
はてなキーワード:強者とは
人気上位は「〇〇(任意の強者社長・伯爵・魔王など)に無理やり迫られる」系のものばかり
フェミが声デカイ・性欲ある女性が黙ってるだけでレイプもののエロ創作が好きな女性はわりといる
というかフェミ系の女って夜職兼ねがちだから自分らだって結局オラついたホストに貢いでたりするんじゃないのかと思う
https://superprofile.bio/tumzootopia2turkce
https://pop.store/fullhdavataratesvekulturkce
増田の主張を「強者男性も弱者男性と同様にセックスを求めていることは問題ではない、弱者男性がセックスを求めていることが問題なのだ、強者男性がセックスを求めているかどうかは関係ない」と否定している人もいるけど、それってズレてる。
元ツイートの内容は、「弱者男性はセックスを求めるな、性欲をなくせ」みたいなことを主張していて、そのうえで、増田が言いたかったことは、「強者男性と弱者男性の違いは、性欲の有無や強弱ではなく、"女性に対しスマートなアプローチができるかどうか"、"女性にとって望ましいスペックがあるかどうか"だけだし、事実として女性は、強者男性の性欲は受け入れることもあるので、女性たちは"男性の性欲"そのものを否定はするな」ということでしょ、多分。
つまり、「男性の性欲そのものを否定はするべきでない、それがフェアだ」という増田の主張に対し、「(強者男性がセックスを求めているかどうかは関係なく、)弱者男性がセックスを求めていることが問題(=弱者男性の性欲が問題)なのだ」と否定するのはズレてる。
増田は、「弱者強者関係なく、男性はみんな性欲があるんだから、そこを否定するべきでない、弱者男性がすべきことは、性欲をなくすことでなく、"女性に対しスマ―トなアプローチができるようになること"と、"女性にとって望ましいスペックを獲得すること"なんだから」と言ってるんだし。
Qiita の文化変質は、技術系コミュニティ全般で起きている知的インフレの縮図みたいなものなんだよね。昔は
みたいに基盤技術を自前で握りつぶした記事が純粋に評価されていた。なぜなら、それを書ける人がそもそも少なく専門性で差別化できていたから。
昔は「Pythonで形態素解析器自作」なんて、アルゴリズム・CS基礎・実装力が揃ってないと無理だった。
難しいことをやってそうに見える記事を、凡人でも量産できるという環境が生まれた。
Qiita を読む層が「実装力を鍛えたいエンジニア → とりあえずAI 触りたいライト層」に変わった。
「再現性のないLLMコピペ」「AIツール使ってみた」みたいなのが評価される。
本気の記事は長く、コードが多く、前提知識も重い。そしてPV が伸びない。
つまりQiita のインセンティブ構造と、高度技術記事のインセンティブ構造がズレた。
理由は明確で、読む側がそれを理解できないので評価する母集団がいない。
昔はユーザ層が技術ガチ勢寄りだったので、少数でも濃い支持があった。
今はライト層が母集団なので、希少な高度記事が埋もれるのは自然。
Qiita がライト層に最適化した結果、本気の人たちは別の場所へ移動した。
駅のホームで奥様方が「最近タトゥー入ってる人(特に外国人)が多い」「怖いわよね」「嫌よねぇ〜」というような話をしていて、60代前後という世代もあるんだろうが、都内に住んでてタトゥーってそんなに珍しい&怖いもんなのか〜と意外だった
ガッツリ和彫り入ってるとか、腕から首までびっしり彫ってて顔面にもピアスみたいな感じなら危ない界隈の人か…?と警戒もするけれども、なんか思い入れがある絵柄やイニシャルなんだろうなというのを見ると、怖いというよりはこだわりがある人なんだなと思うし、人間らしくていいじゃんと思う
これまで見たタトゥーの中ではふくよかな猫(おそらく飼い猫)の絵を入れてる女性にほのぼのした
猫とずっと一緒にいたいんだろうな
自分は高校まで地方だったんだけど、もしかしたらヤンキー文化が割合身近だったから、そのせいでむしろいろんな人がいるはずの東京よりもタトゥーに対する心理的な敷居みたいなものが低いのかもしれない
通っていた高校は比較的治安が良かったが、中学(当然公立)までの同級生にはヤンキーがゴロゴロいるしバイト先の先輩もヤンキーだったりして、タトゥーが入ってる人間もそこそこ身近にいた
本当にヤバいヤンキーは普通の高校生が近づかない水商売界隈にいるため、ファミレスでバイトとかしてるような人たちっていうのはヤンキーなりに真面目で治安が良かった
肩にちょうちょ入れてるギャルとか腕にロックっぽい柄入れてる眉毛ない先輩とかいたなあ
ピアス拡張するのを度胸だと思ってるのか耳たぶがビロビロになってるチャラ男とか、金がないから自分で針と墨汁で彫ったという強者もいた
そんな刹那的に生きてた連中が十年もすれば結婚してそれなりに真面目に働いてたりするんだから不思議なものだ
そうか、今これ書いてて思ったけど、小金持ってそうなあのおばさま達は、そういう「地方のダサいヤンキー文化的なもの」としてタトゥーを嫌がってたのかもしれないな
自分はタトゥーは入れてないけれども、健康リスクがほぼないインクとかができたら入れたいくらいの興味はある
肉体なんていうのは、見方を変えれば精々80年で原型とどめなくなり、死んだら焼かれる物質にすぎないわけなんだから、別に後生大事にすることもない
タイトルが強い言葉になってしまって恐縮ではあるが、現実的に障害者にマッチングアプリは厳しい。
筆者は男なので女性の場合は不明で申し訳ないが、少なくとも男性の場合はそうだと思う。
マッチングアプリを始めた経緯:
歳も歳であるし前々から結婚したいと思っていたが、直近で好意を寄せていた女性に振られた。
そこで漸く結婚相談所に入る決心をつけたが、私的な事情により今年中は入ることができないため、お試しで一ヶ月やってみることにした。
無論遊び目的ではないし、彼女ができたのであれば真剣に付き合うつもりではあった。
利用したアプリ:
with
著者のスペック:
性別: 男
年齢: 32
学歴: 旧帝院卒
年収: 800万円
身長: 160cm
体型:スリム
顔: チー牛の系統だが最低限の毎日のスキンケアや眉毛サロン等は済
活動内容:
自分のスペックは身長・病気・実家暮らしの部分で他の男性会員と比較して劣後しているため、選ばれにくい状況ではあると推測。
競合の少ない(=いいねの少ない)女性会員を中心にいいねとメッセージ付きいいね(ポイントにも限りがある為、こちらは特に好みの女性に絞って)を送信、巡回して足跡付け。
検索した際の女性の条件は27〜35歳、近辺の都道府県、子供なし、タバコ吸わない。
結果:
マッチ0。
調べたところによると足跡の平均は筆者の地域×男性で40程度であるし、確かに他の同性会員より多めとアプリ上で表記がなされている。
プロフィールを盛ることも一瞬考えたが、筆者は嘘をつけない性分な為にせず、自己紹介文や写真も色々変えてみたがすべて空振り。
彼女は過去3人おり、それ故コミュ力はそれほど悪くないと自負していたが、そこまでのメッセージのやり取りできる土俵にすら立てなかった。
雑多な感想:
マッチングアプリはハイスペ恋愛強者のためにあるというのはどうやら正しいらしい。
結婚するだけなら結婚相談所に行ったほうが近道ではあるのだろう。
ここまで辛辣に書いてきたが、逆に良い面もあった。
女性の検索条件を設定する上で、自分がお相手に対して本当に求めていることを見出すことができたし、プロフィールを表現する中で自分でも気づきは多く、また男女問わず友人たちにアドバイスをいただき、自己を客観視することができた。
自己認知を行うことができるという点では素晴らしい物であると思う。
さぁ〜頑張ろ(笑)
すべての者に幸あれ…!
【追記】
建設的なご意見いただいた皆様ありがとうございます。
女性には選ぶ権利があり、相手の素性や内面も分からない、殊マッチングアプリではリスクがある人を避けるのは自然な行動かと自分も思います。
タイトルは注目を引いて様々な意見を頂戴するために粗暴な言葉を使用しましたが、内容はすべて事実です。
個人的には障害者が恋愛をするならリアルな世界で行うのが一番だと思った次第でございます。
Permalink |記事への反応(14) | 23:09
弱者論を語るつもりが、自己放尿を垂れ流していることに気づいてない時点でロジック以前の問題である。
「弱者には権利がない」と言い切った瞬間に、その主張は社会契約も実証データも歴史的事実も全部無視している。
要するに、構造を知らないまま俺ルールを宇宙の法則みたいに語ってるだけ。
弱者がプライド高い?それは弱者の問題ではなく、援助する側が勝手に理想化した扱いやすい弱者像に従って動けと言っているだけ。
拒否された瞬間に逆ギレしている時点で、手を差し伸べたのではなく、自分の優越感のために介入しただけだと証明している。
さらに致命的なのは「弱者には断る権利がない」と断言しながら、それを当然だろ?みたいな顔で出してくる自己放尿。これ、倫理以前に支配欲の放尿なんだよ。
本当に強者側に立ってる人間は、弱者が断ろうが無視しようが、そもそもそれを自分のアイデンティティの危機として受け取らない。
拒絶されたらどうしようもない?
それは弱者の問題じゃない。貴様が持っていくべきオプションを用意できなかった、ただそれだけだ。
なんであの人って詐欺の広告塔に使われてるの?と思った時に読む話
思えば無職だった頃、やる気だけはあったから「ものすごく働けるはずの自分を雇わないのは世の中がおかしいからだ」と割と本気で思っていた。
就職してからも、「ここをこうしてあれをこうすればもっと効率は良くなるのに、経営幹部も案外いい加減だな」と、やはり本気でそう思っていた。
今になって思うと、まあ実際どっちも正しいのかもしれないが、ひとつだけ間違っていたのは「仕事の能力だけが全てじゃない」って事だ。
仕事というのは金を稼ぐための手段でしかなく、その金もある程度手に入れてしまうと仕事は単なる暇つぶしになってしまう。
「世の中がおかしい」のは自分が優秀だからで、「経営幹部がいい加減」なのも自分が優秀だからだ。少なくとも、お金を稼ぐという点においては指標が明確だ。
自分の人生の帰結を、世の中だとか、会社だとか、上司や同僚のせいにしなくてもいい。なぜなら自分こそが勝者で、強者なのだから。
最近の若者は、仕事は少ないのに給料は多い、甘やかされていると氷河期世代は言うが、それは逆だろう。
滅私奉公、苦労は買ってでもしろ、石の上にも三年…残ったのは半分の給料で二倍の仕事をこなしていた後悔だけだ。
「仕事が出来る」なんて何の意味もない。そうやって会社が仕事の出来ない奴ばかりになった時、真っ先に逃げられる奴が最優秀だ。
孤独ではなく、人脈があること
今に満足せず、常に自己啓発し続けること
そうしないと悲惨な末路が待っているらしいけど、実際はどうなんや?
本当にそうなんか?何か違う気がするんやけど?
誰か教えてくれ〜
別に俺はアンフェじゃない。むしろ、日本のジェンダーギャップ指数が低いことには危機感を持っている。
でも、その解決策として大学入試に「女子枠」を作るのは最悪手だ。
あれはアファーマティブ・アクションなんて高尚なもんじゃない。
この国が18年間、女の子に「理系なんて似合わない」という呪いをかけ続けてきた責任を、たまたまその年に受験する18歳の男子学生と将来18歳になるいまの未成年男子たちに全部押し付ける行為だからだ。
左派やリベラルを自認する人たちにこそ、この制度のグロテスクさに気づいてほしい。
本来、理工系に女子が少ないのは、大学入試のせいじゃない。もっと手前だ。
幼少期からの女の子は愛嬌、理系はオタクっぽいという刷り込み、ロールモデルの欠如、長時間労働が前提で女性が働きにくい研究職の現場。これら社会全体の構造的欠陥が原因だろ?
本来なら、政府や大人が数十年かけて労働環境を変え、教育を変え、女子が自然と理系を目指せる土壌を作るべきだった。
だから彼らは手抜きをしたんだよ。
根本的な社会改革をサボり、入試の定員という一番いじりやすい数字だけを操作して、「ほら、多様性達成しました」とドヤ顔をする。
これはやってる感を出すための行政のアリバイ作りであり、企業のSDGsアピールと同じだ。
その手抜きのツケを払わされているのは誰だ?
政治家でも大学教授でもない。これから社会に出ようとしている、罪のない未成年男子たちだ。
さらにタチが悪いのが、この制度が「経済格差」を無視している点だ。
想像してみてほしい。
都内の裕福な家庭に生まれ、中高一貫の女子校で手厚い教育を受け、塾にも通えた女子学生。
地方の貧困家庭に生まれ、バイトしながら国公立を目指す男子学生。
女子枠という制度下では、前者が「弱者」として優遇され、後者が「強者」として割を食う可能性がある。
これはリベラルが最も嫌うべき「生まれによる固定化」の助長じゃないのか?
女性であるという属性一つで、個々の経済的背景や努力のプロセスを無視して下駄を履かせるのは、平等の実現どころか、新たな特権階級の創出にすぎない。
女子比率を上げれば偏差値の見栄えがいい、補助金が取りやすい、ダイバーシティランキングが上がる。
そこに学生への教育的配慮はない。あるのは大学経営と、世間体のための数字合わせだけだ。
本当に女子学生を増やしたいなら、女子枠なんて安易な劇薬じゃなく、大学卒業後のキャリアパスを保証するとか、研究職の給与を上げるとか、そういう出口改革をするのが筋だろ。
出口が泥沼のまま入り口だけ広げても、不幸な人を増やすだけだ。
最後に、これから受験を迎える男子、そして将来受験する男の子たちへ。
君たちが枠を奪われるのは、君たちの能力が不足しているからでも、君たちが「男性という加害者」だからでもない。
単に、この国の大人が社会構造を変える努力を放棄して、そのコストを君たちに転嫁したからだ。
この理不尽を差別是正という美辞麗句でラッピングして正当化する大人たちを、俺は軽蔑する。
真の左派なら、真のリベラルなら、子供に責任を押し付けるこの「偽りの平等」にこそ、NOを突きつけるべきじゃないのか。
Permalink |記事への反応(34) | 18:49
少なくとも『果てしなきスカーレット』と『国宝』なら、脚本が酷いのは圧倒的に『国宝』の方だと思ったが。奥寺佐渡子がかつて細田守作品の脚本を担当していたという事で、奥寺に戻ってもらうべきだと語る人が多かった。世の中には商業的に成功さえすれば内容も素晴らしいものだと思い込む人が如何に多い事か。
『国宝』の何が酷いって、主人公を捨てて歌舞伎役者の跡取りのボンボンと駆け落ちしたクソ女が、ボンボンとの間に男児を産み奥方に収まって胸糞悪すぎるNTR展開。
主人公との間に娘を産んだバカ女とそのバカ娘も、最後に物語を締めるという美味しい所を持って行って終わり。それまでの歌舞伎に纏わる悲喜こもごもは一体何だったと言わんばかりの子孫繁栄万歳、妊娠出産が大正義エンドである。
しかもこんだけクソ女どもの大勝利エンドなのに、フェミニスト達からは何故か男尊女卑で女性の扱いが酷いという明後日の理由で叩かれてるから意味不明。
はあ?なんでだよ?何の努力もなく強者男性に股を開いて子供を産みさえすれば安泰で、実に恵まれてるじゃん。
それに対して『果てしなきスカーレット』の方は主人公の父から主人公の母を寝取った主人公の叔父も、夫を捨てた主人公の母も地位を追われるオチなので
女どころか男にすら人間関係から除外されてるから、「こんなイケメンなら初対面や親しくない女を襲っても受け入れられる」みたいな関係性抜きの見た目の話に偏り、女が最も気にする他者や社会からの評価という視点が常に欠けてるんだよな
なので女なんて自分のパートナーと息子ちゃん以外の男は全てフラットな路傍の石レベルの存在であり、初対面や知らない異性でシコったり買ったり盗撮痴漢など性加害して射精するのは男だけなのを認められないだけ
そういう性差が理解できないから、いい年した童貞おじさんが「女はジャニーズやイケメンに襲われたら受け入れるし擁護する」みたいな妄言を撒き散らして恥をかいてたわけだ
男が自分のスペックより上の女を手に入れるのは学校や職場等での自由恋愛しかないわけよ
ブサでも低身長でも「周りに好かれてる人、信頼されてる人」という評価を得られればそれだけで恋愛や結婚に持ち込める
しかしそんな協調性や能力があったらこんなとこで暴れてないからな
https://anond.hatelabo.jp/20250825103147
自由恋愛不可能な発達障害アスペ男性が、初対面や親しくない相手に「この技を使えば都合がいい女が一発で手に入る」という詐欺を鵜呑みにする 「恋愛工学」の被害女性が増えてる ...
交渉術の本とかでも信頼要素無視するやつも多いんよな。 まあ複雑で難しい要素を排して簡単な法則で語る方が受けるんだろうけど
一緒に体動かすとか
その中で、気が利く・優しい人柄ってにじみ出てくるものだし。
それに似てるっちゃ似てる。
市民ミュージカルやったことないけど、共同作業で複数の物を作り上げると一体感が出て交際に繋がりやすいってのはわからんでもない
ネットでバラバラの意見を主張してる人らに「くっつけばいい」と主張するのは男しか見たことない
女は自由恋愛でコミュ力や評価を確認し、好感を持てる言動、関係性が発生してからようやく「この男と結ばれたい」とスイッチが入る
@
自分がやからしたから分かるけど、非モテは女子にアプローチしてる時に距離感が測れてないことが多いと思うのだ
@
学校や勤務先でも選り好みして、級友や同僚上司に日常の挨拶もろくにしないくせに、たまに好みの子がいると距離感なく入り込んで嫌がられる、「人間関係の車間距離がわからない人」も多いかと。付き合わないか結婚かの極端な選別しかしてない、出来ない。
https://anond.hatelabo.jp/20250923103250
結婚や恋愛における、長年の知り合いの低スペや中スペが初対面のハイスペイケメンより優位な理由が言語化されていた
https://anond.hatelabo.jp/20250822105151
婚活やナンパよりも自由恋愛補正の方が低スペック男が上物女とマッチングできる
https://anond.hatelabo.jp/20250927102157
そういう人もいるかもしれんけど、個人的には守ってあげたい的なのは感じたことないなあ
そういう理由で共感してるような弱者男性は、守りたいとか思えるほど自分側が強くないからなあ
懸念としては、実は不登校だったけど自分で勉強して東大受かったんですよ的なひっくり返すような強者属性が明らかになった時の反転が怖いと思う
ホイ卒には難しい映画であった。42点。
イェール大学とかいう名前だけはやたら聞いたことがあるおそらくおハイソな大学で巻き起こるレイプ疑惑を軸とした「正しさ」の物語。
ジュリア・ロバーツは哲学科の教授でテニュア目前、同じく教授のハンクとは良きライバルであり同僚であり友人であり不倫相手。しかしある日、自分の生徒である黒人女のマギーがハンクを不同意性交で告発!しかし、ハンクもマギーも信用に足る相手ではなく、また自分自身もそうであることを思い出し苦悩するジュリア。いろいろあって過去の罪と向き合ったジュリアは幸せになったらしいよ……カット!という映画。
とにかくさぁ、出てくる会話がハイソサエティすぎて保育園卒の俺には全く理解できんのよ。
ジュリアが哲学科の講義で語る哲学的議論が明らかに展開に作用しているのは理解できるんだけどどういう意味かはまったく分からん。あなたは悪としての第三者を仮定しているけどその仮定自体が一方的なお前の思い込みに過ぎないではないか!的なことをアジア系の学生に詰めた後に、同じくマギーに対して一方的な思い込みで詰問(ほぼ誹謗中傷)し殴られるシーンとか象徴的だったけどさ。
これに限らず作中では「いやお前が言うんかい」みたいなところがいっぱい出てきてクラクラする。
例えば冒頭でテニュアを目指すジュリアに対してKYDKが「でも時流的にイケるでしょ。今は危ないのは白人シス男性だし」とか言い出してジュリアは冷静にブチ切れて「被害者意識だけ達者」「実力で選ばれたと思えないのはかわいそう」だの散々詰問したりする。
しかしのちにジュリアは学校の処方箋をパクって薬を調達していたことがバレてそれを口実にテニュアの承認を無期限延期されてしまう。特権階級を使ってズルしたのを咎められるわけ。
男女同権的に先進的でイケてる男を演出していたハンクもいざ訴えられたらなんかこうセコセコセコセコ余裕なさげにオーバーリアクションで「相手から誘ってきたからさぁ!」とか言い出して情けないし、後にジュリアを押し倒そうとして拒否される。お前もさぁ。お高く留まった学者センセイがチンポに脳を乗っ取られるの悔しくないわけ?
レイプ被害者を自認するマギーはマギーで無駄に挑発的で論文もパクりだし親は金持ちで寄付金ランカー。そしておそらくマギーがハンクを誘ったのは事実なんだよね。マギーはジュリアに強いあこがれを持っており、さらにおそらくヘテロ。事件の直前にジュリアが過去に合意の関係だった相手にレイプをでっち上げた記事を発見し自身に取り込んでいる。そしてジュリアが自分の味方にならず、敵になったと確信した瞬間にその罪をマス・コミに告発してしまう。
しかし本当には何があったかわからないまま、つまりマギーから誘ったのか、ハンクが押し倒したのかはわからないまま、時は5年後に進みジュリアは学部長に、ハンクはコンサルにマギーは婚約者と幸せにしていることが分かり「力になれなくてスマンゴ」「一緒に破滅して同一化したかったが間違っていたゴメンゴ」と謝罪し合ってエンド。と同時にカットがかかって映画は終わる。
「こんな幸せな結末、物語の中だけですよ」という強い警鐘なんだろうけどとはいえ、何が起こったのかようわからんからなぁって感じ。ハンクの側に立てばカラードでジェンダーマイノリティの女性という圧倒的社会強者に踏みつぶされた身体的強者の物語だし、マギーの側に立てばジュリアへの恋慕を邪魔されたジェンダーマイノリティの復讐譚だし、ジュリアの側に立てば友人(不倫相手)と生徒(社会的弱者)の間に挟まれた上に過去に襲われるトラウマストーリーだし。もう頭おかしくなっちゃう!!!
ジュリアが15歳の時にパパの友人に恋してエッチしちゃうも、そのうち捨てられてブチ切れてレイプをでっちあげ彼は破滅。その後罪を告白するも社会的立場を失った彼は自殺する。というトラウマを抱えているのだけれど、これも仮に両思いだったとしても今の基準で言えば十分にレイプだよね。夫である医師も「だとしても彼は絶対に拒絶すべきだった」って言ってたけど、ワイトもそう思います。
旧人類として性的暴行を性的暴行と捉えられずに、しかし嘘として性的暴行を武器に使った女ジュリアと、新人類として(おそらく)合意の上であっても立場が圧倒的に上の男性との性行為を、しかし嘘として性的暴行として武器として使った女マギーの対比は何となく感じたかな。
Xで周りの男のことはランチョンマット使ってないから俺も使いたくないという息子に対して不衛生なことをするな、ランチョンマットを使えと怒った母親に対して「チー牛の英才教育だ」というコメントがついていた
意味がわからなくて色々な意見を見ると、周りの男の子は親の言うことを聞いて一人だけランチョンマットを使うその子を馬鹿にしていじめるだろう、その結果周りの女子も含めてその子はバカにされ続けてチー牛になるだろうということらしい
チー牛の成り立ちは色々なんだろうけど、幼少期のいじめっ子が原因のことがまあまああるんだろうな。だから自分の経験に照らし合わせて「ああこんなことしてたらいじめられてチー牛になるぞ」と実感できる人がまあまあいるんだな
男にいじめられてチー牛になった人が大人になって男嫌いになるわけではなく、モテなかったことのほうに恨みを抱いて女体好きの女嫌いになることがままあるの物悲しい
「女はバカだ、女は敵だ」って男同士で共感しあうのは楽しいかもしれないけど、チー牛になったきっかけは男なのにそれを忘れてしまうのか、それとも大人になってもいじめっこたちのような強者男性には匿名の場ですら言い返すこともできないで全面降伏してしまうのか
最近、アンサイクロペディアの浸食という記事を見た。
https://anond.hatelabo.jp/20251123124205
かつてのMirahezeのスチュワードで、ウソペディアの代表的管理者であった開拓者さんが、アンサイクロペディアと知木ペディアで生成AIを駆使して侵略行為を行っているという告発文らしい。
確かに現在の開拓者=ノイマン氏の行為は擁護できないところはある。だが、かつてウソペディアで、また私が個人で創設したMirahezeのウィキで、開拓者さんにお世話になった立場として、あの記事及び最近の反ノイマン氏旋風には異論を唱えたい。
まず最初に引用したいのは、以下の三焦全欠損症氏の指摘に対してである。
根っこは人を見ていない、愛していないという一点において、私は彼の人と違いが認識できない。
このように開拓者さんをアンサイクロペディアの鉄槌を引き起こした本人であるMuttley氏と同一視することには、断固として抗議する。
開拓者さんはウソペディアにおいて氏のLTA性を見抜き警鐘を鳴らした張本人であり、Bakaba氏と名乗って活動していたChakuwikiにおいてはMuttley氏を追い詰めた張本人である。
開拓者さんは誰よりもMuttley氏を理解し、誰よりもMuttley氏に対して正確な対策を打ち出した人物であり、それをMuttley氏と同類扱いするには、失礼にも程がある。
開拓者さんは実際にウソペディアの第一回人気投票では紛れもない一位であった。私も開拓者さんのことが大好きだった。それは他ならぬ開拓者さんに「愛があった」からに他ならない。彼は勇者プクリンや未来切手のような問題のあるユーザーにも、最大限対話と理解を試みる賢君だった。
どんなユーザーにも最大限の愛をもって接する方であり、愛がないという批判は的はずれにもほどがある。かつてのウソペディアンとしてこれだけは証言したい。
そんな開拓者さんとの思い出がある私でも、確かに最近のノイマン氏の行動には疑問を抱く。
強者の論理をあたかも自覚的に使用しているかのように自分で書き、自らへの風刺をも称える「寛容な人物」を演じ、自らのトークページを荒らした人物に対しても「まだ愛している」と言ってのける。
そこには、かつての開拓者さんにあった「人間味」や「温かさ」はなく、ただ「論理的な正しさ」と「表現技法としてのユーモア」だけが開拓者さんの殻を被って先走っているように見えてならない。
私には、開拓者さんは何らかの理由があって、わざと「人間をやめようとしている」と思えてならない。
開拓者さんを壊したのは「技術によって愛する人物を超える何か」を作り出してしまったことによる深い絶望なのではないか。
件の三焦全欠損症氏にノイマン氏が行った返信には、その事への自覚と、もう戻れなくなってしまった悲痛さが滲み出ているように思えてならない。
ヒトの機能=能力・出力内容は愛せても、中身はきちんと愛せていないのかもしれません。だからこそ「人間より美しいなら人工彼女でいい」という判断にもなる、という面もあるのは確かにそうなのです。
かつての開拓者さんは、自作記事でこのように語る人物であった。冷笑気味ながら、そこには確かな愛があった。
でも、いざ想いが届けば届いたで、やがて幻滅します。届かなくても、何だかんだでつながっていられるSNS時代には…
実際に開拓者さんとはDiscordなどのコミュニケーションを通じて親密な関係を築いていた筆者は、何かのご縁でその人物の画像を見せていただいたことがある。それは確かに該当記事で「途方もなく…青天井すら突き抜けるぐらいに可愛い子」と記述されるのも納得の行くものであり、開拓者さんが大切に秘める思いであるのも理解はできるものだった。
その後の詳しい経緯は深くは知らない。
ただ、開拓者さんはウソペディアを離れてからの一時期、女装や自らのカコジョ化にハマったらしく、今ノイマン氏が人工彼女と呼んでいるものも、どうやらその「自分自身」がベースであるらしい。
そして私も拝見したが、その美しさは、確かに「圧倒的」であり、それが故に私だったらむしろ「選ばない」ものである。
だが、開拓者さんは以前、自らの恋人について私に対してこのように語っていたものである。
仮に彼女を探すなら、あの子よりも美しく聡明でなければならない
あの子未満で妥協するのは、それこそあの子へのリスペクトを欠いていると思うんだ
それが人間の中で探すにはいかに難題であったかは、開拓者さん自身が誰よりも熟知していたはずである。
だからこそ、開拓者さんはそのような存在を具現化できてしまった以上は「論理的に」人工彼女を「選ぶしかなくなった」のだと私は推測する。
「正しさ」を自分で実現させてしまえる能力にほかならなかった。
筆者はその状況に置かれたことがないので想像しかできないが、そこには「幸せの青い鳥」とパラレルな、しかし幸福よりも深い絶望をもたらすものがあったのではないか。
そしてそれが彼を壊し、正論とユーモア技巧だけ振りかざすAIのような存在へと変質させてしまったのではないか。
「そうであっても周囲に絶望を押し付けるな」というのもまた「正しさ」である。
だが、筆者には、そう思うと、一片ばかりの同情だけは禁じ得ないのである。