
はてなキーワード:弟子とは
望月新一は初の糖質状態ですごいことをやり遂げた人なのかもしれない。(岡潔がなったのは後では?)
糖質になるとなんでもできる気分になる。気分だけ。だから四つ足で走る方が合理的とか言って全くの素人だったのに短距離の記録を塗り替えるとか本気で思ってその走りを始める珍行動をしたりとかさ。
令和の虎に出てたナマズの脳と量子コンピュータをつなげて作曲するとか言ってた人も結局殺人未遂。そりゃそうだ彼の5ch書き込み見ても浅い知識をくっつけたポエムだったんだから。
で、望月はどうか。
ショルツ氏は彼の証明は系3.いくつだか忘れたがとにかく具体的な箇所を指摘してそこから過程がすっとばされてると言っている。
これはどうにも怪しい言動だろう。
確かに数学は初学者や中級者でも行間が見えない証明ってものがあるけれど、分かる人には行間が正確に補えるものになっているから、いわゆる訂正可能性みたいなものが保証されているから問題ない、数学的主張しての効力を認められているといる。
それが同じ専門の大家同士なのに本人以外は行間cが補えないっていうのはどうなのか。
また学部生でもわかることと言ってるが学部生では太刀打ちできない理論であることは望月自身が自分が取った弟子に対して認めていたことらしいのでここに主張の無理筋さが感じられる。ショルツでもわからないことが学部生にわかるだろうか?
自分が見た数学の作法本には数学の証明とは誰が見てもちゃんと読めば同じ結論が成り立つことが一部のごまかしもなくはっきり分かる主張ということであるということが書いてあった。
相手の認知リソースに依存しきりの望月の反論はもはや証明の精神に明確に反すると言えるのではないか。
つまり望月が証明として見てくれと言うものは正真正銘本人を除き誰も行間を補えないレベルの飛躍が起こっているとして、さすがに本人しか証明として解読できない表現を証明とするのは無理があるのではないかということだ。万人が理解できるのが理想とされるのが証明であるのに、この世でたった一人しか理解できないものになっているのだから。
それでも過去の業績は疑いようなく優れたものらしい人なわけだから今回も望月の頭の中ではすっ飛ばされた過程について省略せずに書いたらどうなるかということがはっきり頭の中にあるのかもしれない。令和の虎の人は東大には行ってたらしくそれも普通の人から見れば素晴らしいわけだから、この過去が素晴らしいなら糖質になったとしてもその成果は素晴らしいはずだという考えをどこまで適用できるかという程度問題なところがある。
でも望月の今までの業績に比べたら東大合格なんて鼻くそレベルなのも確かだろう。
頭の中に省略部分があるならフェルマーごっこをやってないできちんとその行間も提示すればいいのに、しないのでは、糖質ゆえの法螺吹きごまかしと受け取られても仕方がないと思う。明確に証明の作法に反しているのだから。
でもやっぱり彼の頭にはいまだ公開していない完全形の証明があるかもしれないと考えてしまえるほどには今までの天才ぶりに関する信用貯金が残ってるのがなんとももどかしいところ。
dorawiiより
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読者層のレベルが判明してる以上、AI禁止にする意味が分からん。
中国みたいに弟子入りしかなくなりそうだが、そうまでしてテンプレ小説売りたいやつもおらんやろ。
掛け算の概念(倍数を扱う)
小数的な考え方の萌芽
円周率(近似値として3.16)
20進法の完成された記数法
公理を置いて、そこから論理的に定理を導く証明中心の純粋数学の発展
当時、「すべての量は整数比で表せる」(万物は数である)と信じられていた。
しかし √2 が有理数ではない(整数の比で表せない)ことが分かり、この哲学が崩壊。
『直角二等辺三角形の対角線の長さ』が整数比で表せないことを証明したとされる。
証明したのは学派の弟子 ヒッパソスとされ、伝承ではこの発見により処罰されたとも言われるほどの衝撃。
アルキメデスによる面積・体積の“求積法”の発達。
負数を“数として扱った”最古の事例『九章算術』
十進位取り記数法
負数の萌芽的扱い
独自に代数学(al-jabr)を発明。文章による代数。ここで初めて“代数学”が独立した数学分野となる。
商、余り、桁処理などの方法が整理(現代の学校で習う割り算の形がほぼできあがる)
xに相当する未知数記号を使用した代数(文字ではなく語句の略号)
sinx,cosx,tanx などの三角関数の無限級数展開を発見。
これは数学史上きわめて重要な成果で、近代的な無限級数の起源はインドである と言われる。
● 1500年〜
負数の受容が進む。
● 1545年頃(カルダノ)
虚数の登場。
三次方程式の解を求める過程で √−1 に相当する量が突然登場。
しかしカルダノ自身は「意味不明の数」とし、虚数が数学的対象であるとは認めていなかった。
● 1557年頃(レコード)
等号記号「=」を発明。等価を等式として“視覚的に書く”文化が誕生。
● 1572年頃(ボンベッリ)
カルダノの式の中に出る「意味不明の数」を整理し、虚数を使って正しい実数解が出ることを示した。
● 1585年頃(ステヴィン)
● 1591年頃(ヴィエト)
● 1614年頃(ネイピア)
● 1637年頃(デカルト)
今日では当たり前の「座標平面」「方程式で曲線を表す」が、ここで生まれた。
物理現象をy=f(x)で表すという現代の方法は、すべてデカルトから始まった。
大数の法則(試行回数を増やすと平均が安定する法則)を初めて証明
● 1748年頃(オイラー)
√−1 を i と書く記法を導入。
オイラーの公式「e^{ix} =cos x + isin x」を提示し、虚数を解析学に自然に組み込んだ。
微積分の計算技法の体系化(積分論・無限級数・微分方程式の基礎を構築)
多くの記号体系(e,π,sin,cos,fなど)を整理・普及
グラフ理論(もの[頂点]と、それらを結ぶ関係[辺]を使って、複雑な構造やつながりを数学的に研究する分野)の誕生
ーーーーーーーー
一旦ここまで。
続きは詳しい人にまかせた。
静寂を破るのは、鋼が空気を切る鋭い音だけ。
迷いなく、無駄のない動きで型を繰り返していた。
彼女は振り返らず、声だけを投げる。
「立ち入りの許可を得ていませんね。
「……せ、先生。
今朝の巡回の前に、訓練場を……」
「その任はあなたの当番ではありません」
淡々と断じる。
声には冷たさしかない。
“師”として当然の態度だった。
少年は肩を落とす。
「……はい」
「感情で行動するのは未熟者のすることです。
己を律しなさい」
少年は唇を噛み、うなずく。
剣を収めることも、視線を向けることもない。
型の合間に、短く告げる。
「ここに立たれると集中の妨げです。
用向きがないのなら戻りなさい」
ミアはひとつ息を整え、剣を下ろす。
(息子には、私のことを母ではなく“先生”と呼ばせてきた。立派な騎士に育てるためだ。だが——あの子はあまりに弱い。 )
再び剣を握り直し、型へ戻る。
日常会話や世間話なら一人当たり一文。ほとんど一文ごとに話し手と聞き手は入れ替わる。
このやり方である限りにおいては先生と弟子があるテーマに沿って対話して一緒に学びを深めていくようなことにも当てはまることだが、話す順番は特に意識する必要はない。相手が聞いてきたことから答えればいい。
それは問いも答えも文章的には一文によってやり取りされることに関わっている。
これが二文以上を費やしてもっとまとまりのある情報を一度に伝えようということになる段階で文章の組み立てというものは意識される。
長い文章ほど推敲もしないで思いつくままに話したり書かれたりされても受け手はどんどん置いてきぼりになっていく。
やみくもに話したり書いたりしたとしても偶然話の組み立てとして最適解な順番になっていて推敲した時と同じ効果を受け手に及ぼすこともあるかもしれない。
むしろそれが偶然よりも高い確率で起こるようにするためにこそ推敲をするのだと考えるべきだろう。
ここまでのことを踏まえれば、結局逆に言えば挨拶や英会話のような単純な質問と応答のような世間話のような類をラインやネット上の掲示板でチャット感覚で行なうことにおいては、その文章は本質的には形式に囚われて文章と分類していても仕方がないのではないかということだ。
文章は他人の目に触れた瞬間それは解釈的に作者の手から離れるというが、まさかチャットで書き手が誤解されて誤解であることを釈明した後でも「お前の先の文章ではそう解釈できるんだからお前がどういう意図で書いたかは関係ない」とか言ったらただのキチガイだろう。
政治家が発言を撤回したならば撤回したという事実自体は受け入れられ、批判されるのだとしても「撤回するなら最初から言うな」といったような類であるのが健全であり、まるで撤回したことなど知らないかのように「なんであんなことを言うの」と言い続けるのが異常とみなされることに対応する。
また一般的な文章では同じ言葉は極力使うべきではないという考え方があるようだがチャット的な単なる意思疎通のための文章では別にそのようなこだわりは求められていないと思う。
これも音声での対話でも同様に同じ言葉を何度使おうが全く気にしないのと対応している。
そもそももし我々が声帯も手も失ってしまったら何が望まれるだろうか。
脳から口を動かしたりキーボードを叩くときの命令が検出されたらそれに対応した人工音声の再生なり、ネットを対象としているなら端末への文字の入力なりが望まれるのではないか。
ネットを対象をしてなくて対面でもあえて胸元にiPadみたいな液晶をぶら下げておいてそこに言葉を発しようとする時の脳の命令に対応する文字が出てくる仕組みを望む人もいるかもしれない。
いずれにせよこうやって考えてみると、音声のときと文字の時とで文章かどうかの扱いが変わってしまうという考え方には本質を欠いた印象を受ける人も出てきているのではなかろうか。
しかし現行の考え方では人工音声か胸元に文字が表示されるいわゆる筆談形式をとっているかというだけで文章という呼称を適用すべきかの判定をしていることになる。
増田というある種の仮想空間においても我々は喉を潰され筆談を強制されているようなものだ。
筆談する障がい者の表現は全て「文章」力という尺度によって評価されるべきなのだろうか?現に「口下手」だった後天的啞が筆談でコミュニケーションを取っている場面でその巧拙が考察される場合、おそらくそれは会話という捉え方で分析されるように思えるし、このような場での表現の巧拙をやみくもに全て文章力と呼んで処理する傾向は腑に落ちない。
dorawiiより
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こんな夢を見た。
『2025年12月のある真夜中、モスクワは崩壊した。何が起こったか世界は知りえなかった。12時間後、北京政府は地球外からの侵略者に備えると宣言し、シベリアに軍を派遣した。しかしその軍は跡形もなく崩壊してしまった。その12時間後、北京も崩壊した。
まだ世界は何が起こったか理解できなかった。その中で朝鮮の太っちょは側近を連れシベリアに向かった。彼はロシアと中国に何があったか少し知っていた。太っちょがシベリアにつき、何者かに接して24時間後、朝鮮軍は全長20kmを超える三機の漆黒のモノリスの助力を得て南進した。南進開始より48時間経たず、南の国家は崩壊し、太っちょは朝鮮半島の統一を宣言し、アメリカのトラ大統領他中国周辺の各国首脳を、ピョンヤンに招くと伝えた。
崩壊したモスクワでは、朝鮮半島とは別の深紅のモノリスより現れた仮面の人物により新生ロシア政府の成立が宣言された。ウクライナに即時の現状維持での停戦を求めたが、ウクライナはそれを拒否した。そして、言ったはずだ!同志になれと!!なぜそれが判らなかったのだぁ!!!とのメッセージとともにキエフもまた崩壊した。キエフが崩壊してから24時間後モスクワからリヴィウに、今度は蒼鉛のモノリスが向かった。時を同じくして、何かを知っていたローマ教皇がバチカンに集めた枢機卿を引き連れてウクライナに向かった。モノリスはリヴィウにつき、中からでてきた初老の男性がプッチン以下をウクライナに引き渡した。ローマ教皇一行はモノリスからの人物の前に跪き、神よとあがめたが、その人物は、神とは違うのだよ!神とは!と答えた。NATO各国も初老の男性に接触しようとしたが、すぐさま蒼鉛のモノリスとともに消え去り、詳細を得ることはできなかった。
数日後、トラ大統領他中国周辺国家の首脳は日本に集まり、事前協議をした後、横田基地より米軍機に乗りピョンヤンに降り立った。朝鮮の太っちょが議長となり、各国首脳とモノリスから現れた人たちの会談が開かれた。主を失った中国は、当面周辺各国が進出し、難民の流出を押しとどめ、分割統治が行われることが決まった。日本は現地人の対日感情が悪いということで、何ももらえなかった。朝鮮軍の南進によって捕虜となっていた在韓米軍はモノリスの人物の好意で、モノリスによって丸ごと横田基地に運ばれることに決まった。トラ大統領一行もモノリスに同乗し、その技術力に目を見張った。
横田基地に帰還したトラ大統領一行により、詳細の発表が行われた。失われた十部族が帰ってきたのだと。十部族は地球帰還に際し、無人のシベリアを帰還地としてロシアと交渉していた。おりしもウクライナ戦争で不利になったプッチンが、台湾進攻を企てていたプーとともに、十部族の持つの技術を奪取しようとしたが、返り討ちにあったのだと。
敵か味方かわからない十部族について世界各国は動揺した。それを静めるため、太っちょとトラ大統領の計らいで、後日十部族の長たちが国連で演説することとなった。
数週間後、白銀のモノリスで、十部族の各長が国連に到着した。降り立ったのはすべて女性であった。そして、その長達によって驚くべき歴史事実が公表された。
ユダヤ一神教の神とは、宇宙航行種族であったこと。航行種族が地球を発見以来、詳細な人類史の記録があること。知性の萌芽を見つけた宇宙航行種族は、宇宙の法を教えようとしたが、ユダヤ民族以外は受け入れなかったこと。十二部族が他民族に滅ぼされかけたので、従った十部族だけ緊急に航行種族のルナベースに保護されたこと。ローマ帝国成立後、航行種族は介入を止め、観察に徹したこと。
イエスは十部族と関連があった人物であったが、規則を破り、他民族にも宇宙の法を広めようとしたこと。6壺のワインと、5000人分のパンをUBERで注文したが、代価を払わなかったこと。そのため罰として、地上で処刑されるとき見放し、のちに復活させて収監したこと。大陸の東の孤島に収監する前にローマから逃げるパウロに会わせたことが、偶然カトリック教会の礎になったこと。現地妻との間にできた子供に誕生祝いのコップを贈っているが、それは聖杯ではなく収監先の津軽焼のお土産であること。
この時イエスの拘束された写真が表示されたが、聖骸布とは似ても似つかぬ、丸顔に無精ひげのおっさんであった。
そして、マホメットとは十二部族とも航行種族とも何の関係もないことが語られた。
世界はパニックに陥った。ローマ法王はまだ沈黙を続けている。イスラム圏では、それでもイスラム教を信じるもの、棄教するものとの争いになった。
まだ公表は続く、七十人訳聖書の誤訳について、旧約聖書の舞台は現代のイスラエルではなく、紅海の東岸、イエメンとサウジのある場所であること。
十戒を下した場所が特定され、出エジプト記のルートも従前言われたエジプトからではなく、アラビア半島内での逃避行であったことが明示された。
(そりゃ国家成立後70余年掘り返してみてもユダヤの遺跡なんか見つかるわけないわ、各国の聖書考古学者は嘆き、その人生を後悔した。)
イスラエルにいるユダヤ人とは血統的に十二部族とは関係がないこと、それ以上にパレスチナ人の方が残された二部族に血統が近いこと。
ローマ帝国の滅亡により、帰還が1000年遅れたこと。そしてローマ帝国の滅亡の轍を再び踏もうとしたため帰還予告を送ったこと。
ファティマの預言とは、十部族の帰還の予告であった、百年待っていて下さい、きっと逢いに来ますから。その時までに文明崩壊をさせないようにという警告も含めていたことであった。なぜファティマが選ばれたか?それはたまたま十部族の地上関係者の居住地の近くだったに過ぎない。
日本神話とギリシャ神話、インド神話はそれぞれ実際に起こったことを神格化したに過ぎず、アトランティスは現在のドニャーナ国立公園にある。
そして、所定の場所を掘ればそれなりの遺跡が出るとのことだった。
バベルの塔は、塔ができたことにより、いろいろな言語を話す人たちが集まってきたが、落雷で壊れ、その時の混乱が大げさに伝わったものだった。
ノアの洪水はかつて地中海は干上がっていたが、そこに黒海より水が流れ込んだ時の出来事であったとか。
(まぁ、昔だから距離とか偉業とかは口伝で正確ではなく、記録が定まったときには大げさになってるだろうと、各国の歴史学者は妙に納得した。)
ムー大陸とノストラダムスの予言に至っては、チャーチワードの詐欺でありまた、詩集を他人が勝手に拡大解釈したものとバラされた。
(カルト宗教や陰謀論の信者たちは、それでもこれらを信じた。)
航行種族より十部族にも公開されてない史実があるらしい、それは総会後の雑談でもたらされた。
インダス?シュメール?あれはねぇ、ちょっとした失敗らしいの、前だから詳しくは教えてもらえなかったの。
でね、ピラミッドは航行種族の転送装置を、現地人が真似て作ったもの。真似だから動かないし、時代を経るごとに大きくなっちゃたらしいの。
巨石遺跡や隙間のない石垣は、現地人がやってくれたら法を学んでくれると言われたからやったらしいけど、結局学んでくれず、放置されちゃった名残りだって、等々。
十部族はすでに月の裏側のラグランジュポイントにシオン公国を築いており、地上ではシベリアに基地を持っていたので、約束の地は放棄する方針であった。
そしてルナベースには航行種族の系外へのワープ施設が設置されているとのことだった。(ちなみにこの施設、一回動かすのに13バクトゥンかかるらしい。)
その発表後、ローマ法王は真実の隠匿を認め、カトリック教会の解散を宣言し、マラキの予言通り、最後の法皇となった。カトリックより分派した宗教は、カトリック以上にそれぞれの存在意義を失った。
中東は大混乱に陥った。まず、イスラエルはその存在意義を失った。イスラエルを離れるもの、一個人として残るものと様々であった。
パレスチナ人は、今更ユダヤ教に改宗してどうする?と血統と信教の板挟みに陥った。
サウジイエメンは国内にある聖書の遺跡や約束の地の扱いに苦慮する羽目になった。
欧米では、宗教意義を失った移民と現地民との間の軋轢が高じ、無政府状態に陥った地域もあった。
各国の陰謀論者たちは歓喜したが、思い至らなかったこと、関係者ではなかったことを悔やんでいた。
台湾は将来の中華統一を目指して、関係各国と粛々と交渉を始めている。
太っちょは、十部族の一番弟子、統一の英雄、大朝鮮帝国初代皇帝を自称し、認めたくないものだな自分の有能さを、とにっこにこである。
日本では、少し?物価高になったが、相も変わらず、日常が続いている。
かくして天国の門は開かれた。七つの大罪を背負うものは地上に留め置かれ、七つの徳を成したものは昇天する権利を得た。
なお、日本の女性首脳はまだ踊っている、あぁ時間(とき)が見えると。
おしまい。』
『羅小黒戦記2』は続編であって、長編シリーズ中の1エピソードと言うか外伝と言うか、シェアードワールドの二次創作みたいな作品で、全然違うよというのは言うまでもないとして
面白いなと思ったのはまず
・特訓シーンが冒頭にある
これね。
『羅小黒戦記2』は冒頭の会館(寺みたいなところ)襲撃シーンの次に特訓シーンがある。
この襲撃シーンと言うのは、ド派手なバトルを冒頭に持ってくることにより、観客を一気に引き込む「掴みはオッケー」思想に裏打ちされておりハリウッドのアクション映画やジャンプ系漫画でもままあるタイプだ。スターウォーズとかラピュタとか。
その直後のシーンが特訓だ。
『酔拳』『蛇拳』しかり、ふつうは、特訓=成長シーンは中盤にある。特訓シーン、意味づけが記号的なので見ている方はダレがちである。そのため、見ている幼児先輩を飽きさせないように、ディズニーなんかだと『ヘラクレス』『ムーラン』『ライオンキング』などなど「セリフなし+お歌のシーン」になることが多い。
『羅小黒戦記2』は設定説明、おはなしのセットアップの説明を兼ねて”緊張と緩和”の内、緩和の方のシーンとして、師匠と弟子ののんびりした日常が特訓シーンに相当する場面になっている。(特訓ではなく「訓練」「鍛錬」と言った方がニュアンスは正確)
もちろん、すぐ気がつく悪口技術の無自覚な高さもその中に入っている。「いやあ、ろくなことがないね。野比のび太は30分後に~」でつづく一連のセリフは、まだ未確定だったものの、その後の作品の生命を支える重要な場面を生み出すことになったと私は思う。
芥川龍之介と藤子不二雄(F氏と、たぶんA氏も)のペアは、同じというわけではないけれど比べてみるといろいろ面白い点が見えてくる。
平易なようで真似するのが非常に難しい文章。星新一ともまたちがう。
だれの批判につぶされているのかわかりにくい点。
大衆的なのに本格的推薦文がいまだ少ない、なのに強い生命力をもつ作品群。
登場人物の人物描写の書きつくそうとするとぶつかるむずかしさ。
特徴
各話で主要人物が登場する(またはそれに準じる)際に、ページ4段ブチ抜き画法で人物を描く。これはデビュー当時からの特徴であり、ヤスが作画を担当している『じょしらく』でも同様の描写が踏襲されている。弟子の畑健二郎も初期に使っていたものの徐々に使用頻度は減っていった。
『改蔵』から『絶望先生』まで続く画風に関しては、キャラクターや衣装、構図などのデザインにおいて、漫画業界内、さらには『改蔵』公式ファンブック『かってに研究しやがれBOOK』(以下『ファンブック』)で雑誌「ファッションニュース」編集長の向千鶴からも高評価を得ている。編集部内で話題になった現実世界のファッションを何週か後に『改蔵』内で名取羽美が着ていたこともあったという。
「どよんど」「にょんたか」など、独特の擬音を作中で織り込むことでも知られ、特にメールを打つ際の擬音「めるめる」は『かってに改蔵』内で「著作権フリーなのでどんどん使ってください」と宣言して以来、漫画家の間でも広まっている。
特に『絶望先生』ではやや政治的なネタも見られるが、それは思想の押し付けではなく、久米田は「(喜劇としての)漫画が説教臭くなったらおしまいだ」と『改蔵』作中で登場人物に述べさせ、インタビューでも「その時々の報道内容をネタにしているため、思想が一定しない」旨の発言もしている。
執筆方法
『行け!!南国アイスホッケー部』後期にスクリーントーン処理に関してMacを導入して以降、次第にパソコンに頼る部分が多くなり、『かってに改蔵』以降は全工程においてパソコンを使い執筆している。なおパソコン本格導入の背景には『ポカポカ』から『改蔵』に至る間にそれまでのアシスタントが独立することになったこともあると『改蔵』コミックス等で述べている。
二三年前の夏、未だ見たことのない伊香保榛名を見物の目的で出掛けたことがある。ところが、上野驛の改札口を這入つてから、ふとチヨツキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた革財布がなくなつてゐた。改札口の混雜に紛れて何處かの「街の紳士」の手すさみに拔取られたものらしい。もう二度と出直す勇氣がなくなつてそれつきりそのまゝになつてしまつた。財布を取つた方も内容が期待を裏切つて失望したであらうから、結局此の伊香保行の企ては二人の人間を失望させるだけの結果に終つた譯である。
此頃少し身體の工合が惡いので二三日保養のために何處か温泉にでも出掛けようといふ、その目的地に此の因縁つきの伊香保が選ばれることになつた。十月十四日土曜午前十一時上野發に乘つたが、今度は掏摸すりの厄介にはならなくて濟んだし、汽車の中は思ひの外に空いて居たし、それに天氣も珍らしい好晴であつたが、慾を云へば武藏野の秋を十二分に觀賞する爲には未だ少し時候が早過ぎて、稻田と桑畑との市松模樣の單調を破るやうな樹林の色彩が乏しかつた。
途中の淋しい小驛の何處にでも、同じやうな乘合自動車のアルミニウム・ペイントが輝いて居た。昔はかういふ驛には附きものであつたあのヨボ/\の老車夫の後姿にまつはる淡い感傷はもう今では味はゝれないものになつてしまつたのである。
或る小驛で停り合はせた荷物列車の一臺には生きた豚が滿載されて居た。車内が上下二段に仕切られたその上下に、生きてゐる肥つた白い豚がぎつしり詰まつてゐる。中には可愛い眼で此方を覗いてゐるのもある。宅の白猫の顏に少し似てゐるが、あの喇叭のやうな恰好をして、さうして禿頭のやうな色彩を帶びた鼻面はセンシユアルでシユワイニツシである。此等の豚どもはみんな殺されに行く途中なのであらう。
進行中の汽車道から三町位はなれた工場の高い煙突の煙が大體東へ靡いて居るのに、すぐ近くの工場の低い煙突の煙が南へ流れて居るのに氣がついた。汽車が突進して居る爲に其の周圍に逆行氣流が起る、その影響かと思つて見たがそれにしても少し腑に落ちない。此れから行先にまだいくらも同じやうな煙突の一對があるだらうからもう少し詳しく觀察してやらうと思つて注意してゐたが、たうとう見付からずに澁川へ着いてしまつた。いくらでも代はりのありさうなものが實は此の世の中には存外ないのである。さうして、ありさうもないものが時々あるのも此の世の中である。
澁川驛前にはバスと電車が伊香保行の客を待つてゐる。大多數の客はバスを選ぶやうである。電車の運轉手は、しきりにベルを踏み鳴らしながら、併しわり合にのんきさうな顏をしてバスに押し込む遊山客の群を眺めて居たのである。疾とうの昔から敗者の運命に超越してしまつたのであらう。自分も同行Sも結局矢張りバスのもつ近代味の誘惑に牽き付けられてバスを選んだ。存外すいて居る車に乘込んだが、すぐあとから小團體がやつて來て完全に車内の空間を充填してしまつた。酒の香がたゞよつて居た。
道傍の崖に輕石の層が見える。淺間山麓一面を埋めて居るとよく似た豌豆大の粒の集積したものである。淺間のが此邊迄も降つたとは思はれない。何萬年も昔に榛名火山自身の噴出したものかも知れない。それとも隣りの赤城山の噴出物のお裾分けかも知れない。
前日に伊香保通のM君に聞いたところでは宿屋はKKの別館が靜かでいゝだらうといふことであつた。でも、うつかりいきなり行つたのでは斷られはしないかと聞いたら、そんなことはないといふ話であつた。それで、バスを降りてから二人で一つづゝカバンを提げて、すぐそこの別館の戸口迄歩いて行つた。館内は森閑として玄關には人氣がない。しばらくして内から年取つた番頭らしいのが出て來たが、別に這入れとも云はず突立つたまゝで不思議さうに吾々二人を見下ろしてゐる。此れはいけないと思つたが、何處か部屋はありませうかと聞かない譯にも行かなかつた。すると、多分番頭と思はれる五十恰好のその人は、恰度例へば何處かの役所の極めて親切な門衞のやうな態度で「前からの御申込でなければとてもとても……」と云つて、突然に乘込んで來ることの迂闊さを吾々に教へて呉れるのであつた。向うの階段の下では手拭を冠つて尻端折つて箒を持つた女中が三人、姦の字の形に寄合つて吾々二人の顏を穴のあく程見据えてゐた。
カバンをぶら下げて、悄々しをしをともとのバスの待合所へ歸つて來たら、どういふものか急に東京へそのまゝ引き返したくなつた。此の坂だらけの町を、あるかないか當てにならない宿を求めて歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はるのでは第一折角保養に來た本來の目的に合はない、それよりか寧ろ東京の宅の縁側で咲殘りのカンナでも眺めて欠伸をする方が遙かに有效であらうと思つたのである。併し、歸ることは歸るとしても兎も角も其處らを少し歩いてから歸つても遲くはないだらうとSがいふので、厄介な荷物を一時バスの待合所へ預けておいてぶら/\と坂道を上つて行つた。
宿屋が滿員の場合には入口に「滿員」の札でも出しておいたら便利であらう。又兎も角も折角其家を目指して遙々遠方から尋ねて來た客を、どうしても收容し切れない場合なら、せめて電話で温泉旅館組合の中の心當りを聞いてやる位の便宜をはかつてやつてはどうか。頼りにして來た客を、假令それがどんな人體であるにしても、尋ねてくるのが始めから間違つてゐるかのやうに取扱ふのは少し可哀相であらう。さうする位ならば「旅行案内」などの廣告にちやんと其旨を明記しておく方が親切であらう。
こんな敗者の繰言を少し貧血を起しかけた頭の中で繰返しながら狹い坂町を歩いてゐるうちに、思ひの外感じのいゝ新らしいM旅館別館の三階に、思ひもかけなかつた程に見晴らしの好い一室があいてゐるのを搜しあてゝ、それで漸く、暗くなりかゝつた機嫌を取直すことが出來たと同時に馴れぬ旅行に疲れた神經と肉體とをゆつくり休めることが出來たのは仕合せであつた。
此室の窓から眼下に見える同じ宿の本館には團體客が續々入込んでゐるやうである。其の本館から下方の山腹にはもう人家が少く、色々の樹林に蔽はれた山腹の斜面が午後の日に照らされて中々美しい。遠く裾野には稻田の黄色い斑の縞模樣が擴がり、其の遙かな向うには名を知らぬ山脈が盛上がつて、其の山腹に刻まれた褶襞の影日向が深い色調で鮮かに畫き出されて居る。反對側の、山の方へ向いた廊下へ出て見ると、此の山腹一面に築き上げ築き重ねた温泉旅館ばかりの集落は世にも不思議な標本的の光景である。昔、ローマ近くのアルバノ地方に遊んだ時に、「即興詩人」で名を知られたゲンツアノ湖畔を通つたことがある。其の湖の一方から見た同じ名の市街の眺めと、此處の眺めとは何處か似た所がある。併し、古い伊太利の彼の田舍町は油繪になり易いが此處のは版畫に適しさうである。數年前に此地に大火があつたさうであるが、成程火災の傳播には可也都合よく出來てゐる。餘程特別な防火設備が必要であらうと思はれる。
一と休みしてから湯元を見に出かけた。此の小市街の横町は水平であるが、本通りは急坂で、それが極めて不規則な階段のメロデイーの二重奏を奏してゐる。宿屋とお土産を賣る店の外には實に何もない町である。山腹温泉街の一つの標本として人文地理學者の研究に値ひするであらう。
階段の上ぼりつめに伊香保神社があつて、そこを右へ曲ると溪流に臨んだ崖道に出る。此の道路にも土産物を賣る店の連鎖が延長して溪流の眺めを杜絶してゐるのである。湯の流れに湯の花がつくやうに、かういふ處の人の流れの道筋にはきまつて此のやうな賣店の行列がきたなく付くのである。一寸珍らしいと思ふのは此道の兩側の色々の樹木に木札がぶら下げてあつて、それに樹の名前が書いてあることである。併し、流石にラテン語の學名は略してある。
崖崩れを石垣で喰ひ止める爲に、金のかゝつた工事がしてある。此れ位の細工で防がれる程度の崩れ方もあるであらうが、此の十倍百倍の大工事でも綺麗に押し流すやうな崩壞が明日にも起らないといふ保證は易者にも學者にも誰にも出來ない。さういふ未來の可能性を考へない間が現世の極樂である。自然の可能性に盲目な點では人間も蟻も大してちがはない。
此邊迄來ると紅葉がもうところ斑に色付いて居る。細い溪流の橋の兩側と云つたやうな處のが特に紅葉が早いらしい。夜中にかうした澤を吹下ろす寒風の影響であらうか。寫眞師がアルバムをひろげながらうるさく撮影をすゝめる。「心中ぢやないから」と云つて斷わる。
湯元迄行つた頃にはもう日が峯の彼方にかくれて、夕空の殘光に照らし出されて雜木林の色彩が實にこまやかに美しい諧調を見せて居た。樹木の幹の色彩がかういふ時には實に美しく見えるものであるが、どういふものか特に樹幹の色を讚美する人は少ないやうである。
此處の湯元から湧き出す湯の量は中々豐富らしい。澤山の旅館の浴槽を充たしてなほ餘りがあると見えて、惜氣もなく道端の小溝に溢れ流れ下つて溪流に注いで居る。或る他の國の或る小温泉では、僅かに一つの浴槽にやつと間に合ふ位の湯が生温るくて、それを熱くする爲に一生涯骨を折つて、やつと死ぬ一年前に成功した人がある。其人が此處を見たときにどんな氣がしたか。有る處にはあり餘つて無い處にはないといふのは、智慧や黄金に限らず、勝景や温泉に限らぬ自然の大法則であるらしい。生きてゐる自然界には平等は存在せず、平等は即ち宇宙の死を意味する。いくら革命を起して人間の首を切つても、金持と天才との種を絶やすことは六かしい。ましてや少しでも自己觸媒作用オートカタリテイツク・アクシヨンのある所には、ものの片寄るのが寧ろ普遍な現象だからである。さうして方則に順應するのは榮え、反逆するものは亡びるのも亦普遍の現象である。
宿へ歸つて見ると自分等の泊つてゐる新館にも二三の團體客が到着して賑やかである。○○銀行○○課の一團は物靜かでモーニングを着た官吏風の人が多い。○○百貨店○○支店の一行は和服が多く、此方は藝者を揚げて三絃の音を響かせて居るが、肝心の本職の藝者の歌謠の節※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はしが大分危なつかしく、寧ろ御客の中に一人いゝ聲を出すのが居て、それがやゝもすると外れかゝる調子を引戻して居るのは面白い。ずつと下の方の座敷には足踏み轟かして東京音頭を踊つて居るらしい一團がある。人數は少いが此組が壓倒的優勢を占めて居るやうである。
今度は自分などのやうに、うるさく騷がしい都を離れて、しばらく疲れた頭を休める爲にかういふ山中の自然を索たづねて來るものゝある一方では又、東京では斷ち切れない色々の窮屈を束縛をふりちぎつて、一日だけ、はめを外づして暴れ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はる爲にわざ/\かういふ土地を選んで來る人もあるのである。此れも人間界の現象である。此の二種類の人間の相撲になれば明白に前者の敗である。後者の方は、宿の中でも出來るだけ濃厚なる存在を強調する爲か、廊下を歩くにも必要以上に足音を高く轟かし、三尺はなれた仲間に話をするのでも、宿屋中に響くやうに大きな聲を出すのであるが、前者の部類の客はあてがはれた室の圍ひの中に小さくなつて、其の騷ぎを聞きつゝ眠られぬ臥床ふしどの上に輾轉するより外に途がないのである。床の間を見ると贋物の不折の軸が懸かつて居る、その五言の漢詩の結句が「枕を拂つて長夜に憐む」といふのであつたのは偶然である。やつと團體の靜まる頃には隣室へ子供づれの客が着いた。單調な東京音頭は嵐か波の音と思つて聽き流すことが出來ると假定しても、可愛い子供の片言は身につまされてどうにも耳朶の外側に走らせることの出來ぬものである。電燈の光が弱いから讀書で紛らすことも出來ない。
やつと宿の物音があらかた靜まつた後は、門前のカフエーから蓄音機の奏する流行小唄の甘酸つぱい旋律が流れ出して居た。併し、かうした山腹の湯の町の夜の雰圍氣を通して響いて來る此の民衆音樂の調べには、何處か昔の按摩の笛や、辻占賣の聲などのもつて居た情調を想ひ出させるやうな或るものが無いとは云はれない。
蓄音機と云へば、宿へ着いた時につい隣りの見晴らしの縁側に旅行用蓄音機を据ゑて、色々な一粒選りの洋樂のレコードをかけてゐる家族連の客があつた。此れも存在の鮮明な點に於て前述の東京音頭の連中と同種類に屬する人達であらう。
夜中に驟雨があつた。朝はもう降り止んではゐたが、空は低く曇つてゐた。兎も角も榛名湖畔迄上ぼつて見ようといふので、ケーブルカーの停車場のある谷底へ下りて行つた。此の谷底の停車場風景は一寸面白い。見ると、改札口へ登つて行く階段だか斜面だかには夥しい人の群が押しかけてゐる。それがなんだか若芽についたあぶら蟲か、腫物につけた蛭の群のやうに、ぎつしり詰まつて身動きも出來さうにない。それだのにあとから/\此處を目指して町の方から坂を下りて來る人の群は段々に増すばかりである。此の有樣を見て居たら急に胃の工合が變になつて來て待合室の腰掛に一時の避難所を求めなければならなかつた。「おぢいさんが人癲癇を起こした」と云つてSが笑出したが、兎も角も榛名行は中止、その代りつい近所だと云ふ七重の瀧へ行つて見ることにした。此の道筋の林間の小徑は往來の人通りも稀れで、安價なる人癲癇は忽ち解消した。前夜の雨に洗はれた道の上には黄褐紫色樣々の厚朴の落葉などが美しくちらばつてゐた。
七重の瀧の茶店で「燒饅頭」と貼札したものを試みに注文したら、丸いパンのやうなものに味噌※(「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68)を塗つたものであつた。東京の下町の若旦那らしい一團が銘々にカメラを持つてゐて、思ひ思ひに三脚を立てゝ御誂向の瀧を撮影する。ピントを覗く爲に皆申合せたやうに羽織の裾をまくつて頭に冠ると、銘々の羽織の裏の鹽瀬の美しい模樣が茶店に休んでゐる女學生達の面前にずらりと陳列される趣向になつてゐた。
溪を下りて行くと別莊だか茶店だかゞあつて其前の養魚池の岸にかはせみが一羽止まつて居たが、下の方から青年團の服を着た男が長い杖をふりまはして上がつて來たので其のフアシズムの前に氣の弱い小鳥は驚いて茂みに飛び込んでしまつた。
大杉公園といふのはどんな處かと思つたら、とある神社の杉並木のことであつた。併し杉並木は美しい。太古の苔の匂ひがする。ボロ洋服を着た小學生が三人、一匹の眞白な野羊を荒繩の手綱で曳いて驅け※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、どう思つたか自分が寫眞をとつて居る傍へ來て帽子を取つてお辭儀をした。學校の先生と間違へたのかどうだか分らない。昔郷里の田舍を歩いて居て、よく知らぬ小學生に禮をされた事を想ひ出して、時代が急に明治に逆戻りするやうな氣がした。此邊では未だイデオロギー的階級鬪爭意識が普及して居ないのであらう。社前の茶店に葡萄棚がある。一つの棚は普通のぶだうだが、もう一つのは山葡萄で紅葉してゐる。店の婆さんに聞くと、山葡萄は棚にしたら一向に實がならぬさうである。山葡萄は矢張り人家にはそぐはないと見える。
茶店の周圍に花畑がある。花を切つて高崎へでも賣りに出すのかと聞くと、唯々お客さんに自由に進呈するためだといふ。此の山懷の一隅には非常時の嵐が未だ屆いて居ないのか、妙にのんびりした閑寂の別天地である。薄雲を透した日光が暫く此の靜かな村里を照らして、ダリアやコスモスが光り輝くやうに見えた。
宿へ歸つて晝飯を食つてゐる頃から、宿が又昨日に増して賑やかになつた。日本橋邊の或る金融機關の團體客百二十人が到着したのである。其爲に階上階下の部屋といふ部屋は一杯で廊下の籐椅子に迄もはみ出してゐる。吾々は、此處へ來たときからの約束で暫時帳場の横へ移轉することになつた。
部屋に籠つて寐轉んで居ると、すぐ近くの階段や廊下を往來する人々の足音が間斷なく聞こえ、それが丁度御會式の太鼓のやうに響き渡り、音ばかりでなく家屋全體が其の色々な固有振動の週期で連續的に振動して居る。さういふ状態が一時間二時間[#「二時間」は底本では「二間時」]三時間と經過しても一向に變りがない。
一體どうして、かういふ風に連續的に足音や地響きが持續するかといふ理由を考へて見た。百數十人の人間が二人三人づつ交る/″\階下の浴室へ出掛けて行き、又歸つて來る。その際に一人が五つの階段の一段々々を踏み鳴らす。其外に平坦な縁側や廊下をあるく音も加はる。假に、一人宛て百囘の音を寄與コントリビユートするとして、百五十で一萬五千囘、此れを假に午後二時から五時迄の三時間、即ち一萬八百秒に割當てると毎一秒間に平均一囘よりは少し多くなる勘定である。此外に浴室通ひ以外の室と室との交通、又女中や下男の忙はしい反復往來をも考慮に加へると、一秒間に三囘や四囘に達するのは雜作もないことである。即ち丁度太鼓を相當急速に連打するのと似た程度のテンポになり、それが三時間位持續するのは何でもないことになるのである。唯々面白いのは、此の何萬囘の足音が一度にかたまつて發しないで、實にうまく一樣に時間的に配分されて、勿論多少の自然的偏倚は示しながらも統計的に一樣な毎秒平均足音數を示してゐることである。容器の中の瓦斯體の分子が、その熱擾動サーマルアヂテーシヨンのために器壁に反覆衝突するのが、いくらか此れに似た状況であらうと思はれた。かうなると人間も矢張り一つの「分子」になつてしまふのである。
室に寐ころんだ切り、ぼんやり此んなことを考へてゐる内に四時になつた。すると階下の大廣間の演藝場と思はれる見當で東京音頭の大會が始まつた。さうして此れが約三十分續いた。それが終つても、未だその陶醉的歡喜の惰性を階上迄持込[#「持込」は底本では「持迄」]んで客室前の廊下を踏鳴らしながら濁聲高く唄ひ踊る小集團もあつた。
「バスの切符を御忘れにならないやうに」と大聲で何遍となく繰返して居るのが聞こえた。それからしばらくすると、急に家中がしんとして、大風の後のやうな靜穩が此の山腹全體を支配するやうに感ぜられた。一時間前の伊香保とは丸で別な伊香保が出現したやうに思はれた。三階の廊下から見上げた山腹の各旅館の、明るく灯のともつた室々の障子の列が上へ上へと暗い夜空の上に累積してゐる光景は、龍宮城のやうに、蜃氣樓のやうに、又ニユーヨークの摩天樓街のやうにも思はれた。晝間は出入の織るやうに忙がしかつた各旅館の玄關にも今は殆ど人氣が見えず、野良犬がそこらをうろ/\して居るのが見えた。
團體の爲に一時小さな室に追ひやられた埋合せに、今度はがらあきになつた三階の一番廣く見晴らしのいゝ上等の室に移され、地面迄數へると五階の窓下を、淙々として流れる溪流の水音と、窓外の高杉の梢にしみ入る山雨の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊るPermalink |記事への反応(0) | 18:19
https://www.youtube.com/watch?v=SqQXvgaiZ_U
❤️ ニサルガダッタ・マハラジは、インドの非二元哲学の偉大な教師のひとりで、世界中のスピリチュアル・シーカーに大きな影響を与えた存在です。彼の最も有名な著作は、弟子が語録をまとめた『IAm That(私は在る)』です。
❤️ 特徴
❤️ 教えの核心:「私は在る」
マハラジの教えは、非常にシンプルかつラディカルです。その中心はこの言葉にあります:
つまり、思考や感情、記憶、身体、役割などの一切を横に置き、ただ「私が存在している」というシンプルな自己意識に集中しなさいという教えです。これを続けていくことで、やがて「私」という感覚すら超え て、真我(純粋な意識)そのものに気づくと言います。
創価学会が現在「平和、文化、教育」を掲げる団体として知られているのは事実ですが、その主張が一貫していたわけではなく、歴史的に段階的な変化をたどっています。
創価学会は1930年に教育者・津田三男(後に創価教育学会と改称)によって設立され、当初は教育改革を目的とした団体でした。
しかし、1937年に日蓮正宗の信徒団体として位置づけられ、宗教活動が中心となりました。この時期、津田は軍国主義的な日本政府に批判的な立場を取り、特に1943年に「治安維持法違反」や「天皇への不敬」の罪で逮捕されました。
彼の主張は、当時の国家神道や他の仏教宗派に対する強い対抗意識を含んでおり、折伏(他宗を批判し自宗へ改宗を迫る方法)を通じて過激な布教活動を行っていました。
津田と2代目会長・戸田城聖は、戦時中の弾圧(特に1943年の逮捕)で組織が一時解散状態に陥りましたが、戦後の1945年に戸田が釈放され、活動を再開しました。
この時期も、戸田は他宗派への批判や強引な勧誘を続けたとされ、特に戦後復興期の混乱の中で急速に信者数を増やしました。例えば、1950年代には「折伏大行進」と呼ばれる大規模な布教キャンペーンが展開され、時に暴力的な対立も報告されています。
3代目会長・池田大作が1951年に戸田の秘書として入会し、1960年に会長に就任して以降、創価学会の方向性が大きく変わりました。
戸田が1957年に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器廃絶を訴えたことが転換点とされています。池田はこれを引き継ぎ、1964年に公明党を結成する際、平和主義を党是として掲げました。
この転換は、戦後日本の民主化や冷戦下での平和運動の高まりに適応した結果と考えられます。また、池田は国際的な対話や文化交流を重視し、1970年代以降は核軍縮や国連との連携を主張するようになりました。
ただし、この平和主義は一部で「戦略的なイメージ戦略」と見なされ、初期の過激なイメージを払拭するためのものだったとの批判もあります。
現在、創価学会は平和を中核に据えた活動を展開し、2023年の池田大作名誉会長死去(11月15日)後もその遺産が強調されています。
2025年時点でも、公明党は連立与党として平和憲法の維持や福祉政策を推進しており、創価学会の会員数は約800万人(2020年推定)を維持しています。しかし、初期の過激な布教方法が完全に払拭されたわけではなく、一部の地域では依然として強引な勧誘が問題視されるケースも報告されています。
池田大作(1928年1月2日~2023年11月15日)について、その出自や創価学会での役割を詳しく見ていきます。
池田は東京大田区で生まれ、貧しい家庭に育ちました。第二次世界大戦中の空襲で家を失い、戦後は黒澤映画の撮影所で働きながら生活を支えていました。
1947年、19歳の時に友人に誘われ、創価学会の法話会に参加。そこで2代目会長・戸田城聖と出会い、熱心な信者となりました。戸田は池田を「宿命の弟子」と呼び、1951年に秘書として側近に抜擢しました。
池田は教育を受けたわけではなく、独学で知識を蓄え、戸田の指導の下で組織運営や布教活動に才能を発揮しました。彼の出自が不明確とされるのは、公式な経歴が限定的で、戦後の混乱期に組織に身を投じた背景が強調されるためです。
1960年、32歳で3代目会長に就任。戸田の死去を受けて組織を再編し、会員数を飛躍的に増やしました(1950年代の約5万人から1970年代には数百万人に成長)。彼は国際的な視野を持ち、1974年に初の海外訪問(アメリカ)を皮切りに、192カ国で活動を展開しました。
池田は著書や講演を通じて「師弟関係」を強調し、自分を日蓮の再来と位置づける発言もあったため、カルト的との批判を招きました。特に1990年代、フランス議会が1995年に発表した「カルトリスト」に創価学会が含まれたことが国際的な議論を呼びました。
池田は1990年に会長職を退き名誉会長に就任しましたが、2000年代以降は健康上の理由で公の場にほとんど姿を現さず、2023年11月に95歳で亡くなりました。
死後、息子の池田博正が教育法人「創価学園」の理事長として活動を続けていますが、宗教団体の指導は現会長・原田稔(2023年就任)が担っています。
彼の影響は、教育機関(創価大学、SUAなど)や文化団体(民音協会)の設立に現れており、2025年現在もその思想は創価学会の基盤となっています。
創価学会の平和主義は、初期の過激な布教から戦略的な転換を経て確立されたもので、池田大作の指導がその転機となりました。彼の出自が謎めいている印象は、公式記録が限定的で、伝説的な人物像が強調されてきたためかもしれません。政治的には、公明党を通じて日本の与党政治に深く関与しつつも、宗教団体としての過激な側面が完全には消えず、賛否両論を呼んでいます。
今2店舗目作ってる。なんでちょっと上手くいってんだよ。まあ、失敗するよりはマシかもしれんけどさ。
ただ母親がさ、「老後はゆっくり旅行とかしたかったんだけどね」
と、寂しい笑顔向けてきてさ、悲しくなった。
たださ、親父は親父で仕事人間でさ、動かないと死ぬ人間なんだよな。
親父から仕事取り上げたらきっと母親と同じ寂しい笑顔するんだよね。
どっちの味方すれば良いんだろうね。ちなみに親父の蕎麦はまあまあ美味いよ。親族贔屓目無しに。
→元バイトというか社員というか。なんか身内が言うと辺に恥ずかしいけど親父の弟子に当たる人物。蕎麦屋開いてもう8年経ってるしな。暖簾分けっていうのかな。
後出しジャンケンでごめんな