
はてなキーワード:定時制とは
狭い世界で生きてきた私ですが、視野を少し広げてみると周りは頭のいい人たちばかりで身震いが止まりません。
自己肯定感が無いというのは一旦置いておいて、私はバカアホマヌケです。それは私の経歴を見ると一目瞭然です。
簡潔に述べます。
まず私は小学校4年生くらいから授業を聞かなくなりました。数学や理科などの知能はここで止まっています。
中学校は親に無理やり連行され全日登校するも、毎日6時間を机に突っ伏して寝、時間を無駄にしました。
適当にバイトをしてみるも半年でクビになりその後も点々とし続けました。
破天荒だった私は当時仲の良かった大人に上京したいと相談し何とか家を貸してもらうことに成功。スムーズに上京の夢が叶いましたが、その先でやりたい事を考えていなかったので知らない土地でやることも無しに毎日を過ごし、徐々に精神を病んで行きました。
苦しかった私は一人暮らしを辞め他人の家に住み込もうとしたのです。当時Twitterで繋がりのあった数人に、泊まらせて欲しいとお願いをして、その中で1番長く泊まらせてくれる人の家に向かうことにしました。猶予は半年間とのことでした。
そこから最初に言っていた半年間の猶予を超え、現在3年目、のらりくらりと居候させていただいている身ですが、私はこの家に来て、この人と居て、だいぶ価値観や物の見方が変わりました。
彼は私の世界を広げてくれました。
そして今、広がった世界から見る過去の私がどうしようもない馬鹿で、今も馬鹿で、苦しいです。
私はこの家に来るまで外見に過剰に気を遣っていました。ルッキズムが蔓延する資本主義社会に呑み込まれていたのです。
この家に来てからはほとんど引き篭っているので私の外見を咎める目が無くなり、気にならなくなりました。
逆に内面を気にするようになりました。
学生時代、皆が毎日6時間座って勉強している間私は寝ていたのでその分ごっそり学力が抜けています。
頭のいい人が横にいて苦しい。私も頭のいい人になりたい。
この家に来て文章を読むようになりました。文を読むにつれて、頭のいい人の書く文章に憧れるようになりました。博識な人にも憧れます。
そうやって世界が広まった結果、自分の不出来に気付き、怖くなっているのです。
殴り書きなので読み辛かったらすみません
働いたら負け理論やダンピング防止理論を感受性の豊かな時期に浴びて「俺もストライキに参加するぞ!」とニートになったのが20年前。
でもある日「プロレタリアの中途半端なストライキなぞ無意味だ。世界を変えたいなら自分がルールを作る側になるべき」と考え「官僚」になった。
Q.貴方は会社の人事です。転職エージェント経由で「長いニート歴のある高卒(しかも定時制だ!)。職歴は公務員のみ。趣味はネットとゲームのみ。特技もなく、前職の経験は役所の事務員」という非常に虚無い応募者が来ました。採用しますか?
ほぼ平成生まれなのにJTCの果ての果てみたいなお役所で働き続けること、それが俺に残された人生だった。
悲しい。
もしも思春期の俺がネットにかぶれず「いやーゆーて一過性のものでしょ?つうか散々個人的生存戦略を走ってきた世代の語る「今度こそ一緒に堕ちようね」とか信じるだけアホでしょ?」と考えられていれば。
俺はそこそこ頭がいい。
御三家よ旧帝は無理でも早慶マーチぐらいは狙えた地頭があるはずだ。
それを完全に無駄にした。
反ワクや嫌韓で人生を棒に振った奴らこそが俺の兄弟なわけだな。
あー辛い。
死ぬまでロクに残業代も出ないしスキルも身につかない仕事をするんだろうな。
メールソフトの使い方も知らない現場上がりの爺さんにEXCELを教えて、見返りに砂消しの上手い使い方を教わる。
これが俺の人生なんだな。
完全テレワークでクリエイティブな仕事を令和の倫理観ですすめる人生にはもう戻れないんだ。
後悔しかねえよ。
俺はさ、氷河期共に騙されたんだよな結局。
アイツラ吠えるだけ吠えておいて自分らはヘコヘコするだけじゃねーか。
レジェンドアサシンYの登場で目が冷めたよ。
本気の奴が一人でもいたら起きてた未来が起きないままの20年だったんだって。
お前らは結局本気で世界を変える気はなくて、ストライキさえも他人にやれというだけで自分はコソコソ告げ口するだけの太鼓持ちしてたんだ。
完全に理解したよ。
騙された。
本当に悔しい。
↓1968年生れの56歳だけど、たしかに子どものころはこうだったわ。
雨に濡れると頭が禿げるって姉に教えられた記憶がかすかにあったけど、あれは核実験があったからだったのか。今知った。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6094985.html
【悲報】昭和(高度成長期1954~1973) の日本、ヤバ過ぎるwww
・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる
・発がん物質DDTを頭からぶっかけ。今は使えない危険な農薬も使いまくり
・中共の気違いがぼかすか原爆の空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた
・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた
・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ
・高校進学者はほぼ夜間の定時制で昼間の重労働でばたばた過労で倒れた
・東京との賃金格差が広がり地方の過疎化と高齢化が始まり三ちゃん問題が発生
・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗
・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた
・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが殺し合いのけんかをしていた
・おとなは戦争で人を殺した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも殺し合いのようだった
・下水がないので、バキュームカーという糞尿収集車が定期的に来る
・空き地が多く、危険な薬品や資材などが雨ざらしなってて子供がそこで面白がって遊んでた
・野犬がうろうろしていて襲い掛かってくる
Permalink |記事への反応(16) | 17:28
一人暮らしを始めた。今年24になる。一人暮らしを始めるには遅い方だと思う。
家から片道1時間半近くかかる部署に異動になって一人暮らしを決めてから、こうして暮らし始めるまで、気づけば半年近く経っていた。
今年の初めに母親が家を出て行った。父が年末年始実家に帰っている隙にと、前々から契約していた部屋にごっそり荷物を持って、父に知らせずに出て行った。
最後の日、いよいよ自由になる母の乗ったタクシーが、新しい部屋に向かって走っていくのを1月2日の私はずっと見ていた。もう母と一緒に暮らすことはないんだなあと、そう思った。そして少し泣いた。
モラハラ気質の父と、そんな父のことが大嫌いな兄と、控えめな母。金銭的に不自由することはなくても、昔から仲は良くなかった。兄が母親側につくことが多いから、自然と私は父親側につくことが多かった。思えば父が運転する時は決まって私が助手席で、母が運転する時は兄が助手席だった。たまに外食する時の席も同じ。子どもと妻を置いてすいすい歩く父を懸命に追いかけるのも私だけだった。
家から自転車で通える距離にも関わらず、兄は高校進学と同時に寮に入った。そうしたら、私が一人でバランスを取らなければならなくなった。母の更年期と兄の思春期と私の反抗期でだいぶ前から荒れに荒れていた家をどうにか保たなければと、私なりに頑張ったつもりでいた。
自傷行為がやめられなくなった。中学はどうにか卒業した。不登校になった。高校を辞めた。そのあと定時制に入り直した。無事に進学して、普通に就職した。
母親も父親も大好きだ。あらゆることに対して感謝してもしきれない。でも、かけられた言葉や取られた態度の中に「絶対に死んでも許さない」というものがいくつかある。
仕方ないことだとはわかってる。親も人間だ。こと母親においては、彼女の母親、つまり私から見ての祖母によるネグレクトに近い環境で育ったことや、長いこと父親のモラハラに耐えてきた鬱憤が溜まっていたんだと。そうだとわかる。でも、中学から高校にかけての数年間、わりと長い間八つ当たりされたことも父親の悪口をずっと聞かされたことも父に似ているとあらゆる仕草を詰られたことも私に嫌味を言ってきつくあたることで父親に自分の望む振る舞いをさせようとしていたことも、どうしようもなく許せないままでいる。父親になんでもないことのように「なんの努力もしてないくせに」と言われたことも、たぶん一生許せない。
でも一番許せないのはたぶん自分自身だ。なんの努力もしてないのは事実だし、何より生きづらさを環境のせいにするくせに、10代の私は母親と父親の関係に対して何もしようとしなかった。父に母への態度を改めるように言わなかった。二人にもっと話し合うように薦めなかった。夕食中に口論が始まれば、箸を置いて自室に逃げた。兄のお下がりのiPodで二人の怒鳴り声をかき消すようにアジカンを聞いて、ただ震えながら泣いていた。
母とは1ヶ月に一度は会っている。新居の近くには美味しいベトナム料理屋があって、二人でフォーを食べて、母の部屋で少し話して、煙草を吸って帰る。私が部屋に来るたびに母はおやつを用意してくれて、私が泊まりにきた時に困るだろうからとドライヤーまで買ってくれた。この前泊まった時は作り置きのおかずを持たせてくれた。
たまに実家にも帰る。置いてきた荷物を取りに帰るたびに、父は車で送ってくれる。足りないものはないかと聞いて、あればホーマックに寄って車に乗っけてくれる。ちゃんと自炊してるか、野菜を食べろと言ってくれる。父親も母親も大好きだ。嘘じゃない。
HIRAETHという言葉があるらしい。『翻訳できない世界のことば』という本で知った。ウェールズ語で「もう永遠に戻れない場所への郷愁」とう意味だ。それが私にとっての実家だ。母親と父親が居間にいる時なんか、些細なことで空気が悪くなって口論が始まるから居心地が悪くてたまらなかったのに。
あれが紛れもなく私にとっての実家だったんだと思う。それはもう永遠にない。どこにもない。それが潔くて、ちょっとだけ寂しい。
文部科学省の統計によると、私の地元の大学進学率は近隣市の1/4〜1/2程度で10%台半ば。県下でも最低水準とのことで、それをもって子育てに向かないやら教育行政に問題があるやらと語る人がいる。
しかしながら、私の地元や近隣市は、人口面でも面積面でも小規模〜中規模程度だ。市境を一つや二つまたいだ程度でそこまで学力に差がつくわけがない。肌感覚的な面でも、中学の同級生で大学に進んだのが5人に1人未満とは思いづらい。
ということでSNS等で貼られていた画像をもとに、ソースと思われる文部科学省の学校基本調査「卒業後の状況調査票(高等学校 全日制・定時制)市町村別状況別卒業者数」(以下「件の統計」)を確認した。数字は件の画像と一致しており、確かに私の地元の大学進学率は低い数字であった。
ところが、よく見ると分母に当たる高校卒業者の数が、市内の中学3年生の人数の1/3程度しかない。年によって学年の人数に違いはあるが、丙午でもない限り1/3にまで減ることはまずないだろう。また、大体の人は高校に進学する上、中退がいても数が知れている。
そこでさらに調査方法を確認したところ、各学校が回答し、それを学校所在地の市町村が取りまとめる方式と判明した。
ところで私の地元は人口面でも面積面でも小規模で、高校は1校、名前を書けば受かると言われているようなものしかない。その高校の生徒数、進路実績を見たところ、件の統計と数字が一致した。
つまり、各市町村の括りで出る数字は、正確には各市町村に立地する学校の数字の集合体であるようだ。件の統計において、高校が立地していない市町村に全く数字が記載されていないことも傍証となろう。
かくして私の地元は名前を書けば受かる高校の進路状況をもって、大学進学率が低く教育水準が低いと世の人に判断される状況になっているわけだ。
なお、先述の事情から、私の地元の中学生は大学進学意思がある人はもちろん、そうでない人も大体市外の高校に進学する。
小中学生であれば、私立等を除き基本的に居住する市町村の学校に通うため、市町村単位での集計はそれなりに参考になるかもしれない。
しかし、高校生にもなると通学範囲はぐんと広がり、通う市町村と住む市町村が一致しないことも増える。この状況下で、立地する高校の数字をもって市町村の数字かのように公表するのはいささか問題があるのではなかろうか。政令市や中核市、施行時特例市くらいの規模ならいざしらず、相互に人が行き来する中小規模の市町村においてその影響は大きい。
世間一般では学力水準は居住地選択において重要なファクターのようで、住宅関係や生活ガイド的なメディアでも指標として用いられているようだ。
だが、先述のとおり、こと高卒生の進路に関してはその公表の仕方に疑義がある。文科省も件の統計が世間でどう使用されているかを考慮の上、表現に気を遣って欲しいものだ。
それはそうと、大学進学率を気にする教育熱心であろう層が、件の統計について違和感を持たず鵜呑みにしてしまうことを考えると、何か皮肉めいたものは感じる。
多分、授業か何かで書いたんだと思うハガキが家に届いていた。
「成人した私へ
成人おめでとう。
15の私は、まあまあ元気です。
今の猫は2歳です。
7歳くらいになるんだっけ?まだまだ元気だと思うけど、もし地元から離れてるんだったら、そばにはいないんだね。
私のことだから、多分色々悩んでるだろうけど、生きていたら、なんとかなるので、生きて、本読んで、写真撮って、好きなことを好きって言えるのなら、それでよいです。それが全部です。
15の私からしたら、それが全部です。
15の私より」
中3の半ばくらいまで、ほぼ記憶が(多分ストレスか何かで)吹っ飛んでいるので、自分のことなのに又聞きのような状態になっている。
だから、このハガキが来たときに「その時生きてたんだ。」と思った。
過去に自分がいた証拠が、家の外からもたらされたことが、なんだか新鮮だった。
し、嬉しかった。
手紙やメールなどを、意思疎通のためのものという認識しかしていなかったけれど、「自分がそこにいた記録」として手元に来ると、感慨深いものがあった。