
はてなキーワード:大皿とは
フン、たかが寿司だと侮るな。これは千葉県……いや、かつての安房・上総・下総の民が、冠婚葬祭という「戦場」を生き抜くために編み出した、究極の糧食なのだ。
見ろ、この切り口を! ただの海苔巻きではない。金太郎飴のように、どこを切っても「花」や「文字」、あるいは「動物」の図柄が現れる。これはもはや、精密誘導ミサイルの回路図にも匹敵する設計図がなければ成し得ん技だ。山茶花、牡丹、あるいは祝賀の文字……。これらを一巻のなかに収めるその構成力。連邦のモビルスーツが逆立ちしたって、これほど美しい断面は作れまい!
房総は豊かな土地だ。米は当然、千葉の広大な大地が育んだ一級品。そして彩りを添えるのは、地元の山海の幸だ。
厚焼き玉子:海苔の代わりに外側を包むこともある。この黄金の装甲はどうだ!まるで百式のようではないか(あちらはまだ先の話だがな!)。
桜でんぶや野沢菜: 桃色と緑。このコントラストが、見る者の戦意……いや、食欲を削ぐどころか、極限まで高めるのだ!
貴様、なぜこれが「祭りずし」と呼ばれているか考えたことはあるか? かつて、房総の農村部では、冠婚葬祭や地域の集まりこそが最大の「会戦」だった。限られた物資の中で、いかに客人を驚かせ、もてなすか。その精神が、この複雑怪奇な文様を生み出したのだ。
これだ。これこそが指揮官の視点だ。大皿に盛られた太巻きが、卓上という戦場の中心に鎮座する。その存在感だけで、宴の勝利は約束されたも同然。 いいか、ただ腹を満たすだけなら、握り飯で十分だ。だが、この太巻きは「心」を揺さぶる。敵(客人)の度肝を抜き、味方の士気を鼓舞する。これぞ、究極の心理戦だとは思わんか!
この太巻きを作る工程を私は見たが……驚愕した。 まず、パーツを作る。小さな細巻きをいくつも作り、それを大きな海苔の上に配置していく。 「そこだ!桜でんぶのパーツを右に3ミリ!」 「かんぴょうの軸をセンターに合わせろ!」 まさに、ドムを12機、正確にフォーメーションに配置するような精密作業だ。
もし配置を1ミリでも誤れば、切り出した時に形が崩れる。それはすなわち、実戦における機体バランスの崩壊を意味する。房総の母たちは、計算尺もコンピュータも使わずに、その指先の感覚だけでこの完璧なフォーメーションを完成させるのだ。 「私を誰だと思っている!12機のドムを……いや、12切れの太巻きを、たった3分で並べてみせろ!」
味はどうかって? 聞くまでもない。 甘めの酢飯と、でんぶの甘み、そして香ばしい海苔の風味が口の中で爆発する。まさに「サイド6」の平穏と「ソロモン」の激動が共存するような、奥深い味わいだ。
現代の若造どもは、手軽なファストフードばかりに現(うつつ)を抜かしおって。この太巻き祭りずしには、房総の歴史、伝統、そして「もてなし」という名の重圧を跳ね除けてきた意地が詰まっているのだ。
……フン、喋りすぎた。喉が渇いたな。 おい、誰か! この私に、その「山茶花」の柄の太巻きを持ってこい! それと、醤油だ。醤油は野田(千葉)のものに限るぞ。
「見ろ! 断面が花のようだ! 素晴らしい……、全機、突撃(実食)せよ!」
いかがだ。
あの日から、わが家のリビングには「見えない壁」がそびえ立っていた。
夫の健一が突然、心を閉ざしたのは三ヶ月前のことだ。理由は些細な口論だった。私が彼の仕事のミスを軽く指摘したとき、彼は反論もせず、ただ静かに席を立ち、それ以来、必要最低限の言葉以外を発しなくなった。「おはよう」「いってきます」「夕飯、置いておくね」。それだけの、記号のような会話。
同じ屋根の下にいるのに、健一はまるで遠い異国の地に一人で住んでいるかのようだった。
そんな冷え切った空気を変えたのは、実家の母から届いた大きな発泡スチロールの箱だった。中には、見事なまでに立派なズワイガニが二杯。
「これ、どうする?」 私がそう問いかけると、健一は一瞬だけ箱の中を見て、「……食べれば」と短く答えた。
その夜、私はダイニングテーブルの真ん中に、大皿に盛ったカニを置いた。サイドメニューは、カニの旨味を邪魔しない程度の酢の物と、炊き立ての白いご飯だけ。
いざ、食事を始めたとき、私たちは気づいた。 「カニを食べる」という行為は、沈黙を武器にすることを許さないのだ。
カニを食べるには、両手を使わなければならない。スマホをいじる余裕もなければ、腕組みをして不機嫌そうな顔をする余裕もない。
健一が、ぎこちない手つきでハサミを手に取った。パキッ、という乾いた音が静かな部屋に響く。彼は慎重に殻を割り、中から透き通った身を取り出そうと苦戦していた。
「……あ」 彼が小さく声を漏らした。身が途中で千切れて、殻の中に残ってしまったらしい。 「こっちの細いスプーン使うと、綺麗に取れるよ」 私が自然にそう言って差し出すと、彼は一瞬戸惑ったような顔をしたが、「……サンキュ」と受け取った。
沈黙は続いていた。けれど、それは三ヶ月間続いていた「拒絶の沈黙」ではなく、**「集中による沈黙」**へと変化していた。
カニを食べるのは重労働だ。関節を折り、ハサミを入れ、身を掻き出す。その一連の動作に没頭しているうちに、私たちの間に流れていた刺々しい緊張感が、少しずつ解けていくのがわかった。
健一が、ようやく綺麗に取り出せた大きな脚の身を、私の方へ差し出した。 「これ、一番いいとこ。食えよ」
驚いた。三ヶ月ぶりの、業務連絡ではない言葉。 「いいの? せっかく綺麗に取れたのに」 「俺は次をやるから」
私はその身を口に運んだ。圧倒的な甘みと磯の香りが広がる。 「……美味しい」 「……ああ、美味いな」
その瞬間、ふっと空気が軽くなった。カニを食べる時、人は無防備になる。口元を汚し、指をベタベタにしながら、一心不乱に食らいつく。そんな格好の悪い姿を見せ合っていると、意地を張っているのが馬鹿らしくなってくるのだ。
食事が終盤に差し掛かる頃には、私たちは自然に会話をしていた。 「そういえば、昔も旅行先でカニ食べたよね」 「ああ、あの時はお前が殻を飛ばして、隣のテーブルのおじさんに当たりそうになったんだよな」 「ちょっと、そんなことまで覚えてなくていいわよ」
「……ごめん」 不意に、彼が言った。 「俺、ずっとガキみたいに意地張ってた。謝るタイミング、完全に見失ってて。……でも、このカニ剥いてたら、なんかどうでもよくなったんだよ」
カニの殻は硬い。けれど、一度割ってしまえば、中にはあんなにも柔らかくて甘い身が詰まっている。人間も同じなのかもしれない。頑固なプライドという硬い殻を、一緒に汗をかきながら壊していく作業が必要だったのだ。
最後の一片まで綺麗に食べ終えた後、テーブルの上には山のようなカニの殻が残っていた。それは、私たちがこの数ヶ月間で積み上げてしまった「不機嫌の残骸」のようにも見えた。
「片付け、手伝うよ」健一が立ち上がり、私と一緒に皿を運び始めた。
キッチンのシンクで洗剤を泡立てる。カニの匂いが消えない手を何度も洗いながら、私たちは明日の朝ごはんの話をしていた。
夫は「もとに」戻った。 いや、以前よりも少しだけ、お互いの「殻の割り方」を覚えた分、私たちは新しくなったのかもしれない。
ゴミ箱に捨てられたカニの殻は、明日にはゴミとして出される。 けれど、あの日冷え切った食卓に灯った小さなぬくもりは、きっとこれからの私たちを支えてくれるだろう。
「次は、何を食べようか」 「そうだな。カニは疲れるから、次はもっと簡単なやつがいいな」
### ✅結論:
---
### ✅ なぜ「魚系」がベストなのか?
---
### 🚫 避けたほうがいいジャンル
| ジャンル | 理由 |
| ----- | ------------------------------ |
| 焼き鳥 | 串が多くて片付かない/冷めやすい/店も小規模なことが多い |
| 天ぷら | 提供タイミングが命/冷めると台無し/油が回ると不快 |
| 中華 | 香り・油・音が強く、好みが分かれやすい/体臭が気になる人も |
| エスニック | 調整の効かない辛さ・香辛料/アレルギーや体調への配慮が難しい |
---
### ✅ 店選びの目安
---
食い尽くし系で思い出したんだけど、弟はお菓子作りが趣味だった。両親は弟に積極的に道具や食材を買い与えていた。
ある時「チーズケーキ作ったから食べる?」と言われたのでいいの!?ありがとー!とワクワクしながらリビングに行ったらものっっすごくほっっっそいチーズケーキが皿に乗っていた。えっなにこれ??「残りは俺のだから」と言ってほぼホールのチーズケーキを大皿に乗せて弟は食い始めた。お、おかしいんじゃねぇか!?と内心思ったものの、作ったのは弟なんだからここで騒ぐのもみっともないな…と何もないふりをして2センチくらいのケーキを食べた。
後日、「またケーキ作ったから食べる?」と弟が言うので食べるー!とキッチンに行った。なんと私にホール丸々くれるらしい。いいの!?一緒に食べようよ!と提案したら「食べたくない。失敗したから」だと。
無理やり半分こして食べた。。弟は手づかみで失敗作のケーキをまずいまずいよくこんなの食えるねと悪態をつきながら食べていた。
食べ物が豊富な日本では満足できる量を作るor注文すればよいだけ。
極論、「食い尽くし系」の胃袋の限界以上の量の食い物を用意すれば、他人の分まで食い尽くしようがない。
つまり用意する食べ物の総量が十分であれば、「食い尽くし系」は封印されてしまう。
頻繁に食い尽くすなら単純に用意する量が足りてないのでは?疑惑が提起される。
目を離したすきにフレンチトースト8枚(2000kcalほど)をぺろりと食うなど
食い尽くし系目撃談をカロリー計算するとマラソン選手みたいな1日摂取カロリーが推測できる。
それはもう食い尽くし系と言うより単純に関取系巨デブ問題となる筈なのに
食い尽くし系を報告する主婦の話には夫の体型のディテールが皆無。
あれだけ憎々しげに言うならその巨デブボディも罵る筈なのになぜかそういう話が無い。
標準体型やスマート体型で食い尽くしてるなら完全に話のつじつまが合わない。
わざわざ食い尽くしたあとにどこかへ行って吐いてることになる。(拒食症女子か)
「食い尽くし系」は男ばかりである以上、
報告者はなぜか女ばっかり。
男女混交の食事でも目撃談が無い。
等の目撃談が一切ないのは何故なのか。
食い尽くし系は常に女だけで目撃して報告している。
夫に供する食事量が常に成人男性の必要カロリーに満たないという家庭内暴力みたいな状況があり
それによって食い尽くし系を誘発している。
より率直に推測する場合
<>strong>女に流行りの作り話、コックリさんみたいな物である可能性が高い。
家庭板カルチャーの「エネ夫」の変形の一つだったのではないだろうか。
どんどん作り話がハウリングして加速し合って「食い尽くし系」になったのでは。
女同士の世界を飛び出て
「なんか話がおかしくね?」 「ほんとにそんな奴いるの?」となっている。
自分も自分の中に「食い尽くしさん」の素質があると自覚してる。
そもそも自分は喫食ペースが早いので、ヨーイドンだとのんびり食べる人よりも不公平に多く食べがちになる。
なので、居酒屋や中華で大皿が出てきたら、初手で全員に配分するようにしている。
たとえば大皿料理だと、大皿上に少し残っているものって「みんなが残したもの」なのか「誰かが食べるつもりでほったらかしているもの」なのかはっきりしないでしょう。
こういうことができる時点で自分は「食い尽くしさん」ではないのだと思うけど、何か不幸な条件が重なった時に正体が暴露されてしまうのでないかとビクビクしている。
私は女だが、食い尽くし系だった自覚がある。
唐揚げや素麺など、大皿で出てくるものは悠長にしていると兄弟たちに奪われてしまう。奪われる前に食べるのが当たり前になり、食事は競争のようだった。
親もそれを止めたりせず、「早く食べないと食べられちゃうよ」というスタンスだったように思う。
冷蔵庫に入れたプリンやアイスも名前を書いておかなければ食べられてしまう。皿の上の唐揚げに、名前を書くことはできない。食べられる前に食べなければ損をしてしまう。
機転は、高校生になったことだった。相変わらず私は食事を競争だと感じていて、食べられるだけ食べた方が得で、食事とは奪われる前に食べることだと考えていた。
しかし高校で新しくできた友人たちは、当然のように食べ物をシェアしてくるのだ。クッキーをシェア、ポッキーをシェア。「分け与える文化」を知らずに育ってきた私にとって、これはかなりの衝撃だった。だって人に分け与えると、自分の食べる分が減ってしまうのだ。
だけど私はこの友人たちと仲良くなりたかった。この「シェアする文化」は私の知らないものだったけど、分け与えてもらえることは嬉しくて、そんな友人たちを素敵に感じたのだ。
私はかなり頑張って、自分のお菓子を友人たちにシェアする努力をした。
最初は正直かなり苦しくて、「自分のお菓子を分け与えるなんて、自分の食べる量が減ってしまう!」という苦痛を感じていた。
だけど徐々に「このお菓子おいしい!友達にも食べてほしい!」と、自然にシェアできるようになっていった。
今も目の前に食べ物があると、「たくさん食べた方が得」「誰かに食べられる前に食べなければ」という思考は浮かんでくる。
だけど、そんな衝動を抑えて周囲を見ることができるようになった。
高校のときに「シェアする文化」に出会っていて良かった。友人に恵まれたことを感謝している。
Permalink |記事への反応(10) | 11:09
自分語りすると、田舎の自営でまあ貧乏だったし、中学の時点で「大学に行く学費はない」宣言されて父親に向かってお前は私立出てるのに何言ってんだと、喧嘩にすらならずただただ謝られたけど。そんなのが実家に住んでいた時の話。
自営と言っても田舎のサラリーマン相手の定食屋で、たまに歓送迎会のような宴会があぅたらそこの大皿料理の食べられなかったやつ、残飯がごちそうと思って食べてたし
高校……というか高専に入り(技術者になれば貧乏脱出できると思って)、卒業して家を出た。
いざ働いて稼ぐとまあ両親の苦労がわかる……というのもあるけど、どちらかと言うとインターネット、はてなもそうだしTwitterもそうだし毒親の話は飽きるほど出てくる。
そういうのを見ると少なくとも住むところも食べるものも苦労しなかったウチはまだマシなのかな〜と思い始めた。
とりあえず高専の学費は出してもらったし、住むところとメシには困らなかった。家にジュースもお菓子もなかったけどそのおかげ?で一人暮らしでもジュースとお菓子を買うこともなくある意味健康に過ごしている。
お年玉しかなかったから1月に1年で使えるお金を計算しコロコロコミックを毎月買ってこれだけ残るから、ゲームソフトは年に2本これは買えるか、後から欲しいの出たら困るなと家計管理が出来るようになり、実家の手伝いの定食屋はもちろんバイトも色々やったから社会人になってから困ることがあまりなく(電話応対も得意で先輩から褒められた)
ただ、あまり実家が好きではなく地元に帰ってもホテルで寝泊まりしてたけど久々に実家に帰ったら車は変わってたし冷蔵庫も変わってて子供の金銭的負担って高かったんだな……
そう思うと結婚して子供産んでという生活をして俺みたいな気持ちで成人まで過ごして欲しくないから結婚したくないな。
世の中には2種類のエンジニアがいる。
具象思考しかできないエンジニアと、抽象思考ができるエンジニアだ。
プロダクトがごくごく小さければ、例えば0->1の初期実装の段階では、「動作する」という点だけから見れば、どちらも大した差はない。
皿回しで例えると、初期段階、皿を4つくらい回す程度なら、大した違いがない。
が、16、32と増えていくとどうなるか。
具象思考は、1つ1つを回す。
64、128と増えていったら?
破綻する。
抽象思考は、ある程度の皿のグループをまとめて、回し続けるための仕組みを作る。
皿が追加されるまで棒を立てないとしても、どういう皿が用意されているかあらかじめ確認をして、配置などの準備をしておく(本来は、これをDDDのドメイン分析という) 。
64、128と増えていったら?
まとめたグループをさらにまとめて回す仕組みを「予定通り」作る。
作っておいてもいいが。
どのレベルのグループの数も、8を超えないように調整しつつ(だいたい5を超えないようにしている。平均的な認知能力を超えないように)。
256、512、1024……。
具象思考のエンジニアは、「今の段階でそこまで実装する必要はない」という。
が、設計もしない。
なぜなら考えられないから。
棒を立て(実装)なくても、配置や仕組みなどを「設計」し、区画を分ける。
プログラマ上がりの中には、手が早いだけで具象思考しかできないエンジニアが大量に混じってる。
ググって、今目の前にある皿を最適に回せる棒を探して、空いた場所に立てて、回し始める。
その一連の「処理」は早い。
けど、それぞれ思い思いの棒を立てるから、それぞれの皿の回転状態をメンテし続けるのは大変だ。
この棒はこうやって操作する。
その棒はこうやって操作する。
そういう、何種類もある「処理」からパターンにマッチした処理を手早く行う。
そのパターンの数を誇って「優秀なエンジニアでござい」と鼻をおっ広げる。
バカ言え w
数が増えれば限界が来る。
皿が落ち、割れ始める。
逃げる。
ジャンボ餃子って一口で食べられるサイズじゃないから自ずと一口かじって皿に戻すか、あらかじめ箸で小さくして食べる事になる。
でも餃子って大きな皿に盛られて出てくるから、複数人で食べてる時は大皿に食べかけ戻すのは憚られる。醤油の小皿に置こうとするにもジャンボなのではみ出る。
餃子ってあんから滲み出る肉汁ひっくるめて美味しいと思うのだけど、一口で食べきれないジャンボ餃子はせっかくの肉汁を口にできずにこぼしてしまう可能性がたかい。
ジャンボ餃子の利点を考えた時、字面のインパクトと作る手間を省くことくらいしか思い付かず、完全にお店サイドの理屈だ。
同居生活も慣れてきた頃合いだけど、ひとつだけいまだに慣れないことがある。
食卓にて、旦那は肉野菜炒め(というか、肉と野菜が同じ皿になっているもの全て)の野菜だけを選んで食べる癖があるのだ。
結婚する前からファミレスや中華屋にはよく2人で行っていたが、そのような事をしている旦那を見たのは同居が始まってから。
最初は特定の野菜が苦手なのかもしれない、と思い、「苦手なものは先に食べるタイプだったっけ」と聞いたら別にそんなことはないとのこと。
基本料理は大皿で出すことが多いので、増田は野菜が取られる前に急いで野菜を食らう。ものの2〜3分で皿の上には肉だけが残される。
作った側としては一緒に食べてもらいたい……と思うが、人の食べ方に口を出すのもなんなので、初回の言及以降なにも口出しはしていないが、彩りのない皿を見るとどこか寂しい気持ちになる。
最近は大皿での提供をやめ、各々の皿によそうことで増田の野菜早食いレースの開催は終了したものの、小さなモヤモヤだけは残ったままだ。
家の中でくらい好きに食べてほしい嫁としての気持ちと、野菜と一緒に肉を食べてほしいという作り手側のエゴで今日も戦っている。