
はてなキーワード:宮崎駿とは
・まんがタイムきらら絵柄で脱臭してもこのエグさって、現実ではエグさを超えたすぎてなんて言葉にしていいか分からないくらいエグいて…
序盤は「エグいて…いやエグいて…」から、「日本は、負けたのか…!?」あたりから「お、おも〜〜〜い!重い!!」になり始めた
エグさの許容可能量を超えると語彙がなくなる
・玉砕の悲惨さもエグいけどその後の潜伏パートも別種のエグさがある 情報が入ってこず、明日どうなるか分からない状態で2年はキツい
・戦争映画始めてみた
・デスノートか?と思ったけどそんなこと無かったぜ
・原作未読で和泉くんの口紅2コマだけを見て、和泉くんが主人公だと勘違いした状態で
「偶然生まれた、国や時代にすり潰される「個人のアイデンティティ」の話」を期待して観に行ったけど、思ったより王道の戦争映画だった そして戦争映画は万全の体調の時じゃないとHPMPの消耗がヤバい 寝不足の状態でみる映画じゃねえ!
・主人公くんと猟師くんの間にもっとホモソというか〜戦場の絆〜(湿度高め)を期待していたのですが、最初から最後までお互いにカラッと健康な信頼関係と互いを尊重する心を持ち 接していた 湿度は多少きらら絵柄によりカットされてるだろうがそれにしてもヘルシーな関係の二人だった
・主人公くんと猟師くん、仮に2人が2025年に大学とか職場で出会っても、映画の2人の健康な距離感で人間関係絆けるんだろうなぁという感じ 戦争という特殊な環境で出会った「からこそ」の人間関係の独特さは無かった 湿度については周囲の人々が担当してた
・タイトルの「楽園」の名前が恥ずかしくないくらい背景美術が美しかった
時間経過で焦土から元々の南国の美しさが取り戻されてく過程の美しさと文字通り「地獄」の玉砕から時間が経過していき「過去」になっていく「あの死はいったい…」とむなしくさせられる心が2つある〜だった
・命の儚さをシャボン玉で表現するし、大事な仲間が亡くなるシーンで切ないピアノ曲流すしエンドクレジットでは実際のペリリュー島の写真を挿入してくれる、 戦争映画の「王道」しっかり押さえとった
そういうシモ・ヘイヘ的な「本来発揮されることなく亡くなっていくであったはずの才能」が時代のいたずらにより 輝く瞬間は美しい…
・シャボン玉飛んだの鼻歌がイイ声すぎておもろい、そんな「演出がまっすぐすぎてそのまま受け止めるのがちょっと照れる」ひねくれたワイ
・1人くらいゴールデンカムイみたいな戦争に人格破壊された振り切った異常者出てくるかな と思ったけどいなかった
・戦争は終わっても、私の戦争は終わってないんです隊長も哀しいけど心情は「理解」できるから…
・人望ありんちゅ隊長の「人望をあつめられる人柄」の長所と短所(本人の責任感かつ今更引くにひけないんです…にみんなの人望が人数分かけ算デバフになりラストに繋がる)が両方描かれていてすき
・隊長ラスト、あれはあれで本人がよければ…まぁ…(村長もそうだと言っています)だったし…
・盗みのために忍び込むの回数こなしすぎて、敵地中で映画に見入っちゃうとこ、「慣れ」の怖さ感じた 猟師くんの遺体が燃やされてるのもちゃんと見届けるのも「2人の絆」と同時に「人間の肉体が燃えるのを抵抗なく眺められる慣れ」を感じて 「戦争ってよくないですね~」ってなった
・敵軍戦艦の前らへんがパカー開いて戦車が列になってキャタピラで出てくるとこ、「敗戦国の屈辱とメカへのロマンがガンダムや宮崎駿の男の子のメカロマンを生み出し、今の漫画アニメカルチャーに繋がったんやなぁ…」と複雑な気持ちになりながら見てた
・戦争は、クソザコ市井の民ワイにとっていいことが1ミリもないのでよくないと思いました
当時、オッペンハイマーとか風立ちぬとかのポジの人たちは普通にいい生活送ってたもんな…
・当時の人々は、情報に簡単にアクセスできる今の人々と比べて、圧倒的に手に入れられる情報が少ないもんな…と思いながら観ていたが、Twitterでイーロン君のアルゴリズムからお出しされるオススメ情報を貪り食ってるワイはコントロールしやすいチョロ市民やろなぁ…と思いながらみてた
・斜め後ろに序盤はポップコーン食いながら観て中盤以降ずっと啜り泣きしながらみてるおっさんおって、この映画を余すことなく楽しんでるな…と思った
具体的には、元福島ガイナックス代表の浅尾芳宣氏や大学時代からの友人と思っていた山賀博之氏、武田康廣氏らが弊社や自分に対して行っていた様々な虚偽対応の実態、山賀社長(当時)からガイナックス社員への自身を入院中とかたる居留守指示、弊社を敵対視した文言、返済を不当に逃れるための画策等、これらを改めて知るに至り、怒りを通り越して悲しくなりました。
自分も昔、こういう文体でメールを書いてしまって、ちょっとその後問題になってしまって、
いずれにしても、メールでこういう文を残すな、みたいに言われてしまったんだけど、
名指しした人たち、及び私も含めた所属する団体と、私との関係が完全に壊れても構わない、
という意思表明ではあったんだけど、
そもそも、そういうことをメールで書くな、とかなり非難された。
こういうのを、それこそ退職ブログでやったら、色々鬱憤は晴れるけど、名誉棄損で訴えられてもおかしくない…😟
山賀氏、武田氏、そもそも岡田斗司夫氏とか、絵を描かない側の人たちだし、一方で庵野氏は絵を描く側であった。
まあ、最近庵野氏の昔の絵を見てて、宮崎駿ではないが、やっぱり人物は下手だと思った。
人物でなければ、メカとか爆発エフェクトとかであれば神がかってる超天才なわけだが…😟
庵野氏にこういう形で名指しされると、今後、業界内どころか私生活でも影響が出る可能性があるわけで、
もちろん、庵野氏の言い分が100%正しいとしても、そういうことは世の中往々にしてあるわけで、
私も私生活、個人的な関係で、流石にそれは人道的にというか、普通に人としてどうよ?と思わされることが多々ある人生ではあったが、
流石にネットで名指しはしない、というか、暗に名指しをしたりして揉めた、その件で私がBANされたりもあったので、
名指しで、ネットに名前を晒す、というのは、ちょっとモヤモヤした、
社会的マナーがどうの、というのも、庵野レベルなら許されるんかあ、みたいに思わなくもない…😟
どうしても、鳥山明のドクタースランプアラレちゃんのタイムスリップが頭に浮かぶんだけど…😟
昨日、海外のオタクなマニアが収集してる鳥山明の昔の第二次大戦の兵士の絵とか観てたんだけど、
当たり前だけど、上手いというかいいよね、動物が兵装してるの宮崎駿ともダブる、改めて、こういう絵もいいよなあ、
自分の中ではドラゴンボールというより、子供の頃に地元のイトーヨーカドーの本屋で読んでた、
この時期の鳥山明のイメージが強いんだよね、スターウォーズとか、タミヤの兵隊手に入れて、
ダグラムの多脚戦車の横のバルコニーに土のう設置して、タミヤの兵隊置いて、
もちろんごくまれにその両方の才能を持つ傑出した天才というものも現れるが
多くの場合、映画監督、演出家というものは物書きとしての才能はない。
ワイ氏の尊敬する作家の深沢美潮氏が「誰でも一生に一作は小説を書ける」とい名言があり
これは一生を生きていれば一作の小説になるくらいにはドラマティックなことが起きるはずだという希望の提示であり
逆に一生に一作しか書けないようでは作家にはなれないという警鐘でもある。
しかし彼らは作家ではないので一生の二作目くらいまでは行けても三作目、四作目は厳しい。
はっきり言ってしまえば、むしろそんなに書くことがある人間のほうが異常なのだ。
細田守の新作の果てしなきスカーレットを見たけど、いや、竜とそばかすの姫の前の未来のミライから
もう明らかに細田守には書きたい作品がないんだろうなということを感じている。
だから竜そばでは美女と野獣をパクったし、果てスカではハムレットと神曲をパクった。
未来のミライが最後のあがきだったと思うが、むしろあれで自分の中がスッカラカンなのを確信したのだと思う。
細田に必要なのは脚本家だと言われ続けているけど、それは彼の作劇が酷いからというのはもちろんあるとしても
描きたい物語がない人間が物語をひねり出すことほど苦痛なことはないと思う。
山崎貴なんかもそうだけど本来その能力を持たない人間に無理やりなんかやらせるべきじゃないと思う。
でもそのごくごく珍しい天才のせいで「作家性」というものが過剰に信奉されすぎている気がする。
どうしてもやりたい渾身の一作が書けた時だけ自分で書けばいい。
細田や山崎みたいにその辺のパク、オマージュみたいなスカスカの作品を無理に作る必要はない。
そういう意味では脚本家が映像技術を身に着けたほうが"成り"やすいな。
まぁワイ氏の所感としては細田守っておジャ魔女やデジモンでも「敢えて人がやらないことをやってドヤる」タイプの逆張りおじさんとしての評価が高いだけだと思っているので、あんま大衆監督として評価すべきじゃないと思ってるんやけども。
(アナ雪2、トイ・ストーリー2.3、アバター2は前作の類似作であろうという「信頼」で売れたけれど『果てしなきスカーレット』の場合は、同じ監督だけど、そこまで信頼されていなかったという主張。
逆に『帝国の逆襲』のヒットは監督関係ない(ジョージルーカス監督作品ではないから)
映画を監督で選ぶというのはそこそこマニアじゃなければやらない所業。ほとんどの観客は俳優で選んでる。
最近だと英勉、三木孝浩、内田英治、行定勲、藤井道人、阪本順治、本木克英あたりの作品が"(あの)『〇〇』の監督"としてテロップつけた予告編宣伝されてるけど、観客は監督の名前は見ないだろうと。売る方は気にしてるけど見る方は俳優しか気にしてない。例外は宮崎駿とギリギリ山田洋次かな。(『TOKYOタクシー』も俳優で行く映画ですね)
AIの返答、まとめ
新海誠と脚本家(&プロデューサー)の関係を簡単にまとめると、
| 作品 | 脚本クレジット | 実際の関係性 |
| ----------------------- | --------------------- | -------------- |
| 『秒速5センチメートル』まで | 新海誠(一人) | 完全に独りで書いてる。感情過多、説明過多、キャラが自分の分身すぎる。 |
| 『星を追う子ども』 | 新海誠 | まだ一人。宮崎駿オマージュやりすぎて迷走。 |
| 『言の葉の庭』 | 新海誠 | 一人で書いてるが、尺が短いおかげで破綻しなかった(=被害最小)。 |
| 『君の名は。』 | 新海誠 | **実質的に川村元気が大幅改稿** ・入れ替わり当初のエロ描写全部カット ・瀧の「自分勝手すぎる性格」を意図的に残す ・三葉の父親との和解シーン追加 など |
| 『天気の子』 | 新海誠 | 川村元気がさらに深く介入 ・当初のラストは「陽菜が死んだまま」だったらしい →川村が「それは観客が許さない」と全力で反対→現在の「代償を払ってでも救う」ラストに変更 |
| 『すずめの戸締まり』 | 新海誠 | 川村+東宝+チーム全員で「新海の暴走」を徹底監視 ・当初はもっと暗い結末だった ・鈴芽の母親の死を「観客が受け入れられる範囲」に調整 ・草太の椅子化を「笑えるレベル」にまで薄めている |
1. **「新海誠がやりたがる暗すぎる展開」を全力で止める
→ 新海は基本的に「悲劇で終わらせたい」人。でもそれやると大コケする。
→ 新海は自分の感情をキャラに喋らせたがる。川村が「それはナレーションでいいよね?」と9割カット。
3. **観客が置いてけぼりになる展開を潰す
→ 「説明不足でカッコいい」は新海の好物だが、川村は「最低限ここは説明して」と強制。
→新海誠単独だと99%バッドエンドで終わる。川村が「いやダメです、希望をください」と毎回言ってる。
## 結果
新海誠は今、**「自分のやりたいことの7割は封印されて、残り3割だけ出させてもらってる」**状態。
でもそのおかげで、
という“奇跡”が起きてる。
| 細田守 | 新海誠(2016年以降) | |
| ---------------------- | ---------------------------- | ------------------------------- |
| 脚本の暴走 | 誰も止められない | 川村元気が全力で止める |
| 自分の暗部 | そのまま全部出す | 7割封印される |
| 観客への配慮 | ほぼゼロ | 強制的に入れさせられる |
| 結果 | どんどん評価が下がる | どんどん評価が上がる |
新海誠も内心では「もっと暗くしたかった…」って絶対思ってるはずだけど、
細田守には、残念ながらそういう“檻”がない。
https://note.com/charm_viola6115/n/n904376361c9e
ここで書かれている作品は4重構造の救済の物語になっていて多くの登場人物に多層的な役割が与えられてるって話。
映画マニアを名乗ってるだけあって、マニア的な見方になっちゃうんだなと思った。
設定マニア、役割マニア、モチーフマニアの人はそうかしらんけど、普通の観客って「設定ベース」じゃなくて「キャラクターベース」で作品を見るんだよね。仮に「キリスト」モチーフの登場人物がいたとして、でも「その人物」のパーソナリティがキリストでなければ、なんか急にキリスト的な行動にとられても「いやお前の行動おかしくね?」ってなるんだよ。
でも設定マニアは「うおおおお!!!キリスト!!キリストじゃないか!!びゅるるるるる」ってなるんだと思う。
果てスカが叩かれているのはそのパーソナリティの一貫性のなさ、キャラクターの薄っぺらさが問題なんだよね。それはつまり彼が言っていることが正しいのだとすれば「多くの役割を一人の人物に押し付けようとした」結果でしかない。
シンデレラとラプンツェルとムーランと白雪姫をディズニープリンセスだから一人の中に押し込んだろ!ってしたら「うんうんこの行動はラプンツェルを表しているね」「おっ、ここはムーランかな」「シンデレラであったね」、いや多重人格かこいつってなるだろ。しかもそれが8人分。それをうまく作中で接続できる脚本力があれば細田はもうとっくに宮崎駿越えてるのよ。
そして一つの作品に全世界を救う4つの救済をギュウギュウに詰め込んでみました!無駄のない完璧な設定!っていうのも、そんなことは並の脚本家には不可能だし、残念だけど細田がそのレベルの脚本家じゃないのはもう過去の作品からも明らかじゃん。何なら、いつも「細田の言いたいこと」の部分が叩かれる。それは社会が追い付いてないからじゃなくて細田が自我を作品に昇華する腕がないからだと考えるのが妥当だろ。
3回も見て大学図書館でお勉強したのは偉いね~って感じだけど、むしろそのことが「自分で調べて理解したことに対して人間の評価は異常に甘くなる」っていうナントカクルーガー効果だかikea効果だか認知的不協和云々に陥らせているようにも感じる。もしかしたら細田守もそうなのかもしれないけど。
ポスト宮崎の細田も新海も急にフェチアクセル踏むなよビックリするわってなる瞬間が大概あるのに宮崎は別にロリコンを隠してないのに今加速度かかったなって瞬間があんまなくて安心して見られる。まぁ耄碌してからは繊細なアクセルワークが鈍ってる感もあるけど、細田、新海くらいの一番アクセル踏みたい時期によくあんな丁寧にアクセル踏めてたなって思うわ。
新海はたぶんいいナビゲーター(プロデューサー)がついたんだろうと思うけど、問題は細田だよな。細田作品見てるとヘタクソな奴の助手席に乗ってるみたいな加速減速加速ブレーキ加速減速みたいなガックンガックンする体験を特にここ最近はさせられてさすがに酔う。
とはいえ、テレビアニメの延長線以外の単独映画作品のホリデームービーを撮ってある程度人を集められる監督ってめちゃくちゃ貴重だからうまいこと舵を取ってくれる大人が助手席に座ってくれるといいなと思わなくもない。もしくはアクセルワークを磨くか。まぁ細田は初期からアクセルガバガバだったからそういう作家じゃないんだろうけど。
教訓(細田守の場合は演出)のために話が進むから人の感情や思考回路とかどうでも良い
そういう神話的物語を現代社会でやるから現代社会を生きる観客には違和感が強くなり物語に入り込めなくなる
で、更にいやらしいのが人間の心を全て無視しているならこの物語は神話なのねと理解して違和感を捨て去ることができるんだけど、ネクスト宮崎駿を期待されていてホリデーシーズンの子供の来場も期待されていることから物語の序盤中盤は普通のエンタメ作品の流れで物語が進むのに突然神話になる構成になっていること
その落差に観客がついていけなくなる
「細田は日常系の作家性が、寓意の飛躍と噛み合ってない」って指摘は本当にその通りだと思う。
俺はこれ、細田が「わざと」武器を捨てに行った自爆テロなんじゃないかと踏んでるんだよね。
・「整合性は一切取らない」
・「宮崎さんの『君たちは~』を見て、俺もわがままやりたいと思った」
「まだ晩年じゃないけど、晩年みたいなことやっちゃおう」って無理やり暴走した感じがする。
観客から「今じゃないだろ」「早すぎる」って総ツッコミ食らって爆死気味になってる(笑)
でも俺はこれ、失敗じゃないと思ってる。
率直に言うと、映像は最高なのに、どうしてもテーマの“重み”が弱く感じられた。
ネットを見ていると
みたいな言説を目にするけど、僕はそういう話じゃないと思っている。
むしろこれは作家の“方向性の違い”が、今回は裏目に出た というだけなんじゃないか、と感じた。
以下、自分なりに整理してみる。
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宮崎駿の作品って、あれはもう寓話じゃなくて 本人の人生 だと思う。
「作ること」への罪悪感と執着
こういう“背負ってきたもの”が、作品のあちこちに生々しく滲む。
『君たちはどう生きるか?』なんて説明ほぼないけど、それで成立してしまうのは、
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■ 2. 一方の細田守は「日常」「関係性」に特化してきた作家
ちょっとした心の揺れ
日常の中のズレ
成長の痛み
『時かけ』『おおかみこども』『サマーウォーズ』などが評価されるのは、
世界の大義よりも、目の前の関係性を丁寧に描いてきたからだと思う。
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■ 3. そんな細田が“飛躍・説明放棄”の映画を作るとどうなるか
『果てしなきスカーレット』は、
時空が飛んだり、死者の世界が出てきたり、
でも、細田守は人生の闇や歴史の重みを背負うタイプではないから、
たとえるなら、
これは“器が小さい”とか“作家性が浅い”とかではなく、
「寓意の飛躍」ではない。
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■ 4. 今回は“本来の武器を自ら置いてしまった”映画だった
『果てしなきスカーレット』に対して
なぜなら、
そこから急に“死者の世界の旅”とか“大河ドラマ的な復讐劇”をやられると、
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■結論
今回の作品は、細田が本来得意とする作家性と噛み合っていない。
どうしても“重みの差”が出てしまう。
それは才能の優劣の問題ではなく、
ただしある程度の規模を維持できている限りは、という条件はつく。
ということだから焼畑農業的な炎上商法の一種(本人が自覚的にやってるのかどうかはともかくとして)であることには変わりがない。
なんつーか、どんだけ偉大なアニメ監督でも自分の頭の中のイメージからだけで創作物を作り続けることなんて出来ない。
昭和時代からの生き残りである宮崎駿とか富野由悠季とかを見ていても、それはわかる。
富野監督なんて、ガンダム、イデオン、ザブングル、ダンバインと、毎年のようにアニメを作っていたが、はやくもダンバインの段階で、自分の中のアイデアはもうこれで終わり枯渇した、
自分の中の頭の中のものは出し尽くした、というようなことで、ダンバインの次のエルガイムを作るときは、永野護というサンライズの新人が頭の中に抱え込んでいた創作のイメージを絞り出させて、自らのオリジナルアニメとしてつくってるくらいである。
大雑把に言って創作者にとって、やりたいこと、というのは割と創作の初期段階で尽きてしまうものなのだ。
だから、みんな必死に勉強して、自分の頭の中の耕して種まきして、なんとか実を結ぶもんが出てこないもんか?と必死になる。
宮崎駿みたいな、原作が会っても原作を無視して映画を作ってるような人でさえ、なぜ原作が必要なのかと言えば、もうイメージが枯渇してしまってるからなんだと思う。
とここまでイメージと書いてきたが、ちょっと適切な単語ではないと思う。
ここでいうイメージというのは、自分の中に抱えてる世界とか、物語とか、そういう創作の種みたなもののこと言ってるんだと思って欲しい。
だから、どっかから原作を持ってこないと宮崎も映画が作れない。
最新作の君たちはどう生きるか?にしたって海外の小説が原作となっている。
(というか、あれ原作として使ってるのにクレジットも金も払ってないのはどういうことなんだ?)
つまりだ。
細田守だって、もうとっくにイメージなんてないんだから、どっかから持って来い。
というか、生来細田守に欠けているのは、そのイメージなんだと思う。
だからそもそもTVアニメとしてしっかりとした土台、イメージがあるデジモンとかをやらせるとものすごく成功するのだ。
どれだけ原作とかけ離れているとしても、そのイメージの土台があるからこそ、ある程度のものが出来上がるんだ。
細田にかけているのは脚本力なんかではない(それは結果論なのだ)。
彼の中には、彼の中で抱えている、イメージ、訴えかけたいこと、「俺はいまこういう物語を抱え込んでいるんだけど君たちそれをどういうふうに思う?」という創作者という名の語り部として欠かせないある種の資質が決定的にないのだ。
おそらくは宮崎と鈴木が細田をジブリに入れなかった理由(わけ)もそのへんに転がっているのだろうが、その真意はよくわからない。
宮崎駿だって、傑作を連発してた初期よりも迷走してる中期以降のほうが興行収入10倍とかあるから…
良くも悪くも興行収入は知名度に比例するし、いちど傑作を作って伸びた知名度はなかなか減らない
つーか、きちんと宮崎とか鈴木(はジェダイじゃないけど)がきちんと細田をジェダイとして導いていればいまのこんな悲劇は起きなかったんじゃないかな?って思うんだけどな。
無理強いしてでもハウルを、きちんとジブリ作品として成立してるハウルを細田に作らせておけば、その後の細田の歩む道も違っただろうし、ジブリも潰れずにいまも続いてるんじゃないかな?とか思ったりもする。
バカでもわかるように作れないほうがバカというのは、理解する側が理解の努力をしない議論の拒否なんだよね
たとえば宮崎駿の君たちはどう生きるかを理解できた人がどれだけいるの?なぜほとんど批判されずに受け入れられたんだい?
すごい人のやることだから何か意味があるに違いないから、わからない自分が愚かだと暗黙に認めたんではないのかい?
少しレベルが低いとみなす人の作品だと、わかるように作ってないのがわるいみたいな批判になるのはなぜなんだい?
逆に言えば、批判ができるようなレベルの低い人の作品だと思っているってことなんではないのかい?
作品をつくる人たちはたいてい多少の進歩や極端な思考を持っているので、意図がそのままわからないことのほうが多くて
わかったと思うのは表面だけでのことのほうがほとんどで、自分が過去に経験して知識のあるエンタメに似ているか思考の延長にあるだけ