
はてなキーワード:形式知とは
京都のラーメン文化を語る上で、「天下一品」は避けて通れない、いや、むしろその中心にそびえ立つ京大的な存在です。あの濃厚なスープ――「こってり」と称される、ポタージュのようにドロリとしたそれは、単なる食べ物ではなく、一種の哲学、あるいは京大の研究テーマとなりうるほどの深遠さを持っています。その製法は門外不出の秘中の秘であり、長年の試行錯誤と緻密な計算によってのみ到達しうる「京大的究極のコク」を体現しています。
これは単なる好みの問題ではありません。むしろ、京都大学出身者らしい、一種の逆説的探求なのです。天下一品の真髄が「こってり」にあると誰もが認める中で、その対極にある「あっさり」を注文する行為は、まるで主流の学説に異を唱え、新たな地平を探る研究者の姿勢に似ています。「こってり」が天下一品の「形式知」であるならば、「あっさり」は、その背後にある「暗黙知」、すなわち、鶏ガラと野菜の旨味を純粋な形で抽出する、職人の高度な技術を試す場なのです。
「あっさり」スープを一口飲むと、そのクリアでありながら奥深い味わいに驚かされます。それは、濃厚なこってりスープの陰に隠れていた、素材本来の持つ繊細な旨味が、研ぎ澄まされた形で露わになる瞬間です。まるで、複雑な数式を解き明かす中で、ふと現れる美しい原理のように。この「あっさり」を味わうことで、初めて私たちは「こってり」スープがなぜあれほどまでに魅力的であるのか、その構造を深く理解できるのです。それは、陰と陽、光と影の京大的対比であり、天下一品の全体像を把握するための重要なステップなのです。
これもまた、一見すると矛盾に満ちた選択に見えるかもしれません。「こってり」のラーメンを避け、「あっさり」を選んだ人間が、デザートではあえて「こってり」を求める。この行為の裏には、私の「京大的幸福論」があります。
天下一品の「こってり杏仁」は、その名前の通り、濃厚でクリーミーなテクスチャーが特徴です。ラーメンの「こってり」とは異なる、乳製品とアーモンドの芳醇な「こってり」さ。これは、私の日常に潜む「小さな用事の負担」を解消し、精神的な満足度を最大化するための、緻密に計算された戦略です。
一つ目の「こってり杏仁」は、ラーメンの後の口直し、つまり「味覚のリセット」です。あっさりスープの余韻を大切にしつつ、舌の表面を甘美なコクで包み込みます。
二つ目は、「精神的な充足」のため。京都での大学生活や日々の研究で感じた、尽きることのない知識欲や探求心を満たすように、二つ目の杏仁は、私の心の隙間を埋めてくれます。この「こってり」な充足感は、私が妻との会話を通じて得た「京大的なるもの」の再確認に他なりません。
そして、三つ目。「京大的る贅沢の極み」です。三つ目の杏仁は、もはや必要性からではなく、「そこにあるから、極められるから」という、純粋な探求心と欲望の充足のために存在します。これは、京大の学問が「役に立つか立たないか」ではなく、「真理を探究することそのもの」に価値を見出す姿勢に通じています。三つ目の杏仁をゆっくりと味わう時間は、私にとって、日々の小さな成功や、妻との対話で得た心の安寧を噛みしめる、至福の瞬間なのです。
私の天下一品での注文方法は、ただの食事の選択を超え、私の人生観を反映しています。
「あっさり」の選択:複雑な世の中の事象(こってり)の裏にある、単純で美しい原理(あっさり)を探求する京大的知的好奇心。
「こってり杏仁3つ」の注文:日常の些細な幸福を、最大限に、体系的に、そして貪欲に享受しようとする、京大的幸福最大化戦略。
天下一品は、私にとって、単なるラーメン屋ではなく、自己の哲学を再確認し、日常のタスクを「京大的なるもの」として再構成する場なのです。ガソリンスタンドへ行くのを避けた私に妻が提案してくれたように、天下一品は、私自身の内なる声に耳を傾け、「あっさり」と「こってり」の絶妙なバランスの中で、日常のストレスを解消し、活力を得るための、一種の「京大的精神修行の場」なのです。
見よう見まねが全く出来ない人間にとって、この世は非常に生きにくい。
と、のっけから主語が大きい増田だが、自分の観測範囲でこのハンデを抱えていて幸せという人には会ったことがないので仕方ない。
見よう見まねが出来ない人間は、あらゆる物事の習得に、普通の人の数倍時間がかかるので、大抵習得出来ないまま終わる。
というのも、人間の諸活動で言語化できる範囲などたかが知れていて、大抵の物事はいちいち言語化されたノウハウやハウツーなど使わずに会得するものだからだ。
そして、そういう「非言語的アプローチ」の核になる知的要素が、見よう見まねと。
最近、暗黙知を形式知にすることの必要性が喧伝されているが、早晩限界に突き当たると自分が考えている理由でもある。
これだけだと何がどうハンデなのかピンと来ない人がいると思うのでもう少し説明すると、見よう見まねで覚える最たる物がスポーツとコミュニケーションだったりする。
こう書くと、見よう見まねが出来ないで大人になることのヤバさが多少は理解できるだろうか。
例えば球技の場合、キャッチボールから始まってバレーのサーブやテニスラケットのスイングまで、最低でも肩・肘・腰・脚の連動が必須で、これらがきちんと噛み合わない限り、絶対に上手くいかない。
しかし普通の人は、自分から言わせればそういう恐ろしく難しい動作を、ほぼ見よう見まねだけで習得してしまうのだから信じられない。
もしこれを自分が習得しようと思ったら指導者がいるのは前提で、更に「今手本を見せるからな、肘見てろよ、絶対だぞ!」とか細かく注意喚起してもらいながらやれば、そのうち出来るようになるかも?という体たらくだ。
というわけで、絶対こんなのより微積の問題とかのほうがまだ簡単じゃんと思ったり。
それでもスポーツは、コミュニケーションに比べれば、コーチングとかが確立している分、まだマシかも知れない。
何しろ、今のところコミュ力アップの方法は、心の広いリア充に色々連れ出してもらったり、或いはヤリチンヤリマンのおこぼれにあずかるのが最も効率良いというか、それくらいしか方法がない。
そうやって洗練された(?)コミュニケーションの渦中に放り込まれて、見よう見まねで悪戦苦闘しかないということだが、自分が最も苦手な方法が最も効率良いとか、全く最悪の状況だ。
やる前から壮絶にコストがかかると容易に予想できるものを、進んでやりたくなるわけがない。
とにかく、そんなわけで人間が生きる上で最も必要な知的能力が欠落したまま育つ結果、出来ることしかやらなかったり、努力というものに強いアレルギーを抱いた挙げ句、色々足りていない大人になると。
かくいう自分は勉強だけは出来たが、それも高校止まりで、気がつけば「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの変人」という流れだった。
かといって、当時もっと勉強を頑張って、後年「俺が高学歴なのは努力の結果だ、今まで遊んできた奴には(ry」などと言い放つのが幸せな人生だったかも大いに疑問。
ま、いずれにせよ自分にとって今までもこれからも、この世は生きにくいのが普通なのだろう。
技術というからには、修得の容易性の観点から、形式知になっていることが前提と思っていたから書いたのだが。
それに何度も反論するけど、形から見よう見まねで体得できる奴は、そもそもコミュニケーションに困難を感じたりしないっての。
この2点だけ取っても、言っていることが非現実的で参考にならない。
あのさ・・・人格が優れている人間が厚遇されるのは当たり前でしょ。それが人というもんじゃねーの?
コミュ力の技術的側面を全否定はしないが、そんな小賢しいやり方なんてバレバレだし、なんか必死過ぎて萎える。
下手にスキルの向上で解決しようとするから、便所紙にもならないような、読む価値ゼロのマニュアル本が蔓延するんだよ。
てか、そんな本に頼っているうちは絶対モテるようにはならないわ。
コミュニケーションのノウハウのうち、形式知にまとめられる部分なんて極めて限定的だから。
個々のテクニックくらいはともかく、それらをTPOや相手の性格に即した活用まで体系化するのは、複雑すぎてまず無理。
少なくとも、そこまで踏み込んでまとめた本や資料なんて、世界中探しても存在しないだろう。
もし存在するというなら見せてみろと言いたい。
最初に断っておくがこれは非モテの人用に書いたものではない。
ただ自分の中での暗黙知を形式知にしたかったのと、他の人に対して何かしら参考になったり、他の人が同様のことを書いてくれればもっと個々人の例に落とし込めるのではと思ったからだ。
俺が何を意識しているかというと、次の3つだ。
自分を客観的に見ることを心がける、と相手を否定しない、そして常に相手の気持ちを考えようとすることだ。
すごく人と付き合う上での本質的なことだと思うけど、はてなでは小手先のこと書いてるやつばっかだし逆に新鮮かもしれない。
・自分を客観的に見ることを心がける。
→これはまず自分のスペックを客観的に見ることと相手と対面している時の自分を客観的に見ることを心がけることに別れる。
自分のスペックを考えてみろ。お前は狙っている子を落とせるほどの経験を積んできているのか?世の中には二つのカテゴリの女の子しかいない。
自分が手を出せるレベルのカテゴリの子と出せないレベルのカテゴリの子だ。
相手と対面している時の自分を客観的に見ろ。キャラに似あわないことやってないか?お前にはお前のキャラが客観的に見たら印象づけられてるんだからそれを無理に無視するな。
・相手を否定しない。
→人と付き合うってのは「自分と違う他人を受け入れる」ことの積み重ねだ。相手は自分とは性別も環境もすべて違う赤の他人。それなのに数少ない自分の経験を持ち出してしたり顔で否定してどうする?
本当に相手に興味があって、自分に対して謙虚なら、相手のする話に当然興味がわくし、遮って自分の話したりしないでもっと引き出すだろ?
相手の話遮ってでも自分の話しちゃったり、とりあえず否定するやつは相手から見たらただの我が身かわいい世間知らず。
こんな言葉の上でのコミュニケーションだけでも苦労してるなら、ちゃんと付き合うなんてもっと「自分と違う他人を受け入れる」の繰り返しなんだから先が思いやられるぞ。
・常に相手の気持ちを考えようとする
→こんなのエスパーでもないんだから普通に無理。でもこれを意識すると相手から自分がどう見えるかわかりだすし、その場において自分がどう振舞うべきかが見えてくる。これをレベルアップするには良質な映画や、小説の登場人物に自分の感情を置き換えて消化してみるとかかな。
相手の気持ちを考えようとすると相手の小さな変化にも気づくことができたり、自己中な自分から抜け出すきっかけにもなっていく。
最後に
恋愛って基本的に個人のスペック(顔や学歴や年収)と実際の経験の積み重ねで総合的なレベルが判断されるモノだと思う。
あと、自分の到達しているレベル付近の子や、それ以下の子しか基本的には無理。
たまに何かの拍子で自分のレベル以上の人と付き合えたらその出会いを大事にして、いろんなことを吸収するのがいいんじゃないかな。
むしろ、文学の危機にあるのは英語です。標準ツール化され、微妙なニュアンスはどんどん失われていきます。NHKアナの標準語だけで小説を書けといわれたら困りますよね。
仕事において、形式知を伝達するためのツールとしての英語はどんどん重要になります。出来る限り勉強はすべきです。ただ、文学的な英語までマスターする必要はないでしょう。シンプルに、過不足なく伝える英語が大事になります。
「日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!」
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081221#p1
これを読んでいて安部公房の事を思い出した。
安部公房は徹底して簡潔な表現で文章を削り込んで小説を書く事にかなりの労力を注いだ作家で、自身の執筆を「消しゴムで書く」などと表現していた。
語彙なども極力簡単なものを使おうと「小学校五年生ぐらいの言葉ですましたい(*1)」と言っているくらいだ。
「ぼくが問題にするのは、〈正確な文章〉だ。複雑なものをどれだけ正確に伝えられるかということ。文章に対しては、いい文章かわるい文章かであって、〈美しい文章〉というのはおかしい。フローベールが六法全書のような文章を書きたいと言ったのはよくわかる。つまり表現の、内容と形式がどこまで一致するか、という問題だ。(*2)」
誤解を恐れずシンプルに言うと、まさに「NHKアナの標準語だけで小説を書」く事を目指していた作家だと思う。
さらに安部公房は徹底した「反伝統」指向の文化論の持ち主で、その辺りの思想も面白いのですが、それについてはまた稿を改めて。
出典
*1「構造主義的な思考形式」(1978.1.16)