
はてなキーワード:学力低下とは
「きょうだい」が多いと学力は低下する? 学生1900人以上を対象に調査 北大が研究発表
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2510/10/news044.html
分析は、2010~2016年にかけて実施された全国調査のデータを用い、小学1年生から中学3年生までの1971人(1203世帯)の子どもを対象としている。マルチレベル分析という手法により、家族間の違いを統制しながら、同一家族内のきょうだい同士を比較することが可能となった。
分析の結果、きょうだい数については負の影響を確認。算数・数学では一人っ子と2人きょうだいの間に学力差は認められなかったが、国語では2人きょうだいの時点から学力低下が表れていた。3人きょうだいになると両教科で学力低下が見られ、4人以上では更にその傾向が強まった。
少子化対策として、未婚率を下げるよりも既に産んでいる人に2人3人と産ませるべきだという声が大きいが
それをやっていくと優秀な子供の数は減るのでは?
ってのはよく見る議論
個人的には、ほとんど無駄なことはないんじゃないかなと感じている
実際に職務に役に立たなくても一般教養やコミュニケーションの基礎としての存在価値はあると思うんだよね
じゃあ宿題ってどうなの?
宿題で得た知識そのものは勉強と同じく、基礎としての価値は持っていると思うよ
現代の働き方では持ち帰り仕事は禁止で、仕事とプライベートは分けようってことになってるよね
宿題の構図と全く逆なんだよね
古い慣習に思えるから、宿題枠を別に確保するか廃止して学力低下を許容するかしかないんじゃないかなあ
宿題の持つもう一つの側面として、やるべきことの自主管理力を鍛えるってのはあると思う
ただ、これも別に宿題である必要がなく、社会・生活・倫理などの既存の科目で十分対応できる項目なんじゃないかなと思うんだよね
以下の記事を読んだ某大学教授と会話して頭が痛くなったので愚痴を吐き出す。
デジタル導入の「教育先進国」で成績低下や心身の不調が顕在化…フィンランド、紙の教科書復活「歓迎」
https://news.yahoo.co.jp/articles/012105af5a04e7d139807a8bb5983da00a8488da
正直、「またか」という印象しかないんだけど、読売新聞は継続的に教育のデジタル化に対して非常にネガティブなバイアスのかかった記事を書いている。
フィンランドの学力低下はいろんなところで語られているが、原因は当たり前だがデジタル導入ではなく、行き過ぎた自主性の尊重により学習意欲が低い層(これには家庭の経済的な影響が大きい)の成績が大幅に低下していることによるものとの見方が有力だ。
デジタルを活用する環境や運用方法に見直す余地があるというだけのことだ。
そもそも、デジタル導入して成績が大きく上がったり下がったりするわけがない。
これは、デジタルネイティブ世代ならふつうに理解できるのだが、厄介なのは中高年だ。
強い拒否反応を示す。
自分たちはデジタルなんかなくても立派な大人になったと自負している。
そんな彼らがこういう報道に触れると、我が意を得たりと鬼の首を取ったかのように「やはりデジタルは教育には不要」と言い出す。
そのへんのおっさんが言うぶんにはまあ構わないが、教育関係者、特に教育系の大学教授にもこういう化石みたいな爺がたくさんいるので厄介だ。
そして、彼らの読売新聞購読率は高く、こういう記事は決して見逃してくれない。
彼らの中では「デジタルを使うと成績が下がる」というエビデンスが示されたことになってしまう。
ほんとうにやめてほしい。
さっき「デジタル導入して成績が大きく上がったり下がったりするわけがない」と書いておいてどういうことだと思われるかもしれない。
そもそも、デジタルネイティブの中には「デジタルで成績は上下しない」ということに対して違和感がある人もいるだろう。
そういう人は、おそらくデジタルを活用して効率よく勉強する術を身に付けた人だと思う。
アナログでは到底不可能な効率で物事を処理できるからデジタルはすごいのだ。
たくさんの辞書や参考書を持ち歩かないでも、タブレット1台で事足りる。
それも何度でも繰り返して。
学習の進捗管理もできるし、わからないところをすぐ調べたり質問したりできる。
他にも優秀な若者は、思いもよらない活用の仕方で効率的に勉強をしている。
彼らは、デジタルを活用することで成績を向上させているし、学校の勉強に留まらない広範な知識を獲得している。
勉強の効率を上げることで、他のことに取り組む時間も手に入れている。
一方で、YouTubeでくだらない動画を見続けたり、しょうもないソシャゲで時間とお金を溶かしたり、ダラダラ増田を眺めて一日が終わったり、使い方を間違えるとどこまでも効率を悪くすることができるのもデジタルの特徴だ。
要するに、使い方次第ですごい武器にもなるし、最悪の足手まといにもなる。
それがデジタルだ。
そして、いまの子どもたちはデジタルのない世界を生きていくことはできない。
仮にデジタルを遠ざけたらどうなるか。
考えてみてほしい。
ペーパーテストでは100点をとれるけどデジタルが苦手で使えない人材と、テストは80点だけどデジタルを有効に活用できる人材。
どちらが実際の仕事で役に立つだろうか。
そもそも、現代においてデジタルを完全に遠ざけることなど不可能だ。
では、適切な使い方も覚えないままスマホを持つとどうなるか?
相当な自主性と地頭の良さがなければ、ダラダラ足を引っ張られる使い方しかできないだろう。
だからこそ、早目にデジタル機器に触れさせて、適切な使い方、効果的な使い方を学ばせる必要がある。
これは、裕福な家庭や教育熱心な家庭では、すでに行われている。
こうして、適切な使い分けを小学校入学前にすでに身に付けさせている。
この時点でそうでない家庭とは、大きな格差が生まれてしまっている。
この格差を放置すれば、どんどんそれは大きくなり、学力にも、将来の収入にも響いてくるだろう。
こうした家庭環境による格差を小さくすることが公教育の役割だ。
学校でデジタル機器を与え、その正しい使い方を身に付けさせることは今の時代に絶対に必要なことなのだ。
目的はデジタルを使った教育で成績を上げることではなく、デジタルで効率的に学ぶ方法を身に付けさせることだ。
ここを見誤っているから、読売新聞のような主張になってしまう。
もっとも、読売が今回やり玉に挙げている「デジタル教科書」については、紙の教科書をそのままデジタルにするんなら紙のほうが良いということには同意する。
目への負担や使い勝手などの面では、紙の方が圧倒的に優れている。
でも、もしデジタルでどの学年の教科書も見られるならどうだろう?
紙の教科書をそんなにたくさんは持てないが、デジタルなら可能だ。
前の学年の内容を復習したり、次の学年の勉強をしてみたり、自由にできたらどうだろう?
もし、紙ではページ数の関係で割愛された詳しい補足説明が見られるならどうだろう?
金の事だけを考えて「紙か?デジタルか?」などという非効率な問いを設けるのはやめて、両方ありきで、「もしデジタルでつくるならどういうことができるか?」という問いを立ててほしいところだ。
海外では学部生の授業に組み込まれてる常識的な内容を、日本では一部の教授だけがやっと原書輸入して研究してるなんて分野もある。
建築学部のいわゆる「断熱気密」の話だけど。
欧米には建築物理とか建築科学っていう基礎研究の分野があって、断熱による熱の移動とか湿度の移動とかを物理学者が解析して体系化してるけど、日本にはまずそのポジションがない。
あくまで建築学科で「建築工学(温熱も構造もいっしょくた)」の一部で細々と欧米の成果を勉強してる人がいるだけ。
世間はどうも、「大学がレベル低い」ってことを学生の学力低下くらいにしか思ってないみたいだけど、最先端の分野に専門的に取り組むポジションがない、その育成コースがない、教科書すら翻訳されてない。そんな分野が普通にある。まるで明治とか幕末時代にでも戻ったかのよう。
大学って「これを研究してリードするポジションが必要だ」って上の判断がなければ、こんな空洞化が普通に起こっちゃうってことを日本人の大半は知らない。
勘違いしないで欲しいが、ロジカルライティングやその教育が不要だと言いたいわけではない。
むしろよく使う業界なので、教育できるならやってもらった方が良いと考えている。だが、
(1)言語は文化と密接に関わっているため、他国の教育がそのまま適用できるとは限らない
(2)日本語で必須となる漢字教育などカリキュラム量に大きな差がある
(3)その中での「初等教育の一例」を理由として、文章力の低下の原因とするのは無理がある
と言いたいんだ。そういう帰結をするのなら、小さい頃からロジカルライティングをやっているはずのアメリカで
低学力低賃金層が多いのはなぜなのか、ロジカルライティングは学力低下につながるのではないか
https://twitter.com/mushatrader/status/1547956633661149184
スマホは高校生からってことで、中1の子供のクラスのグループLINEに僕のアカウントで今日から入ってみたら、この時間でもガンガン通知鳴りまくり未読500件オーバー。初日にしてスマホと学力低下の相関関係を見事に示してくれたわ。子供を守りたいんならスマホなんて渡しちゃダメだ。
主な悪因は集中力の低下じゃないかと。LINE2時間やった後いざ勉強しようとしても集中力使い果たしてますし、勉強中でも通知が来たら気になってLINEを見てしまいます。
うちの子も さんのように小学校の時生徒会長してまして、自ら善悪を判断し自制できるタイプなのできっとスマホを渡しても大丈夫だとは思うのですが、分からず流されてしまう子たちは大事な勉強時間を無意味なやり取りに費やし続け、大人になってからきっと後悔することでしょうね。
中1の甥っ子はクラスのLINEグループと学年のLINEグループがあって、それぞれ全体の3分の2ずつは入っているようです。
見てたら通知がメチャメチャくるけど、未読で放置していた。
僕たちは生まれながらにして不幸だった。
物心がついた時には経済成長など実感できないほどなく、平和のみが幸運にも固定されていた。少子高齢化を無責任に押し付けられ、いつも年金の説明では僕たちが下で、いっぱいの先人が上に伸し掛かる絵を繰り返し見せられた。
小学生のころには阪神淡路大震災があり、生活は不条理に突然破壊されることを知った。
オウム真理教は天災だけでなく人災があることを教え、それを報道するテレビには頭のおかしい人をいじめることの楽しさと正しさを刷り込まれた。
学校ではいじめがあっても誰も救ってくれなかった。子どもも大人も誰も責任を取らずに済んだ。
どう大人を信じようと努めても、彼らの正しさの裏にある保身だけが形を濃くするだけだった。
いじめ、学力低下、キレる十四才、僕たちだけが責められている気がした。勝手に「ゆとり」を与えられ、数年後には「ゆとり」だとバカにされた。
ノストラダムスの大予言も二千年問題も世界を無くしてはくれなかった。変わらないんだ、という陰鬱な気分を虚構ごと生活に仕組まれた。
社会に参加するまでの過程で、どんどんと多様性という理想が叫ばれるようになっていった。でも現実はまだそう出来ていなかった。ゆとり教育でも、AO入試でも、新卒一括採用でも、実験の最前線で僕たちは消費された。
社会の正体に近づくほど、実験の甲斐なく何も変わらずに、大人たちは利権を固定させようと頑張っていることがわかった。かつて多くの若者たちの理想主義が現実主義に敗北し、僕たちの生活には既に革命の「か」の字すらなかった。
センスが良いとされる大人は肌触りの良い冷笑と諦観で、理想からも現実からも逃げているだけだった。
芸術に届くわけではないわずかな詩情の中に逃げ、丁寧な暮らしとやらで現実を隔離しただけだった。雑草も食えるらしいと、何も新しくない発見を雰囲気の良い雑誌で語った。
とにかく真っ当ではなかった。僕たちには老朽化した線路と駅が残された。
いつかみんな死ぬ、くらいしか希望はなかった。僕は、小学校四年、五年と苦労したあとに六年生になったときのような開放感を待っていた。
インターネットは唯一僕たちに与えられた現代的で民主的な革命だった。僕たちは最前線に立つことを初めて喜んだ。僕たちが社会を実験していた。大人の腕の中で揺らされるのではなく、自らが世界を開拓していた。
過去の日本では文学や学生闘争に向いたであろう若者の活力がインターネットで遊ぶことに費やされた。情報の波をサーフィンしていた。
けれどアナーキズムなど思想と呼べるほど突き詰められてはいなかった。脱法とジョーク、たくさんの知識。組織化しない雑多なカオスが世代や日陰者の雰囲気をベースとしてただ在った。
東日本大震災のとき、僕たちは初めて大きな波を感じた。世界ごと変えてしまおうというワクワクがあった。
ネットから始まる民主化が現実世界にも網目を伸ばし、キレイな情報を伝播させることを夢見ていた。
実際のところ我々には思想がなかった。正確には思想が育っていなかった。長い間の自己否定とカオスたちの団結は思想を形成させなかった。
論壇はインテリっぽい動きに酔っているままで、ほとんどの人間が責任を背負おうとしなかった。
大衆は十分なリテラシーを持っていなかった。目の前の文字が自分を騙そうとしているかだけを考えていた。
もちろん先行者と同様に誰も責任を取りたがらなかった。波は結果的に芸術の一部分だけに還元された。
僕たちの革命は、革命という皮すら被れずに失敗した。あの頃目立った人間たちのどれだけがまだ実際に社会に有効なことをしているのだろう。
僕たちは生まれてから今までずっと負け続けている。逃げ続けている。立ち向かう人間を冷たい視線で嘲笑っている。かつて"カッコイイ大人たち"がしていたように。
拗ねた子どものままで皮肉とセンチメンタルを捏ねくり回している。
最近は「多様性の尊重」がブームになっている。拡がり分化する人間の在り方を認めようとするのは正しいことだと思う。
だが、それは欺瞞だ。多様性は排外主義への攻撃だ。多様性を求める社会は多様性をもたらさないものを排除する。
最大限の寛容ではなく、この時代この社会における妥協点でしかない。
ただそれよりも深刻なのは、多様性未満の僕たちだ。多様性で救われるのは国籍、性指向、いくつかの快い思想である。いわば十分に形作られたアイデンティティーのうち、現代社会に適応するものだ。そして主張に成功したものだ。
僕たちの苦しみはアイデンティティーの未発達である。差別をされたり、大事に築き上げたものが喪失したわけではない。時代により幾度となく無意味化された結果、育たなかったのだ。
社会の複雑さへの想像力、ありのままの他者の受容、明確な善への地図が無かった。
今までのシステムは近いうちに崩壊すると言われつつも、なかなか崩壊しない。仮に崩壊したとしてもサバイバルを生き抜く知恵が無い。広大な大地に丸腰で放たれるのだ。
「ちゃんとしなきゃ死ぬ」とトリプルファイヤーの吉田靖直は歌った。「ちゃんとしなきゃ」という要請だけが社会にある。
なんとなく、どこか生きにくい僕たちの行き場はどこだろう。ちゃんとした職があればいいのか?ちゃんとした病名がつけばいいのか?ちゃんとした人になれればいいのか?ちゃんとした人ってなんだ?
今になってようやく哲学や文学などの人文学に解答を求めることができるだろうことに気づいた。それは人間として真っ当な足掻きに思えた。
まだ遅くはないと信じて、攻略サイトには無く、ビジネス書より直接的な、人間思索の旅に出ようと思う。良い哲学の書を教えてくれ。
そろそろ時間も経ち、特定もされないと思うので書かせてもらう。
男性アイドルと女性アイドル、両方の舞台演出とかマネージャーとかをやっていた。
だが、俺が覚ましたいのは、お前達ファンの頭だ。しかと聞いて欲しい。頼む。
推しが頑張っていれば自分も頑張れる、推しが幸せなら、この世界が暗いものでも頑張って生きていける。
と、そんなところだろ?実に素晴らしいな。『推しがいれば世はこともなし』、なんだよな。
アイドルがライブをして、ちょっといいことを言って泣けばお前達は、日頃のストレスを忘れられるってわけだ。
そんなお前達を今回ぶん殴るテーマはこれだ。
アイドルの仕事ってのは、事実大変だ。歌って踊ってトークもしなきゃいけない。
最近は特に配信が大変だ。言っていい事悪い事を覚えて、ファンの顔も覚えてひたすらみんな食いつなごうと必死だ。
若い人間が、歌の練習をして、踊りの練習をして、配信をして、何が削れると思う?
なあ、掛け算もできないし、小学生レベルの漢字も書けないようなやつが本気でゴロゴロいるんだぜ?
これは真面目な話だ。
(勿論一部、勉強もできるアイドルはいるが、本当に一部だ。そこに噛みついてくるなよ)
どこかの小学生革命家が言っていたが、人間はコミュニケーション能力があれば、どうとでもなるってのも一面的な正解だ。
掛け算も漢字も、スマホがあればできるし、俺達高学歴の人間がいくらでもアイドルの代わりに書類だって処理する。
でも、それは周りに支えてくれる人がいればの話だ。学校行かない系で稼いでる小学生なんざ、家族ぐるみだから、かなりマシな方だ。
ごく一部だよ。残れるのは。ちなみに俺がよく見るパターンはアイドル→マネのルート。これも実は色々罠があるがテーマから逸れるから別の機会に書く。
なあ、芸能界を引退して、いい歳して、かけ算も出来ないような人間が急に世界に投げ出された時、面倒を見る人間がいるのか?
顔もそこそこ良くて芸能界に繋がりがある、学のない無職って、誰が利用したがると思う?
悪い大人達の最高のカモだよ。いくらでも騙せるよ。だって1人じゃ書類も読めねえんだからな。笑えるだろ。
必死に歌って、必死に踊って、アイドルの活動に対して努力している人間がお前達、好きだろう?
優れたパフォーマンスが好きだろう?
お前達が『頑張っている人間を推す』から、そういう学のないアイドルが量産されるんだよ。
こんな長い文章、真面目に全部読まなくていい。
以下の一文だけ覚えていけ。
多くの場合、お前達の推し活が作り上げるのは、かけ算もできない、自分の名前も漢字で書けない、歌って踊れる学習障害者だ。
性質が悪いことに、アイドル時代にチヤホヤされるものだから、やつら、承認欲求をこじらせる。
なあ、そんな人間が、この世界に放流されて、幸せに生きられると思うか?
「契約書の漢字が読めないから読んで!」「1.2倍の意味がわからないからちょっと見て!」とか真面目に相談してくる人間がどこに向かうと思う?
お前達が考えるよりも、ずっと悪い方向に向かっていくよ。
お前達が推した結果がそれだ。
お前達はアイドルの未来を自分のストレス発散のために消費しているということを強く自覚しろ。
アイドルの両親にクソみたいに怒鳴られた経験が俺はいくらでもあるよ。
なあ、首に縄の後が残った元アイドルの死体を見た時、俺はご両親になんて声をかけたら良かったと思う?
お前達には関係のない話か?お前達は、ただ商品を買っただけか?何でお前達は、推しの葬式にこなかったんだ?
なあ、誰が悪いんだ?
俺達が全て悪いと言うか?芸能界なんてなければいいと?体質を改善すればいいじゃんと簡単に言うつもりか?
それがどれだけ難しいことか、推しに救いを求めているお前達ならわかるんじゃないか?
逆に俺達が、歳をくったアイドルが高卒認定を取りたいって言って、勉強に付き合ってやらんような、血も涙もない人間の集いとでも?
輝かしい面もあるよ。普通の勉強だけしてる人間が稼げないような額を稼ぐ人間もいるよ。そりゃ。
お前達は現代のアイドルのシステムっていう大犯罪の、片棒を担いでいる人間なんだよ。
そんな業界が嫌だし、お前達ファンが嫌だし、それを「推し活です」なんて言ってる最近の風潮が嫌で、俺は芸能界から離れることにした。
一番頼りになったのは、芸能界に顔が効くことでも、マスコミの人間の名刺を持っていることでもなかったよ。
しっかりとした学歴で、しっかり働いていたこと。それが再就職で一番、役に立ったよ。要はまとも、普通の人間だと見てもらえたから、足を洗えた。
最後にもう一度書いてやる。
多くの場合、お前達の推し活が作り上げるのは、かけ算もできない、自分の名前も漢字で書けない、歌って踊れる学習障害者だ。
胸に刻んで生きていけ。わ
Permalink |記事への反応(87) | 01:58
誰でも機械的に解ける問題を、別の発想で解けたら賢いと言って良いのでは?
入試評論家の話はなんの例やねん。「大学入試が易化すると学力低下」するのはおかしくないのでは?地頭となんの関係があるの?
「自分を動物に喩えるなら」みたいな質問は別に地頭問うてないやろ。むしろコミュニケーションできるかどうかの話だと思うが。(ものすごく簡単なテーマで主張と理由が述べられるか)。これをトンチと捉えているならそもそも問題を正確に捉える能力に欠けているしただの逆恨みでは?
ちなみに前提とか言ってる以下の2例はある程度正しいのでは?
前者は単純に地頭の定義の問題だし、後者は少なくとも「技巧的な問題や難しい問題を解ける人」は少なくとも解けない人間よりは「大学なり会社なりで何らかの役に立つ」だろう。科学的根拠というよりも論理構造の問題だと思うのだが。
たとえば、連立方程式や三角比などを使えば誰でも機械的に解ける問題を、つるかめ算や補助線などを使って小学校範囲内の知識で解くことが「賢い」とされるようだ。
大学入試に関しても、入試評論家とでも言うべき何の役に立ってるのかよく分からない人たちがいて、大学入試が易化すると学力低下がどうのこうのと嘆いている。
他にも、たとえばホワイトカラーの職業の入社面接で「自分を動物に喩えるなら」みたいなトンチの応酬が行われていて、それで合否が決まるのなんか、先進国では日本くらいのものだろう。
もちろんこれには何の科学的根拠も無い。
学校の入試ではそれまでの課程の勉強の習熟度を計る問題を出すべきだし、企業の採用においては応募者のスキルや経験や入社後の配属の希望などを問うべきだ。
こんなことは常識で考えれば誰でも分かりそうなものだが、いい年をした大人の多くが「地頭信仰」を持っている。
本当に異常なことだと思う。
Permalink |記事への反応(31) | 12:08
id:poko_penさんにidコールを頂いたので書きました。
総務省は電磁波使用に対しては促進的立場であり、総務省が主導で行った研究や収集したデータにはバイアスがかかる可能性があると思われます。また電磁波を利用して生活しているほとんどの現代人においても「できれば否定されてほしい」バイアスが働きます。また、ある時点での科学水準で「論理的に起こるはずのない」問題が数十年後に明らかになるようなことは決して珍しくないと思います。
よりニュートラルと考えられる環境省の出している資料(https://www.env.go.jp/chemi/electric/material/minomawari.pdf)では(総務省Websiteからもリンクがありますが)、携帯電話基地局など(無線LANを含む)では「携帯電話基地局などからの弱い高周波電磁界が健康への有害な影響を起こすという説得力のある科学的証拠はありません」との見解を示している一方、携帯電話では脳腫瘍のリスク上昇との因果関係は確立されていないものの、長期間の使用と脳腫瘍のリスク上昇との関連についてのデータが少ないことから、「携帯電話使用と脳腫瘍リスクのさらなる研究が必要」としています、とあります。
また同じ資料内に「現時点では、質の良い証拠は不十分で、症状の発症において無線周波電磁界への長期的なばく露が果たす役割について結論を導くことができません」としています。
アメリカ合衆国保健福祉省のNTP study(https://ntp.niehs.nih.gov/whatwestudy/topics/cellphones/index.html)では「携帯電話で用いられているものと同様の電波の高いレベルにばく露した雄ラットは、がん性の心臓腫瘍を発症したという明確な証拠がある」ことがわかっています。
僕が言いたいのは、Wi-Fiおよび生活上使用される電磁波の小児の発達や健康に対する影響に関しては、判断するための十分なリアルワールドでの科学的データがあるとは言えない(例えば携帯電話が使用されるようになって20-30年しか経っていないのに40-50年後の影響は不明)ので、少なくとも「ばかげてる」と一蹴するのは非科学的態度だということです。影響がないことは証明できませんが、少なくとも、総務省が言うように「影響があるという証拠がない」は「影響がない」と大きな隔たりがあります。問題とすべき影響がない可能性が高いことを示すデータを集めることはできますが、それには数千人を前向き研究で数十年綿密にフォローする必要があります。