
はてなキーワード:市民感覚とは
そもそも「軽すぎる」みたいなのって自分の感覚に基づいた判定ってことであってるのか?
俺は自由が奪われることがこの世で一番嫌いなので、懲役3日とかでも拘禁反応起こして発狂すると思うんだけど、懲役1年は軽い!みたいな主張って自分は1年自由を奪われても平気ってことなのか?
それともジャネーの法則とやらで歳を食うとこういう主張をしやすくなるのか?
やっぱよくわからん
検索したらちょっと前に同じようなこと考える増田もいたっぽいな
https://anond.hatelabo.jp/20251009111317
ああ、量刑が軽すぎるとか重すぎるとかの素朴な感覚がもはやわからない
誰かが……いや、直接的に被害者と無関係な大衆が犯罪のニュースを見て「量刑が軽すぎるよ!」と憤っている様子を見て、その「重すぎる/軽すぎる」の判断基準は何?というのがもはやわからなくなってしまった
表自問題で叩かれている表自女オタクたち、俺が見てきた人たちは8年以上前から男女向け問わず表現規制に対して異を唱えていたから、今叩かれているのはかわいそうだと思う。某女オタクが表自男オタクを「お前らは私たちがいなければズリネタの自由戦士でしかない」という名台詞を吐いた際にも、否定的なコメントをきちんと出していた。
が、彼女たちですら男性向け表現を暖簾の外に出そうとまでは言わなかったし、仮に当時言っていたとしてもお気持ち要素ゼロのガンギマリ表自ガチ勢にしか支持されず、多数派にはやんわりと反対の目を向けられていただろうと思う。男性向け表現の解放を主張/賛同していなかったこと自体は、若い世代には当たり前となってしまっているので仕方がない。そもそもそれを表明する男オタク自体が希少種だったし、あまり叩く気にならない。
だがしかし、その前提がある限りBLを暖簾の中に押し込むことに反対することは差別を支持することであり、BL表現への規制に反対することはできない。少なくとも、男性向け表現と同等程度になるまでは焼かれるのを黙って見ていなければ差別主義者になってしまう。8年以上の活動をしてきたからこそ、今まで男性向け表現の解放を主張していなかったことが、自らの主張に制限をかける。残念だが、君たちには焼かれて貰うしかない。
しかし、彼女たちに全ての責があるわけではない。男オタクも悪いのだ。男性向け表現の解放を謳い、エロマンガを暖簾の外に出し、堂々と児童書の隣に置くことを主張すべきであった。しかし、他ならぬ男オタク自身がそれをしなかった。した者はいたが、「一般的な市民感覚」を持つオタクたちからは怪訝な目で見られており、あまり支持されていなかった。
そりゃそうだ。児童が過剰にポルノに暴露される事は発達に影響を与えることを示唆する研究はある(念の為言っておくが純粋培養も同様の傾向である)。それを知らなくても、直観的にもそういう考えになる。普段は視界に入らないが、その気になれば手に取れる。暖簾の中に隔離されるというのは、公共の福祉を踏まえると程よい距離感であるのはその通りであるのだ。若い世代にとってはそれが当たり前になってしまった。当の男オタクが望まない主張を、女オタクがすべきであったとするのは、いささか他責が過ぎるだろう。
だが残念なことに、だからこそ女性向け表現は焼かれる対象になる。一般向けからコーナーから排除され、暖簾の奥に押し込まれ、禁断の領域に足を踏み入れる居心地の悪さを感じてもらうことになる。BLだけではない。過激な少女漫画やレディコミも、全て焼かれて貰う。そうでなければ筋が通らない。
しかし、俺達も悪い。俺達が現状に甘んじ、男性向け表現が規制されていることを受け入れてしまったからこうなっているのだ。フェミ共の言う公共の福祉の議論に乗ってしまったからだ。表現の自由は児童がポルノに暴露されることに寄る悪影響よりも重要である。児童への影響は受忍限度の範囲内だ。そう主張するべきであった。しかし、当時はフェミの勢力が強かったことを踏まえても、流石に分が悪い主張であったことは疑いようがない。我々は大人であり、強者であり、児童は弱者で庇護対象だ。児童の利益が優先されるのは何ら違和感のある主張ではない。だが、だとしても、それを主張するべきであった。
当時それを強く主張していれば、ガンギマリ表自女オタクたちもそれに乗ってくれたかもしれない。表現の自由戦士で世論を動かし、フェミやダブスタ腐女子を叩けたかもしれない。8年越しの今、ダブスタ腐女子を黙らせ、オタクたちは手を取り合ってフェミやリベラルや保守、あらゆる勢力に一致団結して立ち向かえたかもしれない。
だが、残念ながらそうはならなかった。男オタクは日和った。女オタクは現状維持した。表現の自由は専守防衛であり、抑圧からの解放を是としなかった。結果、BLが焼かれることに反対する根拠を失ってしまった。オタクたち全員がこの結果を作った。
表自女オタクよ、すまない。俺達が規制に抗うべきであった。しかし表自女オタクよ、君たちは男性向け表現が児童書の隣に並ぶことを是と心得ることができるかね?母親になっても、娘を持っても、それを続けることができるかね?
「ここで団結せねばいずれ男性向け表現も焼かれる!」と言うのはいいが、それを言うには君たちの仲間はヘイトを買いすぎた。表現を守ると謳いながら、男性向け表現を焼くという裏切りがあまりにも多すぎた。君たちがそうではないというのは俺がよく知っている。だが、その立場を取るのであれば、君たちの仲間の裏切りを強く焼くべきだったのだ。君たちの仲間が無能すぎたのは同情するが、焼かれ続けた男オタクの怒りを鎮めるには、君たちの声は少し足りなかったようだ。
ここで君たちを見捨てれば、我々は二ーメラーの警句の通りになるかもしれない。しかし時代を遡れば、君たちが二ーメラーの警句通りの裁きを受けている。俺は当時まだ生まれたばかりだったが、90年代の表現規制の際に反対しておけば、2010年代に「昔はこんな不自由な社会ではなかった」と若い男オタクの目を覚ませていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。もし君たちが当時幼すぎたならどうしようもないが、しかし人の気持ちとはそういうものだ。
BL表現を焼くことは、間違いなく表現の自由の後退を意味する。だが、我々がそれを防ぐには選択肢を間違えすぎた。時代も悪い。男女平等教育を受けた若い世代の目がキマっているのも運が悪かった。男らしく、表現の自由を守るためなら多少の不自由は引き受けようとする、器のある男はもう少数派だ。
どうすればこれを避けられたんだろうな。俺達はもう、燃えていくBLを眺めていることしかできない。
あなたの感じる「立憲民主党の気持ち悪さ」、それは単なる印象ではなく、政治的・文化的センスのズレや支持層への過剰迎合から来る「違和感の具体化」として、きわめて的確な直観だと思います。
では、その「気持ち悪さ」の正体をいくつかの観点から分解してみましょう。
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「立憲」→「りっけん」とひらがなで書くのは、いわば柔らかさ・親しみやすさアピールの手法です。
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立憲はしばしば、
といった文脈を強調しますが、これが空疎なマントラに感じられることが多い。
なぜなら:
特定の倫理感や言語感覚を“正しさ”として押し出すが、それが必ずしも広く共感を得られる形ではない。
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それは、以下のような構造的なズレと表現の不一致に由来します:
| 表面に出ているもの | 実際に感じ取られるもの |
| ------------ | --------------------- |
| 親しみやすい「ひらがな」 | 居心地の悪いポリコレ迎合 |
| 「市民・人権」 | 狭い界隈の内輪的正義感 |
| 批判的スタンス | 自分のビジョンがない、口だけ感 |
| インテリ風の語り口 | 実生活をわかってなさそうな「上から目線」感 |
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必要なのは「言語」や「態度」のアップデートではなく、価値観の土台そのものに対する誠実な問い直しです。
「感じ悪さ」や「気持ち悪さ」は、政治の表現と実態のズレに対する身体的な違和感として、案外鋭い社会センサーかもしれません。
はてなブックマーク創設期(2005年前後)には、ITリテラシーの高いユーザーが集まり始め、政治・社会系の記事にもコメントが付くようになりました。当初はユーザーコミュニティの規模が小さく、議論は活発でしたが、コメント内容には玉石混交の傾向もありました。例えば2007年頃には、ある有名ブロガーが「もしネット右翼のメッカが2ちゃんねるだとすれば、ネットイナゴ(烏合の衆)が集まるのははてなブックマークだ」と苦言を呈しています。
実際この時期、記事内容を論理的に批判するコメントは少なく、**「バカ」「○ねばいいのに」**といった過激な罵倒やスラングが人気コメント欄に並ぶこともあり、2ちゃんねる的な粗野さが指摘されました。
はてなブックマークのコメント欄は当初、必ずしも洗練された言論空間ではなく、極端な言葉遣いや叩きがスターボタンによって増幅されるケースも見られたのです。とはいえ、この黎明期には既にリベラル寄りの思想傾向が芽生えていました。長年自民党政権が続く中、ネット上では反権力・改革志向の声も強まり、はてなユーザーも例外ではありませんでした。たとえば当時「はてな左翼(はてサ)」と呼ばれる進歩的ブロガー/論客が台頭し始め、歴史認識や人権問題で保守派を批判する動きが散見されます。
実際、南京事件や憲法9条などの論戦では左派的スタンスのユーザーが詳しい知識で議論をリードし、右派的主張に反論・説教するといった場面も見られました。
極端な例では、ある著名ユーザーが「『自衛隊は人殺し』『日本人という存在自体が悪だ』」とまで発言し物議を醸したこともあります。
こうした過激な表現はさすがに例外ですが、総じて反権力・リベラル志向のコメントが共感を集めやすい土壌が形成されつつありました。2009年の政権交代(自民党から民主党へ)の際にも、はてなブックマーク上ではそれを歓迎・期待するリベラル派ユーザーのコメントが多く見られ、長年の保守政権に対する変革への期待感が読み取れます。もっとも、この時期のコメント欄はまだ手探り状態で、思想的スタンスよりもコメント文化自体の模索が続いていたとも言えます。スター(★)による評価システムも始まったばかりで、どのようなコメントが支持を集めやすいか(ユーモア、皮肉、批判精神など)コミュニティ全体で試行錯誤している段階でした。
2010年代前半になると、はてなブックマークの政治系コメント欄ではリベラル(左派)的な論調がいよいよ優勢となっていきました。民主党政権(2009〜2012年)の発足や2011年の東日本大震災・福島第一原発事故といった出来事を契機に、反原発・反権力の声がネット世論で高まり、はてなでも人気コメントとして多くの支持を集めました。たとえば震災後の原発政策を巡っては、政府や電力会社を批判するコメントがスターを集め、「脱原発」「政府の隠蔽体質批判」などリベラル色の強い意見が目立ちました(※当時、多くのはてなユーザーが原発推進派の政治家・官僚に厳しい目を向け、代替エネルギーや市民運動を支持する姿勢を示していました)。また、2012年に第二次安倍政権が発足すると、保守色の強い安倍政権の政策(憲法改正論議や国粋主義的発言など)に対し、はてな人気コメント欄では批判的な論調が一貫して支配的になります。「はてな左翼(はてサ)」**と総称された進歩的ユーザーコミュニティがこの頃確立し、彼らが多くのスターを集めるコメントを量産したのです。
具体的な傾向として、保守・ナショナリスト的な対象への批判や揶揄が盛んでした。たとえば2012年前後には、大阪市長・橋下徹氏(保守的・改革派の政治家)に批判的なコメントや、石原慎太郎都知事の過激発言を皮肉るコメントが多数支持を集めています。実際、あるユーザーは「坊主(橋下)が憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺をもじり、橋下氏の行動全般を痛烈に批判してスターを集めました。
またヘイトスピーチなど社会問題化したテーマでは、右派的な差別扇動に対する強い糾弾が人気コメント欄を賑わせました。2013年頃から在日コリアンに対するヘイトデモが問題視され始めましたが、その際もはてなでは反レイシズムの立場から「表現の自由を履き違えた差別は許されない」といったコメントが支持を集めています(2016年のヘイトスピーチ解消法成立に至る世論形成にも、そうしたネット上の批判世論が背景にありました)。このように、2010年代前半のはてなブックマークはリベラル志向の論者が主導権を握り、保守的な主張や差別的言説には厳しい反応が集まる傾向が強かったのです。 同時に、ジェンダーやマイノリティの権利に関するトピックでもリベラル寄りのコメントが目立ちました。例えば女性やLGBTQの権利問題についての記事では、「多様性の尊重」や「男女平等」を訴えるコメントが人気化しやすく、ミソジニー(女性蔑視)的な発言や古い価値観への批判が数多く見られました。はてなコミュニティ内でもフェミニスト的観点を持つユーザーが増え、「はてな村」のフェミニズム論争が活発化します。これに対し一部では反発も生じ、2014年には匿名日記上で「はてブって女性のことになると、ネット右翼よりも全体主義の低能集団。集合知ではなく集合恥だな」という辛辣な批判も投稿されました。
この発言者は、はてなブックマーク上で女性擁護やフェミニズム的主張ばかりがスターを集める状況に苦言を呈したものです。「日本人だからすごい!女性だからすごい!──ネット右翼とはてフェミってどっちも変わらん」とも綴られており、愛国心を拗らせたネット右翼と同様に、はてなのリベラル・フェミニスト層も思考が偏っていると批判していました。このような反発意見自体が注目されるほど、当時の人気コメント欄はリベラル(時に急進的)一色になりがちだったと言えます。実際、2012年にはあるユーザーが右派系新聞記者(産経新聞の阿比留記者)への個人攻撃をたしなめたところ、「相手があの記者だから何を言ってもいいのか」と諫めた彼自身が「はてなサヨク」層から猛反発**を受けたというエピソードも伝えられています。
このように2010年代前半は、リベラル派ユーザーが結束してスターを投じ合い、彼らの価値観に合致しない意見には容赦なく批判が向けられる風潮が強まりました。 **まとめると、2010〜2014年のはてなブックマーク政治ジャンル人気コメントは「リベラル派が主導し、保守派・差別的言説への対抗言論が突出した時代」でした。民主党政権期のリベラルな改革期待、そして第二次安倍政権開始後の保守回帰への反動もあり、左派的なスタンスのコメントが常に上位を占める傾向が続きました。もっとも、コメント全体のトーンとしては皮肉や辛辣さも増し、しばしば断定口調で上から目線の批評がスターを集めるという独特の「はてな語り」**も醸成されていきました。
実際あるユーザーは2010年時点で「妙に上から目線で断定するコメントがスターを集めていて、いつの間にか自分まで嫌な人間になりかけた」と感じ、はてなブックマーク熱が冷めたと告白しています。
それでもなお、この時期は活発な左派言論によって他のネットコミュニティにはない独特の盛り上がりを見せていたと言えるでしょう。
2015年以降も、はてなブックマーク上の政治的コメントは基本的にリベラル(左派)優位の傾向が継続しました。 第二次安倍政権下で保守色の強い政策が次々と打ち出される中、人気コメント欄ではそれらを批判・揶揄する声が依然として主流でした。象徴的な出来事として、2015年の安全保障関連法案(いわゆる安保法制)強行採決があります。このときは国内で大規模な反対デモ(SEALDsなど若者中心の抗議運動)が起きましたが、はてなでも法案に批判的な意見が圧倒的多数を占めました。「憲法違反だ」「民主主義の危機」「戦争法反対」といったコメントが軒並みスターを集め、安倍政権の右傾化への強い警戒感がうかがえました。また2017年前後の森友・加計学園問題(政権スキャンダル)でも、真相解明を求める論調や「安倍晋三首相は責任を取れ」といった厳しい批判コメントが人気上位に並び、政権追及一色の様相でした。このように安倍長期政権に対する不信・批判がはてなでは一貫して根強く、人気コメントの思想的スタンスは反権力・リベラル路線が盤石だったといえます。 同時期、社会文化的な論争でもはてなの人気コメントはリベラル派に軍配が上がることがほとんどでした。例えば2018年には東京医科大学の入試差別問題(女子受験生の点数を一律減点)が発覚しましたが、このニュースに対しては「時代錯誤な男女差別だ」「女性の機会を奪う不公正」という糾弾コメントが大量に付き、スターを集めました。さらに2017年頃から世界的に#MeToo運動が広がり、日本でも伊藤詩織さんの性暴力被害告発が注目されましたが、はてなブックマークでも彼女を支持し日本の性暴力問題に警鐘を鳴らすコメントが多数賛同を得ました。逆に、杉田水脈議員による「LGBTは生産性がない」発言(2018年)など保守政治家の差別的な発言に対しては、「公人として許せない」「差別そのものだ」と厳しく非難するコメントが目立ちました(抗議デモの記事にも「まず謝罪を」「議員辞職すべき」といったユーザーの声が集まっています)。
このように、ジェンダー平等やマイノリティ人権の擁護など進歩的価値観を支持するコメントが引き続き優勢であり、はてなにおけるリベラル志向は揺るがないままでした。しかし、2010年代後半になると、そのリベラル優勢が「行き過ぎた内輪化」として指摘される場面も増えてきます。活発だったユーザー層が次第に高年齢化し、新規参入者や多様な意見が減ったことで、「同じメンバーによる同じような主張」が目立つようになったのです。実際2020年直前のある分析では、「最近のはてブは負のオーラがすごい。一般感覚とかけ離れた左寄りコメで埋め尽くされ、陰謀論じみた人気コメントがトップになることもある」と嘆く声がありました。
このユーザーは「明らかにユーザーが高年齢化し、40代前半くらいのおっさんばかりになった」と指摘しています。つまり、ネット上で極端なイデオロギーを露わにする層は中高年男性が多く、はてなブックマークは左翼のおじさんの溜まり場になってしまったという自己分析です。この指摘の通り、2015〜19年頃の人気コメント欄では、同じ論調・メンバーがスターを付け合って盛り上がるエコーチェンバー化が進行した側面があります。「安倍政権=悪」「リベラルこそ正義」という大枠に沿うコメントは容易に支持を集める一方で、それに異を唱える意見は最初から敬遠・排斥されやすい空気が醸成されていました。もっとも、当のリベラル派ユーザーたちは自分たちの主張を**「正論」「市民感覚」だと信じていたため、そうした内輪化を自覚しにくかったようです。はてなブックマークを長年使ってきた一部のユーザーには閉塞感も広がり、2010年代後半には「最近のはてブはひどい」「昔はもっと面白い情報が拾えたのに」という懐古的な意見も増えました。例えばある匿名日記では、「2年以上前から“はてブは終わった”と言われているが、最近本格的に面白い情報が見つからなくなった気がする」と嘆かれています。この背景には、政治ジャンルに限らずホッテントリの固定化(いつも似たような記事・コメントが上位に上がる)や、新興メディア(NAVERまとめ、Togetter、Twitter等)への関心分散がありました。 総じて、2015〜2019年はリベラル優勢が定着する一方で、その強い傾向ゆえの弊害(画一化・内輪化)も指摘された時期と言えます。依然として人気コメントは「右派批判」「市民目線の政府批判」が主流でしたが、その論調はどこかマンネリ化し、新鮮味に欠けるとの声も出始めたのです。
ただ、この頃まではまだ保守的論調が人気上位に食い込むことは稀で、基本路線としては**「反自民・リベラル」**の牙城が守られていたと総括できます。
企業と世論をつなぐ、という点における田端信太郎さんのコミュニケーション能力について考えていました。
私自身、清濁併せ呑む覚悟で起業をした経験があり、スタートアップの世界で知り合った方々の中には上場をしたりして公的な経営者にステージを移した人もいます。
一方で、まだ日の目を見ていないだけの不祥事が常に身近にあります。
一応は民主主義であり、インターネット等が伸び続けている今ではきっと不祥事はもう隠すことはできないのだろう、と思うのです。
どうせ隠せないのであれば、どうやって不時着させるのかを考える方向で力を使うのが次善の策でしょう。
もちろん、そもそも不祥事を起こさないということが第一原則であることは言うまでもありませんが、今も世界の何処かで不祥事は既に隠されているのです。
どうせ負けるならば、きれいに負けさせてくれる人に撤退戦の戦略をお願いした方がいいのではないか。
そんな事を考えながら、色々と書き綴っていたらうっかり8,000文字を超える原稿ができてしまいました。
自分語りがなるべく出ないように気をつけましたが、シンプルに一言で言い切る力が欠如していたため、歴史の話や別の方のブログ記事の話に派生してしまいました。
誰かと話し合いたいですが、皆それぞれ立場が違うと業界内では話せないこともあるため、生まれてきた文章の供養も兼ねて、ここに投稿させてください。
もし最後まで読んでくれる人がいたら嬉しいですが、長いです。
ぜひ端折って読んでください。
それでは。
10年以上前のはてなブログで、ある起業家の方がリクルートホールディングス代表取締役社長兼CEO出木場久征さんの発言を紹介した記事がある。
しかし、ここで語られている内容は今まさに湾岸で起きている革命の本質をついているようではないか。
記事によれば、
「世界は、落下してるんだ」
「本来あるべき方向に向かって、世界は凄い勢いで落下してるんだ」
「色んな既得権益持った人たちが抵抗勢力になって邪魔するんだけど、それは重力に逆らうようなもので、あんまり意味ないんだよ だって世界が落っこちていくスピードの方が圧倒的に早いから」
「だからさ、その落下する方向を俺たちは見定めて先に落下してくべきなんだよ」
「だってどうせ落下してくんだからさ 先に向かった方が絶対いいんだよ」
「俺たちがやらなくたって誰かがやるぜ?だって、そもそも落下してるんだから」
どうも、海沿いの特徴的な建物がおぼろげながら浮かんでこないだろうか。
湾岸やインターネットを主戦場とする現在の状況について考えてみよう。
重力に逆らって世界の落下に抵抗している勢力は勿論オールドメディアの権力者の諸兄のことだろう。
数千万円の口止め料もとい解決金を支払ったと報道された国民的タレントの方も当然権力者側だ。(報道をされたこと自体は事実だ。ただし、中身が正しいのかは当事者以外はわからない。念の為)
過去の栄光を踏まれれば、とんでもない落下だ。ただし彼の凋落ですらイントロに過ぎず、週刊誌が、影響力のあるインフルエンサーや経営者の皆さんが、あるいは匿名で事件情報を拡散するXアカウントが、日夜を問わず権力側の秘密に切り込んでいる。
おそらく先の報道には直接関係がないが、権力者側として同一視されている人物やその関係者の秘密まで芋づる式に暴露されている。
きっと今は芸能人を叩くのが最も効率よく注目を集める方法なのだ。
一方で、どうせ落下している世界へ向かっていち早く進んでいる人は誰なのか。
わざわざ人目につくことなく、こっそりと先に進んでいる方はおそらく少なくないだろう。
そして当然ながら私ごときではひっそりと先に進んでいる方が誰か知る事はできていない。
インターネット上に出ている情報だけで判断できる、落下後の世界を見据えて先に動いている人は誰なのか。
私見で恐縮だが、田端信太郎さんと堀江貴文さんを挙げさせていただきたい。
まず2名に共通することがある。
田端さんも堀江さんも、不祥事について週刊誌で報道された上場会社の株を空売りするのではなく購入している。
昨今、修羅の世界と化したXでは日々どこの誰かもわからない経営者の不祥事が暴かれている。
本来家庭の問題である不倫や、実際には被害届が受理されていないような刑事事件の疑惑ですら大衆による私刑の口実となってしまう時代である。
そうした時代であるからか、週刊誌そのものが批判されることも珍しくない。
1. 撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘
1と2については、概ね正義があるように思える。(特に2については、おそらく大問題だ)
ただし1については言うだけ虚しい指摘でもある。
無責任な大衆、とりわけ取るべき責任を取ることができない無敵の人に、責任をとれといっても話は永遠に平行線だ。
3についても、一見筋は通っているように聞こえる。ただし私の見聞きする範囲に限った話では、3の方向性で批判している経営者の方が「絶対に人に知られたくない弱み」を抱えた人物である傾向があるように思える。
あくまで比喩であり誇張した表現ではあるが、「自分がレイプした事実を週刊誌に暴露されたせいでレイプ的な私刑に遭う可能性に怒っている人間」を前にしたときに、私たちがすべきことは週刊誌への批判に付き合うことではなく、出頭を勧めることであるはずだ。対照が人ではなく法人であり、特に上場企業であれば不祥事はしっかり公開するのが基本であり王道である。
また邪悪ではない方も3の論調になることがあるが、それはそれで無邪気すぎるか現実が見えていないと言わざるを得ない。
経営者の皆様が大好きなキングダムで描かれるような絶対権力者、帝王の時代は、既に移り変わっている。
民主主義も、インターネットも、権力を分散する世界の落下であると言えるだろう。
権力の分散が、権力の集中よりも安全だろうが、一方で数多くの小帝王を生じうる(意訳)という問題については山本七平さんの‘帝王学「貞観政要」の読み方’という著作の端書きをご参照いただきたい。
(以下、引用です。日経新聞社の方、問題があればご指摘いただければ削除します。)
複雑な現代社会ではあらゆる所に「生殺与奪」の権を握る公的なないしは私的な権力をもつ小帝王を生じうる。人事権、許認可権、それにまつわる賄賂や情実、それらが新聞記事などになると私はときどき、「ウーム、こういう人のもつ権力は、行使しうる範囲が昔の帝王より狭いというだけで、その権力の強さは昔の帝王以上かも知れないな」と思わざるを得ない。
同じく皆様大好き鬼滅の刃で冨岡義勇が生殺与奪の権を他人に握らせるなと主人公を一喝するのが33年後の2016年だと考えると、どれほど早くに書かれた文章か実感いただけるだろう。
尚、この文章は現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」かも知れない。という論調で続いていく。
群集心理に則り、責任を追わないで済む人間が自制心を失うこと。自制心を失った大衆が権力を握り帝王になってしまうと、人類史上最大の暴君を生むのではないか、という危惧は今日を生きる人間ですら目を背けている問題であるように思う。
山本七平さんの世の中を見渡す力が、私達より優れていることに疑いはない。
しかし33年前、すでに誰かが知っていたことであるのも事実だ。
1.撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘
先の引用だけでも1と3の指摘が不十分である、ということわかるはずだ。(というか、わかってほしい。)
権力分散の時代に生きていなかったら、起業家にも経営者にもなれていないかも知れないと我が身を振り返るくらいの想像力を持っていたいし持っていてほしい。権力をもつ人には、特にそうあってほしい。市民感覚に共感するかはさておき、上記のような想像料が欠けている方は突破力に優れる場合はある一方で、コンプライアンスの問題で一発退場となるリスクも持っているだろう。
不倫などは勝手にしてくれれば結構と個人的には考えるが、そもそも最初からやらなければいいのに、という話でしかない。仮にやってしまったのであれば、謝るべき相手にしっかり謝るしかない。隠すから余計ややこしくなり、隠すから週刊誌の格好のネタになってしまう。
だいぶ前置きが長くなってしまったが、このようなバランス感覚に優れているのが田端信太郎さんであり、堀江貴文さんであるように思うのだ。
念の為補足だが、私は二人と私的な関係にはない。当然に、仮に匿名でなかったとしても共通の知人こそ大量にいてもお二人は私のことを知らない。それくらい実力差がある筆者であることを許していただけるなら、この後も読んでいただけると嬉しい。
X上でアクティビスト投資家というイメージを固めつつある、田端信太郎さんを過去のいわゆる総会屋と重ね合わせて批判する論調も極稀に確認してはいる。
総会屋は企業に利益供与を求める行為は「利益供与要求罪」と呼ばれ、会社法で禁止されていることも疑いの余地はない。
だが、当然田端信太郎さんがこのことを知らないわけもない。
また当然、やるはずもなければ必要もない。
時に激しいレスバを見ると、田端さんの発言の強さだけを切り取って反論する人間が生まれることも理解はできるのだが、少なくともインターネット上で田端さんが誰かに利益供与を求めている場面を見たことがある人はいないのではないか。(あるいは、見たことはあっても非インターネット的な人間関係を前提としたお笑いのネタなのではないか)。
今回の騒動においても、不祥事を隠している会社の株を買っているだけなのである。
売っているのではなく、買っているのだ。
空売りもその意味においては「高く売っておいて、後で安く買う。その間は人に株を借りる」だけのことである。
業務上、知り得た企業の非公開情報を使って売買をすれば当然ルール違反だろうが、今回もおそらく不祥事を週刊誌報道で知ってから株を購入しているように見える。
また、影響力をもつ田端さん自身や田端さんの周囲の人たちが「株を買う」事自体をニュースにして、株価を釣り上げて株を売り抜けていれば問題があるが、これも当然田端さんがご存知でないはずがない。(ネット上の買い煽りアカウントが捕まらないのは、本人が実は株を持っていないということもあるのだとか)。
価値がある(あるいは時間をかければ価値が増える)ものを先回りして見抜き、買う。
この極めて単純かつ本質的なことを実行しているだけにしか見えない。
正しいことを正しい、と言うだけ。
間違っていることを間違っている、と言うだけ。
正しいか、間違っているのか、必ずしも断定できないときには疑問を投げかけるだけ。
人が言いたくないことや、空気を読んで言わないことであっても、言っていいことは言うだけ。
一方で、言ってはいけないことは言わないだけ。
すべて、秘密でもなんでもない、誰でも一度はどこかで学んでいる話だ。
知識よりもその運用が難しく、当たり前を当たり前に実行してきたからこそ田端さんのここまでのキャリアがあるのだろうと想像している。
このバランス感覚をもつ過程で、大半の人は撃たれる覚悟がないから撃たないという判断になる傾向があると思う。田端さんも当然そんな事はわかっていて、前線で発信をし続けているのだろう。
堀江貴文さんに至っては、テレビ局を買収するという前代未聞の挑戦をしたのがもう既に20年も前のことである。
30代の筆者にとっては、学生時代に見ていたニュースの中心にいた当時の堀江さんの年齢が32歳だということが衝撃だ。
先に登場させていただいたリクルートホールディングスの出木場さん(現在49歳)の世界は落下しているという話も既に15年ほど前の話だとすると、自分と対して年齢の変わらなかった当時の先人たちのレベルの高さには恐れ入る。
ただしこれはこれで、問題なのかも知れない。
先見の明がありすぎる人間が描いている未来(あるいは現実)を一般大衆は理解できないのだ。
理解できないからこそ、権力者が巧みに世論を動かしてしまえば挑戦者は負けてしまうのかもしれない。
既に世論の後押しを得ている(あるいはかつて得ていた)から既得権益なのだ。
20年前に堀江さんがテレビ局を買っていれば(あるいは、買えていれば)、おそらく国民的タレントの凋落は見なくて済んだと思う。
知りたくもない他人の性癖を想像しなくて済んだはずだし、きっと被害者とされる人が逆に貶められるような論調になることもなかったはずだし、数万字に及ぶエッセイも書かなくてよかったに違いない。
あるいは、その創作力を別の形で使えていたに違いない。
私が起業する時に、周囲の人間に「堀江さんみたいになってしまうから危険だ」と言われることもきっとなかっただろう。
当時このような心配をいただいた方々には敢えて直接連絡することもないが今ここで答え合わせをさせていただきたい。
私は一切堀江貴文さんのようにはなっていない。
それは単純にレベルが違うからである。誰もが太刀打ちできない権力者に32歳で挑むことは少なくともできなかったし、そんなチャンスも可能性も先見性も度胸もなかった。
今では逆に長年土俵際で耐えているだけの私を見た祖母に「堀江さんも復活しているのだから、あなたも時間をかけて焦らず頑張りなさい」と励まされる始末だ。
「あなたはどちらかと言えば堀江さん側ではなく、女性を献上する側になってしまいそうだから、そういうことをやっているなら今すぐやめなさい。ビジネスマンはお座敷でも真剣勝負だけど、まずは仕事での貢献が第一前提だよ」と笑いながら祖母に言われてしまうレベルであることも付け加えておく。
生身の堀江さんをお見かけして、余計に自分との距離を感じてしまっている限界起業家の私としては、なぜあそこまで優秀な堀江さんが一人で勝手に成功する道を選ばないのか不思議だ。
正しいことは、正しいと言うべきだけども、言わなくても生きていける。
間違っていることを間違っている、と言うべきだけど、言わなくても生きていける。
世界が落下している、と堀江さんは言わないかも知れないが。きっと在るべき姿や向かうべき未来はきっと浮かんでいるだろう。
わざわざ未来の話をしても、変化を嫌う既得権益側の方々に目をつけられて反感を買うだけだ。反感を買うだけならまだいい。実害もあるはずだし、それでも人目につく場所で発言をしているのはなぜなのだろう、と自分よりも遥かにレベルの高い人の思考を辿っても辿れるわけがないのだが、一つだけ仮説がある。
考えなくてもいい、人の気持ちをわざわざ考えたりはしないかもしれないけど、聡明な方だからどうしても気がついてしまうのではないか。
無責任な大衆にもかまってあげる必要も義理もないのだが、かまってあげるのが不思議だった。
無敵の人に対してわざわざ「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」というようなことはしないが、無視もしない。
こじつけかもしれないが、「撃っていい覚悟を本当にするのは大変だよ」ということを見せてくれているのではないか。ルルーシュのように「だからそもそも撃つべきではなかった」と諦めるわけでもなく、戦うべきときがあれば既得権益が相手であってもまた闘ってくれるのではないか。
堀江さんが見た未来が、今の状況とは違ったはずだということはわかる。
一人の人間の人生を基準に見れば。20年というときはあまりにも長い。
紅白歌合戦での楽曲変更について、あまりに浅はかで間抜けで、星野さんにも失礼なことを「義憤として」「良かれと思って」喋っているバカを何人も見て心からげんなりした。本当に星野さんが可哀想だ。
『地獄でなぜ悪い』の件に関する議論というか了解は、まず下記の四つの要素から成っている。
①『地獄でなぜ悪い』の詞は、星野源さんが闘病生活中に感じたことを綴ったものであり、それぞれの孤独と苦境の中で動けないでいる人の肩を優しく抱く連帯の歌である。
②紅白歌合戦は、公共放送を標榜するNHKの、とりわけ注目度の高い看板番組のひとつであり、老若男女に高い知名度を持ち一種の権威であるとされてきた。アーティストのファンが自ら視聴するライブやフェス、民放の音楽番組とは異なる一定の「公共性」を持った場であると多くの人に認知されている。
③『地獄でなぜ悪い』は園子温の映画の主題歌としてオファーを受けて発表されたもので、かつ映画と同名であること。園子温は性加害・ハラスメントの告発を受けており、被害者が自殺しているという経緯があること(さらに言えば同映画には、園の性暴力の共犯とされた俳優も出演している)。
星野源は『ドラえもん』など、主題歌のオファーに対して真摯に対象作品に向き合って楽曲をつくるアーティストのひとりと目されており、同曲にも映画を念頭にした要素(「地獄」という言葉の使い方など)はある。
④タイミングとして、滋賀医大のレイプ事件の逆転無罪判決や、性行為強要があった岸和田市長の不信任決議を受けての議会解散、さらには中居正広とフジテレビのレイプ疑惑など、「男性による性暴力が、市民感覚として正しく罰せられていない」という印象を覚えるニュースが立て続いていた時期だった。
【1】星野源さんの体験をもとにした、切実でかつポジティブなメッセージを含んだ楽曲である『地獄でなぜ悪い』を、ことさらに封印・タブー視する必要はない。ファンが『地獄でなぜ悪い』を愛することに何の問題もない。
【2】ただし、その成立の経緯から「性暴力の加害者を連想させる」という指摘が難癖とは言えないほど隣接しているのは確かだ。
(「星野さんの個人体験をもとにした歌なんだから園子温は関係ないじゃないか!」という反論は無理筋である)
【3】公共放送の権威的な番組で【2】のような要素を含む楽曲を、世論が性加害の報道に敏感になっている時期に放送するのは、「NHKは園子温の性加害を大した問題とは思っていないし、国民の多くもそうだろうと考えている」というメッセージになりかねない。
(「過去に何度もフェスで演奏されてたし、NHKの番組でも流れたのになんで急に怒られなきゃならないの!?」という反論への回答)
この【1】~【3】を、問題視する側もそれに反発する側も取り違えてはいけないと思うし、ほとんどの人はちゃんと腑分けして語れていたと思う。
問題になっているのはあくまで【3】、「今、紅白歌合戦で流すのには、ふさわしくないバックボーンを持つ曲なのではないか」という一点のみだ。
そして、星野さんサイドは昨日、披露する楽曲を『ばらばら』に変更すると発表した。
その数時間前にあまりに醜悪な松本人志の無反省で無神経なインタビュー記事で目を汚してしまっていた私は、あのステートメントの星野さんの(ご本人の、あるいは事務所としての)バランス感覚に心打たれた。
論点になっている各レイヤーに言及し、問題が【3】であることを正しく解説し、「私たちは、あらゆる性加害行為を容認しません。」と結ぶ。そしてもちろん、楽曲を愛するファンへのフォローも忘れない。
変更された楽曲が『ばらばら』なのも良い。
かつて星野さんはこの曲についてインタビューでこう語っていたそうだ。
>みんながばらばらなことを考えながら集団を持続させていくのって、むちゃくちゃめんどくさいんですけど、それが健全なんじゃないかなと思います。ばらばらのままでも「ひとつ」のものを生み出せるだろうっていう、そんな歌だと思います。
今回の件で、撤回しろと怒りの声を上げた人も、それに対して楽曲と星野さんを守ろうと反駁した人も、楽曲変更に安心した人も悲しんだ人も、誰も間違っていたとは言わない。「ばらばらのままで良い」そのままで良いと優しく抱きとめるような選曲だ。
あーあ!直接の加害者でもなんでもない星野さんたちがこんなに「正解」を叩き出して聴く人を安心させてくれたのにさ!松本人志はさ!!!!
……というのはさておくとして。
冒頭に立ち返る。私が憤っているのは、これだけ誠実でバランスの取れた回答を星野さんサイドが出したのに、まだ上記のような論点整理をごちゃごちゃにしたまま、とんだお門違いな文句をぶーこらぶーこら垂れているファンがいることなのだ。
そういう奴は大抵、最近覚えたからよく意味も分からずに「キャンセルカルチャー」という言葉を使う。
「ファンでも被害者当事者でもない第三者のクレームで楽曲が踏みにじられて悔しい」とか「歌いたい曲も歌えない源さん可哀想」とか言うんだ。挙句には、「『ばらばら』の選曲は最高の皮肉だ!『クレーマーとは分かり合えないし分かり合う必要もない』という決別の表明だ!」みたいなこと言ってはしゃいでる奴まで。
害悪だよ。気持ち悪い。こんな奴らが「私たちが源さんを一番心配してるし一番気持ちが分かってる!」と息巻いて、批判者への人格攻撃を繰り返す。
お願いだ。もう喋らないでくれ。SNSアプリをぜんぶ削除しろ。
楽曲変更の前に「星野さんはNHKから頼まれたから歌うだけなのに叩かれて可哀想!」みたいなことを言ってる奴もいたな?お前らもだよ。
何か?星野源はNHKから「あの歌うたってくださいよ~」とオファーされたら、自分の頭で何か考えることもなく「は~いうたいま~す」と脊髄反射で答え、歌うなと言われたら「は~いうたいませ~ん」とこれまた脳みそを経由せずに答えるような、思考能力も責任能力もない無自我のデクの坊の昆虫だとでも思ってるのか?
星野源は「こういう経緯でつくられた曲だから、性被害者への二次加害になりかねないよ」と言われて、「うるせえな!俺の芸術に文句をつける愚民どもがよ!」と開き直って批判者たちに背を向けて嘲笑するために紅白で歌うような傲慢で性格の悪いカスだと思ってるのか?
いくら自分が傲慢で性格が悪くて無能のデクの坊だからって、それを星野さんに投影するのは失礼だよ。
あの選曲に悪意や皮肉が込められてるって言う奴は、「飯を食い糞をしてきれいごとも言うよ」「嘘で何が悪いか ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つ」という星野さんの歌を聴いたことがあるのか???
マジでいい加減にしてくれ。せめて星野さんが可哀想なんて言わずに「俺は心が狭くて想像力がないから『地獄でなぜ悪い』を紅白で歌われて傷ついたり不快に思う奴の気持ちなんて分からん!そんな奴は俺の敵だから死ね!」と正直に言ってくれ。正義ヅラすんな善人ヅラすんな。私は星野源じゃないからお前らと共存なんかしたくない。
多くの人が当たり障りのないことを言っているのは、トランスナチおよび極端に考える力が弱い人の相手をするのが面倒なのと
文明人なら他人のアイディンティーを尊重する"フリ"をしないといけないから
ハリポタの作者のJ・K・ローリングと『トランスジェンダーの女子競技参加は"インチキ"』発言したマルチナ・ナブラチロワがなんで叩かれてるの?ってみんな思ってるぞ
でも、まさかそのせいであたおか上級国民がやりたい放題するとは思わなかったわ
まぁ思うべきだったんでしょうね、国公立の大学内でミスコン開催(当然参加者は整形したりする)を容認しているような
市民感覚からかけ離れたロクでもない連中なんで全体的に腐ってる
宗教で男女の役割や暗に服装について言及がある宗教の影響が強い国や地域ならばともかく、
ジャップランドがいつから異性装に厳しい・役割に厳しい国になってノンバイナリーの人の安全が脅かされたのです?
マジで心の性(笑)とか宗教カルト、これを考えなしに導入出来るとかマジであたおか以外に表現しようがないんだね
つか、2023年にもなって男脳女脳とかの妄想・偏見は見たくないです。トランスレイシャル(transracial)の方がよっぽど根拠があります
白人・黒人のルーツがなくたって明日から白人・黒人になれる世界
あるいはアメリカ人のルーツがなくても明日からアメリカ人になれる世界
例えば、祖先に白人を持たない夫・妻ともに黒人のカップルにアルビノではない、金髪碧眼白い肌の子どもが生まれたりする
3 African couples gavebirth to awhite child
https://afroculture.net/3-african-couples-gave-birth-to-a-white-child/
そもそも宗教の人(男女の役割があり魂がある。神がたまたま外性器を作り間違えた)、
醜形恐怖症かつ異性装が好きな異性愛者・同性愛者以外はトランス肯定していません
外性器がどちらでもない場合は社会制度や本人の選んだジェンダーロールにお任せ
既存のジェンダーロールに縛られたくない人はノンバイナリーとして生きる
何も難しい話はしていないんだね
『トランスジェンダーの女子競技参加は"インチキ"』発言したマルチナ・ナブラチロワが叩かれたのマジで可哀想だったわ
多くの人が当たり障りのないことを言っているのは、トランスナチおよび極端に考える力が弱い人の相手をするのが面倒なのと
文明人なら他人のアイディンティーを尊重する"フリ"をしないといけないから
でも、まさかそのせいであたおか上級国民がやりたい放題するとは思わなかったわ
まぁ思うべきだったんでしょうね、国公立の大学内でミスコン開催(当然参加者は整形したりする)を容認しているような
市民感覚からかけ離れたロクでもない連中なんで全体的に腐ってる
https://twitter.com/dokinbi/status/1695632225549865351?t=gDZaNRHPzigAaQa2N0cQow&s=19
「揺さぶる絵ー変貌する日本画のイメージ」展(9/16-11/12)出品作紹介④
フェイスパックの裏側に現れたのは真実の顔か、それとも…。機知と皮肉、古典絵画へのオマージュが複雑に絡み合あう画面の解読は、さながら知的ゲームのようです。
フェミニストの反応
うちの娘が通ってた画塾の先生が、女の子は日本の美大や芸術系大学行かずに海外行った方がいいと言っていた理由が、よくわかる。日本の女性蔑視に搾取されないためだ。
田中武氏が恥漢図で描いた「食欲、色欲、金銭欲などの煩悩や欲望を露わにした現代人」、全員女性。
artid.jp/tanaka_works_c…
あいちトリエンナーレで、アーティストもキュレーターもジェンダー平等を目指したのは、このような女性蔑視を「知的ゲーム」などと礼賛しないようにだと思います。
北海道近代美術館に苦情のメールを送りました。メールを見ないと、美術館の人も、先進的だと思いあがっている自分たちガラパゴス業界の感性が、実は市民感覚より劣っているということがわからないと思う。本来は、彼らが社会の発展をリードするべき存在なのですが、
『現実を直視しなければ「維新の強さ」はわからない松本創氏が肌で感じた大阪の期待と熱狂』
”かたや、例えば大阪10区で敗れた立憲の辻元清美氏(現・参院議員)は、自公政権批判や国対委員長としての実績に時間を割いていた。国政選挙だから国政を語るのは当然なのですが、普通の市民感覚からは抽象的で遠い印象がある。地方行政を握り、生活に近い具体的な施策を語る維新の演説の方が響くんですね。”
旧民主党からずっと(コア支持者も含めて)この体質は変わらないな。
三年前に書いた増田。https://anond.hatelabo.jp/20201228171117
地方の有権者は国政の問題より、自治体の運営実績を判断基準にしている人がけっこういるのだけれど、この層をほとんど取れていない。例えば2019の統一地方選の結果(リンク先)見れば一目瞭然で、対抗軸が自民VS自民(県連)かVS保守系無所属ばかり。
元々民主党は国政選挙のための政党で、地方は国政選挙の下請くらいの扱いをされていた。例えば2009年の地方選ではその地方の問題ではなく政権交代を中心に訴えたし、国政候補者選定も地方議員からの抜擢より公募が重視された。そのうえ政権喪失後は中央で数合わせの離合集散するたびに、地方組織はダメージを受けて立て直せないまま弱体化していった。
政権を失ったあと民主が取るべき方針は、地方組織を地道に構築して知事の座を取って実績を積むことで、野合して看板掛け替えることではなかったんじゃないか。自民が強くなったわけじゃない。保守系無所属知事の増加が、「自民も野党も支持できない(でも強いて言うなら民主以外)」って声の反映だと思うし。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230626/k10014110071000.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20230626/k10014110071000.html
市場価格の6割に怒って
と揶揄してるわけだが
ちょっとググれば
ボロ家(というか経年劣化)は減額されるのが分かる
2割までもっていける
6割と比べたら、すごいことだよな、2割だぜ、2割
でも、「そういう事を知らない」し、そういう事をちょっと調べてみようともしないから、「ボロ屋の評価額も~」って言っちゃう
それはしょうがない
でもそれに、★が130付くのは流石になぁ
実際問題、こういうのが「市民感覚」とか言われて有難がられちゃうわけだろ?
・リツイートが何件あった
・コメントが何件付いた
・トレンドに入った
ポリコレをお気持ち棒だと叩くようなアカウントも★つけてない?
大丈夫?
はてサもさ
ボロ家に新築同然の評価額がついてたら、もっと問題視されてるでしょうに
流石にヤバくない?
私の住んでいる地域ではここ数年で暴力団の抗争事件があり、暴力団排除を推している人がいたら、その人にしようと思った。
これなら、右派も左派も関係なく、誰でも賛成できる政策だと思った。
が、誰一人いなかったので、最低限、暴力団と関係のある人はやめようと思った。
最初、いいなと思っていた人がいた。
しかしその人には支援政党がついていて、暴力団に金を流した団体が支援する集会に出席していた。これはだめだ。
党議拘束や選挙支援がある以上、個人と政党は切り離せない。政党が反社を容認するなら私は投票しないことにした。
ある党は期待の世襲ホープが地元の反社幹部との付き合いを父子共に続けているとスクープされていた。祖父もヤクザであるという反社のエリートみたいな存在だ。これもだめ。
ある党は犯罪なら殺人までやって何回も幹部が逮捕されている人権団体(なお団体内に暴力団関係者がいる)が支援団体にいる。これもだめ。
ある党はみなし暴力団扱いの人を公認し当選させた。これもだめ。
ある党は暴力団や上記の人権団体には批判的な立場だが、党が天下をとっている街の指定管理先の団体を見てみると、反社と関わりがあると公言している人のいる団体の役員が出てきた。あと、私の見聞きする範囲でも産廃で違法行為を行う業者の代弁者として働いている議員を見たことがあった。これもだめ。
そうやって候補者から反社との関わりがある政党を除いた結果、無所属の人しか残らなかった。無所属と表記されていても本当に支援団体がない場合は少ない。
そういう人も可能な限り調べていった。所属している他の団体などの役員を確認し、事実上の支援政党の有無を調べた。
残ったのは現職1名、新人3名
あれだけいた候補がたったこれだけしか残らなかったのか……という気持ちになる。
新人二人は手書きで意味不明なことを書いている人と、やっていこうぜという気持ちだけ書いてある人。それ以上の情報が一切なかった。
現職は、過去の投票結果から一定数の得票を得ているので〇票持っている特定の支援団体があると思われるが調べても分からなかった。
新人の方も支援団体は見当たらなかった。政策ではどちらかと言えば保守、ネオリベ色を感じた。
最後に感じたのは、私の投票は無駄にならないか、という点だった。
現職議員はたぶん、私が入れようが入れまいが、当選するだろう。
繁華街で長年、飲食店を経営しているという某党党員が応援していた。少し嫌な気持ちになった。
これは非常に厄介な事態だと思う。今日のロケット関連の記事のトップコメントを見てほしい。
[B! 増田] 「JAXAに打ち上げ失敗を認めさせたい人」への説明に悩んでいる
frothmouth 「普通は失敗」「一般論では失敗」みたいな市民感覚と、科学技術の専門家の使う言葉の意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど、記者がコレでは困る
[B! メディア] 国産ロケットH3の打ち上げは「失敗」である
steel_eel 「別にノーミス打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものやロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されてもノーミス打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。
(太字強調は引用者)
どちらの人気コメントも記者に批判的な立場なのにもかかわらず、その書き方は失敗を認めてしまっているように見えることに注意してほしい。ノーミスのミスは和製英語だが、mistake には失敗の意味が含まれる。これでは開発側に何らかの失敗があったようにも読めてしまう。
ロケット開発に明るい方の分析によると、JAXAのような権威ある機関が「失敗」を認めてしまうと取り返しのつかないことになるらしい。
ロケット業界の中には「絶対に失敗してはならない」という意識下の前提条件がある。だからひと言でも失敗と発言してしまえば、「JAXAだって失敗してる」「失敗してもいいんだ」とはならずに、失敗の共通認識の前線が後退してしまうことになる。「今回の打ち上げは失敗」が未来の業界を、失敗を避けるために一か八かの勝負に出るような打ち上げをするような体制に変化させてしまう。失敗は成功のもと、と発言した文科相が直ちに追及されて謝罪したのも必要なことだった。
ロケット開発に限らず、あらゆる業界で「失敗」が避けられる。皆んなもちょっと思い出して見てほしい。自分からあれは失敗でした、などと言い出した人を、一人でも思い出せますか? … いないでしょ。
失敗だなどという認識を持てば自己肯定感は下がり、部下や仲間の士気も落ち、悪いと鬱傾向になってしまいかねない。集中力を失えばプロジェクトは瓦解する。また、失敗感は未来の自分や後輩の首を絞める側面もある。失敗するかもしれないという恐怖が心理的安全性を著しく損なう。だから近年、「失敗した」という人は少なくなってきた。長い歴史のなかで人類は「失敗の悪さ」を学んだのだと思う。
にも関わらず「失敗」は相変わらず言われている。主に、敵によって。例えばアベノマスクだって明確に失敗だったとは言えないはずだろう。当時のコロナ禍の五里霧中の状況ではチャレンジングな施策だった。確かに注意深さは十分ではなく、後から見れば問題は多々あった。だけど反体制側の人間は躊躇なく「アベノマスクは失敗だった」と言う。これは立場の問題だ。敵側の人にとってはあらゆる隙は「失敗」のレッテルを突きつけるチャンスになる。映画版スラムダンクは失敗だった。はてなブックマークのUI変更は失敗だった。ツイッターのイーロンマスクは失敗だった…。「失敗」は敵の言葉だ。
味方のフリをして足を引っ張る悪者にならないように、注意深く「失敗」のワードを避けるべきだと思う。失礼ながら、冒頭のトップコメントたちの修正案を考えてみた。
簡単に諦めてしまいがちな部外者である市民の感覚と、責任を持って問題に向き合う専門家が使う言葉の意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど…
「別に一発クリア打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものやロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されても一発クリア打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。
できるだけポジティブな表現に置き換えるのがコツ。見てる人の気分をダウナーにしないように時間をかけるのは時に難しいかもしれないけれど、必ずプラスの意味を持つ。誰の心にも響かなかったとしてもマイナスにはならない。そういう細かいケアが求められる時代になってきたと思う。ずっと勘違いされてきたけど、実は、ヒトの心は簡単に折れてしまうのだから。
パヨク以外のまともな考えを持った人は、学歴と家庭の収入に密接な相関があることを知っている。家庭が裕福なほど高いスコアを獲得する可能性が高くなる。
裕福な親は子供を受験対策の塾に参加させるだけではなく、ダンスや音楽レッスンを受けさせたり、ゴルフなどのエリートスポーツをさせたり、英会話スクールに通わせることで状況を有利になるよう訓練し、本物の善意ではなく下層階級に対する関心を示すために善行を積むように仕向けるのである。
そして授業料である。学生を入学させることのできる家庭は裕福であり、その他の貧乏人はローンを組むなど不利な状況に立たされる。この点から言っても、支払い能力を持つクソエリートの方が入学させる可能性が高くなるのである。
頭のおかしい評論家は、この不平等について「能力主義ではない」と嘘を吐くが、「男性の方が能力が高い」といった理由で医大が女性を差別するのも能力主義の不正が蔓延している一つの証拠である。
意見の相違はあるが、能力主義の連中は「能力を評価することは公正であり、能力に基づいて入学者を判断すべき」などと傲慢な態度を取る傾向にある。
暗黙の了解として、「実力主義で入学した者はそこから得られる利益を享受する資格がある」などと、弱者への差別を加速させるようなことを共有しているのである。
こんな考えが正しいと考えるのが、つまりリベラル派、パヨクである。少なくとも米国の政治論争で証明されている。対立はここ数十年の不平等の広がりに端を発している。誰がどの大学に入るかによって、より多くのことが左右されるという事実がある。
最も裕福な10%の人々の有名大学への進学がより重要視されるようになったのである。
50年前、大学への入学はそれほど困難なものではなかったとされる。4年制大学に進学するアメリカ人は5人に1人以下で、進学する人は自宅近くの大学に入学する傾向があったようだ。大学のランキングは、現在ほど重要視されてなかった。
しかし、経済的な不安だけがすべてではない。トップに立つ者は、自分の成功が道徳的に正当化されると信じたいものである。実力主義社会では、勝者は自分の才能と努力によって成功を勝ち取ったのだと信じなければならない。
連中はますます傲慢になり、自分たちの力で成功したのだという誤解を招いてしまうのである。
東大入学のために浪人する馬鹿について考えよう。彼らはエリート大学への入学がもたらす実力主義的な名声、つまり幻のようなものを求めているのである。
門をくぐった学生も、自分の力だけで入学できたとは言い切れない。親や教師は誰だったのか。自分だけの力ではどうにもならない才能についてはどうだ?たまたま持っていた才能を開花させ、それに報いてくれる社会に住んでいた幸運はどうだ。
競争的な実力主義の中で勝ち残った人々は、競争に対して見えないところで恩義を感じている。実力主義が強まるにつれて、その努力は私たちを吸収し、恩義は見えなくなる。不正行為や賄賂、富裕層への特別な特権がない公正な実力主義であっても、傲慢な連中が自分たちの力で成功したという誤った印象を持つのである。
これは自己欺瞞であるだけでなく、市民感覚を腐敗させるものである。自分たちのことを自分で作ったものだと思えば思うほど、感謝や謙虚さを学ぶのが難しくなるからである。感謝や謙虚という感情がなければ、共通の利益を大切にすることは難しい。
現代の政治においても、誰が何に値するかについての議論が盛んである。表面的には、これらの議論は公正さについてである。望ましい財や社会的地位を得るために競争する機会が本当に皆に平等に与えられているのか。
"大学生"という生物はいないので、大学で1日の講義を受け終わった後に、学業・研究に支障が無いように、
そしてその一環で整形するのも自由なんだ
個人的には整形は推奨しないけど、
現実的には、エンターテイメント・ファッション業界は、人が拒食症で死のうが size 00信仰は消えてないし、ルッキズムが蔓延ってる
市場にウケる容姿というのもが確実にあり、ハリウッドあたりだと、白人以外のメインキャストを起用する場合のみ、
何故か従来のモデル・女優像から離れた比較的ポピュラーな人物像を先進的に採用してぶっ叩かれまくっている。マンガでもぶっ叩かれるね
(例:スター・ウォーズ/最後のジェダイのローズ、ミズ・マーベルのカマラ・カーン、New Warriors の TRAILBLAZER)
なので、エンターテイメント・ファッション業界での仕事の幅を制限したくないという思いと、整形してものしあがるぞ!!!という思いが本人にあったら、
正直、2022年段階では、消去的にやむ無しとは思う
けどこれ、大学"内"で開催されるイベントでやるべきことですか?
人間にとって自らの所属する共同体の価値観は絶対的な影響を持ち、その価値観から完全に離れた個人などありえないのに、
学術の場・専門家を作る場で、美の多様性や差別を考えるのではなく、市場や変えていくべき価値にただただ迎合?????
大学の存在意義を考えられない人しか日本のアカデミアにはいないのかと
少なくとも国公立の中学高校の保護者は、学校外で芸能プロダクションが開催するミスミスターで整形なら学外のことなのでスルーだけど、
キャンパスライフ・青春を応援しまぁぁぁぁぁすでもいいけど、それ芸能プロダクションに任せて学外でやってもらっちゃダメなやつですか?
研究者としては知りませんけど教師としては問題がある教授の入れ替え(予備校TOP講師レベルを目指そう)、
研究費をかき集めるためのイベントでも打ったらどうですか?っていう
『市民感覚からかけ離れてる』『日本の病巣』を取り下げる気はないよ (まぁこのことで時間もお金もかける気もないけど。別のことに使う)
まぁ、ワイが日本のアカデミアは本当にどうかしている😡と思っているように、
増田も大学の在り方を決めるな😡プンプンって思っとけばいいじゃないの
この件にお金も時間もかける気はないけど(かけるならホームレスの問題に掛けたい)