Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「室町時代」を含む日記RSS

はてなキーワード:室町時代とは

次の25件>

2025-12-14

司馬遼太郎っていう昔は国民作家だった歴史小説家の小説の中に、室町時代とかの高貴な生まれ武家の子供はすぐに男色に走っちゃうから、はやいうちに女をあてがうって書いててそれが本当なのかどうか気になってる。

しか応仁の乱前後をが舞台小説だったと思う。

その中で将軍エピソードが出てくんだけど、基本当時は男色タブーでもなんでもないから、高貴な武家の子供ってすぐに男色に走ってしまう。

なぜかって容姿爽やかな同年代の小姓とかにまれるんだからうなっちゃう、と。

現代だって小、中学生の頃とかって、同性に対して疑似恋愛的な感情を抱いた経験とかってあるじゃんか?

それが、将軍家の御曹司で起こってもおかしくない。

そして、その疑似恋愛対象自分命令なら大抵のことは聞いてしま対象だったら男色に走ってもおかしくないだろ?ってこと。

から、はやめに女をあてがって女の味を覚えさせる。

射精快楽は女でするものだ、って身体に教えてしまおう、って寸法。

これがね、司馬遼太郎のホラ話のなのか本当の話なのかずっと気になってる。

調べればわかることなんだろうけど、なんかもったいなくて、ずっとほったらかしにしてるんだよね。

なんかね、本当のことが分かるよりも、どっちなんだろうなあ?って疑問をいだいてるほうが面白いっていうか。

そういうのわかってもらえる?

Permalink |記事への反応(0) | 08:45

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-12-13

https://www.asahi.com/articles/ASP165JQSNDYONFB009.html

あこぎな男は悪人か、孝行者か 語源海岸に2つの物語

2021年1月14日 15時00分

 病気母親を持つ漁師の平治は「病気には阿漕浦で捕れるヤガラという魚がよい」と聞く。病で日に日に衰弱していく母親を前に、平治は決心を固め、禁漁区である阿漕浦に夜な夜な舟をこぎ出す。ヤガラを食べさせたことで母親の体調は少しずつ回復するが、浜に「平治」と書かれたすげ笠を置き忘れたことで、密漁が露見する。

 捕らわれた平治はす巻きにされ、阿漕浦の沖に沈められる。その後、夜になると阿漕から泣き声や網を打つ音が聞こえ、その音を聞いた者は病気になった――。

 地元住民でつくる「阿漕平治保存会」は毎年、平治の孝をたたえ、その霊を慰めるため、平治が処罰されたと伝わる8月16日夜、阿漕塚で供養を捧げてきた。

 この平治伝説江戸中期以降、浄瑠璃などで演じられ全国に流布した。ただ、この話からは、悪い意味で使われる「あこぎ」の意味合いは伝わってこない。

写真・図版

ヨットハーバーから望む阿漕海岸。穏やかな海を朝日が照らした=2020年11月10日午前9時30分、津市柳山津興、佐々木洋輔撮影

 一方、室町時代に作られた謡曲(能)「阿漕」の筋はかなり違う。

 伊勢神宮へ参拝に向かう旅人が、阿漕浦で老人に出会う。老人は阿漕浦の名の由来について、昔、阿漕という名の漁師(平治という名前は出てこない)が、ここで密漁して見つかり、海に沈められた。阿漕はいまも海の底地獄で責め苦を負わされ、さらに「阿漕阿漕」と言われ、悪名を残したと言う。さて、日も暮れた。網を引きに戻ろうと言い、老人は消える。

 旅人はぴんとくる。この老人こそが阿漕の亡霊ではないか旅人の前に現れた亡霊は火に焼かれ、鬼の地獄の責め苦を受けながらも、何度も何度も漁をしようとする。

 平治伝説とは違い、こちらはホラーだ。なぜ、二つの物語存在するのか。

Permalink |記事への反応(0) | 15:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-12-08

anond:20251208193942

近世以前

編集

日本において暦日を用いた新年概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年挨拶を伴った年賀状ルーツといえる[14]。

平安時代に入ると貴族間で年始挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚使用人を使った私的手段により年始挨拶文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。

明治時代

編集

明治維新後になると逓信省前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始あいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。

郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しか年末商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便特別取扱が始まった[20]。年末一定時期、具体的には12月20から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがき使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。

大正戦前昭和時代

編集

琉球郵政庁が発行した1957年2ドル年賀はがき

関東大震災1923年)や大正天皇崩御1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇昭和天皇崩御の年は実施されている。

年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年昭和10年)に私製はがき貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さら物資節約のため1941年昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。

戦後昭和時代

編集

終戦後の1948年昭和23年12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手図柄干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年昭和24年)、お年玉郵便はがき年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。

→「年賀寄付金」も参照

お年玉郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年昭和36年から年賀はがき消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。

1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年昭和57年から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年平成元年からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。

平成・令和時代

編集

2007年カーボンオフセット年賀状200枚包装紙

イラストデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンプリンター作成印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンター印刷に適したインクジェット写真年賀はがきが発行されるようになった。

一方で2000年代からインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンライン手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月風物詩となった。

2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。

20176月1日郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったこから利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがき年賀はがきは同一の料金となった[28]。

2010年代になるとスマートフォンソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年挨拶オンラインで済ませる人がさらに増えた。LINE運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNS送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業TB名古屋市東区)は2017から高齢理由に、今年限りで年始挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。

また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に202410月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状フタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30

Permalink |記事への反応(0) | 19:49

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-11-24

日本も、戦国時代下剋上時代)なんてこなくてダラダラと室町時代をやってたら、アジア初の「議会」みたいなもんが誕生してたかもな。

英国歴史とか見てるとさ、結局は絶対王政というものを作り出したい王側と、やたらと力が強い貴族とのせめぎ合いで歴史が形作られててさ、

その結果として議会みたいなもんが生まれて、それが立憲君主政体へと変体していくわけじゃない?

でね、ふと思ったの。

日本室町時代って、将軍の力が弱くてやたらと守護大名の力が強かったわけじゃないですか?

あれがね、なんかもうちょっと違う形で維持されていたとしたら、なんか日本でも似たようなもんが出来ていたんじゃないのか?

とか無双ちゃうんですけどね。

地球の海が生命スープとして機能したように

ダラダラとした室町幕府の微力な権力統治機構スープとなって、それがやがて守護大名連合議会を生んで、、、とかそういう感じ。

でも、日本場合は、戦国時代なんて言う超合理的な(邪魔なやつは殺す)世界突入してしまって、結果として超合理的織田信長みたいなやつがゴリゴリとすりつぶすように社会を再統合していったがために、徳川幕府みたいな疑似絶対王政誕生してしまったのが惜しいな、と。

Permalink |記事への反応(2) | 08:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-18

anond:20250818210124

伝わったのは奈良時代だけど広まったのは鎌倉時代室町時代にかけてなので嘘ではない

Permalink |記事への反応(0) | 21:02

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-05

雪舟 -Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%88%9F

生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問文芸の分野を担っていた。

実力で大成したんやなぁ

Permalink |記事への反応(0) | 01:05

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-01

anond:20250701082439

室町時代フリマサイトあったんか

Permalink |記事への反応(0) | 08:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-22

応仁の乱から戦国時代

日本において職業としての売春確立したのは、中世後期、特に室町時代以降とされています

室町時代には、以下のような売春形態がありました。

**遊女(ゆうじょ)**:歌舞や遊芸で客をもてなし、枕席にも侍ることを生業とした女性たちです。上層の遊女は「遊君」「傾城(けいせい)」などと呼ばれ、下層には湯屋で働く「湯女(ゆな)」や旅籠で働く「飯盛女めしもりおんな)」、また街角で客を待つ「辻君(つじぎみ)」などがいました。

**傾城局(けいせいぎょく)の設置**:室町幕府は、1528年(大永8年)に「傾城局」を設け、遊女に官許の鑑札を与え、税金徴収していました。これは、幕府売春業を公に認めていたことを示しています

**女衒(ぜげん)の存在**:女性売春労働仲介する専門家である女衒」も存在しました。彼らは、経済的に困窮した家庭から少女を買い取ったり、騙して連れ去ったりするなど、人身売買問題引き起こしていました。

このように、室町時代には多様な形で売春存在し、社会の一部として認識されていました。

Permalink |記事への反応(0) | 07:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-28

スタジオジブリ作品時代設定

見ていない作品もいくつかあるのでWikipedia等で調べたりした。

ジブリ作品に無関心ですまない。

かぐや姫の物語 奈良時代

もののけ姫 室町時代

風立ちぬ 1910年頃〜1945年以降

紅の豚 1929年

君たちはどう生きるか 1944年

となりのトトロ 昭和30年代前半(1955年1960年頃)

コクリコ坂から 1963年

平成狸合戦ぽんぽこ 昭和40年代(1965年1974年)

おもひでぽろぽろ 1982年(1966年?)

耳をすませば 不明(未来ではないので映画公開の1995年以前)

千と千尋の神隠し 1994年2001年(ほとんど異世界舞台なのでアウディ・A4がある時代映画公開の2001年までならだいたい成り立つ)

猫の恩返し 不明(「耳をすませば世界の中の物語)

まり堀越二郎三菱飛行機設計をしていた頃にポルコが飛行機を乗り回し、「風立ちぬ」が終わる頃にサツキが生まれ松崎海(コクリコ坂から)も近い時期に生まれ、「コクリコ坂から」の数年後に狸達が生存戦略模索していたということがいえる。

Permalink |記事への反応(0) | 19:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-30

chatgptすごいね

転生したら世阿弥になっていた件とタイトル投げてバトル漫画指定したら、秒でそれなりに実用的に使えそうなストーリーを考えた。

タイトル: 転生したら世阿弥になっていた件 〜能楽剣舞の極意〜

あらすじ

現代日本で平凡な舞台演出家だった主人公が、事故に巻き込まれ目覚めると室町時代少年世阿弥になっていた。父・観阿弥とともに能を大成させるはずの運命だったが、異世界転生の特典として「能楽剣舞」という未知の技術を得る。足利将軍家戦国武将たちが支配する動乱の時代、剣を執る運命へと導かれていく——。

キャラクター

世阿弥主人公):

前世は平凡な舞台演出家

転生特典として「能楽剣舞(のうがくけんぶ)」という戦闘技術を持つ。

舞いながら剣を振るい、敵を惑わす戦闘スタイル

観阿弥(父):

能楽の基礎を築いた偉大な芸術家

主人公に舞の奥義を伝授しながらも、戦いには関わらないよう諭す。

足利義満支援者黒幕

将軍として能楽支援するが、主人公剣舞に興味を持ち、戦場での利用を考える。

夜叉(おにやしゃ)

室町幕府暗殺者

世阿弥剣舞に興味を持ち、命を狙いながらも彼の実力を認めていく。

バトルシーンの例

第一幕:観客を魅了する剣舞能舞台での演目中、突如刺客乱入世阿弥は舞を止めることなく、刀を抜きながら優雅に舞い続ける。

「これは…能なのか、剣術なのか…?」 観客が息を呑む中、敵の斬撃を最小限の動きでかわし、しなやかな体捌きで一撃を浴びせる。剣の軌跡がまるで舞の一部のように美しく、敵は翻弄される。

第二幕:足利義満の試練 義満の命により、世阿弥幕府最強の剣士と対決することに。相手は剛剣を振るう武士だが、世阿弥は能の「静と動」を活かし、見えない間合いかカウンターを決める。

「お前の剣はまるで幽玄世界から現れたかのようだ…!」

しかし、戦の世界に深く関わることは世阿弥にとって破滅への道。能楽を守るため、剣を振るうべきか否か——葛藤が彼を襲う。

キーワード

幽玄剣舞:動きを最小限にし、まるで幽霊のように攻撃をかわしながら一撃を放つ技。

花の一閃:剣の軌跡が花びらのように舞い、敵に死をもたらす一撃必殺技

夢幻転生:能の「夢幻能」から着想を得た技で、敵に幻覚を見せる特殊戦法。

——

能楽 ×剣術 ×歴史 ×異世界転生のバトル漫画いかがでしょうか?

こんな感じで「能楽 ×剣術 ×異世界転生」のバトル漫画を考えてみました!もっと詳細なバトルシーンやキャラクターの設定を詰めていくのも面白そうですね。どう思いますか?

Permalink |記事への反応(1) | 15:52

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-03

3/3

・にんたま

いつものズッコケ展開かと思いきや、室町時代の戦描写(エグめ)あり

コミカルなのに烏はそういうことの比喩なんでしょうかね

らんきりしん達はい意味アーティスト気質というか自我確立しすぎているのに対し、い組が戦に怯えるふつうのこどもなのがしっかりわかるのがとてもいい

あつぎ先生、生徒思いのいい先生すぎる

今日は何して遊ぼうか」の次に「ここ教わってないと思う」が好き、教わってない範囲テストに出ねえんだ

こどもたち同士の対比が感じられてとても良かった

・かんこれ

南西以外の日課消化

クォータリーとイヤーリーも出撃のみ

5海域が苦手すぎてあったまってろくにキラ付けもせずカス出撃を重ねてしまったので、中途半端状態だが今日はここまで

あったまる癖をやめたい

・にんつぼ

日課消化

イベント任務消化慣れてきたか効率よくこなせている

無双おりじんず

張角の絆をカンストした

今作の張角ファンタジーだ いや、前作までもファンタジーだけども

オリジナルキャラ視点なせいかシリアスキャラ造形のせいか、めちゃくちゃ魔法使いやんけと思う

最後は幻だったということなのかな

進捗は2章貂蝉と合流したとこまで

貂蝉の絆イベも見れていないので、そろそろ太平値を頑張らねばならない

Permalink |記事への反応(0) | 23:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-13

田中太郎さん(享年562歳)を偲ぶ

田中太郎さんが562年の生涯を閉じました。文字通り時代を超えて活躍した伝説人物として、多くの逸話を残しています

田中さんが生まれたのは室町時代とも、それ以前とも言われています。本人曰く、「気づいたらこの世にいた」とのこと。幼少期から歴史重要人物たちと交流を持ち、織田信長には「お前は生きすぎだ」とツッコまれ坂本龍馬には「いつの時代の人なんですか?」と真顔で聞かれたとか。

戦国時代には「戦わずして勝つ」戦略を編み出し、大喜利で敵将を笑い倒す戦法を確立江戸時代には落語の原型を作ったと言われ、幕府公式エンターテイナーとして活動しかし、あまり長生きしすぎて、明治政府には「そろそろ引退しては?」と打診されるも、「時代が俺を求めている」と拒否

大正時代には映画界に進出し、無声映画なのにアドリブでしゃべりまくるスタイルが物議を醸す。昭和に入るとテレビに興味を持ち、「そろそろ俺もレギュラー番組を持つべき」と言い出したが、放送局側が「500歳の新人はさすがに…」と断る。平成バラエティ番組には「レジェンド枠」として出演し、令和ではVTuberデビュー検討していたらしい。

生涯で数え切れないほどの名言を残した田中さんだが、最後の言葉は「また来世で」。次に生まれ変わるのは何年後か、歴史はまた新たな伝説を待つことになる。

Permalink |記事への反応(0) | 16:35

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-07

anond:20250207002250

「化粧をしないと失礼」、「いつから」で調べたらAI先生は↓のように答えてくれたよ

江戸時代くらいにはそういう通念ができ始め立てたらしい、あってるかは知らんけど

  

  

化粧をしないことは失礼かどうかは、人それぞれで判断が分かれるでしょう。

化粧を始める時期は人によって異なり、正しい答えはありません。また、常識範囲内で限度を考えて化粧をするのもよいでしょう。

化粧の文化史を振り返ると、室町時代には武家制度礼儀作法が整備され、化粧に関する記述も登場しました。江戸時代には女性向けの礼儀作法も充実し、化粧の心得なども詳しく記されるようになりました。

Permalink |記事への反応(0) | 02:46

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-31

anond:20250130094309

主語

🤔

AI による概要

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて、守護職務を代行した武士です。守護代守護の命を受けて、任国で政務下地遵行(したじじゅんぎょう)などを行っていました。

守護代の特徴は次のとおりです。

守護重臣が任命されることが多く、世襲化して勢力を伸ばした

守護在府在京する場合には、守護代に代わって又代官派遣された

南北朝期以降、守護幕府から相対的に自立してくると、守護代権限も強大となった

戦国期には、守護代守護を倒して主人の座を握る者も現れた

守護代として著名な人物には、次のような人たちがいます。

遊佐氏(畠山氏の下)

甲斐氏(斯波氏の家臣)

越後国長尾氏上杉氏守護代

守護代勢力を伸ばした結果、守護大名戦国大名と呼ばれる大名も登場しました。

Permalink |記事への反応(0) | 06:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-12-16

anond:20241216164342

室町時代くらいからかな

紀元前からやってた可能性もある

Permalink |記事への反応(0) | 16:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20241216100238

日本の貧富の格差は、有史以来、政治体制経済構造社会価値観の変化とともに推移してきました。以下に歴史的な流れを概観し、現代の状況について分析します。

 

1.古代中世貴族武士による支配社会

• 特徴:

大和時代から平安時代にかけては、土地の所有と収穫物に基づく支配が貧富の格差を生みました。特に貴族豪族荘園制度を通じて富を集中させ、農民はその下で租税負担する立場に置かれていました。

格差の程度:

封建的身分制度によって、富の分配は厳しく制限されていました。武士が台頭した鎌倉室町時代も、土地所有権が富の主要な指標であり、武士地侍農民支配する形で格差固定化されていました。

 

2.江戸時代封建制度下の身分格差

• 特徴:

江戸時代武士農民職人商人という厳格な身分制度がありました。武士形式上最上位に置かれましたが、実際には商人階級が財を蓄え、経済的な力を持つこともありました。一方、農民は重い年貢負担し、経済的に厳しい状況が続きました。

格差の特徴:

武士の中でも上級武士と下級武士の間には大きな格差存在し、農民の間でも富農と貧農に分化するなど、社会の中で格差が細分化していました。

 

3.明治戦前資本主義の導入と新たな格差

• 特徴:

明治維新により封建制度廃止され、土地制度改革産業化が進む一方で、資本主義の導入により新たな貧富の格差が生まれました。地主層と小作農格差が深刻化し、労働者層は低賃金過酷労働従事することが多かったです。

格差の拡大:

産業の発展により、財閥や大地主が莫大な富を蓄積する一方で、多くの農民労働者貧困状態に置かれました。

 

4.戦後高度経済成長期(格差の縮小期)

• 特徴:

戦後農地改革により地主小作農格差が解消され、労働者権利が拡大しました。また、高度経済成長期には「一億総中流」という言葉象徴されるように、国民の大部分が中流意識を持つ社会形成されました。

• 要因:

公平な所得分配教育の普及、企業終身雇用制度などが格差縮小を支えました。

 

5.現代1990年代以降)

 

格差の拡大

バブル崩壊以降:

1990年代バブル経済崩壊後、格差が再び拡大傾向にあります非正規雇用の増加、年功序列型の賃金体系の崩壊地方都市経済格差が顕著です。

経済指標:

ジニ係数所得格差を示す指標)は、バブル期の低い水準から徐々に上昇しています。また、OECDの報告によると、日本先進国の中で格差比較的大きい国に分類されています

 

高齢者と若年層の格差

高齢者層では退職金年金恩恵を受ける人が多い一方、若年層では非正規雇用が多く、所得が安定しない状況が続いています

 

都市地方格差

東京をはじめとする大都市圏では経済活動が集中している一方で、地方経済的停滞が課題となっています

 

6.現代格差の特徴

総合評価:

現代日本は、一億総中流社会から二極化」が進む社会へと変化しました。特に非正規雇用層や低所得層が増加しており、所得格差が大きな社会問題となっています

• 主な要因:

グローバル化競争の激化

高齢化社会の進展

労働市場の変化(非正規雇用の増加)

地域格差

改善の取り組み:

現在政府は、最低賃金の引き上げや所得再分配の強化を進めていますが、十分とは言えず、社会保障制度の充実や教育機会の平等化などが引き続き課題となっています

 

まとめ

日本の貧富の格差は、歴史的社会体制経済構造の変化に応じて拡大・縮小を繰り返してきました。現代では、バブル崩壊以降の経済構造の変化によって、格差が再び拡大していると言えます。一方で、格差是正に向けた政策の進展や国民意識の変化が重要なカギとなります

Permalink |記事への反応(0) | 10:11

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-11-19

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/smart-flash.jp/showbiz/317184/1/1/

室町時代から穢れ、がなくてさびしい。


ミダス王が、そもそも芸能とは婦女暴行で捕まって刑務所に入れられたくらいでは痛くも痒くもない(乞食も同然だからテレビ局にも広告代理店にも気をつかう必要がなく好き放題に欲望解放できる)被差別民のやることだとよくわかる

Permalink |記事への反応(0) | 21:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-11-07

anond:20241107225512

一休さんって現代にいたら増田でしょーもない逆張り釣りネタ書いたりしてそうだよな

よかった、室町時代に生まれてくれて

Permalink |記事への反応(0) | 23:14

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-18

anond:20240718132010

(1) 室町時代

  商品行商人が売り歩く。たまに市がたつ

(2) 江戸時代

  固定店舗商店ができる。商品の代金は掛け売り。年に何回かまとめて払う。信用がないやつにはうらない。

(3) 昭和

  全国津々浦々に商店街に小さい商店ができる。問屋が発達。

(4) 昭和後期から平成

  流通革命。大規模小売業者が勃興し、問屋商社が滅びる。

(5) 令和

  IT革命小売業者が滅びて直接自宅に届くようになる。

Permalink |記事への反応(1) | 13:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-09

意図せぬマジレスになるが

anond:20240708145343

金で解決できるタイプ文化的な楽しみを見つけなよ

わいの実家京都から江戸からも最果ての天領にあるので、室町時代までさかのぼってど田舎と胸をはって主張できる。当然、スタバもねぇ、おしろいも売られてねぇ、映画館名古屋までいかねぇとねぇ、昭和30年代はかろうじて向かい映画館だったらしい。そんなところで文化的って何?と思うでしょ。ところがどっこい、実は門前小僧習わぬ経をなんとやらで、謡曲をうなれたりするんだよね。当方現在関東民だが、周囲にそんな知人はいません。記憶を辿るに、近隣の衆が江戸もしくは京から観世流講師を定期的に招き、寄り合いながら稽古に励む姿を見ていたんだよね。半年に一度くらい、それなりの規模の発表会が開催され、祝いの席では年長者が高砂をうなれる文化的素養があるわけ。いまにして思えば、暗い山あいの村落に、文化匂いを渇望する民がいて、都の香りを数百年届ける師匠筋がそれなりの厚みで文化基盤として維持されていたんだよね。世阿弥すごいよマジで。まぁ、そういう金で解決もあるんだよという話。ちなみに観世流講師ネットワークって現存してるからな。

Permalink |記事への反応(1) | 04:35

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-06-01

実際、戦国時代のお城の内装ってどんな感じだったんだろう?

こないだのゲーム炎上で「戦国時代で畳を敷くのはおかしい」「畳が正方形なのはおかしい」「殿様と同じ段に部下が座っているのはおかしい」みたいな話が出ていて、そもそも城の内装ってあんまり知らないなと思った。

畳の形が現在のような長方形になったのはいからなんだろう?

ググると「とっさに盾にしやすいように人の身長の大きさに信長が決めた」という話が出てくるが信憑性わからんし、そもそも「それ以前は正方形だった」という話でもなかろう。

最古の畳は聖武天皇のもので、この時点で縦長ではあったらしいが、その当時は床に畳を敷き詰めるような習慣がなかった。

畳を敷き詰めるようになったのは室町時代以降に書院造が広まってから

城の広間だとかが畳敷きになったのはいからなんだろう?

正方形の畳は「半畳畳」といって、畳を卍に敷き詰めたときの真ん中に使ったりする。

半畳畳だけを敷き詰めるようなことは無かったんだろうか?

とりあえず調べやすいのは江戸城大広間絵画かな。

というかたぶんゲームもこれを参考にしてる雰囲気はある。

この絵だけだと畳の縁飾りが横方向しかなくて境界線がわからいか長方形なのか正方形なのかわからない。

あと、江戸城の広間は畳敷きだったみたいだけど、信長の頃は板敷きだったということなのか?

この絵では将軍らしき人と同じ段の背後に側近みたいな人が座ってるので、「殿様と同じ段に座っちゃダメ」説は少なくとも否定できるのかな…?

Permalink |記事への反応(0) | 13:19

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-05-21

anond:20240521170751

https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/05/page5_24.html

この「割」は,鎌倉時代から室町時代にかけての金利単位として用いられました。当時の文書には「和利」という文字表現されています。その後も利子計算必要性が増大し,「割」だけではすまされないほど複雑になってきました。

一方,江戸時代のはじめに,中国から小数の考えが導入されました。小数では,1の1/10を1分,1分の1/10を1厘,1厘の1/10を1毛……のようによんでいます

その影響で利子計算にも小数が取り入れられ,1割を基準として,1割の1/10を1分,1分の1/10を1厘,1厘の1/10を1毛……と名づけられました。

Permalink |記事への反応(1) | 17:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

「割」っていつから使うようになったんだろう。

あれね。打率とかの割合単位のことね。

ちょっと調べたら、これは「歩合」の単位とされていて、その方面で調べれば過去使用例がわかるらしい。小学生教育方面だと「最初借金の利率で使われた」って説明があったけど、その初出までは書かれてなかった。まあ小学生がそこまで興味持たないだろうからしょうがいか

正直、興味を持ったのは「分」との歴史的前後関係なのだ勘違いしがちだが、「1割1分」の時の「1分」は1%で0.01だが、「五分五分」のときの「五分」は50%でこれはつまり0.5,つまりこの場合の1分は0.1になる。数字の扱いが違うだろうと思ったかもしれないが、「割」はもともと十分率の単位で、十分率を単位とすればその1分は0.1で正しいのだ(このへんはWikipediaにも書いてある)。これを無理やり百分率で例えると、1.1%を「1%1分」と書くようなものだ(実際には今はこういう書き方はしない、例示として書いた)。

とはいえ借金の利率なら最初から「分」で表してもそれほど困るような気がしない。実際前述にもあるようにことわざでは「割」使う場面少ないしね。「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足したのか、まえは「分」で示していたのが何らかの都合(借金特別扱いしたいとか)で「割」を使うようになってそっちが当たり前になったのか、たぶんどっちかなのだ

税率を割合で示すようなことは租庸調の時代からやってたみたいだから、たぶん文献は豊富にあるはずなんだが、こんな簡単なことがネット検索でわからない。調べるキーワードが足りないだけかもしれないけれど。

 


(追記: ついでにまとめ)

みなさん反応ありがとうございます結果的人力検索になってしまいましたが、もともとこれはそれを目的として投稿したものじゃなくて、自分が「ここまで調べた」のまとめとして書いたものでした。いずれ調べが捗って本当に感謝しています

とりあえず、

ようで、「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足した、の予想がそこそこ近かったようだ。

 

調べているうちに出てきた新たな疑問としては、

あたり。このへんは今回の疑問から少し外れるので、まあそのうち。

 


ひとつ追記

リファレンス使えば」。これね、時々思う。実際使ったこともある。とある地名表記ブレを、行政機関があまり一般的じゃない方統一した、って時に、それが単なる自治体PR(統一したほうにはそのPR要素があった)なのか、それともまあそうするだけの根拠があったのか、疑問に思って、「その地名の2つの表記古文書での使用頻度」を調べてもらった。ちなみに結果としては30件くらい見つけてもらって、見事に半々っぽい結果だったのでまあ納得することになった。

今回は今回で調べてもらってもいいのだけど、前に頼んだ図書館にはおそらくこれ関連の古文書少ないのよ。そうすると一般書籍記述のあるもの探してもらうことになる。それだったらネットで同じような疑問を持ってそれ調べた人の成果を探したほうが早いの。リファレンス使うとその図書館調査には2,3週間かかることもあるのね。だったら自分で調べてたどり着けなくなってから頼んだほうがいいと思った。そうね、「分」の1/4 1/10 1/60問題についてはそのうち聞くかもしれない。

Permalink |記事への反応(9) | 17:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-04-21

anond:20240421194600

歴史物で文字数少ないと普通に一般教養要求されるからそれはそれで見ても分からんくない?

まあワイは室町時代全く分からんまま新九郎読んだり古代分からんままヒストリエ読んだりしとるけど

Permalink |記事への反応(0) | 20:34

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-03-13

anond:20240313140605

平安時代イメージするのに活用した。

室町時代イメージするのに活用した。

江戸時代イメージするのに活用した。

Permalink |記事への反応(1) | 14:09

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp