
はてなキーワード:定食とは
「高い」外食だけではないよ。
例えば、安さを売りにしている外食屋さんはたくさんある。すぐ思いつくのはサイゼリヤなんかそうだろう。
こないだニュース番組で見たけれど、早朝午前3時から一人で仕込みをやるなど切り詰めまくって低価格で定食を提供している店があった。
そういうところまで、食料品の消費税ゼロ政策はダメージを与えてしまう。
コロナ禍の時は補助金だっけ?で少しは守られたけど、たとえ自民党が言っている2年間限定でも、それと同じくらいのことをしないと外食屋さんは潰れまくることは必至。
外食屋はある意味一般庶民よりもさらに物価高の影響をもろに受けている業界で、元々脆弱だからね。
まじでかなりやばいよ。
引出しの2番目からおかきを取り出してボリボリ食っているオッサンの禿げた後頭部を、僕は置いてあったレーザープリンターで思い切り殴った。
ゴド!ガッ!という音とともにオッサンは事務デスクに突っ伏し、その見事だったアルシンドはすぐさまマグマと化した。加齢臭と血の臭いを消すため、僕はそこらじゅうに薄力粉をばらまいた。子どもの頃、近所のクソガキが消火器をぶっ放した時の光景を思い出した。
僕はオッサンのデスクからキーボードをひったくり、全てのキーキャップを出来るだけ早く、とはいえ時間をかけて外した。
なんとかして OKAKI YAMERO とメッセージしたかったのだが、アルファベットが重複しておりうまいこと犯行声明を表すことをあきらめた。
ひとまず右手に握りしめた十数個のキーキャップを、レッドアルシンドに一度に投げつけると、僕は職場を後にした。びちゃ、という音がして、キーの白い刻印が赤く染まるのを少しだけ横目で見ながら。
僕はそういうと、吉野家へ入り角煮定食を3人前注文すると、後から入ってきた学生とおぼしき客2人に振る舞い、自分の分は完食して、近くのヨドバシカメラへ向かった。
新しいレーザープリンター、なににしよっかな。
食べることが、三度の飯より好きだ。いや、好きだった、が正しいのかもしれない。
好き嫌いはない。
苦手な人が多いとされている苦みのある野菜や、癖の強い香草も、生で食べたってかまわないくらい好きだ。
以前ラジオで声優の木村昴さんが、「食べ物をあまり不味いと感じない」と言っていたが、非常に共感した。味や風味がすること、食感が楽しめることを“美味しい”と表現してしまうくらいには割となんでも楽しめる。
もちろん質の差や美味しい度合いの差は感じるものの、とりあえず“食べること”それ自体が好きなので食事というだけでおおむね満足なのである。
美味しい店を探すことは趣味だし、幹事も進んでやる。周りから「あなたが薦めてくれる店は美味しい」と喜んでもらえることがうれしい。飲食という行為も飲食を通じた交流の場も大好きだ。
にもかかわらず、三十代になってから徐々に食べられるものに変化が現れた。
カルビがキツイ、なんてベタなところは早々に通り越している。魚ならいけるかといわれれば、大トロももう若干重たい。鮭ハラス定食なんて間違えて頼んだ日には、口内も食道も胃もすべて脂でコーティングされ、脂で溺れているような感覚になる。
そしてその感覚はすぐに気持ち悪さに直結し、食道から今しがた食べたものがせりあがってくるのだ。逆流性食道炎と思しき症状とは、もう三年ほどの付き合いだった。
和定食は体に良いといわれるが、決定的な欠陥がある。そう、塩分だ。
一日に処理できる塩分量は加齢とともに減る、という事実があるのかは知らないが、少なくともわたしは明らかに塩分に弱くなった。
塩分を多く摂った翌日は(さすがに和食程度ではそう酷くはならないが、中華を食べたら終わりである)、浮腫み過ぎて、デイリーで使っている指輪が入らないし、無理矢理はめてもくっきりと跡が残る。瞼が重たいのは当然として、首から上の血管が詰まっているような感じがし、頭痛や首の凝りもひどく頭が回らない。
脂も塩分もダメなら、野菜を食べればいいじゃないと人は言うだろう。
だけど、生野菜は寒い。寒いというのは、お前おもんないわという意味ではない。食べると体が冷えて寒さを感じるのである。生野菜のシャキシャキした食感やフレッシュさは口内をすっきりさせてくれるものの、食べながら体の芯が冷えていく感覚がある。知覚過敏なのか歯にも違和感を覚える。
野菜に限らず、冷奴とかも。名前に「冷」とついているから自明なのだろうが、割と好きだったはずなのに、冷たさがノイズになり昔ほどは美味しいと感じなくなった。
食べられる量や飲酒量も減った。
わたしは以前より飲み仲間たちから「当たりの日と外れの日の差が激しい」と揶揄されることがあった。つまりは、楽しく沢山飲食できる日と、少量しか受け付けない日だ。三十代に入ったばかりの頃は、この割合が7:3~6:4くらいだった。
しかし今となっては5:5……もしかしたら4:6かもしれない。外れの日が上回っている。
大学時代は大食いで、家系ラーメン+ライスを2杯食べておなかいっぱいになることが幸せだった。新卒の初任給で友人たちと叙々苑に行って豪遊しよう!というはしゃいだ企画もした。すべて遠い思い出である。
飲み会における50~60代くらいの男性あるあるに、「自分はもうお酒だけでお腹いっぱいになるから、食べ物は若い人で決めて好きに食べてよ」と言い出すというものがあると思う。
以前は信じられなかった。
歳を取っているとはいっても自分より体の大きい男性である。全然食べられないなんてことないだろうし、若者に遠慮しているのだろうと思っていた。
でも、今なら、あるのかもしれない……と思う。
というか、わたしもすでに、お酒を4~5杯飲んでいるのにまだ前菜をつついている、みたいな外れの日が増えてきている。
男性でも50~60代でその状態になる人が一定数いると考えたら、いまこのていたらくな私の20年後はどうなっているのだろう。外食してもソフトドリンクだけを飲んでいる人になっているかもしれない。寂しすぎる。元気に食べたり飲んだりできることは、とても楽しいのに。
これだけいろいろと食べづらいものが出てくる三十代、みんな何食べてるの??
なんとなく、自炊をする人はやがて蒸籠に行きつくイメージがあるけれど、これはもしかして年齢を重ねると蒸籠飯が体に合うようになってくるからだろうか。
だけどさ、ほんとはもっといろいろ、なんでも美味しく楽しく食べたいんだよ。好きな食べ物は食べ物なんだよ。どうしたらいいんだよ。
駅に向かって早歩きしても間に合わないのは分かっていたけど、もう何かを判断するのが面倒でとりあえず駅に向かった。
改札の前で電光掲示板を見上げる。
知ってた。
タクシーで帰るほどの金銭的余裕はない。漫画喫茶に泊まるか、始発まで時間を潰すか。どちらにしても明日も仕事だ。
体が重い。肩が凝り固まっていて、首を回すとゴリゴリ音がする。
正直、何も食べたくなかった。
胃が縮んでいる感覚。空腹なのかどうかも分からない。最後にまともなものを口にしたのはいつだったか。昼はカロリーメイト。朝は食べてない。その前は覚えてない。
そんなことを考えながら駅前の通りをふらふら歩いていると、雑居ビルの隙間から煙が漂ってきた。
ニンニク。
鼻腔の奥をガツンと殴ってくるような、暴力的な香り。食欲がないはずなのに、足が勝手にそっちへ向かっていた。
狭い店だった。カウンターだけ。中年の店主がひとりで切り盛りしている。壁のメニューは手書きで、半分読めない。とりあえず「スタミナ定食」と書いてあるものを指差した。
待っている間、厨房から聞こえてくる音だけがやけに鮮明だった。油が跳ねる音。何かを炒める音。そしてまた、あの匂い。
出てきたのは、豚バラとキャベツをニンニクと一緒に炒めただけのシンプルなやつ。茶色い。見た目に華やかさは一切ない。でも湯気の向こうに、刻んだニンニクの欠片がゴロゴロ見えた。
一口食べた。舌が痺れた。ニンニクの辛味が口の中に広がって、その後から旨味が追いかけてくる。噛むたびに豚の脂がじゅわっと出てきて、それがまたニンニクと混ざる。
うまい…。
その三文字が、枯れた脳みそから絞り出された。何週間ぶりだろう、食べ物に対してそう思ったのは。気づいたら白米をかき込んでいた。
口の中がニンニクでいっぱいになる。もうどうでもよかった。明日会う人の目とか、口臭とか。
疲れすぎると味覚が死ぬ。経験上、分かっていた。何を食べても砂を噛んでいるような感覚。美味しいものを食べても「美味しいはずだ」と頭で理解するだけで、心が動かない。
でもニンニクは違う。
あれは味覚が死んでいても、無理やりこじ開けてくる。繊細さの欠片もない。上品さもない。ただひたすらに強い。鈍った舌を叩き起こして「お前まだ生きてるぞ」と言ってくる。
世の中には「体に優しい料理」というものがある。出汁が効いた薄味の和食。消化にいいお粥。それはそれで必要なんだろう。でも本当に削られているときに必要なのは、優しさじゃない気がする。
殴られたいのだ。味覚を。
「もうダメかも」と思っているときに、そっと寄り添われても困る。それより「まだいけるだろ」とガツンとやられたほうが、なぜか立ち上がれる。ニンニクはそういう食材だと思う。
定食を食べ終えて、店を出た。外の空気が少し冷たい。口の中はまだニンニクの余韻が残っていて、たぶん半径2メートルくらいは匂いを撒き散らしながら歩いていたと思う。
終電を逃したことも、明日も仕事なことも、何も変わっていない。状況は1ミリも好転していない。なのに「まあなんとかなるか」と思えている自分がいる。
でも腹が満たされて、舌が「うまい」と感じて、体が少し温まる。それだけで人間は意外となんとかなる。高尚な趣味も、誰かの励ましも、その瞬間には必要なかった。
チューブじゃない。ちゃんと一欠片ずつバラして冷凍したやつ。疲れて何もしたくない夜でも、これさえあればなんとかなる。適当な肉と一緒に炒めれば、それだけで「今日も生き延びた」という気持ちになれる。
ニンニクは臭いと言われる。翌日人に会う予定があるなら控えろと言われる。まあ、全部その通りだと思う。
でもなぁ。
あの夜、体も心も擦り切れていたときに救ってくれたのは、誰かの優しい言葉でも、上品な料理でもなくて、雑居ビルの隙間から漂ってきた、あの暴力的な匂いだったんだよ。
40年前のメニューとして、その時に30代の客層ターゲットだったとして75年前つまり戦後の物資不足のころである
チキンはもちろん食える時代ではないが、醤油と砂糖で大根を甘辛く炒めるなどはあっただろうな。
【結論】
醤油+砂糖そのものを指す用語ではなく、大戸屋の創業理念である
「かあさんの手作り料理=家庭の味・安心感」ブランド表現の一部と見るのが妥当。
味付けとしては、醤油ベース+甘み(砂糖・みりん系)+だし+大根おろしなので、
「甘辛い醤油味の家庭料理」という方向性を当てている点はかなり近い。
一方で、
「戦後の物資不足期の記憶(75年前)の象徴として、醤油と砂糖の味を“かあさん煮”と名付けた」
というところまでのストーリーは、公式情報では裏付けがなく、かなり創作寄りの推測。
総評:
語源・歴史背景のロジックは“エビデンス不足の推理”という位置づけ。
より正確に言うと:
要素 内容
技法 煮る・絡める・照りを出す
「チキンかあさん煮定食」自体の位置づけと歴史
「創業当時からの定番メニュー」「創業時からのメニュー」といった記述がされており
大戸屋の中でもかなり古くからある看板メニューとして扱われている
コンセプト:当時は日本人の4人に1人が栄養不足と言われた時代に、
という流れが公式に語られている
したがって、
実際の創業(1958)から考えても “数十年クラスの古い定番”としては大きく外れていない
ただし
“いつ・どの店舗で「チキンかあさん煮」が初登場したか”という
正確な年は、公式には明示されていないため、
「かあさん煮」「母さん煮」を、
生姜煮、甘辛煮、照り煮、そぼろ煮 など