
はてなキーワード:役者とは
ピーター・バラカンです。
私もさ、
ピーターバラカン方式とか逆ピーターバラカン方式とかって言ってそのワード使ってやってみたいなぁって思いつつ、
そんな、
みんなから届いたリクエストに応えるケースなんて無いわよね!って思うのよ。
オリンピック選手が金メダルを取ったときにかじる亀田製菓のお煎餅だったらさぞ美味しいんでしょうね!って興奮冷めやらぬ深海魚のサメヤラヌ鮫ももっと人気のある水族館のアイドルになってもいいと思うの!
遠目で見たら、
選手になにを齧らせたら面白いのか選手権大喜利みたいになっちゃってるし、
応援ありがとうございます!みんなの声が届きました!とか感謝しかないです!って
世界情勢や政治的背景で選手生命を絶たれた何か不安の漂う気の毒な記事かと思って読み進めたら、
表彰台ではしゃいでジャンプしたら金具が壊れて金メダルが壊れたって話。
物理的なやつかーい!って
他にも金メダル壊れたって話ししている現地の選手の声は多いので、
今回のオリンピックの金メダルの紐とメダルの繋ぐ金具の強度どうなってんのよ!?って思うわ。
あんまり時事的なことを書くとあとから色褪せて夏川りみさんばりに古いアルバムをめくったときに涙そうそう!ってまだ泣いてないから!
時代の古さが織り込まれちゃいそうなのであんまりその時のニュースのことは書かないようにはしているし、
私って時代のニュースのアンテナびんびんに張ってますから!って思われかねたりもしないのよね。
とはいえ、
サッカーの三浦知良選手が最年長試合出場記録を揖保乃糸級に伸ばして作る冬の寒いときに大変な作業を彷彿とさせるあの素麺を巧みな職人の手業で棒を差し込んで伸ばしていく作業はみんな必ず見たことあると思うんだけど、
その三浦知良選手が試合に出るようにって監督から指令が来たときに
「おしっこをちびりそうになりました。そのぐらいびっくりしました」って書いて載せてる新聞って全国紙で1紙しかなかったので、
あとの残りの全国紙は無難な「頑張ります」的な意味の内容でまとめられて、
多分これ記者との間柄が人間関係出来てんのじゃないかしら?って思うのよね。
だって、
ちびりそうになりました!ってそうそう全国紙で載せて良いかちょっとドキドキするワードじゃない。
三浦知良選手のことは詳しく知らないけどそういう人柄なのかな?って。
同じ記事でも新聞紙で書いてあること微妙に角度違って書いてあることがあるからそういうの見付けたらよっしゃー!って面白いのよね!
私が好きな外人四コマじゃない方の四コマの二コマ目がションテン低くて四コマ目がションテン爆上がりのやつ、
それじゃない方の新聞のテレビ欄の後ろからめくっていきなりあるようなあの四コマ漫画よ。
傑作四コマ漫画集!ってのを張り切ってみて読んでみたけど、
これなにが面白さに味を加えていてかと言うと、
その四コマ漫画と一緒の紙面に掲載されている新聞記事とのなんか内容がリンクしているか逆にリンクしてないかのあのギャップの面白さがあるのよね!
だからそういう時の一面に乗っている新聞記事と四コマ漫画が内容が関連してそうな感じだと、
ふふってなっちゃうし、
カラオケに行ったときにパフィーさんのカニ食べに行きたい曲をかけようと思って曲名がわからず適当にデンモクから注文した曲は「渚にまつわるエトセトラ」じゃなくて「アジアの純真」だったときに、
イントロぐらいが終わって、
あれ?曲違うくね?って
山崎まさよしさんが桜木町でなにかを探す歌を歌うようにパフィーさんのその歌が「渚にまつわるエトセトラ」だってことにあとから気付くのよ。
でね、
あたかも人間との三歳児の縮尺を麻痺させるような蟹のその一番大きな足が本当に大きく見えちゃう錯覚を利用した写真!
子どもに蟹の足とか蟹持たせて掲げるなよって思うの。
私一瞬!
この蟹大きいかも!って思わず0120ってダイヤル回しちゃいそうになる手を止める歌なんだっけ?ってまたその曲探しにぐるぐる回っちゃうの。
だから、
それなら、
ベビーベッドで寝ている赤ちゃんの横に蟹を並べて取った方が食い初め的な儀式にも見えるし、
そっちの方が潔くない?
あの子どもがカニを持った写真を見るたびに私はカニが食べたい口になるのよ!
もちろんその時の手の両手の格好はダブルピースでカニさん!を正に迫真の演技で演じきるかのよう!
サルカニ合戦の役者の臼、蜂、栗、猿、蟹、牛の糞の中で蟹を演じるなら、
助演蟹優賞の受賞待ったなし!だと思うの!
その賞を受賞したあかつきには、
蟹を掲げた写真を撮って載っけて欲しいの!
注意して蟹広告見てると、
カニだけどイカに子どもが蟹持たされているかってのがよく分かると思うわ。
いちいち新聞を読んでて登場する蟹広告に沢村一樹さんじゃない方の一喜一憂してたら疲れちゃうわ!
うふふ。
いつものみかんの花さく丘公園前駅の駅前商店街の喫茶店でモーニングを決めているわ。
珍しく珍しく、
ションテン上がるわー!
いい休日よ!
起きたときに飲むホッツ白湯ストレートウォーラーで身体が温まるわ。
今朝は雨模様のようなので、
そんなに冷え込みはなかったけれどね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
都知事選、参院の参政党、各知事選、今回のチームみらい、この2年で日本国民はどうにでも動かせることがわかってしまった。
安倍の死は想定外だったが、ほぼ影響は無く既定路線。役者も揃った。
2年後にはイケメン小泉、自衛隊マッチョ神谷、東大AI安野が「強くて若い新しい日本」を作ってくれる。
生きてるうちに将来教科書に載るような歴史的瞬間に立ち会えるだろうね。
なのに裏金や統一教会なんかの些末なウンコしか突くことしかできなかった野党とメディアの罪は重い。
俺はサヨク活動家だったが、今回で降りることにした。もう無理だ。もはや一個人には重すぎるし壁が厚くて高すぎる。
ここ最近はデモも街宣も徒労感と無力感しか感じなくなった。正直、疲れたよ
もう敗北でかまわんが、おかげさまでカネになる手法は熟知している。
悪いが表向きはウヨって差別して銭稼ぎ、裏では政治から距離置いて自分と家族だけを守ることに徹する
サヨ活、終了おじさん
おそらく、この人にとっては「ママ」の肩書も、素敵な自分をプロデュースして承認欲求を満たすためのアクセサリーなんだろうな
それでも心のどこかではまだ、「私だって何かあるはず」と思ってた。シンガーソングライターになろうとノートいっぱいに自作ポエムを綴ったり、役者になろうと劇団に入ったり。結局、社会のレールから外れるのが怖くて普通に就職した私は、今度こそ、と小説家を目指し始めた。出版社で毎日残業しながら、空いた時間で応募する日々。でも、結婚し、子どもが生まれると、〈空いた時間〉は、ほんの少しもなくなってしまった。
目の前の赤ん坊は、夢のように愛しくて、毎日毎日「なんでそんなにかわいいの?」と呟かずにはいられないほど。だけど、子どもに愛を注げば注ぐほど、自分のこれまでの葛藤も奮闘もぽろぽろとこぼれ落ちていき、私はただの授乳マシーンに成り果てた。テレビでは、また私より若い人が芥川賞をとったというニュースが流れていた。
イヤだった。
たぶんもっと面白くていいと思うんだけど何がこんなにもつまらなく感じさせるのだろう系ホラー映画で43点。
勝手に彼女の家に居候する気で上京してきた主人公は彼女に拒否され激安シェアハウスに泊ることに。ヤバい住人達といろいろありつつ彼女と和解、ちょうど東京で起業していた先輩に誘われ就職するも隣のヒゲはネチネチうるせぇし、シェアハウスの住人はよりやべぇし、どんどん追い詰められていく主人公。そして驚愕の真実が明らかになったりならなかったりする。
元々が韓ドラである程度の長さがある作品をギュギュッと2時間に収めるために話をどうやって展開するかを考えた結果として、せや!登場人物を全員エキセントリックにしたらええんや!ってなったんじゃないかなって気がしないでもない。まぁ原作見てないんでわかんないんですけど、そう邪推したくなるくらいにはなんかみんなエキセントリックすぎて逆にノイズだった。まぁエキセントリック通り越して幼稚っていうのは実際にそういう役どころだから合ってるのかもしれないけど見てておぉ~!ってよりはフーンってなっちゃったかな。
でもこれって俺が日本人だから日本人のエキセントリック演技に鼻白んじゃうのが原因なのかなぁ。韓国映画とかでもエキセントリックな演技する役者多いけど別にここまで気になることないもんな。
で、話の内容に入るんだけども。
冒頭からツボにぎゅうぎゅうに入れられた虫さんが映し出されて「は~い、これは蟲毒的な話ですよ!」ってわかりやすく教えてくれるんだけど、写ってるのどう見ても南米産の無害なゴキちゃんだし、全部同じ虫さんだから「蟲毒ってそういうのじゃなくね!?」って思うし、途中でヴィランがその中の虫を一匹取り出して足を4本くらいモギモギして「こいつが生き残ることに賭けますよ」的なこと言ってて「手負いの虎が一番怖い」的な話かなと思ったらそれも回収しない。
もうざっくりネタバレすると、ヴィランは殺人因子的なサムシングを持った人間を特定の場所に集めて人間蟲毒を行っている人間もしくは思念体で主人公はうっかりそこに紛れ込んだだけかと思いきや、主人公自身も異常者でしたっていうオチで、最後に逮捕された主人公がうっかり逃亡して、シェアハウスの屋上で空っぽのツボから一匹虫さんが這い出して「蟲毒の勝者は主人公でした!」的に終わるんだけど、蟲毒だったら壺になんもは言ってないピカピカなのはなんかおかしいし、ヴィランが足四本もいだ蟲が主人公なんだとしたらそこを映さないと意味ないし。なんかうまくねぇんだよなって感じ。
あと、たぶん2時間にしちゃった影響だと思うんだけど、主人公がわりと早々に一般人の皮を脱ぎ捨て始めるからかなり早い段階からこれスーパーキチガイ大戦やん!ってなって、一般人ポジの主人公に感情移入して不安な感じとか恐怖とかを味わうつもりだったのがはしごを外されるのが単純に体験として不快。もっと段階踏めたやろって思う。
ヴィランは純粋に見た目にオーラがないのが残念。こいつは悪のカリスマみたいな感じでさっきも書いたけど人間蟲毒をやってるんだけど、その割になんか明確にシェアハウスの初期メンを指揮して入居者を殺させているのでそれだと蟲毒にならなくね?って思う。これが「そうは言わずにそそのかして」住人同士に疑心暗鬼を生んで殺し合わせるとかならOKだけど、呼び込んで殺すは蟲毒じゃないよ。テーマ設定が間違ってるし、終盤でいきなり中二病拗らせた世界の悪意についてのお説教始めたのには本当にうんざり。
良さとしてはゴア表現頑張ってたのはよかった。あとこの作品に限らず人肉食が出てくる作品でいつも思うんやけど人肉ってなんであんなに赤いん?生きてる肉塊から削いで持ってきてるんならギリわかるけど血抜きしたらあんな色にならなくね?食ったことあるニキいたら教えてほしい。
駆け足すぎるとは言ったけど主人公がどんどん追い詰められていって壊れていく様子は見ていてゾクゾクしたし、ヒロインの首を発見した時に拳を噛むところはまさに「怪演」て感じでかなりよかった。全体の演技プランはともかく部分部分で光る演技があったのはよかった。エンドロールで横になんか書いてあったから多分アイドルさん。
シェアハウスの管理人ポジのババアが見るからにおせっかいクソババアって感じでよくできた造形だなと思ったら青木さやかだったのもよかった。いや、いい役もらったと思うしいい演技したと思う。
まぁそんな感じかな。
原作見てないからわかんないけどとにかく主人公がとんでもない勢いでアクセル踏んでハンドル切っていくからそこが多分一番ノレなかったポイントで、たぶん本来はもっとゆっくりじっくりやるべき話なんだと思う。他人は地獄だっていうよりもう全部地獄やん!みたいな映画で俺はあんま乗り切れなかった。なんかグロい系の邦画ホラー見たいって人にはオススメだけどたぶん原作見たほうが面白いだろうなと思う。
久々に完全に見る態度を間違えてしまった俺が悪い映画体験だった。54点。
きっしょい点検作業員の男が女の家にやってきてきっしょい話をする話、学生さんが道端で困っている車椅子の老婆を助けたことから事件に巻き込まれる話、マッチングアプリで出会った女と男が喧嘩になるんだけどそれどころじゃなくなる話、運命を信じない男が自動販売機に入っていた手紙を通じて運命を知る話、きっしょいストーカー男が対象の隣人の家に忍び込む話、希死念慮に侵されたコンビニバイトが事件に巻き込まれる話。
給料日に繁華街歩いてたらちょっと高級そうな「鉄板焼き」の店があったので、ちょっと贅沢しちゃおうかなと思って入ってメニューみたらお好み焼きともんじゃ焼きと焼きそばしかなくて、いや確かに鉄板で焼くけど俺の口そっちになってないよ~!みたいな感じだった。
っていうのも、これ絶対に知ってから見た方がいいので書いとくんだけどエンドロールに
IMAGEBaseon日本のテレビドラマシリーズ「トリハダ」
って書いてあるんだよ。トリハダの詳細は省くけど、要するにこれって腑落ちしたりトリックがあったり捜査があったりっていう一般的なサスペンスやミステリではなくて、世界のハズレ値と出会って不条理に人が死んで「えぇ……」ってなって嫌な気持ちになるだけのタイプのホラー作品なんだよね。で、尚且つオムニバスのそれぞれがちょっと「え?どういうこと?」ってなるんだけど別にそれが最終章で解決したりはしない。それぞれの登場人物がちょっと被ってるくらいの世界観の共有はあるけど、それが映画として有機的に絡み合ったりは基本的にしない。そういう作品だと思って見ればよかった。
ってことは俺がこの映画に求めていたのは基本的にはそういう部分なのね。だから最後まで「で、子の話って結局どこに収束するの?」と思って見てたから、それが達成されずに最後のコンビニの話が終わってあれ?終わった?ってなっちゃった。まぁ、コンビニの話はその前のストーカーの話に繋がってはいたからそれはよかったんだけど。
なので、これに関しては最初から韓国版トリハダを見る気持ちで見ればよかったとめちゃくちゃ後悔してる。期待値コントロールを完全に失敗してしまった。
話としては基本的にどれも「えっ、そうなるの!?」ってなるような仕掛けがあって見ていて退屈はしない。演技巧者を集めてやってるので見応えがあるし、ハラハラ感やソワソワ感を引き立てる演出も冴えてる。冒頭のきっしょい点検作業員、目が完全に三角形(△)でネチネチネチネチきっしょいこと言うの本当に無理で草。良い演技。
個人的にトリハダ、ヒトコワ好きの俺の中では自販機の中の手紙を追いかけていく話とストーカーが隣の家に忍び込む話が良かった。特にストーカーの話はストーカーが隣の女性の家に忍び込んであれやこれやをやる中で洗面所の歯ブラシを発見しそれを永遠に咥えてるってゲロキショ描写があるんだけど、最終的にベッド下にぽつんと残された歯ブラシノショットに「あの歯ブラシどこやった?排水溝磨く用のやつ」って台詞が入って、何もかもうまくいかんかったな……っていう諸行無常感と笑いのエッセンスがまじりあったバランス感がめっちゃ好きだった。
逆に学生さんが事件に巻き込まれる話はつまりどういうこと?感が強すぎてちょっと微妙。オムニバスにあるハズレ回。
あとはアレだな多分見た人全員が言うと思うんだけど最終章のコンビ店員がなんかヤンキー女みたいな感じなんだけどこの役者がめちゃくちゃよかった。ビジュもそうだし演技の感じも力強い感じもありつつ人生を投げ捨てた希死念慮に囚われた女性って役をしっかりやっててよかった。
そんなこんなで韓国版トリハダとして見れば十二分に合格点は出ているでしょう。元から天井が高いジャンルでもないので。重厚な韓国ミステリ、サスペンス、スリラー映画を見るつもりじゃなくて最初からそっちを見るつもりでみるならまぁまぁオススメ。
蒸し網の蒸し野菜の話しか最近してないぐらい自分でもどうしちゃったのってぐらいな世の中。
いちいち初めて蒸す食材にションテン全爆上がりしていたら、
私も疲れちゃうわ。
とはいえ、
私の蒸し食材オープンワールドのアールピージーの中でのパーティーの役割では重要な職業でポジションの下仁田葱級に担っている「蒸し士」という謎の職業がパーティーに含まれている感じなぐらい毎日蒸しってところなの。
一房買ってきて、
試しに蒸して食べてみるの。
茎の軸の固いところも薄くスライスして、
それを想像するブロッコリー味のブロッコリー味だと思ったのね。
そしたらよ!
そしたら実食して、
パク!
房の部分シャクシャクしてて美味しくって茹でてぼやけた味のブロッコリーとは大違いな違うなんか緑色の強い濃い味で想像以上なの。
この味に仕上がるのね!って
房で驚きつつ、
次は軸の固いところを薄く切ったものを実食よ!
パク!
え?なにこれ!?
ちょ、ちょ待ってよ!
軸の方がメインの房よりも美味しくね?って。
謎の逆転現象が起こってるの!
今までの常識だとブロッコリーって房ありき房メインで軸は窓から投げ捨ててしまうものだと思っていたけれど、
軸のこのなにこの美味さ!
軸の方が先に完食して無くなっちゃったぐらい!
あまりの軸の方が美味しくって、
房の部分も美味しく蒸し上がっているけれど、
軸の足もとにも及ばないぐらいな感じになっちゃうの!
とはいえ、
房もしっかり美味しいのよ!
それをも遙かに上回る軸の美味しさ!
美味しいかどうか分からない私のチャレンジングスピリッツだけで挑み蒸したブロッコリー、
まさか房の本編より軸の方が美味しいだなんて!
野菜蒸して食べるごとに
そして、
今のところ何回も既に積んできた蒸し打席数!
今回もホームランで全打席ホームランは新記録を更新し続けているという偉業!
蒸し野菜を蒸してきたけどホームラン連続でかっ飛ばしている失敗のなさの
全部全回蒸し美味しい!って逆にどういうこと?って思うの。
まあ、
強いて言うのなら、
ブロッコリーの軸と本編である房の蒸し時間がちと長すぎたかな?ってことぐらいの懸念しかないぐらいなもう1分か2分蒸し仕上げる時間短くてちょうど良かったかも!って思うぐらい。
蒸し時間が長すぎて詰まった当たりだと思ってたけどホームラン!
結局昨日の晩の晩酌のお供は、
ブロッコリーだけで大満足という、
まさか房よりも軸の方が美味しいという大どんでん返しを喰らって感動して泣いてしまうぐらいの
しかも、
素材自体の味がしっかり蒸すことによって濃くなっているようなこともあってか、
直訳すると調味料無くっても蒸したブロッコリーは充分に美味しい!って意味ね。
あまりの手間の簡単さ過ぎてしかも手間に見合った以上の何倍の美味さになるので、
いままでの自炊してきた常識の自炊脳がおかしくなってしまうわ。
もう蒸すだけでよくね?って。
これって自炊のなんか面倒くささ、
何食べようどう切ろうどう煮よう焼こう炊こう味付けようと
蒸すってだけは、
切って蒸し網の中にいれて時間で蒸すだけ。
今までの自炊の苦労がなんだったのかしら?って思うわ。
もちろん自炊して作るビーフストロガノフも美味しく決まったときは嬉しい美味しい楽しい!ってドリームズカムトゥルーさんの歌みたいになっちゃうときもあるけど、
それも相まって簡単手間もないのにホームラン級の美味しさになっちゃう!ってことなのよ。
蒸しているだけなのに。
なんかここ最近の初めて蒸して食べる食材に全編全部感動していたら疲れちゃうわ!ってぐらいなんだけど、
それをも上回る、
そんな美味しいポテンシャル成分が有り余るほどふんだんに含まれていたとわ!
感動しすぎて疲れちゃったわ。
そう思いつつ、
ブロッコリーを食べながら思ってたのよ。
もう嫌だなぁ次を何蒸して食べてみようか?って考えるの。
その美味さに美味疲れを起こしてしまいそう。
身体にはめちゃ良さそうだけど。
おかげで昨日は晩ご飯ブロッコリーだけで大満足という結果に終わったの。
私は出来ちゃったわ!
ウケる!
次何を蒸そうかな?って考えちゃうわー。
ピーマンも意外と蒸し上がって良い味に仕上がる予想しか予想だにできない旨味しかまたこれなさそうなのよ。
他なに蒸す?
蒸し大根でまた大根の美味さのアップデートが走っちゃう更新されちゃうかも知れないという恐怖があるわ。
キノコ類は魚とかと一緒に蒸して魚の全旨味汁のルーシーを全受けして染み旨に仕上がるので
魚とキノコとかの組合せも漏れなくパーフェクトゲームを叩き出すの。
あと私やってみたいのが、
内臓だけ取ってあるまるまるの姿が残っている魚ってあるじゃない。
あれ丸ごと蒸したらどんなことになるの?って
たぶん美味しさのあまりに私がひっくり返っちゃうかも知れない憧れがあるロマン系魚まるごと蒸しってのにも挑戦してみたいわ!
そんなことしたら、
美味しくて誰かに怒られそうよ!
あとパックで売ってる無頭エビとか、
しかも自ら色が赤くなって蒸したて食べ頃を教えてくれるというシステムを持ち合わせているし。
海老も蒸したら大変なことになりそう。
これら、
ただ心配なのが
まあだいたい私が編み出した数学博士の秋山仁先生もビックリするような5分で蒸す5の倍数の定理をもってして蒸せば、
とりあえずだいたい上手に蒸せそうよ。
これ本当に私の蒸しライフにも彩りを与えてくれるのよ。
こんなに毎回蒸しでションテンが上がりまくっていたら蒸し料理なんて疲れて嫌になりそうだけど、
それをも凌駕する超えてくる美味しさには敵わないのよね。
蒸すってことが美味しさパラメーターのチートすぎておかしくなっちゃうわ。
ジャガイモ蒸かしたら超美味しいわよー!って窓開けて大声で叫びたいぐらいよ。
うふふ。
目新しく私の目前の目の前に飛び込んできたそのスモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチは
アトランティックサーモンかトラウトサーモンかノルウェーサーモンかは分からないけれど
赤い色とクリームチーズの白い色のコントラストが鮮やかで引き寄せられてしまって手に取って買って食べてしまったわ。
ちょっとお値段するけれど
サーモンとクリームチーズが美味しくってこれまたリピ決定美味さだわ!って。
今日も頑張れる気がする!
うん!
ルイボスティーのパックもまだまだ夏から引き続きたくさんあんので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
歌舞伎において「中村屋!」の掛け声は、屋号が中村屋である十八代目中村勘三郎(及び中村勘九郎、中村七之助ら)への、応援や称賛を伝える「大向う」と呼ばれる伝統的な合いの手です。舞台の盛り上がり(見せ場)で、客席後方から声をかける愛情ある声援です。
詳細な解説は以下の通りです。
意味と由来:舞台上の役者(中村屋)に対する「待ってました!」「最高!」という賞賛や応援の声。歌舞伎座などの大衆席後方(大向う)から、熟練のファンや愛好家がタイミングを見計らって声をかける。
対象の役者: 主に故・十八代目中村勘三郎、その息子である六代目中村勘九郎、二代目中村七之助の出演舞台でかけられる。
タイミング:見得(みえ)を切った時や、演技が素晴らしく決まった瞬間にかけられるのが基本。
【はじめに】
本稿は、現代日本政治を一つの均衡状態として捉え、その内的論理を記述する試みに過ぎない。ここで描かれた「歪なリヴァイアサン」は、不正義でも愚鈍でもなく、ただ与えられた条件の下で最も合理的に振る舞っている存在である。
しかし、合理性は永続性を保証しない。均衡とは、あくまで外乱が加わらない限りにおいて成立する一時的な静止点に過ぎない。経済の衰弱、国際秩序の変動、技術による媒介構造の変化——いずれも、このキメラの前提条件を静かに、しかし確実に侵食している。
本稿の目的は、このシステムを擁護することでも、告発することでもない。ただ一つ、「なぜ変わらないのか」という問いを、「変わらないこと自体が合理的である状況」として再定義することである。
もし将来、日本政治がこの枠組みから逸脱するとすれば、そのとき我々は初めて「変化が起きた」のではなく、「変化を許す条件が整った」のだと理解すべきだろう。
日本政治を観察する際、我々は常に強烈な「違和感」に襲われる。
表面的には米国流の民主憲法を掲げながら、そのOS(オペレーティングシステム)はプロイセン流の官僚機構であり、さらにその深層では江戸時代の村落論理が駆動しているからだ。
「自民党一強」や「官僚内閣制」、「対米従属」といった既存の単一的な理論では、この怪物を説明しきれない。
本稿では、現代日本という政治システムを、「幕府の遺風(骨格)」、「明治の遺老(神経)」、「米国の遺産(皮膚)」という、本来互換性のない三つの要素が無理やり縫合され た「キメラ(合成獣)」として定義し、その構造的欠陥と強靭さを分析する。
日本政治の基層にあるのは、民主主義ではなく「封建制」である。
自民党は近代政党ではない。それは「現代の大名連合体」である。
派閥という名の「藩」:政治家にとっての忠誠対象は、国家よりも党、党よりも「派閥(オヤジ)」にある。
世襲という正統性:地盤・看板・鞄(カバン)の世襲は、まさに江戸時代の家督相続そのものであり、システム維持のコストを最小化するための合理的装置だ。
「根回し」の合意形成:国会審議は儀式に過ぎない。真の意思決定は、料亭や密室での「根回し」によって行われる。これは内戦を避けるための「封建的コンセンサス」の知恵である。
この層は、システムにおける「利益配分」と「動員」を司っている。
政治家が舞台上で演じる役者だとすれば、脚本を書き、演出するのは霞が関の官僚群である。彼らは明治維新以来の「指導的行政」の継承者だ。
無責任の体系:大臣は頻繁に交代するが、次官や局長は居座る。実質的な立法権と、法の「解釈権」は彼らが独占している。
解釈権という主権:法文そのものに意味はない。内閣法制局がいかに「解釈」するかが全てだ。これは一種の「神学政治」であり、官僚は唯一の解釈権を持つ神官である。
この層は、システムの「運用(オペレーション)」と「リスク回避」を司っている。
戦後、外から移植されたこの異質な器官は、平和憲法や日米安保として具現化している。
征夷大将軍としての米国:構造的に見れば、ワシントンは現代の「将軍」である。平時は大名(日本政府)の内政に干渉しないが、外交・安保という存立に関わる部分では最終裁定権を持つ。
「結界」としての憲法九条:保守派にとっての憲法は、足枷であると同時に、米国の過度な軍事冒険に巻き込まれないための「免罪符(盾)」としても機能してきた。
この層は、システムの「外部安全保障」と「国際的正統性」を保証している。
この三層構造は、絶妙なナッシュ均衡によって維持されている。この均衡を無自覚に破壊しようとした者がどうなるか。歴史が証明している。
小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と叫び、ポピュリズム(米国層の力)を借りて、自らの足場である「幕府層(派閥・郵便・土建)」を攻撃した。
結果、自民党という組織は「骨粗鬆症」に陥った。彼が去った後、求心力を失った自民党があっけなく下野したのは必然であった。
2009年の政権交代は、システムに対する致命的な挑戦であった。民主党は「幕府・明治・米国」のすべてを同時に敵に回してしまったのだ。
対「明治層」戦争:「政治主導」を掲げ、官僚機構を敵視した結果、サボタージュに遭い、行政機能が麻痺した。
対「米国層」戦争:普天間基地問題で「将軍」の逆鱗に触れ、鳩山政権は崩壊した。
(党内に派閥がなければ奇妙なことが起き、党外に野党がなければ独裁に陥る)。
自民党における派閥は、疑似的な政権交代機能(自浄作用)を果たしていた。しかし、「党内無派閥」を理想とした民主党は、内部対立を調整する「封建的知恵」を持たず、内ゲバで自壊した。
民主党の敗北は、無能だったからではない。日本の「国体(システム)」に対する免疫拒絶反応だったのである。
なぜ安倍晋三(第二次政権)は、憲政史上最長の安定政権を築くことができたのか。
それは彼が、小泉流の「破壊」も民主党流の「理想」も捨て、システム構造のハッキングに成功したからだ。
彼は「三層の矛盾」を解消するのではなく、「三層すべてを掌握する」ことで、この奇妙なキメラを飼い慣らしたのである。
民主党は官僚と「闘った」が、安倍政権は官僚を「飼い慣らした」。
その決定的な武器が、2014年に設置された「内閣人事局」である。
霞が関のエリートたちの人事権を官邸が一元管理することで、官僚たちは「抵抗者」から、官邸の意向を過剰に読み取る(忖度する)「優秀な参謀」へと変質した。
これにより、明治以来の「官僚の自律性」は去勢され、行政機構は完全に安倍一強体制の手足となった。
安倍氏は、対米自立を掲げるのではなく、逆説的に「対米従属を極める」ことで政権のフリーハンドを得た。
2015年の安保法制(集団的自衛権の行使容認)は、憲法解釈の限界を突破するものであったが、これは「将軍(米国)」に対する最大の忠誠の証であった。
将軍の信任を得た大名は、国内で多少強引な振る舞いをしても、外圧によって倒されることはない。彼は「外堀」を米国に守らせることで、内政に専念したのである。
「機動的な財政出動」と称されたアベノミクスは、経済政策であると同時に、高度な「封建的再分配システム」であった。
異次元緩和によって溢れ出したマネーは、株高を演出し、企業(経団連)を潤し、公共事業を通じて地方組織(農村・建設)を潤した。
かつて小泉氏が断ち切った「カネのパイプ」を復旧させることで、派閥政治の不満を封じ込め、党内の求心力を盤石なものにした。
それは、人事権で官僚を縛り(明治)、安保で米国を縛り(米国)、カネで派閥を縛る(幕府)という、「三層の完全縫合」に成功した、極めて洗練された「復古政権」であった。
日本という「歪なリヴァイアサン」は、内部からの革命では死なない。
「党外に党なし」――強力な野党が存在しないのではなく、安倍政権が完成させたこのシステムが、野党(代替案)の存在を必要としないほど強固な「安定」を提供してしまったからである。
このキメラが倒れる時があるとすれば、それは内部崩壊ではなく、宿主である経済が死ぬか、将軍(米国)が去るか、そのどちらかであろう。
人生で誰に出会うか、また、子どものうちに「揉まれて」来たか、は後天的な人格障害の「発症」に関わる。
自律的な人格形成のクリティカルな時期に、「監視」資本主義者によって「常に他人の鏡を覗き込み、行動を操作されるような環境」に作り替えられ、その確立に失敗した人が、ネットで傷を舐め合うようになる。
現代の心理学において、若者が自己を確立する「成人形成期」は、他者との融合から脱却し自らの人生を執筆する「セルフ・オーサーシップ」を確立する重要な段階とされています。かつては鏡としての他者に依存していた自己が、葛藤や内省を経て、他者と繋がりつつも独立した「関係性的自律」へと進化することが成人への鍵となります。しかし、現代の「監視資本主義者」とデジタル社会の台頭は、若者の私的空間を利益のために操作し、この健全な発達プロセスを阻害する脅威となっています。若者は、SNSを通じた社会的比較や監視の圧力に晒されながら、真の自律性を手に入れるための過酷な交渉を強いられているのです。個人の内面的な成長が、いかに現代のデジタル環境によって複雑化し、変容させられているかを浮き彫りにしています。
18歳から20代後半にかけての「成人形成期」と呼ばれる時期は、単に大人になるのを待つ時間ではなく、自分の心の形を自分自身で作り上げる、非常に重要で困難なプロセスです。この時期の心の成長と、現代ならではの落とし穴について、3つの比喩を使って解説します。
成人形成期の初期、若者にはまだ「確かな自分の感覚」が備わっていません。この段階を例えるなら、「社会という鏡に映る姿に合わせて自分を変えるカメレオン」です。
この時期の若者にとって、「私」とは「他の人が自分をどう思うか」そのものです。そのため、他者は対等な人間というより、自分が演じる姿を映し出し、自分の存在を確認するための「鏡」や「観衆」となります。
若者がソーシャルメディアを手放せないのは、そこが自分を映し出す唯一の鏡だからです。鏡がなくなれば、自分が何者か分からなくなり、「消えてしまう(死)」のと同じ恐怖を感じます。そのため、たとえ傷つくような視線であっても、彼らは必死にその鏡にしがみつこうとするのです。
この時期の最大の課題は、他人の書いた台本通りに演じる役者を卒業し、自分自身の人生の「著者(オーサー)」に進化することです。
以前は他者の視線と自分がベッタリとくっついた、いわば「融合」した状態でした。しかし、成長するにつれて、自立しながらも他者と親密につながることができる「関係性的自律」の状態を目指すようになります。
自分の内側に真実や道徳の感覚が育ってくると、若者は「私はこう思う」「私はこう信じる」と、自分の言葉(一人称)で語り始めます。これは、自分の人生の所有権を自分に取り戻す作業です。
この成長は、単に楽しく進むものではありません。失敗、対立、不調和といった「厳しい交渉」や「内省」という嵐を通り抜けることで、初めて自分の内側に確固たる土台が築かれます。
しかし現代では、若者がこの「著者」になろうとする舞台が、「監視資本主義」という巨大な力に支配されているという深刻な問題があります。
若者が自分を探そうとするデジタルの空間は、実は企業の利益のために設計された「私有地」です。そこは、若者が自由に成長するための広場ではなく、監視資本家が利益を最大化するために、若者の行動をこっそり調整(チューニング)する実験場のようになっています。
ソーシャルメディアは、社会的比較や同調圧力といった手法を巧妙に使い、若者が自律的な選択をするチャンスを奪い、特定の行動へと追い込んでいきます。
成人形成期とは、「他人の鏡に映るカメレオン」を卒業し、「自分の人生を綴る著者」になるための闘いの時期です。本来なら、対立や失敗を通じて自分を作り上げるはずのこのプロセスが、現代では監視資本主義者によって「常に他人の鏡を覗き込み、行動を操作されるような環境」に作り替えられている点に、現代の若者が直面している困難さがあります。
人間の愚かさと優しさ、自然の厳しさと美しさを対比するような素晴らしいドラマだったわけで。
小説が原作の映画やドラマは多くあるが、もし「北の国から」が小説だったら全くヒットしなかっただろう。
あて書きの脚本だからこその役者達の自然でリアルな芝居と、想像を上回るような北海道の雄大な映像、実際に年月を重ねるある種の大河ドラマだからこそ「北の国から」は成り立つのだ。当時の役者および制作陣の凄さを感じる。
TOEICの世界で飛行機が常に遅れるのと同じように、「北の国から」の世界では、かかってくる電話はだいたいバッドニュースである。特に祝い事のシーンでの電話は間違いなく悪い話だ。
あまりに悲劇ばかり起こるので、途中から逆に展開が読めるようになってくる。
裏テーマとして因果応報とかがあるのだろうか?にしても、さすがにやりすぎだろ!と思う。
時代背景もあるのだろうが、いかにも男が描く女って感じでこの点だけはちょっとモヤる。女の人生、他にもネタあるやろ。
おそらく結婚観が今とは違うのだろうな。女の人生のゴール=結婚であり、選択肢がなかったのかもしれない。
れいちゃん(横山めぐみ)から始まり、トロ子(裕木奈江)、シュウちゃん(宮沢りえ)、結(内田有紀)と、ザ・清純派から強い女性へとヒロイン像がどんどん変わっていくのが時代を反映しているようで非常に興味深かった。
特に宮沢りえのかわいさには度肝を抜かれた。95秘密は宮沢りえのかわいさに目を奪われすぎてストーリーがなかなか頭に入らなかった。
増田は世代的に、宮沢りえが一世を風靡したというふわっとした情報しか知らなかったのだが、完全に理解した。あれはみんな写真集買うわ。
もし令和の今、新作が出るとしたらどんなヒロインになるのだろう。
五郎がどんどん聖人になっていく。このドラマの語り手は主に純だが、主人公はあくまで五郎なのだろう。
男手一つで2人の子供を育て、子離れし、最終的には自分の生き方を確立し、生き生きと過ごす。
五郎はすがすがしいくらい、現代社会の対極で自然と共に生きようとする。消費もしないし情報量の多さも求めない。当然お金もそんなにない。なんなら貧乏だ。でも、豊かなのだ。
あんな風に生きたいし、あんな風に歳をとりたい。五郎さん、あなたは素敵です。
五郎の生き方に憧れ、富良野への移住者が大量発生したのも頷ける。なお、あまりに自然の厳しさにその多くが尻尾を巻いて逃げ帰ったというのも北海道出身の増田にはよくわかる。
・蛍がお母さんの電車を追って走るシーン
・泥のついた1万円札と純の旅立ちと尾崎豊
・純が風呂を沸かしながら富良野に帰っていいか五郎に聞くシーン
・やるなら今しかねえ
・誠意って何かね?
・蛍と正吉の結婚祝いの宴
・草太兄ちゃんの死に純が牛舎で泣いてるとこ
ポスターヴィジュアルが一番の罠なソリッドシチュエーションスリラーの佳作。62点
陰キャなマフィアの会計士をアラスカで捕縛した保安官補の主人公、裁判に間に合うようにプライベート機をチャーターしいざ出発。しかしその操縦士は実はマフィアが放った殺し屋で……逃げ場のない飛行機の中で会計士と保安官と殺し屋の戦いが今幕を開ける。
みたいな話でさ。これ、ポスターヴィジュアルが傷だらけのマーク・ウォールバーグがドーンって出てて、マークは操縦士として飛行機に乗り込んでくるのね。ふーん、これは操縦士マークと主人公が飛行中に起きるいろんな問題、もしくは飛行機が墜落して起きる様々な危機を乗り越えていく話なんだろうなと思ったら、なんとビックリめちゃくちゃクズの殺し屋でしかも頭頂部がハゲ散らかしてる。こりゃあ一本取られたなって感じでしたわ。
個人的に主人公はビジュがあんまいいとは思わなかったんだけど、マークはもうハゲで粗野で口煩い殺し屋役を好演通り越して怪演していてめっちゃよかった。マークがもっとしょうもない役者だったら50点くらいだったと思う。
作品としては離陸してから着陸寸前まで一度も飛行機内部と周辺しか写さない。
主人公はいろんなところと通信しながら「なぜこの移送計画が漏れていたのか」「組織内の犯人捜し」「管制室のアドバイスを受けながら飛行機を飛ばす」ということを行うんだけど、それは全部音声のみで表現される。結果的にこの管制室のやつが「軽口飛ばしながらちょっと主人公を口説いてくるナイスガイ」すぎて、いやこいつ、マフィアの手下なのでは?こいつの指示に従って飛んでいて大丈夫か?っていうじわっとした不安感がずっと続くのがよい。
そして上にも書いたけど、このシチュエーションには2つのリスクがあって、1つはもろちんマークというヤバい殺し屋の相手をずっとしてなきゃいけないこと。もう一つは操縦士として乗り込んできたマークを拘束している間、主人公が飛行機を操縦する必要があること。
とはいえ、後者がちょっと弱すぎるのは問題と思ったかな。2回だけガチでヤバくなることがあるんだけどそれ以外は普通に自動操縦で飛ばしっぱなしだし、この手の航空機パニックものにありがちな燃料問題も発生しない。あと、あんま高度を感じるように撮られてない。飛行機から落とされるかもみたいなアクションもないので、「フライト」である必要どこまであったかなっていうのは正直疑問。
代わりに対人間に関しては非常に強固に撮られていて割とよくできてる。
拘束されたマークが主人公をどうにかして挑発しておびき寄せたくて彼女のトラウマをえぐりにきて思惑通り主人公はブチ切れてマークをボコボコに殴る。しかしその際にマークは主人公から拘束を解く道具を盗み取っており、マークの知恵が主人公を上回った、と見せかけて、マークがトラウマをえぐったことで「その情報を知っている人間が内通者である」という情報が主人公に渡ってしまう。
というようにああすればこうなる、こうしたらああなるというのがロジックが無駄なく配置されていてヒリヒリするやりとりを楽しめる。
とはいえ、予想外の出来事はほとんど起きないし作品としてはあまりに小規模でストレートな出来なので特に話すことがない。
一番びっくりしたのはエンドロールが流れて一番最初に「directedby MELGIBSON」って出たことかな。
いまさらこんな2000年代に金ローでかかるような作品をメルギブが撮るんやっていう。
アポカリプト、パッション、ハクソーリッジのメルギブがこれを!?ってなった。
終盤でマークが親指を自分でへし折って手の皮剥ぎながら無理やり手錠を抜けるシーンは監督のヘキ出てるやろこれ。
まぁシチュエーションソリッドスリラーの佳作としては普通に面白いくらいの強度はあるので、メル・ギブソン映画だウオオオオオオみたいなテンションで見たらナニコレしょうもなってなる可能性は全然あるけど、90分しかないし普通に面白い映画見たな程度には楽しめると思うのでオススメ。
https://x.com/eat_331048/status/2008048615718285313?s=46
「内容と関係ないですが、
どうしても我慢ならないので1言
幕降りた途端に、
「エリザ全然声出てないやん、アカンわ」「残念やわ」とデカイ声で言いやがった、
上記のようなツイートが物議を醸していたが、そもそも東宝が絶対にスターシステムを崩さず、エリザベートのシシィ役に宝塚出身の歌ができるんだかできないんだかよくわからない女優を起用するからこうなる。
なお筆者はエリザベート自体は好きなのだが、Wキャストでずっと出続けている女優の歌もそろそろ年齢もありかなりきついと思っている。そして退団後すぐの人気な宝塚の女優のWキャストは博打だ。たまに上手な人もいるが、数えられる程度。宝塚のファンではないが、ミュージカルを見たい層の人間にとってはかなり辛い。
昔からの慣例だから、もはや文句を言うのも無駄なのだが、劇場で下手くそだと感じた女優の愚痴すらも溢すことができないような閉じた環境下では、これから益々日本のミュージカル界は閉じてゆき、役者ファンに媚を売るだけの地獄の拝金システムがさらに強化されてゆくだけであろう。
匿名でしか書けない自分にも悲しくなるが、宝塚出身の俳優がどれだけ下手くそでも自分の名前を出して批判すると、信者が飛んできて燃やされる界隈だと思っているので、飛んで火に入るなんとやらにはなれるほど心臓は強くない。
もちろん宝塚出身者でもパフォーマンスが素晴らしい女優がいることも、同時に宝塚出身ではないとんでもない大根役者が舞台に出ていることも重々承知である。
とはいえ、今までシシィ役の歌唱技術で幾度となく大横転させられた人間としては、男役として人気だった女優が退団後(娘役でも酷いのがいるが)、伴わない実力をさしおいて人気だけで重宝される宝塚東宝スターシステムの弊害を、宝塚のファンではない一般の演劇やミュージカル好きの我々が被っているのは事実であるといっても差し支えないのではないか。
なおこれらの問題は出演している女優だけのせいではない。制作側の事情や今までの慣例、演出家の独断、チケットの売れ行きなど全てが関わる問題であるし、すぐに変えることはできないだろう。しかしエリザベートだけに限らず、今後のミュージカルや舞台芸術の発展のためにも、2万円近いチケットを払って良かったとオタクでなくても思える作品作りをしてほしい。
そもそも宝塚でエリザベート何十回も何千回もやってるんだから東宝は宝塚から出さなくてもいいだろ!1人くらい宝塚出身者ではないシシィを配役してくれ!切実な願いだ。
そして劇場では感想としてこの人が下手だとか、この芝居が嫌だとか、ここが良かっただけでない感想が飛び交ってもいいではないか。あなたはここがよかったと負けずに主張すれば良い。どちらも立派な感想だ。
役者のファンなのは良いが、役者はアイドルではない。舞台に立ち、役を通して様々な批評に晒される仕事だ。
もちろん絶対に個人の人格の否定をされたり、パフォーマンスに関係のない罵詈雑言を浴びせられるべきではない。しかし舞台そのもので客が感じたことを言葉にするのは、正しく批評の域ではないだろうか。
それに2万円近いチケット代を支払って役者の声が出てないというのは、3時間それを聴き続ける役者ファンではない、作品のファンや初めて見にきた客の気持ちになったらどれだけ辛いか想像できないだろうか。
もちろん少しでも揺らぎが嫌なら映画を見ればいいし、他に娯楽がたくさんあるとはいえ、プロの演じるミュージカルをわざわざ選んで見にきたにもかかわらず、出演者の声が出ていないなら、それは文句の一つも言いたくなるだろう。(そもそも声が出ていないというのは批評の段階にすら立てないと思うがそれは別として)
これもまたスターシステムの弊害だし、ファン側もそれ以外も皆スターシステムの被害者なのかもしれないが、やはり、舞台には批評があって然るべきで、それをあなたや役者が受け入れるかは別として、誰でも、どう感じたか、というのはその場で話せるような開けた場になって欲しい。
特にファンなのであれば心配と同時に、なぜその状態で舞台に乗ったのか疑問に思わないのだろうか。
調子が悪くても舞台に乗らざるを得ないならば、酷使され過ぎているし、自分から乗ることを決めたのであれば、その女優にそのような評価が下るのも致し方ないだろう。
かなり話が逸れてしまい読みにくい文章となってしまったが、これからも劇場がさまざまな意見が飛び交うひらけた場所であって欲しいと心から願う。
https://x.com/eat_331048/status/2008048615718285313?s=46
「内容と関係ないですが、
どうしても我慢ならないので1言
幕降りた途端に、
「エリザ全然声出てないやん、アカンわ」「残念やわ」とデカイ声で言いやがった、
上記のようなツイートが物議を醸していたが、そもそも東宝が絶対にスターシステムを崩さず、エリザベートのシシィ役に宝塚出身の歌ができるんだかできないんだかよくわからない女優を起用するからこうなる。
なお筆者はエリザベート自体は好きなのだが、Wキャストでずっと出続けている女優の歌もそろそろ年齢もありかなりきついと思っている。そして退団後すぐの人気な宝塚の女優のWキャストは博打だ。たまに上手な人もいるが、数えられる程度。宝塚のファンではないが、ミュージカルを見たい層の人間にとってはかなり辛い。
昔からの慣例だから、もはや文句を言うのも無駄なのだが、劇場で下手くそだと感じた女優の愚痴すらも溢すことができないような閉じた環境下では、これから益々日本のミュージカル界は閉じてゆき、役者ファンに媚を売るだけの地獄の拝金システムがさらに強化されてゆくだけであろう。
匿名でしか書けない自分にも悲しくなるが、宝塚出身の俳優がどれだけ下手くそでも自分の名前を出して批判すると、信者が飛んできて燃やされる界隈だと思っているので、飛んで火に入るなんとやらにはなれるほど心臓は強くない。
もちろん宝塚出身者でもパフォーマンスが素晴らしい女優がいることも、同時に宝塚出身ではないとんでもない大根役者が舞台に出ていることも重々承知である。
とはいえ、今までシシィ役の歌唱技術で幾度となく大横転させられた人間としては、男役として人気だった女優が退団後(娘役でも酷いのがいるが)、伴わない実力をさしおいて人気だけで重宝される宝塚東宝スターシステムの弊害を、宝塚のファンではない一般の演劇やミュージカル好きの我々が被っているのは事実であるといっても差し支えないのではないか。
なおこれらの問題は出演している女優だけのせいではない。制作側の事情や今までの慣例、演出家の独断、チケットの売れ行きなど全てが関わる問題であるし、すぐに変えることはできないだろう。しかしエリザベートだけに限らず、今後のミュージカルや舞台芸術の発展のためにも、2万円近いチケットを払って良かったとオタクでなくても思える作品作りをしてほしい。
そもそも宝塚でエリザベート何十回も何千回もやってるんだから東宝は宝塚から出さなくてもいいだろ!1人くらい宝塚出身者ではないシシィを配役してくれ!切実な願いだ。
そして劇場では感想としてこの人が下手だとか、この芝居が嫌だとか、ここが良かっただけでない感想が飛び交ってもいいではないか。あなたはここがよかったと負けずに主張すれば良い。どちらも立派な感想だ。
役者のファンなのは良いが、役者はアイドルではない。舞台に立ち、役を通して様々な批評に晒される仕事だ。
もちろん絶対に個人の人格の否定をされたり、パフォーマンスに関係のない罵詈雑言を浴びせられるべきではない。しかし舞台そのもので客が感じたことを言葉にするのは、正しく批評の域ではないだろうか。
それに2万円近いチケット代を支払って役者の声が出てないというのは、3時間それを聴き続ける役者ファンではない、作品のファンや初めて見にきた客の気持ちになったらどれだけ辛いか想像できないだろうか。
もちろん少しでも揺らぎが嫌なら映画を見ればいいし、他に娯楽がたくさんあるとはいえ、プロの演じるミュージカルをわざわざ選んで見にきたにもかかわらず、出演者の声が出ていないなら、それは文句の一つも言いたくなるだろう。(そもそも声が出ていないというのは批評の段階にすら立てないと思うがそれは別として)
これもまたスターシステムの弊害だし、ファン側もそれ以外も皆スターシステムの被害者なのかもしれないが、やはり、舞台には批評があって然るべきで、それをあなたや役者が受け入れるかは別として、誰でも、どう感じたか、というのはその場で話せるような開けた場になって欲しい。
特にファンなのであれば心配と同時に、なぜその状態で舞台に乗ったのか疑問に思わないのだろうか。
調子が悪くても舞台に乗らざるを得ないならば、酷使され過ぎているし、自分から乗ることを決めたのであれば、その女優にそのような評価が下るのも致し方ないだろう。
かなり話が逸れてしまい読みにくい文章となってしまったが、これからも劇場がさまざまな意見が飛び交うひらけた場所であって欲しいと心から願う。
映画、ドラマ、アニメをいくら沢山見ても演技を評価できるようにはならない。
例えば赤ワインとかウイスキーってさ、飲み慣れないと味わかんないと思うのよ。
最初にたっかいの飲んでも「高いのは違うなー!」とかならない。
色んな種類とか色んな価格のを飲んで、ようやくわかってくるもんじゃない?
で、これを演技に当てはめると「食べる/飲む」は「(真剣に)演技指導される/する」なんだよ。
「舐める」ぐらいが「演技指導されてるのを見る」とかそういう感じ。
演技見るのって、食べ物とか飲み物見てるだけなのとマジで一緒。
とはいえ。
どういう人かというと、B級もB級の映画とか、駆け出し役者が多い舞台とかで「下手くそな演技をたくさーん見つつ、役者一人ひとりの批評をしてる人」。
見てるだけじゃダメなんよね。
一人ひとりを比べて、どこがどう違うか、しっかり頭を使ってないとわかるようにならない。
好きな曲をただ聞き続けてるだけじゃ演奏できるようにならないのと似てる。
ちなみに演技の勉強をあるていど真剣にやったことがあると全部経験する。
演技はグループワークだから、演技指導されるだけじゃなくて他の人への指摘もするし、自分以外の演技は全部教材だから真剣に見てその人がどうしたら良くなるか、何がダメかを考える。
週1で1〜2年ぐらい真剣にやれば、あるていどわかるようになるんじゃないかな。
んなことしなくても評価できるって?
だいたい勘違い。