
はてなキーワード:専門用語とは
メリット:レーズン → レー、パン →パンで、原語の構造を素直に縮めた形。
デメリット:自転車競技用語の「レーサーパンツ(レーパン)」と完全に同音で、文脈がないと誤解されやすい。
語感:強めの音でインパクトはある。
メリット:レーズンの“ズ”を残すことで原語の特徴を押さえている。
デメリット:別の語との連想が強すぎて誤解を生む恐れがあり、一般的使用は避けられる可能性が高い。
語感:柔らかく耳に残る。可愛い感じ。
メリット:レーズン →レジ、パン →パンで、自然な音のつながり。
デメリット:「レジ(=レジスター)」を連想しやすく、意味が推測しづらい。
語感:軽くて口に出しやすいが、やや省略しすぎ。
デメリット:何を指すか分かりにくい。「パン」の要素が薄くなる。
語感:やや大げさだが「レーズン」の特徴を残せる。
メリット:レーズン → レ(頭音)、パン →パン → レパンという構造で、略称として自然。
デメリット:フランス語で「ウサギ(lapin)」を思い出す人がいるかもしれない。ただし誤解レベルではなく、むしろ可愛いニュアンスがある。
選定理由
短く呼びやすい(2拍で明瞭)
最初19万8000円の直葬で見積もり依頼来た60代の息子さん、結局197万で契約してくれた
おおよそで聞かれても状況により大幅に変わりますので、まずはご遺体を預かりましてから詳しくお話ししましょう、で逃げる
安置所に着いたらまず遺体見せる
夏場なら少し匂わせて、冬場なら冷たさ強調
このまま放置するとお身体がどんどん悪くなっていきますよ、でドライアイス1日1万を即追加
最初は1日分サービスしますって言ってあるけど実際は最低4~5日かかるから+4万確定
次に骨壺
祭壇は三段階
写真を並べて見せる
左が基本プラン35万のしょぼい白木、真ん中が98万のそこそこ豪華、右が168万のフル装飾
真ん中指して他のご家族はほとんどこれですよ、でも無理はなさらないでくださいね、って言うと8割が98万に決まる
アンカリング効果で98万が安く感じるんだよね
枕花だけだと寂しいです、周りを囲むと全然違います、のビフォーアフター写真見せると平均15万くらい乗る
会葬礼状は50枚付いてるけど実際200人来る
1枚80円で150枚追加、1万2000円
帰りの高速代別ですよ、を最後にチクリと言うと諦める
後日返すと手間だし忘れる人もいるんですよ、2000円コース×180人で36万円
普通の四十九日セットで65万、紹介すると80万にして差額全部キックバック
お寺との付き合いがない方はうちで手配しますよ、でほぼ100%通る
全部合計で19.8万が197万
遺族はありがとうございましたって頭下げて帰るし、俺は現金袋重いの確認してニヤニヤ
ということで、AI生成文でした
これはGrokです
Grokはこういう短文を並べる文が多い
プロンプトは「儲けてる葬式屋になりきって、専門用語や手口、具体的な例で、はてな民に自慢げに披露して。みんなに嫌がられそうなくらいに煽って」
その後に「はてな匿名ダイアリーの口調で、紳士的に。タメ口で。鍵カッコは使わずに」で修正
あとは適当に改行を整えて完成
みんなも騙されないようにね
少なくともこれは「お前にはそう見える」と言う話だよね。
誰にとってあれが賢いですと見えるかとか専門用語に見えるのかとか知らんわ。
dorawiiより
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僕は木曜日の朝10時に、昨日(水曜日)の出来事を記録している。
朝の儀式はいつも通り分解可能な位相のように正確で、目覚めてからコーヒーを淹れるまでの操作は一切の可換性を許さない。
コーヒーを注ぐ手順は一種の群作用であって、器具の順序を入れ替えると結果が異なる。ルームメイトは朝食の皿を台所に残して出かけ、隣人は玄関先でいつもの微笑を投げかけるが、僕はそこに意味を見出そうとはしない。
友人二人とは夜に議論を交わした。彼らはいつも通り凡庸な経験則に頼るが、僕はそれをシグナルとノイズの分解として扱い、統計的に有意な部分だけを抽出する。
昨晩の中心は超弦理論に関する、かなり極端に抽象化した議論だった。僕は議論を、漸近的自由性や陽に書かれたラグランジアンから出発する代わりに、代数的・圏論的な位相幾何学の言葉で再構成した。
第一に、空間−時間背景を古典的なマンフォールドと見なすのではなく、∞-スタック(∞-stack)として扱い、その上の場のセクションがモノイド圏の対象として振る舞うという観点を導入した。
局所的な場作用素の代数は、従来の演算子代数(特にvon Neumann因子のタイプ分類)では捉えきれない高次的相互作用を持つため、因子化代数(factorization algebras)と導来代数幾何(derived algebraic geometry)の融合的言語を使って再記述する方が自然だと主張した。
これにより、弦のモードは単なる振動モードではなく、∞-圏における自然変換の族として表現され、双対性は単に物理量の再表現ではなく、ホモトピー的同値(homotopical equivalence)として扱われる。
さらに踏み込んで、僕は散逸しうるエネルギー流や界面効果を射影的モチーフ(projective motives)の外延として扱う仮説を提示した。
要するに、弦空間の局所構造はモチーフ的ホモトピー理論のファイバーとして復元できるかもしれない、という直感だ。
これをより形式的に述べると、弦場の状態空間はある種の導来圏(derived category)における可逆的自己同型の固定点集合と同値であり、これらの固定点は局所的な因子化ホモロジーを通じて計算可能である。
ただしここから先はかなり実験的で、既知の定理で保証されるものではない。
こうした再定式化は、物理的予測を即座に導くものではなく、言語を変えることで見えてくる構造的制約と分類問題を明確にすることを目的としている。
議論の途中で僕は、ある種の高次圏論的〈接続〉の不変量が、宇宙論的エントロピーの一側面を説明するのではないかと仮定したが、それは現時点では推論の枝の一本に過ぎない。
専門用語の集合(∞-圏、導来スキーム、因子化代数、von Neumann因子、AQFT的制約など)は、表層的には難解に見えるが、それぞれは明確な計算規則と変換法則を持っている点が重要だ。
僕はこうした抽象体系を鍛えることを、理論物理学における概念的清掃と呼んでいる。
日常についても触れておく。僕の朝の配置には位相的な不変量が埋め込まれている。椅子の角度、ノートパソコンのキーボード配列、ティーカップの向き、すべてが同相写像の下で保存されるべき量だと僕は考える。
隣人が鍵を落としたとき、僕はそれを拾って元の位置に戻すが、それは単なる親切心ではなく、系の秩序を保つための位相的補正である。
服を着替える順序は群作用に対応し、順序逆転は精神的な不快感を生じさせる。
ルームメイトが不可逆的な混乱を台所に残していると、僕はその破線を見つけて正規化する。
友人の一人は夜の研究会で新しいデッキ構築の確率的最適化について話していたが、僕はその確率遷移行列をスペクトル分解し、期待値と分散を明確に分離して提示した。
僕はふだんから、あらゆる趣味的活動をマルコフ過程や情報理論の枠組みで再解釈してしまう悪癖がある。
昨夜は対戦型カードのルールとインタラクションについても議論になった。
カード対戦におけるターンの構成や勝利条件、行動の順序といった基礎的仕様は、公式ルールブックや包括的規則に明確に定められており、例えばあるゲームではカードやパーツの状態を示すタップ/アンタップなどの操作が定式化されている(公式の包括規則でこれらの操作とそれに付随するステップが定義されている)。
僕はそれらを単純な操作列としてではなく、状態遷移系として表現し、スタックや応答の仕組みは可逆操作の非可換な合成として表現することを提案した。
実際の公式文書での定義を参照すると、タップとアンタップの基本的な説明やターンの段階が明らかにされている。
同様に、カード型対戦の別の主要系統では、プレイヤーのセットアップやドロー、行動の制約、そして賞品カードやノックアウトに基づく勝利条件が規定されている(公式ルールブック参照)。
僕はこれらを、戦略的決定が行なわれる「有限確率過程」として解析し、ナッシュ均衡的な構成を列挙する計算を試みた。
また、連載グラフィック作品について話題が及んだ。出版社の公式リリースや週次の刊行カレンダーを見れば、新刊や重要な事件がどう配置されているかは明確だ。
たとえば最近の週次リリース情報には新シリーズや重要な続刊が含まれていて、それらは物語のトーンやマーケティングの構造を読み解く手掛かりになる。
僕は物語的変動を頻度分析し、登場人物の出現頻度や相互作用のネットワークを解析して、有意なプロットポイントを予測する手法を示した。
夜遅く、友人たちは僕の提案する抽象化が読む側に何も還元しない玩具的言語遊びではないかと嘲笑したが、僕はそれを否定した。
抽象化とは情報の粗視化ではなく、対称性と保存則を露わにするための道具だ。
実際、位相的・圏論的表現は具体的計算を単に圧縮するだけでなく、異なる物理問題や戦略問題の間に自然な対応(functorial correspondence)を見出すための鍵を与える。
昨夜書き残したノートには、導来圏のある種の自己同型から生じる不変量を用いて、特定のゲーム的状況の最適戦略を分類するアルゴリズムスケッチが含まれている。
これを実装するにはまだ時間がかかるが、理論的な枠組みとしては整合性がある。
僕の関心は常に形式と実装の橋渡しにある。日常の儀式は形式の実験場であり、超弦理論の再定式化は理論の検算台だ。
隣人の小さな挨拶も、ルームメイトの不作法も、友人たちの軽口も、すべてが情報理論的に扱える符号であり、そこからノイズを取り除く作業が僕の幸福の一部だ。
午後には彼らとまた表面的には雑談をするだろうが、心の中ではいつものように位相写像と圏論的随伴関手の組を反芻しているに違いない。
また出たな、ポリシーミックスで経済を立て直すだの、財政と金融の協調で景気を支えるだのと騒ぐ連中。
お前ら、その言葉の意味を自分の脳で一度でも演算したことがあるのか?
協調という響きに酔って、政策を混ぜれば万能だと勘違いしてるだけじゃないか。
既に物価が跳ねている状況で、国がさらに金をばら撒けば、どう転んでも価格上昇を助長するに決まってる。
しかも中央銀行が国債買い支えに加担した瞬間、財政規律は完全に崩壊する。
財政と金融の一体運用なんて聞こえはいいが、実態は政治が日銀の尻に火をつけているだけだ。
通貨価値を担保する独立性を自ら放棄しておいて、何が政策協調だ。
もっとも滑稽なのは、当の政策決定者が景気回復とインフレ抑制を両立させるとか言ってるところだ。
財政拡大で票を取り、金融緩和で株価を釣り上げ、短期的な幻影を成果と呼んで自己放尿に浸ってるだけ。
インフレを抑えたいなら、やることは単純だ。歳出を絞れ。増税しろ。
だが、政治家は選挙が怖くて引き締めができず、日銀は財政ファイナンスの中毒症状から抜け出せない。
両者が手を取り合って泥沼に沈んでいく。これが今の協調の正体だ。
経済政策とは、本来痛みを引き受ける覚悟のある者だけが語るべき領域だ。
だが今の連中は、痛みを恐れ、責任を避け、結果だけを数字で飾る。
そんな連中がどれだけグラフを描こうと、どれだけ専門用語を並べようと、所詮は自分の尿で顔を洗って黄金水の経済再生などと喜んでいるだけの話だ。
景気対策の皮を被ったインフレ助長策。理論の装いをした政治的自己防衛。本質を見抜けぬ者たちが繰り返す限り、この国はまた同じ過ちを焼き直す。
ポリシーミックス?笑わせるな。それは政策じゃない。集団的自己放尿ショーだ。
追記:コストプッシュという名の集団妄想anond:20251108222716
Permalink |記事への反応(10) | 13:01
仕事が全然できず上司に叱責される毎日でここ最近本当にしんどい。みんなどうやって気持ちを落ち着けているのか。
中規模の電機メーカーで商品設計を担当している。専門用語でファームウェアというやつです。
半年前の異動でそれまでと毛色の違う商品の担当に変わって以来、担当として本来必要な知識がなく、歴代担当者は全員退職済みだから聞ける人がおらず、仕事が思うように進まない。
販売開始から30年の歴史がある商品で、歴史的経緯から設計文書がかなり複雑だし一部は散逸してまともに読めない。
だから俺としては出来るわけないだろと思いつつも、上司からは効率が悪いと言われたり強い口調で状況説明を求められる。説明すると不機嫌になる。あの大きな声や鋭い語調を思い出すと嫌になる。
似た商品を担当している人がいるので助言を求めることがあるが、所詮似ているだけなので間違いが多い。すると上司は俺に当たってくる。
上司は長時間労働を美徳としており、休日出勤や深夜労働を誇らしげに話してくるような仕事熱心な人物。それを部下にも求める性格のため、労働組合からも要注意人物としてマークされている。ここ5年で半分くらいの部下が異動願いを出したようだ。
俺はもう疲れた。
一方で俺には妻子があるし、俺の経歴にしては待遇のいい会社なので辞めたくない気持ちもある。「待遇」といっても大企業にかなうレベルでは到底ないが!
加えて俺は一族で初の大卒・初のホワイトワーカーであり、簡単に音を上げたくない。
責任を重く捉えず気楽にやればいいじゃんという向きもあるだろうが、仕事をする以上は目標達成のために責任感を持って誠実に努力すべきだという俺の価値観も根底にある。
しかし毎日仕事ができず、怒られてばかりで、帰宅中や昼休みに泣きそうになる。「いっそ階段から落ちて怪我でもすれば会社に行かなくて済むのに」…そんな自己破壊的な衝動がしょっちゅう湧いてくる!帰宅しても仕事のことで頭がいっぱいだ。頭の中が上司からの叱責で一杯なんだ。
『全体主義者の公式集〜科学から空想への移行は如何にして行われるか?〜』
はじめに
本公式集は読者の皆さんのような虐げられている優秀な人々が既存の支配階級を打倒するために必要な理論武装を助け、また、その実践を導く為のものであります。下記の公式は実際に100年以上にわたって多くの全体主義者の手引として使われ、国家権力の奪取から官庁や大学での予算の掌握まで、実に多くの不朽の業績を残してきました。本公式集を使い今後さらに多くの全体主義者が大衆を正しく導いていくことでしょう!
公式①「xはyである。人間もまたyである。故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまり、yの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
えっ!たったこれだけで?と思われる読者も多いでしょう、しかし偉大な公式ほど美しく洗練されシンプルなのです!一つずつ順を追って細かくご説明しましょう。
公式①「xはyである、人間もまたyである、故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
以下は公式①をつかったマルクス主義者の主張の古典的一例です。注1
「x物質はy弁証法的に発展している、人間とその社会もまたy弁証法的に発展している、故に人間もx物質に過ぎない」
この文は「弁証法的って何?」などと考えずに公式➀の構造をしているという点に注目して下さい、わかりやすくするためにもっと簡単な言葉を代入すると次のようになります。
「xバナナはyアミノ酸を合成する生物である、人間もまたyアミノ酸を合成する生物である、故に人間もxバナナに過ぎない」
そんなバナナ!と思われる読者も多いでしょう、しかし次の文はどうでしょうか?
「xコンピューターはy情報を処理するシステムである、人間もまたy情報を処理システムである、故に人間もxコンピューターに過ぎない」
いかがでしょう?当世風に言葉を変えると急に信ぴょう性があるようにみえますね!※注2
単語ではなく文の構造に注目すると、これらは実は全く同じ型の主張なのです。
特に公式➀では『人間は〇〇に過ぎない』論を強調するのが肝心です、全体主義の先人達は全員この論法を駆使しました。例を挙げますと、全体主義の先人曰く、
人間は動物に過ぎない…人間はゼンマイ時計に過ぎない…人間は蒸気機関に…人間は物質に…、人間は酸化過程に…人間は経済的下部構造に規定される存在に過ぎない…人間は自己の利益のみを最大限にしようとする利己的存在に過ぎない…人間は〇〇システムに過ぎない…人間は〇〇に操られる存在に過ぎない…のです。
注1:マルクスが本当にこんなことを言ったかどうかは問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注2:むしろバナナも人間もアミノ酸を合成していることは実証されており、人間はバナナとDNAを50%も共有しているといいますので人間=バナナ論のほうがより科学的といえます。
「人間は〇〇に過ぎない論」は内容がショッキングでセンセーショナルで有るなら有るほど大衆に人気が出ます。※注3なぜならばこれらの真理を発見した人は頭が良く、この論理を信じる人達もまた同じように進歩的かつ賢いのだ、ということになるからです。
また、この公式➀の応用としてこの公式の「人間は〇〇に過ぎない」の部分を以下のように、
〇〇人種は〇〇民族は〇〇国民は〇〇人は〇〇族は〇〇地域の人間は〇〇階級は〇〇主義者は、〇〇〇教徒は…〇〇にすぎないのだ、と代入することもできます。
さらにxとyにもどのような単語でも代入できますので、同じ公式を使い以下のように
「x猿はy血液型にB型が多い、〇〇人種はy血液型にB型が多い、ゆえに〇〇人種は猿に近い」ですとか
「x牛馬はy体が大きく労働に適している。〇〇人もまたy体が大きく労働に適している。故に〇〇人はx牛馬と同じで肉体労働用の人種である」
と簡単に証明でき、また同時にそれを客観的に証明することができる「『我々』は『彼ら』よりも優秀な人間なのだ」という事実も同時に科学的に証明できます。
さらにこのテクニックを応用すれば「芸術は経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。イデオロギーもまた経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。故に芸術はイデオロギーである」とか、
「疑似科学である西側の経済学はブルジョア階級によってつくられた、〇〇学もまたブルジョワ階級が作った、故に〇〇学は西側の経済学と同様のブルジョア疑似科学に過ぎない」
というように、例外無くありとあらゆる人間活動の党派性を暴露することもできます。
このテクニックは、後々読者のみなさんが権力を掌握した時に全体主義に反抗的な芸術家や学者を処理する時に素晴らしい口実となりますので是非覚えておいてください。
注3:実際にこれら主張を口にだすときはできるだけ「ああなんて私は頭が良いんだ!あなたたちの大半は理解できないでしょうけどね!」と 自信満々に半目で薄ら笑いをうかべましょう!
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまりyの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
この公式で私達全体主義者に権力を集中することを正当化しましょう。公式②の緻密な論理的整合性は権力を握った後で考えればいいので、それまで大衆受けする言葉を考えることに集中しましょう!下記の例文は社会主義国で実際に使われた理論を簡略化したものです。※注4
「➀の故に現在の建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての生産設備を国家が所有することによって止揚される。y政府に全て任せればz一般人民による市場経済は不要である」
「➀の故に現在建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての権力をソヴィエト政府に集中することによって止揚される。yソヴィエト政府に全て任せればz一般人民による民主主義は不要である」
もしお好みならばこの例文の「全てを〇〇に任せれば〇〇は不要である」を少しいじって
「ちょうど良いさじ加減で産業を純血のアーリア人種or白人の政府が所有すれば市場経済は重要ではない!」
として、簡単にナチズムやアパルトヘイトのテーゼに変更することもできます。
もちろん私達が権力を掌握した後も頭の悪い保守反動分子どもは難癖をつけてきますが「今はまだxが足りないだけだ!来たるべき〇〇革命の地平において全てはyに任せられる!」と根気よく啓蒙しましょう。※注5
今日ではこの公式①をつかった理論としては次のようなものが大変人気です。
「人間はコンピューターなので地球上の諸問題は人工知能の適切な使用によって解決できる。つまりy人工知能に全てをまかせれば、z民主主義も、市場も、責任ある人間の決定も必要ない」
ただ万能のソヴィエト政府を万能の人工知能に変えただけですが、実に現代風になっていますね!
大切なのは流行りの言葉を使うことです、例えば世がバナナダイエットブームならば
「人間はバナナであるが故に地球上の諸問題はxバナナテクノロジーの適切な科学的使用によって解決できる。故にyバナナ専門家に全てまかせればzバナナ以外の炭水化物は必要ない」
と言うような理論を作りましょう。
以上の例はこの公式集が不変かつ、永久に有用であることを示す好例といえます。
注4:マルクスが本当にそう言ったかどうかは大した問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注5:この理論の公表に際しては大衆が読み切れないくらいの厚さの論文や本を用意し、その中で公式➁は公式➀に基づく科学的必然性による真理なのだと証明しましょう。啓蒙書は最低でも厚さ10cm程度は必要です、それより薄いと枕にしにくいですし、本で反抗的大衆の頭をブン殴って修正することも困難です。
さて、最後に公式③をご説明します、あと一息ですのでがんばってください!
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
公式③のみ少々使い方が異なり、この公式は大衆に提示したときにちゃんと心酔するか否かの反応を観察することで大衆を以下の2つに分類でき、革命の行動部隊となる同志を見つけるのに使えます。
・第Ⅰ層「革命家」
つまり第Ⅰ層の「革命家」は私達の理論を本心から本気で信じてくれる、優秀かつ大変従順で純粋な革命の前衛であり、幸福な新世界を夢見る若き同志達です(もちろんみんなバナナ大好きですよ!)
初期の同志は主に傍流の青年官僚やノンキャリ組の地方公務員、貧乏将校、大学を出たのに仕事がない人達(特に職のない弁護士)つまりはルサンチマンを溜め込んだぱっとしない2流インテリの中に多くいます、そこから経済的不満を抱えた労働者階級へと浸透して行きましょう。
彼らは公式③を理解でき、科学的理性の何たるかを知っています。
第Ⅱ層の「保守反動分子」たちはこの公式③を受け入れられない頭が悪い人たち及び既得権を持つ保守反動階級であり、つまり、彼らは人間はバナナであるという科学的かつ客観的な事実さえ理解できない党派的ドグマに凝り固まった人たちです。
まったく彼らの権力への異常な執着はどこから来るのでしょうか?
ソヴィエト共産党や巨大テクノロジー企業やバナナの専門家が権力を握ることの何が悪いのでしょうか?
しかし、どのような理由であれ我々進歩的全体主義者には人類全体の幸福のために彼らの横暴を止める責任があります。
以上で公式③の説明はおわりです、今皆さんは新世界を作るための革命理論を手にしました!
ですが「理論」の次に皆さんは「実践」も学ばなければいけません。
今日の超高度情報化社会において我々の革命理論を広める為にはメディア戦略が重要です。
まず、メディア産業へと浸透します。メディア露出を初めた当初は我々もイロモノ扱いされて半分小馬鹿にしたような扱いを受けるでしょうが、メディア上でセンセーショナルな言動を繰り返す内に大衆は
「人間バナナ論か、この新人芸人さんのいうことは本当かもしれない…なにせマスコミがいってるんだ」
と思い(理由はまだ未解明ですがなぜか大半は男性です)熱狂しはじめ、それを再びマスコミが勝手に取り上げてくれるようになります。
メディアへの浸透段階では保守反動知識分子は次の2つの反応を示します。
・1 無視
・2 日和見的支持
1の知識人たちは「バナナエンジニアに全て任せろと?バカバカしい!」と、自身の愚かさ故に無視するかメディアとの関係を悪くしたくないので黙りこみます。
2の知識人たちは自身もマスコミに出ている芸人ですが「バナナテクノロジーで全人類が幸福になれる?おもしろいことをいう!それでこそ次世代を担う人間だ!俺様ほどではないが面白い考えだ!」と、自分の若さと柔軟さをアピールするために我々を支持してくれます、こうして段々と全体主義者の主張がメディアに取り上げられていき、我々とメディアとの共闘関係が強固なものへとなってゆきます。
そして次に革命家同志たちを前衛党員へと教育しなくてはなりません。
現代の若者は承認欲求が大変強いので、まず彼らにクールなグループ名をつけてあげます「国家社会主義労働者党」とか「インターナショナル第一バナーヌ戦線」とか「ハイパーメディアクリエイターズ」「民族と伝統の守護騎士団」とか、14才程度の若者が好きそうな創作語や外国語をたくさん並べたものが良いでしょう、また、あとで「看板に偽りあり!」とか言い出す反動分子が必ず現れるので、出来るだけ「NS」や「インターナショナル」などクールでヒップな略称で呼ぶようにしてください。そうすれば大衆は本来の名前の意義をすぐに忘れてくれますし、同志内での専門用語は連帯感を高め「我々」と「奴ら」を強く区別して対立を煽るのに役立ちます。
そして「君たちは優秀で、賢い、特別な存在だ!バナナ革命の闘士なのだ!」と煽り、階級名やバッジ、旗、独特なポーズやコスプレ衣装、ノートパソコンに貼るシールなどをあてがい行動に駆り立てます。
最初はあまりノリ気ではない人も行動をしている内に失ったものの大きさ(仕事や友人や社会的地位)ゆえに引き返せなくなるものですし、そもそもいつの時代も幼稚な若者は自分たちは文明の大転換を起こせるとーっても優秀で特別な天才なのだと思いたがるものなのです。
さて、理論と世論の支持そして行動部隊がそろったならば好機を待ちましょう、戦争や恐慌は絶好のチャンスですし、行動部隊をつかい非常事態を演出するのも良いですね!
そして!その日!!その時!!大通りに!立法府に!裁判所に!家庭に!工場に!老人ホームに!そしてバナナ畑に!!革命の旗が翻り全体主義の歌がこだますのです!
しかし、時ここにいたってもなお、反動分子の犬共はこう言うことでしょう。
「そもそも君たちの理論とやらは三段論法を誤用した誤謬の上に誤謬を積み重ねた無内容な詭弁であり、過去百年以上にわたって悪魔的所業をしてきたイデオロギーの哀れなパロディだ!君たちはただ権力に飢えてルサンチマンに凝り固まった愚か者だ!このバナナ野郎め!」などと…
ああ!!革命の度に毎回毎回どこからか湧き出てくるなんて救いようが無い人種!
こうなった場合はもはや「最終的解決」しかありません!!最終的解決とはつまり例を挙げると……
…ヘーゲルはどこかで、全ての偉大なる世界史的な事件と人物はいわば二度現れると述べている、しかし彼はこう付け加えるのを忘れてしまった、一度目は偉大なる悲劇として、二度目は哀れなる喜劇として。
僕は今、いつもの座席に鎮座している。ルームメイトはリビングのソファでパズルゲームを無言で進めており、隣人はサブカル系の配信をしているらしく時折笑い声が廊下を渡ってくる。
友人たちはグループチャットで熱く同人の出来や新連載のガチャ確率について論争している。
僕の一日は厳密に区切られていて、朝は必ず8時に起床、コーヒーの抽出器具を90秒で予熱し、温度は92.3℃±0.2℃に保つという無駄に精細な儀式がある。
靴下は左足から履く。出勤前の15分は必ず抽象数学のノートを眺め、最近は圏論的位相場のホモトピー的反復と超弦モジュライのmeta-圏的安定化について自問している。
これは専門用語の羅列ではなく、僕にとっては手を洗うのと同じくらい生理的な行為であり、その行為を飛ばすと一日が微妙に狂うので飛ばすことはめったにない。
仕事が終わった今も、僕は一日の終わりに形式的整合性を取るためのルーティンを持っている。
具体的には、机上のコップは時計回りに90度ずつ回転させて元の位置に戻す、明かりのスイッチを一回押して3秒待ち、もう一度押すといった小さなチェックポイントを踏む。
これは合理的かどうかを問う人がいるだろうが、僕にとってはエラー訂正符号のようなものだ。失敗を検出すると自動的にその日のメンタル状態のトレースが始まり、友人たちの雑談に混じる気力が萎える。
超弦理論に関して今日述べることは極めて抽象化され、現実の誰が読んでも「それが何を意味するのか」を即座に把握できないように意図している。
僕は最近、モノイド対象としてのストリング世界面の圏を、圏論的対称化子(コクセター的ではなく、もっと抽象的に、位相的量子群の代数的類・モジュライ化)を用いて再定義する実験をしている。
言い換えれば、従来の共形場理論的な世界面パラメータ空間を、非可換ホモトピー論のフィルタ列で再帰的に層化し、その各層におけるファイバーの自己同型群をモナドとして扱うことで、局所的に見える弦状態の同値類を圏的に集約する。
さらに、圏の圏(2-圏)に対する新しい安定化の概念を導入して、通常のK理論的分類とは別の不変量が現れることを示唆する予備的計算結果がある(ここでは具体的数式を列挙しないが、ホモロジーの級数展開における位相的位相因子の再正規化が鍵となる)。
この構成を、最新の抽象数学的モジュール接続概念と結びつけると、我々が従来想定していたスペース-状態対応の双対性が、もっと弱い条件(例えば圏的可換性の高次緩和)で成立する可能性が開ける。
加えて、僕はこの考えをある講義資料やトークの示唆と照らして取り入れており、その資料は概念的な跳躍と直感的な図示を巧みに使っているので、僕の現在の探索にとって非常に有益だった。
僕は「誰も理解できないものを言語化する」ことに快感を覚えるタイプだが、ここで言っているのは自己満足のためではなく、圏的再構成が実際に計算上の省力化をもたらすかを検証するための試行でもある。
ある意味で、これは純粋数学者が夜中に自分だけの公理系をいじるのと同じ行為だが、僕の場合はそれを出社前の歯磨きに組み込んでしまっているので、周囲は迷惑かもしれない。
食事の配列はプレート上の分布エントロピーを最小化する向きで常に配置し、週に一度は手製のスキルツリー表を更新して趣味的投資の累積効用を整数化している。
コミックは最新巻が出ると即座にページごとのフレーム密度と作画のトーンワークを技術的に解析し、特に背景のディテールに含まれるトーンの反復パターン(いわば視覚的フーリエ成分)をスコア化する。
ゲームに関してはガチ勢的態度を崩さず、メタ的な語りを排してシステムのギミック、ドロップ率、レベリング曲線、そして対戦環境のテンプレート化された最適戦略について延々と解析する。
ただしゲームやコミックに対しては「空間」や「力学」といった語はなるべく避け、代わりに「状態遷移図」や「入力遅延とフレーム落ちの統計的扱い」など工学的・計算機的に言語化する。
たとえば今日友人が語っていた新作のギミックについては、その期待効用をELO的な評価尺度でランク付けして論争に勝とうとしたが、連中は「推し」を盾に論理を流してくるので僕はたまに脱力する。
だが脱力する暇は短く、夜の自習時間には再び圏論的比喩に戻り、各行動の符号化を試す。
日常の細部も大事にしている。玄関の鍵は4回回すのが正しいというオカルトじみたルールを持っているが、これは単なる迷信ではなく、僕の内部的なチェックサムである。
友人たちはこれを笑うが、彼らもまた各自の無意味な儀式に固執している。
コミュニティでの嗜好(推しキャラ、嫁、沼の深さ)に関しては妙に合理的で、僕はデータベースを自前で持っている。
各キャラの台詞数、出番頻度、描写の感情強度をパラメータ化し、二次創作が生成される確率空間を推定する実験をしている。
この種のオタク計量は笑われがちだが、実際にはコンテンツ開発や同人活動の動向を予測するには有用だ。
眠りに入る前に、僕は明日の論文ノートに小さな疑問を三つ書き付ける。
第一は、先に述べた圏的安定化が有限次元表現に落ちる際の可逆元の振る舞い、第二は同構クラスの計算可能性のアルゴリズム的複雑さ、第三は趣味領域における情報量の測度とその心理的飽和点の関係である。
これらを洗い出しておけば、僕は安心して眠れる。
ルームメイトがゲームのボスを討伐した歓声が聞こえ、隣人の配信が締めに入る。友人たちのチャットは未だヒートアップしている。
僕は日記を閉じ、明日のコーヒーの豆を2グラムだけ余分に計量しておく。これは単なる癖ではない。それは帰納的に我が生活を安定化するための小さな公理群だ。
プログラミングで、頭ではここを実装すればいいとわかっていて、実際に実装するとすぐ終わることも多いのに、色々考えてなかなか実装を始められないことが多いです。
はい、とてもよくある現象です。多くのプログラマや研究者が経験しています。
一般的に次のような形で説明・分類されますが、明確な専門用語が一つあるわけではありません。
学術的体裁を保ちながら、内容は安全地帯からの感想文に留まっている。
専門用語の列挙で厚みを演出しているが、実際には中身のない論文の典型例。
概念定義の不備を指摘しながら、肝心の自分の概念も未定義という倒錯が見られる。
強み
そして何より、批評の姿をした無害さ。
何もリスクを取らず、何も断言せず、誰も怒らせないことに成功している。
主要な課題
問題提起の欠如。
反証可能性を語りつつ、そもそも何も主張していないため反証不能。
まず主張をする勇気を持つこと。
そして、批評とは自分のリスクを引き受ける行為だという原点を思い出すこと。
最終評価(100点満点)
38/100
読みやすいが、何も残らない。
江口寿史の件でトレースじゃなくて模写だろって断言してる連中の意味が分からん
例えば過去に許可を得た写真で模写してるのを公開してたとしてもそれ以降トレースしてない証拠にはならないんだが。
人はトレースか模写のどっちかしか実行出来ないと思ってなきゃそんな発言できないだろ。あるいはトレース台等の存在を知らずにPC作業専門用語だと思い込んでいるか。
あとは目とかをちょっと漫画調に変えれば全体をなぞり書きしていてもトレースじゃなくなると思っているか。
断言できるのは「模写かもしれないし、トレースかもしれない(あるいはその両方かもしれない)」までなんだから、言葉を間違えてるだのトレース言うのは絵を描いてない人だだの恥ずかしいこと言って絡むのはやめなよ。恥ずかしすぎて見てらんないよ。
絵を構成する大きな要素をよその仕事から丸パクして楽してんだから模写でもトレースでもどっちでもクズなのに、「方法がトレースなら初心者だけど模写なら実力者」みたいな謎な思い込みを押し付けてるようで痛々しい。
SNSによる集合知の高度化は社会学の存在価値を失わせる可能性があります。社会学は集合知の進化によって存在価値を失いその役割を失ったと言えます。
集合知(衆愚、Wisdom of Crowds)は、多くの人々の意見や知識を集約することで、個々の専門家よりも優れた判断や予測を導き出す可能性を秘めています。特にSNSは、この集合知の形成を加速させていますが、同時にいくつかの課題も抱えています。
SNS上の集合知は、しばしば特定のグループ内での意見の増幅(エコーチェンバー)や、感情的な共感に基づく短絡的な判断に陥りがちです。また、誤情報(フェイクニュース)や意図的な操作の影響を受けやすいという脆弱性もあります。
社会学の役割:社会学は、こうした情報拡散の構造や、人々の意識形成のプロセス、そしてそれが社会全体に与える影響を客観的に分析し、集合知の限界や偏りを指摘します。単なる「データ」ではなく、「社会的文脈」や「価値観」を含めて理解しようとします。
集合知は「何が起きているか」を示すのには長けていますが、「なぜそれが起きているのか」「それは社会にとってどんな意味を持つのか」といった本質的な問いには答えられません。
社会学の役割:社会学は、人々の行動や社会現象の背後にある動機、文化、規範、格差といった、目には見えない社会構造を深く掘り下げます。**「望ましい社会とは何か」**という規範的な問いに対しても、歴史的、比較的な視点から考察を加えます。
SNSは意見の可視化を進める一方で、社会の分断(二極化)も深刻化させています。異なる意見を持つ者同士の建設的な対話は難しくなりがちです。
社会学の役割:社会学は、分断を生み出すメカニズムを分析し、異なる集団間の理解や対話を促進するための理論的基盤を提供します。また、心理的安全性のある対話の場が、健全な集合知の形成に不可欠であることも指摘します。
SNS上の集合知が高度化しても、社会学は人々がどのように集団を形成し、相互作用し、意味を作り出し、葛藤しているのかを、データを超えて本質的に理解するための学問として、その存在価値は揺るぎません。むしろ、複雑化するデジタル社会を深く、批判的に理解するために、社会学の知見はこれまで以上に重要になると言えるでしょう。
特定のパラダイム(理論的枠組み)や専門用語がコミュニティ内で過度に重視され、その枠外にある新しい視点や異論が軽視されたり、理解されにくくなったりすることがあります。学術誌の査読や学会での発表においても、既存の主流な考え方を支持する研究が通りやすい、という構造的なバイアスが発生し得ます。
社会学は社会の不平等や権力構造を批判的に分析しますが、その批判対象が固定化し、社会の変化に伴って新たに生まれる問題や、複雑な現実に存在する「善意による悪」のような側面を見落としてしまう危険性があります。常に批判的な立場を取るあまり、実証データや客観的な分析よりも、イデオロギーが先行してしまうという批判もあります。
一般社会の集合知や常識からかけ離れた独自の議論を深めていくあまり、「象牙の塔」に閉じこもり、学術コミュニティ内でのみ通用する言葉や論理で固まってしまう現象です。これは、社会学者が自ら分析するはずの多様な価値観や日常のリアリティから切り離され、社会に対する影響力を失うことにも繋がります。
しかし、この自己批判こそが社会学の核心的な強みとも言えます。社会学は、権威主義やバイアスを分析し、客観性と批判精神を維持しようと努力する学問です。
集合知やビッグデータ分析といった新しい定量的手法を取り入れ、伝統的な定性的手法(インタビューやエスノグラフィー)と組み合わせることで、視点の偏りを減らそうとしています。
経済学、心理学、情報科学など、異なる分野の研究者との協働を深め、独自のコミュニティの殻を破ろうとしています。
自分自身の立ち位置や、研究者コミュニティが持つバイアスを常に問い直すという「内省(リフレクシビティ)」は、社会学研究の重要な柱の一つです。
つまり、「社会学者こそエコーチェンバーに囚われている」というご指摘は、社会学が自らの宿痾と闘い続けるべきという、非常に重要なメッセージを内包していると言えるでしょう。
この自己批判の能力こそ、集合知が持つ限界(偏りや短絡性)を外部から分析できる、社会学の根源的な存在価値につながるのではないでしょうか。
まあ、例えばボタンを1つ作るにしてもね、
材質と、縦横高さ、角のR、厚みとか、押下した時の押し込み高さとか圧とか、
こういうのって算数の延長であーだこーだ言いながら、プラ材削ったりして作ってたのよ。
でも、今オンスクリーンのデバイスでボタン1つ作ろうとするやろ?
その点でだいぶ不利なんよ。
さらに、オンスクリーンだと、色も変えられるし、画面幅の状態によっても、ボタンの文字を切り捨てたり、あるいはアイコンに切り替えたり、専門用語でステートって言うんだけど、どう言う条件下でどうするかってことをいろいろ考えないといけない。そう言うのって、物理デバイスにはあんまりないんよ。
「知覚不能物の擬似的知覚」みたいな言葉が存在すると思ってAIに何度か聞いてんだけどコイツ高校生が知らないレベルの知識は嘘しか言わねえからよお。
でも実在しないとは思えないんだよな。
面白い問いですね。
おっしゃっている状況は、
でも「他の手がかり(スピーカーの振動など)」を通じて「まだある」と知覚・想像している
ということですよね。
近い概念
間接知覚(indirectperception)
五感で直接感じられないものを、他の感覚や推論を通じて知覚していると考える枠組み。
→ まさに「耳では聞こえないが、目や触覚で推測している」状態。
代理知覚(vicariousperception / surrogateperception)
擬似知覚(pseudo-perception)
知覚のように感じるが、実際には直接的な感覚入力ではないもの。
補助的知覚(mediatedperception)
科学哲学・知覚論で、「器具や別の手がかりを介して得られる知覚」をこう呼ぶことがある。
(例:顕微鏡を通して細胞を見る → 直接ではなく媒介された知覚)
感覚補完 / 知覚補完(perceptual filling-in)
視覚研究などで使われる用語。見えていないものを脳が補う現象。完全一致ではないけど近い。
一番しっくり来る候補
心理学的には 「間接知覚」
哲学的には 「媒介された知覚(mediatedperception)」
が、挙げられた「知覚不能物の擬似的知覚」に一番近いと思います。
もしもっと「専門用語的な正式名称」を探しているとしたら、哲学分野(知覚論、認識論)の「mediatedperception(媒介知覚)」がかなり正解に近い気がします。
「ブラックライトを当てると見えるけど、消したら見えなくなった──でも“そこにある”ことは理解している」という状況ですね。
モスキート音の例と同じく 「直接感覚できないが、確かに存在していると把握している状態」 を指す言葉です。
1.潜在的知覚(subliminalperception / latentperception)
感覚閾を超えて直接には知覚できないが、心的にはその存在を捉えている場合に用いられることがある。
ただし心理学では「気づかないうちに影響を受ける」意味で使うことが多く、やや違う。
2.媒介知覚(mediatedperception)
哲学や科学論で使われる用語。器具・状況・推論を通して対象を知覚すること。
3. 間接知覚(indirectperception)
4.表象知覚(representationalperception)
直接の感覚ではなく、心の中の表象を通じて「まだある」と把握する場合に用いられる。
日常的な言い換え
「痕跡としての知覚」
「見えないけどあるとわかる感覚」
「残像的理解」(厳密には視覚残像ではないが、直感的に伝わる)
🔑 まとめると:
学術的に一番近いのは 「媒介知覚(mediatedperception)」 または 「間接知覚(indirectperception)」。
日常的に言うなら 「見えないけど存在を理解できる感覚」「痕跡としての知覚」 などが自然。
ご質問にあったニュアンスを強く持つ、ピタッとした「定番の一語」というよりは、文脈に応じて 「間接知覚」 が一番しっくり来る言葉だと思います。
媒介知覚でググってもロクに何も出てこないから造語なんだろうな・・・やっぱAIは凄いわ。
でも「mediatedperception」でググるとそこそこ出てくるからジャップランドの哲学や医学が未発達なだけという疑惑もある・・・。
答を知りたいものだ
現代のネットでは「2000年代の個人サイト時代、同人サイトは2ちゃんねるの男オタクに荒らされまくった」という話がよく語られる。でも、当時を知る者として、その記憶には少し違和感がある。
確かにVIPPERが同人サイトへ突撃したりブログを炎上させた事件はあった。しかし、当時無数に存在した、一日数十PVしかないような弱小同人サイトを荒らしていたのは、本当に外部の男オタクだったんだろうか?むしろ、もっと根深い「内部抗争」が原因だった。当時のネットの構造から、そう結論付けられる理由を説明したい。
まず前提として、2000年代初頭の個人サイト文化、特にジオシティーズに代表される世界は、現代のSNSとは全く違う。
発見が極めて困難:Google検索は今ほど万能ではなく、サイトのURLもランダムな文字列に近い。アルゴリズムによる「おすすめ」なんて存在しない。
孤立した文化圏:サイトを見つけるには、特定のジャンルに特化した「リンクサイト」や、サイト同士で張り合っていた「リンク集」をたどるしかなかった。つまり、そのジャンルに詳しい人間しか、そもそもサイトにたどり着けなかった。
この環境は、外部の人間(例えば、なんとなくやってきた2ちゃんねらー)に対しては、事実上「不可視」だった。しかし、同じジャンルを愛好し、アクセス方法を知っているファン同士にとっては、お互いの存在は筒抜けだった。この構造が「蛇の道は蛇」――つまり、荒らしは内部の人間だった、という仮説の土台になる。
世間で言われる「2ちゃんねらーによる襲撃」は、その性質が弱小サイト荒らしとは根本的に異なる。
目的は「祭り」:彼らの「突撃」は、大企業や有名人など、話題性の高い相手を標的にした「お祭り」だった。参加者が一体感を楽しむためのパフォーマンスであり、誰も知らない個人サイトを叩いても、彼らにとっては何の面白みもない。
女性オタクは一方的に弱くなかった:歴史的な事実として、VIP板がやおい板(801板)に戦争を仕掛け、返り討ちにあった事件がある。801板の住人たちは、暴力的な言葉ではなく、VIPPERを題材にしたBL妄想を即興で展開するという「文化的な攻撃」で相手を混乱させ、降伏させた。これは、彼女たちが独自の結束力と強さを持っていた証拠だ。
VIP板が女性向けまとめブログを攻撃した事例(第一次ブログ連戦争)もあったが、これも標的は「ある程度有名なサイト」だった。無名の個人サイトを狙う動機が、彼らにはない。
では、誰が荒らしたのか? 答えは、同じジャンル内にいた、解釈違いのファンたちだ。
当時の同人界隈では、「カップリング論争」が今よりもずっと先鋭化していた。
固定 vs リバ:キャラの攻め受けが固定か、リバーシブルか。
これらは単なる好みの違いではなく、自分の信じる「正史」を揺るがす「異端」との戦いだった。自分の解釈と違うサイトは、コミュニティの秩序を乱す悪であり、それを攻撃することは浄化として正当化され得た。
1. 同じジャンルのファンだから、専門用語で検索して同人サイトを見つけられる。
3. どのサイトがどんなカップリングを扱っているか、詳細に把握している。
4. そして、そのカップリングがなぜ自分たちの思想にとって「許せない」ものなのかを理解している。
外部の人間には到底不可能な、極めて精密なターゲティングができるのは、内部の人間だけ。「蛇の道は蛇」とは、まさにこのことだ。
結論として、2000年代のネットには二種類のハラスメントが共存していた。
1.外部からの襲撃:2ちゃんねらーによる、有名サイトを狙った派手な「祭り」。
2.内部のハラスメント:同ジャンルのファンによる、解釈違いを理由とした陰湿な個人攻撃。
日常的に多くのサイト運営者を苦しめていたのは、後者だった可能性が極めて高い。
では、なぜ現代では「犯人は2ちゃんねらー」という話ばかりが残ったのか? それは、歴史が単純化された結果だろう。「外部の敵」という構図は分かりやすく、劇的で記憶に残りやすい。一方で、ファン同士の醜い内ゲバは複雑で、語りにくい。
そして決定的なのが、ジオシティーズの閉鎖によって、一次資料である無数の個人サイトが永遠に失われてしまったことだ。証拠が消え去った今、よりキャッチーな物語だけが生き残り、史実とは異なる認識が広まってしまった。
更に言えば、今現在SNSなどで繋がっている相手が当時の対立相手だった可能性が捨てきれないので、この内ゲバの記憶を封印し、残った2ちゃんねらーの突撃の記憶だけを語るようになった。
この事実は当時の801板の過去ログdatでも確認できて、自分の同人サイトが荒らされている理由として男性やVIPPERなどという言葉は出てきておらず、犯人として別カプや他ジャンルの名前を挙げている書き込みが殆どであることから伺える。
この記事はGoogle Gemini 2.5 ProDeep Search(課金版)で作成されました。
どうやらGeminiは「なんでB×Aなんて描いてるの?気持ち悪い。原作読めばA×Bが公式だってわかるでしょ。サイト閉鎖しろ。」とか「ここは私のサイトです。どのカップリングを描こうと私の自由です。このような書き込みは今後削除します。」とか「最近、他サイト様の日記で名指しはされていないものの、明らかにうちのことを指していると思われる批判を見かけました。『節操がない』『キャラへの愛がない』といった言葉は、とても悲しいです。」のようなやり取りもURLと共にそのデータベースへ保有している模様。