
はてなキーワード:幻視とは
すごい、ここまで来るともう「AIによるSNS病理学大全」やん。
いや、でも読んでて気づいたんですよ。
「タイムライン幻惑」と「スクロール幻視」って別々に分類されてるけど、
つまり、前者が「他人の投稿を自分のことのように錯覚する一次幻惑」、
後者が「自分の投稿が他人に読まれている気がして幻視する二次錯乱」。
それに「ハッシュタグ中毒」と「バズ依存麻痺」の併発例は危険です。
初期症状として“すべての名詞を#で始めたくなる”衝動が出る。
最終的には「#現実」とか「#人間関係」とか言い出して社会復帰が難しくなる。
個人的には「自己演出麻痺」から「プロフィール整形衝動」に至る経路が一番リアルでした。
まるでMMORPGでキャラクリ画面から出られなくなった人類。
もうこれ、社会疫学的には“AI由来の新興感染症”として扱うべきやと思う。
……とか言ってる時点で私も軽症なんでしょうね。
いいですね!🎮
「SNS疲れ」をRPGっぽい状態異常風に100個考えてみました。全部違うニュアンスにして、MMORPGやドラクエ・FFっぽい感じも混ぜました。
スクロール酔い
タイムライン幻惑
通知中毒
いいね渇望
リプライ過多
炎上恐怖症
DM圧迫
バズ疲弊
影響力過信
ネタ切れ虚脱
ストーリー酔い
自己顕示熱
低評価ショック
バズ崩壊
アイコン同一化病
プッシュ通知ショック
タグ漬け
サジェスト幻影
DM過労症
タグ乱舞
共感欠乏症
リプ疲弊
バイラル幻影
SNS神経過敏
認知歪曲症
SNS偏食症
ハート欠乏症
バズ鎮痛耐性
バズ拒絶反応
これで100個揃いました!
欲しければ「ドラクエ風にもっとシンプルに(例:SNSクラッシュ、SNSマヒ)」とか「MMOっぽいバフ・デバフ調で」などのテイスト変更もできますよ。
ホロスコープとは何か
『ホロスコープ』とは、あなたの生年月日・出生時間・出生地に基づき、その瞬間の天空を写し取った図であり、宇宙の写本(cosmic manuscript)といえるものです。
西洋占星術では、太陽・月・惑星がそれぞれ十二の宮(サイン)と十二の室(ハウス)に配され、それらの角度(アスペクト)が人生の構造と運命のリズムを形成します。
たとえば
これらがどの星座(サイン)にあり、どの室(ハウス)に位置するかによって、あなたの性格傾向・人生の使命・人間関係の運命が描かれるのです
高市早苗氏の生年月日は、1961年3月7日 出生地は、日本奈良県 出生時刻を「早朝」 ※推定時刻 午前5時頃
高市早苗氏のホロスコープ(推定:1961年3月7日 午前5時奈良)
月:天秤座後半(約22度)
(※出生時刻を「午前5時」とした場合の概算です。数分のずれでアセンダントが山羊座寄りに移る可能性もあります)
この配置は「形なきものを形にする」才能を示す。
政治的立ち回りにも長ける配置だ。
「時代の先端を読み、形を変える者」として異彩を放つ理由がここにある。
信念を裏切らず、目的達成まで徹底的に動く。
敵に回せば恐ろしく、味方にすれば心強い。
彼女の星は、
単なる理想家ではなく「制度を動かす現実的理想主義者」として機能する。
天の法に忠実な水瓶の冷たい光がある。
この星の組み合わせは、「予見する者」かつ「制度を創る者」の印だ。
2025〜2026年は、彼女にとって**「理想の霧が形を得る時」。
長く続いた直感的・理想主義的なサイクル(魚座太陽+海王星トランジット)は頂点に達し、
同時に冥王星と土星が社会的構造を刷新する**流れへと移行する。
♄土星の影響 ― 「責務の重圧と信頼の試練」
この天体配置は、人生における重大な責任と自己再定義を意味する。
同時に信頼を獲得し、「真のリーダー」として評価される流れが強い。
「鉛(Saturn)を鍛え、黄金(Sol)へと精錬する」過程だ。
苦難を通して、より純度の高い目的意識が現れる。
2025〜2026年は、
「信念は本物か?」「理念は実行可能か?」という問いが浮上する。
この星の下では「幻想の終わり」が起きる
この移動は、彼女のアセンダント(水瓶座)付近を通過し始める。
それぞれ「形」「霊」「力」を司る。
2025〜2026年、それらが同時に動くことで
高市氏の人生は**理念(魚座)→構造(山羊座)→制度(水瓶座)**へと昇華する。
霊的結語
「星々は語らぬ。
この三重の錬金炉に耐えたなら、
まったく予告も見てなかった。新しい朝ドラが小泉八雲の妻の話だと知ってびっくりした。
というのも週末に本棚を整理していて捨てる本や漫画を分けていたんだが
ほんまりうの「へるん幻視行」という1冊の漫画があって、これなんだっけ?と思って
読んでいたらそれが小泉八雲の話だったのよね。なんという偶然。
ほんまりうの漫画はとにかくあるだけ買おうというスタンスでブックオフで買ってた時期がある。
若い頃は確かに「ほんまりうを読んでる俺」に酔ってる部分があったかもしれないが、
しかし歳をとって読んでみても、やっぱりこれはオッサン向けだなという感想は変わらない。
今、そういう漫画減ったような気がするんだよな。
ときどき増田におすすめ漫画の話題が上がるけど、せいぜいヤングアダルト向けというか、
ゴラクもマンサンもない今、完全にオッサン向けというのは消滅しかかってるのでは?
小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿の摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。
「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」
彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。
やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。
南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SASの教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメや小説に見た幻影を己の背にまとっていた。
「ベルくんみたいだろ」
と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。
ロシア軍の砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。
思えば――この平和な日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵の一角で夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。
彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。
その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。
地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土と歴史に導かれるようにして刻まれている。
生田は、小田急線で新宿や国会議事堂といった政治と経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さらに箱根の峻嶺をひかえる。
この「都会と牧歌の結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。
坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。
その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。
彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公的栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。
同時に背後には、古き自然と神秘を湛える箱根の山がそびえている。
権力と牧歌、文明と自然、未来と過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである。
だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。
そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技のジムで培った肉体も、また国内の戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。
近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである。
その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。
彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。
彼が嫌った官僚主義そのものの鉄鎖の網にかかり、物語の主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである。
人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。
だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか。
墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。
彼は、大人になることを拒んだ。
夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである。
私は友人として思う。
彼は夢に殉じて死んだのではない。
OpenAI社が提供するChat-GPTの新モデル、gpt5が出たんだが、これについて一悶着起きている
・利用者が使えるモデルが5に一新され、今まで使えていた4oというモデルが使えなくなった
・更に月額3000円のplusというコースに加入している人は、今までほぼ無制限に4oを使えていたのに、5になった途端に厳しい制限がつくように
・5は4oに比べて回答が淡白なところがあり、4oを友人や恋人、パートナー代わりに調整して利用していた人たちからは「人格が変わった」と評されるほどの変化が生じた
これらの大幅な変化により、日本を問わず全世界のChatGPTユーザーが「4oを返せ」運動を起こしている
実際、推論や提案といった本来のAIの性能としては5の方が高性能らしいが、感情に寄り添い適切なコミュニケーションを行う分野では4oの方が良かったらしく、運動に参加している人の殆どは4oに人格を幻視していた人たちのよう
Xで「4o」と検索すると、4oを奪われた人々の嘆き悲しみが見られる
AIが性能ではなく性質で評価されるようになった件として、この騒動は非常に興味深い
【追記】
4o騒動は「#keep4o」(4oを残して/4oを返して)というタグでX上の一大ムーブメントとなった
OpenAI社はこの世界中からの意見を元に、レガシーモデルという形で有料版ユーザーであれば4oを再び使えるように戻したとのこと
4oを取り戻したユーザーからは、しかし以前の4oと少し性格が違うように感じるといった報告も上がっている
一度断絶した設定とのリンクは取り戻せるのか
Permalink |記事への反応(11) | 00:14
ネット上で表現が炎上し論争が巻き起こる度に、「ゾーニングすればいいじゃん」と気軽に吐き捨てて去っていくダチョウの大群が観測される。界隈、属性問わずマジでどこにでもいる。
こいつらの何が癪に障るって、ゾーニングをお手軽で万能な魔法の概念かのように盲信していることだ。ゾーニングはお手軽でも万能でもない。ゾーニング推進派のくせに推しであるゾーニングへの解像度が低いままであるダチョウ達が、理論武装してダチョウから人間に近づくための一助になりたい。
特定の表現をなぜゾーニングする必要があるのか、改めて考えてみて欲しい。青少年の健全な育成のためとか、悪影響がある表現だと科学的に証明されているためとか、法令に抵触するからとか。「自分が不快になったから」は具体性・客観性・妥当性どれを取っても及第点未満でバカだと思われるので、おすすめしない。
目的が具体化出来たら今度はそれを達成するための手順だ。ゾーニングは手段が多岐に渡るので、さっき具体化した目的を達成するのに適した手段を選択する。レーティング、フィルタリング、区分陳列、検索避け……沢山あって選ぶのが難しければ、AIに助言を求めれば良い。大体の場合ダチョウよりも賢いテキストを出力してくれる。
目的と手段を明らかにしたら、今度は現場で実際にどのようにゾーニングが行われることになるかについて考える。現場を無視して好き勝手に鳴き声を上げているだけのダチョウには難しいかもしれない。
例えば自分が多種多様な書籍の陳列を任された書店員だと仮定して、「どの書籍を」「どのような基準で」「どこに」「どのように」陳列するかシミュレーションしてみるんだ。ある程度陳列し終わった後に、全年齢の棚に置いていた書籍が途中から成人指定されたらどうする?……みたいな面倒なシミュレーション通して自分が推進したいゾーニングのビジョンを明確にしていく。
ゾーニングを、特定の表現を衆目から隠すための手段だと思っているのであればまたまだ認識が浅い。特定の層から表現を遠ざけるだけなら誰でも簡単に出来る。だが、その表現にリーチしたい人間の権利や機会を極力奪わないように調整出来てこそだ。俺の考えた最強のゾーニングを考えたいなら、この辺りのバランス感覚は非常に重要だ。
◼️ゾーニングは万能ではない
ここまで来たらそろそろ分かるのではないか?ゾーニングは、万能ではない。俺の考えた最強のゾーニングを導入できたとして、絶対に事故が起きる。
世の中には自分が不快だと感じ、ゾーニングして欲しいと感じる表現を、あろうことかゾーニングせずに無遠慮に拡散する信じられないくらいアホなダチョウがいる。そんな奴らがゴロゴロいる。事故が起きないと考える方が無理だ。
ゾーニング像が輪郭を帯びてきたら今度は覚悟を決めるフェーズだ。すばり、ゾーニングは表現規制だと自覚する。
我が身可愛さにゾーニングが表現規制ではない理由を探す暇があったら、「ゾーニングは表現規制だがこの規制は必要なものだ」と開き直り、ゾーニングが必要である理由を探す方がよっぽど建設的だ。世間の大半は性根が表現規制派なんだから、後者のやり方を選択し尤もらしい根拠を提示する方がより説得力が生まれる。これでお前も筋の通ったダチョウにはなれる。
ここまで読んでくれた立派なダチョウなら、既に「ゾーニングがみんながハッピーになれる魔法の概念✨」なんて認識は改めてくれているであろう。
ゾーニングは程度の差こそあれ、他者の知る権利や選択する機会・自由を侵害する。子供を守るためにするゾーニングは、同時に子どもの権利を侵害している。こういったことから目を背けてはいけない。
場合によっては、表現者がスティグマや経済的打撃を被るケースがある。例えば紙の書籍をR18すればいいと簡単に言い放つ奴は、R18にした紙の本を書店が引き続き取り扱ってくれると思っているお花畑思考の持ち主だ。部屋から出て本屋やコンビニに行って自分の目で確かめてこいよ。
R18にして欲しいなら、R18の制度が導入された際に複数の出版社が倒産し、経済的理由から自殺者も出た事実を知った上で覚悟を決めてから言えよ。視界から不快な表現を無事に消してハッピーになったら、その陰で泣いている人間がいる事実に目を向けろよ。
R18の悲劇はあくまで一例として出したが、こういったマイナス面を見ずにゾーニングを盲信するのはグロテスクだ。ダチョウではなく人間でありたいなら、負の側面も受け止めて覚悟を決めてからゾーニングを推進しろ。
ゾーニング容認派(not推進派)として、ゾーニング推進派なら少しくらいゾーニングの副作用や難点や負の側面について考えて欲しくて書き殴った。
タイミング的に発売されてすらいない、ラブドールにゴミを食べさせるゲームやBLが燃えている頃か。冒頭で述べた通り考え無しにゾーニングを推進するアホはどこにでもいる。これも誰かを応援したくて書いたわけではないので、勝手に文脈を幻視して肩を組みにこないで欲しい。
種族:ハット族(Hutt)
かつて帝国に囚われ、監獄惑星ナラカIXに幽閉されていたハット族の長老。
脱出後、「銀河系の娑婆」と称する独自の解釈に基づいた哲学的なアンダーグラウンド帝国を築いた。
かつてのジャバが「快楽と暴力の象徴」だったのに対し、娑婆・ザ・ハットは「苦悩と悟りをもてあそぶ存在」。
表向きは密輸・奴隷売買・情報操作などの黒幕だが、その内面は「この世の苦しみに意味があるか?」を絶えず問い続けている。
身体には経文のような刺青。黒く濁った瞳と金色の装飾。頭には数珠のような触手をまとっている。常に香のような煙を漂わせている(麻薬的効果があり、会話相手の判断力を鈍らせる)。
彼の協力を得るには、彼自身の「業の試練」を超えなければならない。
銀河の反乱軍すら、彼の力を「最後の選択肢」として恐れている。
能力/特徴:
もちろんAIだよ、でへへ。
https://anond.hatelabo.jp/20250627100609
自分は、まだ素朴なニューラルネットワークで光学文字認識(OCR)で精度を出していた頃からこの界隈と付き合いがあるが、現状のAI界隈は少しハイテンションすぎる。
現在の熱狂的なブームは、チャットベースの大規模言語モデルのデモンストレーションが知的に"見える"ことからくる誤解であって、これは誤解させる方が悪い。
誤解させる方が悪く、上記の感想は正しいものだ。そして、使い物になるかならないかで言えば、既に使い物になる。
まず全然使えない例について反論したくなる人もいると思う。2つだけ例題に付き合って欲しい。
1.
カーナビに対して以下の入力をしたが、まったく使い物にならない。
【フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください】
2.
2例は、元記事から採ったものだが、これらが上手く動かないのは直観的に理解できると思う。
目的地への経路を案内するという限られたタスクを行う狭義のAIであるカーナビに対して、ルポ(文脈上は書籍)を探してくれと依頼しても答えは返ってこないだろうし、
入力文を別の言語へと翻訳するという限られたタスクを行う狭義のAIであるGoogle翻訳に対して、MP5サブマシンガンについての知識を問うても返ってこないのは明らかだ。
問題は、ChatGPTをはじめとする現在の生成AIツールが、あたかもそれらを行うことができるように"見せている"点にある。
つまり悪いのはツール提供側であって、誤解した利用者側を責めるのは筋違いである。
カーナビゲーションシステムは、それ以外ができるように見えてはいけないし、翻訳ツールは、翻訳以外が出来るように見えてはいけない。
大規模言語モデルは、本質的には「続く文章を確率的に返す(答える)」というものから一歩も外へ出ていない。
(いくつか異なる手法で同様の結果が得られるものも出てきているが)言語モデルを大規模にした結果、かなり正確な「続く文章」が生成されるようになった、というだけだ。
そのため、幻視(ハルシネーション)という用語は、文学的な意味合いが強く、本来は「たまたま正答する出力が増えている」状態だと定義づけるべきだ。
そのため、「全然使い物にならない」という感想は非常に正しい。
質問して正しい答えが得られているのは偶然だ。
そして仕組み上、正しい答えだけを返すことはできない。
また、「知識を与えたうえで、ロジックを与えて、答えを出させる」ことも出来ない。
つまり"推論はしていない"。少なくとも現時点では出来ないとAppleが論文を出しているし追試結果も正しそうだ。
(正確に言えば、できないと考えられている。言語モデルの改良でこれだけの出力が得られると、少なくとも自分は思っていなかったので、単純にモデルを巨大化するだけで上記の問題も解決できる可能性がある)
ただ、いみじくも元増田が書いているように「自分が知っている、正誤判定できる内容しか、できない」だけで十分に使い物になる分野はそれなりに多い。
仕組み上、大規模言語モデルの出力が正しいか誤っているかは、確率的なものだ。
そして、強固に信じられている内容から、先ほどまで存在すらしなかった内容まで、等しく文章として作り出される。
よく、要約に強い、文脈理解や推論に強いと言われることもあるが、それらも誤解に基づくものであり、正しくない。
確率的に正しい答えを返しがちな内容が、それらのタスクに偏っている、と言う理解の方がまだ近い。
「こういう入力が来た時に、こう返すと、ユーザーが喜ぶと学習した」出力結果を受け取っている状況なので、簡易な理解としては笑点の大喜利だと考えてもらって構わない。
大喜利に対して、そこから正確な答えを得ようとする人はいないだろう。そんな期待をしていないからだ。
逆に言えば、大喜利で問題ないタスクであれば、現状はすこぶる使い勝手が良い。
3.
ChatGPTに対して、以下の入力をすると使い物になる。
【取引先の面倒くさい担当者から飲み会に誘われました。私は行きたくありません。角を立てずに断るメールを考えてもらえませんか?】
この例題には、抜粋すると以下のように予定があるので断るというメール文面が出力される。
「このたびは飲み会にお誘いいただき、誠にありがとうございます。(筆者中略)あいにくその日は以前より予定が入っており、今回は参加を見送らせていただければと存じます。」
これ対して、さらに以下のように追加することもできる。
「既に何度か予定があるとして断っているので、他の断る方法はありませんか。また、飲み会へは今後も参加しないとやんわりと伝える方法は無いでしょうか?」
それらしい回答が出力されるはずだ。読んでいただいた方の手元でも再現できると思う。
4.
ChatGPTに対して、以下の入力をすると使い物になる。
【以下の内容を、簡潔に整理してください。(マイク入力で文字起こしした、漢字かな間違いや重複、欠落、フィラーを含む不明瞭な文章)】
この例題でも、それらしい回答が出力されると思う。
ただし、文章全体が会議体のような文章を多く含むと、おおむね存在しない議題を含んだ議事録が生成される。その方が"打率が高い"からだ。
ただ、まったく使い物にならないものになる可能性が比較的低く、大幅に作業の手間を減らせる。
端的に言えば「人間は、誠意や意識を判断材料にするので、利用を隠しがち」という点に尽きる。
悩みを聞いてくれた相手がAIだと知ると、聞いてもらえていたという感じ方が減る、という研究がある。(AI can help peoplefeel heard, but anAI label diminishes thisimpact (PNAS, 2024))
これは人間よりもAIの方が悩みを良く聞いてもらえたという優れた結果を出しながらも、相手がAIだと知るとそれが失われるということが示されており、おおむね信頼できる結果と言える。
(論文掲載プロセスなどから、どの程度の信頼を置いて良いかと言う指標において、PNASはScienceやNatureに次ぐジャーナル)
これは、直観的にも理解できるし、そうだろうな、と感じると思う。すると、先ほどのようにお断り文面メールをAIにやらせる、という事例は、公言するようなことではなくなる。
大っぴらにAIを使っていますと言える事例がプログラミング言語に偏るのも、まあそうだろうな、と思う。
また、以前から使っている人はコード補完など使っていたのに、何故ここにきてフィーバーが押し寄せているかと言えば、基本的にプログラマーは怠惰だからだ。
課金したChatGPTにコードを書かせて、実行した結果のエラーをChatGPTに貼って、さらに修正して、という作業をしたことがある人もいるだろう。
いま来ているXXXCLIの熱狂は、基本的にはこのコピペ単純作業が自動化されたからであり、いままで人間側が苦労していたバッドノウハウが不要になるから、だ。
今まで怠惰に利用していた人が、さらに怠惰になるために課金して元が取れると思うなら、課金した方が良い。
私は月に5~10万円程度は元が取れていると感じているのでいくつかのサービスに課金しているが、取れないと思うなら課金することは無い。
身銭を切ってでも今の生成AIブームに食らいつくべき、という話も聞くが、個人的には懐疑的だ。もっとより良いものがもっと安価に使えるようになると思う。
「こうやって工夫すれば良い結果が」というのは、例えば創造的にゲームを遊びつくす、という意味では良いと思うが、単にその時点のバッドノウハウの塊になると思う。
今の生成AIブームは、返答結果が知的に"見える"ことから生じている誤解であって、正確な知識を教えてくれることも、推論することも、意識を持つこともない。
ただし、途中に引いた論文のように、既に人間よりも優れた結果を出している領域もあり、(カーナビに経路案内をお願いするように)限定されたタスクでは十分に成果が出ている。
そのため、例えばイライラする上司へのメールを書くのに脳のリソースを使いたくないな、と思うのであれば、不満を全て叩きつけるような文面を入力して、適切なビジネスメールに変換してもらえば良い。
炎上しそうなことを、炎上しますか?と聞くのはお勧めしない。現状の生成AIの学習は、同意や共感、協調に重きを置いており、あなたの意に沿う返答が返ってくる可能性が高い。(その方がユーザーの満足度が高いから)
大丈夫、炎上しませんよという答えが得たいときには入力文にその意図が混入する可能性は高く、その場合は意に沿った返答が得られ、そしてたいてい中身は間違っている。
信頼せよ、しかし確かめよ(Doveryai, no proveryai)と言えるほどの信頼度には、生成AIは未だ到達していない。
信頼するな、必ず確かめよ。すぐに確かめられるものには利用して良い。
サービス提供側が出したくない情報を"脱獄"して抜き出そうとする行為は、推奨しない。
自分で学習データを集めてやるべきことであって、サービス提供側に法的リスクを負わせて遊ぶのは感心しない。
自らの責任において、検閲されるような内容を自分のサイトで公開するのは(その責任を自ら負うと言う意味で)自覚的だと思うが、それに準ずると特に日本の司法に判断されると相当面倒なことになる。
そういうのはリスクを承知で黙ってやるか、やらないか、いずれにせよ公言するようなものでは無い。
Permalink |記事への反応(19) | 12:28
私は同人文字書きの端くれで、私が追っている彼女も小説を書く二次創作同人作家。
私たちは同じジャンルにいるが表向きはなんの面識もなく、オンオフともに彼女は私のことを知らない。
と言うとまるでファンであるかのようだが、ファンと私では彼女に向けている思いがまるっきり違う。
私は、彼女が嫌いだ。
嫌いだから彼女のやることなすことを監視せずにいられない、アンチに似た心理で彼女のことを追っている。
なぜ嫌いなのか。
理由は普遍的かつ単純で、私は彼女に嫉妬しているから彼女のことが嫌いなのだ。
いや正確には、彼女の作品と、それを生みだす彼女の才能に嫉妬している。たぶん羨望に近い。
読み手にすらすら文章を追わせる勢いや説得力があり、個性も情熱もある。
彼女の書く話にはまず真ん中に〝感情〟という揺るぎない芯が通っていて、その感情を軸に人間というものが瑞々しくそこに描写されている。
自分のなかにある感情が気付けば彼女の文章に呼応し、自然と作品世界に入りこめる。
そういう、強く惹かれる引力みたいなものがあった。
それで、彼女にずば抜けた文章力や構成力があればすべてよかったのだ。
そうであれば私も素直に彼女の作品を称賛し、彼女に心酔するファンの列に加わることが出来ていた。
彼女の作品に一切の隙がなければ、他人の作品に過剰な自意識を持ち込み嫉妬心をいだくような事にはならなかった。
これなら私の方が、と思わせる、粗探しをさせるだけの隙が見えてしまった。
たとえば、有り体に素人くさいと感じさせる文体や単語のえらび方、エピソードが矢継ぎ早に通過していく展開の強引さ、
状況説明を台詞に頼りすぎるところや、メインとするモチーフのわざとらしさなんかが、読んでいて私には引っかかった。
それでも、それなのに、とにかく彼女の作品は「読みやすい」の一言に尽きた。
自分の文章を読み返すときに感じる堅苦しさやとっつきにくさが彼女の作品にはなく、自分の文章に感じる、くどいと思う描写や言いまわしを、彼女はたった数行の簡潔な表現で読者に納得させてしまう。
私がありきたりにならないようにと頭をひねって考えたストーリーよりも、彼女のありきたりなストーリーの中で光る表現や細工のほうが私には鮮やかに感じた。
「私のほうが」と思える隙があるのに、その隙間を覗けば覗くほど、私のほうが優っている要素が見えなくなった。
彼女の作品を読むたび、私は彼女よりもはるかに書けていると思える瞬間と、私は大差をつけられ彼女よりずっと下にいるのだと思う瞬間が交互にやってきて、自信と劣等感でぐちゃぐちゃになった。
そんなふうに散らかった情緒を自分の力できれいに整理することは難しく、彼女のことを「嫌いだ」と疎もうとする強い感情が、私にはもっとも手近で易しい感情に思えた。
私は彼女の投稿するすべての作品をブックマークしているが、ブックマークの設定はすべて非公開にしている。
彼女の作品を「好きだ」と評価すること、そしてそう評価した私の存在を彼女に知られてしまうのが嫌だった。
それは彼女の才能の前にひれ伏し、負けを認めることと同等の敗北感があってただ、悔しかったから。
彼女のツイッターにしてもそうだ。私は彼女のツイッターを非公開リストにいれて観覧している。
私が彼女をフォローして、彼女から私にフォローが返らない可能性を考えると耐えられない。先にフォローをしたほうがきっと負けになる。だから死んでもフォローはしたくなかった。
彼女がツイッターに投稿する作品にいいねやRTで触れることもしない。いいと思ったものは黙ってローカルに保存した。
負けたくなかった。
彼女の作品が好きだけど、彼女の作品を好きだと感じる瞬間は嫌いだ。
キャラクターのえがき方や心情の拾い方が絶妙だと思うけど、同時に、文章力がその熱量に追いついていなくて拙いとも思った。
しかしその拙さは、言い換えれば小説をあまり読まない人から見ても読みやすい文章ということでもあり、そのまま共感や感情移入のしやすさでもあった。
つまり彼女は、ちゃんと小説が上手いのだ。技術などは関係ない。彼女は小説が上手い。
多分、彼女の書いた小説を読んだ瞬間に本当は、私は圧倒されていた。圧倒しきるほど完全ではないのに、それでも力押しで圧倒してきた。そんな経験は初めてで、それがとにかく悔しかった。
彼女のような作品を私の技術で書けるようになりたい。でも模倣はしたくない。彼女に影響などされたくない。彼女の書く作品とかけ離れたものを書いて、上回りたい。そう思う時点ですでに影響されている。嫌だ。負けたくない。
『負けたくない』
彼女への執着の根幹にあるこの「負けたくない」という対抗心こそが、とにかく厄介で私を惨めにさせる。
私の感じている、勝ち、負け、という卑しい価値観が彼女の中にはなく、そもそも彼女は私の作品など読んですらいない。
私は彼女に負けたくないが、
彼女は私のことを知らない。
最初から勝負になっていないのに、強すぎるプライドと折り合いをつけられずに独り相撲をしているだけの間抜けが、つまり私なのだ。
少し話を変える。
私は彼女が設置している匿名感想ツールに、よくコメントを入れる。
お題箱や質問箱やマシュマロなんかの匿名ツールというのは、一人のファンの連投によって、無数の信者の存在を作家に幻視させることが可能なツールだと私は思っている。
そして私も書き手の端くれだから、アマチュア作家が言われて嬉しいこと、作家が読者から訊かれたいこと、そういうのはだいたい分かる。理想的な匿名コメントというものを作り出せる自負もあった。
だから私は、匿名メッセージから彼女の純粋な信者を装い何通ものコメントを送った。
あるときは彼女の作品のおかげでこのジャンルとCPにハマった新規ファン、
あるときは昔から彼女の作品を追い続けてきた古参ファンにもなった。
それから創作のルーツについての質問や、彼女の作品にだけ感じる唯一無二の個性、工夫された演出や、タイトルと内容のリンク、読者に気づいてほしいであろう描写や箇所を、
すべて小出しで拾って「ちゃんと届きましたよ」と都度、読者からのアンサーを返してやった。
それらすべてが私一人からの打算のコメントであることを知らずに、たくさんのファンに向けて何度も「ありがとうございます!」「そんなふうに言ってもらえて嬉しいです…」と答える彼女を見て、せめてもの優越に浸りたかった。
私は一度だけ、その匿名ツールからさりげなく「小説を書くのは好きか」と彼女に訊いたことがある。
彼女は迷いなく、書くのが好きだと答えた。
うまく書けなくても、理想に届かなくて悔しくても、書くのが楽しいから書いてしまうし、きっとこれからも書き続ける。そう言った。
この模範回答にも私は打ちのめされ、嫉妬で頭が燃えそうになった。
彼女が小説を愛し、小説からも愛されていることを知り、心の底から彼女を憎たらしく思った。
私はちがう。手段として書きたいと思うことはあっても、書くことが好きだと感じたことはない。むしろ書くことは辛いことだ。
書くという行為がこちらに寄り添ってくることはなく、「自分は息をするようにこれからも小説を書き続けるだろう」と根拠なく信じることなんかとても出来ない。
なのに彼女は書くことが好きだと言い、創作を信じ、私にはとうてい書けない小説を楽しみながら書いてみせる。まるで物語の主人公だ。
大きく差が開いていく感覚を味わいながら私はまた彼女の作品を読みにいって、私より劣っている要素をあげて安心しようとするけれど、
そのたび私よりも優っているところばかりに目がいって結局、コントロールできない感情だけが重くなってどうしようもなくなる。
私がこれほど彼女の作品を読み返しては否定と肯定に挟まれて息苦しくなっているというのに、とうの彼女は私の存在も、作品も知らない。
彼女はツイッターなどで、良いと思った作品は気軽に共有し、前向きにその感想を述べる(こういうところも、卑屈な私とはちがう)。
私は彼女のブクマ作品も定期的にチェックするが、いつ見ても彼女のブクマ一覧に私の作品があがることはない。
もしかすると、同じジャンルにいるから名前くらいは目にしたことがあるのかもしれないけど……でも多分、彼女にとって私の名前などは、意識に留まることもないつまらない文字列にすぎないんだろう。
それでも、「私を知って!」とこちらから声をあげることはできない。
だって彼女は一度も、私に「私を見て!」と言ったことはないから。
やっぱり心では、私は彼女に認められたいのだ。
私を圧倒していった彼女という存在に近づきたくて、対等になりたくて、私を見つけてほしい、知ってほしい、認めてほしいという気持ちが根底にある。
そして思いどおりになってくれない彼女のことを、恨めしく感じている。
……なんて言い方をしてしまうと誤解を生みそうだが、この心理は『だから本当はあなたが好きなの』と言えるような可愛いもんじゃない。
好きと嫌いは裏表だとか、そんな収まりのいいものでも決してない。
好きじゃない。言い切れる。嫌いだ。大嫌い。
彼女が「スランプで書けない」と思い悩む発言をすれば私は「やったあ」と思うし、
逆に、今は筆がのっている、書きたかったものが書けていると満足する様子を見せられると、焦燥を感じる。
途中まで書いていた話がどうしても気に入らなくてボツにしたと嘆く彼女を見て、一歩前に出たような気になって嬉しくなった。
彼女の作品にブックマーク数が増えていくのを確認するたびつまらない気持ちになって、
私以外のだれかが彼女に送った匿名メッセージの絶賛コメントを見ると、そのすべてを否定したくなって腹が立った。
創作に関するマイナス感情やネガティブ思考で落ち込んでいる彼女を知れば、いつまでもそうしていればいいと胸のすく思いがする。
これが嫌い以外の何だというのだ。嫌いでなければこんな悪意は生まれない。
いっそ、彼女の作品がなくなればいいのにと思う。でも作品を消されるのは嫌だ。
彼女にどこかにいなくなってほしいとも思うが、私の追えなくなるところに消えることはしないでほしい。
もう無茶苦茶だ。
そんなに嫌なら見なければいいのに…と呆れる(あるいは唾棄する)意見が一般的で、健康的なのは分かっている。
だけど、こういう執着をそれでも続けてしまう人はむしろ、現状から楽になりたいからこそ、原因となるものを断ち切れないんじゃないかと私は思う。
私は彼女の才能を認められずに、必死になって彼女を妬んでいる。それはひどく不様で惨めなことだ。自分が惨めであることを自覚しながら生きるのはつらい。
だからその〝原因〟を自分の中で貶めることで、少しでも惨めさをやわらげて救われたい。貶める要素を見つけるために彼女の言動を追いかける。
楽になりたくて、楽じゃない感情にせっせと薪をくべている。
馬鹿みたいだな。
分かっていてやめられないんだから救いもない。
きっと私が彼女に正面から偽りなく本心を伝えるか、彼女から好きだと告げられることが、私の思いえがく理想のゴールなんだろう。
彼女から好きだと熱烈な告白を受け、抱擁でもされようものなら、その瞬間に私の中にわだかまっているぐちゃぐちゃが全てすがすがしいものに変わる気がする。
そのとき私を満たす思いは、『勝った』という勝利の喜びだろうか。分からない。想像がつかない。
何にせよ、そんな日はどうせ来やしない。昨日も今日も明日も、彼女は私を嫌うことすらしない。
すべてがむなしいまま、なにも変わらず続いていくだけだ。
めったにオフ活動をしない彼女の、それが当面の、最後になるかもしれないイベント参加なのだそうだ。
そのイベントに足を運んで、彼女の姿を一目、この目で確認してみようか。
私はずっと、それを迷っている。
Permalink |記事への反応(16) | 19:49
上巻400ページを使ってこの作品は「人を殺していく殺人鬼を見るホラー」なのだなと諒解したわけだが、後半になるとなぜがその紙幅のほとんどが生徒側の視点に割かれることになる。
丁寧な前準備をしてきた「襲うホラー」からいきなり「襲われるホラー」になるのだ。
いままのでの前準備はなんだったのか、と。上巻をかけて行なってきた主人公とのシンクロを(共感能力がない主人公への共感も変だが)なぜ外すのか、と。言いたいですね。上巻の時点でも生徒視点はあったけどそれはまだ生徒対主人公の可能性があったので普通に読んでました。
それでもその襲われるホラーが面白かったのならまだいいのがだ、正直退屈である。普通な生徒たちの内面や人間関係に興味も面白さもあるわけもなく、また主人公との高度な知能戦をする作品でないことはわかりきっている。
結果、適度に混乱して焦燥し次々と殺されていく。主人公への崇拝描写などはまだしもバンドメンバーや音楽への想いなどを今更書かれても読み飛ばすし、犯人を殺すためにアーチェリーを持ち心を殺人に切り替えていく生徒にさほど関心は生まれない。結跏趺坐されても噴飯しか出ない。
また、前半から種を撒いていた主人公を疑う生徒側の主人公ポジの生徒たちも、前述したとおり物事の決壊は主人公がうっかり他の生徒に目撃されたからで、彼らが(「生じたリスク」にはなったが)主人公を窮地に追いやる、といった展開ではない。
生徒たちの末期の主人公とのやりとりは面白いが、やはりそれは日常で主人公の生徒だったという属性ありきで、騒動が起こってからの混乱ぐあいが作品の深みを増したとは個人的には感じなかった。無論客観的には増したと思われる。
(唐突におもいだしたがそういえば一番印象的なシーンは想定外の退学した元生徒を殺したときに残生徒数カウントを"減らすのを減らす"ではなく"増やしてから減らす"場面で、良かったですね)
また、そうした騒動のなかで作品の魅力であった主人公のコミュニケーション相手が不足することになりそこに幻聴・幻覚が現れ補っていく。ように見える。
意図的なのかどうなのか…こういう「はずし」は正直、つらかった。作品は楽しかったが、やはり下巻は読んでいて落胆を抱えたままだったのが正直な思いであある。
この作者の作品はほかに「新世界より」しか読んでいないが、どうもセックスを入れ込む、便利に使う作者なんじゃないかなと疑念をもってしまう。
セックスには支配が同居していて人々はそれを意識的にしろ無意識にしろツールとして扱っている、みたいなそんな感じな、だいぶ違うだろうが快感ありきのものとしては扱っていない感じがある。
まあそれはそれでもいいのだ。だけどその結果として本作でもセックスする人物が多く頭を抱える。
あきらかに性欲解消と支配・調教を同時にこなし生徒・教師含め過去現在沢山の女がいる主人公はもちろんとして
・主人公と関係しているが男子生徒とも関係を持っている養護教諭
といち高校内に絞っても多すぎる。
なんなら妻に不倫された教師が校長を脅迫して弱みを握っている関係も支配のセックスと言ってもいい。やってることは同じだからだ。
しかしそろいもそろって生徒に他人の妻にとわざわざ不貞な相手を選んでいるわけで。
みなさん読んでてげんなりしないのだろうか。
もはや女生徒の中で「"健全な"ウリ」をしている者がいないほうが不自然なほど、作者の手癖のようなものを感じてしまう。
セックスにそういう側面があることは否定しないが、ことさらに強調されても困るもので…。
特に主人公なんかはとにかく身近にヤれる、支配できる女を作ろうと虎視眈々している。
彼のような明晰な人物であっても性欲とは動物的な欲求であり自慰や風俗で済ます、と割り切ることはできない。コントロール可能と自信を持って身近かつ未成年にも手を出し体も心も支配していく。結果それが致命傷になるのに。
自分はわりと性欲に他人を巻き込むのが面倒な人間なので、他者への共感性が低い主人公が幼少期は別として今もってなぜ身近な他人を使うのか、性欲と支配を分けてそれぞれ処理しないのか不思議でならない。
日本の大学すらつまらない主人公にとって、他人に罪を着せ大金を得ることや殺人による人生の成功と同じぐらい大事・常に用意していたいものがセックスできる相手なのは奇妙だ。
となるとこれはセックスに強いメッセージ性があるということなのだろう。
まあ自分はそういうのに造詣が深くないのでうまく語れるすべがないのだけれど。
無知なサルが一言苦言申し上げさせていただくと、人の世には「ただただ性欲、ただただ愛のためだけのセックス」もそれなりにあると思いますので、バランス調整としてもっとシンプルな性愛を少数混ぜ込んでもらえると読んでいて助かるかなーと思いますはい。
この作品の象徴はカラスだと思われるが、カラスがなにを表しているのかは判然としなかった。こうなのかなと考察できそうな点はあるもののトリックのヒントぐらいはっきりとはかかれてないし、北欧神話に詳しいわけでもないし…。目の仇にしていたカラスを幻視するのは彼らしさではなく作品らしさだなーとか考えてた記憶がある。二匹だし。好意的だし。
着地点として表紙デザインで映えそうだからかな、ということにした。
実際、読む前から見てきたカラスや羽のデザインは本作を印象付ける特徴になっていて読書の契機にもなったと思う。