
はてなキーワード:平穏とは
この前、相互だったフォロワーをそっとブロ解した。仮にその人物をAとする。
私がAをブロ解した理由は、Aが政治の話題に強く染まっていたからだ。
政治の話しはもちろん今を生きる人間として無視できるものではない。だが私は、二次創作をするアカウントではやってほしくなかった。
私はSNSを推しを楽しむツールとして楽しく活用しているので、推し活のアカウントでそういう話題は出してほしくなかったのだ。それは私のプロフィールにも記載していたし、Aもそれを知って相互になったはずだった。
だがAは、推し活の合間に政治的主張を挟んできた。Aの政治に対する主張は別に間違っていなかったので、三年くらいはミュートして我慢した。Aの創作が好きだったし、悪人ではなかったから。
だけど日に日にAの主張は過激さを増していって、とうとう推しをアイコンにしたままデモ活動をしていたので、私のメンタルの限界が来て黙ってブロ解した。
Aをブロ解したら、タイムラインが楽しい話題だらけになって。やっと私のタイムラインに平穏が戻った。ほっと、一安心した。
だけどその平穏は長く続かなかった。
なにも言わずそっとブロ解したのに、Aは目ざとくそのことに気づいたようだった。
AはAが所持するのありとあらゆる複垢で私をブロックしたらしい。まあそのことは別にいい、誰しも見たくないものはある。
だけど鍵垢で私のことを「裏切りもの」呼ばわりしていることを知り、眩暈がした。Aの中では政治の話でブロ解する私は極悪人らしい。
私はAの悪口なんて一言もいってないのに勝手に悪口を言ったと思い込んだAは、Aの相互に私がいかに極悪人であるかとの悪口を広めていってブロックするように指示したそうだ。
……どうしてこんなことになったのか。
そのまま私のことは放置してくれればよかったのに、まさか悪人認定して犬笛吹いて無視を指示するとか。
ブロ解した私の判断は間違っていなかったという思いと、少しの悲しみが入り混じって複雑な思いだ。
Aがアイコンにしているキャラクター、私も大好きだったはずなのに……今ではAを思いおこさせて苦手意識が芽生え始めている。
政治の話をするとは言ってない、推し活メインのアカウントで話題にあげて欲しくなかっただけ。しかもそれは別にAに強要したわけではない。
なのにどうしてここまで、こじれてしまったのだろうか。
へえ、増田の言うリベラル教師っていうのは自分の意に沿わない生徒を切り捨てたとしても教室の平穏と自分の給料の確保が最優先ってことか、すごいね、随分な選民思想なことで
というかもう1年くらい3次元でシコらない様に徹底してる
最近ようやく友達がRTしてくるAV女優の画像で全く立たなくなってきた
愛するエロ漫画・二次元美少女を規制されたくなくて、敵を知るためにフェミニストの主張を調べてエロい目で見られることうんざりしてるのは分かった
心の痛むエピソードも沢山あって本当に皆さんに平穏な日々が訪れてほしいと思う
それでもやっぱり俺はエロ漫画を読んでまだ見ぬセックスを神格化して興奮することに幸福を感じていて、女性に興奮してしまう罪悪感はありつつも薬で性欲をなくしたいとは思わない(そもそも女性に関わらないようにしてる俺の性欲が消えたところで誰も喜ばないし)
マジで仕事で必要なときしか女性には関わらないのでエロ漫画だけはどうか勘弁してください
というかエロで嫌な思いした人の目にも付きやすいのが問題だよな
「バズ」を単なる「数の多さ」ではなく、「場の乱雑さ(エントロピー)」として捉える定義は、現代のSNSの構造を見事に言い表しています。
「正しいこと(秩序)」は情報の流れを止め、「ツッコミどころ(無秩序)」は情報の拡散を加速させます。
その考察を少し深掘りしてみましょう。
エントロピーが低い状態とは、物理学では「原子が整然と並んでいる状態(結晶)」などを指しますが、SNSにおいては「誰もが納得する完璧な正論」がこれに当たります。
秩序(正しさ)は美しいですが、そこには「熱」が生まれません。
一方で、エントロピーが高い状態(気体やプラズマのように粒子が暴れ回る状態)は、SNSにおける「ツッコミ待ち」や「極論」です。
このように、予測不可能な多様な反応(ベクトル)が四方八方から飛び交う状態こそが「バズ」の正体です。
訂正欲求のエネルギー:人間には「整っていないものを整えたい」という本能的な欲求があります。少し「ズレた」主張を見ると、それを秩序に戻そうとして、わざわざコメント(仕事)をしてしまいます。これがエントロピー増大の燃料になります。
| 特徴 | 低エントロピー(秩序) | 高エントロピー(バズ) |
| 内容 | 完璧な正論、教科書的 | 偏見、極論、誤字、勘違い |
| 感情 | 納得(静止) | イラ立ち、嘲笑、驚き(振動) |
| 行動 | スクロール、いいね | 引用RT、リプライ、スクショ |
| 結果 | 平穏なタイムライン | 炎上、議論、カオス |
アルゴリズムは、この「粒子の衝突回数(エンゲージメント)」を検知して、「あ、ここは熱が発生している(盛り上がっている)」と判断し、さらに拡散させます。
「エントロピーの低さは秩序であり、秩序には感情が動かない」という言葉は、至言です。
人々はSNSに「正しい情報」を求めているようでいて、実は「感情を乱してくれるノイズ(高エントロピー源)」を無意識に求めているのかもしれません。完全に整頓された部屋よりも、少し散らかった部屋の方が「生活(ドラマ)」が生まれるのに似ています。
ちなみに、この「エントロピーの法則」を逆手に取って、あえて少しだけ間違える高度な戦略を使う人もいますが、そういった「計算された無秩序」についてはどう思われますか?
家族なら、なにをしても、なにを言ってもいいって考え方の人っているよな。
そりゃあ家族なんだから、なにをしても、なにを言っても、最終的に許してくれる美徳みたいなものはあるかもしれない。それは否定しない。
だけど、家族であることに甘えて安易に自分の機嫌にまかせて、責めるとかダメ出しするとかうるさいい音を立てて存在をアピールするとか、暴言を吐くとか暴力を振るうとか、論外じゃん。
一番近くで暮らす人たちが家族なんだからさ、家族みんなが平穏で落ち着ける場所が家庭だよな。その意識が日々希薄になっていって、家庭がまったく落ち着けない場所になるって、不幸の始まりなんだよ。
家族みんながいつも笑顔も絶えなくてとか、そこまでいかなくても穏やかに過ごしてさ、お互いを大切に考えてさ、基本的にポジティブなことをコミュニケーションの軸にしていたら、これは幸せへの入り口になると思うんだよ。
家庭持ってるみんな、日頃マイナスな、ネガティブな言動と、プラス、ポジティブな言動どっちを多く過ごせてる?
青臭いかもしれないけどさ、俺は自分の家庭がさ、家族みんなの幸せの入り口たる場所であってほしいってそう思うんだ。
辛いこともあるけど、それでも、そう信じて生きるんだ。
世界を変えるとか、イノベーションを起こすとか、もうそういうデカい話はいいんだ。疲れた。
俺が今一番なりたいのは、ファミリーパックのせんべいとか、柿の種の小袋の裏にひっそりと印刷されている「豆知識」を考える人だ。
「猫が顔を洗うと雨が降る理由」とか「カメハメハ大王のフルネーム」とか、知ってても知らなくても人生に1ミリも影響しない、あの無害なテキスト。あれを毎日考えたい。
誰かが仕事の合間に、あるいは日曜の午後に、バリボリと煎餅をかじりながら、ふと裏返して読む。
「へぇ〜」と、たった1秒だけ思う。
そして袋はゴミ箱へ捨てられる。
その一瞬の「へぇ〜」のためだけに、図書館で調べ物をしたり、言い回しを調整したりする生活。
承認欲求も、数字へのプレッシャーも、クソみたいな人間関係もない(と信じたい)。
ただ、誰かの平穏なティータイムの、ほんの僅かな暇つぶしになりたい。
俺はあそこで余生を過ごしたい。
「世の中の仕組み」などという触れも話せもしない者を相手にするしかなかった人間に「話したこともない一人の男を殺す」以外どんな手段が残されていたと思って話している?
正直に書く。私、38歳。バリキャリを自認している女だ。
20代は仕事一筋。気づいたらアラフォー手前で、慌てて婚活を始めた。「どうせなら良い人と」という意識が強くて、相手の条件にこだわった。年収1000万円以上、一流企業勤務、顔も悪くない... いわゆる「ハイスペック」と言われる男性ばかりを選んで、付き合ってきた。
何人かと真剣に交際して気づいたこと。彼らは私自身を見ていなかった。
彼らが求めていたのは、「自分のステータスに釣り合う」という名の、アクセサリーとしての妻、つまり「トロフィー」だった。
「うちの妻は、この年齢なのにこんな仕事をしていて、こんなに綺麗で、料理もできて…」 彼らの言葉の端々から透けて見えたのは、私を自分のコレクションの一部にしたいという傲慢さだった。結婚後も私に「常に高いレベル」を要求し続けることが目に見えていた。
特に決定的だったのが、私がインフルエンザで寝込んだ時だ。 彼から送られてきたのは「ちゃんと体調管理しろよ。君が倒れると困るんだから」というLINE。そこにあったのは心配じゃなくて、管理する対象としての私への機能不全クレームだった。あの瞬間、熱よりも心が冷えた。
今は、婚活アプリから「年収フィルタ」を外し、全く別のタイプの男性と付き合っている。彼は公務員で、年収は平均的。一流大卒でもないし、ブランド物を身につけてもいない。
でも、彼は私の仕事の悩みを「それ、大変だったね」と、ただ一言で受け止めてくれる。私の話を聞くときに、ちゃんと目を見て、鼻で笑わず、頷いてくれる。
高スペックな彼らといたとき、私は常に「完璧な私」を演じようと必死で、週末のデートすら「審査」のように感じていた。
本当に欲しかったのは、社会的な地位じゃなくて、家に帰った時の心の平穏と安心感だったんだと、38歳になってやっと気づいた。スペックという名の冷たい宝石箱の中で、窒息寸前だったんだ。
私と同じように「ハイスペ」という呪いにかかっている女性はいないか?一度、そのフィルター外して、本当に求めているものが「見栄」なのか、「安らぎ」なのか、見つめ直してみてほしい。
投稿者様の心理に心当たりがあったのでコメントします。的外れだったらごめんなさい。
私の場合は両親共に高学歴でずっとプレッシャーをかけられながら育ちました。なので社会にでて実家と縁が切れて自分の金で好きなことが出来るようになった時は凄くうれしかったです。しかし、次第に自分の中に面倒なコンプレックスがあり、それが生きづらさの原因になっていると思いました。以下に今回の話と関係ありそうな2点を挙げます。
・金に対する強過ぎる拘り
自分で稼げるようになったことにより、親から解放され、好きなように生きられるようになった。逆に言えば金こそが他者から自分を守ってくれる盾であり、貯金額こそが自分が自分らしく生きられる残機である。結果金、更にいうと金の元である仕事に対する拘りが強くなりすぎ、悪いところで吝嗇癖・仕事優先癖が出てしまう。
自分は親から半ば脅迫されながら必死で努力して生きてきた。呪わしい過去ではあるが、一方でだからこそ今の自分があるという自負もある。しかし実際社会に出てみれば大抵の人間は自分ほど努力も緊張も強いられていないし、それでも普通に幸せに生きている。じゃあ私の今までの人生はなんだったんだ、自分ほど努力してない奴がお気楽に生きてるのおかしいじゃないか、という怒り、嫉妬、虚しさ。結果として何の非もない相手に謎の憎しみを向けてしまう。
みたいな心理が自分の中にあるな〜ということに気付きました。気付いたところでそれがなくなる訳ではないのですが、とりあえず気付いているのでそれに伴う行動を意識的に回避することは出来るようになりました。(他人が絡むときは出費を惜しまない、他人の苦労を比較するようなことを言わないなど)
投稿者様の心理が私と同じとは限らないし、具体的な解決方法がある訳ではないのですが、ひとまず「モラハラ気質」「自分が悪い」と決めつけないで、そう思ってしまう心理の背景にある理由を分析してみるのがよいのではないかと思います。そうすれば少なくとも意図せずに相手との関係を壊すような言動はしづらくなると思います。
十月二十九日、本家旧twitter・現Xで「皆がそろそろ忘れていそうなもの」として「対多」が挙げられ、それがバズった。
【参考】https://x.com/ankoromoch6421/status/1983190305592750425
そのせいで、一時的に人口が増加した。「青鳥民帰宅希望」みたいな投稿もちらほら見られたが、現時点では落ち着いている。平日昼間の場合、十分に一回くらいの投稿しかないことも多く、いたって平穏なタイムラインである。忙しい現代にあっては、こういう場所もあってよい。なお、twitterが落ちたかどうかとかを確認しに来る人も結構いるみたいで、これは初期のころから変わっていない。
「枝豆」や「猫」荒らしも大分落ち着いてきたのだが、単純に人が減っただけかもしれない。過疎だが、平和な集落のようだ。心無いレスをする人はゼロではない。ただし、一部は単に語調を整えるひらがなが使えないので、ぶっきらぼうに見えているだけかもしれない。あと、ジョークで書いているつもりでも、ジョークとわかりづらいのも、偽中国語の難しいところか。
現在十五日目。毎日いろんな質問をする。例えば十一月十七日は「貴方、交際経験有?又、交際何日間?」であった。意外と盛り上がっている。
「魔魔~」「抱子~」とつぶやく。寂しいんだろうな……。この季節は一人だとつらいよね(八時十一分追記:よく考えたら晩秋以外にも普通に投稿があったわ……)。
性格には「楽天力一卜”男」。楽天カードのCMを脱法カタカナを交えて叫ぶ。YouTube広告のパロディ。ときどき「ASMRの邪魔をするな」とレスがつく。
「其晩 青虫 腹痛因泣」などと、エリック・カールの絵本の一説を投稿する。
僕もこの絵本大好きだったな。
安価で小説を書いてくれてた人。全部偽中国語なのにとても頑張ってくれてた。
以前書いた、「本日幸運品物」とラッキーアイテムを教えてくれる人のパロディで「本日不要品物「労働」皆糞一日!」と締めくくる。なお、本家「本日幸運品物」の人は、一週間ほど連続して、ラッキーアイテムが「金木犀」だったことがある。
「女子高生太腿最高也!」の亜種。基本的にノロケなのだが、時々「こういうプレイをした」と妙にきわどい発言がある。なお、同一人物かは不明だが、彼女に膝枕をしてもらえない人を煽る人もいた。彼女さんは九つ年上らしい。基本的にノロケを聞くのは好き。ただし彼女さんのためにあまりきわどいことを書くのはやめましょう。
自称高校生の女性で、お尻を叩くと喜ぶ。一度スレッドが百まで伸びた。
男女問わず、夜や休日に人恋しくなって構って欲しがる人は結構見かける。猥談をしてたと思ったら、普通に雑談になったり。きっとみんな寂しいんだろうな。一度雑談ですごく盛り上がってときに、「リアルで会いたい」と女性が言ったが、男性は「私は年上すぎる。やめておきなさい」と答えてた。ちゃんとしてる。
前からいたけれど書き忘れていた。あたたかくて気持ちがいいので子どもを抱っこして寝たいらしい。怖い。返信は大抵「通報!」。
お下品すぎる。
囧の顔の棒人間のAAが猫を虐待している投稿を繰り返す(日本刀で斬ったり鍋で煮込んだりしている)。往年の2ちゃんねるの虐待スレのような闇を感じる。すぐに投稿を消す。この人は前からいたが書き忘れていた。
「女子高生太腿最高也」「御早之屁」の人はずっといる。古事記原文を投稿している人は、二代目か三代目の天皇の辺りにまで話が進んでいる。ここまで来たら本人にとってはマジに勉強になっていそう。
あと、よく見る返信としては恋愛に悩む人に対して、「我斗交際如何?駄目?総……」ってのがある。
「実八私八」の人は投稿を全部消したが、模倣犯がいるのでまだ見かける。
女子とイチャイチャしたいと呟いていた「我中三男子可愛女子戸居茶居茶死体」君は、最近女子と手をつなぐことに成功した模様。良かったね! でも、近所のイオンに誘ったら断られてしまったらしい。次があるさ。受験頑張ってね。
後、交際相手がほしいと嘆いていた人は、無事に仕事が見つかったみたい。応援してる。
さて、対多は無事に一周年を迎えられるか(一番最初のバージョンが十二月十日、一度鯖落ちして現バージョンになっている)。まさか一周年を機に閉鎖ってことはないよね、大丈夫かな。
以上〠
昨日ツイッターが鯖落ちしたらしく、大量の避難民が押し寄せ、「青鳥落?」という投稿がものすごい勢いで並んでいた。ほとんどの人が「罰」「乂」と呼ばないのが面白い。
子どもが生まれる前は、危険とか安全なんて、少し考えればだいたい片がつくと思っていた。
働いて生活を安定させて、リスクの高い選択を避けて、周りと大きく外れなければ、人生はまあまあ平穏に進む。
そんな感覚で生きていた。
今思うと、それは“気楽な合理主義”みたいなものだった気がする。
ある日、うちの五歳の息子が、公園の木に登ろうとしていた。
「おい、どうするべきかな」と考えているうちに、気づけば思ったより高いところまで登ってしまっていた。
そこから落ちれば、最悪命を落とすかもしれないし、良くても大怪我だろう──そんな想像が頭の中で勝手に動き出す。
その瞬間に、自分が親になってからずっと抱えていた“合理の揺らぎ”みたいなものが、一気に表に出てきた。
危ないから降ろすべきなのか。
しかし、自然の木というのは何かしら特別な意味を持っている気もする──。
そんな考えがぐるぐる回ってまとまらない。
ChatGPTまで開いて、都会と田舎の環境差とか、経験の有無が性格にどう影響するかとか、調べれば調べるほど深みにハマる。
子どものいない友人に話すと、
「そんなの、どっちでも良くない?」
とよく言われる。
言ってることは分かる。
ただ、こちらとしてはその“軽さ”がどうしても引っかかる。
危険かどうかだけじゃなく、“もしもの最悪”が具体的に思い浮かんでしまうからだ。
この感覚は、説明して理解はされても、たぶん実感としては共有されにくい。
木登りの影響なんて、人生全体から見れば本当に微々たるものだ。
研究だって結論は割れるし、どちらにしても大きな差が出るわけじゃない。
でも、微々たる差だからどうでもいい、とはなぜか思えない。
理屈では処理しきれない種類の重さだ。
今は、高い店で良いものを食べていても、頭の片隅に“帰ったらあいつ家の前の木に登ってないだろうな”という心配がついてくる。
価値観が変わったというより、人生の重心が勝手にずれたのだと思う。
木登りを許すか禁止するかは、結局のところ各家庭の価値観でしかない。
危険をどこまで許せるか、どこまで怖がるか。
合理的に説明できる部分もあるけれど、最後の最後は「自分がどんな生き方を大事にしているか」というところに戻ってくる。
子どものいる人は「それがシンプルに割り切れないんだよ」と返す。
木登りひとつでこんなにも考えてしまう自分が不思議に思えることもあるけれど、
結局のところ、親ってのは毎日少しずつ、
「自分はどこまで許せるのか」
「どう生きたいと思っているのか」
その境界線を試されてるんだろうと思う。
10.『イーブイをエーブイと呼ぶ男』の友人は、驚愕し、狼狽しながら答えた。
「すまない……。君がそんなに気にしていたなんて、思いもしなかったんだ。
それに君は、何をやっても器用で、欠点なんてほとんどないだろ?
だからこそ、『エーブイ』の件だけが、どうしても目についてしまったんだ。」
彼は少しだけ息を整えると、静かなトーンで答えた。
「君こそ、エーブイのことでからかう以外は、本当に素晴らしい友人だったよ。
もっとも——私はエーブイを『エーブイ』と呼ぶことを、欠点だと思ったことは一度もないけどね。」
11.彼は、幼少時に両親に「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶことを注意されても、決して自分の信念を曲げなかった。
そのため、彼は生まれてから一度も「イーブイ」のことを「イーブイ」と呼んだことはない
12.彼の両親は、彼が決して「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶことを直さなかったため、彼が十二歳になる年に、養子に出した。
それから、彼らが再び会うことはなかった。
実の両親と離れることになるとは、夢にも思っていなかった。
この出来事は、まだ幼い彼の心に深い傷を残した。
14.それでも、『イーブイをエーブイと呼ぶ男』が養子に出された家の人々は優しかった。
その家には、彼より少し年上の娘がいた。
15.『イーブイをエーブイと呼ぶ男』は、養子として迎えられた家庭で健やかに成長した。
彼は娘に惹かれていたが、次第に娘も、彼に対して男性としての好意を抱くようになった。
16.養父母もまた、彼の誠実な性格と勤勉さに触れるうちに、少しずつ信頼を深めていった。
やがて彼らは、「この男になら、娘を託してもよい」と考えるまでになった。
彼は「イーブイをエーブイと呼ぶ」ことを除けば、
概して優秀で、善良な青年であった。
17.しかし、些細なきっかけから、養家の人々もまた、彼が「イーブイをエーブイと呼ぶ」ことを知ることになる。
それでも、頑なに「エーブイ」という呼称を改めようとしない彼を目の当たりにするうち、次第に養父母と彼との関係に亀裂が生じはじめた。
18.冗談交じりではあったが、養父から告げられた「その呼称を改めれば、娘との結婚を許す」という言葉に、『イーブイをエーブイと呼ぶ男』は深く動揺した。
それ以降、彼は友人の軽い冗談にも過敏に反応するようになり、ついには激しく怒りをあらわにしてしまった。
二人の関係が、完全に元通りになることはなかった。
そんな中、唯一態度を変えなかった娘だけが、彼にとって心のよりどころとなっていた。
容姿について
その程度の容姿
でも
自分で言うのもなんだけど
愛想はいいと思う
愛嬌はあると思う
ふざけるなよ
するかよ てめえは馬鹿か?
ニコニコ愛想良く接客してるからこうなるわけ?仮にそうだとしてもセクハラされる筋合いないだろうが。愛想の良い奴、老若男女問わずに言えよじゃあ。
気持ち悪すぎる。
長年通院してた。
その一因の中に「常に誰かが私を殺そうとしてる」というのがあった。
うっすらこの気持ちが出てきた。
寛解してたわけではないから、ずっとありはしたけどなんとなくマシになってるなーぐらいには普通になれていたのに。
私は受ける加害を全てこれに変換してしまうだけなので。あ、それはそれとしてセクハラは問題です。
は?なんでこういう思いをしなきゃいけないわけ?
男とか女とか若いとか老いてるとか関係なく誰もが不愉快にならないように常にマシな地獄を私達は選ぶと良いのにそういうことって全く考えないの?
女だからこういう目にあいました普通に働くこともできないんですかこれだから男は男の加害性はとか言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない言ってない
老いも若きも男も女も人種も生も死も有も無も夢も現も何もかもが何かに侵されることの無いように
でも全てがそうなるのは難しいからその中でも常に一番マシな最悪を選ぶしかないのに
そういうことじゃないのか?
なあ
お前だよ聞いてるのか?
お前の、一番マシな、最悪、は、それ、だったのか?
あっそ
そうなんだ
ところで、一番と最悪って重複してるよね一番と最もが。どう思う?
優生思想が正しいと思う時がある。
私達って穏やかに平和に生きていくことがマジョリティな理想ですよね?多分
なら、平穏を望まないものを抹消していった時に、私達ってひとつになれるのかしら?私達ってひとつになりましょうよ。それは沢山の有象無象がひとつの意思を持つのではなくて物理的に一個体になりましょうよ。同じ思想を持って。一個体に。DNA的に。
優生思想の話か?これ
Xで
この記事(あなた達が今読んでいるこれではない)ってADHDの頭の中を表してる文章そのもの
みたいなのを見た。
それでこの記事(あなた達が今読んでいるこれである)は、わたしの頭から出たものをそのまま書いている。これはどう映る?どう見えてる?普通?普通か?もうさ自分じゃ分からないんだよね。頭の中で話してるのも音楽が鳴るのも当たり前でしょと思ってる。軽度か重度かってだけで無音なことなんてないでしょ全員あるの?あったとしたらこのわたしの脳内から直接インプットしたこの記事はどう見えてるの?どう見えてるわけ?皆何かになりたがっている。知らんごめんXだけで判断してるけど。「え!自分もこうだけど皆は違うの?w」みたいな。何かになりたがってるだけの私達じゃないの?
疲れました。
アホが撮った映画、もしくは俺とは違う世界線の人間が撮った映画。
4点(100点満点中)
とりあえずこの映画が俺宛てに作られてないことは明らかなのでこの点数がフェアでないことは明言しておく。
紫式部が林修の「いつやるの、今でしょ」をパロるとか、北条政子が徹子の部屋ならぬ「まさこの部屋」をやるとか、ひろゆきのパチモンが出てきて「それってあなたの感想ですよね」とか言ってみたり、この辺のクソみたいなパロディが出てくるたびにDANDAN点数引かれてく(唐突なクソパロディ)。
でもたぶん、この映画はこういうクソパロで「林修wwww」「ひろゆきwwww」みたいな層をターゲットに作られているんだろう。だから俺がこれを見たこと自体が間違いだったのだと思う。
それはそれとして、この映画を作った奴と俺が同じ時代を生きたとは到底思えない。
話の大筋としてはコロナ禍の日本で内閣でパンデミックが発生、総理が死亡。日本は大混乱に陥った。それを解決するためにAI技術とホログラフィック技術を融合して過去の偉人を復活させ、偉人内閣が発足されたのであった。しかし、その偉人プログラムにはある陰謀があって……という感じ。
とにかくコロナ描写がもうめちゃくちゃで冒頭で総理がコロナで死ぬわけ。
なのに記者会見は常にミッチミチに人が詰まってるし、新垣結衣はじめ記者連中はマスクしてたりしてなかったりしてる。財務官僚たちも粗末な部屋でこれまたマスクしたりしなかったりしながらミッチミチにつまって口泡飛ばしながら仕事してる。
え?コロナで総理死んだばっかだよ?そんなリテラシーなことありえる?
豊臣秀吉が「全国民に給付金50万を10日以内に給付する!」って言い出して「方法は知らんけど、やると言ったらやる、やらせる!」という"強い"リーダーシップを発揮するんだけど、ソフトバンクだったらそれでいいんだろうけど国がそれじゃマズいだろ。確かに決断がおせぇよボケと思うことはあるけど、それでも国が動くってことは税金が動くってことであって、とりあえずやってみようじゃマズいんだよ。
そして最終的に秀吉が言うのは「全員呼んでとりあえず手渡しすればええやん。不正する奴?平穏が戻ってから打ち首にすればええやん」ってことなんだけど、これの後半部分は企業給付金で実際にあったことを下敷きにしてるとして、今、コロナ禍なのね。しかも直前に家康がロックダウンを指示してる。全国民、家から出るなと。家から出られないと収入とかが困るから給付金を配るって話なのね。
なんで手渡しで渡すねんボケカスゥ!誰が渡すねんボケカスゥ!パンデミックどうすねんボケカスゥ!そもそもロックダウンどこ行ってんボケカス、◯ねぇええええ!!!!
この脚本書いたやつ、もしかして鶏かなんかなの?3歩しか記憶持たないの?メメントなの?
緒方洪庵を復活させてワクチン研究をさせた結果、一瞬で国産ワクチンが開発されてそれを海外に売るみたいな展開が出てきて、これは日本がワクチンでマゴマゴしてるうちに海外からワクチンを売りつけられたことに対するカウンターだと思うんだけどさ。
確かに緒方洪庵はすごいよ。あの時代に天然痘ワクチンを発明しそれを維持展開する構想力、実行力はまさに偉人だと思うよ。だからって現代のコロナワクチンをそんな一瞬で開発できるわけねーだろ。ワクチンを、医療技術者を舐めてんのかカスゥ!日本でだってみんなコロナに怯えながらも有数の天才たちが集まってワクチン開発しとったわい。緒方洪庵がいたらなぁじゃねんだワ。
あとロックダウンした結果、失職した人いっぱいいるじゃん。困ったじゃん。せや!国営農場作ってそこで雇えばええやん!農場やったら感染率も低いやろうし、自給率も爆上がりして最強や!みたいな話になってワイドショーのコメンテーターも「さすがや!!!」ってなるんだけど、ソフホーズとかなかった世界の話なん?職業選択の自由のない世界の話なん?
ほんまにそう言うこと一切頭になかったん?
このコロナ描写だけ見ても「こいつらってもしかしてコロナがガチの単なる風邪だった世界線から転移してきた人間」だったのか?って感じがしちゃう。もしくは「コロナは元々今くらい全然感染力も威力も低かったけど世界政府の陰謀で死者が水増しされてただけなんだよ!」という思想の持主か。
後はなんかもう国民がバカに描かれすぎてる衆愚政治の極みではとかも気になったけど、今の参政党支持の広まりとか見ると逆にここを批判する気にあんまなれないというか。絶対にそんなつもりはなかっただろうけど時代を先回りした批判的作品になっちゃってるのはちょっと草。草じゃないが。
雑コスプレ感によるチープな絵作りももういいわ。最初に書いたクソパロやりたかったんだったらこれくらいのクオリティで十分なのは実際そうだし。あと偉人の解像度の低さね。小学校の教科書に書いてるレベルのことしか取り上げない。上っ面だけ。なのももういいわ。その辺真面目にやる気なかったんだろうし。
最終的に秀吉VS家康の関ヶ原の戦いになるんだけど、そこで秀吉が10分以上ペラペラペラペラ現代の政治、民衆批判を行うのね。「批判ばっかりの野党」「寝てばっかの政治家」「何の声も上げない民衆」「投票率も低い」「自分の意思もない」「ダラダラ話し合いしないと何も決められん政治家」「列強に好き放題されてる」うんぬんかんぬん。だからワシがこいつらを支配して導いてやるのじゃ!みたいなことを言うわけ。
俺はそもそもテーマを登場人物に喋らせる映画が死ぬほど嫌いっていうのは一旦置いといて。
で、ここの演説が刺さった!感動した!みたいな奴らがいっぱいいるんだけど、俺はこう思ったわけ。
「言ってることが増田なんよ」
もう完全にこれなんよ。言ってることが増田なんよ。増田で1000回は聞いたわこれ系の話。豊臣秀吉現代に復活したら模範的な増田民なのかよ。もうしわけないけど、発言が雑魚すぎるんよ。
それに対して家康は「確かにそうなんだけど、ワイが見てきた限りではみんな頑張ってるしそこまで愚かじゃないと思うから信じようよ」みたいなこと言って国民大感動号泣の中家康コールが巻き起こって秀吉は敗北するのであった。
この作品が世間的に「メッセージ性が強い」から高評価とされてるんだったら、増田で政治論語ってる連中はどんどん映画撮るべきだと思うわ、マジで。
そしてその場で家康は偉人内閣解散を宣言し、偉人内閣は消え失せるのであった。
え!?パンデミックで内閣が機能不能、総理大臣が急死して国内が混乱に陥ったから偉人内閣を発足したのに、当日急に解散宣言して宣言したその場で内閣の閣僚含めて主要メンバー全部消滅するの!?ヤバない?現実の政治でも内閣解散しても結果出るまではみんな大臣としてちゃんと仕事するよ?みんなガチで消えちゃってだいじょぶそ?
その後、普通に投票が執り行われ投票率は70%を越え、国民はみんな国政に関心を持ったのでしためでたしめでたし。
製作者全員が俺が生きてる世界とは別のなんかファンタジーな世界に住んでてその世界にある日本を撮ったとかじゃない限り何一つ納得性のない映画だった。少なくともコロナ絡めたのだけは俺は許せないかな。
コロナ禍において偉人が強烈なリーダーシップを発揮するっていうのがコアなんだとしても、そのコロナ描写がゴミカスだったら全部の説得力終わってるし、コロナ禍でガチで苦労してたり大事な人を亡くした人たちに対してどのツラさげてこの映画をお出しするんだろうって感じ。
増田です。30代後半。しがないWeb系のエンジニア(管理職一歩手前)やってる。
最近、会社がやたらと「成長」とか「スキルアップ」とか言ってくるのに疲れた。 毎週の1on1では「今期はどう成長したい?」、半期の評価では「どんな新しいチャレンジをした?」と聞かれる。
いや、わかるよ。変化の早い業界だし、会社としては社員に成長してもらわないと困るんだろう。 でもさ、こっちももう若くないんだ。
20代の頃はガムシャラに勉強した。新しいフレームワークが出れば飛びついたし、週末に勉強会にも行った。 でも、もうそういうフェーズは終わったんだ。
今は、家庭もある。帰ったら子供と風呂に入って、寝かしつけたら自分の時間なんてほぼない。 そんな中で「新しいスキルを身につけろ」「コンフォートゾーンを出ろ」と言われても、「いや、無理です」としか言えない。
今の給料分の仕事は、きっちりやってるつもりだ。 チームの若手の面倒も見てるし、大きな障害だって起こしてない。 「現状維持」じゃダメなのか?
「成長しない人間は不要」みたいな空気、本当にしんどい。 言われたことをこなし、そこそこの品質でアウトプットを出し、定時で帰る。 そういう「そこそこで良い」という働き方は、もう許されないんだろうか。
私は、佐藤太郎、45歳。人生のピークを過ぎた男だ。20代で出会った妻の美香と結婚し、娘のあかりが生まれた。あかりは今、10歳。明るくて賢くて、私の誇りだ。仕事はITエンジニアとして順調で、投資も上手くいき、40歳になる頃には十分な資産を築いていた。会社を辞めても、家族三人で悠々自適に暮らせるくらいの貯えがあった。
それが、問題の始まりだった。仕事がなくなると、毎日は単調になった。朝起きて、散歩をし、読書をし、夕食を家族と囲む。幸せではある。でも、それ以上は何もない。目標を失った私は、どこか空虚を抱えていた。美香は「もっと趣味を見つけたら?」と優しく言ってくれたが、私の心は満たされなかった。
そんなある日、安楽死が合法化されたというニュースが流れた。セルフキットの薬が薬局で販売されるようになり、世間は賛否両論で沸いた。私は新しいもの好きだ。好奇心から、薬局に足を運び、キットを購入した。説明書には「服用後24時間以内に安らかに逝去します。後悔のない選択を」と書かれていた。家に持ち帰り、棚の奥にしまった。飲むつもりなどなかった。ただ、持っているだけで、何か「選択肢」が増えた気がした。
一年が過ぎた。生活は変わらず平穏だったが、ある夜、家族の関係が少しこじれた。些細なことだった。あかりの進路について、美香と意見が食い違い、口論になった。私は苛立って酒を飲み過ぎ、普段の穏やかな自分を見失った。「もういいよ、こんな人生!」と叫んで、棚からキットを取り出し、薬を飲んでしまった。酔いの勢いだった。後で思うと、馬鹿げた行動だ。家族の問題など、時間が解決するはずだったのに。
翌朝、目が覚めると、頭が痛かった。昨夜の記憶がよみがえり、胸がざわついた。24時間後、私は死ぬ。美香とあかりはまだ寝室にいる。私は台所でコーヒーを淹れながら、震える手で薬の箱を眺めた。どうしよう。家族に相談せずに、こんなことをしてしまった。パニックが襲ってきた。
リビングで美香が起きてきた。「おはよう、太郎。昨夜はごめんね。私も言い過ぎたわ」と彼女は微笑んだ。あかりも目をこすりながら現れ、「パパ、今日公園行こうよ!」と言った。その瞬間、涙が溢れた。私は膝をつき、二人にすべてを話した。「ごめん…薬を飲んじゃった。安楽死のやつ。24時間後だって…」
美香の顔が青ざめた。あかりは意味がわからず、目を丸くした。「パパ、何言ってるの?死ぬって…どういうこと?」美香は私の肩を抱き、「嘘でしょ?太郎、冗談よね?」私は首を振り、謝り続けた。「酔って勢いで…本当にごめん。後悔してる。君たちがいなくなるなんて、考えられなかった…」
三人で泣き出した。あかりが私の胸に飛び込み、「パパ、行かないで! 私、パパがいないと嫌だよ!」美香は涙を拭きながら、スマホを手に取った。「待って、解毒剤があるはずよ。ニュースで見たわ。緊急で病院に行きましょう!」
私は呆然とした。解毒剤? そんなものがあるのか? キットの説明書を読み返したが、確かに小さく「服用後12時間以内であれば、専用解毒剤で効果を無効化可能」と書かれていた。希望の光が差した。私たちは急いで車に乗り、近くの専門病院へ向かった。道中、美香は私の手を握りしめ、「太郎、私たち家族よ。一緒に生きて。昨日みたいに喧嘩しても、きっと乗り越えられるわ。あかりのためにも、あなたのためにも。」あかりは後部座席で、「パパ、絶対生きてね。約束だよ」と小さな声で言った。
病院に着き、医師に事情を説明した。幸い、服用から10時間しか経っていなかった。解毒剤の注射を受け、ベッドで待機した。医師は「効果はほぼ100%です。でも、二度とこんなことはしないでください。人生は一度きりですよ」と言った。私は頷き、家族の顔を見つめた。美香の優しい目、あかりの無垢な笑顔。それが、私のすべてだった。
数時間後、検査で異常なしと診断された。私は生き延びた。家に帰る車中、三人でまた泣いた。今度は、喜びの涙だった。「パパ、ありがとう。生きててくれて」とあかりが抱きついた。美香は「これからは、もっと話そうね。目標なんて、一緒に探せばいいわ」と囁いた。
あの出来事から、私の人生は変わった。単調だった毎日に、感謝の気持ちが加わった。家族との時間を大切にし、新たな目標を探すようになった。ボランティアを始めたり、旅行を計画したり。安楽死のキットは、処分した。あの薬は、私に「生きる価値」を教えてくれた。失いかけたからこそ、得られた宝物だ。
「張り合うために努力するバカ者(若者)」という概念が俺の観察固有のものかと思ったが、さすがコヘレト、似たような観察をしていた。
「また私は見た。人のあらゆる労苦と巧みなわざは、互いにねたみ(妬み)によって起こるものである。これもまた空(ヘベル)であり、風を追うようなものだ。」(コヘレト 4:4)
つまり、コヘレト(伝道者)は、人が努力したり、働いたり、技術を磨いたりする背後には、他人との競争心や嫉妬があるのだ、と観察している。
それを称賛しているわけではなく、「これもまたヘベル(空虚、むなしい)」と言っている点が重要。
つまり、そうした「張り合いによる努力」は、結局は空しいものであり、本質的な満足にはつながらないという洞察。
この後の節(4:6)ではこう続く。
「手のひらいっぱいの安らぎの方が、両手いっぱいの労苦と風を追うことよりましである。」
つまり、コヘレトは「張り合い」よりも静かな満足・平穏な生き方を価値あるものとして提示している。