
はてなキーワード:奴隷道徳とは
https://x.com/kurtz652/status/1989872628560269507
なぜビジネスでやってる動画の人気に反して、SNS石丸を妄信的に信じている人たちはフォロー数が100以下のカスばかりなのか
比較的大手の稲中ものという人物ですら5000フォロワー以下のゴミばかり。
これは本質が石丸支持ではなく石丸や立花を介してルサンチマンを発現したいからだ。
まともな人は、石丸や立花自身は全く信用していない。都合が悪くなったら切り捨ててよいものなのだ。
本当のバカにして最底辺のカスだけが本気で石丸や立花を信じている
現代のインターネット上で、特定の人物(石丸伸二氏や逮捕された立花氏など)を支持し、他人を攻撃したり引き摺り下ろしたりする行為を通して「権力体験」を味わう人々をニーチェ哲学の視点から解釈すると、「ルサンチマン(Ressentiment)」と「奴隷道徳(Sklavenmoral)」の概念が中心になります。
ルサンチマンとは、フランス語で「恨み、怨念、復讐心」を意味し、ニーチェはこれを道徳の根源の一つと見なしました。
根源的な感情:自分の力の弱さや無力感からくる不満や屈辱感を、外部の強者や成功者に対する否定的な感情として溜め込むことです。
力の裏返し:現実の世界で自分の力を発揮したり、望む地位や影響力を得たりできない人々が、その鬱積した感情を「攻撃」という形で発散させ、一時的な「権力」や「優越感」を得ようとしている状態です。
ネットでの増幅:インターネット匿名掲示板やSNSでは、集団的な攻撃によって個人の責任が薄れ、また、相手を簡単に貶めることができるため、ルサンチマンを最も手軽かつ安全に発散できる場として機能しています。
ルサンチマンが根源となり、「善悪」の価値基準を逆転させるのが奴隷道徳です。
価値の否定:奴隷道徳は、「強者」や「主人」が持つ「力強さ」「大胆さ」「自己肯定」といった価値を「悪」として否定することから始まります。
自己の正当化: そして、「弱者」自身の持つ「謙虚さ」「従順」「弱さ」といった性質を「善」として祭り上げます。
ネット社会での適用:ネットでの攻撃の場合、攻撃対象となる「強者」(権威者、成功者、既存の体制)の欠点や過失を徹底的に暴き出し、「正義」の名のもとに集団で引き摺り下ろす行為が「善」であると正当化されます。
彼らの目的は、より良い社会の創造ではなく、既存の強者を無力化し、その没落を見ることで、自分たちの立場が相対的に上がったかのような錯覚(権力体験)を得ることにある、と解釈できます。
この現象は、ニーチェが説く生の根源的な衝動としての「力への意志」が、創造的な方向ではなく、破壊的な方向へと歪んで発現している例とも言えます。
本来、力への意志は「自己克服」「自己創造」に向けられるべきものです。しかし、現実世界でこの創造的な力を発揮できない人々は、他者を破壊し、引き摺り下ろすという消極的で容易な手段を選び、そこから「力を行使した」という一時的な満足を得ている、と解釈されます。
私の時代から一世紀以上を経たこの地上に舞い戻り、「弱者男性」「強者男性」という言葉が流行っていると聞いた。どうやら“弱い”と“強い”の二元論で男の価値が安易に測られ、その一方で人々は皆、自らがどちらに属するかに怯え、もしくは誇らしげに語っているらしい。だが諸君、それが本質的な人間の力の在り方を示していると本気で信じるのか?
私はこう問う。「弱者男性」「強者男性」という区分は果たして誰のためにあるのか、と。もしそれがただ社会の視線や他者の評価から与えられ、個々人がそれに媚びたり振り回されたりするだけなのであれば、それは“価値の奴隷化”の証でしかない。人が自分で自分の価値を創造するのではなく、他者にゆだねているのであれば、それは私が『道徳の系譜』で指摘した“奴隷道徳”の時代が形を変えて続いているにすぎないのだ。
では私が現代の諸君にあてて、「弱者男性」「強者男性」という言葉を再定義するとしたらどうなるか? 私は「弱者男性」という呼び名を「自己否定の迷宮に囚われた者」、そして「強者男性」という呼び名を「自己創造の悦びを知る者」と呼び替えたい。
いわゆる弱さを抱えている――それは悪いことではない。むしろ人間誰しもが不安や恐怖に襲われ、失敗し、弱さを自覚する瞬間がある。それ自体は自然だ。だが問題は、そこから抜け出せずに自己否定の淵に沈んでしまい、「自分はどうせ弱者だ」と開き直り、あるいは周囲の同情や嘲笑に身を委ねてしまうことだ。
“弱さ”をアイデンティティにしてしまう者は、自らを狭い牢獄に閉じ込める。ここで私が言う“弱さ”とは、他人によって規定された評価や属性に自分でとどまり、みずからの可能性を放棄してしまう心理状態を指す。諸君、他人の期待や既存の価値観に絡めとられてはならない。
世間でいう“強さ”とは、権力や金、あるいは身体的な力で他者を支配することだと思われているかもしれない。だが私に言わせれば、それは浅い理解にすぎぬ。真の“強さ”とは何か? ――それは、自らの弱さをも肯定し、それを力へと転じるための創造的エネルギーをもつ者のことだ。
「自分はどうありたいのか?」「何を生み出したいのか?」――この問いに対して他人からの評価に惑わされることなく、自分の意志に基づいて行動し、生きる歓びを“新たな価値”として打ち立てられる者。自らの軸をもって世界に挑戦し、困難や苦しみによって磨かれながら高みに至ろうとする者。それこそが、“自己創造の悦びを知る強き存在”なのだ。
私は「力への意志」という言葉を残したが、それは単純な“他者への支配衝動”ではない。人間存在そのものが自己を拡張し、高め、価値を生み出そうとする根源的な力のことを指している。自分という存在を創造するために、時にこれまでの自分を壊すことも必要だ。たとえ社会に認められなくとも、自分の歩む道を新たにデザインし、己の生を音楽のように奏でることができる者こそが、私の言う“真の強者”である。
「弱者男性」「強者男性」といった言葉を、社会のラベリングとして機械的に受け取ることはやめ、各々が“弱さ”や“強さ”を自分で再解釈してほしい。そして自分の内奥にある意志を見つめ、何を創り出したいのかを問い直してほしい。
名声や金や地位を求めるもよし、家族や仲間と幸福を築くもよし。ただし重要なのは、そこに自らの意思が宿っているかどうかだ。他人の期待や世間の評価に引きずられるままに生きてはならない。己の足で立ち、新たな価値を見出すことを忘れてはならない。
さあ、諸君。今こそ“自己否定の迷宮”を抜け出し、“自己創造の悦び”へと飛び込むのだ。激しい葛藤や痛みから逃れず、それを通してこそ自分が研ぎ澄まされる。その先にある高みを目指す諸君の姿こそが、私の望む“人間の未来”の一端であると信じているのだ。
| 時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
|---|---|---|---|---|
| 00 | 114 | 11343 | 99.5 | 37.5 |
| 01 | 97 | 10790 | 111.2 | 52 |
| 02 | 98 | 12986 | 132.5 | 43 |
| 03 | 39 | 6745 | 172.9 | 82 |
| 04 | 45 | 3921 | 87.1 | 67 |
| 05 | 59 | 5244 | 88.9 | 51 |
| 06 | 35 | 4557 | 130.2 | 62 |
| 07 | 85 | 17269 | 203.2 | 48 |
| 08 | 93 | 9089 | 97.7 | 40 |
| 09 | 120 | 15429 | 128.6 | 48 |
| 10 | 207 | 17824 | 86.1 | 43 |
| 11 | 162 | 16919 | 104.4 | 52 |
| 12 | 189 | 23026 | 121.8 | 56 |
| 13 | 195 | 15384 | 78.9 | 45 |
| 14 | 227 | 15983 | 70.4 | 39 |
| 15 | 229 | 16016 | 69.9 | 40 |
| 16 | 161 | 16403 | 101.9 | 50 |
| 17 | 131 | 12928 | 98.7 | 48 |
| 18 | 149 | 16236 | 109.0 | 38 |
| 19 | 137 | 10330 | 75.4 | 38 |
| 20 | 232 | 16361 | 70.5 | 23.5 |
| 21 | 292 | 21676 | 74.2 | 33 |
| 22 | 266 | 26230 | 98.6 | 33 |
| 23 | 316 | 24112 | 76.3 | 31 |
| 1日 | 3678 | 346801 | 94.3 | 39 |
仮装大賞(6),SWC(12),選手入場(8),森山未來(4), こわ~い(4),23年前(7),ピクトグラム(6), すぎやま(6),安田大サーカス(3),1974年生まれ(3),奴隷道徳(3), annai(3),開会式(117),小山田(44),カルチャー(24), 辞任(26),小山田圭吾(24),五輪(124),虐殺(18),サブカル(17),オリンピック(188),ドラクエ(15),キャンセル(27),演出(40),選手(63),世論(17), バック(25),電通(17), 開示(13), 開催(49), 盛り上がっ(22),NHK(22),世界中(20),加害者(22),重症(19)
■ユダヤ虐殺ごっこのアメリカ人やイギリス人の反応が思ってたのと違った /20210723003923(21), ■「批判をただ受け入れる」という選択肢が、もう残っていない /20210722191747(19), ■日本人、現金好きすぎでは? /20210723171936(19), ■オリンピック開催してくれてありがとう /20210722222528(17), ■ /20210722011009(14), ■高級料亭のひつまぶしより牛丼チェーン店のうなぎの方がうまい /20210722204741(13), ■呪術廻戦の映画に喪服で行くのやめてほしい /20210723210334(12), ■ /20210722154147(12), ■精神と時の部屋NTRっていうの考えたんだがどうだろうか? /20210722220307(9), ■ハトうるせえなあ!!!!!!! /20210723165100(9), ■anond:20210723234839 /20210723235140(8), ■anond:20210723015924 /20210723020218(8), ■旦那がピザ配達員を見て「ピザいいな」というから「ピザ注文するか」と聞いたら「それは違う。概念」と言われた話 /20210723120048(7), ■増田の書き込みのID全開示されないかな /20210723145647(7), ■俺に「他人任せは内臓売れ」って言った増田 /20210723084328(7), ■はてな民って相変わらず超馬鹿なんだな /20210722232529(7), ■菩薩の先輩 /20210723173557(7), ■逆張りガイジどもの知能と社会経験では難しいと思うけど /20210722171528(7), ■過去ブに飛ぶサイトつくった /20210723123621(6), ■やれば成功だって分かってたでしょ?w /20210723223439(6), ■オリンピック反対派が哀れなくらいに分断させられてるな /20210723164421(6), ■結局「百合」って何 /20210723192535(6), ■はてな民が見たくない現実 /20210722134334(6)
それに対し、弱者男性は、実は、たびたび反発してきた。
自己責任論、体育会系、ブラック企業の影響力が弱まってきて、草食系男子や家庭を大事にする男子が増えているのもその成果なのだ。
これらの成果があなたに見えていないのは、弱者男性の行動をフェミニズムの手柄としてすべて横取りしてしまっているからである。
強者に対する戦い方として、抑圧する側を悪、された側を正義とし、力ではなく、善悪という価値基準による転覆を目指している。いわゆる奴隷道徳というやつだ。
だが、フェミニズムというのは、常に女性を被害者に置き、男性全体への差別を、差別でないことにする言動や行動ばかりだ。(例:女性専用車両、障碍者支援地域の性犯罪率発言等)
強者男性と戦っている弱者男性をひっくるめて否定し、しかも抜け駆けして強者男性と結婚しようとしているわけだから、フェミニズムは反発されるのである。
https://togetter.com/li/1369547
http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348
この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。
自分がフェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラルな学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントをフォローするようになっていった。
彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識に女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。
身近に思いっきりセクハラの被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動の存在に私が気付くのは、ずっと先のことである。
といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。
とはいえ、各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。
で、私がフェミニズムという運動そのものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。
あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体が時間の無駄だと思っている。
ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。
事の経緯としては、最初にとある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである。
が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデアは古今東西多くの虐殺を引き起こしてきたのだ。
それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。
なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間が自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見や認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?
本当なら、フェミニストたちはこの発言を擁護するべきではなかったのだ。
繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつの論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。
なのに彼らはそれをやらなかった。
その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的にものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言を擁護し、食ってかかる人間へ罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりのお題目ーー男性社会の犠牲者ーーを大声で唱えた。私たちは被害者だ、奴らが悪いのだ、と。
なんということはない。彼らの行動原理は正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。
彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。
「日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。
「権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策が実施されていた時代のアメリカで、黒人が白人を殴ることと白人が黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人は被差別階級だからだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。
ただ、私としては最終的に、これは否であると判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。
第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人の属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。
人権というのはつまるところ社会的フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別を問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別、民族、性的指向、政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的に個人の権利を制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念は人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。
女性差別の撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。
これは難しいところだ。政治的な目的を達するため不正な手段を用いることが、一時的な戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論を暫定的にだが出すことになった。
例えばアファーマティブアクション(これは自分は否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロな差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別だから悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。
社会というものは原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。
ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。
敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家が効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッドは社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。
今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知な学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムのおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。
昨今、TERF関連でまたフェミニズムが面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分の判断が正しかったことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的な狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。
教訓があるとしたら、人々の情動を喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体が不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間の言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。
昨日投稿したら増田の文字制限にひっかかった。8000字が限度っぽい。
前半はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20180504170139
その後、僕はフェミニズムの文献をあさるようになった。性の問題についていけるところまでいってみなければ自分の気がおさまらなかった。僕は男性ジェンダーに批判的になり、一度は大学に「復帰」したものの、卒業しない方が政治的に正しいと考えるようになった。なにかと特権や権力を自己批判するようになり、両親は僕が宗教にでもはまったのではないかと心配したらしい。
実際、フェミニストの方と(特に、男性中心主義社会との闘争を掲げ、意図的に男性を蔑視する方と)交流することで、僕は自己肯定感や性的主体性を失っていったと思う。いいかどうかは別として、フェミニズムにはそのような攻撃性があり、多くの男性が防衛的になるのもあるていどやむを得ない。
また、僕は性欲を男性に向けるように努力し、自分が犯されたり、屈辱的な目にあうことを想像しながらアナルオナニーするようになった。
そしてある界隈に足を運び、男体持ちで僕に性的関心を向ける人と出会い、セックスした。そのときは緊張したが、僕は無事に(?)勃起し、相手のペニスを自分のアナルに入れ、自分のペニスを相手のアナルに入れて射精した。
たしかに性的関心はある程度社会的に構築される、つまり教育や啓発によって、自分の中の異性愛・同性愛傾向を抑圧したり強化したりすることができると思う。しかし、僕はその男体持ちの人に、前の彼女に感じた執着を向けることができなかった。二人の関係は「セフレ」だと伝えたつもりだったが、反対に、その人は僕との関係に本気になった。僕はその人に対して自分のセクシュアリティ(正しい綴り!)をはっきり伝えることができず、なしくずしで関係が始まり、深まっていった。
その人は性的マイノリティであり、IQは高いけれども安定した人間関係を続けることが難しく、広義の「弱者男性」と言えると思う。そしてアカデミックなキャリアが行き詰まり、安定した仕事につけず、セクマイ界隈の一部とも関係が悪化し、追い込まれていくことで僕への性的依存を徐々に強めていくようになった。非モテ男性が異性の恋人によって一発逆転を夢見る心理は、同性の恋人においてもある程度あてはまるのかもしれない。
その人は、フェミニズムを受け入れ積極的なコミュニケーションを取れない「おとなしいコミュ障」の僕のことしか知らない。哲学や科学の一部の分野では僕が堂々と自己表現し、ときには攻撃的にすらなれることを知らない。その人は僕に対して容赦なく感情を爆発させるようになり、僕は一度は距離をおいたものの、あるセクマイ系イベントで再会したのをきっかけに引き戻されてしまった。
僕はそのときも、もうあなたと別れたいとつっぱねることができなかった。その人は、僕と恋人関係にあることを堂々とまわりにアピールしている。僕はそのイメージに流され、僕の意思は違うのだということを言えないままに、あいまいな笑みを浮かべつづけていた。
その人は僕にさらに感情的・性的に依存するようになり、僕は強くなろう、対処法を編み出そうと必死で本を読んだ。google:別れる? それともやり直す? カップル関係に悩む女性のためのガイドは男性ジェンダーとして傷つくことも多いが、つらい関係を終わらせることができるという希望も与えてくれる。ウ・ジョーティカgoogle:自由への旅はしんどいときにつまみ読みした。マインドフルネスのモチベーションを上げてくれ、1時間程度の瞑想ならできるようになった。あと、google:ツァラトゥストラはフェミニズムは奴隷道徳だ、権力を肯定し超人を目指せ!と言っているようで心にしみた。
さて、けっきょく大学を中退した僕は派遣に登録して社会人になった。今は大手メーカーの工場で生産管理をしている。
新しい仕事や住まいがあるていど落ち着いたところで、売り専に登録した。応募はとても緊張した。メールを送ろうかどうか、一か月近く迷っていた。意を決して送信した最初の店は落ちたが、次の店はやとってくれた。
売り専で働く直接のきっかけは、セックスワークについて知り、さらに、男性ジェンダーも性的対象として消費される経験をしてみなければと思ったからだ。友人にもフェミニズムの影響でちょっとだけ売り専をやったことのある人がいた。それに、僕はなんだかんだセックスが好きで、性的関心が強く、その方向で自己実現(?)してみるよいチャンスだと思ったのだ。もちろん、異性にモテてセックス相手に苦労はしないという実現のしかたもあるが、身長が低く押しも弱く吃音気味の僕にはどう転んでもできそうにない。でもそれは性的対象としてはむしろ強みになるんじゃないか?
実際にやってみると、自分に性的な価値があり、それにお金を払う人がいるということは自信になった。僕を指名するひとや、リピーターになる人がいた。僕を買う人はいつも僕の容姿を褒めてくれた。年配の人はチップをくれたりご飯をおごってくれたりした。
あと、僕は中一のときに一度痴漢に遭ったことを思い出した。トラウマとかではなく、自分にはちゃんと性的魅力があったという気づきとして。
僕は男性だが、性的主体でそれ自体に性的価値はないという生き方は向いていないと思うし、男性として性的対象とされることは僕の性に合っていると思う。女性からも自分が性的対象として見られることを意識できるようになり、ファーストキスで彼女が唇を濡らしたように、僕も性的な駆け引きの手段を使っていいのだと思えるようになった。
それに、身だしなみをよくして堂々としていれば、多少のいじりにたいしても動じないし、そのうち相手も一目置くようになるという自信を得た。化粧やファッションが「武器」であり、自分を「戦闘モード」にできるという言い方を女性がすることがあるが、僕もその意味がわかることがある。また実際、その攻撃はある程度効いていて、「向こうが誘ってきたんだ」と言い訳したり二次被害を与えたりする男性は性的な駆け引きにいつも負け続けているのだろうと思う。
閑話休題。得るものは得たと思ったし、またセックスワークを続けることの危険も感じたので僕は半年ほどで売り専をやめた。いままで、僕を買ってくれた人はおおむね常識をわきまえていて、無茶なことはしなかったし「痛い」と言えばセックスを止められた。でも、どこかですごく乱暴な人に出会うかもしれない、という不安をなくすことはできなかった。新しい人とやるときはいつもすごく緊張した。
ちなみに、僕が売り専をしていると知ったとき、当然かもしれないが彼は激しく動揺した。僕がその人以外の人とセックスしていることが耐え難く辛く、またセックスワーカーという挑戦を僕がしたことで、自分が追い越されたと感じプライドが揺らいだのだと思う。
性風俗に対する強い嫌悪感に共感することは、僕には難しい。恋人が風俗で働いたり風俗に行ったりしたことが分かって苦しんでいる(男性・女性の)記事を読むと、こんなに傷ついてしまうのかとやるせなくなる。
もちろん、彼を深く傷つけたと思う。ただ、僕がその人とセックスをするそもそものきっかけは、フェミニズムやセクマイの主張に興味があったからだ。売り専をしたのもそのためであって、新しい恋人がほしかったからではない。その人は性にまつわる社会問題の知識が豊富だったので、僕の行動にできれば理解を示してほしかった。
しかしこの一件で、僕はその人に対して「治療者」として振る舞おうと決心した。僕はあなたの恋人にはなれないということをどこかで伝えなければいけない。しかし当面は、その人が立ち直るのをサポートしようと思った。
そういうわけで、やっとソープの話です。ここまで読んでくれたひとがいるのだろうか…。
僕はこうしてそれなりにセックスを経験したけど、女性の膣に自分のペニスを入れるというセックスだけは一度もしていない。ほんとうは、それは最初に僕を選んだ彼女にあげたいとどこかで思っていた。そういう執着はよくないのかもしれないが、どこかで自分はまだその人の特別な存在になれると思っていた。
しかし、バンクロフトをはじめDV関連の本をあらかた読みこみ、それはDV加害者が被害者に依存する心理と同じであり、僕と別れることをえらんだ彼女に対する甘えであり、僕自身もその人との恋愛から「卒業」しなければならない、と考えるようになった。僕がその人を傷つけたから、その人は別れることを選んだのだと理解できるようになったと思う。
その一方、売り専をやめたことへの区切りもつけたかった。僕はずっと自分を売ってきたが、同じように身体を売っている女の人が何を考えているのか知ってみたかった。それでソープに行く必要はないのかもしれないが、それ以外にチャンネルを知らないし、政治的な連帯というよりはふつうに話しを聞いて体験を共有してもらいたい。もちろん向こうは異性愛男性にサービスを提供するつもりでいるのだから、そんなことは他でやってくれと思うかもしれないが、こっちだってそれなりにお金を払うのだから時間の使い方に多少の自由は許されると思った。
それに、その目的が達せなくても、ふつうの異性愛男性がどういう性的サービスを受けているのかを体験しておくのも意味があるだろう。とかなんとかいろいろ理屈を考えて、ようやく決心して、ソープの予約を入れた。
僕はどちらかといえば、同性や異性に性的サービスをする方が向いているような気もするし、もしそういう仕事があればやってもいいと思う。しかし僕の性的価値がある間に異性に体を売るサービスが一般的になることはなさそうだ。映画google: 娼年を見たけど、お金を払ってあんな乱暴なセックスはしないだろう。まだファンタジーの域を出ていないし、誰か貞操逆転世界な方向でもうちょっとリアルな作品をつくってほしい。
そういえばソープに行く前に、何を思い誤ったかYou Tubeに落ちている女性向けシチュエーションボイスを一晩聞いて「予習」した。本番でまったく使えなかったが、こういうサービスなら僕にもできると思う。
もう少し言うと、異性愛男性がリラックスして射精するというのは分かるのだが、異性愛女性がリラックスしてペニスを入れさせるというのがサービスとして成立するのか?成立しないなら、どういう男性がどういうサービスをするなら成立するのか?そういう需要をホストクラブとかの風俗がどの程度満たしているのかも、ぼくにはよくわからない。レズ風俗が成立しつつあるように、やはりケア役割は女性にとっても女性の方が向いているのかとも思います。
そのときは、男性性欲は男性で解消してもらうのが理に適っているのではないかな…。文句はソクラテスを論破してから言ってください。
「行動したら何かが変わる」が幻想なんだろう。
悩みが深いケースほど、いろいろ行動してダメを繰り返して無力感は増大してるので、
安直にドヤ顔であれこれ言って「出来るだろ!ヤラないだけだ!」と大声出す人はうざがられて当然だな。
もう疲れてどうでもいいしという気持ちが大半の中で吐露してるなら、
そういう反応も妥当だし、やる気出せよ!とか言ったところでムダだよね。
アプローチが間違ってるだけ。
というか、アドバイスして自分の思い通りに動いてくれない!とか文句をつけるなら、初めから近寄らない方がいいよ。
こうやっていちいちブチ切れるうるさいおじさん達の方が多いので、
悩みがあっても黙って1人で抱えて自分のやれる範囲でアレコレやった方が正解だな。
はてナーに相談したら安易にすぐ「精神科に行け」とか言われるけど、
ちなみに、ドヤ顔してニーチェを引いて弱者が~とか言って他人を否定してるけど、おまえのやってることも奴隷道徳だからね。
いっさいの貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対して奴隷道徳は否定から生まれてくる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンをもつ人間にとっては、否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが、奴隷道徳の本質的な条件なのだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-genealogie/