
はてなキーワード:強制とは
無力感は自然発生しない。制度・文化・心理の三層構造で精密に設計される。
以下の条件が揃ったとき、民衆は自ら行動を放棄し、支配に従う観察者となる。
投票・請願・抗議などの政治行動が、結果に直結しないことを繰り返し体験させる。
政策決定過程を複雑化・専門化し、「誰が責任者か分からない」状態を意図的に作る。
官僚・委員会・審議会を盾として前面に出し、政治家も国民も責任を回避する構造にする。
このとき、行動のコストが期待値を上回り、最適戦略は何もしないことになる。
「空気を読む」「和を乱さない」といった規範を教育とメディアで再生産する。
異論者を敵ではなく変人として扱う。社会的排除は暴力よりも効果的だ。
「成功は適応の結果」「不満は努力不足」という道徳を浸透させ、構造批判を個人の失敗に変換する。
→ この段階で民衆は自らを検閲し、互いを監視する。支配者は沈黙の群衆を得る。
メディアが問題を連日報じながら、解決の物語を決して提示しない。
SNSが怒りを即時発散させ、組織化を阻む。怒りは行動に変わらず、ただ消費される。
エンタメ化された政治は、抵抗を観賞に変える。人々は現実を変えるより、実況することを選ぶ。
→民衆は自分の生活を「誰かの物語」として眺める。これが観察者化の完成段階である。
その瞬間を測る基準は次の三つだ。
【基準1】
支配の言説が自己責任の形で内面化された瞬間、抵抗は消滅する。
【基準2】
監視と同調が自動化され、権力が介入せずとも秩序が保たれるとき。
【基準3】
自らの鎖を秩序と呼び、その枷を守るようになった時、支配は完了する。
無力感の制度化とは、力の外的行使ではなく、意志の内的従属化だ。
霊長類では、雌が妊娠・出産・育児の高いコストを負うため、交尾相手を厳選する選択性が一般的です。雄による強制交尾や幼児殺しのリスクが高く、これが雌の慎重さを促します。多くの種で雌が交尾を拒否可能で、進化的に雌主導の選択がデフォルト傾向にあります。
本当におもんないねんな。
6つある属性のどれかで固める以外の選択は全部「間違い」になる。
3人1パーティーでメイン1人・サブ2人の構成なんだが、サブの2人はメインと別属性にするのとレベル1同属性にするのだったらレベル1同属性の方が強いぐらい。
メインは通常攻撃をしながらスキルも撃てて、サブはスキルしか撃てない。なのでメインの性能を如何に底上げするかがサブキャラの本質的な仕事になる。
こんなのが出てきたらもうどうしようもない。というか、サブキャラ同士で相互に火力を強化する事も出来るのだからサブキャラ同士の間でも同属性としての相乗効果が働く。
しかもこのゲームはスキルで属性ごとデバフを相手に与える効果があり、それらとパッシブスキルの組み合わせ(たとえば凍結状態ならダメージアップとか)により最終的に火力が倍ぐらい変わる。
自由度皆無。
窮屈過ぎる—。
敵の攻撃をダッシュで回避してスキルを遠くからチマチマ当てるというオマケのようなアクションは出来るが、そんなの気にせずにひたすら張り付いてオラオラ攻撃するのがこのゲームの正解になっている。
これではオートでひたすらCPUに殴らせようが人間がやろうが結果に差はない。
一部スキルの組み合わせだと「回避後に特殊攻撃をするからそれを確認してから再回避する」とかもできるが、これをやるビルドを作るよりもひたすらバフをかけてひたすらバカみたいに殴り続けるビルドの方が強いので意味がない。
まあ、タイムアタック捨ててギリギリで戦ってる時にHP切れで負けるリスクを回避できるようになったブルアカだと考えればちょっとは進歩してるのか?
好感度を上げるとステータスが増えるというありがちなシステムが搭載されているが、これの扱いが雑過ぎる。
1日5人までデート出来る仕組みになっているんだが、これが本当に良くない。
乗り気じゃない中でスキップポチポチしながらデートして好感度アップアイテムを義務的に渡す。
仮面夫婦のような冷めきった距離感の中でキャラの好感度がミュミュっと増えてるのを眺める。
虚しい。
悲しい。
つうか1日に30人とデートしようが100回デートしようが好きにさせろ。
本当に酷かった。
リセマラ10回(15分×10=2時間半)してチトセ確保出来たから始めて5日。
もう飽きた。
すまん。
もう飽きたよ。
このゲーム底が浅すぎるよ。
誰がやっても同じパーティーになるじゃん。
そして誰がやってもローグライトで選びたいスキルは同じ方向性になるじゃん。
これならもう属性関係なく好きなキャラで組み合わせてローグライトなんかもナシでいいじゃん。
余計な要素増やして制限かけまくってるだけのゲームほんま萎える。
おもんないよお前らの作ったゲーム本当におもんないよ。
前はマクドナルドなんてくだらない食べ物口に入れないぞという矜持があったが、今は毎週のように通っている。
なぜか?ハンバーガーが美味しいから?そんなはずはない!まずいとは言わないが他に上手いものはどこへ行っても食べられる。
レジがあるのとは違う入り口を通って席に着く。店員にいらっしゃいませすら言われない。まるで匿名のインターネットのようだ。
その後自分のスマホから注文する。5分と待たずに食べ物が来る。人と関わるのはここだけだ。しかも何も言わず一瞬で終わる。
食べ終わったら再度店員がいない出口から出ていく。自動化されたシステムの一部になったような飲食体験。
これを敷衍し、もっと人と関わらないのがコンセプトの店を作ることもできるだろう。カウンターの前が開閉式の扉となっていてそこから料理が出てくるとか、ベルトコンベアで運ばれてくるとかすれば完全に人との接触を断てる。
しかしそれはあまりに非人間化されすぎている。マクドナルドではレジに並んでもいいところを自分から選択して匿名性を選んだのだ。店がそれを強制するのは客を人扱いしていないことを感じさせる。オタクに媚を売るようなコンテンツが嫌われるのと心理的には同じかもしれない。
おそらくこの体験は偶然の産物であり、狙ったものではないように思われる。狙うと逆に白々しくなる。
今年のPTA三役の父親役員達が専業主婦の役員1人に仕事全部押し付けてクズ行為ばかりしてる話をするね。
互選会時に会長、副会長をそれぞれ自らやると挙手したのに何もしない。
TikTokのコメント欄にタイトルが書かれてあって、怖いもの見たさで調べてみたら、簡単に無断転載で観れてしまった (最低でごめん)
あのAV、あれ闇サイトとかで取引されててもおかしくないレベルでやばくないか?
AV女優に対して通常のAV撮影って嘘つきながら、いきなりレイプする、っていうコンセプトのAVだったらしい。
シークバーをガーッて雑に動かしながら適当に観たが、ま〇こに男の人3人で指突っ込んで「痛い…痛い…」って言ってたり、でかい漏斗みたいなやつで溺れそうなくらい喉に酒流し込んだりしてた。
後半らへんの憔悴しきった顔とか見ていられなくて動画閉じた。
トラウマになってしまって、観なければよかったと後悔している。
怖すぎだろ。
人のやることじゃねえよ。
これやばいやろ
796 優しい名無しさんsage 2021/05/22(土) 21:18:25.06ID:su+2jnUZ
なんせデイケアサボっただけで通院時にそのまま連れていかれてご入院ですからw
しかも勝手に病院変えるといきなり医者と看護師が家に乗り込んで来て医療保護入院にしますって宣言されて護送されますw
これ全部実話な
800 優しい名無しさんsage 2021/05/23(日) 13:26:36.97ID:zFP5Ojmt
クリニック行ってるけどデイケアも訪問看護もグループホームも作業所も何にも強制されないぞ
ただ診察して帰るだけ
何も考えんと見るアクションコメディアニメとして見れば80点くらいだと思うんだけど、
ある種の社会風刺アニメとして見ると現代の感覚だと60点くらいかもしれない。
スタッフに言及しだしたらオタクという俺の中での線引きがあるのだがさすがに言及せざるを得ない。
大友克洋、北久保弘之、江口寿史、磯光雄、今敏、神山健治、黄瀬和哉とその後のアニメ業界を牽引、今でも第一線で監督として活躍するメンツが様々な役職で参画している。
なので(かどうかは知らんけど)、アニメーション作品としては非常によくできているし見応えもある。
アクション、コメディがバランス良く配置され最終的にちょっとエモい感じになって最後爆笑で落とす構成も見事。
主人公の一人の実験体老人「喜十郎」が最後に「お迎えが来た」と呟き、もう一人の主人公の「晴子」が「何言ってんの」と返すと、地響きが鳴り響く。外に出るとロボット化した鎌倉の大仏様が。みんなで合掌。ゴーンと鐘が鳴り響いて暗転。
作画も延々といいし、アクションも素晴らしい。アニメーション作品としては申し分ない出来だと思う。
社会風刺としても、高齢化自体は1970年代から始まっており徐々に問題視されてきていたが一気に爆発したのが1990年の1.57事件からになるので、それを1991年公開の作品で取り扱っているのはかなりフットワークが軽い。
また介護問題へのアイロニーが効いているテーマ性は現代においても他人事ではないし、老人が操作する(実際にはしてないんだけど)移動機械が大暴走し多大な被害を出すという展開は、昨今のプリウスミサイルを彷彿とさせる。逆にプリウスミサイルがある現代に生きているのでむしろ老人に対する偏見を助長するのでは?と思ってしまった部分はある。
個人的に一番気になったのは介護、看護に献身的に取り組む主人公の晴子が介護先の喜十郎をずっと「おじいちゃん」と呼び続けること。俺が福祉の現場に入ったことがあるからかもしれないけど、現代の基準で言えばかなりグレーというか、よくないとされていることなのでずっと引っかかってしまった。まぁ本人が「おじいちゃん」って呼んでくれって言ってたんなら別にサービスとしてそれでいいんだろうけど、基本は「喜十郎さん」だよなぁと。
まぁ1990年以前の価値観だとそれで問題なかったんだろうけど、なんかモヤモヤ。
あとはこの作品ってそういう内容でよかったんだっけ?と感じたのは、この作品は老人介護用全自動ロボットが老人の夢をかなえるために鎌倉の海に向かって大暴走するという話なんだけど、この原因を作ったのは実は主人公側であるという部分。
厚生省(今は亡き)が介護老人を全自動で強制介護するマシンを作成し喜十郎をモニタに選ぶ。主人公はそれに反発し、自身が勤める病院に入院していた凄腕ハッカー老人集団と結託しマシンをハッキング、喜十郎の妻の声を再現して喜十郎に呼び掛ける。その結果、喜十郎の深層心理にあった「奥さんとの思い出の海に行きたい」を汲んだマシンのOS内に喜十郎の奥さんの人格が形成され海に向かって暴走を始める。
そのOSはペンタゴンが開発した軍事転用可能なもので、介護用と言いつつも軍事技術のデータ集めに使われていたのだ!なんてひどい話なんだ!としてそのOSを提供した会社が悪役になって最終的に逮捕されて終わるんだけど、いや、これ、暴走の原因の4割くらいは主人公たちにあるよね?
俺がマッチポンプ系作品が嫌いなのもあるんだけど、すげー気になってしまった。
いや、そうしなきゃ喜十郎は機械に繋がれて生命を繋ぎ留められるだけの物体になってしまっていたわけで、やむを得ない行為だったってのは理解できるんだけど、その代償としての被害規模がデカすぎんか。
というのが一番のモヤモヤ。
こういう作品だと役所の人間って非人間的なカスとして描かれがちだけど出てくる厚生省の役員は「本当に老人の介護問題を何とかしたい」という熱意に燃えていてそこに付け込まれてしまったという形で、マシンの問題に気付いてからは主人公側で一緒に戦う展開になるというのは性善説的で非常によかった。
あと今となってはウルトラトレスマンとして永久に叩かれている江口寿史のキャラデザは素晴らしく、主人公はかわいくサブキャラに至るまでみんな魅力的。
根本の部分が公開から35年たった今見ると、ええんか?ってなるところ以外はよくできた作品だと思う。
ワイが画用紙買ってきてクレヨンで赤丸描いて街なかに持ち出して、
「消費税減税!社会保障負担軽減!」って叫んで画用紙破ったら罪になるってことぞ?
↓
↓
漫画家「不当です」
↓
お前らが気分だけを基準にあれもこれも駄目だ検閲させろアドバイザーを雇えと喚いてきた結果がこれです
おめでとう!
こういうことになっても、フェミは絶対に規制の基準なんて出さないだろうな。まずフェミ内で合意形成が不可能だから。だってそのライン決めちゃったらもうそれに抵触してないのはスルーしなきゃいけなくなって騒げないもんな。問題化できる範囲は広いければ広いほどいい
だから今後もフェミは表現規制を叫んで自粛の機運を強化しながら、一方で今回みたいに表現の自粛の強制に反対もする、そういう支離滅裂な動きを続けていくのは間違いない
Q. 以下の主張は妥当なの?
国旗損壊罪が出来るのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの「当たり前」の侵害行為とされたってことだ
当たり前のことだから法にされ
A. ご提示いただいた主張は、法哲学や法社会学的な観点から見ると、**「一定の側面は捉えているが、全面的に妥当とは言えない」**と考えられます。
主張の整理
前提:国旗損壊罪が制定される。
比較: これは「名誉毀損罪」が制定されているのと同じロジックである。
結論: (名誉毀損が個人の名誉という「当たり前」の利益を守るのと同様に)国旗損壊罪の制定は、その行為(国旗損壊)が法で守るべき「当たり前」の価値(国家の尊厳など)を侵害する行為だと社会的に合意されたことを意味する。
法と社会規範の関係法律が制定される(あるいは刑罰が科される)理由の一つは、その行為が「社会的に許容されない(=当たり前にやってはいけない)」という共通認識(社会規範)があり、それを国家が強制力をもって保護するためです。 その意味で、ある行為が犯罪とされることは、それが「法で定めるレベルの侵害行為」と(少なくとも立法者によって)判断された、という側面は確かにあります。
問題は、比較対象である「名誉毀損罪」と「国旗損壊罪」を、同じレベルの「当たり前」として論じられるか、という点にあります。
名誉毀損罪:保護法益は「個人の名誉」です。これは、近代市民社会において「個人の尊厳」や「人格権」という基本的人権の中核をなすものとして、その保護は広く「当たり前」のこととして合意されています。
国旗損壊罪:保護法益は(主張者が留保されている通り)一般に「国家の尊厳」や「威信」とされます。
論点: 「個人の尊厳」を守ることと、「国家の尊厳」を守ることを、**同レベルの「当たり前」**として社会全体が合意しているか、というと、そうとは限りません。国家の象徴をどう扱うべきかについては、個人の価値観や政治的立場によって、名誉毀損以上に意見が大きく分かれるのが現実です。
「表現の自由」との衝突
国旗損壊罪が名誉毀損罪と根本的に異なるのは、**「表現の自由」**と真正面から衝突する可能性がある点です。
国旗を燃やしたり傷つけたりする行為は、それ自体が国家や政府に対する強烈な抗議や批判の「表現(象徴的言論)」と見なされる場合があります。(特にアメリカの判例などで重要な争点となってきました)
名誉毀損も「表現の自由」の例外(何を言ってもいいわけではない)として存在しますが、「国旗損壊」が「名誉毀損」と同じくらい「表現の自由」の例外として「当たり前」に認められるべき侵害行為か、というと、国際的に見ても議論が真っ二つに分かれています。
法律は、既に「当たり前」と合意されたことを追認するために作られるだけではありません。
時には、まだ社会的な合意が形成されていない、あるいはむしろ対立がある中で、特定の価値観(例えば「国家への敬意」)を法的に強制・奨励するという政治的・イデオロギー的な目的で制定される場合もあります。
もし国旗損壊罪が後者の動機で制定されるのであれば、それは「当たり前のことだから法にされた」のではなく、むしろ「(当たり前ではないかもしれないが)当たり前に『させる』ために法にされた」という側面を持つことになります。
ご提示いただいた主張は、「法制化は、その行為が侵害行為であるという認識を示す」という点では一理あります。
しかし、「名誉毀損」という(個人の人権保護という点で)合意レベルが非常に高い犯罪と、「国旗損壊」という(国家の尊厳や表現の自由との関係で)イデオロギー的な対立を含みやすい行為を、同じ「当たり前」のロジックで語ることには、大きな飛躍があります。
したがって、「国旗損壊罪ができるのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの『当たり前』の侵害行為とされた」という主張は、その「当たり前」の質と合意レベルが両者で根本的に異なる可能性を無視しており、全面的に妥当とは言えない、と結論付けられます。
さて、「国旗損壊罪は当然」「秩序を守るための線引き」なんて言葉を聞くと、まるで21世紀の社会に19世紀の魂が迷い込んだみたいだな。あえて言わせてもらう——それ、民主主義じゃなくて“情緒主義”だ。
「他人が親の遺影を燃やす例」を持ち出してくるが、それは私人間の侮辱行為の話だ。感情的には腹が立つが、国家の象徴を批判することとはまったく構造が違う。
民主主義における国家の象徴は、批判され、風刺され、時に踏みにじられることで初めて成熟する。
国家が「国旗を汚すな」と言い出した瞬間、それは国民に「思考の敬礼」を強要するのと同じだ。
「挑発だから表現じゃない」とか言うが、それを決めるのは誰だ? 政府か? 検察か? 多数派か?
その“挑発”を判断するのが権力側なら、いつでも都合の悪い表現を「挑発」として潰せる。
表現の自由が最も守るべきは、不快で、不穏で、気に食わない表現なんだよ。
共有物を「傷つけたら犯罪」とする時点で、国家が象徴の意味を独占している。
つまり、国旗を守ると言いながら、国家が国旗を国民から奪っているんだ。
「社会契約の上に立つ自由を壊すな」? いや、自由の上にこそ社会契約があるんだよ。
社会契約は、異なる価値観が共存するための最低限のルールにすぎない。
それを「国旗を壊すな」という情緒的ルールで縛り始めたら、契約じゃなく服従になる。
誰かが燃やした国旗を見て腹が立つ? そうかもな。
だが、それを「刑罰で制御しよう」とする社会は、自らの理性を放棄している。
理性を捨てて感情に法を委ねた瞬間、民主主義は衆愚制に変わる。
国旗損壊を罰する法は、国家の品位を守るどころか、国家の成熟を後退させる。
自由とは、神聖な象徴をも燃やす権利を含んで初めて完全になる。
「国家への敬意」は法で強制するものじゃない——市民の内なる思考と良心から生まれるものだ。