
はてなキーワード:小森とは
住田町の種山ヶ原から国道397号をちょっと西に行くと奥州市に入る。まあ奥州市観光にこのルートを取る人はたぶんほとんどいない。通る人がいたとしても帰り道だ。奥州市は水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村が合併して出来た自治体で、大抵は花巻・北上方面から南下するか、一関・平泉方面から北上して入ってくる。
5つの市町村が合併しているけど、まあ中心部は水沢、それから江刺という感じ。この中でもこのへんは盛岡に負けず劣らずの"偉人の産地"ということをPRしていて、実は奥州市には偉人の記念館が山程あるという特徴がある。問題はその偉人が"その分野を知っている人には有名"くらいの有名人であるところで、なので不特定多数の人にはお勧めしづらいのだ。一応記念館のある人の名前を挙げておくと、高野長英(幕末の蘭学者)、斎藤實(2.26事件で暗殺)、後藤新平(台湾開発で活躍)、菊田一夫("君の名は"の作者)、木村榮(Z項の発見)、佐々木精治郎(パステル画の巨匠)と言った感じ。だいたいこの名前で検索すればどの記念館に行けばいいかはわかるし、この名前で分かる人はたぶん最初からそれ目的で来るはずなのでここでおすすめするまでもない。まあもしかして検索で分からないかもしれないということで、木村榮がらみの場所だけ紹介しておく。水沢には緯度観測所という国立天文台の中では最も古く現存する観測所があって(現在は名前が少し変わっている)、そこの旧館を記念館奥州宇宙遊学館として公開している。で、実はここは宮沢賢治絡みの施設でもあるという話もあったり。
あ、誰でも知ってる有名人1人増えたね。大谷翔平。彼は水沢の出身で、毎月17日は市役所の人たちが全員17背番号のシャツ着て仕事してる。本人の手から肩を取って真鍮で作った実物大の握手できる手が市役所ともう1ヶ所に常設している(時々イベントで出稼ぎに消える)。菊池雄星の話の時にちょっとだけ話した大谷翔平マンホールは水沢江刺駅の駅前にある。さらに彼ゆかりの地は市役所がマップを作って公開しているのでそれを見て周るといい。
水沢についてはあと2つ紹介しておかないといけないものがある。1つは南部鉄器。日本の北部なのになんで南部鉄器なのか、しかもここは南部藩じゃなくて伊達藩なのに、という謎には回答があるのだが、それは忘れて南部鉄器を探すといい。水沢の南部鉄器は手頃に買えるものが多いし、そもそも明日明後日は奥州市南部鉄器まつりで即売会も行われる。第二会場は新幹線水沢江刺駅のそばにあるし第一会場の周りには駐車場も多いので存分に見るといいと思う。この"周辺に駐車場が多い"はちょっとした伏線で、もう1つの水沢で紹介すべき施設水沢競馬場には駐車場が存在しない。競馬場自ら「車で来る場合は近隣の私設駐車場を利用してください」と案内するくらい。まあこの駐車場思ったよりも安いのであんまりこだわらないで使えばいい。おそらく水沢競馬場は日本で一番ひなびた競馬場で、でも季節の関係もあって岩手競馬はこっちでの開催のほうが盛岡競馬場よりも断然多いという、よく使われている競馬場でもある。そしてこの競馬場、桜の名所でもある。競馬場の向正面に桜並木があって、これが桜の季節だけ一般公開されて入ってお花見を楽しむことが出来る(カラオケは禁止)ので、4月中旬に岩手に来る場合はこれを検討するのもあり。
江刺はえさし藤原の郷という施設がまあ一番の観光地。ここは戦国時代より前の時代劇では頻繁にロケ地に使われるので、大河ドラマのロケ地巡りをしている人にはまあ必見ではある。それ以外には市街地中心部に蔵を保存利用した蔵まちモールというショッピングモール街があって歩くだけでも楽しい。サブカル的には江刺にはテクノワールドというゲームセンターが生き残っている。情報発信頑張ってるけど、結局インカムがなければどうにもならないので言ってコインを入れて遊んで欲しい。
胆沢は、実は胆沢ダムが微妙に注目されている。まあこの夏貯水量が少なすぎた、ってところで注目されたやつなので別に見に行かなくてもいい。それよりもその下流にある円筒分水工。こっちがたぶん大事。この辺は水争いで揉めた歴史があるところで、それを避けるために丸い筒の中から水を出して、その丸を等分に割って水が計算通りに分配できるようにしたという、その設備が今でも残っている。これは見ておいたほうがいい。
前沢は、その名の通り前沢牛が有名で、牛の博物館がなかなか見応えがある。まあ大体の人は「どうせ牛だろ」とたかをくくって見に来るからその落差ですごく見える、という点はあるかもしれない。前沢牛を買って帰りたいなら牧場直営店の「おがた精肉店」で買えばいい。実はこの牧場、前沢牛のほかに小形牧場牛というほぼ同じようなブランド牛を飼っていて、こっちの肉は前沢牛より5%くらい安かったりする。たぶん大抵の人はこの5%の味の差はわからないと思うので配る用はこっちでいいと思うのだけど、よく考えたら生肉をお土産に配るってそんなにやらないね。
前沢牛をその場で食べたいなら、このおがたが前沢の駅前で焼肉店をやっているのでここで食べられる。そう言えば食べるもの何も紹介してなかったね。胆沢ダムはダムそのものよりも胆沢ダムカレーがあちこちで展開されている。江刺はミートショップ小野寺の唐揚げ(チューリップ)の評判がいい。水沢といえば焼肉龍園なんだけど、ここはグルメ番組で擦られすぎて最近は予約でいっぱいらしい。
あ、衣川について説明していなかった。衣川は岩手初の落語真打・桂枝太郎の出身地。別に彼の生家が記念館になっているということはないんだけど、平泉前沢インターを降りる時に城が見えて、これは彼が地元に落語を定着させようと有名落語家を山程呼んだ落語会をやったホテルの跡地。そのうち再活用されるらしいのでその時に見に行くといいかも。あと、ここの"大森"地区がマンガ"リトル・フォレスト"の舞台"小森"となった関係で、公開後にロケ地巡りをする人がそれなりにいた。
| 名前 | 絵 | SS |
|---|---|---|
| 橘ひなの | 4641 | 4960 |
| 胡桃のあ | 2919 | 1405 |
| 一ノ瀬うるは | 4687 | 1217 |
| 英リサ | 1321 | 1180 |
| 花芽なずな | 1553 | 1010 |
| 花芽すみれ | 3263 | 943 |
| 如月れん | 1287 | 865 |
| 猫汰つな | 2535 | 799 |
| 藍沢エマ | 3810 | 748 |
| 空澄セナ | 1338 | 635 |
| 兎咲ミミ | 1848 | 557 |
| 小森めと | 2101 | 490 |
| 白波らむね | 1157 | 432 |
| 八雲べに | 2256 | 387 |
| 小雀とと | 804 | 248 |
| 神成きゅぴ | 1141 | 241 |
| 紡木こかげ | 886 | 67 |
| 夢野あかり | 584 | 63 |
| 夜乃くろむ | 549 | 50 |
| 甘結もか | 315 | 45 |
| 千燈ゆうひ | 551 | 41 |
| 蝶屋はなび | 265 | 31 |
1区民でゆるい立民支持者の増田が
浅い知見で議席予想するよ
石川1区
立民 荒井淳志
もともと自民が強いところにこれだけ野党が乱立したらもう決まり。ゼロ打ちもあるでしょう。野党はそんなに共倒れがしたいのか。
大体立民の新人は前回も出てたが、この三年間市内で単独ポスターも辻立ちも見たこと無かったぞ。参政党のポスターの方が目に付くことが多いって、党もやる気あるのか。
維新の小林は前回も比例で次点だったので名簿順次第でワンチャンあるかも。
石川2区
立民 小山田経子
立民小山田は1区に比べればSNS発信、ポスター等まだしも活動の跡がみてとれるが、何しろ森元の地元なので、ここも自民で硬い。
石川3区
立民 近藤和也△
共産 南章治
保守王国の石川のさらに郡部で比例とはいえ議席を守っている近藤がどこまで健闘するか。個人的に勝手に「石川の中村喜四郎」と呼んでいるのだが、今回は与党有利。
能登に限らず地方の人間は困難な状況に陥ると、権力者におもねりへつらいおすがりして分け前をお恵みしてもらおうとするものだと思っているので。
「うちのセンセイがもし落ちちゃったら予備費が下りてこんかもしれんのやぞ」と匂わせればイチコロでしょう。加えて今回は共産が非自民票を食うので、近藤は比例復活もひょっとしたら厳しいかも。
と、いうことで
自民 3
立民 0-1
維新 0-1
と予想
昔からはてなブックマークをやってた人なら流れをうろ覚えしているだろうけど、漫画『海猿』というのは昔は「原作・小森陽一」とか紹介されていて、ドラマや映画がヒットしてる最中に佐藤秀峰先生は小学館と揉めて、原稿を引き上げて権利を取り戻したって経緯がある。
小森陽一先生は海保や海自などをテーマにした海洋漫画をいくつも手掛けてる漫画原作者で、『海猿』では立ち上げ時にちょっとだけ関わりあったけど原作者といえる仕事はしていないでしょって揉めた。「漫画原作者」の定義って普通は「原作小説の作者」か「ネーム(脚本)執筆者」かだけど、アイデアや資料提供程度の仕事だったんだろうと。
映画2作目の時に主演俳優が会った「原作者」というのは小森陽一先生のほうだったのではないか。その時に編集者も帯同して「これは漫画家からです」って事前に描かせてたサイン色紙を渡した光景が想像できる。
その後、佐藤先生は出版社と決裂し、フジテレビとも突撃取材問題でトラブルとなる中で、交渉の結果、映画3作目と4作目の制作契約が結ばれ、原作者として「初めての」撮影見学に行った際に雑な対応をされて嫌な記憶を残してしまったと。
過去ブクマ探してたら佐藤本人がサバサバと「海猿」と小森の関係を語ってる昔の記事見つかったわ。戯画化されてる「描くえもん」よりかはわかりやすい。
そもそも『海猿』は「ヤングサンデー」の編集者が、当時、映像制作会社に所属していた小森陽一(『海猿』には原案取材としてクレジット)さんと知り合いになって、お互い海が好きということで、海上保安庁の話を描こうとしていた。そこで小森さんが原作を文章で書いて企画会議に出して、「原作としては使えないけど、海上保安庁というのは珍しい」ということで、企画だけが残っていたんです。それを編集者が「佐藤君、描いてみないか」と持ってきて、話を受けたんです。なので、僕は小森さんの書いた原作を読んでいないのですが、小森さんは自分が原作者だと思っていらっしゃるようで、そこからお互い齟齬があったんですよね。
AIによる要約
・小森家: 最貧の家庭。公団住宅で壁が薄く、母親は寝たきり。介護をしていた小森くんの失踪により母親は餓死。
・小沢家: 社宅団地住まいで、中退した母親がパート勤務。父親は仕事がブルーワーカーで長時間の残業。一人娘を私立中に通わせる余裕がある。
・玉依家: 古いアパートで父子二人が住む。父は航空機パイロット、母は大学教授。趣味性の高い自転車を持ち、レトロ趣味の家。
・佐倉家: 戸建てで、一階が定食屋、二階に居住。一人娘に四畳程度の個室を与える余裕があり、売れている定食屋。
・貝塚家: 戸建てで二階建て。裕福な家庭で、大きなクローゼットや贅沢な家具。父親は高収入で、娘の進学予定があった。
・小森家
恐らく作中最貧家庭
扉の上部に外を見られるようにガラスがはめられていて、普段はカーテンで仕切っている。
これは古い住宅に見られるつくりで、発表時期を考えても築年数がだいぶたっていそう。
父親は不明だが養育費の支払いなどしていないだろう、生活保護世帯か。
寝たきりなら行政の世話がありそうなものだが、行き届かず介護の重い負担が中学生の小森くんにかけられていた。
独居老人が暮らしそうな規模の家に見え、小森くんには個室もなかったのではないか。
これでもかと貧しそうに描いているのに小森くんがファッショナブルなのはなんでだろう。
どこに売ってんだよという服なので、市販品ではなく竜の子に生成させたものなのか。
・小沢家
社宅団地住まい。4階建てで南棟かに分かれた団地という趣だが、小森家ほどの最貧っぽさはなく、それでも平均より貧しそう。
エレベーターがないようだ。
和室として作られたのを洋風にリノベーションしたのかな、仕切りが襖。
台所にガス湯沸器がついているのも古い家だ。
娘に4畳くらいの個室を与えるゆとりはあるが、収納が少ないのか壁に服がずらっとかけられている。
父親は仕事で朝帰りが多いとのことで、夜勤なのか、長時間ブラック労働の残業代でなんとか家族を食わせているのか。
大した仕事ではないように語られており、ブルーワーカーだろうか。
一人娘を私立中に通わせようとしていた程度の余裕はある。
ただこれは最寄りの公立中が非常に荒れているという事情のもと。
それでも、幼稚園ではなく保育園に入れていたし、「娘の手が離れたら私も大学でも行こうかしらね」などと母親が言っているので、カツカツな暮らしではないようだ。
・玉依家
風呂場はバランス釜でテレビはダイヤル式、だいぶ古いアパート。1DK。
父子二人で暮らし、父は民間航空機パイロットで母は大学教授なので、経済的には恵まれている方のはず。
父の実家が離島の古き良き大きな家であるため、レトロ趣味による物件チョイスであり、貧しくて古い家しか選べないというわけではないだろう。
自転車は金がかかっていそうな趣味性の高いものなので、貧乏だからリユース扇風機しか選べなかったわけではない。
畳部屋を寝室にして父娘で一緒に寝ているようだが、これ思春期になったらキツイだろうな。
畳部屋は娘に個室として与えて父はリビングで寝るようにするとか、もっと広いところに引っ越すとか、そういう想定があったのだろうか。
・佐倉家
一人娘に四畳程度の個室を与える余裕はある。和室。
出入り口が一つしかなく、定食屋の中にある階段を通って自室に入るというのは、内気な娘にはけっこう辛い環境。
付近にあまり食事処のない住宅街の中で売れている店であるらしい。
娘の部屋の畳の敷き方が1巻と5巻で変わっている。これはただのミスかな。
・貝塚家
戸建て。二階建て。庭には樹木。主要キャラの中で最も裕福な家庭。
大豪邸というほどではないが、年収1400万円以上ぐらいの世帯じゃないだろうか。
小沢さんの娘さんは成績優秀だが家柄審査(親の職業・学歴)に引っかかりお嬢様中学の受験失敗したが、貝塚さんの娘さんは進学できる予定だった
そのことから、いかにもお金持ちそうな父親だけでなく、母親も一定の学歴を持っていそうだ
娘の個室のクローゼットの大きなことよ。
リビングのソファは、父母と娘の三人家族では持て余しそうな数と大きさ。
無意味にインテリアとして皿を飾り、実用ではなく趣味性の高いものとして暖炉がある。
観葉植物の横にあるジョウロですらなんだかお高そうだ。
小学校は公立でもおかしくはないけど中受は絶対にするぐらいのお金持ちという現実的なスケール。
・須藤家
気がつけば、ホロライブ・にじさんじの2強の次くらいの存在感を示すようになっていたVTuber事務所、その名もBraveGroup。
強気の買収攻勢でぶいすぽっ!にRIOTMUSICという2大看板を傘下に収めているところに、ヒメヒナまで獲得。
その一方であおぎり高校を手放すという、リスクとリターンを冷徹に見定めるムーブも繰り出していたり。
業界の草創期はベンチャーの中の選りすぐり数社が覇権コンテンツを握るものだけど、ここから先はこういう資本力を背景に、有望そうな小規模グループを獲得するところも目が離せない。
一方で今年から正念場を迎えたのが、BraveGroupが躍進するまで、一応有名老舗として3番手をキープしていたななしいんく。
小森めとのぶいすぽっ!移籍に始まり、とうとう一番の売れっ子だった周防パトラが事務所を脱退して独立。
前向きな話題と言ったら新規タレント3人デビュー(このうち定着したのが2名)というくらい。
それだってRIOTMUSICやぶいぱい、ミリプロといった他のハコの新人デビューの前に霞んでしまっている状態。
むしろ上掲の移籍・脱退や部門統合の混乱っぷりばかりが目に付く有様。
このまま存在感を失ってシュリンクしてしまわないよう、これから踏ん張りどころだろう。
VTuber大手事務所のにじさんじ(とホロライブ)はそろそろタレントVTuberによる権利の買取を認めていいんじゃないか?もちろんそれ相応の値段や年数で。
いや、わかるよ。難しいのは。
VTuber事務所ってIPを握ってるからこそ成り立ってる所だもんな。そうじゃなきゃ、ヒカキンのところのuuumみたいにどんどん辞めていくだろうしさ。
サムネやら編集やら企画やら本人任せな部分がデカい分、独立しても上手くいくやつも多いだろうし。わざわざライバル増やすことするわけないよな。
でもさ、もう今のVTuberってほぼ魂ありきじゃん。そりゃ昔は違ったよ。だけど今の時代を作ったのはにじさんじお前だろ?何いいところどりしてんだよ。
半年前に、ななしいんくってまあまあの事務所の周防パトラってVTuberが独立してその金額が話題になったし、同じくななしいんくの小森めとがぶいすぽへ移籍したって例もある。
にじさんじができて5年。そろそろ改めなきゃいけないところなんじゃねーの?
次の文章を眺めてみて欲しい。
『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。第二に、以前の小説作品と大きく違って、可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが作品内で主題化されないほどに内在的なものとして組み込まれ浸透しているからである。』
インターネットぶつかりおじさんにカンパし、一度ブロックされて解除された後2023年10月の今に至ってもなお彼やその賛同者の多くをX(旧twitter)でフォローし続けている、推理小説作家・評論家小森健太朗の著作「探偵小説の論理学」269ページから引用した文章である。
氏のSNSにおける華々しい戦歴の説明は割愛する。冒頭で引いた氏の文章を眺めることからはじめ、氏のSNS上における無数の陰謀論傾倒の人生、ひいては暇アノン化する文化人やネットユーザたちについてなんらかの理解を得ることができないか見てみたいのである。
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『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。』
主語がないのは先に出ているからである。一つ前の文の「西尾維新の作品」がこの文の主語である。そして、この第一に~第二に~というのは疑問に対する答えの列挙である。
『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』
冒頭の文の一つ前に置かれたこの文がその問いである。なぜ「それでは」なのかというと更に一つ前の文で↓のように認定しているからである。
『様相論理一般が、それらの作品により適合するのではなく、われわれの住む世界にある論理、どの作品にもある論理一般において様相論理は適合性を有している』
つまり、著者はこの箇所で「西尾維新の作品こそ様相論理が合う」と言いたいのである(なお、『様相論理は適合性を有している』だとか『様相論理と親和性のある』とかいう語句の意味は不明)。
それを踏まえた上でも文の後半は日本語がおかしい。いやそもそも『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』の「‥‥作品を~~とりあげられるべきなのか」という文も変なのだが。受動態ならば‥‥作品が~~とりあげられるべきなのかとすべきであろう。とはいえ文意は理解できている(と信じたい)ので無視しよう。
・(西尾維新の作品では)狂気や妄想が、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない
・(西尾維新の作品は)狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものとしていない。
引用した文のある段落の一つ前の段落で、彼らの作品における狂気の取り扱い方について『現実の正気の論理が前提として背後にある。狂気や、いわば正気の世界に枠囲いされる形で、際立たせられる』と説明されている。この書き方ならば前世紀に書かれたチェスタトンや泡坂妻夫らのミステリ作品との違いを述べていることが明確である。
なお別の案として、第二に~の述語に繋がっていると見ることもできる。が、そうして読むと能動態・受動態が変になるのである
・『二十世紀に書かれたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない』‥‥『ものとして組み込まれ浸透しているからである』
この能動態・受動態が変というのが引用の二文目の問題でもある。
例によって主語だが『‥‥組み込まれ浸透している』の主語はなんだろうか?そもそも『組み込まれ』『浸透している』は同じ主語を持つのだろうか?候補は『西尾維新の作品』と『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』の二つである。
『西尾維新の作品』は『組み込まれ』がおかしいのは‥を組み込むという能動態に直せば明らかである。『西尾維新の作品』を目的語とした「西尾維新の作品を組み込んでいる」には意味を見出すことは不可能である。
『西尾維新の作品』は『浸透している』は、意味としてはありえる。だが使えるのは読者の認知度などを述べる文脈などであり、どこに浸透しているとかいった説明の無いこの文では意味を持たないであろう。
すると『西尾維新作品』は、『西尾維新の作品では』という句であり、主語は『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』と見るべきである。これならば受動態能動態を変えても意味が通じるであろう。
・(西尾維新の作品では)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』は‥‥組み込まれ浸透している
・(西尾維新の作品には)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』が‥‥組み込まれ浸透している
いけそうである。しかしそう理解すると今度は九段の文の書き方があまりにも奇妙に見えると言わざるを得ないのである。
『(西尾維新の作品では)可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが……組み込まれ浸透しているからである。』
「を、それが」と書いた理由はなにかあ在るのであろうか‥‥???「‥‥を」とするならば「それが」をそこに付けず「組み込み、そしてそれが浸透している」というようにすべきだし、受動態のまま「組み込まれ」を使いたいならば「を」をなくして「‥‥が~~組み込まれ浸透している」と書くべきであろう。なぜここまでねじくれた、好意的に見て文法違反スレスレで読みにくい書き方をしているのだろうか‥‥???著者も校正者もなにかおかしいと思わなかったのだろうか???
余談だが、様相論理において可能世界ごとに分岐(というか異なる)のは、命題への真偽値の割り当てであったり個体領域である。それらは一般的にいって「論理」と呼ばれるものではない。このあたりも意味不明なのである。ようはポストモダンにおける科学の誤用濫用の仲間である。さておきこれまで氏の華々しい戦歴を目にしてきた者の意見として言うと、氏の癖として、彼がカンパしているインターネットぶつかりおじさんと同様に、勝手に定義した「A」を、他の意味の「A」と気軽につなげて論証をするというものがある。いわゆる「媒概念曖昧の虚偽」と言われたりするやつである。こうした論証上の誤りに無頓着な事も陰謀論にたやすくはまる一因と言えるのかもしれない。
海法紀光や、アレな発言を非難する者がしばしば指摘していることであるが、氏は、理由をあげたり説明したりといったいわゆる論証をする際こういった文章を頻発する傾向がある。特に、自身の立論が苦しくなってくると、文法が崩壊していると感じられる弁明が増えるように見えるのである(quantumspin氏による批判とそれへの応答なども参照せよ)。主語や述語がみつけにくいのもよくあるパターンのひとつである。小説以外の活動に関しては、ずっとそういうやり方で通して来ているのかもしれない。
これは結論に対して必死に理由を拵えているせいというのもあるのかもしれない。そのような、結論にあわせて理屈を拵えることをよしとする姿勢もまた陰謀論への傾倒を片側から支えているようにも思えるのである。
などなどと、かつて新本格のムーブメント到来に歓喜したものとして心苦しい気持ちを抱いていたのであるが、最近大きなヒントを見つけることができた。
https://twitter.com/furukawa1917/status/1708364352540246446
氏にとって人類の進歩は虚構的観念であるらしい。勿論、氏のいう虚構的観念は、非難されればすぐにその中身を適当に入れ換えられるブラックボックスであり、「生活費切り詰めてカンパ」と同じ程度の軽口でしかないのやもしれない。
だが、そういうことかと得心もしたのである。
かつてポストモダン思想が華やかなりしころ、同じ世代にあって「進歩なんて幻想だ」と嘯いた者は多かったのではないだろうか。なにしろ、特に思想や政治について色を出さず、特に「後期クイーン的問題」等の話題に珍説を披露したこともない有栖川有栖氏の作品においても、「ホイッグ史観」「進歩史観」といったかたちで冷めた態度が見られるのである。
311以降かどうかは定かでないが、SNS上では、ミステリ業界の「知の欺瞞」が手ひどく叩かれる時期があった。氏も基礎的な誤解を指摘されてはよくわからない弁明を書き連ね、最終的に相手が呆れて去っていくということがしばしばあった。その後、左翼・リベラルに敵対的な気分をもつひとは自らを「科学的」と自認するようになり、小森もなんとなく菊池誠氏などをRTしたり科学的な雰囲気のある人々の輪に入ることで、これまたなんとなくのうちに過去の知の欺瞞は有耶無耶になった。
しかし上記の発言から察せられるように、頭はポストモダンのままだったのである。この点を傍証する発言はひとつではない。
『紀藤さんは、カルトと宗教の弁別ができる超越的な裁定者であると自認しておられるのでしょうか?』
これは、統一協会が話題になった際、紀藤弁護士の発言に対して、なされた引用RTである。
カルトであるかカルトでないかの区別ができることが『超越的な裁定』だと言うのである。その理由もふるっている。
『カルトと宗教の線引きがわからないのではなく、できないと言っています。』
まさにあの堕落したポストモダン思想にかぶれたあの世代の、あの辟易するような懐疑的態度を思い起こさせるものである!!!認識的な不確実性を理由として判断の正しさを否定する。現実的・実践的な正しさをすっ飛ばして「超越的」なものに基礎づけようとする(そして、その不可能性からお好みの結論を導く)。‥‥ところで、なぜ「分からない」「できない」「不確実だ」という判断だけは正しいと信じられるのか自分にはまったく理解できないのだが‥‥‥笠井潔なら教えてくれるのであろうか‥‥????
結局の話、己の欲する結論のためにいい加減な理由づけを許容する態度、あらゆる価値・論証・実践的合理性等を無効化した気になれる堕落したポストモダン思想、メチャクチャナ言説をまともに文章を読み批判をすることのできない現代ニッポン論壇・批評コミュニティの無力さ、そうしたものが無数に積みあがって悲惨な令和の余.命事件へと通じる道が敷かれたのかもしれないと思うのである。