
はてなキーワード:強化人間とは
機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、
かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクターの創作にある。
この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、
アニメーション作品におけるリアリズムの概念を根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである。
富野は従来のロボットアニメが依拠していた「勧善懲悪」の物語構造を意図的に破綻させ、
善悪の境界が曖昧な世界で苦悩する思春期の少年を主人公に据えることで、
カミーユというキャラクターの革新性は、その精神的脆弱性と感受性の異常な鋭さが、
決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。
従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有の心理的現実を容赦なく暴き出している。
キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。
それこそが現実の人間の内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。
彼の精神的不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである。
彼の鋭敏すぎる感受性は戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、
フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、
これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判的視点を提示している。
富野の文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。
後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。
単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である。
富野は意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユを設計することで、
この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。
カミーユ・ビダンという一人のキャラクターの内面描写を通じて、
商業的エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。
同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。
カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、
1980年代という時代の若者が抱える実存的不安の象徴として機能している。
彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、
高度成長期の終焉とバブル経済への移行期という歴史的文脈において、
将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。
「心理的リアリズム」という新たな表現領域を開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである。
娯楽性と芸術性を両立させながら、
『機動戦士Zガンダム』が「駄作」と評されることがある主な理由は、前作(初代ガンダム)からの大きな作風の変化と、複雑すぎるストーリー展開、そして主人公カミーユの結末にあります。
ただし、『Zガンダム』は非常に評価が高く、「最高傑作」と呼ぶファンも多い作品であり、「駄作」という評価はあくまで一部の視聴者、特に初代からのファン層で根強い意見です。評価が分かれる主要な点を以下にまとめます。
地球連邦軍、エゥーゴ、ティターンズ、アクシズ(ネオ・ジオン)、カラバなどが入り乱れており、それぞれの思惑や裏切り、寝返りが頻繁に起こるため、物語の全体像や勢力図が非常に分かりにくいという声が多くあります。
主人公のカミーユ・ビダンが、積極的に戦況を動かすというよりは、事件や戦いに巻き込まれていくという形で物語が進むため、「カミーユの視点」から見て話が掴みにくいと感じる視聴者もいます。
初代ガンダムのような「少年兵が戦場を生き抜く」というシンプルな戦争のリアリティから、より政治的な権力闘争やエスパー的なニュータイプ論に焦点が移ったことで、初期のファンが期待したドラマと異なる印象を与えました。
物語のクライマックスで、主人公のカミーユが精神崩壊に至るという衝撃的な、しかし救いのない結末を迎えます。多くの主要人物も戦死し、全体的に悲劇的なトーンで終わるため、「見ていてつらい」「後味が悪い」と感じる人がいます。
カミーユは初期にすぐにキレる描写が多く、「感受性が高すぎる」「未熟すぎる」と感じられ、アムロのような共感を持ちにくいという意見がありました。
多数のデザイナーが参加し、変形機構を持つ機体(Zガンダム、アッシマー、ガブスレイなど)が増えたことで、見た目だけで機体の所属陣営が判断しづらくなり、戦闘シーンの分かりやすさが失われたと感じるファンもいます。
カミーユが未熟な少年から戦士へと成長し、その過程で多くの葛藤や苦悩を抱える人間ドラマの深さが高く評価されています。また、クワトロ・バジーナ(シャア)やアムロ・レイなどの旧作キャラクターの再登場と新たな役割、フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった悲劇的な強化人間の描写も、物語に深みを与えています。
「反連邦組織(エゥーゴ)と連邦内のエリート組織(ティターンズ)の戦い」という、初代よりも進んだ政治的・軍事的な対立構造を描き、その後のガンダムシリーズの基盤を作りました。
モビルスーツデザインや戦闘描写は、当時のアニメーション技術を駆使しており、画期的なものでした。
このように、『Zガンダム』は革新性と複雑性を追求した結果、前作の作風を愛するファンの一部からは受け入れられず「駄作」と評価されることもありますが、その深みのある人間ドラマと複雑な群像劇によって、現在ではガンダムシリーズを代表する名作として広く認識されています。
アマテは、学校にジュニアMSやホモアビスの大会の「準」優勝者が現れるなどして、「移動の自由」を両親から奪われ、焼け太りするサイド6の役人になるレールが敷かれてきたことを悟るエピソードがなければならなかった。
アマテが、機能安全に頼るコロニーの脆弱さに我慢がならない自分に気づくこと、そうした危険が「自由であること」と釣り合うように選べなければならない……と感じている自分に気づくことが、ニャアンとの出会いをもたらすのでなければならなかった。
ニャアンは、「ブツの運び屋」だけでなく、中古MS整備工場での下働きにより、整備士としての技能を身に着けようと必死でなければならず、それはシュウジの赤いガンダムを整備するためでなければならなかった。
アマテは整備の重要性を知らないまま、「エース気取り」であることをニャアンに非難されなければならず、実際にカネバンの整備不良で酷い目に遭わなければならなかった。そしてその結果、ニャアンがジークアクスと赤いガンダムの両方を整備するようになる……のでなければいけなかった。
航続距離の長い船……特に大気圏降下能力のある船が、民間で入手できてはならないため、二人の入手目標は(とりあえず)バンチ間を移動できる程度のボロ船でなければならなかった。それもネットで買えてはならず、入手寸前までいったのはニャアンの尽力(移民人脈)によるのでなければならなかった。
アマテの中で膨れ上がる「外」への飢えが、ニャアンだけでなく、エグザベ、シャリア、ソドンのクルー等との会話に現れていなければならなかった。(出身コロニーや木星について質問攻めにするなど)
アマテはかなり早い時点でシャリアに出会っていなければならず、その際に正体を看過していなければならなかった。(シャリア・ブルは非公表かもしれないが有名人ではあるはず)
超大型可変MSは、NTでも強化人間でもない優秀な搭乗員(複数名)によって運用されなければならず、キシリアへ迫る脅威に緩む要素がないことを見せなければならなかった。
シャリア・ブルのキケロガは、超大型可変MSに対しコロニー内で活躍してはならず、これによりジークアクスに示唆や助言を与えねばならず、ソドンは自力航行できなくなるほど痛めつけられねばならなかった。(キケロガで牽引するなどしてコロニー内から退場)
超大型可変MSは、単騎で多数の砲門を有すために投入されたこと、しかし個々の砲門の火力は制限されていることを、明瞭にしなければならなかった。そして、ジークアクス&赤いガンダムによってキシリアから引き離され、劣勢となった時点で、コクピット(頭部)を分離し、コロニーの壁に(別動隊の爆破工作で)空けた小穴から脱出するなどして、正規部隊の丁寧な作戦であったことを見せなければならなかった。
この戦闘の結果、シャリア・ブルの評価は下がらなければならず、それにより、若い世代である三人の活躍を引き立てなければならなかった。
ゼクノバをはじめとする地球~月圏に脅威が迫るレベルの超自然的諸エピソードは、アマテやニャアンの力が及ぶスケールと合わず、無理に絡ませると不自然になるから、入れるべきではなかった。
シャアの再登場エピソードは、シュウジの出自や(それまでの)行動の理由を明らかにするものでなければならず、同時にシャリア・ブルを失望させるものでなければならかった。
ララアが洞察力のせいで自ら動かない選択をしているのであっても、アマテは否定する姿勢を見せなければならず、またその結果としてジークアクスを降り、ニャアンと共にいることを選ぶ結末でなければならなかった。
アムロ・レイ:主人公。一年戦争を通してニュータイプ能力に目覚め、最終決戦ではララァの感応波をキャッチし、シャアと共闘するなど、その素質を開花させました。
シャア・アズナブル: 敵でありながらアムロに匹敵する感応能力を持ち、ニュータイプとしての片鱗を見せます。
ララァ・スン:シャアが見出した少女。非常に高いニュータイプ能力を持ち、アムロと感応し合いました。
マ・クベ: 独特の美的センスと勘の良さから、ニュータイプ的な感応能力を持っていた可能性が示唆されています。
カミーユ・ビダン:主人公。非常に強いニュータイプ能力を持ち、他者の思念を強く感じ取ることができます。物語終盤には精神が崩壊するほどの感応を見せました。
クワトロ・バジーナ(シャア・アズナブル):一年戦争を経て、よりニュータイプ能力を高めています。
フォウ・ムラサメ:人為的にニュータイプ能力を引き出された強化人間ですが、その能力は生粋のニュータイプと遜色ありません。
ロザミア・バダム: フォウと同じく強化人間で、ニュータイプ能力を持っています。
パプテマス・シロッコ:非凡な洞察力と人心掌握術を持ち、ニュータイプ特有の勘の良さや空間認識能力に長けているとされます。
ハマーン・カーン: 優れた洞察力とカリスマ性、モビルスーツの操縦技術を持ち、ニュータイプ的な素質があると言われています。
ジュドー・アーシタ:主人公。非常に高いニュータイプ能力を持ち、特に精神的な感応力に優れています。
ルー・ルカ:ジュドーほどではないものの、ニュータイプとしての素質を持ち、感応能力を発揮します。
エルピー・プル:人為的に生み出されたクローンニュータイプ。高い感応能力を持ちます。
プルツー: プルのクローンで、より高いニュータイプ能力と戦闘能力を持っています。
グレミー・トト:ニュータイプ部隊を率い、彼自身もニュータイプとしての能力を開花させます。
アムロ・レイ: 長年の経験により、そのニュータイプ能力はより洗練されています。
シャア・アズナブル:アムロに匹敵する、あるいはそれ以上のニュータイプ能力を持っています。
クェス・パラヤ: 生まれつき非常に高いニュータイプ能力を持っており、感受性が強く周囲の思念に敏感です。
ハサウェイ・ノア: 微弱ながらニュータイプとしての素質が描かれます。
バナージ・リンクス:主人公。サイコフレームとの共鳴によって、高いニュータイプ能力を発揮します。
ミネバ・ラオ・ザビ: 微弱ながらニュータイプ的な感応能力や洞察力を持っています。
マリーダ・クルス(プルトゥエルブ): プルのクローンであり、強化人間。高いニュータイプ能力を持ちます。
リディ・マーセナス:ニュータイプとしての素質が覚醒し、サイコフレームと共鳴します。
アンジェロ・ザウパー:強化人間であり、強いニュータイプ能力を持っています。
シーブック・アノー:主人公。バイオコンピュータとの連携や、特定の状況下でニュータイプ的な感応を見せます。
セシリー・フェアチャイルド(ベラ・ロナ):シーブックとの感応や、ニュータイプ的な能力を発揮します。
ウッソ・エヴィン:主人公。幼いながらも非常に高い空間認識能力と直感力を持ち、ニュータイプ的な才能を開花させます。
シャクティ・カリン: ウッソと感応し、その存在は物語の重要な鍵となります。
カテジナ・ルース: 敵側でニュータイプ的な覚醒を遂げ、ウッソを苦しめます。
何がむかつくってシャアはカスだから未遂や未来の罪で裁判もなく私刑で殺してOKという一方で
それを放逐するのはシャアの善性に頼り切りじゃねーかというダブスタだよ
「妹は一年戦争の英雄である長子の私が邪魔で暗殺しようとしました」とマスコミにでも垂れ込むだけで
ジオン新政権の屋台骨は揺らぐと思うけど?何故そういう事をすると思いもしない?
あるいは子供を作って恨み言を吹き込んで育てて将来のお家騒動を起こそうとするとかは考えない?
ララァを連れて連邦軍に入ってティターンズ入りして強化人間量産体制に入りジオンに攻め込むとかは?
そこまで他人の行動が完璧に読める人間ならば殺さずに初めから軌道修正を試みろよ
いぇーい、シャア大好きなスタッフが作っているとか寝言をほざいていた過去の私、見てるー?結果はこのザマだよー!?
ジーンのザクが故障!シャアがガンダムに乗る!シャリア・ブルと相棒に!
……からの、まさかのシャアから地位も本名も、偽名までも奪うという、残酷すぎるオチ。
いやはやまさか、ここまで丁寧にお膳立てした上で最後の最後で卓袱台返ししてくるとはね。
まあ黒い三連星の辺りからき既存キャラの扱いがヤバかったし、カラーのこれまでからしても嫌な予感自体は持ち続けてたけどね……と言い訳。まさかせっかくの金蔓をこんな短期間で台無しにするとは思わなかったので警戒心が足りてなかった。
ジークアクスの放送中、シャアについて語る人達が口々に、「正史」のシャアの在り方を全否定して、今度こそ幸せになってと語る様子が、見ていて辛かった。
だって仮に何一つ曇りのない正しい生き方を選ぶならば変えるべきポイントはただ二つじゃないか。父ジオン・ダイクンの死か、ジオン入国のどちらかしかない。つまり「キャスバル」か「エドワウ」の人生しかないのに。本来ならば、妹と共に地球で裕福な暮らしが出来た立場だよ。「幸せ」になりたいならばただそれだけでいい。なのに何故かそれを選べとは言わない。
本当は自分だけの「幸せ」で満足できるようなキャラではないと、分かっているからじやないのか?どう考えても正史のシャアは自分だけ平穏に生活していても、家族や恋人がいても、その事に罪悪感を覚えるようなキャラだと思うよ。他のガンダムだったら00の刹那に近いメンタルだと思う。
シャリア・ブルはシャアをリーダーにして自分はそれを支えるつもりで探していて、そのためならば非道な手段も辞さない覚悟であるのだと。
正史での、ネオ・ジオン総帥としてのシャアが間違ったとしたら、隕石落としや強化人間を使うといった「分かりやすい悪役の手段を選んだ事」だけだったと思うし
ましてやシャリア・ブルを腹心に据えたなら小説版やギレンの野望というお手本がある。だからジオン公国勝利IFからシャアを暫定リーダーにして平和な共和制への軟着陸を目指すかと思っていた。まあ尺が足りないから実際にはシャアが帰って来るか来ないかの所で終わるかなと。
で、まさかシャリア・ブルがシャアを探す目的は殺すためで、兄妹の行き先も小説版とは逆のエンドとはね……。
それからよく言われるけれど、シャアは別にトップに立ちたくないとかそういうキャラじゃないでしょ。
ちょっとでも辛そうにしたら向いてないとかやりたくないだとか、あまりにも短絡的ではないか。
友達を殺して落ち込んでる!やめさせてあげなきゃ!とか
自由をなくして窮屈そうにしているからリーダーやらせないようにしないと!とか
そりゃどんな人生を選んだって、辛い事も悲しい事もあるだろうよ。
あそこでガルマを謀殺してなきゃ親兄弟の仇として直接殺し合っていただろうし、
ダカールで演説していなければティターンズの天下はもっと長く続いていただろう。
取れる範囲でベターな選択肢を選んでいたとしか思えないし、責任を放棄していたら多分その方がもっと辛かったと思う。
好きでマラソンしたり激辛料理を食べたりしている相手に対して、辛そうだからやめさせなきゃ!と一方的に押し付けるような違和感を覚える。
正史のシャアは間違った手段を用いて、その結果負けて死んだけれど、
それでもハサウェイやガイア・ギアの時代になっても語られ忘れられていないのは喜ばしい事だと思うから、
それを不幸な事として全否定したがるのが本当に本当に理解出来ない……。
現実の歴史にだって負けて死んだ革命家は大勢いて、その人達が後世の希望として語られたりもするのに。そんな大それた野望は持たずに日銭を稼いで暮らしていれば良かったというつもりなのかな。
これに限った事じゃないけれど最近の一面的で画一的な「幸せ」を押し付けてそれでよしとする風潮が腹立たしい。
腹立たしいのはシリーズが新しくなる毎にそういうオチを良しとして手放しで称賛する人が増えている事。鉄血は主人公コンビ死亡エンドだったせいか批判が多くて安心した。水星もヤバかったけれどジークアクスよりはまだ批判もあってマシ。
で、今冬は閃光のハサウェイ2か。両親と妹が健在にも関わらず環境テロリストになるっていう、シャアのIFのような主人公の話なんだけど、どの面下げて?
とりあえず強化人間ノルマを達成、みたいな適当さがその後の全てに感じてしまうようになった
シュウジシュウジキラキラキラキラ言ってたマチュが自分やシュウジの為ではなく、ララァの為に戦う、っていう絵図は良かったけど、過程が薄く感じる
だからそこを軸に据えて、それ以外のキシリアがどうとかシャリアの思想がとか黒い三連星だのバスク・オムだの描いてる場合じゃなかったと思う
ピークと言った4話も惜しいけど、マチュ-シュウジ-ララァのドラマを中心に据えるためだったらシイコさえ圧縮すべきだった
例えば
「ニャアンがやることなすこと考えなしに見える」っていう感想に
「でも彼女は難民で、家族がいなくて、教育も…」みたいな反論があるが、
そういうのが全部視聴者が勝手に脳内で作り出したストーリーにしか思えない。
いや、この例で言えば確かにニャアンは難民だし多分まともな教育も受けれてないのは見て明らかなのだが、
だからやることなすこと刹那的で、無軌道だということと100%イコールにはならない、それはただのステロタイプでしかない
たとえばララァは元娼婦で、どう考えてもまともな教育を受ける機会などないし、家族や仲間も(シャアが来るまで)いないが、「ララァはかしこい」のだ
マブ戦術とかいう要素もはっきり言って扱いきれてなかったようにしか思えない
提唱者の戦友のシャリア・ブルが一人で戦ってる時点で馬鹿げていたが、
これは「きっとシャアが戻ってきたときのためにマブは空けてるんだ」とでも無理やり納得させていたが(これもまた妄想だ)
いざシャアが戻ってきたら実はシャリアはシャアを倒すつもりでいたので、ただ単に一人で戦っていただけだった
ふざけてる
それで、マチュとニャアンのマブ、これをやらないのはさすがにありえないから組むのはいいが
決着で立っていたのは結局覚醒したマチュ一人だった
なんだったよ、マブ戦術
マチュとニャアンのマブすら連携してトドメ刺したりしないんならどんな絵が描きたくて導入した要素なんだよ
最後に
「死んだら…それでおしまいだ」
誰だよてめーは
面白くなかった。や、面白くなかったというより中盤からどう見ていいかがわからなくなった。
初見というてもハサウェイは付き合いでみた。
TLに死ぬほどガンダム考察が毎回流れてきて、それを変に取り入れたい!!ちょっと知りたい!と思ったのも良くなかったのかもしれない、初見勢としていろんな考察を無視して終始マチュだけに感情移入し続けることもできなければ、メタ的に作品の構造を理解し三人称視点で俯瞰して見ることもできず、そして見方が定まらないので「これは、マチュという一人の人間を描ききれてないよ」といったような一人称視点での批判もできず、かといって「これは、作品の構造がうまく作れてないよ」というメタ目線での批判もできず、自分がどういう原因で真に楽しめなかったのかがわからないまま、TLがなんとなく盛り上がってるなぁ、で終わってしまった。
中盤辺りからそもそも連邦軍?と公国?って違うんか?とか混乱しだした。キシリアとシャリアなんか争ってんの?え?辺りでも混乱し出した。この辺りも描き方というよりかは、自分の中で『無視していい情報かそうでないか』がわからなくて混乱したというのが大きい。
例えば、自分は劇場版のパートは楽しめた。あれはシャアという男について詳しく知らなくても楽しめるから。マチュという一人の女の子の話にある程度集中してていいから。
だから旧作関連の情報は多少無視してもわかるものと割り切ってしまい、実際途中まではよかった。バスク・オムが具体的に何者か、サイコガンダムがどういう兵器かわからないままでも、とりあえず『なんかニュータイプに対抗した強化人間とやらと、強そうな別種ガンダムがおる』ぐらいのふわっとした理解で良かった。
そのノリで連邦?とやらの内部のゴタゴタも旧作の話見てないとわからなさそうだし、としてたらそのあたりで一度つまずいた。TLの情報もありなんとかキリシア派閥とシャリア派閥?があんのかな?あたりようやくついていけたものの、そのあたりから段々無視すべき情報と取り入れるべき情報の判断がつかなくなり、地に足つかないままとりあえず追いかけたという感じになってしまった。
しかしそうすると、最後の方は怒涛の旧作の話ばかりになり、ますます無視すべき話と取り入れるべき話のバランスが全く取れないまんま混乱しまくり、TLから知識が流れ込んでくる為完全にすべてを無視することもできなくなり、最後はみんなが何をそんなに面白い面白いと言ってるのかわからないまま、そして言語化出来ずともなんとなくはおもしろかった!!という感覚すら得られないまま最終回が終わってしまった。
まぁただ何度もいうが、描き方、書き手側の問題でこうなったのか自分だけが一方的に変でこうなった(変な見方をしようとした、メタ的目線にこだわりすぎた、など)かが現時点で判別付かない。TLを見る限り後者な気がしているが、もう一人ぐらいは自分とおんなじ混乱に陥った人はいるのでは?と思って書いた。
#GQuuuuuuX 第7話を見てアンチになったので宣戦布告 #ジークアクス - 玖足手帖-アニメブログ-
ヌ・リョウグ・ダの宣戦布告 :https://notebooklm.google.com/notebook/64bb91cb-674e-4366-ae64-b3cae49e5f68/audio
本ドキュメントは、ブロガー「ヌ・リョウグ・ダ」氏によるブログ記事「黒歴史襲来!ジークアクス、潰すべし」の分析に基づいています。
この記事は、主に機動戦士ガンダムシリーズの新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(以下、ジークアクス)」第7話に対する強い否定的な感想と、
記事全体に警告や危険を示す言葉が散りばめられており、筆者の極めて個人的で攻撃的なトーンが特徴です。
筆者はジークアクス第7話に対し「つまらなかった」「吐き気がする」と明確な敵意を表明しており、
作品の演出、脚本、キャラクター描写、戦争描写など多岐にわたって批判を展開しています。
特に過去のガンダム作品や庵野秀明監督作品の手法を安易に模倣した「パッチワーク」「コピー品」であると断じています。
記事の大部分は、筆者自身の個人的な経験、特に母親の自殺、祖父母の複雑な背景、過労死寸前の経験、
精神的な不安定さ、そしてそれをガンダムやその他の作品と結びつけた独特の自己認識について語られています。
これらの経験が、彼の作品評価や世界観に深く影響を与えていることが示唆されます。
筆者は富野由悠季監督のガンダム作品に命を救われた経験があると述べ、
その深い思い入れがあるからこそ、今回のジークアクスに対して強い失望と怒りを感じているようです。
筆者は、過去のガンダム作品において「戦後」が十分に描かれていないと感じており、
しかし、ジークアクスは戦争の混乱や残虐さを描かず、安全でポップなエンターテインメントに終始していると批判し、その欠如に失望しています。
自身の壮絶な家庭環境や祖父母の背景(戦争犯罪者、淫売、戸籍捏造など)が現在にも影響を及ぼしていることへの苦悩を吐露しています。
筆者は自身を「精神障害者(2級)」「無敵の人」「異端者」「転生者」などと自称し、
このブログ空間内での「万能の発言力」を持ち、外部の常識や倫理とは異なる独自の論理で語っています。
SNSアカウントを持つ著名人(安田朗氏など)に対しても攻撃的な言動が見られます。
また、自身の思想をグノーシス主義と主張するなど、独特の思想体系を持っています。
・ジークアクス第7話は筆者にとって極めて「つまらない」ものであり、強い敵意の対象である。「今回のGQuuuuuuX第7話は、つまらないアニメを見た時の状態でした。」 「つまらないアニメを見ると、鬱になる。最悪の気分になって、途中で再生を止めて「クソッ!」と吐き捨て、見るのをやめるか…」 「ジークアクス君に期待していたのは「戦後の描写」だったのだ…やっぱりいつもの株式会社BANDAI SPIRITS ホビー事業部のプラモデル販売CMフィルムでしたね。」
・筆者の作品評価は、彼自身の壮絶な人生経験と精神状態に深く根ざしている。「僕はアニメを目ではなく心で見ている。アニメは視聴覚芸術文化なのに心で見ているというのは出崎統版ベルサイユのばらのオリジナルキャラクターみたいで変な言い方だが、とにかく精神で見ているのだ。」 「個人的な話なんだが、僕は前述のように母親を自殺で亡くしている。」 「というわけで、それ以来、僕にはメインのスタンドの脳内妹だけでなく、背後霊というか岸辺露伴に取りついたチープトリックみたいなものが「お母さんが亡くなってしまった」と常に言い続けている。」 「僕の人生の皮膚感覚としては、人は偶然ランダムに死ぬものであってドラマ性も特になく、ただ単に殺されたり事故にあったら死ぬって感じなのでドラマチックに整理された戦闘や死よりガンダムとかイデオンとかジョジョの奇妙な冒険とかクトゥルフ神話TRPGみたいにサイコロの目でランダムにすぐ死ぬアニメの方が僕の感覚に近くて馴染む、馴染むぞ!」
・筆者は富野由悠季監督に深い敬意と複雑な感情を抱いているが、同時に「裏切られた」経験や喧嘩も公言している。「ある意味、ガンダムのおかげで命拾いをしたという経験がある。一種の強化人間かもしれん。」 「僕も富野監督から「貴兄」と呼ばれて、「やっぱり僕は脳内妹のお兄ちゃんだと富野監督にも認められたんだ」と喜んだ。」 「監督に書かれた文は「推し活はいったん区切りにしませう」というわけで、離縁状なんだけどな。」 「僕のようにオタク活動を長くやっていると普通に富野監督に裏切られた人のことも知っているし、それはまだ表に出さずに交渉カードとして温存しているよ。富野監督レベルの人の人格がまともなわけないやん。普通に喧嘩もしているよ。」
・筆者のブログは、彼にとって外界から隔絶された独自の「固有結界」であり、そこで彼は「王」として振る舞う。「このブログは固有結界。22年の歳月と数千万文字の言葉と記事によって紡がれし王国であり城。」 「このブログの王国の中での彼は管理者権限を持つ王として、株式会社はてなの倫理的規定に抵触しない限り、万能の発言力を持つ。」
・筆者は、自身を「クズの孫」と称し、祖父母や両親の背景にある「戦中戦後のクソ倫理観」や「戦争」が自身の存在や現在にも影響を与えていると強く認識している。「祖父が陸軍中野学校卒の従軍憲兵として成り上がり、戦後は戦争犯罪を揉み消すために名前を変えて戸籍を捏造し戦後は公安幹部として叙勲されたこと、祖母が淫売で母親は私生児だったことを公言してはばからないほど、戦争に対する非常に深い憎しみとそれを超える狂気の持ち主です。」 「そういう男と女の間に生まれた淫売と戦争犯罪者の孫なんだ!」
「俺の戦争は終わってない!戦争で狂ったクソどもの生殖本能が俺を生み出した!」
この記事は、ジークアクス第7話に対する個人的で激しい批判を軸としつつも、筆者自身の壮絶な人生経験、精神状態、そして血縁と歴史(特に戦中戦後)からの影響について深く掘り下げた内容となっています。
作品批評というよりは、筆者の内面の吐露、あるいは一種のパフォーマンスアートとして解釈するのが適切かもしれません。
記事全体に漂う強い攻撃性や自己開示は、筆者の精神的な不安定さと、過去や血縁から逃れられない苦悩の表れと考えられます。
記事の末尾は、妹を名乗る人物による筆者の状態の説明と代筆という形で締めくくられており、記事の特異性を際立たせています。
ジークアクスを楽しむ読者にとっては、筆者の警告通り読むべきではない内容と言えますが、
歴史に名を刻めよ。
とか言われてたから、最悪な形で名を刻む(バスクの毒ガステロの首謀者として逮捕)のかと思ってたら本当に一撃でやられてんじゃん。
君ドゥーのお世話係じゃなかったのか。
ドゥーが失敗したときのコロニー事破壊とか、コロニーに毒ガス散布とかやるんじゃなかったのか君。
Zガンダムに登場してチョイ役で生死不明で退場とか言う、シャリアブル並みに薄いキャラだったんで、シャリアブル並みに活躍する事になるのかと思ったらこんなにあっさり。
まあ、緑のおじさんが強すぎるもんな。キケロガが条約禁止兵器になるわけだよ。でもこれ兵器より乗ってる本人の方が禁止兵器じゃない?
パージした装甲をGUNDビットみたいに操るナドレと化したサイコガンダムをあっさり屠ってるし。
ていうか、シャリアブルが普通にキシリア様守ってんのが意外だったな。
ジークアクスに乗ったマチュも謎の光線で無力化してるし。初めっからこうしてれば良かったのでは?何時でも事態収拾出来るから泳がせてたのか?
ていうか、次の任務とか言われてるけど、やっぱり赤いガンダム捜索ってのはただの名目で、裏に任務あったんだな。それが今回本当に赤いガンダム出てきたから暇潰しに捜索やってたのかな。でもそもそもなんかアレだな。ガンダムが今回もゼクノヴァでどっか飛んでったのに追おうともしてない。本当に赤いガンダム自体には興味ないというか…もしかしてシャリアブル側で転移させたのか?
ドゥーは多分生きてそうだけども…仮に生きてても突っ込み役不在だとどうにも。これは二次創作に期待するしかないな。しかし僕っ娘とはさすがに見抜けなかった、このリハクの目を持ってしても。ていうかなんか、前回ダウナー気味だったのに今回やたらアグレッシブだな。自分から強化人間化したみたいな事言ってたが。
それにしてもなんか乗ってるときエウレカセブンとかにいた奴っぽかったな。
で、首謀者のバスク・オムはどうなったんだ?サイド6やジオン側の捜索では単なるテロリスト二人組の仕業ってだけでバスクのとこにはたどり着いてないのかな?そもそも連邦軍情報部の連中だもんな。ジオンがなんか言ったところでどこ吹く風だろう。
というか、最後エグザベがシャリアブル監視の任務を解かれてるってことは、この一連の騒動自体が自身の監視を外すためにシャリアブルが弄した策だったのかな。つまりバスク・オムに情報漏らしたのはシャリアブルで、持ち込まれたガンダムからの襲撃から守る事で信用を勝ち得た?あるいはキシリアが漏らした?
そもそも、重要人物臭いのにキシリアが色黒のお着きとエグザベしか実質的な護衛いないって良いのかそれ。まあ、物々しい警護付けてたら「お忍び」じゃなくなるだろうけどさ。
エグザベのギャンはかっこよかったな。ファーストのマクベの時はあんま活躍無かったのに。キシリアのピンチに現れて、ファンネルビットかわしながら盾になる。赤いガンダムと戦ったときはやっぱり慣れない機体だから負けたんですね
まあそれもあのごんぶと指ビームは防げないんでは?感があったところに颯爽とシャリアブルが現れていいとこもってかれたわけだが。
ていうか強過ぎんかシャリアブル。
後なんだその人型を先端にくっつけたような形態は?
ニャアンがエグザベに拾われるところなんかF91ぽかったな。再開したとき「あんた、シュウジと逃げたんじゃなかったの?」「違うのよ、なんか知らないけどこうなっちゃったのよ」って会話するのかな