
はてなキーワード:廃仏毀釈とは
ここ数回の『ブラタモリ』は江戸時代に盛んだった“大山参り”の道のりをたどるという企画で、都内から大山街道を巡り、昨日はいよいよ最終目的地、大山阿夫利神社を目指すという回だった。
江戸時代の浮世絵もみながら、いかに“大山参り”が盛り上がっていたか、なんて話もしながら、大山ケーブルに乗車。
途中、日本のケーブルカーでは唯一という“離合ポイント”(ケーブルの両端で繋がってる2台の車両が丁度すれ違うところ)に駅があるという“大山寺駅”で一旦降車。
車両のすれ違う様子をみたり、急斜面にある駅のベンチにすわってみたりして、そのまますぐまたケーブルカーで移動して、大山阿夫利神社の下社に参拝。
さらに登った山頂にある本社にはさすがにタモリを歩かせるわけにもいかず、スタッフと中継でつないでいた。
さて、なにがスルーされたのか。
タモリ一行が神社に参拝するシーンで、唐突に隅の方にテロップがでた。
日本の歴史ある寺社の多くがそうなのだが、大山というのも江戸時代までは神仏習合の山岳信仰の対象で、大山参りというのも、今でいう“神社にお参りする”という感覚とは少し違った。
現在、大山阿夫利神社の下社がある位置には、「石尊大権現・大山寺」があり、不動明王も祀られていたのである。
大山参りとは、仏教とも結びついた“権現さまとお不動さまへのお参り”だったのである。
だが、そんなことは全く触れないので、なんだか今も昔も神社へのお参りをしてたような印象になっていた。
明治の廃仏毀釈で、大山阿夫利神社と大山寺は完全に分離された。
“幕末の大火と廃仏毀釈により廃寺の危機に陥ります。神道による祭政一致の王政復古を目指す明治新政府にとっては、江戸幕府が保護した仏教寺院は旧体制の象徴にほかなりません”
”廃仏毀釈により数多くの寺宝が失われ、堂塔が破壊される中、ご本尊の鐵不動明王だけは地元住民の篤い信仰に守られ、山外退去を免れて現在地に本堂が再建の後、遷座しました”
と記されている。
タモリが途中下車した“大山寺駅”は、この寺の最寄り駅だったのだが、寺には寄らず。
江戸時代に賑わった大山も、神道を中心にした“祭政一致”を目指した明治政府のせいで、なかなかに激動の一時期があったはずなのだが、そのことはテロップ一行でスルーされたのである。
断片的な記憶だが、以前、高尾山にいったときには、神仏習合の名残が色濃く残る様子をみながら、“ここは廃仏毀釈を免れたんだねえ”なんて話をしてたように思う。
だからタモリも廃仏毀釈とか、そのへんの知識がないわけ無いし、番組としてそのへんの話を絶対にさけるとかいうことではないのだと思うが、ま、今回は案内役が大山阿夫利神社の権禰宜の方だったので、“実は、昔はここは神道の神社じゃなくて不動明王さまが祀ってあったんですよ”なんて話はするわけないか。
明治維新は、日本の伝統をいろいろ破壊したけっこう過激な運動だったはずなのだが、どうもそのへんはあんまり知られてないように思う。
せっかく大山いったんなら、そのへんももう少し突っ込んだ番組にしてほしかったけど、ま、紀行バラエティにそこまで求めるのは無理か。
やはり阿夫利神社の権禰宜の方に出ていただく手前、大山寺の不動明王と、阿夫利神社と、両方お参りするとかは無理?
ところで、さっきwikipediaを見たら、大山阿夫利神社、戦後、神社本庁の傘下(宗教法人法でいうところの被包括宗教団体)にはならず、単立でやってきたのが、今は神社本庁の下にあるという記述があった。
どういう経緯があったのだろう?
そこそこ参拝客いそうだし、単立でもやっていけそうだけど。
Permalink |記事への反応(19) | 15:33
殺生を禁じてるはずの仏教界だが、日中戦争や太平洋戦争当時に大規模な戦争反対論戦を張った話は聞かない。それどころか、戦時中は積極的に戦意高揚のプロパガンダの一翼を担っていたのだ。
仏教連合会、大日本仏教会、仏教護国団、大日本戦時宗教報国会、戦時教学、皇道禅で調べたらいいと思う。
大体に、如何なる理由があっても絶対に戦争を避けるのが仏教の道であると観てゐるのが支那の仏教徒であり≪理由のある戦争はやってこそ仏教の大慈大悲に叶う所以である≫といふのが日本の仏教徒である
という理屈をこねくり回して、軍部におもねり、檀家の男子を戦地に送り出したのが日本の戦時仏教だ。『仏教の戦争観』(1937 林屋友次郎、島影盟)
浄土真宗本願寺派二十三世門主大谷光照(帝大卒、昭和天皇の従兄弟)曰く、「国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし」
寺には天皇を讃える位牌があり、戦死者には名誉の戦士を讃える勇ましい戒名を与えることで戦争を後押しした。鐘や大仏の供出にも積極的に応じた。侵略先での布教もした。
廃仏毀釈が進み、国家神道が大手を振る中で仏教が生き残るための(というよりは、仏教界のお偉いさん達がその地位や財産を維持するための)努力ではあったでしょうね。
最近、昭和のドラマや映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。
正直、この年齢になるまで篠田監督の作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督の意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物の人間性や時代の矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代の若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。
映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵の鶴川(原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女が瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身の選択ではなく、レイプによるものだった。
そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族の存在がほのめかされ、ついには母親の存在を告白するシーンは映画のクライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。
この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合の矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。おりんと鶴川に共通するのは、このイエからの周縁性だ。
天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代の国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパの統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体、世帯すべてのレベルで上から下まで論理的に整合する入れ子構造にするために、寺子から氏子へと転換する廃仏毀釈という荒業まで行った。イエの主従関係は、現代にいたるまで日本人のDNAとまでいえるほど根深い。嫁姑、上司部下、先輩後輩など。どんなに言っていることがおかしくても絶対である、という点で共通の倫理だ。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。
大正デモクラシーはそうした不条理を解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況が日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治が毎日新聞をにぎわせた。
脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたときの鶴川の叫び「何が、国民皆兵だ。金持ちの徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度の矛盾を背景に、映画は鶴川の叫びやおりんの境遇を通じてその時代の不条理を描いている。
また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観や生活の変化を象徴している。
そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女(若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女と出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。
この映画で特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。
鶴川が官憲に連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。
鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このときの岩下志麻の演技すごい。
このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station」降旗康男監督(1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。
水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。
好きな男には帰る場所が別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。
おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないか、あんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。
鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親が瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会の現実、瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。
鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。
女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。対照的に、同時代の男性歌手では、何気に、上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊や松山千春の「旅立ち」が典型。
この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマ「おしん」でも同様にみることができた。
おしんの物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲に拷問され転向を余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家は父親が貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀の実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。
「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像で感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川が告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。
男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい、自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女の時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキレ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポが絶妙だ。
また、ラストシーンの親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化の終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品。
おりんの物語は、単なる一人の女性の悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代そのものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。
篠田正浩監督が描きたかった「日本の原風景」とは、単なる美しい日本の風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様そのものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和のドラマや映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。
また、ドラマ「おしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。
鎌倉、いいところですね。
関東に来たばかりの頃は、鎌倉にきて、こんな"古都"もあるんだなあと少しばかりびっくりしたけれど。
古都という色眼鏡を外せば、鎌倉の良さがすこしずつわかってきた、気がする。
鎌倉というと歴史都市と思われがちだけど、案外関西なら西宮から西側、須磨とか塩屋あたりまでくらいの雰囲気に近いのかもしれない。
あそこまでハイソな雰囲気はないけれど、東京の文化が入ってきていて、それなりに洒落た店も多い。
京都のように深い伝統の香りはしないけれど、まあ、いい感じの海沿いの街としては、ありなのではないかな。
春の晴れた日に海沿いの古い路地を歩くと、これが漱石の味わった鎌倉かもなあと、嬉しくなる。
関東風の中華そば(甘すぎず美味しい)とか、無骨な力もちとか、そういう、言ってみれば滋賀の片田舎で感じるような、素朴な良さが鎌倉にはただよっている。鎌倉野菜は京野菜のパクリみたいで笑ってしまうけれど。
最後に、寺社仏閣としては、見るべきものはそれほど多くないけれど、禅寺の荒々しい雰囲気はなかなかよい。京都の禅寺は洗練されすぎていて、貴族の宮殿みたいなのだ。ああいうのは、本来の修行の場としての寺ではないんだろうなと思っていたから、鎌倉くらい無骨な雰囲気の方が、らしくてよい。
鶴岡八幡宮は、廃仏毀釈で見る影(それは石清水八幡宮もそうだ)もないけれど、それでももう少し建築年代が古ければ良かったのに、と思う。石清水八幡宮だってこないだ国宝になったんだから。あれ、近世建築としても、洛中のものからすれば格落ちすると思うけれども。
サーフィンでも、はじめようかな。
いや、けしかけたの俺なんだけどね。
しばらく近隣のお寺がカバーしていたんだが、限界と言う事で、三十歳半ばの若い僧侶が赴任してきた
お寺は優良物件だそう。観光寺ではないんだけど、廃仏毀釈の流れからの戦後で、歴史的経緯で複数のお寺が合併しており、檀家数が無茶苦茶多い。その結果、無茶苦茶経営が安定している。
そのためか、赴任してきた僧侶は、10歳で仏門に入り、本山から観光寺まで巡ってきたという無茶苦茶エリートがやってきた。
檀家の世話人会に年寄りばかり出ていたところで、同世代の俺が出ていったところ、若くて住職と年齢が近いからと言う理由で大量の仕事を振られた結果である。
その連絡のためにLINEを交換したところ、何故か一日一度「今日の拙僧」みたいなLINEが届くようになった。
例えば、檀家さんが野菜を持ってきてくれたけれど食べきれないので、子ども食堂にお裾分けをしたら、浅漬けにしていただいたのでありがたく頂戴しておいしかった、とか、育成会が焼き芋をすると言うので落ち葉を貯めておいたが、水が溜まってしまってしけってしまい、煙ばかりで上手く燃えなかった、とか。
こちらが反応できなくても送られてくる。
それがあまりにも素朴で面白いので、LINEビジネスで公式アカウントを作ったらどうか、連絡も簡単になるし、ジジババも孫と連絡用でスマホ使ってるよとか言ったところ、やってくれと言う。
結果、登録者がじわじわ増えて、この間ライトプランじゃ足りなくなってスタンダードにした。
もちろんLINEだけではないけれど、お寺でお葬式をしたいという相談が来るようになって、実に二十数年ぶりにお寺で葬儀を行い、それがコンスタントに続いていたり、(先代住職の葬儀すらセレモニーホールだったのに)
近所の不登校の子が「お寺なら行く」といって、住職のところに仏教画を習いに来たり、
何より、世話人会に若いのが出てくる様になって、お布施の振込・キャッシュレス化が一気に進んだりとか色々と安定してきた。
結局、接触を増やす事が大事なんだろうなと。そのためのツールとして、LINEはやはり強い。このままLINEペイでお布施が払えると楽なんだが、これは禁止だった。
Permalink |記事への反応(11) | 11:09
なわとび:602回
ボクシング:126kcal
『夜明け前』読みおわった
まあ、実は読み終わったのは結構前なんだけど、せっかく読んだからなんか書いておきたいなと思ってから実際に書くまで結構時間がかかった
最初の巻を読んだのは実は結構前で、もう15年以上昔のこと。以来続きの巻をそのうち読もうと思いつつなんだかんだで今まで来てしまった
kindleを導入したときに、手持ちの本をいくつか電子書籍と置き換えようと思って、青空文庫に入っている本をいくらか処分したのだけれど、その時ついでに続刊を持っていなかった『夜明け前』を全部揃えてあとで読むリストに放り込んでおいた
一度、どうにか読んでしまおうと思って自動読み上げ機能に読ませてみたこともあるのだけれど、漢字の読みがぐっちゃぐっちゃで、たとえば「金兵衛」を「きんひょうえ」と読んだりする
これを聞きながらちゃんと理解しようとするよりは、自分で読んだほうがまだ脳みそのリソース消費が少ないなと思って断念した
あとで読むリストに入れて毎日目にしているとなんとなく爪のささくれのように気になるもので、今年とうとう一念発起して読んでしまうことにした
実はこのあとにまだ20年積んである『破戒』というのも控えているのだけれど、まあこれは来年あたりに読んでしまおうか
こっちは一冊で終わるし
さて読み終わってみると、まず第一になぜ藤村は父親の一代記とも言うべきこの本を書こうとしたのかということを考えるわけだけれども、これはやはり父親が精神を病んだからというよりも、その過程で家の菩提寺でもあり、代々深い付き合いのあった万福寺に放火しようとしたことの原因を探ろうという意味合いがあったのではないかという気がする
物語はすべてこの放火事件へ向かって流れていき、この事件のあとはすべてエピローグであるように自分には読めた
ところで、物語は半蔵の父親の吉右衛門の時代は万事が概ね順調で、半蔵の世代に移ってからは半蔵自身の才覚のなさもあって波乱万丈なように見えるが、これはたぶん作者自身が実際に見たのが半蔵の時代だったから祖父に当たる吉右衛門の時代が理想的に見えているだけで、実際には吉右衛門の時代は吉右衛門なりの苦労があったのはもちろん、彼なりの不手際や軋轢もたくさんあったのではなかろうかと想像する
半蔵は半蔵なりに精一杯その時代を生きたし、それは彼の父親の吉右衛門も変わらなかったろうと思うから
いつの時代もどんな人であっても安気に暮らしている人はそうそういないもので、その人なり、その時代なりの苦労をそれぞれ背負って生きているものだろうと思う
これはまあ4冊も通して付き合った半蔵に対する同情でもあるけれど
個人的な興味関心との関連でいうと、一つは、最近登山をするようになって各地の山にある神社仏閣を訪れる機会が増えて、その由来などを調べるにつれ、明治の廃仏毀釈がいかに激しかったかを知り、なぜあのようなことが起きたのか興味があったので、その思想的背景の一端を知れたことは良かった
とはいえ平田国学から廃仏毀釈へと至る背景にはさらに江戸時代の寺院がかなりの権力を持っていて、その弊害が大きかったらしいこともうかがえるので、むしろ平田派の思想はきっかけに過ぎなかったのかもしれない
このへんはまた機会があったらちゃんと調べたいところ
もう一つ、この前恵那山にも登ってきて正直面白みの薄い山だなと思っていたのだけれど、木曽路から見る恵那山の描写を読むとこの山はむしろ麓から眺めることにこそ面白さがあるのかもしれないと思ったりした
そりゃさすがに「問題ないと思います」なんて言うわけにはいかないから批判してるってことにするけど
「わざわざウイグルの話を持ち出す奴はネトウヨ」とか「ウイグルの件は問題だけど中国全体を叩くんじゃねーぞネトウヨ」っていう言い方をするよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ShinodaHideaki/status/1313842966063005697
x988日本国内の人権問題には全く関心がないのに都合のいいときだけウイグル問題を持ち出して話題をそらすネトウヨたち。政府に批判的な人物を追放するのはオタクの大嫌いな中国そっくりですよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASNBG7F0YNBCUHBI00Y.html
Gl17人権主義から報じてるこれを朝日disに利用したり、或いはレイシズム丸出しで嫌中※記している連中て要するに弾圧側と一緒の思想だろ、陣営違うだけで。それがダメなんだよ。既出だが廃仏毀釈の歴史とかこれだよね。
senbuuいくらでもこの差別政策に対しては批判すべきだが、この件では便乗して中国人全体を貶める輩がいつもいつも少なからず存在する。心ある者は、そういった背後の差別者も非難しよう。見て見ぬふりをするなら共犯だぞ。宗教差別ウヨがひどい
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/1a44351ac948fe6c0129721b526b8d12d55f5da0
ちなみにこっちは本当に「私は中国批判に荷担しません」と言った人たち
https://twitter.com/neoamakusa/status/1303525771437244417
ムーランを叩いてるのは本当はウイグル族の事なんてどうでもいいくせに、中国とディズニー憎しでここぞとばかりに吹き上がってる連中ばかりなんですよね。
そういうネトウヨや差別主義者を利する事になるので、私は加担しません。
皆さんも一度冷静になって「誰が」叩いてるかよく観察した方が良いです
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/uyghur-j.org/japan/2020/09/mulan/
RRD 残念ながら、世界は単純化を望んでる。ここでの中国批判が踏み絵という単純化された行為なら俺は踏まない。キリスト信者でなくても信教の自由を重んじるなら踏むべきではなかったように。
ルネサンス(芸術復興)を経験していないから(というか復興しなければならないような芸術破壊を経験していないから)ではないだろうか。(強いて言えば信長とか廃仏毀釈とかだが全体的なものではない)
西洋においては、ルネサンスの後でも、写真の発明とジャポニズムの発見によって印象派やシュールレアリズムが生起された。現代芸術はその流れの上にある。
中国においては共産革命、文化大革命によって既存の芸術は壊滅的に破壊され、その損失を穴埋めするために、世界に散逸した古典芸術を買い戻すだけでなく、中国人現代アーチストの作品を買い求めている。
日本においては、明治の文明開化によって西洋美術が導入したが、日本美術にとってかわったわけではない。日本美術は西洋美術の技法・思想をとりいれてさらなる進歩を遂げたといえよう。日本美術は現代美術のコンテキストを独自にとりいれているともいえる。
日本における西洋美術は、それ自体が現代芸術のようなものであったし、それを完全に消化、定着しきったわけではない。したがって、それにとってかわる現代芸術も海外の見た目だけを真似たものにしかなっていないのではないか。