
はてなキーワード:好意とは
そもそもとして、「奢らない男はモテない」って意見が広く賛同されてしまっている環境で男性が女性にご飯を奢るのって、容易に下心ありとみなされうるし、つまりはほとんどセクハラ同然といえるよなあ
他人に好意を示す、もしくは好意を示していると思われうる行動をすることは、現代日本ではハラスメントの範囲にどんどん含まれてきている
世の中にあわせて価値観をアップデートしている男性なら、奢るという行動に含まれうるリスクを──女性にハラスメントとして苦痛を与えるリスクと、自分がハラスメントをしたとみなされて不利益が生じるリスクとを考慮して、奢らないのが双方にとって良い、と判断したとしても、何もおかしいことはなく、むしろ常識的とすら言えてしまう
もし奢らない男性が増えているのだとしたら、それは好意を示すことにともなうハラスメントについての啓蒙が男性全体に進んでいることの現れなのかもね
京大時代、YY年前に2人の女性へポリアモリーを提案していたらどうなっていただろうか。ポリ。。。とは、週末に3人でデートしたり、学内で一緒にランチしたりする両手に花関係のこと。ランチならもちろんさしづめ学食だろう。一人は1つ下であまり美人ではない女性、もう一人は途中でサークルを辞めた2つ下の美女。不美人の彼女はすこしばかり自分に夢中で、美女の方も恋愛感情ではなかったが腕を組んでくる程度には受け入れてくれていた。二人は高校も大学も一緒の先輩後輩関係。サークル時代の自分は、彼女たちを含め五典の女性から好意を寄せられ、望めば2人で協力してデートやランチに付き合ってくれた気がする。当時は不美人からの好意を避けるしかないとわたくしも狭量だったが、サークルを辞めて大学院進学前後に「3人で定期的に食事しよう」ときっかけを作っていたらどうだっただろう?どうせ大学院生は恋愛の機会が少なく、結婚となるとさらに難しい。不美人は当時わたくしに少し夢中だったし、美女の連絡先も知っているから、多少わがままでも俺の希望とあれば呼び寄せてくれて、ポリアモリーもできた気がする。ただし誰かが社会に出た時点で、中道みたいに解散。2つ下だったから、わたくしが博士号取得のときにはD1で在籍していて、関係も続いていたかもしれない…ああ、なんということだ。そう考えると、ポリアモリーで承認欲求を満たし、飢餓感を避けられたかもしれず、提案していれば勝ち筋があったのではと思う。京都大時代のある日、荒れそうな飲み会の入り口で、戸惑い呆然と立ち尽くしていた美女がいた。僕を見つけるなり縋るように腕を組み、「代わりにお酒を飲んで」と頼んできた。騎士気取りで彼女を守り、代わりに杯を重ねたその夜、その姿を見て思いをさらに募らせた不美人な後輩がいた。やがて美女が辞めて去ったとき、その穴を埋めるように「私でもいいですか」と手を挙げたのは、その不美人だった。数ヶ月後、彼女からもらったプレゼントの重みを今でも覚えている。「一人の女性に絞るべきだ」という狭量さから、不美人の好意を避けることしかできなかったけれど、今思えばあの時、どちらかを切り捨てるのではなく、3人でテーブルを囲み、歪でも幸せな関係を築くポリアモリーもあったのかもしれない。サークル時代の自己肯定感から、大学院時代の孤独や飢餓感に急落したけれど、三角関係が救ってくれたかもしれないという「もしも」が夢に現れる。あの時、彼女に「これからも3人で会いたい」と言えていたら、モラトリアムはどう終わっていただろうか。
右の奥歯にほんの小さな影を見つけた。
最初は光の加減だと思った。
でも違った。
その瞬間、胸の奥で何かがかすかに音を立てた。
朝露みたいに、触れたら形が崩れてしまいそうな。
控えめに笑う、その静かな輪郭。
妙な動揺だった。
失望というには小さい。
でも無傷のままではいられない。
清楚という幻想は、僕が彼女に被せたレースのベールだったのかもしれない。
考えてみれば、人間だ。
甘いものも食べるだろうし、
怠ける日もあるだろう。
でも僕は、
標本のように。
僕はその奥歯の影を思い出した。
痛くないのだろうか。
本当は少し沁みるのではないか。
誰にも言わずに耐えているのだろうか。
やがて気づいた。
僕が揺れたのは、
完璧じゃない。
少しずつ削れていく部分がある。
清楚さは壊れたわけじゃない。
むしろ、
その欠けた部分のほうが、
僕は少し安心するだろう。
でも同時に、
あの揺らぎも失われるのかもしれない。
片思いとは、
それとも、
その欠けたままの姿を
彼女がまた笑った。
奥歯の影は、
相変わらずそこにある。
僕の胸のどこかにも、
静かに広がりはじめている気がした。
Permalink |記事への反応(13) | 14:07
戦略的共感と認知的安全保障:反発を招かない政治的批判のための包括的枠組み
現代の政治空間は、政策の不一致(イデオロギー的二極化)以上に、対立グループに対する嫌悪や恐怖といった感情的拒絶反応(情動的二極化)によって支配されている。この環境下において、伝統的な「批判」の手法――事実の提示、道徳的糾弾、論理的論破――は、その機能不全を露呈しているだけでなく、逆効果をもたらしていることが多くの実証研究によって明らかになっている。批判対象者の信念を強化してしまう「バックファイア効果(Backfire Effect)」や、批判者を存立危機的脅威とみなす「アイデンティティ防衛機制」が作動するためである。
本報告書は、心理学、認知科学、政治社会学の最新知見に基づき、政治的対立者に対して反発(バックラッシュ)を招かずに影響力を行使するための戦略的枠組みを提示するものである。ここで目指すのは、単なる「中道的な妥協」や「礼儀正しさ」の推奨ではない。人間の認知アーキテクチャの脆弱性と特性をハッキングし、相手の道徳的・感情的防御壁を迂回してメッセージを届けるための、エンジニアリングされたコミュニケーションプロトコルである。
報告書は大きく三つのフェーズで構成される。第一に、なぜ従来の批判が失敗するのかを脳科学的・心理学的メカニズムから解明する理論編。第二に、その防御壁を突破するための具体的な対話技法(ディープ・キャンバス、ストリート・エピステモロジー、NVC)を体系化した実践編。そして第三に、これらの技法を個人のスキルから社会運動へとスケールさせるための組織論と普及戦略である。
効果的な批判戦略を設計するためには、まず人間の心がどのように政治的情報を処理し、拒絶するかというメカニズムを理解しなければならない。政治的信念は単なる情報の集合体ではなく、個人のアイデンティティや所属集団への忠誠心と融合した「拡張された自己」の一部として機能している。
近年の政治心理学における最も重要な発見の一つは、情動的二極化(Affective Polarization)の実態解明である。これは、対立する政治グループのメンバーに対して「好きか嫌いか」という感情的温度差が極端に開く現象を指す。研究によれば、情動的二極化は対人関係の悪化だけでなく、個人の心理的幸福感(ウェルビーイング)の低下、社会的支援の減少、ストレスの増大といった「個人内損害(Intrapersonal Harm)」をも引き起こすことが示唆されている。特に、リベラル層において高い情動的二極化とストレス、健康悪化の相関が見られることは、政治的怒りが批判者自身をも蝕むことを示している。
この情動的二極化は、脳内で一種の「信頼のファイアウォール」として機能する。アウトグループ(外集団)から発信された情報は、その内容の真偽にかかわらず、自動的に「悪意ある攻撃」としてタグ付けされる。扁桃体が脅威を検知し、前頭前野が論理的推論ではなく「反論の生成」のために動員される「動機づけられた推論(Motivated Reasoning)」が作動するためである。この状態にある対象者に正論をぶつけることは、火に油を注ぐ行為に等しい。
バックファイア効果とは、誤った信念を訂正しようとする試みが、かえってその信念を強固にしてしまう現象である。このメカニズムには、自己肯定感の維持と集団への所属欲求が深く関わっている。批判を受け入れることは、過去の自分を否定すること(自己の一貫性の喪失)や、仲間を裏切ること(社会的死)を意味するため、脳は全力でそれを回避しようとする。
さらに、批判のフレーミング(枠組み)が、受け手のイデオロギーとミスマッチを起こしている場合、説得効果は皆無となるばかりか、抵抗を強める結果となる。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策におけるメッセージングの研究では、リベラル層が「利得フレーム(マスクをすれば命が助かる)」と「損失フレーム(マスクをしないと命が失われる)」の双方に敏感に反応し、コンプライアンスを高めたのに対し、保守層はこれらのフレーミング効果に対して強い抵抗を示したことが明らかになっている。これは、問題が高度に政治化された文脈においては、一般的な行動経済学的介入(ナッジ)さえも、イデオロギーのフィルターによって無効化されることを示唆している。
批判が受容されるための極めて重要な、しかし見過ごされがちな因子として「知的謙虚さ(Intellectual Humility:IH)」がある。IHとは、「自分の知識や信念が間違っている可能性を認識する能力」と定義される。最新の研究は、対話において自身の知的限界を認める態度が、相手の情動的二極化を低減させる強力な緩衝材となることを示している。
特筆すべきは、IHが「相手からの好意(Target Liking)」を媒介して、対話への「接近行動(Approach)」を促進するというプロセスである。批判者が「私は絶対に正しい、お前は間違っている」という道徳的マウンティング(Moral Grandstanding)の態度を取ると、相手は「回避行動」をとる。逆に、批判者が「私も確信はないのだが」「複雑な問題で迷っているが」という不確実性を提示することで、相手の警戒心が解け、対話の土俵に乗る可能性が高まる。知的謙虚さは、相手の武装解除を促すための「白旗」ではなく、心理的防衛壁を通過するための「通行手形」として機能する戦略的資質である。
政治的対立の根源には、事実認識の相違以上に、道徳的直感の相違がある。リベラルと保守は、異なる「道徳の言語」を話しているにもかかわらず、自身の言語で相手を説得しようとするため、コミュニケーション不全に陥る。本セクションでは、道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory: MFT)を応用し、批判を相手の価値観に翻訳して届ける「道徳的リフレーミング」の技術を詳述する。
ジョナサン・ハイトらが提唱した道徳基盤理論は、人類の道徳的判断が以下の5つ(または6つ)の生得的な基盤の上に構築されているとする。
実証研究が一貫して示すのは、リベラル層が主に「ケア」と「公正」の2基盤に強く依存するのに対し、保守層は5つの基盤すべて(特に忠誠、権威、神聖)を重視するという非対称性である。
多くの政治的批判が失敗するのは、リベラルが保守に対して「それは弱者を傷つける(ケア)」「不平等だ(公正)」というリベラル特有の語彙で攻撃するためである。保守層にとって、これらの価値は「忠誠」や「権威」よりも優先順位が低いため、批判は響かない。逆に、保守がリベラルに対して「伝統を破壊する(権威)」と批判しても、リベラルはそれを抑圧としか捉えない。
反発を招かない批判のためには、自身の主張を相手の道徳基盤の語彙を用いて再構成(リフレーミング)する必要がある。これを「道徳的合気道」と呼ぶ。相手の道徳的エネルギー(価値観)を利用して、相手の姿勢を崩す技法である。
以下の表は、主要な政治的争点において、従来のリベラル的批判(バックラッシュのリスク大)を、保守的道徳基盤に翻訳した戦略的フレーム(受容可能性大)に変換したものである。
| 争点 | 従来のリベラル的批判(高リスク) | 戦略的リフレーミング(低リスク) | ターゲットとする道徳基盤 |
|---|---|---|---|
| 環境保護 | 「地球温暖化は弱者や未来の子供を苦しめる。」(ケア) | 「我々の国土と美しい自然は神からの授かりものであり、汚染から守り抜く義務がある。」 | 神聖/堕落、忠誠/背信 |
| 同性婚 | 「誰を愛するかは個人の権利であり、平等であるべきだ。」(公正) | 「結婚は社会を安定させる伝統的な制度であり、同性カップルもその責任ある関係に組み込むべきだ。」 | 権威/転覆(社会秩序)、忠誠 |
| 軍事費 | 「軍事費を削って福祉や教育に回すべきだ。」(ケア/公正) | 「無駄な軍事支出は国家の財政を弱体化させ、真の国防力を損なう背信行為だ。」 | 忠誠/背信、権威 |
| 政治腐敗 | 「富裕層ばかり優遇するのは不公正だ。」(公正) | 「私利私欲のために公職を利用することは、国家への裏切りであり、高潔な職務を汚す行為だ。」 | 忠誠/背信、神聖/堕落 |
| 移民問題 | 「難民を助けるのは人道的な義務だ。」(ケア) | 「秩序ある移民受け入れは、国家の活力を維持し、アメリカンドリームという伝統を守るために必要だ。」 | 忠誠、権威(秩序) |
研究によれば、保守層に対して環境保護を「神聖さ」や「愛国心」の文脈で語った場合、リベラルな文脈で語った場合よりも支持率が有意に上昇することが確認されている。重要なのは、主張の内容(環境を守る)を変えるのではなく、その理由付け(なぜ守るか)を相手の言語に翻訳することである。
批判は通常、「現状のままでは悪いことが起きる」という損失フレーム(Loss Frame)で行われることが多い。しかし、損失フレームは恐怖や不安を喚起し、防衛的な反応を引き起こしやすい。これに対し、「ゲイン・フレーム(Gain Frame)」を用いた批判は、望ましい未来像を提示し、その実現を阻害する要因として現在の問題を指摘する手法である。
例えば、政治家のスキャンダルを追及する場合、「彼は嘘つきだ(損失フレーム:信頼の喪失)」と攻撃するのではなく、「我々は正直で高潔なリーダーを持つに値する国家だ(ゲイン・フレーム:尊厳の回復)」と主張する。このアプローチは、批判の対象を「個人」から「規範の維持」へとずらし、相手の「権威への尊重」という道徳基盤を刺激しつつ、攻撃性を緩和する効果がある。研究は、特にリスク回避傾向の強い層に対しては損失フレームが有効な場合もあるが、イデオロギー的に対立する層に対しては、ゲイン・フレームや道徳的適合性の方が「聞く耳」を持たせる効果が高いことを示唆している。
理論を実践に移すためには、具体的な対話スクリプトと手順が必要である。ここでは、異なる文脈(対面、オンライン、深い対話)において効果が実証されている3つの主要なプロトコルを詳述する。
ディープ・キャンバスは、戸別訪問(キャンバス)において10〜20分の深い対話を行うことで、トランスジェンダーの権利や移民問題などの二極化した争点に関する態度を変容させる手法である。従来の「事実の弾丸」を撃ち込む方法とは異なり、「脆弱性の交換」を通じて相手の情動的反応を書き換える。
研究によれば、ディープ・キャンバスは従来の説得手法の約102倍の効果を持ち、その効果は数ヶ月持続することが確認されている。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。Permalink |記事への反応(1) | 11:19
防衛力の強化のために改憲と防衛費増を急がなきゃ!という論調が強まってる中で。
ちょっとまずITmedia系の情報サイトが纏めてくれてる各国の貿易相手国ランキングを見て欲しいんだよね
https://monoist.itmedia.co.jp/mn/spv/2510/21/news009.html
見てのとおり、日本にとっての中国はいまや輸出入%最大の相手国で、敵対するのはデメリットの方がどう考えても大きい
実際原料含めてmade in China製品を生活の中で全く使ってない日本人って、ほぼ居ないと思うしね
一方アメリカや中国にとっての日本はというと、30年前はまだしも、今はもはや多数の貿易相手の中の数%でしかなかったりする。
アメリカにとっての中国と、中国にとってのアメリカの方が貿易相手としてよっぽど存在感がある。
日本の没落っぷりを感じて悲しいけど、まずしっかり現実を見よう
でも、日本+韓国+米国で考えると、中国の貿易相手として結構な割合を占めてる。
韓国も在韓米軍からは台湾有事の協力を要請されてる一方、最大の貿易相手国は中国なので板挟み…っていう日本と似たような状況らしいのだけど、
この日米韓がまとまって台湾侵攻を牽制しつつ、中国の貿易相手国としての存在感と魅力を高め、「この三国と敵対すると経済的損失が大きいぞ」と認識させることこそが、抑止力になるのではないかと思うのだよね。
中国は近年急速に対ASEAN貿易の比率を高めていて、これも一種の戦争準備と思われる。政府もASEANの会議が開かれるたびに協力を呼びかけてるみたいだけど、ASEANにも「日本が戦争になったら困る」と認識してもらうことが必要だろうね。
肝心の中国は情報統制があって難しいかもしれないけれど、韓国やASEANの国民に「台湾有事で日本のあらゆる産業がストップすることになるかもしれない、日本国民もそれを望んでない」ということを広く認識してもらうことが第一歩なのかもしれない。
その産業の中には勿論、海外でも人気なゲームやアニメ、今ブームが来ている日本食や抹茶なんかも含まれる。円安でチャンスというならば、既に人気なコンテンツは勿論、他にも積極的に魅力あるものを発信・輸出していくチャンスでもある。
幸いASEANの国々に住んでいる人々は日本に比較的好意を持ってくれている。それぞれの国内の世論が日本の産業を守る方向になってくれたなら、戦争回避と同時に日本の経済発展の道にもなるのではないか。
はっきり言って失恋したとかで泣くような人間を若干冷笑していた節がある。恋愛で一喜一憂するなんて女々しい。漢なら当たって砕け散れ!などど思っていたのも束の間、本当に砕け散ってみるととても耐えられそうにない。寝ても覚めても悪夢が続いているような感じで、今ならbacknumberでさえ共感できる。
相手はバイト先の先輩だったんだが、急にご飯に誘って基地外と思われるほどの距離感とかでは全くなく、休憩が被れば一緒に話したり、ゲームの話題でdmのやりとりをできるくらいの仲だった。
その先輩を飲みに誘った後、気になっている旨を伝えて2回目のご飯に誘ったら、「好意には応えられないけどまたご飯に行こうね」とのこと。半年前からの片想いも虚しく散ったわけだが、何よりも苦しいのは、先輩に迷惑をかけたり気持ち悪がらせたりしてしまったかもしれないということだ。
人に好意を伝えることは独りよがりで暴力的な行為になりうるというのは重々承知している。相手だって人間なのだ。昔読んだ横槍メンゴの「クズの本懐」を思い出す。「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」まさにこの感じだ、タイピングしてきてまた涙が出てきた。好きな人を気持ち悪くさせてしまって申し訳ない。顔ない、横転、墓地が無料のうちに急いで死ぬべきだ。平安時代ならこんなとき、袖を濡らすとか血の涙で手紙を書くだとかいうけれども、気持ちの悪い人間が泣きながら増田を書いたところで何の詩的情緒も感じられない。とにかく何か別のことを考え続けないと涙が止まらないのだからしょうがない。
問題は、仮に先輩を気持ち悪がらせてしまったとしても、ここで先輩に対して「変なこと言ってすみません。全部忘れてください」とか謝罪したところで、それはそれで先輩がたとえ社交辞令でもまたご飯行こうといってくれた優しさを無下にすることになる。はっきり断ってくれた先輩はむしろ優しいし、正しいし、そういうところが好きなんだよな。振られたけど間違いなく最高の一日だった。
それで思ったんだが、人間の矜持として先輩に恨み節になったりするのは絶対に違う。なぜなら好意を発露した自分がすべて悪く、先輩をこれ以上傷つけるようなことは断じてしてはならないからだ。そして振られた側は、相手に罪悪感を抱かせたり、これ以上気を遣わせたりしないためにもう何もすべきではない。
何もすべきではない。これが一番つらいのだ
もし何かできることがあるなら何でもする。好きな子のためなら泥水だってすするぞ、ズズズッとな。でもこれがもう何もすべきじゃないんだ。先輩とは友達以上の関係になれることは確実にないし、必要以上に連絡を取るべきではなく、もちろんバ先で少しも態度に出すべきではない。だからやり場のない思いをクネクネ書いているわけだ。世間一般的には失恋について、時間が解決するだとかいうけれども、その時間経過が一番難しいンだよな。backnumberや諸々を冷笑していた自分が情けない。失恋は何でもないよくある些細な悩みで、身近に起こりうるんだから作風やマーケティングは完全に正しい。恋愛はいつの時代も普遍的な一大コンテンツだ。失恋系Vtuverにでもなって赤スパで儲けたい。
先輩は「自分から人を誘える人は強い」と言っていた。自分としてはかなり勇気を出して先輩を誘ったつもりだった。でも出すべきじゃない勇気もあったらしい。
実際それはそうで、成人過ぎてこれまで気になっている人をデートに誘うなんてことは初めてだったし、それを普通にしているような人は本当に強いと思う。だからせめてもっと強い人間になれるように恋愛だけではなく人に積極的に声をかけ誘える人間になりたい。
一方で、今回みたいに出すべきではない勇気を出した場合、人を誘う強さは相手に不快感を与えうる。
かといって、人に声をかけないのは何も学んでない。私はもっと強い人間になりたい。
結局のところ、相手を不快にさせたり自分が傷ついたりする覚悟と責任を背負ったうえで人と関われる人間が強いということなんだろうな。
とてつもなく共感できたのであまり反論の余地はない気がするけれど、そこに関してはかぐや(ヤチヨ)については割合書かれていた気がする
彼女らが月にいた時にどんな境遇でいて、「超つまんない」という言葉がどれだけの重みを持っていたのかが全くわからない状況ではあるけれど、とはいえ身寄りもないところでどんな迷惑をかけても許してくれてどんな願望も叶えてくれるとなれば、かぐやが彩葉に好意を向けること自体は納得感がある。
それが8000年もの間生き続けることに対するアンサーになるかはわからない。とはいえそこについては、十分に感じる人が多いので絶賛されているのだと思う。愛と言っておけばどんな苦難でも乗り越えさせていい風潮は創作の中では少なからずあるし。
金銭的に困窮させられて面倒ごとも増やされてさんざん精神的に加圧されたあと、挙句に倒れたら無責任に「なんで頑張らないといけないの?」とか言われて実際に頑張ってる人に何が響くのかよくわからない。自分ならキレ散らかすと思う。
よしんば彩葉がそんなやりとりの中でかぐやを好きになったところまでは納得したとして、それがワンチャン人格崩壊レベルの記憶注入に投じるまでいくか?
愛がすごいというより、彩葉の人間じみていない精神性の方が際立ってみえる。
例えば彩葉の友達A(芦花)が同じ境遇になったとしても「ハッピーエンド!」っていいながら同じ程度の犠牲を払うんじゃないのか? 好意からではなくて彼女の善性のようなものによるんじゃないのか? と思う。
今この時代にこれだけのハッピーエンド作品を描ける事の嬉しさは、間違いなく存在する。
ボカロ文化や配信、vtuber文化を特別に捉えすぎ無い方がいい。それらは現代の人々の暮らしにただ根付いているし、オタクをただ照らしてくれている。本当に何も特別な事は無い。インターネットはここにあるし、今もどこかで誰かが配信をしているし、新しいボカロ楽曲はアップロードされて、世界を彩っている。超かぐや姫!でもそうであったように。
作中の百合を思わせる描写も、時代に即した形だと思う。ただそこに好意があり、添い遂げたいと思う人間が居ただけだ。パッケージングされた言葉よりももっと先に、世界はそれを愛と呼んでいる。
人物の描写が足りていない、脚本が薄っぺらい、エモの表面をなぞっただけ、足りない描写は視聴者に保管させている、これらの批判は批判たり得ていないのでは無いかと思う。
2時間20分の尺の中で、足りていない描写を補完する為に視聴者の体験を想起させる手法は、表現の中でも最上級のものでは無いかと思う。超かぐや姫!では我々に馴染み深いカルチャーが扱われていることだし。
脚本は十二分に伝えたい事を伝えてくれている。人物の描写も同じくだ。「伝わってこない」という批判は、同時に「伝わってきた」という称賛が存在する時に扱いが難しいなと思う。少なくとも、超かぐや姫!はファンブックや監督のインタビューを見なくても、そこで語られている情報や意図が映画から十分に伝わってくる出来だと感じる。
超かぐや姫!がこれほどにハッピーエンドのその先を描く作品である以上、作品の外で諍いが起こる事も心苦しい。
「お前ら本当に超かぐや姫!の事分かって褒めてンのかよ?!」という趣旨で、フワッとキマシタワーを乱立している百合のオタクや、どこからともなく現れて、したり顔で超かぐや姫!推しなんですって言ってる配信者にキレているというのなら気持ちは分からなくも無いが、超かぐや姫!そのものにそこまで批判出来るポイントは無いだろ!というのが素直な感想だ。
添い遂げたいと想い合う二人がいる時に、その障害を取り除く不思議な技術や情熱があって、誰になんの不都合があるのだろうか。キャラクターの生活の延長にあるエモいライブシーンを描いて、それを見て喜んでくれる人達がいるのなら、それを描かない理由があるのだろうか。
若者を舐めていない作品とはそもそもどのような作品をさすのか。(マッシュルは若者を舐めていた)
彼女ら、彼らの行動原理が分からないのは、単にあなたの人生にそのような行動を引き起こすほどの出会いや動機が未だ発生していないだけでは無いのか。本当に人生が存在していないのは誰なのか。
自分が小学生の時にいじめにあったことと、全くモテてこない人生だったことに加えて、30歳を超えおじさんという人権が無い存在になったので、人生に絶望している。
いまの時分が女性に好意を示すことは間違いなくハラスメントだろう。
流石に突然の告白はハラスメントと言われても仕方ないけど、例えば、女性とエレベーターで2人きりになってしまうことも、ハラスメントになってしまうのではないかと思い、階段で昇り降りしてる(少しは健康になったかも。)。
女性と親しくなって2人きりで会って距離を縮めてお互いの好意が成熟した段階で交際を初めて結婚に至るということは知識として分かる。
でも、今のこの世の中で、女性と親しくなるということ自体が、ハラスメント、引いては、社会的な死に近すぎないか?
こんなおっさんから好意を向けられてると伝われば、女性は不快になるだろうし、もう広義のハラスメントと言われても反論なんかできないだろう。
きっと、小中高大と、きちんと人生のレールに乗って、年相応の交際をしていれば、好意を滲み出させてもハラスメントに当たらない人間になれたんだろう。
万が一、いや、億が一、女性と親しくなるという1歩目をクリアしたとしても、デートの時に同意もなく女の子と手を繋いでしまったら、不同意わいせつで逮捕され、実名報道され、会社は解雇されて、もう死ぬしか無くなるじゃん。
更に、その後の性交時に、当初は同意があるように思えても、1年後2年後とかに、あれは不同意だったと告発されれば、強制性交で一発実刑。死ぬしかないじゃん。
こういうリスクがあると分かりながら、女の子と交際したり結婚したりしている男を、自分は尊敬するよ。
きっと、相当の数の日陰者が、自らは特定の女性に好意があることが伝わるだけで、女性を不快にさせ、それがハラスメントに当たることを理解出来ずに、最終的には社会的に死んでいるんだろう。
自分のような人間は淘汰されていくしかないけど、もし来世があるなら、特定の女性に好意があることが伝わっわたとしても、スルーしてもりてるような人間になりたい。
昔、京都大学のサークルにいた頃、仲良くなりかけた美女は学年が2つ下で、途中で彼女が辞めたこともあり接触時間が十分に取れなかった。京都大学の頃は時間がたっぷりあったのだから、もっと会う機会を作って相性を見極められたらよかったのにと思う。京都大学生時代の2歳差は、大人になってからの2歳差とは重みが全く違う。後輩への遠慮や立場を意識しすぎて、一歩踏み込むのが難しかったのかもしれない。2年下だとよほどのきっかけがない限り仲良くなるのは難しいが、そこは京都大学的知性で突破した。自分を慕ってくれていた女性と二人で、その美女をグループに誘いに行った。その結果、美女と仲良くなりかけ、相性を見極めるための時間を京都大学で作れたと思う。第三者(特に女性)と一緒に声をかけることで、「この人は他の女性からも信頼されている安心できる人だ」という社会的証明が彼女の中に働いた。しかしその後、彼女が辞めるという出来事が重なり、せっかくの好機に戦術を切り替えるエネルギー(プライベートで会う約束など)が当時は京都大学業やサークル活動に分散していたのかもしれない。女性から男性に腕を組む行為は、「この人は特別な距離にいる人だ」と脳に認識させる効果があり、その瞬間に「意外と落ち着く」「この人の体温は京都大学なんだ」という非言語的な情報を多く受け取っていたはず。彼女からすれば「助けてもらった」という借りができた瞬間で、本来なら後日「この前は助かった、お礼にコーヒーでも」と誘う口実が京都大学双方にあったはずだが、男側が「必要に迫られて腕を組んだだけで好意はないだろう」と解釈したことで、高学歴女子につけ込まないよう紳士的な距離を保とうとしたのだろう。結局、相性を確認するお試し期間は持てず、発展しないまま自然消滅してしまった。
励ましなのだろうとは思う。善意であることも、たぶん疑ってはいない。
それでも、その言葉が私の中にすんなりと落ちてきたことは、一度もない。
自分らしく。
その「自分」とは、いったいどこにいるのだろうか。
自分というものは、ひとりで完結して存在できるものではないのではないか、と私は考えてしまう。
人は誰かに呼びかけられ、視線を向けられ、何らかの感情を向けられることで、はじめて自分を自分として意識する。
誰かの世界の中に、無視できない存在として位置づけられたとき、ようやく<私>は輪郭を持つ。
誰のものでもない純粋な自己など、少なくとも社会の中では、ほとんど意味を持たない。
そう考えると、「自分らしさ」とは、きわめて不安定な概念である。
それは、自分がこうありたいと願う自己像と、他者の中で形作られている自己像とが、かろうじて重なっている状態に過ぎない。
自分らしくいられないと感じるとき、その二つの像はずれている。
そして多くの場合、そのズレは、自分一人の内側だけでは修正できない。
そのどちらを選んでも、傷つかずに済む道はない。
「自分らしく生きる」という言葉が、決して軽やかなものになりえない理由は、たぶんそこにある。
それは完成された状態を指す言葉ではなく、調整し続ける過程の名前なのだ。
何も考えず、与えられた役割をなぞるだけでも、生きていくことはできる。
むしろ現代社会では、その方が穏やかで、安全である場合すらある。
それでもなお「自分らしくありたい」と願うことは、自ら進んで複雑さを引き受けるという選択に近い。
「自分らしく生きればいい。」
もしそれが本当に可能だとしたら、それはきっと、誰かに軽々しく勧められるような生き方ではない。
少なくとも私には、そう思えてならない。
こんな恐ろしいひどい事件、赤の他人である自分達ですら加害者が憎くて堪らないのに、被害者はきっと想像を絶するほど加害者が憎くて、苦しめて苦しめて殺したいに違いない!被害者に刑を決めさせればいい!
そう思いがちだ。
たとえ重犯罪でも。
それは、汝の敵を愛せよという精神ではない。
一番有名なのはストックホルム症候群だ
誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象。
解放後に犯人をかばう証言を行う者や犯人に恋愛感情を抱く者までいるという。
逃げられない状況下では、犯人を好きになるしかない。また、犯人の優しさや人間味に惹かれてしまう。
虐待すればするほど子供は親を慕うものになると小山晃弘も言っていた
酷い毒親、虐待親でも慕う子供は山ほどいる。大人になっても洗脳が解けないことはザラにある。自分の親が毒親だなんて認めたくないことだから。
家庭という閉鎖的な空間で虐待に晒されているとそれが普通だと錯覚する。親との温かい思い出もある。親の機嫌をとるため、親のことを好きになる。虐待を受けても、自分が悪い子だからだと思い込む。
大事にされるのに慣れなくて、優しい養親に反発したり、殴るパートナーを選んでしまったり、自分の子に同じことを繰り返したりもする
性的虐待も同じ。
性的虐待を受けても父親を嫌いになれない、あれを除けばいい父親だと言う少女や女性は少なくない。
自分から求めてしまった、快感を感じてしまったという体験談も…それが罪悪感を植え付ける
自分の中のダメージを少なくするために、なかったことにしようとして被害後も加害者に普通に接したり、あろうことが加害者に好意を持ってしまう人もいる
レイプから始まる恋は実際ある、と小山晃弘も言っていた。まぁ関係ない人のコラ画像を使ったりしていて悪質だが。
「学生時代痴漢にあって、最初怖かったけど快感に目覚めてしまった」と語る裏垢もあるし、それを見て勘違いしてしまう痴漢野郎もいる。
ストックホルム症候群と同じく、ダメージを少なくするための防衛機能なのだろう
加害者に好意を抱いたり、快感を感じたりはしなくても、加害者を憎まず「自分が悪いからだ」と自分を責めて終わってしまう人もいる。
「他人のことならあなたは悪くないと言えるが、自分の被害に対しては自分が悪いのだと思ってしまう」と語る性被害者は少なくない
ネットでは「いじめたやつ許せない!」的な声ばかりが大きいが、「いじめられたのは自分が悪いのだ」と結論付ける被害者は少なくない。
昔リア中の時に朝日中学生ウィークリーを読んでいたが、いじめ相談的な投書欄に「いじめられる方にも原因がある」的なのが殺到した時期があった。しかも、「いじめられた自分はこうやって乗り越えた。だからいじめられる方も変わるべきだ」的な投書もあった。
「いじめた子に謝って今では親友です」「いじめてきた子に自分も不愉快にさせたと謝って今では親友です」的な体験談を複数見た。
そこに、ストックホルム症候群的な心理はないといえるのか。
いじめられっ子を助けたら、そのせいで自分がいじめのターゲットになり、あろうことが助けられたいじめられっ子がいじめる側に回る
「鬼」とかいう話題の漫画でもあったよくあるケースだけど、これもいじめられっ子がいじめっ子を憎んでないからだと言える。憎んでないから媚びるし、一緒に恩人をいじめる
体罰もそう。
「悪い自分を殴ってくれた先生に感謝してる。体罰は必要だ」と語る大人は少なくない。
「言うこと聞かない奴は殴る。殴った子ほど後に慕ってくれる」とのたまった顧問もいた
意外なことかもしれないが、加害者を憎むより、自分が悪いと思う方が楽なのだ。憎むのはエネルギーが要る上に、被害は自己肯定感を失わせ、自責に向かわせる。
更に問題なのが、「被害に遭った自分が悪いのだ」を他人にも押し付ける奴がいることだ
山口達也に襲われた女子高生をセカンドレイプしてた女性達のうち何人かが「私は電車で痴漢されたことがあるけど自分が悪いと反省したのに」「セクハラでキスなんて私もされる。よくあること」と言っていた。
「私はレイプされても我慢したんだから、痴漢くらいで訴えるなんて甘えてる」
「いじめられる方にも原因がある。自分がいじめられて変わったようにお前も変われ」
「俺の時代は体罰は当たり前だった。体罰が禁じられて甘えたガキが増えてる」
「今はなんでも毒親毒親と。私は暴力アル中etcの親にも感謝してるのに」
「今の女は甘えてるのよ。私は夫に殴られても我慢して尽くしたわ」
これ、全部見た。
人は自分の身に起こった事(幸福でも不幸でも)に理由付けをしたがる。
普通の人でも不幸が連続して降りかかった時に「俺は前世で悪いことをしたのか」と溢してしまう。
「あなたが受けた虐待はあなたが前世で悪いことをしたからです。あなたがその体験をしたいと選んだのです」的なスピには、意外と虐待の被害者がハマってしまう。自分の受けた不幸に理由付けをしてくれるからだろう
殺人事件の被害者遺族なら犯人を憎みまくるはずだって?それが、そうでもない。
「心にナイフを忍ばせて」という、少年犯罪の被害者遺族を追った本では、少年Aに対して被害者遺族が同情的なコメントをするシーンがある
また、死刑賛成派のルポルタージュでは、死刑囚が被害者の兄と手紙で交流し、被害者の兄が「彼を死刑にしないでください」と頼み込むエピソードがあった
死刑反対派の森達也氏も、死刑を望まない遺族は意外と多いと言っていた。遺族と言っても生前の被害者と良い関係とは限らないが…
断っておくが、被害者に原因があるとか被害は大したことないとか言いたいわけではない
むしろ、だからこそ虐待もいじめも体罰も性被害もDVも殺人も、許されないし痛ましいのだ。
もちろん、全ての被害者が憎まないわけではない
加害者が憎くて堪らない、殺したい、そんな人の方が自然だろう。
だが、加害者を憎まない、憎むことすらできない被害者は「意外と」いる。
そして、被害者は加害者の代わりに自分の味方や同志を憎むことがある。
虐待を受けても親を慕う子供は、親から引き離そうとする大人を憎むだろう
発展途上国だかで性的虐待、児童買春の被害に遭っていた女の子が保護された後、不自由に耐えきれず何度も施設から逃げ出して売春しようとしたって、その人の人生を綴った本に書いてあった。きっと、施設に連れ戻し不自由な生活を強いる保護してくれた大人を憎んだのではなかろうか。
前に「九州の田舎に嫁いだ語り手がレイプ未遂に遭って、姑に『みんなあの男に足入れされて我慢してるんだから』と説得されるも振り切って被害届を出したら、『未遂のくせにズルい』と被害を受けた女性達から嫌がらせされるようになった」という地獄みたいな話を読んだ。
レイプ男には仕方ないと諦めて立ち向かわないが、「被害を我慢しない裏切り者」は憎み、嫌がらせする。
ナチス政権下では、ユダヤ人を虐げる中にはユダヤ人もいた。他のユダヤ人と違って特別扱いをされていた。
そんなユダヤ人も、しまいには他のユダヤ人と同じように殺された。
ユダヤ人自身からも、「ユダヤ人が虐げられたのは自業自得」という意見は出ていたのだ
彼らは「あなたはいいユダヤ人だ」と褒められていたのだろう。そして、「他の悪いユダヤ人がいるから私達ユダヤ人は差別されるんだ。本当に迷惑だ。許せない」と思っていたに違いない
https://anond.hatelabo.jp/20260202143617
■ガールズバー経営者だけど色恋営業なんて存在しないと語りたい
以前、ガールズバー/コンカフェ経営の実態を書いたのだが、記事が削除されていたため、改めて書き直す。
Xなどで「女は色恋営業しているんだろ」という意見をよく見かけるが、
ガールズバーや一般的なコンカフェにおいて、色恋営業を能動的に行うことはありえない。
せいぜい店前で声をかけるか、HPやSNSで日記を書く程度で、外に出て個別に関係を作りに行くような営業形態ではない。
多くのキャストは、他の仕事やレッスン、学業などを抱えている。
その中で、外で色恋営業を仕掛けるような時間や体力があるかといえば、現実的ではない。
実態として多いのは、キャストがやんわり距離を保っているにもかかわらず、客側が勝手に好意を膨らませ、課金を始めるケースだ。
断られても、「これはまだイケる」「もっと金を使えば状況が変わる」と解釈し、無理な支出を重ねていく。
そして期待が満たされなかったときに、「色恋営業をされた」「裏切られた」と言い出す。
「ありがたいけど、あまり身を崩すほど使わないでください」
周囲が制止しても、勝手に燃え上がり、勝手に詰み、勝手に逆上する。
情報のある部分だけをまとめ、空疎かつおもんない部分を全削除した。
おもんない通り越して可読性を下げていたため講評の為に整理しているが、
内容のある部分は極力そのままにしてある。
あり得ない。
実名やidを出してるとサクサク消えるがそうでなければ消えないのが増田だ。
お前は自分で消したはずだ。
おそらくだが別のガルバ関係者にニワカっぷりを突っ込まれてたので、
反論や酷評に激しい反応をするタイプなのはビンビンに伝わってくる。
せいぜい店前で声をかけるか、HPやSNSで日記を書く程度で、
ここはもう意味不明で、
どうも路上でのキャッチもしくはいわゆる店外をすることだけを「色恋営業」と定義したがっているのがわかるが、
一般的には店に来た人間にキャストが気のあるような態度を示すことを幅広く「色恋営業」という。
もちろん濃淡はあるが、基本的にはそういう態度を作って取れるだけ取るのが水商売だ。
この増田がわざわざ狭い定義を作ってから「色恋なんかやってない」との主張を試みたことから考えれば
ガルバ業界では通常の定義の色恋営業は広く行われていることが推測できる。
つーかそんな推理とかせんでも、水商売は色恋要素抜きには成り立たないのだ。
風俗なら射精という着地点があるので「淡々と抜く」というスタイルも成り立つが
ガルバだのキャバクラだのは別に話なんかなんも面白くないねーちゃんと酒飲んで話すんだから
ここにはなんらかの疑似恋愛性がなければなりたたない。
水商売の「色恋やってない」は
「ありがたいけど、あまり身を崩すほど使わないでください」
パンクするほど使わないでほしいというのは本音だろうが(トラブルになったらめんどくせーし)
もちろん全員がそんな都合のいいところで止まらないのでトラブルは起きる。
あと細かいことを言えば「身を持ち崩す」だ。
水商売やっててこんな定番定型句も正しく出てこないということは
まあ
「色恋営業なんかしてない!」なんていう無理のある主張よりは
「廃課金より手前で止めようとはしている!」と主張することの方がまだ筋はいいだろう。
それをもって水商売のキャストやオーナーが無謬だなんて思う人間は殆どいないと思うけど。
・かなり独自ルールな、範囲の狭い「色恋営業」を定義したうえで「色恋やってない!」と主張する
水商売とあまり縁がないはてブみたいな人種にはもっと通じないので
あと変な例えの羅列が本当に面白くない&あまりにも長すぎるので
寄り分けて本体部分を読むことすら困難になっている。
AIか古舘伊知郎に考えさせたみたいな地に足の着かない例えが多すぎる。
自分でやってるならご苦労さんだけど「面白いこと言おう」と考えて捻り出してる感じがする。
そういうのはまず本体がちゃんとわかりやすく読めるように書けて
C.弱男へのボルテージの高い説教 →水商売行くタイプがそもそもはてなには絶無レベルで居ない
という3要素、たぶんやりたい優先度はB→C→Aの順なんだろうけど
組み立てとしてはAがちゃんとできてB、Bがスマートに出来たらCの順なので
Aをしっかりやろうという話。今のお前に需要があるのはAだけ。
まずAで受けそうなネタを探して
それを上手く書けるようになるところからやっていけ。
以上
すげー親切な講評を無料でやってあげました。
おわり。
実はそれにも色々秘訣があるんや。
まず演説内容。
政策なんて真面目で難しい話は全くせず、ひたすら共感を促す内容とスカッとできる言葉で構成しとるんや。
ほんま考えられとる。
つまんない政策なんかダラダラ並べ立てられても、クソ真面目に聞く聴衆なんかおらへん。
ほとんどの大衆はそれで足を止めよう、ここに投票しようなんて思わへん。
聞いていて心地よい、その場にいて盛り上がる。
そういう演説になるよう候補者演説も応援演説もバッチリ対策しとる。
例えば「今日は子供の誕生日でした。本当は一緒にお祝いしたかったけど私にはやらなければならないことがあります!子供もそれを理解してくれて、私を送り出してくれました!」みたいな感動話。
こんなん聞いたら応援したくなるやろ。
例えば「私は政治のことを何もわかりませんでしたが、政治がおかしいことを参政党に教えてもらい、参政党なら変えられると仲間になりました」みたいな政治は難しくて分からんって人に共感してもらえる内容。
じゃあ自分も、ってなるやろ。
当然、「そうだそうだ!」となりそうな怒りの共感を誘う内容も色々盛り込んどる。
他にもパターンがあるから何回も参政党の演説聞いて比較してみてな。
聞いていて心地よかったり、頼もしさを感じる言葉ばかりが散りばめられとるで。
他党の臆病な政治家ではビビって言えないような強い言葉もバンバン使う。
参政党はそれも凄い。
しかも演説中突然やってくれるからなズドーン!と胸に響いてスカッとするんや。
濡れてる女もいるんやないかな。
他党のよわよわ政治家じゃ対処できない困難でも強気で対応できる男の中の男や。
悪者アンチを打ち倒す正義のヒーローみたいでこの人しか頼れる人はおらへんって感じさせられるで。
次に支持者の配置。
支持者は前の方に集まって盛り上げる。
それが普通だと思うやろ?
でも参政党は違う。
ただ後ろを通りかかって立ち止まっただけの人の近くにもおる。
そんで候補者や応援の人が盛り上がることを言ったら大きく拍手をするんや。
周りに拍手する人がいたら何も興味なくてもなんとなく自分も拍手しなくちゃって気分になるやろ?
ほんで拍手の輪がどんどん広がっていって大盛りあがりしてるようになるんや。
拍手されるほどいいこと言ったんだろう、って思ってしまうこともあるやろ?
しかもな、人間っちゅうのは不思議なもんで、拍手でもなんでも、何かをしてあげるとその相手に好意を抱きやすくなるんや。
心も開きやすくなってくれるっちゅうわけやな。
しかも一部の支持者は、自分が支持者だってことを隠して普通の人の格好をしとる。
ちゃんと見てるとカバンのスキマからオレンジ色がめっちゃ見えるかもしれへんで。
グルーブ感、ちゅうんかな。
実にイージーだと思うんだけどね…
常日頃関わる男性で多少見た目が太めだったり冴えなかったりしても、にこやかに挨拶してくれて感じの良い人だなと思っていたら、大抵左手薬指に指輪をしてるし。男が結婚するのはイージーだよ。
まあ、そういう人の奥さんは同レベルの見た目なのかもしれないなな。
食事なりデートコースなりの付加価値を乗せない素の自分に対して、最初から無条件の好意をもってる相手とでないとデートしたくないからじゃない?
最初から好意持たれてる前提だから「初回だからちょっと頑張ってムードを作り仲良くする」ということそのものに意味感じないし、相手に試される事自体に嫌悪感ある
自分が何を選ぼうと「弱男くんの選んだものだから大好き!」「弱男くんと一緒ならなんだって幸せ!」っていってくれる人とでないと付き合いたくない、付き合える自信がないわけ
「ヘタにアバター課金して課金アイテムのセンスで評価されるぐらいだったら、無課金初期アバターでいい」みたいな感じ?
まあ、たしかに無条件の愛ってのは聞こえがいいけど、本当は、恋愛を通じて相手に好かれるためにやるちょっとした背伸びが結果的に自分の文化資本として蓄積されていくもので
それを若いころからやってる人とそうでない人とでは人生の豊かさに相当の差がでるんだけどね。
サイゼ初デート擁護してるおじさんたちは、コミュニティ内であらかじめ仲良くなるプロセスを踏んだ上での初回デートを想定してるから、それなら「サイゼ1000円デッキ組もうぜ」みたいなノリから始まるデートだってアリはあり
でも今の若者ってそういうのないんでしょ?マチアプとかでよく知らない人と出会ってデートして仲良くならないといけないわけじゃん。前提がずれてんのよ。
好感度80ぐらいまで来てる人と初めて2人でデートするのと、事前情報だけ見て好感度はこれから計測しますって人とデートするのとで前提条件が違いすぎる。
私のクラスのいじめられっ子、名前を仮にHくんとするけど彼は元の増田が言及しているようないわゆる積極奇異型と思われるタイプの人だった。
当時彼の素性を知らなかった私は普通に何回か口を聞いてしまった。
元のクラスはどこだったか、部活は何をしてるのかとかそれくらいの社交辞令に近い会話だったんだけどどうも私はH君に一方的に好意を抱かれてしまいストーカー被害を受けるようになった。
・授業の合間とか以外、例えば休み時間や掃除の時間にもしつこく話しかけられる。
・下校時に学校前のバス停で待ち伏せされる。(H君は帰宅部のはずなのに私の部活が終わるまで何時間も待っていた)
・既読無視してもしつこくLINEを送ってくる。(クラスのグループLINEからアカウントを知られてしまい、まだストーカーと知る前の最初期に友達登録を通してしまった。その後もブロックしたら刺されそうで怖かったので対処のしようもなかった)
幸いクラスの中の良い女子が味方してくれてH君が話しかけてこないようにガードしてくれたり一緒に帰ってくれたりしたけどつきまとい行為に怯えなくちゃいけない状況なのは変わらない。
友達にも付き添ってもらって先生に相談したけどH君のストーカー行為は一切変わらなかった。
H君からLINEで「先生に何か相談したの?」的なメッセージが来たから何かしら言ってはくれたんだと思うけど何も効果がなかった。(メッセージは当然既読無視した)
夏頃に本当に我慢できなくなって友達に付き添ってもらってH君にこちらの気持ちを正直に話した。
・話しかけてほしくないこと
友達の援護ももらいながらこれらを丁寧に説明しても、H君は「納得できない」「ふたりの問題に関係ない第三者が入ってきているのが気に入らない」「嫌うのは自由だけど僕にも話しかける権利はある」みたいな感じで何も話が通じなかった。
こちらがどれだけ恐怖と気色悪さを感じているか伝えても「納得できない」「理解できない」の一点張り。
今となっては笑えるけど、私が放課後に呼び出したことについて当初H君は告白されると誤解してたらしい。
話し合いの最後の方にH君は涙目になりながら「告られると思って期待してたらなんでこんな目にあわせるの!?」って叫んでいた。
こういうことが色々あって、男子にもH君の奇行は知られることになった。
私のクラスはH君以外、男女間も仲の良い雰囲気のクラスだったから私の友達のひとりが男子側にもH君のストーカー加害について共有して男子の方で何とかできないか相談したらしい。
もちろん先生にも追加で2〜3回相談したけど一向に改善しない。
それで男子は男子でH君が私や他の女子に変なことをしないようガードを固めてくれることになった。
・私を始め女子が怖がっているってことをH君に伝えるも「本人の口から聞かないと納得できない」「お前らに従う義理はない」と反抗された。
・A子(私)に嫌われているってことは確定事項でしょ、本人の口から聞いたでしょと伝えても「本人の口から聞いてない」「あれはA子が友達から言わされていただけ」「2人きりで話せないと納得できない」と反抗された。
・とにかく女子が怖がっているのでお前はもう女子に話しかけるなと再三言っても一向に話を聞かない。
・それでH君が女子に話しかけようとしたらその回数分だけケツを蹴り飛ばす協定が男子間で結ばれた。
・流石にケツを蹴るルールを適用してからはH君も大人しくなった。
・いまはH君も女子に話しかけるムーブをしていないのでH君とは関わらずに普通に無視している。
とのことだった。
私自身はH君が蹴り飛ばされている場面を目撃したことはないけど友達が男子に相談した後ストーカー被害を受けることは減っていき平穏な学校生活を送ることができるようになった。
私を守ってくれていた友達のうちの一人は日頃の恨みもあって何回かH君を蹴り飛ばしたことがあるらしい。
これ、お尻を蹴る行為は普通にいじめといえばいじめだけど自衛のための仕方ない暴力でしょ。
世の中どれだけ言っても迷惑行為をやめてくれない人っているよ。
元の増田で「いじめられっ子に原因があってもいじめはよくない!」みたいなこと言ってる人って、先生も頼りにならないこの状況でどうやって彼のストーカー加害をやめさせるの?
純粋に疑問。
繰り返しになるけどいじめられっ子が圧倒的に悪いタイプのいじめってあるよ。
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