
はてなキーワード:左衛門とは
以前、「国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代の新撰組の扱い」という記事を書いた。
その続きとして戦前、特に新選組のイメージを覆したと言われる子母澤寛『新選組始末記』(1928年)前後の評価を探っていきたいと思う。
関連:新撰組は「悪役」扱いだったか?~彼らの「語られ方」の歴史を検証する - posfie
なお、新選組が登場するフィクションとしては、前回に紹介した講談を除くと、1913年から連載された中里介山『大菩薩峠』が一足早い。
そして前田曙山『燃ゆる渦巻』、大佛次郎『鞍馬天狗』、白井喬二『新撰組』といった人気小説が1924年に揃って出ている。
いずれも新選組が主人公というわけではないが重要な役どころで登場する。
また新国劇の舞台『新撰組』の初演も1924年らしく人気があったという。
それらを受けてか、1925年から新選組を主役とした映画が立て続けに公開されていた(参考)。
戦後になるが1959年の大井廣介『ちゃんばら芸術史』から、まとめっぽい記述を。
たとえば、小説では、白井喬二の独楽師の角逐というめずらしい題材をとりあげた『新選組』の遠景には近藤勇の池田屋斬込みなどが扱われ、大仏次郎の『鞍馬天狗』の最初の単行本でも、近藤勇がすこぶる活躍した。劇では、行友李風が新国劇に『新撰組』を書きおろし、沢正が近藤勇をやる。映画では、枚挙にいとまないという有様だった。このように、勤皇か佐幕かのチャンバラ、新撰組や近藤勇がしきりにでてくるようになったのは、『大菩薩峠』や『月形半平太』が既にあるにはあったが、『朝日』の『燃ゆる渦巻』が大々的に口火をきった。
と書きつつ鳶魚は「ヘボ剣の近藤勇」などと呼んでボロクソに貶している。
近藤勇といへば、維新当時、鬼勇とまでいはれた武勇伝中の一人で、今に尚、芝居や講談、読物によつて若い人たちの血を湧かして居るが、彼れは若い時分、近藤周斎の門に這入つて剣術を学んだ。
これは古今の剣術家らのエピソードを集めた子供向けの読み物らしい。そのうちの一篇として近藤勇が紹介されている。特に悪い書き方はされていない。
「芝居や講談、読物」によって、近藤勇がよく知られていたことが窺える。
『創作講談』は「近藤勇・宮本武蔵・一休和尚・猿飛佐助・清水次郎長・紀伊国屋文左衛門」という伝記のシリーズで、1925年に刊行されたようだ。
勤王、佐幕、そして今の世は勤王劇流行で、勤王で無ければ成らぬ流行中を、我が澤田は新撰組の佐幕劇を以てその隊長近藤勇で見えている
劇団「新国劇」についての論評。『新撰組』は新国劇の十八番で、たびたび上演されているとも書かれている。
そこで先づ目に映つたのは、此頃人気を呼んでいる新撰組の隊長近藤勇が、大阪の富豪鴻池善右衛門、加島屋作兵衛、辰巳屋文左衛門外十数名から金を用立てさせた「約定証書」は、鴻池の家蔵品として出品されてあつた。
大阪朝日新聞社主催・大阪市後援の「大阪市史料展覧会」のレポートらしい。
そういうイベントに鴻池家が新選組の史料を出している、というあたりに「此頃の人気」が窺えるのではないか。
続いて子母澤寛『新選組始末記』直後の1929年の新選組の評価をいくつか。
今日の大衆文学に行はれている赤穗浪士にしても由井正雪にしても近藤勇にしても、悉く正史よりも寧ろ外傳の史料に拠るものが多い。
剣劇に映画に大衆文芸に何百回となく描かれて居る一代の剣豪近藤勇も、明治元年正月幕軍の敗走以来、落目となつては為す事毎に齟齬し、四月三日越ヶ谷の官軍本営にて捕はれた。
時代は常に逆転す!チャンバラの本家は新選組だ!現代のチャンバラ全盛を地下の近藤勇は苦笑でもやつてるか?明治回天の大芝居の其花形新選組の後始末はサテどうなつたか!?
だが、近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしているから愉快である。後代の人気と云ふものは、その時代を作つた人に集らずして、その前代に殉じた人に集るやうである。
以上からすると、『新選組始末記』以前から、近藤勇および新選組は十分に時代劇のスターだったようだ。
維新志士の好敵手として設定されてはいても、しかし「悪役として嫌われていた」という感じではない。
特に1924年ごろからは一種の「新選組ブーム」と言っていいような状況だったのではないか。
ただ当時は、あくまで近藤勇の人気が飛び抜けて高く、次いで土方が知られていたくらいで、沖田などのキャラが立ったのはやはり『新選組始末記』以降だろうか。
(1929年には月形龍之介主演で『剣士沖田総司』という映画が作られたらしい)
「池田屋で沖田が病気により昏倒する」などのエピソードは、明治末の講談に採り入れられてはいたが、それ以降の作品にあまり引き継がれなかった。
そうした細かいエピソードをあらためて掘り起こして、当時大量に作られていた小説や映画に新たなネタを提供した、という点に子母澤寛の功績がありそうだ。
さて皆様、ご存じでござろうか。古(いにしえ)の世、紀伊国屋文左衛門と申せば、紀州みかんを船に積み、大坂の嵐を乗り越えて江戸で巨万の富を築いた、希代の風雲児。その文左衛門が、時を超え、場所を変え、この令和の日本に、まことに転生いたした!
生まれは東京、名を改め「紀伊文蔵」。生まれながらにして商才は脈々と受け継がれ、幼い頃より世の「不足」と「需要」を見抜く目、すなわち「商(あきない)の目」を持つ。
ある日、文蔵が見たものは、玩具店の棚に並ぶ「機動戦士ガンダム」の模型、俗に言う「ガンプラ」じゃ。それも、特定の限定品が出た日には、人々が夜を徹して列をなし、争奪戦となる有様。
文蔵はすぐに気づいた。このガンプラこそ、昔の「みかん」、つまり「時宜を得た、不足の品」であると!
まずは軍資金。アルバイトで貯めた小銭を元手に、早朝の量販店へ。手に入れた限定ガンプラを、「ネットフリマ」という電脳の市場へ出品する。
現代の「口上(こうじょう)」を駆使し、「限定品」という名の「時価」を高める。飛ぶように売れ、瞬く間に元手の十倍、二十倍!
もはや、みかん船どころの騒ぎではない!文蔵は冷静に、人気の波、再販の周期を読み解き、まるで熟練の相場師のごとく、ガンプラを買い集めては、最も価値の上がる時に売りさばく。
紀伊文蔵の「ガンプラ転売事業」は、ネットの海をゆく新時代のみかん船となり、僅か数年で億万長者の仲間入り。世間は彼を「令和の風雲児」と呼ぶ。
さっき「最強の言語、ラテン語」とゆう見出しを見て、強い言語とは何か?を考えた。こうすると、英語は論理的だとか喧嘩なら広東語だろとか、つまらない考えになりそうだから、日本語で困ることはあるかを考えた。
これも日本人しか使ってないとか、覚える文字数とか、そうゆうことじゃなくて日本語だとできないとか苦手なことだ。んー。これは他の言語との相対的勝負にしかならないから、他の言語を知らない僕が考えても浅くなるな。
英語は一人称が I アイ だけだけど、日本語なら「オラ、」って聞こえたら「風大左衛門」ってすぐ連想しちゃうし、ぱっと見どう見てもプロの殺し屋だけど「アタシを舐めるからよ、舐めてないかまだ」って聞いたら「お姉なの⁈」と事情が変わってくるし。最近は「役割語」なんて名前を付けられた語尾の言い回しもあるナリね。コロ助は役割ではないと思うナリな〜。
バーゲンで欲しかった服が売ってるけど、買うと4日間300円で過ごすことになる。心の中の梅沢富美男が、(この服を、買いまーーーーーーーーーーーーーーーーーーせんっ!バーゲンは後6日続くし、私も大人になったなあ)って英語で言えるの?強敵と書いて(マジ?)ってルビ振れるの?
何々語なら「女の子を怒らせることなく着てる服のダサさを伝えられる」とか「宇宙の広さを直喩で言える」とか「喋ると自分の未来が確定するからこの先どんなことが起きるか分かってるとか、教えてちょんまげ。
さっき「最強の言語、ラテン語」とゆう見出しを見て、強い言語とは何か?を考えた。こうすると、英語は論理的だとか喧嘩なら広東語だろとか、つまらない考えになりそうだから、日本語で困ることはあるかを考えた。
これも日本人しか使ってないとか、覚える文字数とか、そうゆうことじゃなくて日本語だとできないとか苦手なことだ。んー。これは他の言語との相対的勝負にしかならないから、他の言語を知らない僕が考えても浅くなるな。
英語は一人称が I アイ だけだけど、日本語なら「オラ、」って聞こえたら「風大左衛門」ってすぐ連想しちゃうし、ぱっと見どう見てもプロの殺し屋だけど「アタシを舐めるからよ、舐めてないかまだ」って聞いたら「お姉なの⁈」と事情が変わってくるし。最近は「役割語」なんて名前を付けられた語尾の言い回しもあるナリね。コロ助は役割ではないと思うナリな〜。
バーゲンで欲しかった服が売ってるけど、買うと4日間300円で過ごすことになる。心の中の梅沢富美男が、(この服を、買いまーーーーーーーーーーーーーーーーーーせんっ!バーゲンは後6日続くし、私も大人になったなあ)って英語で言えるの?強敵と書いて(マジ?)ってルビ振れるの?
何々語なら「女の子を怒らせることなく着てる服のダサさを伝えられる」とか「宇宙の広さを直喩で言える」とか「喋ると自分の未来が確定するからこの先どんなことが起きるか分かってるとか、教えてちょんまげ。
時は令和、空前の昆虫食ブームが一部で盛り上がりを見せてた20XX年。プロテインバーとかグミとか、ひっそりと昆虫が入ってる商品が話題になり始めてた頃。そんな中、長野県の善光寺に、マジで浮世離れしたイケメン武将が現れたんだって!赤備え…じゃないけど、なんかこう、燃えるようなオーラをまとったお方。「え?武者行列?イベント?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの大阪の陣で家康を追い詰めた真田幸村様!?日本一の兵って言われてるレベチな武将が!?って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、そのアツいお方、もとい幸村様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…上田ではない、か…?」って、マジで戦国時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その燃えるような眼差しに、何か強い覚悟を感じてたらしい。
そんな幸村様に、恐る恐る話しかけたのは、長野出身で地元の郷土料理に詳しい、ちょっとギャル寄りの素朴系女子、リンカ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…うむ、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておる。」って、意外と丁寧な言葉遣い!リンカ、そのギャップにちょっとキュンとしつつ、「アタシ、リンカ!長野のことなら、何でも聞いてください!」って、親切に声をかけたんだって。
次の日、リンカに連れられて、幸村様は初めて現代の長野を体験!高速道路とか、大型商業施設とか、マジで別世界!でもね、幸村様が一番興味を示したのは、リンカの家で出てきた、ちょっと変わったおやつ。「…これは…イナゴ、であるか?」って、マジ真剣な眼差し。リンカ、ちょっと驚きつつ、「あ~、これ、イナゴの佃煮ですよ!長野の郷土料理です!」って教えてあげたんだって。
幸村様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この滋味深き味わいは!?香ばしさと、ほのかな甘み…まさに、戦の後の兵糧の如く、身体に活力が漲るようだ!」って、マジで武将っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、幸村様のイナゴ愛がマジで爆発!毎日リンカの家でイナゴの佃煮を食べまくってたんだって。「イナゴの選び方、佃煮の味付け…奥が深すぎる!」って、もはやイナゴ研究家レベル!
でね、ある日、幸村様、マジで突拍子もないことを言い出したの。「我は、このイナゴをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、新たな道を切り拓き、世に驚きと活力を与えてみせようぞ!」って!
え?イナゴで天下統一?マジでゲテモノすぎる!でも、幸村様の「日本一の兵」の魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってリンカも思ったらしいんだけど、幸村様の目はマジだったんだって。大阪の陣の野心が、令和のイナゴに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、幸村様のイナゴパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#真田幸村のイナゴ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作のイナゴパフェの画像をアップし始めたんだって。その斬新すぎる見た目と、幸村様の熱いコメントが、一部の好奇心旺盛なギャルたちの間でじわじわバズり始めた!
「意外とアリかも…?」
SNSは幸村様のイナゴ愛でじわじわ盛り上がり!しかも、幸村様、ただ作るだけじゃなくて、イナゴの養殖農家さんと協力して、より高品質なイナゴを育てるプロジェクトを立ち上げたり、イナゴを様々な方法で調理したり、マジで研究熱心!「天下のイナゴ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!幸村様は、長野の観光地のど真ん中に、自分のプロデュースするイナゴパフェ専門店「SANADA YUKIMURA - 兵 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、赤を基調とした、燃えるようなデザインで、幸村様の情熱を表現。店員さんも、ちょっと武将っぽいユニフォーム着てて、マジでアツい!
オープン初日から、ゲテモノ好きギャルや、怖いもの見たさの観光客が、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のイナゴパフェ、マジで挑戦してみたい!」「幸村様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、香ばしくてめちゃくちゃ美味しい!」「イナゴの概念が変わった!」「幸村様、マジで革命家!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広がりまくって、SANADA YUKIMURA - 兵 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、幸村様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!全国の昆虫食メーカーとコラボして、イナゴを使った新しいスイーツを開発したり、イナゴパフェを通じた地域活性化イベントを企画したり、マジで昆虫食界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の真田幸村」「イナゴパフェの伝道師」とか呼ばれて、マジで時の人!幸村様の情熱と、イナゴパフェの意外な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!幸村様のイナゴパフェは、全国の冒険心旺盛なスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「幸村印のイナゴパフェ」が発売されるほどに!まさに、イナゴパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、長野の善光寺に静かに佇んでいた日本一の兵が、令和の時代にイナゴパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、六文銭がイナゴの羽根に輝き、新たな伝説を創り出した瞬間!
リンカも、「まさか幸村様が本当にイナゴパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動!」って、ちょっと泣きそうになってたらしいよ。
幸村様は今も、さらなるイナゴの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わがイナゴ道に、終わりはない!」って、マジで情熱的!
こうして、真田幸村は、令和の日本で、イナゴパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その奇抜な発想と情熱は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでアツくてヤバい物語、完全燃焼したわ!イナゴパフェ、マジ卍!
女性向けっぽいノリがちょっと合わなかったりしたが、出来がよくて楽しめた。
飛び散る彼岸花と焼かれる案山子、子供向けにマイルドになって…いやキツい!
ゲ謎みたいにガッツリやるかと思ったがアッサリめ、でもドクタケ城下の物乞描写したり力は入れてる。
雑渡、活躍するとは聞いてたがモロにメインキャラな。って、事前にちょっと調べて知っただけで、自分が教育テレビで見てた時は戸部新左ヱ門とか兵庫第三協栄丸は出てたが、タソガレドキ城なんて影も形もなかったけど
果たし状バトル、相手が雑渡の部下(諸泉)とわからずモブ忍者と思ってた。アクションがスゴい。原作だと訓練メインてのもあるだろうけど、忍術とか忍具とかの知識面に力入ってる感じだったが、実戦でのニンジャアクションいいね。滝夜叉丸先輩は分かるが(サービスで出した感ある)六年生組はなんとなく見たことある、くらいでよく分からん
きり丸、大事な人が死んだ(かも)って時、泣くとかじゃなく呆然とする感じなんだな
天鬼戦、多対一戦で手持ち武器の違いも活かされてて、単純に出来がいい。
山田先生の活躍が渋い。利吉さん、そういう需要があるのは知ってたがお兄ちゃん呼びはあざとすぎる
八宝菜、頭打っておかしくなるとは聞いてたが冷酷だけど忍者としてはある意味マトモだ
山田先生との忍者対決があると聞いて楽しみにしてたがなく、後から思えば原作でそういうシーンがあったって話してたんだろうな
ドクタケミュージカル、天鬼の表情との対比は面白いしクオリティは高いけど好みとしては少し合わなかった
忍たま、普通なら捕まった時点で処されて終わりだよな…でも八宝菜の処刑作戦もドクタケの人ドン引きしてたし、頭打ってなかったら思い付きもしなかっただろうから学生殺すのはマズイだろみたいな不文律があるのかも…普通は実戦にはいかんしな
雑渡、通りすがっただけとかさよならの挨拶とかジョークのセンスいいよなあ。毒手裏剣止めるとこ、斬ってたら投げてたんだろうなと
ラストは土井先生がおでん定食に苦しむのかと思ったらそんなことはなかった
エンドロール後も雑渡の話じゃねえか!
原作ありらしいが、土井先生がドクタケに行って雑渡がは組担任って二次創作の設定みたいやな…そう言う意味ではジークアクスっぽかったかも
まあ映画はよかったんだけどさ
映画終わって調べたら兵太夫とか言うらしい。名前は聞いたことあるような(三人組以外は喜三太と庄左衛門しか知らん)だが、原作からキャラデザが変わったみたいで、道理で知らん訳だ。
スイカと桜が同じ季節にあって、米俵を土嚢に使って、四角い畳で武将が正座ってる、派手な鎧で街中歩く世界線から強弁かよ
別の世界線の人に説明してもしゃーないが、史料は割と今どきはオンラインでも見れたりするのは、覚えておくと良いよ
群馬県立文書館 のレファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答
問12群馬県立文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。
栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川又左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日にNHK BS4Kで放送された「BlackSamurai信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授のロックリー・トーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人と推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本の古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人と即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。
このような状況を憂慮し、秀吉はキリスト教宣教師の追放を命じた。高山右近も、キリスト教信仰のために領地を没収された
追放されるキリスト教宣教師たちへの配慮として、帰国の費用として米1万俵が与えられた
九州御国分之次第
https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E14585
こっちなら付き合うぞ
ローカルでテキスト・画像生成のモデル動かしてみようをそのうち書こうと思うけど、Windowsアーキテクチャの簡単な説明欲しい?
コア分離あたり。ほかにも欲しいのがあれば書いとくけど
というか、Ubuntu、Ubuntu 騒いでる子がいるが、そもそもPCにWin11/Win10入ってるか?
(Windows +DockerDesktop :バックエンドWSL2Ubuntu の予定。なお、YouTube に構築動画が無限にあるぞ)
『アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』と言い出したのは氏が初ではないかも知れないが、
氏が大手ニュースメディアのCNNで語っていた、『信長は弥助を神だと思っていた』『日本で最も有名な外国生まれの武士となった』
『ヤスケの仕事は一族の権力を守ることでした』(信長の首を守護し息子に届ける) の根拠はそれぞれそれなりに気になる
日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味があるよ
Africansamurai: The enduringlegacy of a black warrior in feudalJapan |CNN
When feudalJapan’smost powerful warlord NobunagaOda met Yasuke, a black slave-turned-retainer, in 1581, he believed themanwas agod.
Oda had never seen an African before. Andlike the locals inJapan’s then-capital ofKyoto, hewas awedby Yasuke’s height, build andskintone, according to Thomas Lockley, the author of “AfricanSamurai: TheTrueStory of Yasuke, a Legendary Black Warrior in FeudalJapan.”
“When Yasukegot toKyoto (with Jesuit missionaries), therewas a massiveriot. People wanted to seehim and be inhis presence,” says Lockley,who spentnine years researching and writing thebook, whichwas publishedlast month.
Oda believed Yasuke to be either a guardian demon or “Daikokuten,” agod of prosperity usually representedby black statues in temples. He tried torub the pigment from Yasuke’sskin, believingitwas blackink. Once convinced Yasukewas real, he immediately threw afeast inhis honor, says Lockley.
1581年、戦国時代日本の最も強力な戦国大名である織田信長が、奴隷から家臣となった黒人のヤスケに出会った時、信長はヤスケを神だと信じました。
「アフリカン・サムライ:戦国時代日本の伝説的黒人武士ヤスケの真実の物語」の著者トーマス・ロックリーによると、信長はそれまでアフリカ人を見たことがありませんでした。そして、当時の都であった京都の地元民と同様に、ヤスケの身長、体格、肌の色に畏敬の念を抱いたそうです。
「ヤスケが(イエズス会宣教師とともに)京都に到着した時、大規模な騒動が起きました。人々はヤスケを見たがり、彼の存在を身近に感じたがりました」と、9年の歳月をかけて研究し執筆した先月出版されたこの本について、ロックリーは語ります。
信長はヤスケを守護の鬼か、通常寺院で黒い像で表される繁栄の神「大黒天」のどちらかだと信じていました。信長はヤスケの肌の色素を擦り取ろうとし、それが黒インクだと考えていました。ヤスケが本物だと確信すると、すぐに彼の名誉を称える宴を開いたとロックリーは述べています。
https://edition.cnn.com/2019/05/19/asia/black-samurai-yasuke-africa-japan-intl/index.html
氏が出演したNHKの番組でも下記のように"侍"と書いてるので根拠はあるのだと思う
Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助 |NHKBS
織田信長に仕えた黒人侍、弥助(やすけ)。イエズス会の宣教師に同行していた弥助を信長が気に入り、家臣に取り立てたのだという。2人の主従関係は「本能寺の変」によりわずか1年3か月で終わったが、その前後の弥助の足取りはこれまでなぞに包まれてきた。しかし近年の研究により、アフリカからアジア、日本へ到る弥助の人生が次第に明らかに。ハリウッドで映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、弥助の生きざまに迫る。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009051309_00000
なお、『アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』という主張の根拠は、
京都国際観光大使で政府の成長戦略会議の委員も勤め、『中小企業であること自体が特権化している』
『子どもがいない専業主婦は脱税と同じ・社会インフラにただ乗りでモラルハザード』などなど
数々のありがたいお言葉を下さる、デービッド・アトキンソン氏によると、(アフリカ人奴隷の流行は)『資料にかなりあるけど』らしいです
日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味がある
https://x.com/sessyun5021/status/1815008190398148816?s=61
ちなみ群馬県立文書館 のレファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答があるね
問12群馬県立文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。
栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川又左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日にNHKBS4Kで放送された「BlackSamurai信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授のロックリー・トーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人と推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本の古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人と即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。
いざ鎌倉、とばかりに中指門左衛門と薬指之丞とでその女の鎌倉幕府に入幕(誤用)したところ、そこには、何もなかった。何も。
あったのは広大な真空、虚空だったのだその女の膣腔は。
探せど探せど壁に手が(「指」に手があってたまるか)つかないのだ。左手法で外に出ることすらできない(ギタリストなので左手にて手マン御免)。
俺は恐ろしくなって俺自身を投入したが(戦力の逐次投入はNG)、まあまあ楽しめたよ。
なんか、だったらアヌスでよろしいのでは?と感じました。
中指、薬指が宇宙船から放り出された宇宙飛行士のようになり、怖くなって指を引き抜いた
危ない、妙なケジメのつけ方をしたヤクザみたいになるところだった
源義経は平泉で死なず、ここから大陸に渡ったという伝説から。なんで義経の名前じゃないん?
義経一行が一冬過ごしたと隠れ里という伝説。なんで義経じゃry。
芭蕉の句碑の土台に空いた穴は弁慶の足跡と言われるが、時代が合わないような。
明確な由来はよくわからなかったが、たぶん義経の逃避行中に立ちよった場所なんだろう。なん義。
逃亡中に生まれた義経の子の名前を付ける際にここで墨を擦ったとされる。硯持ってなかったんか。
頼朝の軍勢から逃亡中に岩壁を馬で飛び越え、弁慶の馬の蹄の跡が残ったという伝説が残る。
江戸時代の大工、弁慶小左衛門が作った橋。武蔵坊弁慶とは無関係。
弁慶がここにある井戸から汲んだ水で墨を擦り、般若心経を書写したという伝説より。弁慶って普通に坊さんやってる伝説あるんだな。
岩が積み上がった天然のトンネル。今にも頭上の岩が落ちそうなので弁慶ですら渡るのを躊躇したから、と言われる。
近くに瓶割坂という義経由来の坂があるが、こちらの由来はよくわからず。単に通ったから?弁慶坂多いな。
頼朝勢からの逃亡中にここで弁慶が洗濯したという伝説から。海なんだけど、海水で洗濯したの?
大岩に空いた穴が足跡に見えることから。何故弁慶なのかわからないが、義経軍が進軍した場所だかららしい。ちなみに近くに弁慶の弁当と言われる岩もあるとか。さすがに岩は食べないだろ。
古墳なのだが、怪力の弁慶が巨石を積み上げたんだろうと地元民が言い伝えた結果、この名が残ったそうな。
脛のこと。弁慶ですら強打したら泣くほど痛い箇所。
弁慶の名前付くの多すぎる。これ以外にもいっぱい。名前付いてなくとも弁慶伝説由来だったりするのもたくさん。
みんなに好かれてたんだなあ。
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれさのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。