
はてなキーワード:大野源一とは
たぶん、米長邦雄っていう10年くらい前に亡くなった名棋士以来の伝統だと思う。
ちなみに、
・ウィキペディアの記事が言及している「人間における勝負の研究」は、一般人にとっても一読の価値がある。
・米長邦雄は数々の奇行、名言、迷言でも知られていて、調べてみると面白い。
羽生が真っ先にその功績として指摘したのが「相手にとって重要な一局には全力を尽くせ」という米長の勝負哲学だ。「将棋界の要であり礎でもある」(羽生)。従って将棋界には八百長試合が存在しない。好き嫌いの感情で故意に手を抜く無気力な対局もないという。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21048_R21C12A2000000/
「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。
著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗で昇級が決まり、もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。
著書『米長の勝負術』では、トーナメントなどの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている[44]。この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、大相撲などの八百長問題の際に新聞などで引用されることもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E9%95%B7%E9%82%A6%E9%9B%84
載せるつもりはなかったのだけど参考として。プロ棋士数が今の半分以下の70人強しかいない時代でその中のtop20、1970年になっても基本的に年齢が10増えるだけでメンツや序列に大きな変化がないことを確認していただきたかった(1970年でも80人強しかいない)。
| 年齢 | 棋士 |
|---|---|
| 48 | 大野源一(A級/8位) |
| 47 | |
| 46 | |
| 45 | 塚田正夫(A級/7位)松浦卓造(A級/24位) |
| 44 | 高島一岐代(A級/19位) |
| 43 | 花村元司(A級/12位) |
| 42 | 升田幸三(A級/6位) |
| 41 | 丸田祐三(A級/2位) |
| 40 | 本間爽悦(B1/20位) |
| 39 | 松田茂役(B1/15位) |
| 38 | |
| 37 | 大山康晴(名人/1位)原田泰夫(B1/14位) |
| 36 | 加藤博二(A級/9位) |
| 35 | |
| 34 | |
| 33 | 灘蓮照(A級/5位) |
| 32 | |
| 31 | |
| 30 | 関根茂(B2/16位) |
| 29 | |
| 28 | 二上達也(A級/3位)大友昇(B1/18位) |
| 27 | |
| 26 | 山田道美(A級/5位) |
| 25 | 北村昌男(B2/13位) |
| 24 | 有吉道夫(B1/17位) |
| 23 | 芹沢博文(B1/10位) |
| 22 | |
| 21 | |
| 20 | 加藤一二三(A級/4位) |
| 年齢 | 棋士 |
|---|---|
| 58 | 大野源一(B1/11位) |
| 57 | |
| 56 | |
| 55 | 塚田正夫(A級/32位) |
| 54 | |
| 53 | 花村元司(A級/19位) |
| 52 | 升田幸三(A級/9位) |
| 51 | 丸田祐三(A級/15位) |
| 50 | |
| 49 | |
| 48 | |
| 47 | 大山康晴(名人/1位)原田泰夫(B1/13位) |
| 46 | 加藤博二(B1/16位) |
| 45 | |
| 44 | |
| 43 | 灘蓮照(A級/18位) |
| 42 | |
| 41 | |
| 40 | |
| 39 | |
| 38 | 二上達也(A級/7位) |
| 37 | |
| 36 | 【山田道美(A級/5位)】 |
| 35 | |
| 34 | 有吉道夫(A級/5位) |
| 33 | 佐藤大五郎(B1/14位)芹沢博文(B1/17位) |
| 32 | |
| 31 | |
| 30 | 内藤國雄(A級/3位)加藤一二三(A級/4位) |
| 29 | 板谷進(B2/20位) |
| 28 | 大内延介(B1/8位)西村一義(C1/10位) |
| 27 | 米長邦雄(B1/6位) |
| 26 | |
| 25 | |
| 24 | |
| 23 | |
| 22 | 中原誠(A級/2位)桐山清澄(B2/12位) |
| 21 | |
| 20 |
1950年代半ば過ぎより、将棋連盟は財政事情から1年間に採用される新四段を年に2人から3人と極端に絞っていた時代で、そのため若い世代に分厚い有力グループができる新陳代謝があったわけでもありません。もちろん俊英はきちんと昇段していくわけですが、そもそも奨励会の人数自体が少なく、年齢制限も有名無実な時期さえありました(なので1960年に移ってもほぼ変化がないため、遡るのはここまでにします)。そういうこともあって1960年代は大山康晴が全タイトルを独占する時間が長く続き、二上達也や加藤一二三が僅かにそこに手がかかる程度の圧倒的な独走状態でした。しかし打倒大山にその生涯を賭けたと言っていい山田道美が67年に棋聖位を奪取します。難病に斃れた山田はこの時点からわずか1ヶ月前の70年6月に36歳でA級在位のまま死去(そのため表中に特掲しました)。しかし山田が開いた研究会でも鍛えられた中原誠が翌68年に山田から棋聖を奪取し20歳の若さで初タイトル。さらに内藤國雄が中原から69年に棋聖を奪取と、大山統一王朝の終焉が間近な時期でした。