
はてなキーワード:属人的とは
『今日の行動は飯が美味くなるような行動だったか』を常に考えて行動すれば、多少は生活が良くなっていくんじゃねえの。
結局、それでしかない。
推しというわかりやすい褒美を与えてくれる人型や性格を持った存在に対して型枠に嵌められた存在としてその中でもどれだけ礼節を持って生活していくのか、そういうことをすることで推しはどう思ってくれてるのか、そんな行動をしている人が推している存在はどれだけの存在なのかを推測ってもらえるのか。
そういうところにある。
経済生物的な行動は推しやその周辺を稼がせる行動なだけで、それは結局、推しが推しとして生きているだけでスポンサードされていってくれたら嬉しいという解釈だ。
まぁ、自己顕示欲やお友達をアッと言わせたいや、自分の理想とする推し方を表現する時に必要なアイテム、として推しのCDだの推しのブロマイドだの推しのアクスタだのが軽妙に売られていく。
その経済活動について疑問を抱くのは結構だが、経済活動にケチを付けるのは、控えめに言ってダサい。貧乏人である。税金対策で車買える!経費でキャバクラ行ける!の域を出ない人達である。
いやまぁ、接待費という体だったらワンチャンあるかもしれんが、それも限度がある。
推し活は正しく浪費である。その浪費を経費で勘定してしまった瞬間から推しではなく商品名さんになるものである。
自分の中の叫び出したい狂気や死にたい狂気、内にある様々な狂気を抑える為の御守りだ。きっと最後は真っ黒に煤けて灰になっていく。
推し活当事者はハイにならない。心の内にホッカイロが詰められるだけ。
何にでも神性を見出し、祈り伏し、それらに恥じぬ生活を送ることだ。
安上がりでなくて良くなっただけだ。
金という神のいい加減さにうんざりさせられただけだ。
推しがこれからも健康で楽しく過ごしてくれているというわかりやすい状況がやってきてくれたら嬉しいから。
そこら辺の石ではない、推しだ。
推しが偉大であったという証だ。
ほう、口の回転だけは3倍速だな。
だがな、「オフィスで成果を出せ」なんて言葉は、環境依存の無能が吠える常套句だ。
リモートだろうが出社だろうが、できない奴はできない。
若手が見て学べないだと?笑わせるな。
オフィスで背中を見て学ぶとかいうのは、教育をサボってる証拠だ。
見て盗ませるってのは、要するに言語化も構造化もできない指導力ゼロの怠慢だろ。
本物のプロは、ナレッジを共有化できる。コードも設計もプロセスも、GitにもWikiにも全部残す。それを見れば誰でも再現できる。
プロはノイズを切って最適化する。リモートはそのための手段だ。
「10年目だから偉い」とか「オフィスで働いてるから正しい」とか、そんな時代は終わった。
結果を出してから物を言え。
趣味のアプリのプログラムで行き詰まってて、設計に関して色々ググってるときに見つけた「ゲームの設計」に関するブログより
家庭用ゲーム機(いわゆるコンシューマー)の開発やアーケードゲーム機が活発だった時代は必要なかった。
なぜならば、ゲーム業界の各会社が個々で開発し作りきってしまえば、もう直すことが無いからだ。
また、ゲームのプログラムは独創性が必要で、設計ルールを決めてしまうと、ルールを逸脱した仕組みの実装を躊躇わせる。
~中略~
スマートフォンゲームには保守運用がある。(それに最近はコンシューマーゲームもパッチ対応がある)
ゲームを続けてもらうためには定期的に改良を重ねる必要がある。
その場しのぎの実装では後からの修正に手を加える際はまるでジェンガのようにバランスを取る必要がある。
最初に土台がしっかりとしたジェンガなら倒れる可能性も低くなる。
昔は各々のゲームエンジンを持っていたが、最近は市販されているゲームエンジンを使うところも増えている。
そうなるとどうなるか、これまでは属人的に作業を割り振っていたものが
同一のゲームエンジンを触ったことがある人ならば誰にでも仕事をしてもらうことが可能になった。
市販のゲームエンジンを使えば最近の流行に合わせて自社のゲームエンジンをアップデートする必要もなくゲームエンジンの会社が対応するのを指をくわえて待ってるだけで対応してくれる。
仕事を流動的に渡せたり、一つのゲームエンジンで色々開発しているとそのコードを使いまわせる。
その場しのぎのコードでは使い回しが難しいが設計も含めてキレイなソースコードを作成できた場合、流用ができて次作を作るときに工数削減できる。
ジークアクスもそうだったけど、本筋が属人的で、特定の人物でないと成立しない。盛り上がるセオリーだけど、一般化できないのでスケールしない。これがセカイ系の構造。
https://x.com/nojiri_h/status/1982418203935748460
そもそも小説は「特定の人物でないと成立しないような小さい話」だから小説(そういうミニマムなとこをクローズアップしないと見れないものも世の中にはある)なのだが
それを「そんな小さい話を読むのは嫌だ! ひとつ読んだら大きいスケールじゃないと嫌だ!(だけど学問を真面目に勉強して大きい話にちゃんとコミットするのは面倒くさい)」という、めんどくさがりの大衆のために用意されたのが
「小説だけど大きい話できますよ」と小手先でやらかすミステリやSFだったのに、
いつのまにか「大きい話ができない普通の小説はだめだ、やはりSFだ」みたいな頭おかしい認識になってしまった
大きい話を読みたかったら真面目に教科書読めよ勉強しろよ、と言わずに「小説」をくさして「SF小説」を持ち上げる
https://www.youtube.com/watch?v=dKXQC1J0VLw&t=3239s
女性の起用、活躍について、外人の上司は女性を伸ばす人がいるけど、日本人の上司は女性を伸ばそうと思っていないと言っていて、
この人ゴールドマン・サックスの超エリートの女性なんだけど、なんで上によって変わるのか、仕事やるだけやってどんどんこなしていって上の人の仕事にも自動的に侵食していって、
関係各所からの問い合わせも自分に来るようになり、非公式に事実上の担当者になってしまって、そういうことでやっているうちにじゃあ名実ともに正式な担当者になれっていうのが多いと思うんだけど
そうなると誰が上っていうのはそもそも関係なくね?って思ったよ。
仕事なるべくサボって下に押し付けるタイプの上司のほうが、どんどん仕事が自分流れてきて、対外的にも誰がサボっているというのはすぐバレるので
そういうふうに考えていたんだけど、ちらっとこのゴールドマン女性の人がリスクは取りたくないってチラッと言ってて、そういうことかってヒントになったよ。
女の人はあまり矢面に立ちたくないんだって。色んな人に聞くと。リスクと言うか
リスク取るって言っても具体的には、危機のときやトラブルのとき顧客が怒ったときとか、謝罪しに行くとか、積極的に関係各所と折衝して良い案を作るとか、そういうことでしかないんだけど
順調に仕事が進んでいるときはそのままやらせておけばいいが、危機管理は別となる。
国会議員が女性が少ない、閣僚に女性が少ないと言われるけど、そもそも女性がたくさん立候補すれば数が増えれば自動的に増えると思うんだが、
結局、その矢面に立つというタイプの女性が少ないことが根本原因なのかもしれない。
議員の場合は国民や市民に対する説明は自分の言葉で行う必要があるので、問題は危機のときに自分でちゃんと拙い説明だったとしても自分で言うかという問題になるね。
でも何かのトラブルの女性議員の場合、素直に真摯な態度で言えば本当に大したことはないんだが、なぜか否定を繰り返すのが多い。説明そのものもしないで籠もっちゃうケースも多いかな。
それでゴールドマン女性に戻るけど、昇進とか言うけど世の中のほとんどの男性は昇進にこだわっておらず、中間管理職なんかになれば余計な属人的調整が増えて、
嫌な人とも付き合わざるを得なくなってそんなのは貧乏くじだと思っている人も多いのに
要するに昇進というものに過剰な幻想を持っているのではないかと思われた。
だってラインの課長や部長とかにさせられてみ。それぞれの課に毎週ブレイクダウンしてもらって、それを聞いて今度は部長同士で調整作業とか、そんなのやりたいのかって
だって矢面に立ちたくないってのが本音でしょ。トラブル処理からは逃げて美味しいところだけやりたいって
あとは現実的な何かの担当者、権限者というのも、ガラスの天井っても、ほぼほぼあとは未踏破の部分をやればあとは自動的にオッケー任命となるのがほとんどなんだけど
あのな、世の中なんてのは全部人脈で成り立ってんだよ。
一緒にゴルフしてくれたからっていう理由で某国大統領に日本の総理大臣が気に入られて、いろいろ優遇してもらえたわけ。
政治家とか元政治家と仲がよければ、五輪とか万博とかドでかい仕事を引っ張ってこれるわけ。
国家間が人脈で動いていて、国家が推進する国づくりが人脈で動いていて、民間企業はそのおこぼれを食ってるだけ。
でも、不可能と思われるようなことを可能にする技術なんかより、爪に火をともすような努力でのコスト削減なんかより、デカい仕事もってくるほうが評価されるわけ。
なんでかって、そりゃ儲かるからな。
だいたい、技術とかコスト削減なんてのは、社内によく精通しなきゃできないけど、社内じゃないと通用しないスキルだからな。
そういうやつらは、どんなに給料安くたって、やめないから、安く買いたたける。
人脈は別だ。
クイズ番組とか見りゃわかるだろ。
高学歴芸能人だって、せいぜい漢字の読み書きができるくらいしか違わない。
人脈があるから、適切な人材に仕事を任せられる。他部署ともうまくやる。それだけ。
エリートで日商簿記なんかやるやついねーし、プログラミングスクールに通うやつだっていねーよ。
結局、仲良しごっこが一番なんだよ。
コミュニケーションをとって人脈を作る。
やることは、それだけ。
会社員のロールモデルはな、はやいうちに信頼ポイントを貯めて仕事を任されて、成功させる。
入社のタイミングで学歴とか資格とかが目立ててれば、スタートラインでちょっと有利に立てるが、使えるのはそのときだけ。
仕事を任されて成功させたら、それが自分の名刺になって、頼った頼られたを繰り返して人脈ポイントを貯めていく。
社外とも関わって、顔を売っていく。
氷河期はそれができなかった。
だから、もう、手遅れなんだよ!
知の自壊装置としての生成AI──人類が積み上げた数千年の歴史を、たった10年で無意味に帰す
生成AIが「それっぽい文章」や「微妙にメンテナンス性の悪いツール」を大量に生成し続けた場合に予想される結果は、主に以下の4つの側面から論理的に分析できる。
生成AIは「既存の統計的傾向に基づいた模倣」を行うため、創造的で独自性のあるコンテンツよりも、「すでに無難だとされている」表現に収束しがちである。
そのため、ネット上には以下のような変化が起きる:
結果として、「知ること」や「調べること」のコストパフォーマンスが悪化し、知的行為のインセンティブが低下する。
生成AIが作るコードやツールは、動作する範囲では便利だが、以下のような欠陥が内在しやすい:
これにより、生成されたツールは「とりあえず動くが、誰もメンテナンスしたがらない」コードの山となる。
運用コストが増加し、いずれそのツール群の維持だけで人員と資金が逼迫する。
リファクタリングや設計の見直しを行う人材が枯渇し、組織全体が技術的負債に埋もれていく。
人間がAI生成物に頼り続けると、以下のような認知的・教育的影響が生じる:
その結果、人間が「技術を使う主体」から「出力を選ぶだけの存在」へと退行し、専門家が形式的にしか存在しなくなる。
エラー時に誰も手が打てず、属人的な知見に頼れない社会になる。
悪意ある使用者が生成AIを使えば、以下のようなことが容易にできる:
これは民主主義的な意思決定や、科学的合意の形成を妨げ、社会全体に不信と混乱をもたらす。
しかも、それらが「誰が書いたのかわからない」「誰も責任を取らない」構造であることが問題をさらに深刻にする。
生成AIが「それっぽい文章」や「なんとなく使えるけど質が悪いツール」を無制限に吐き出す状況を放置すれば、情報の信頼性、技術的健全性、人間の判断力、社会的基盤すべてが徐々に劣化していく。
これは見た目には便利さが増しているように感じられるかもしれないが、実質的には「知のインフラの腐敗」と呼べる事態である。
長期的には、その腐敗を止める知的主体そのものが失われるリスクがある。
平均勤続年数が短いとどうなるか?
・会社特有のやりかたというものが育ちにくい → 業界標準になりやすい
・システムも同じものを使いがち、学習コストが高い会社特有の進化はしない
・クビや軋轢を恐れない行動ができる
・副業が当たり前になる
これを全部逆にすると日本になる
・クビや軋轢を恐れて仲良くする
・属人的になる(それで回る)
・定期昇給メイン
平均勤続年数
日本 13年←
オランダ 7年
韓国 6年
アメリカ 4年←
欧米においてすら異質
だからそれを前提にしてる特徴があって、これを日本でも取り入れようとしても無理なの
ちなみに日本の平均勤続年数はずっと上がっていってる
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0213_01.html
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平均勤続年数が短いとどうなるか?
・会社特有のやりかたというものが育ちにくい → 業界標準になりやすい
・システムも同じものを使いがち、学習コストが高い会社特有の進化はしない
・クビや軋轢を恐れない行動ができる
・副業が当たり前になる
これを全部逆にすると日本になる
・クビや軋轢を恐れて仲良くする
・属人的になる(それで回る)
・定期昇給メイン
Permalink |記事への反応(15) | 08:00
そもそも音楽ってのは視覚どころじゃなく、はるか昔から物語性と一体となってきたもんなの。
芸術・文化・歴史がまずあって、それに付随する芸術分野として音楽があるの。
古代の儀式曲にも、吟遊詩人の歌にも伝えるべき伝統や史実があって、管弦楽が発展してからもオペラや凱歌のように人類が築き上げた物語とともに音楽があった。
だから、現代の「アーティスト」的な肩書を名乗るバンド人間がやってる「音楽」なんていうのは、個人の思いつきポエム程度の規模感でしかないもので、歌詞からその人の着想を想像するしかない、極めて属人的で独りよがりな音楽なんだよ。
むしろ現代の映画音楽やゲーム音楽のようなものこそ、音楽の本流に近いもの。
人間の性質からしても、個々の人生に依拠する音楽よりも、創作がまずあって背景の物語を想像しやすいものに付随した音楽のほうが心動かされるもんだから、
個人の着想由来のバンド音楽でもなんとか物語性を感じてもらえるように、歌詞だけじゃなくPVだとかいって映像制作して視覚にも訴えかけようとしてるの。
でもそういう分野なら、映画やゲームやドラマとかのほうが音楽の叙情性能としてはるかに上だろう。
「アーティスト」の作る音楽なんて、そういう劇伴音楽の劣化コンパクト版でしかないの。
その事実を直視しないで済むように、歌詞だけでも誰にでも共感されるような薄っぺらい恋愛ソングだのといった、まるで占いのように誰にでも当てはまる曖昧模糊とした詞を有難がるようになってるんだよ。
そして「音楽性」とやらで勝負してるようにトガって見せる。でも物語を伝播するという音楽の本質的役割にとっては、そういう音楽的個性というのはそこまで重要じゃない。マニア気取りの人間は「音楽性」を有難がりすぎ。
音楽の本質からすると、その伝えるべき物語にふさわしい叙情性さえあればいいわけだから、劇伴音楽には歌詞が必須ではない。
でも現代の「アーティスト音楽」はほとんどが歌詞に頼らないと「マスに刺さらない」代物だろう。その時点で何かがズレてると俺は思うね。
インストだけでヒットする現代アーティストがいるとしたら、それはその背後に膨大な文化的コンテキストがあるはずだ。
けれどヒットチャートの音楽はそうではなく、そうした音楽は、文化的コンテキストが存在しない薄っぺらい社会を生きる人間のためのインスタント食品のようなもの。
あるいは、「アーティストを追っかける」という文化を音楽業界が捏造して、それ自体を文化的コンテキストにすることで熱狂を演出する、空虚と狂気に覆われていると言っていい。
右翼というのは基本的に、経済的自由は肯定するいっぽうで社会的自由は抑圧する思想の持ち主。
つまり、経済トピックでは、競争主義・格差容認・規制緩和を望み、公害を生んでも儲けりゃ良いのよ精神の一方で、景気が悪いと保護主義になる。
社会トピックでは、伝統や宗教や国家といった権威に従わせ、権威が「道徳」によって民を支配し自由を制限することを是認する、その流れで支配しづらいインテリなどを攻撃しつつ、国際連帯などを絵空事として国家主義になり戦争を忌避しない考えになる。
典型的な人物像は、支配しやすい愚かな人間が多いことを好ましいと考える大資産家や独裁者ないしそのシンパのイメージ。要するに独りよがりで、その「独り」のスケールが最大でも国家という枠まで。身内びいきの排外主義になるのが右翼。
左翼というのは基本的に、経済的自由には否定的で、その一方、社会的自由は肯定する思想の持ち主。
つまり、経済トピックでは、格差の是正や再分配に前向きで、裁量的な経済・金融政策への介入や規制強化を求めがち。
社会トピックでは、多様性を認め、同性婚などを容認するし、平和主義・反戦主義を唱え、人権を尊重し、国家を含むあらゆる権威から個人の自由な生き方を守るべきだという考えに寄りがちになる(もちろん反社会的・破壊的な有害な自由は認めない)。
イメージとしては、学者や芸術家はほとんど左派的な考え方をもってると言える。要するに人類というスケールで共存や融和を大切にするやや理想主義的な派閥。彼らの共感力は異性や異民族まで多岐にまで及ぶが、環境や動物(食品)にまで向かうと過激な活動家になりやすい。
ただし、共産主義というのは思想自体は極左に分類されるものだが、強大な権威が公平な分配を管理するという構造上、腐敗が避けられない。その結果、現実社会に存在する共産主義体制下では、左翼でありながら左の長所であるはずの社会的自由の尊重が失われており、右翼の人間と同様に民族を弾圧したり情報統制をしたりといった他人の自由を奪う人権軽視のふるまいに歯止めがかからなくなっている。
ここで、経済的自由も尊重するし社会的自由も尊重する、どちらの翼にも偏らない存在が生じうることに気づくだろう。
それをリバタリアンといって、経済的自由を推進する側に立ってマーケットメカニズムを信用する一方で、放任にはせず、左翼のように裁量的・属人的な介入は良しとしないが、数学的なルールに基づく規制によって、スマートかつ公平に経済秩序を守ろうと考える。またそれなら小さな政府も可能になる。
社会的自由についても、多様性を認めるが、右翼が心配するような社会秩序や国家の支配の喪失に陥る状況に関しては、「そもそも国家なんていらなくね?」という考え方に近づく。テクノロジーによって国家の機能を分解・代替していくことで、すぐには無理でも将来的には国家なしでも現代人は秩序ある暮らしができると考える。
逆に、どのような種類の自由も尊重しないパターンもあり、それは権威主義とかポピュリズムとか呼ばれる。
大衆の嫌悪を煽り、どのような意思決定においてもより狭量かつ短絡的な判断を肯定していく思考回路の人間で、理性とは程遠い、文明を巻き戻そうという気配のある集団だ。
イメージとしてはインターネット。匿名のネット社会では放っておくとそういう悪意による洗脳が伝播していき、集団極性化に至る。
ただ、権威側に立つ右翼の人間や、極左である共産主義の独裁者が、自分に都合の良いように大衆を扇動する/不満をそらすためにポピュリスト的な言動をすることもあるので、本当に全方位に狭量な馬鹿なのか、ずる賢い策士なのか判断しづらいことがある。
ただネットでこうした狭量を開陳する小市民は、10割が自分の中の下劣な偏見を撒き散らしたいだけの馬鹿であるので判断しやすい。まともな精神状態ならばそうした人間の言葉を真に受けることもないだろう。
ここ最近増田で珍奇な造語を喧伝して特定の集団を非難している人がいるが、ああいう人々は既存の言い方をするならサイバーリバタリアンとでも言うべきもので、リバタリアニズムの中でテクノロジーを自由のツールとして重視するテクノリバタリアニズムの一派だ。
思想的には特段目新しいものでもないが、テクノロジーの進歩によって現実味を帯びてきた側面はある。現実味の面では政府の統制が効かないWeb3、とりわけ暗号通貨技術が今のところもっとも重要なテクノロジーで、近年のAIはさほどでもない。
ただこの流れに乗って成功し力を得るテック系知識人を憎み、偏見を煽ることに熱意を費やすその喧伝者のありようは、唾棄すべきポピュリストに他ならない。
ガンダムのアイデンティティって戦争を通して描かれる善悪のない人間たちと少年少女の成長、人間の生々しさ、政治ドラマ、とメカニック、強いメッセージ性なんだわ
アイデンティティのほとんどが属人的で、数十年バンダイに雑に削ぎ落とされてきた
今じゃガンダムのアイデンティティなんてのは角の生えた2つ目のロボットが出てくるアニメ、とかいう表面的で空っぽなもののしかないのね
水星の魔女は特に顕著で、放送終了から時間が経っても根強い人気風に見えるけど、内容はスレミオがどうのこうのの一辺倒wそのスレミオもキャラクターの作品を通して生まれた魅力じゃなくて同性カップルという属性に依存しとる。良い作品ってのは様々な面から見てこそで、キャラクターデザインやメカニックデザインがいいからという一面でしか評価しかできない作品は正直駄作の部類だわ。富野のガンダムは、間違いなく多面的に評価できる"芸術"だったんね。
結局新規IPを作っていく体力も才能も自信もないし、ガンダムという金のなる木を手放せないバンダイの怠慢だよね。
んで、ジークアクスよ
富野を憑依させて脚本を書いたと語ってたが結局いつもの庵野。ストーリーも哲学もなく、ただ演出で固めただけの薄っぺらい作品
しかも、言わせたいセリフと再現したい構図、演出だけが先行してそこにストーリーをあとづけしてるからもう不自然で見てらんないわよ。普通はストーリーがあってキャラクターの思考からセリフが生まれ、キャラクターの行動から構図が決まってくるものだろうが。
同人誌書くレベルで富野のファンというから、どんな素晴らしい作品が出てくるかと思ったら結局近年のガンダム作品と変わらない空っぽな二次創作だった。
ビギニングじゃないジークアクス本編部分はまだ始まったばかりだからなんとも言えないけども、まぁマチュニャアンしか見えてないひとすでに多そうだね。
ツイッターをみても具体的にどう面白いという感想が出てこない。大体して"シャアが変なことしてて面白い"、"初代のアニメが綺麗になってて感動"(←別物だが?w)"こんなことが許されていいんか(画像)"、結局どれも表面しか評価していない。
前情報無しで初代のマネごとが始まった衝撃抜いたら面白さそんなないんじゃないの?
それとも、もうアニメを物語、作品として評価する人間は居なくなったのか?神作画()でキャラデザが可愛くていい感じのとこでエモい曲が流れれば神アニメなんですか?聞いてるかリコリスリコイルさん??
新奇性があって共有可能な知見ということになる。
誰々さん抜きではできない(属人的)とか、共感しないと理解もできない(宗教)とか、そういうのは学問じゃない。
評判の悪い社会学やフェミニズム学者はそういう社会によるチェックをオミットしてる。
そして仲間内でアカポスを利権として維持してやったりとったりしている。学問の独立性というていのいい言い訳によって。
学校内での犯罪行為に警察が手出ししない、法治国家では本来ありえない聖域化も、同じように「教育現場の自治」を盾にしてるから。
要するに教育や学問の場が特権大好き左翼のナワバリにされてしまってるのだ。安モンの人文学者があたりまえみたいに左翼だらけなのはそのせい。
なんか別の増田が食いついてるけど、それは私ではないよ。あなたの意見には一理あると思った。結局、どう考えるのが良いのか存外難しいと思ったので、Claudeに質問してた。
とりあえず、今までのやり取りについてどう思うか、Claudeに尋ねたのがこれ。
【以下のやり取りは津波発生時に小学校の教員がどのような責任を持ち、どのような避難対応をとるべきかについての議論なんだが、君はこの議論についてどんな見解を持つ?】
A:
事前の避難ルート策定があったのか、それに従えてたのかか教師の責任になるかどうかのすべててで
B:
それはそれで別種の無責任さがあると思うわ。
あらかじめ決めた決まりがないなら私がどんな判断をしたとしても私に責任はありません。あるいは、あらかじめ決めた決まりがあった場合は、私は決まりを守っただけなので責任はありません。どっちにしても私に責任はありません。みたいな態度でしょ?
C:
個人の責任にしてたら結局そういう災害のときの対応が属人的になっちゃうじゃん。
でもみんなできることなら助かりたいし、人によって対応に良い悪いがでるのは困るじゃん。
だから誘導するのが誰であっても、それさえ知っていれば適切と思われるような対応を予めみんなで考えて決めとくんじゃん。
もちろんその時になってみて、それじゃダメだなって気づいてもっと良い方法を取れたら素晴らしいけど、それはここで教師の判断が…とか責めてる人たちがもし当事者だったとして、ほんとに正しく判断できたかどうかはわかんないんじゃあないかね?
自分ならできるって思う人ほどそうなった時のこと考えてないから、いざって時に慌てちゃって失敗すると思うよ。
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この津波発生時の教員の責任と避難対応に関する議論について、私の見解を述べさせていただきます。
この議論においては、災害時の対応における「個人の判断と責任」と「組織的な事前準備と共通プロトコル」のバランスという重要な論点が示されています。
まず、災害対応において最も重要なのは児童の安全確保です。その観点から考えると、次の要素が重要だと考えます:
C氏の指摘するように、災害対応は個人の能力や判断に依存するべきではなく、組織全体として適切な避難計画や訓練を事前に整備しておくことが不可欠です。これにより、誰が指揮を執っても一定の質が確保されます。
B氏の懸念は重要です。マニュアルの存在が責任回避の盾にならないよう注意が必要です。一方で、緊急時には予期せぬ状況が発生するため、マニュアルに固執せず、現場の状況に応じた臨機応変な判断も求められます。
学校における災害対応は、個々の教員だけでなく、学校全体、教育委員会、自治体を含めた共同責任であるという認識が重要です。個人の責任追及より、システム全体の改善に焦点を当てるべきです。
結論として、学校における津波対応は「事前の十分な準備と訓練」と「現場での適切な状況判断」の両方が重要であり、それを支える体制づくりが不可欠です。また、実際の災害経験から学び、常に防災計画を改善していく継続的なプロセスも重要だと考えます。
災害時の対応を評価する際は、後知恵バイアスに注意し、当時の情報と状況下での判断を公正に評価することも大切です。C氏の「当事者でなければ本当に正しく判断できたかはわからない」という指摘は、この点で非常に重要な視点です。
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【Aの発言についてはどう思う?】
A氏の発言について分析すると、教師の責任の範囲を「事前の避難ルート策定の有無」および「それに従えたかどうか」という二点に集約している点が特徴的です。
実務的な視点
A氏の発言は、責任の所在を明確化しようとする実務的アプローチを示しています。事前計画の策定と遵守という具体的な評価基準を提示している点は評価できます。しかし、この基準だけでは災害対応の複雑さを十分に捉えきれていない可能性があります。
A氏は教師の責任をかなり限定的に捉えているように見受けられます。実際の災害対応では、事前計画の有無や遵守以外にも、状況判断力、臨機応変な対応能力、児童の心理的ケアなど、多様な要素が教師の責任として考慮されるべきでしょう。
B氏が指摘するように、A氏の立場は責任回避の論理につながる可能性もあります。「計画があれば従った」「計画がなければ私の責任ではない」という二分法は、教育者としての総合的な責任を矮小化するリスクがあります。
結論として、A氏の発言は責任の明確化という点では一定の価値がありますが、教師の災害時における責任の全体像を把握するには不十分であると考えます。教師の責任は単なる計画遵守にとどまらず、児童の安全を最優先する判断と行動、そして平時からの備えを含む、より包括的なものとして捉えるべきでしょう。
その後、「事前に策定された計画がなかった場合、事前に策定された計画が現実の事態にそぐわない場合、これらの場合において上司や同僚の教員の判断が妥当ではないと思われる時、君ならどんな行動をして児童の安全を確保する?」とか「自分が組織図上、もっとも下の立場の教員だとしたら、どのような行動をとる?」とか「自分の判断がよくない結果を招く可能性もあるよね。そこのところはどう考える?」とか尋ねた。同じ質問をすれば似たような回答が返ってくると思うので、気になるなら質問してみて。
個人の責任にしてたら結局そういう災害のときの対応が属人的になっちゃうじゃん。
でもみんなできることなら助かりたいし、人によって対応に良い悪いがでるのは困るじゃん。
だから誘導するのが誰であっても、それさえ知っていれば適切と思われるような対応を予めみんなで考えて決めとくんじゃん。
もちろんその時になってみて、それじゃダメだなって気づいてもっと良い方法を取れたら素晴らしいけど、それはここで教師の判断が…とか責めてる人たちがもし当事者だったとして、ほんとに正しく判断できたかどうかはわかんないんじゃあないかね?
そんだけ長期見てきた人らにめっちゃ後足で砂かけてくやん
4年間いろんなVを並行して見漁っていたんだろうけど
結局キミですら愛想つかすような人間がゴロゴロいたってことでしょ
だったらその4年間毎日原神にログインしてフレーバーテキストの隅々まで読み漁って考察やらキャラ解説やらの動画見て自主研究する時間のためにYouTubeを使っていた方が豊かな娯楽体験が得られたんじゃないか?
似たようなアニメ顔キャラクターを日々眺めるならさ、こうした高予算の上澄み系ゲームは公式からのコンテンツ供給が膨大だから、日々中身の薄いゲーム配信をだらだら繰り返すVよりも濃度は高いと思うけどね
属人的な魅力頼みのエンタテイナーであるVをハシゴするよりは、ウン十ウン百億かけて大規模に製作されてる大型アニメ調運営型ゲームを数本並行して4,5年ハシゴしてたほうが普通に充実する気がしない?
どうしても疲れた脳と体で何も考えず画面を眺めながらゲラゲラ笑う昭和のテレビっ子みたいな娯楽消費スタイルしかする余裕ないんだっていうなら仕方ないけども
もしVというエンタメ形態そのものに飽きてきている節があるなら今は有力なオタクゲーマー向けタイトルが両手で数えられるくらいある恵まれた時代だから趣味をシフトさせるのは難しくないっピ