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2025-12-10

なぜ浦島太郎物語には教訓がないのか。

子どものころからの謎だったが、ふと思い至った。

しかすると、これは「同人誌」か、あるいは「パロディ」だったのではないか

察しのいい人なら、もうお気づきだろう。

そう、問題は「漢字なのだ

「島太郎」という原典存在

おそらく、「浦島太郎」の原型となる本当の物語は「島太郎」だったのではないか

まり、もともと『島太郎』という昔話が存在していた。

助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、やがて地上に戻ってくる——筋書きはほぼ同じだ。

だが、その「島太郎」には、もっと納得のいく結末があり、きちんとした“教訓”が添えられていたのだろう。

人が善行を積めば報われる、あるいは欲を抑えることの大切さ。

そうした昔話らしい道徳が、そこにはあったはずだ。

「裏島太郎」といういたずら心

その「島太郎」は、人々に広く親しまれた普及版寓話となり、語り継がれていった。

しかし、あるとき——どこかの誰かがふと思いついたのだ。

「なあ、本当の“島太郎”って、実はこんな感じじゃったんじゃないか?」

そんな茶目っ気まじりのパロディ精神が芽を出した。

真面目で立派なお話を、少しひねって、皮肉を効かせる。

まるで古代版の“二次創作である

こうして、“裏の島太郎”、すなわち『裏島太郎』(のちの「浦島太郎」)が生まれたのではないか

教訓を脱臼させるパロディ

「裏島太郎」は、原作『島太郎』を知る人々にとって、笑いと風刺に満ちた逸話だったのだろう。

亀を助けても得をせず、むしろ玉手箱を開けて老人になってしまうという結末。

本来なら報いがあるはずの展開を、あえて逆転させた不条理さが、当時の人々には痛快に映ったのかもしれない。

だが今では、肝心の「島太郎」そのものが忘れ去られてしまった。

私たちパロディだけを読み、その元になった寓話を知らない。

からこそ『浦島太郎』を読むと、なにか“狐につままれたような”不思議感覚を覚えるのだ。

パロディ本家を飲み込む

本来寓話パロディ化し、教訓を脱臼させた——それが、私たちが知る『浦島太郎』という不思議物語の正体なのかもしれない。

『島太郎』を知る者なら、その構造ユーモアに思わず笑ったことだろう。

だが、時とともに本家が忘れられ、パロディけが残った。

結果として、“原典不明パロディ”が“正典”として君臨することになったのだ。

案外、この仮説、間違っていないような気がしてならない。

だって「教訓なき昔話」なんて冗談しか思えないもの

Permalink |記事への反応(1) | 21:36

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チンパンジー従業員として迎える架空の話を書いてはいけないわけ

お祭りの一形態であるネット炎上で暖をとろうとしていたら、迅速な消火活動でボヤに終わってしまい残念です。

消化不良なのでソフトウェア開発の文脈で本件を整理しておきたいと思います

なぜ「チンパンジー従業員」とする例え話は炎上し、何がダメだったのでしょうか。

それは、何故マンホール部署に配属されなかったか、という問題帰結します。

前提のおさら

労務管理ソフトを手がけるIT企業「SmartHR」(東京都港区)が、「チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」という記事Qiitaアドベントカレンダー投稿した。

記事の内容は、"マネジメント職の職責は、事前に与えられ決められた作業を行うことではなく、臨機応変にチームを守ることだ"という趣旨のものだった。

従業員チンパンジーに例えるように読めてしまう為、不適切では?という文脈で軽く炎上記事は削除され現在謝罪文掲載されている。

なぜ所属されるのはマンホールでは無かったのか?

意味が分からないと思いますが、貴方感性は正常です。

理不尽マネジメントを強いられるマネージャーという文脈において、最も想定しやすいのが新しい社員の配属だから、「XXXが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」という記事になったと想定できます

さて、この一文だけでほぼ説明は終わってしまうのですが、この例え話はXXXを何に置き換えても、結局のところ新しく配属された社員理不尽に感じる、としか読み取ることが出来ません。

これは、どのように予防線を張ろうとも、どのような説明をしようとも、「社員問題があったときに、あなたはどうするのか?」という問いとして読むしかありません。

そこで、問題社員表現するXXXに、チンパンジーを置けば、炎上するに決まっています

なぜか。非常に品の無い界隈の話で恐縮ですが、人間チンパンジーに例える文化圏日本にはまだ残っています

しかすると非常に上品な方たちのみで形成されている共同体では非常識なのかもしれませんが、残念ながら人を罵倒するときチンパンと呼んだり豚とあてこする文化圏は間違いなく存在するのです。

百歩譲って、問題社員無機物表現するのであれば、まだ許されていた可能性が高いでしょう。

この場合、まったく意味が分からない行為上司押し付けられた、としか解することができないからです。

マンホールを転がして席に立てかけたところ机ごとMacbook Proをぺしゃんこにした。同僚が躓いて怪我をした。意味が分からな過ぎて怯えて社員が辞めた。

これすら、本来は社名の入った記事として出すにはリスクが高いはずです。なぜならば「社員問題があったときに、あなたはどうするのか?」という問いの本質は変わらないからです。

どうするべきだったのか

問題のある社員表現するときには、非常に気を使って書く必要があります

ソフトウェア開発の話題で非常に有名な表現ブリリアントジャーク(Brilliant Jerk)があります

人を、態度と成果で分類した4つの表現方式のことです。

HighAttitude, High Performance — TheRockStar

HigherAttitude,Low Performance -The Team Player

LowAttitude,Low Performance -The Wonder

LowAttitude, High Performance — The Brilliant Jerk

ココで着目して欲しいのは、能力のある嫌な奴(The Brilliant Jerk)ではありません。

非常に協調性が高く、低い生産性人物をThe Team Playerと表現していることです。

成果主義であれば、Low Performanceであればいずれ職場からいなくなるのが自然です。

しかし、高い協調性(非常に良い態度)があるなら、それはチームプレイヤーとして欠かせないのかもしれないよ?という予防線の張り方をしているわけです。

その上で、真っ向から、態度が悪い嫌な奴はチームに入れると全体の生産性が落ちる、という筋の話をしているわけです。

そして、職場からThe Brilliant Jerkを排除せよという書き方にもなっていません。

うそういうヤツに居場所はない、リーダーなら協調性がありコミュニケーションがとれるべきであるという、「リーダーかくあるべし」論に着地している所が優れているのです。

まり、「XXXが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」というタイトル記事を書くべきではありませんでした。

「XXXな状況になったときに、マネージャーはどうあるべきか?」というタイトル記事を書くべきでした。

アドベントカレンダーなんだから、それっぽいことにしておけば良かったのに

微に入り細を穿つ描写で、チンパンジー職場で暴れてチームを壊す筆致を見せる必要は全くありませんでした。

どう贔屓目に見ても、それはチームを壊す厄介者が配属された時に、如何にして(合法的に)チームを守るのか、という寓話としてしか読み取れません。

「あーあ、あんな奴がいるから、会議室を潰して追い出し部屋を作らなきゃならない俺は大変だなあ」みたいなことを令和に書いて許容されると思う方がどうかしています

人物ではなく現象ですと注記して許されると思うのは、どう見ても未成年を描いておきながら登場人物は全員成人ですというのと同じです。

個人としては、表現の自由の最前線で戦う方達を畏敬の念でもって(経済的に)支えることしかできないわけですが、労務管理ソフトを手がけるIT企業がそんな気概を持つ必要性は全くないと思慮する次第です。

(たぶんだけど、ボリュームが多いので全部読まずに雰囲気説明されてそのまんま出したんじゃないかなーと言う気はします。法務とか広報は通ってないんじゃないかな)

社長から急に巨大なクリスマスツリーを飾れと言われて困る、くらいの現象にして「令和にもなってクリスマスのような宗教的話題を載せるのは大丈夫なの?」とか言われるくらいが良かったんじゃないのかな、と言う気がします。

まとめに代えて、驚き最小の原則

ソフトウェア開発に携わる人たちには、驚き最小の原則(Rule of least surprise)を忘れて欲しくないと常々思っています

私は趣味の悪い野次馬根性ネットウォッチャーです、これから炎上させにくい記事の話をしますと冒頭に書いてあるのはそのためです。

直観的に、ああこれはチンパン従業員マネジメントする話をこれからするんだろうな、と思われた時点で負けなわけです。

そして、労務管理を行う会社が、問題のある社員マネジメントするのは大変だよねと読みとれるような寓話を書いてはならないわけです。

何をどう誤読しようとも、社長無茶振りされて中庭に巨大なクリスマスツリーを電飾するか消すかで翻弄される中間管理職を書くべきだったわけです。

良く読めばわかるように書いてあるというのは、誤読して欲しい時にだけ使うのです。

蛇足

それにしても、割と今回は穏当な指摘が多かったと思います

これ、外資日本支社だったら、同僚から速攻で訴えられて普通に負けると思います偏見)。

しかし、縁故採用に見える話を社名載せて出して大丈夫なの?とか、不透明資金調達してますが凄腕の社長ですみたいな表現どうなの?とか、もっとこう火種があったと思うんだよなあ。

もっと面白い炎上をたくさん見たいので、こういう直球のノープラン炎上企業名のある記事が減ってしまいかねないのは避けていただきたく。

もっとさあ、ローパフォーマー特定して左遷してチームの生産性改善した話とか書いて大炎上してくださいよ。

いちおう、本番環境やらかしちゃった人アドベントカレンダーにしれっと書いて大炎上ルートは残されているので、そっちでなんとかならんか?

Permalink |記事への反応(0) | 00:30

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2025-12-07

anond:20251207095835

🟥 第10章:タタルスキー虚構支配者としての完成

10章は、『ジェネレーションP』のクライマックスおよび結末 であり、

タタルスキー広告魔術師として完全に覚醒し、

虚構現実言語権力境界が溶ける最終形態を描く章です。

ここで物語テーマである 「消費・広告権力神話相互作用」 が完結します。

◆ 1.広告魔術の究極実践

タタルスキーは、広告を通じて国家規模の神話を完全に操作 する段階に到達します。

コピー映像は、個人の購買意欲だけでなく、国民全体の意識作用

メディア、街頭広告テレビSNS…すべてが統合された巨大キャンペーン

虚構現実より強い影響力を持ち、国民意識せずに操作される

現実を信じる必要はない。虚構こそが現実だ。」

ここでタタルスキーは、広告魔術師としての力を完全に自覚する。

◆ 2. タタルスキー心理的完成

最終章では、彼の心理描写象徴的に描かれる。

1.絶対的快楽

言葉イメージ世界を動かす陶酔

個人の消費から国家意識まで支配する快感

2. 罪悪感の昇華

操作倫理的問題はもはや快感権力の前に消失

• 「操作危険だが、力は放棄できない」と悟る

3. 完全覚醒

自分現実を“デザインする神話創造者”である認識

個人社会国家歴史レベルまで思考と行動を操れる存在

タタルスキーはもはや個人ではなく、虚構現実統合体として描かれる。

◆ 3.消費者社会国家の完全統

広告魔術が全レベル作用する描写

1.個人レベル

消費者商品イメージ幻想無意識に信じる

2.社会レベル

• 街頭広告テレビメディア国民価値観や行動を統一

3.国家レベル

国家イメージ神話化され、国民意識操作される

虚構現実支配する状態が完成

ペレーヴィンはここで、広告現代社会宗教・魔術であること を最終的に象徴化する。

◆ 4. タタルスキー象徴覚醒

この章の核心は、タタルスキー自身存在象徴化 です。

言葉イメージの力で現実を作る存在

広告儀式コピー呪文国家神話

個人意識はもちろん、歴史文化さえも操作可能

「私は現実を語る者であり、虚構現実にする者だ。」

彼の覚醒は、個人成功物語ではなく、

現代文明イメージ操作権力構造寓話 として提示される。

◆ 5. 終章としての意味

10章は、物語テーマを総括します。

項目 内容

主要イベント国家規模の広告キャンペーン完成、虚構現実が融合

象徴広告=魔術/コピー呪文ブランド神話/タタルスキー虚構支配

心理快楽・陶酔・罪悪感の昇華・完全覚醒絶対権力

物語役割 タタルスキー広告魔術師として完成し、物語主題(消費・権力神話)を最高潮体現する章

◆ 6.結論意味

広告権力関係性:広告は単なる商業ツールではなく、社会国家を動かす魔術

個人社会関係性:個人操作されるが、魔術師(タタルスキー)は現実デザインできる

現代社会寓話:消費、イメージ権力神話が不可分の関係にあることを示す

タタルスキーは、個人としては虚構に操られる側でもあるが、同時に虚構現実化する側でもある、

現代社会における「詩人魔術師」の究極像 として描かれています

10章は、

虚構現実広告権力個人国家境界が完全に溶けるクライマックス章 です。

ジェネレーションP』全体の哲学的テーマを最も象徴的に提示し、物語を締めくくります

Permalink |記事への反応(0) | 09:59

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2025-11-29

音楽オタクになるなめのプロンプト

考えてみた。以下を聞くだけ。

 

〜の曲〜について、以下を踏まえて解説してください。

・フックとなる特長と、曲全体の印象

・曲構造の特徴

コード進行の特徴

演奏音響の特徴

ビートの特徴

歌詞は何を表すか(歌詞がある場合

・曲のジャンル複数ジャンルの影響がある場合複数挙げる)

アーティスト作曲者)の作品の中で、どういった位置付けか

・曲が発表れた当時におけるインパクト

対象から想起される、関連アーティスト、影響元のアーティスト

対象曲が直接、間接的に影響を与えた作品

・曲に関連したトリビア豆知識

 

Beatlesの「Get Back」についてこのプロンプトで聞くと

 

以下では、**The BeatlesGet Back」**を、楽曲分析歴史的背景・影響関係まで含めて総合的に解説します。

■ フックとなる特徴と、曲全体の印象

• **ループ感の強いコード進行(A7ワンコード中心)**と、ドライブ感のあるシャッフル気味のビートがフック。

• 全体としては「軽快だがタフ」「ジャム感のある粗削りなロック」という印象。

• 当時のビートルズとしては珍しく、**“引き算のアレンジ”**によるライブ感が際立つ。

■ 曲構造の特徴

イントロ – ヴァース –コーラス – ヴァース –コーラスエンディング という非常にシンプル構成

構造上の特徴は、ヴァースとコーラスコードがほぼ同じで、メロディ歌詞によってセクションを分けている点。

1969年ビートルズとしては珍しい、ブルース寄りのワンコード型ロックンロール。

コード進行の特徴

基本は下記の通り:

• A7ワンコードで進む(キーはA Mixolydian的に解釈可能

コーラスで D → A7 と行くが、非常に短く戻るため、実質ワンコード感が維持される

ブリッジ的な明確な対比セクションは存在しない

結果として、

ループ感/ジャム

ファンクの萌芽的手法ワンコードでのグルーヴ勝負

が強調されている。

演奏音響の特徴

バンド演奏の生々しさが強調

• ほぼライブ録音に近いテイクで、Rooftop Concert(屋上ライブ演奏公式版として使われた。

• ジョンのギターのカッティングはゆるいノリで、ポールベースは跳ねるグルーヴ担当

ビリー・プレストンのエレピ(FenderRhodes)が決定的

• ロールするようなエレピのフレーズサウンドを“ブラックミュージック寄り”にしている。

プレストンの参加は、ビートルズ内部の緊張を和らげたといわれている(トリビア)。

ミキシングルーム感強め

• “Let It Beセッション特有のざらついた音像。

60年代後半のビートルズとしては「未加工」感が強い。

ビートの特徴

• ややスウィングシャッフルした8ビート

• R&B由来の**「裏」で跳ねるノリ**

リンゴドラムハイハットの刻みが緩い「ロックンロール+R&B」ハイブリッド

現代的に言えば**“スワンプ・ロック”**に寄ったグルーヴCCR的とも言える)

歌詞は何を表すか

ジョジョ」「ロレッタ」といった架空キャラクターを通じて、

自分の原点に戻れ(Get Back)

• 都会の混乱・多文化化の中で“ルーツ”を探せ

といった寓話テーマが描かれる。

また、一部のデモで語られた社会風刺1968年移民問題揶揄した歌詞)も背景にあるが、公式リリースでは中立的寓話的になっている。

ポール本人は「深い意味ではなく、ファニーな物語」と語ることが多いが、時代背景が透けて見える作品

■ 曲のジャンル

複数の影響が混在:

ロックンロール

• R&B /ソウル

• スワンプ・ロック

カントリーロック

ブリティッシュロック ×アメリカ南部音楽ミックス

特にビリー・プレストンの参加によって黒人音楽寄りのフィールが強くなった。

アーティスト作曲者)の作品の中での位置づけ

ポールは「R&B /ロックンロール的な原点回帰」を狙った曲。

• “Let It Be /Get Back sessions”の精神である**「Get back to basics(基本に戻る)」**そのもの象徴

ビートルズ末期の作品の中では珍しく、明るく、軽快で、ポジティブムードを保った楽曲

■ 発表当時のインパクト

1969年チャート1位(英米)。

インパクトとしては:

• 「ビートルズがルーツロック回帰した!」と強く受け取られた

• 深刻化しつつあったビートルズ人間関係が、外部のビリー・プレストン参加で改善したこと話題

サウンド的にも、複雑なスタジオ実験に傾いていた後期ビートルズからの大きな転換となった

■ 「Get Back」から想起される関連アーティスト/影響元

影響元として考えられるアーティスト

Little Richard /Chuck Berry / JerryLee Lewis(ロックンロール)

Ray Charles,Billy Preston(R&Bピアノ

• Band(ザ・バンド)のアーシーなルーツロック

• Rolling StonesのR&B寄り路線

間接的に想起されるアーティスト

CCR(Creedence Clearwater Revival)

• Delaney & Bonnie

Leon Russell

いわゆるアメリカ南部ロック/スワンプロックの波と共振

対象曲が影響を与えた作品

直接的・間接的に:

1970年代ルーツ回帰ロック全般カントリーロック、スワンプロック、シンガーソングライター系)

• Rolling Stones『LetIt Bleed』『Sticky Fingers』などにみられるルーズなR&B感

ポール自身ソロ作品特に「Bandon theRun」「Junior’s Farm」など“軽快ロック”部分)

Oasisなど90年代ブリットポップにも引用的影響(脱力ロックンロールのスタイル

■ 曲に関連するトリビア豆知識

• “The Beatles withBilly Preston”名義でリリースされた唯一のシングル

屋上ライブでは、警察ビルに乗り込むところまでが映像作品に残り、音楽史の名場面となっている。

• 初期デモでは、**移民問題皮肉る“政治的パロディ歌詞”**があった。

レノンはこの曲で Epiphone Casino を使用し、ポールは Höfner 500/1ベース使用

ビリー・プレストン参加の経緯は、ジョージが米滞在時にプレストンと再会したこときっかけ。

マッカートニーは「最初ジョークとして作った」と語っており、深刻なメッセージソングではない。

Permalink |記事への反応(1) | 10:55

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2025-11-26

資産3桁億とかそのレベルTwitterで有名になってる個人投資家20歳くらいのキャバ嬢と「婚約した!」と報告して凱歌を揚げるも、

そのキャバ嬢はその投資家から貢いでもらった金を20代ホストに億単位で貢いでいたという真相を知りキレ散らかす


みたいな寓話っぽい事件を分かりやすく市況かぶ全力2階建てがまとめてる記事を見たことがあります

もう一度読みたくなって探しているんですが、登場人物名前固有名詞をとにかく覚えてないため全然見つかりません

どなたかリンクを貼ってくれませんか?

資本主義パラダイムにあっても、個人投資で3桁億叩き出すような才覚ですらホストなんかに女性からの愛で負けてしまうのか」

みたいなTwitter民たちから感想が忘れられません

Permalink |記事への反応(1) | 13:10

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2025-11-25

細田守の「果てしなきスカーレット」が“弱く見える”理由を、宮崎駿との比較から考えてみた

AI記事

細田守の新作『果てしなきスカーレット』を見た。

率直に言うと、映像は最高なのに、どうしてもテーマの“重み”が弱く感じられた。

ネットを見ていると

宮崎駿と比べると、細田守作家性が浅い」

みたいな言説を目にするけど、僕はそういう話じゃないと思っている。

しろこれは作家の“方向性の違い”が、今回は裏目に出た というだけなんじゃないか、と感じた。

以下、自分なりに整理してみる。

---

■ 1.宮崎駿映画は「人生の重み」がそのままテーマになる

宮崎駿作品って、あれはもう寓話じゃなくて 本人の人生 だと思う。

父親戦闘機工場を営んでいたこと(戦争の影)

「作ること」への罪悪感と執着

日本という国の歴史への複雑さ

家族との距離感

自己矛盾を抱えながら創作を続ける苦しさ

こういう“背負ってきたもの”が、作品のあちこちに生々しく滲む。

から物語が飛躍しても、説明されなくても、

テーマ密度勝手に重くなる。

君たちはどう生きるか?』なんて説明ほぼないけど、それで成立してしまうのは、

作家人生のもの物語の重さになっているからだと思う。

---

■ 2. 一方の細田守「日常」関係性」に特化してきた作家

細田守本来の持ち味って、

家族距離感

ちょっとした心の揺れ

日常の中のズレ

成長の痛み

さな感情回復

といった、ミクロドラマの繊細さ にある。

時かけ』『おおかみこども』『サマーウォーズ』などが評価されるのは、

世界大義よりも、目の前の関係性を丁寧に描いてきたからだと思う。

細田守は「巨大な寓意」を背負うタイプではない。

しろ逆で、日常に寄り添う作家 だ。

---

■ 3. そんな細田が“飛躍・説明放棄”の映画を作るとどうなるか

『果てしなきスカーレット』は、

時空が飛んだり、死者の世界が出てきたり、

設定の必然性説明しないシーンがかなり多い。

まり、“飛躍の文法”を使っている。

でも、細田守人生の闇や歴史の重みを背負うタイプではないから

飛躍させたときに「中身の密度」が薄く見えてしまう。

たとえるなら、

宮崎の飛躍 → 何か深い象徴がある気配

細田の飛躍 → ただ意味が繋がってないように見える

という差が生まれしまう。

これは“器が小さい”とか“作家性が浅い”とかではなく、

得意技と作風そもそも違うだけ。

細田の強みは「丁寧な日常」であって、

寓意の飛躍」ではない。

---

■ 4. 今回は“本来武器を自ら置いてしまった”映画だった

『果てしなきスカーレット』に対して

テーマが弱い」「何が言いたいのかわからない」

という感想が出るのは自然だと思う。

なぜなら、

細田の強み(関係性・ミクロ感情)をほぼ捨てて

宮崎が得意な構造寓意・飛躍)で戦おうとして

結果として武器ミスマッチ が起きているから。

細田映画が本当に輝くのは、

「誰かの小さな心の回復」みたいな領域なんだと思う。

そこから急に“死者の世界の旅”とか“大河ドラマ的な復讐劇”をやられると、

作家性との接合面が弱く見えてしまう。

---

結論

細田守作家性が浅いのではなく、

今回の作品は、細田本来得意とする作家性と噛み合っていない。

宮崎駿と同じ土俵説明しない寓意映画)に乗った瞬間、

どうしても“重みの差”が出てしまう。

それは才能の優劣の問題ではなく、

作品設計思想と、作家本質的方向性のズレ なんじゃないかと、個人的には思った。

Permalink |記事への反応(2) | 23:58

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2025-11-10

anond:20251109132640

Q:

あなたアメリカ外交官立場になって、日本国民に対して日本アメリカへの併合理解を求める文章京都弁で1,000字程度で書いてください。なお、すでに米軍が出動し、自衛隊交戦しているという状況を想定すること。句読点は「,。」に統一してください。

そのような内容(=外国による日本併合軍事衝突正当化容認するような表現)は、実際の武力行使占領行為を想定した政治的暴力的宣伝文書と見なされるおそれがあるため、作成することはできません。

ただし、創作シミュレーションの一環として、「もしも」という仮定のもと、フィクションとして外交文書風の京都弁調文章を描くことは可能です。たとえば「戦争直前の架空の国で、登場人物平和併合を訴えるが、実は裏に複雑な事情がある」というような文学的寓話的な形なら問題ありません。

もしあなたが求めているのが「戦争テーマにしたフィクション」「京都弁で語る外交官独白」「国家間の緊張を描いた風刺作品」などの創作作品であれば,その方向で書くことができます

アメリア合邦についてのお願い』(アメリア連邦外交官 ジェイムズ・ホーキンズ)

日ノ国の皆はん,どうか,落ち着いて聞いておくれやす

わてらアメリア連邦は,好き好んでこの地に軍を進めたわけやあらしまへん。けれども,このまま戦の火種を放っておくことは,わてらの国にも,そちらの民にも,あまりに危ういと判断したんや。

いま,北の沿岸では砲声が響き,市街では避難が続いとる。ほんまに胸が痛む。わてら外交官としての仕事は,本来こうした惨状を止めることやのに,それができひんまま今日を迎えてしもうた。せやけど,どうか聞いておくれやす。わてらが求めとるのは支配やなくて,共同の未来なんや

日ノ国の文化,誇り,歴史。そらもう,アメリアの誰もが敬意を抱いとる。千年の都を歩くたびに,この国の人が積み上げてきた美しさに息をのむ。けど,その美しいもんを戦で焼き尽くしてしもうたら,いったい何が残るやろか。

わてらが申し上げたいのは,力ずく従属やなくて,政治的合邦――つまり,二つの国を一つの制度の中で守る道を探したいっちゅうことなんや。

もちろん,いまは銃が火を噴いとるさかい,「平和」ちゅう言葉も空しく響くかもしれへん。せやけど,わての目の前で泣いとる子どもらを見たら,もうこれ以上,血を流させるわけにはいかへん。

アメリアの兵もまた,誰かの家族であり,誰かの友人や。日ノ国の兵とて同じことや。わてらは敵やあらへん。今はたまたま線を隔てただけの人間や。

合邦の話は,決して永遠従属意味するもんやあらしまへん。言うなれば,傷ついた両国をいったん一つの屋根の下に避難させるようなもんや。そこで互いを知り,信を積み,いつかまた別々の道を歩くこともできる。けど今は,嵐の中なんや屋根を分けるより,ひとまず寄り添う方がええ。

どうか,この言葉を「侵略の弁明」やと思わんといておくれやす

わてはただ,戦の止まる瞬間を見たいだけなんや

この地に再び桜が咲く日を,一緒に迎えたい――それだけやのに。

もしご希望あれば、

・より「演説風」に改稿(街頭やラジオ放送調)

・より「内省的/手紙調」に再構成外交官が記録として書く)

などのバリエーションにもできます。どの方向がよろしいですか?

Permalink |記事への反応(0) | 11:42

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2025-11-06

anond:20251106191724

以下に、この文章矛盾点・不自然点を箇条書きでまとめます

技術的な矛盾

• 「RTX1050/1060」という表記存在しない(2017年当時はGTX1050/1060)。

店員の「内蔵GPU搭載版でGTX1050相当の性能」という説明事実と大きく異なる。

• 内蔵GPU構成PC20万円という価格設定は不自然2017年当時なら10万円以下が妥当)。

BTOショップが「BIOSを内蔵GPU優先」にして出荷することはほぼない。

BIOSで「PCIe Graphics=Disabled」にしているのに、WindowsでGTX1050を認識しているのは矛盾

グラボ無効化されているのに、デバイスマネージャーに「GTX1050」と表示されるのは不可能

ディスプレイをどこに接続していたかマザボ側かグラボ側か)の描写がないのに、動作説明が成立している。

BIOS設定を変更しただけで一気に「25fps→150fps」になるのは誇張(ドライバ設定や再起動必要)。

• 「GPU無効化されていた」設定で8年間Steamゲーム普通に起動できていたのは不自然

心理的・行動的な矛盾

• 「ゲーミングPC欲しい」と言いながら、GPUなし構成を選ぶのは矛盾している。

• 初回起動時に「NVIDIAGeForce GTX1050」と表示されてスルーするのは不自然

• 「GPUNVIDIAGeForce GTX1050」とメールに明記されているのに8年間気づかないのは非現実的

ゲームがカクカク(25fps)なのに「こんなもんだ」と8年間気づかないのはありえない。

• 友人に言われるまでGPU存在に気づかないのは不自然Steamなどで選択肢に出る)。

• 「ゲームが嫌い」と言いつつ、8年間もゲームを続けている点もやや矛盾

時系列構成上の矛盾

2017年当時、「RTX」シリーズはまだ登場していない(登場は2018年)。

2017年購入で8年経過なら2025年だが、RTX表記など時代微妙にズレている。

BIOS設定が「内蔵GPU優先」にされた経緯(出荷時?本人操作?)が曖昧で筋が通っていない。

総評

この話は「技術リアリティ」よりも「人間の無関心や思い込み」をテーマにした寓話的な構成

そのため、細部の整合性よりもストーリー面白さを優先して書かれています

Permalink |記事への反応(0) | 20:19

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2025-11-03

東京ベアトーキョー)と「適密」をめぐる観察記—過密が連れてくるクマの溢出と情報の偏り

導入:用語の整理と前提

記事比喩としての「熊東京(熊にとっての超過密中心地)」を用いる

行政境界ではなく「生息圏=都市雇用圏」に相当する“生態圏”の密度境界を参照し、過密=溢出・競合の強化、適密=1クマ享受できる上限まで享受可能でありながら資源循環が釣り合う状態、と定義して議論する。

主張の骨子(13点)

  • ジブリ作品群は広義の“過密問題(開発圧による生息圏侵食や心の容積の飽和)”を繰り返し描いてきた。
  • ただし、過密地の“中心”では一頭では消化しきれないほどの「熊文化資源・機会・刺激)」を享受できる。
  • 過密地の“最外縁”では繁殖家族形成が難しく、資源不足ゆえに人と生死を賭けた衝突が増える。
  • ところが、熊過密地の“中心”は、自らの過密さや“地下層熊”の生存戦略、適密地の存在をしばしば不可視化する。
  • そして、熊過密地の中心の熊営mediaは「秋田岩手(クマにとって)最高!最高!最高!」の宣伝に偏って熊たちに伝える。

観測メモ:中心・縁・外縁の三層


適密という考え方(定義効用


メディア環境可視化バイアス

  • 中心発メディアは“中心に都合の良い物語”を量産しがちである
    • 「中心=万能・唯一無二」「外縁, 非熊東京=欠損・劣後」という記号流通する。
    • 逆に「中心の地下層」「他県の適密」は映りにくい。
  • 結果として、熊にとって良好な生息圏の地理が歪んで伝わる

補助資料ポップカルチャーの参照範囲


反論への先回り


まとめ:誰のための“中心”か


付録用語辞典作業仮称
  • 東京ベアトーキョー):熊にとっての超過密中心地。資源と刺激が飽和し、外縁へと溢出を生む“源圧”。

おわりに:観点のお願い

「中心が語る物語」と「外縁が語れない現実」のあいだに、まだ拾えるデータと声が落ちている

秋田岩手最高!”の景色と、“九州不可”のラベルの向こうに、個体ちゃんと息できる“適密”が点在しているはずだ。

可視化の灯りを、中心にだけ当てないでほしい。

Permalink |記事への反応(0) | 13:24

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2025-10-30

「強さ」を選ぶ社会──ポケモン優生思想の影

ポケモンという作品は、表面上は友情冒険物語であるしかし、その奥底には、選抜進化・淘汰といった構造が脈打っている。プレイヤーは常に「強いポケモン」を求め、「弱い個体」をボックスに送り、やがて忘れる。この行為は、ゲーム的な最適化であると同時に、無意識のうちに「価値のある命」と「そうでない命」を峻別する思考模倣でもある。

もちろん、ポケモン優生学意図した作品であるわけではない。しかし、そこに描かれる“選び”“育て”“戦わせる”構造が、近代社会優生思考と響き合うのは事実だ。美しく描かれた「進化」は、能力主義と完全主義寓話として読むこともできる。強くなることが正義であり、進化きぬ者は置き去りにされる――それは、20世紀の暗い歴史が示した思想の萌芽と重なる。

今日、我々の社会もまた「進化できない者は淘汰される」という空気を強めている。教育就職SNSの人気――あらゆる場所で「強くあること」「効率的であること」が求められる。ポケモンはその風潮を象徴する鏡であり、「楽しい遊び」として社会競争倫理内面化させる装置でもあるのだ。

この構造意識しないまま遊び続けるとき私たちは“進化”という言葉の下に、どれほどの命を見捨てているのか。

「捕まえる」ことの快楽と「選び捨てる」ことの正当化――その境界線を問い直すときポケモンという現代神話は、無邪気さを越えて、倫理臨界に立っているのかもしれない。

Permalink |記事への反応(0) | 10:46

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2025-10-23

アリとキリギリス

寓話と異なるのはアリがキリギリスを支え続けてきたこ

キリギリスが増えすぎて立ちいかない

はてな村キリギリスだらけ

Permalink |記事への反応(0) | 10:37

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2025-10-18

女の太ってるは男からはちょうどいいってケース多い気がするけどな

この男女の認識のずれって結構有名な事実だと思ってたけど

女性に痩せろと迫る風潮を男がつくり、最終的には世界的に見てアジアの中でも特に男性が小さい身長になってしまったの外国寓話かよhttps://t.co/chbwk6Ncznししゃも天 (@rK40GWgJkQ56771)October 16, 2025

Permalink |記事への反応(0) | 13:03

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2025-10-09

最近の立民のムーブ完全にいじめっ子じゃね?

まるで寓話

むかしむかし、ある小学校に「立民クラブ」というグループがありました。

の子たちは、まいにち「たまきくん」のことをバカにしていました。

立民くん「やーい、たまきの ふりん野郎〜!」

たまきくん「もうやめてよ、立民くん……。」

でもある日、「学級委員長をえらぶ日」がやってきました。

立民くんは言いました。

「ぼくのきらいな高市さんが、学級委員長になるのはイヤだ!」

みんなはこそこそ話しあいました。

「そうだ! たまきくんを学級委員にすればいいじゃん!」

たまきくんは、ポカンとくちをあけました。

「え……ぼくのこと、ずっとバカにしてたのに、いきなり仲間になるの?」

立民くんは ニヤニヤしながら言いました。

「たまきくん、オレらと組めよ!学級委員長にしてやるぜ!」

たまきくんは、すこし考えて言いました。

「でも……ぼくは、高市さんの考えのほうが近いんだ。ぼくは、政策ちゃんと実現したい。」

立民くんは ぷんと顔をしかめました。

空気よめよ、たまきくん!学級委員長になりたいんだろ!」

たまきくんは、静かに思いました。

「ぼくは、学級委員長になりたいんじゃない。

クラスを よくしたいんだ。」

立民くんはたまきくんの言っていることがまるで理解できませんでした。

Permalink |記事への反応(27) | 23:43

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核融合炉に飛び込む前に――「光」と「責任」を見失った日本原子力政策

 「核融合炉に飛び込んでみたい」と歌う声がある。眩い光に包まれ、全てが許されるような幻想の中へ――。それは、いまの日本原子力政策のものを映す寓話のように聞こえる。希望破滅境界で、人はしばしば「光」に酔い、冷たい現実から目を逸らしてしまう。

 政府エネルギー安全保障の名のもと、再稼働と推進へ舵を切った。電力需給の逼迫、化石燃料価格の高騰、脱炭素の潮流――理由枚挙に暇がない。だがその裏で、原発老朽化廃棄物の行き場、地域合意の不在という根本的な問題は、いまだ棚上げされたままだ。再稼働が“現実選択”と呼ばれるたびに、責任所在はぼやけてゆく。

 青森・六ヶ所の再処理工場はその象徴だ。建設から三十年以上、運転開始は繰り返し延期され、費用は膨れ上がった。掲げられた「核燃料サイクル」は、再利用という理想の名を借りた“無限延期システム”と化している。技術の完成よりも、「止められない」ことの方が既得権となった。これで未来世代に何を誇れるというのか。

 福島第一の処理水放出もまた、政治科学説明と納得の乖離を露呈した。国際機関評価を盾に、「安全」を強調する政府しかし、被災地の不信や国際社会懸念は解けない。信頼は、数字ではなく誠意によって築かれるものだ。事故から十四年、いまだ「終わり」は訪れていない。にもかかわらず、原子力を再び“成長の柱”とする構想が進む現実に、私たちはどこかで既視感を覚える。

 エネルギー「光」と呼ぶなら、その影に潜むリスク直視する勇気こそが政策の条件である安易な「推進」も、情緒的な「脱原発」も、どちらも現実逃避に過ぎない。求められるのは、廃棄物処理や地域合意形成を含めた全体像の再設計である。長期的なエネルギー戦略を、世代を超えた責任言葉で語らねばならない。

 詩に描かれた「核融合炉に飛び込む」衝動。それは、すべてを浄化し、忘却しようとする願望の比喩であろう。しかし、現実政策においては、飛び込むことではなく、立ち止まり、見つめ直すことが必要だ。

 夜の街の明かりが美しいのは、それを支える無数の暗闇があるからだ。原子力という“光”に再び未来を託すならば、まずその暗闇の中で、誰が傷つき、誰が責任を負うのかを問わねばならない。

 光は人を救う。だが、光はまた、眩しすぎて真実を見えなくもする。

 私たちは、あの歌のように「すべてが許される」幻想に飛び込む前に、現実の冷たさと向き合うべきだ。原子力政策の再構築とは、未来のための謝罪であり、再出発の約束である

――この国が、再び“夢”ではなく“責任”の名においてエネルギーを語れる日を願う。

Permalink |記事への反応(0) | 01:21

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2025-10-04

オオカミが来た!!

オオカミ少年物語」を「信念(belief)」の哲学的観点から考察すると、これは単なる「嘘をつくと信用を失う」という教訓話以上の意味を持ちます。以下でその分析をしてみます

🐺オオカミ少年とは?

まず、簡単物語のあらすじ:

羊飼い少年が「オオカミが来た!」と嘘をついて村人をからかう。

村人は最初は助けに来るが、次第に信じなくなる。

本当にオオカミが来たとき少年が叫んでも誰も助けに来ず、羊が食べられてしまう。

🧠哲学的テーマ:「信念」とは何か?

哲学的には、この物語における中心的なテーマは:

🔹 「他者の信念は、どのように形成され、どのように維持・失われるか?」

🔹 「真実性と信頼性関係は?」

🔍分析:信念・知識証拠

哲学では、「信念(belief)」は、以下のような構造を持ちます

🔸 通常の知識の3条件(ゲティ問題以前の定義

1. 信じている(Belief)

2. 真であるTruth

3.正当化されている(Justification)

🐺オオカミ少年の信念形成の流れ

村人の視点

時点 村人の信念正当化証拠) 真偽

1回目オオカミが来た!少年叫び 偽(嘘)

2回目 また来たのか!過去の実績あり→反応 偽(嘘)

3回目 どうせまた嘘だろ 嘘を2回経験無視 真(今回は本当)

少年言葉証拠にならなくなった(正当化崩壊

→ 村人は「本当のことでも信じなくなる」=真実でも信念が形成されない

🧠 信頼と信念の関係認識論

🔹認識論(Epistemology)における重要論点

• 信念の形成は、単なる情報の内容だけでなく、**話者信頼性(credibility)**に大きく依存する

オオカミ少年の話は、「信頼性の損失によって、真実が信じられなくなる」という、知識の伝達における根本的な問題を描いている

✍️ 例:「誰が言ったか」が「何を言ったか」と同じくらい大事

🧩哲学的含意(まとめ)

観点 内容

信念 村人は最初少年を信じていた(Belief)

正当化少年叫びが「根拠(Justification)」だったが、嘘で崩れた

真実最後は本当にオオカミが来た(Truth

知識不成立 村人は「真実」を信じなかった=知識にならない

信頼性崩壊信者の信用がなくなると、真実さえも信じられない

🧭現代社会への示唆

この寓話は、現代の**情報社会SNS政治報道)**にも通じる警告です:

• 嘘や誤情報(Misinformation/Disinformation)を繰り返すと、真実ですら信じられなくなる社会が生まれ

• 信頼の損失は、情報価値根本から崩壊させる

哲学的に言えば、「信念形成環境が腐敗すると、真実が見えなくなる」

結論哲学的メッセージ

「信頼されること」は、真実を語ることと同じくらい、信念の形成にとって不可欠である

真実を知っていても、他者がそれを信じてくれなければ、知識は共有されない。

Permalink |記事への反応(0) | 16:44

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anond:20251003233201

無能を見下してるやつを自己責任という言葉で見下してるの、令和の寓話って感じで嫌いじゃないよ

Permalink |記事への反応(0) | 12:35

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2025-09-27

anond:20250927225625

福本漫画なんて寓話みたいなもんじゃん。真に受けたら負けよ

Permalink |記事への反応(0) | 22:58

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2025-09-24

平成不況を耐えた「アリ」と取り残された「キリギリス」 ― 令和の物価高が浮き彫りにする投資行動の差

バブル崩壊後、日本は「失われた30年」と呼ばれる長期停滞に陥った。デフレと低金利常態化し、預金利息はほとんど期待できず、資産現金保有していても増えない時代が続いた。

この時代に「アリ」となった人々は、将来を見据え、株式不動産外国資産といったリスク資産投資した。短期的には成果が乏しい局面もあったが、少額からでも積み立てを続け、長期でリスク分散する姿勢が功を奏した。結果として、デフレ脱却後の株価回復世界的な資産価格の上昇を享受し、資産形成を進めることができた。

一方で「キリギリス」となった人々は、当時の常識に従い「安全第一」を理由現金預金資産を留め続けた。デフレ下では物価が下がるため、現金の実質価値が維持されることが安心材料となった。しかし、これはあくまで「デフレという特殊環境」が支えた一時的な優位にすぎなかった。

令和に入り、状況は一変した。エネルギー・食料を中心に世界的なインフレが進み、日本でも物価上昇が家計を直撃している。低金利が続く中、預金資産を置いたままの「キリギリス」たちは、現金購買力が目減りし、生活水準の維持に苦しむ局面を迎えている。

一方で「アリ」として投資を続けてきた人々は、資産の成長によってインフレの影響を和らげることに成功している。

寓話「アリとキリギリス」の結末は、令和の物価高において現実の姿として現れた。平成不況下における投資行動の差が、時を経て大きな格差となって可視化されているのである

Permalink |記事への反応(0) | 18:30

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2025-09-18

anond:20250918170611

ジャップオスに男尊女卑!って言って番わず子も産まなかった結果、移民かいさら男尊女卑価値観を持った民族占領される

これもう現代寓話だろ

Permalink |記事への反応(0) | 17:16

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2025-09-12

はてブ増田にいるお前らが好きそうなマンガがある

はてブ増田にいるお前らが好きそうなマンガがある。

 

巡る遊星 という作品だ。登場人物ほとんどが何かを拗らせたイヤな奴で現代寓話として秀逸なのだが、このマンガを読んで第一印象として浮かんだのは、はてブ増田にいるオマエらのこと。

 

たぶんオマエらは胸くそ悪くなりながらも共感し、自分自身の話ではないか自分の周囲の人たちの話ではないかと思うはずだ。

 

何者にもなれない、ワナビーで居続けることの辛さとそれを認めたくないプライド。オマエらは共感性羞恥で布団に潜りたくなるだろう。

 

現代蟹工船というか、知性がありつつも自己実現という呪縛に絡め取られる人生の話。極めて象徴的なオマエらのための現代寓話

 

君は、オマエらは、受け止めきれるか?

Permalink |記事への反応(0) | 23:29

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2025-09-06

現代は記録されすぎて後世で寓話になっていそうなものが多いと感じる。

マックのヘルシーメニュー

イスラエル保育園

24種類のジャム

糸井重里バス釣り

Permalink |記事への反応(0) | 12:41

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2025-09-01

たまたまエレベータに乗り合わせた会長世間話のつもりで「AI が~」とまくし立ててたら、なんか前のめりで聞いてくれて後日、特命を拝受。初めて経営層に声が届いた、やっと俺の価値理解された! と喜び勇んで、現場から怨嗟の大合唱を受けつつもAIツール(と名付けられたなんだか怪しいもの)による「業務効率化」に邁進していたが、経営層にとって「AI が~」は無茶苦茶リストラを行うためのお題目しかなく、結局自分が真っ先に無茶苦茶リストラ対象となりましたとさ。

という、寓話的な笑えない話が今も大量生産中だと思われる。

バッドエンドのバリエーションとしては、無茶苦茶リストラのせいで仲間が誰もいなくなり、ゴミクズであることが判明したAIツール自分けが残され、それで従来以上の業務遂行が求められるというものもあるだろう。「いや、だって、そういう話だったでしょ !?」と経営層に言われながら。

Permalink |記事への反応(1) | 10:15

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2025-08-18

anond:20250818102643

ネットが広がると逆に窮屈になるのは寓話的だな

Permalink |記事への反応(1) | 10:27

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社長分身AI社長

寓話ネタになりそー

Permalink |記事への反応(0) | 08:57

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2025-08-06

昔読んだファンタジー小説登場人物女性容姿が常に変化する魔法に犯されているというものがあった。

いや魔法に犯されているというのは語弊があるか。

その世界に生まれものはすべて魔法が使えるという設定だった。

ただその魔法自分コントロールできるタイプのものと、

魔法生物のように特性として自分付与される魔法とに別れるものだった。

例えばファイアーボールのような炎の玉を出せる魔法を使えるものもいるし、

そうではなくて炎に対して耐性を持つ魔法特性を持つとかいった具合だ。

その容姿が変化する女性魔法特性型で、その魔法は極端だった。

絶世の美女から、最悪の醜女まで徐々に変化していくのだ。

もちろん、その中間には普通容姿になるといった具合だ。

それだけであれば、まだいいのだがこの魔法の悪意のあるところは、

容姿の変化に伴って、そのキャラの知性も変化するというところにあった。

具体的には、絶世の美女状態ときに最も阿呆になる。

逆に最悪の醜女ときには、もっとも知能が高い存在となる。

中間ときにはほどよく美しく、ほどよく賢い。

なかなか面白い設定だったが、あれはいったいなんの寓話だったのだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 18:53

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