあるが、脚本を書く上では(というか漫画家や編集と話していても)
「テーマに対してこの表現はノイズになる」「ターゲットへのアプローチに対してこの台詞はノイズになる」
という言い回しはデフォだ。知らん人には強いワードに見えるのでわからんことはないがまぁそんなキレることでもないぞ…と思う。
あとは、
・「加害性」というワードが悪い
というコメントもあるが、あのインタビューは「性的な描写には加害性がある!」のような話はしておらず
『恋せぬふたり』(2022年/NHK)というドラマにおいて「恋愛の暴力性」の話をしているだけだ。
>「恋愛を扱うドラマが描かれるときって、『恋愛しないと成長しない』とか、『恋で人生の全てが変わる』みたいな、恋愛が人生において最も重要なものとして描きがちというか、その考え方を押し付ける暴力性があるのではないかと、以前から気になっていたんです」
つまり「自分は恋愛が好きだからこそ、それを表現する時には嫌な人に押し付けてないかその加害性を考える」といった話をしているだけである。
強いて言えば、タイトルにつけたKAIYOUはバズらせようとしてこのワードチョイスしただろうからそれはどうよと思う。
あとは
というやや無理矢理な批判もあるが、あれはターゲットを女性に振ったからああなったのだろう。(売るためにはよくある。トリコの後半みたいなもん。)
男性向けのアニメとなれば女キャラのサービスシーンを出すのと同様なので、主義主張は一貫している。
というか監督らの意図(どういう層をターゲットにするか?)にあわせて変えるのが脚本家の仕事なのでこれについてはただ仕事してるだけだろう。
で、肝心のぼざろ部分だが、
>「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
>「現実ではそんな会話しない」と強く否定した“女の子たちが互いの胸の大きさについて言及し合う描写”なども含め、そういうシーンはアニメにおいては何気ないよくあるものと考えてしまっていたが、吉田恵里香さんは「それを売りにしている作品でない場合においてはノイズ」と言い切る。
>「原作がまず素晴らしく、原作サイドもとても協力的で、監督含めスタッフも音楽チームも本気で動いてるし、けろりらさん(※キャラクターデザイン/総作画監督)もすごく良い絵を描いてくれている。制作の段階からこれなら覇権が取れるって思える作品なのに、そうしたノイズがあると多くの人に見てもらえなくなってしまいます」
前述した通り「大衆向けにするために引っかかりそうな部分を取った(売りになる部分だけを残した)」ということしか言っていない。
まあ批判派は、知らない内にポリコレ意識がある(吉田恵里香は最後にゾーニングの話もしている)制作陣の手の上に乗せられていたことが恐怖だったのだろうと思うし、
裸などを楽しんでいることを「加害性」と言われいてるようで(言ってないのだが)居心地が悪かったのだろうと思うし、
この流れでゾーニングが進むのはたまったもんじゃないと思ってるのだろう。気持ちはわからないでもない。
ただ残念だが客観的に見ると
「それまで原作との比較もせず批判もせず無邪気に楽しんでいたのに性的表現を消されていると知るや否やキレだす残念な人間」
になってしまっているのは気づいたほうがいいと思う。せめて「意図はわかるが、俺は男性向けに作ってほしかったぞ!」と言うか「ぼざろは楽しんだが、ゾーニングには反対!」というほうがいい。
まあ、脚本家と言っても木っ端だが…
そもそも脚本家の仕事わかってない奴が多そうだなと思ったのでそれ交えつつ書く。
結論から言うと吉田恵里香はすげーーーーーーまともなことを言っている。
批判してる方は頭にきてよくわからなくなってるだろうが相当分が悪いと思った方がいい。
脚本家ってのは実際のところ、すさまじいほどの調整役だ。
原作を汲み、監督の意向を汲み、時にはスポンサーの意向を汲み、ドラマなら事務所や役者の意向を汲み…そうやって話をなんとか成立させるのが仕事だ。
オタクにとっては原作第一だが、そも金がないと(スポンサーがいないと)映像化できないので、大人の都合で泣く泣く筋を変えて…といったこともある。(特撮なんかは顕著だ。どんなに話の流れ的に無理矢理でも絶対にオモチャを出さねばならない。)
で、ここでバランスを欠くと、セクシー田中さん問題のようなことに発展しかねないのでこの辺り非常に慎重にバランスをとっていかなければならず日々気が狂いそうである。
そういった中でぼざろ制作陣と吉田恵里香は「原作の良さを生かし、本来のターゲット層も喜ばせながら一般層にも当てる」という難易度Sの技をやってのけているのでマジですごい。
しかもこれは
②原作者自身も「原作より良くしてもらった」と喜んでおり(はまじ先生のツイートを見た)
ので、正直外野がガタガタ言うことではない。
(まあ現在原作者がどう思っているのかはわからないが、何を言っても火に油なのでしばらく無言なのではないかと思う。)
吉田恵梨香は原作を「素晴らしい」と絶賛した上で、”覇権を取るために”ノイズになる部分を除いたと言っているので
原作を「ノイズ」と言った!みたいな上げ足取りはどうかと思う。
そういえばノイズについては、安倍晋三いじりのシーンを除いたところが印象的だった。
https://x.com/RyMfegzBUFNoZ8k/status/1880588138474820026
・ぼざろアニメ化にあたってのメインテーマである「バンドを通しての成長」には関係ない
・大衆向けを狙うには明らかにノイズとなる(政治についての不要な議論を巻き起こす可能性がある)
という2点において取り除くのは実に真っ当と思う。
スク水についても基本は同じ考えだろう。
原作はきららという男性向け媒体ゆえ読者サービスとして裸を入れていたが、
「アニメ化にあたり女性や子供にも楽しんでもらいたい」となれば調整するのは真っ当だろう。
あとは批判派を見ていると
というコメントがあるが、脚本を書く上では(というか漫画家や編集と話していても)
「テーマに対してこの表現はノイズになる」「ターゲットへのアプローチに対してこの台詞はノイズになる」
という言い回しはデフォなので、わからんことはないがまぁ無理矢理難癖つけてるな…と思う。
あとは、
・「加害性」というワードが悪い
というコメントもあるが、あのインタビューは「性的な描写には加害性がある!」のような話はしておらず
『恋せぬふたり』(2022年/NHK)というドラマにおいて「恋愛の暴力性」の話をしているだけだ。
>「恋愛を扱うドラマが描かれるときって、『恋愛しないと成長しない』とか、『恋で人生の全てが変わる』みたいな、恋愛が人生において最も重要なものとして描きがちというか、その考え方を押し付ける暴力性があるのではないかと、以前から気になっていたんです」
つまり「自分は恋愛が好きだからこそ、それを表現する時には嫌な人に押し付けてないかその加害性を考える」といった話をしているだけである。
強いて言えば、タイトルにつけたKAIYOUはバズらせようとしてこのワードチョイスしただろうからそれはどうよと思う。
あとは
というやや無理矢理な批判もあるが、あれはターゲットを女性に振ったからああなったのだろう。(売るためにはよくある。トリコの後半みたいなもん。)
男性向けのアニメとなれば女キャラのサービスシーンを出すのと同様なので、主義主張は一貫している。
というか監督らの意図(どういう層をターゲットにするか?)にあわせて変えるのが脚本家の仕事なのでこれについてはただ仕事してるだけだろう。
で、肝心のぼざろ部分だが、
>「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
>「現実ではそんな会話しない」と強く否定した“女の子たちが互いの胸の大きさについて言及し合う描写”なども含め、そういうシーンはアニメにおいては何気ないよくあるものと考えてしまっていたが、吉田恵里香さんは「それを売りにしている作品でない場合においてはノイズ」と言い切る。
>「原作がまず素晴らしく、原作サイドもとても協力的で、監督含めスタッフも音楽チームも本気で動いてるし、けろりらさん(※キャラクターデザイン/総作画監督)もすごく良い絵を描いてくれている。制作の段階からこれなら覇権が取れるって思える作品なのに、そうしたノイズがあると多くの人に見てもらえなくなってしまいます」
前述した通り「大衆向けにするために引っかかりそうな部分を取った(売りになる部分だけを残した)」ということしか言っていない。
まあ批判派は、知らない内にポリコレ意識がある(吉田恵里香は最後にゾーニングの話もしている)制作陣の手の上に乗せられていたことが恐怖だったのだろうと思うし、
裸などを楽しんでいることを「加害性」と言われいてるようで(言ってないのだが)居心地が悪かったのだろうと思うし、
この流れでゾーニングが進むのはたまったもんじゃないと思ってるのだろう。気持ちはわからないでもない。
ただ残念だが客観的に見ると
「それまで原作との比較もせず批判もせず無邪気に楽しんでいたのに性的表現を消されていると知るや否やキレだす残念な人間」
になってしまっているのは気づいたほうがいいと思う。せめて「意図はわかるが、俺は男性向けに作ってほしかったぞ!」と言うか「ぼざろは楽しんだが、ゾーニングには反対!」というほうがいい。