
はてなキーワード:大正とは
アホウドリ(特にコアホウドリ/短尾アホウドリ)を絶滅から救うには、原因に正面から対処する「地味だけど効く」対策の積み重ねがカギです。実際、日本を中心にかなり成果も出ています。
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まず、なぜ絶滅寸前までいったのか
• 羽毛目的の乱獲
•繁殖地が極端に少ない
・性成熟まで5〜7年
・1回に1卵
・毎年は産まない
→回復がとにかく遅い。
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👉日本では実際に、鳥島以外に**聟島(むこじま)**など新しい繁殖地づくりが進められています。
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• 鳴き声をスピーカーで流す
• 若鳥が「ここ安全そう」と思って定着
👉 これが成功して、新しいコロニー形成に実際につながっています。
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③漁業との衝突を減らす
•対策:
• 夜間投縄
• 鳥よけテープ
• 重りをつけて素早く沈める
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•太平洋を渡る鳥なので、1国だけ頑張っても不十分
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希望はあるの?
あります。かなり。
• 短尾アホウドリは
ただし、
放っておけばまた簡単に減る
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まとめ
アホウドリを救う手立ては:
•繁殖地を守る
• 気の遠くなるほど長期で見守る
派手さはないけど、
老婆は、下人をつき放すと、いきなり、短剣の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、下人は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、老婆は始めて明白にこの下人の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、老婆は、下人を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「わしは検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それをわしに話しさえすればいいのだ。」
すると、下人は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその老婆の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、老婆の耳へ伝わって来た。
「この服を剥いでな、この服を剥いでな、衣類にしようと思うたのじゃ。」
老婆は、下人の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。下人は、片手に、まだ死骸の体から奪った布切れを持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死人の服を剥ぐと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、服を剥いだ男などはな、魚を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この男の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この男のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの男は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
下人は、大体こんな意味の事を云った。
老婆は、短剣を鞘におさめて、その短剣の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、老婆の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この老婆には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この下人を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。老婆は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの老婆の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
下人の話が完おわると、老婆は嘲けるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、下人の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、わしが髪を抜こうと恨むまいな。わしもそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
老婆は、すばやく、下人の髪を抜き取った。それから、足にしがみつこうとする下人を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。老婆は、抜き取った長い白髪をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
しばらく、死んだように倒れていた下人が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。下人はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い黒髪を倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
(大正四年九月)
召使いは老婆を突き飛ばし、一瞬の隙に鞘から刃を抜き、冷たい鋼鉄を彼女の目の前に突きつけた。しかし、老婆は黙ったままだった。彼女の手は嵐に揺れる木の葉のように震え、肩は荒い呼吸で上下し、目は眼窩から飛び出しそうに皿のように大きく見開かれ、無言の者のように、ラバのように頑固に沈黙を守った。それを見て、召使いは彼女の生死が自分の手に委ねられていることをはっきりと悟った。そして、その考えは、それまで彼の中で激しく燃え上がっていた憎しみの炎を冷ましてくれた。残ったのは、絹のように滑らかに、仕事をやり遂げたという安易な満足感だけだった。そこで老婆を見下ろしながら、彼は少し声を和らげて言った。「私は保安官事務所の保安官でも何でもない。少し前にこの門の前を通りかかったただの放浪者だ。だから、お前を縛り上げたり、危害を加えたりするつもりはない。ただ、この時間にこの門の上で何をしていたのかを話してほしいだけだ。話してくれれば、それで終わりだ。」それから老婆はさらに目を大きく見開き、召使いの顔をじっと見つめた。赤く縁取られたまぶたは、鷹のように鋭く、彼をじっと見つめていた。しわくちゃで鼻とほとんど一体化した唇は、何かを噛んでいるかのように動いていた。痩せこけた喉仏が動き、喉仏がコルクのように上下に揺れているのがわかった。そして、その喉からカラスのような声が、息を切らし、ゼーゼーと喘ぎながら、召使いの耳に響いた。「ほら、この髪を引っ張って、かつらを作ろうとしていたのよ。」召使いは、彼女の答えがいかにも平凡だったことに、ひどくがっかりした。そして、その失望とともに、冷たく冷笑的な、軽蔑と混ざり合った昔の憎しみが蘇ってきた。きっと彼女は彼の気分の向くままに、死体の頭から引き抜いた長い髪の束を握りしめたまま、ヒキガエルの鳴き声のような声で、どもりながら呟いた。「確かに、死人から髪を抜くのは邪悪な行為に見えるかもしれない。だが、ここに横たわるこの死体どもは、もっとひどい扱いを受けるに値しない連中だ。今、髪を抜いたこの女を例に挙げよう。彼女は蛇を10センチほどに切り刻んで乾燥させ、ジャーキーにして兵士たちの陣地に売り歩いていた。疫病にかかっていなければ、今でも売り歩いていただろう。彼女のジャーキーは味が良かったという噂で、兵士たちは食料としてこっそり買っていた。彼女の行為は間違っていなかったと思う。そうしなければ飢えてしまう。選択の余地はなかった。だから、私がしていたことは間違っていなかったと思う」どちらでもない。そうしなければ、飢えてしまう。そしてあの女は、他に方法がない時の辛さをよく知っているから、きっと簡単に許してくれるだろう。」老婆が言ったのは、まさにその通りだった。召使いは刀を鞘に収め、左手を柄に当て、冷静に彼女の話に耳を傾けた。もちろん、右手はずっと頬の大きな赤い膿んだニキビをいじっていた。しかし、彼女の話を聞いているうちに、彼の心の中にある種の気概が湧き上がった。それは、先ほど門の下で欠けていた勇気だった。そして、あの老婆を捕まえるためにここまで来た勇気とは全く違う――むしろ、正反対の。彼はもう、飢え死にするか、無法者になるかなど考えていなかった。その時の彼の心境では、飢えなどほとんど考えられず、完全に頭から追い出されていた。「まさか、そうなの?」老婆が話を終えると、召使いは嘲るような口調で彼女を問い詰めた。それから一歩前に進み出て、突然、右手をニキビから引き抜き、襟首を掴み、コヨーテのように噛みついた。「それなら、お前を裸にしてやるからな。私もそうするか、さもなくば餓死するぞ。」召使いは瞬きするかのように素早く老婆の赤褐色のローブを剥ぎ取った。そして、老婆が彼の脚に爪を立てると、彼は彼女を死体の上に蹴りつけた。梯子の入り口まではわずか五歩だった。剥ぎ取られた服を脇に抱え、彼は急な梯子を瞬く間に駆け下り、漆黒の夜空へと消えていった。しばらくして、死んだように動かず横たわっていた老婆が、死体の間から裸の体を起こした。ぶつぶつと呻きながら、揺らめく松明の明かりを頼りに梯子の頂上まで這い上がった。そこで、短い白髪を逆さまに垂らし、門の下を覗き込んだ。外には、漆黒の夜の虚空だけが広がっていた。召使いがどこへ逃げたのか、誰も知らない。(1915年9月)
日本の歴史を振り返ると、親と子のあいだの「性の距離感」は、社会構造の変化(ムラ社会→家制度→核家族→個人化)と強く連動しながら、大きく形を変えてきた。
この増田で語られている「気まずさ」は、個人の感情の問題というより、明治以降につくられた「清潔で無垢な家族像」と、現代の「個人の自由」が同時に存在してしまっていることによる摩擦音だと考えることもできる。
以下、かなり大ざっぱだが、親子と性の距離感の変遷を整理してみる。
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親子の「性の距離感」の変遷
江戸時代の庶民社会では、性は「隠すべき罪」というより、笑いや日常に近いものだったと言われる。
大人同士の性的な冗談や、男女の関係の気配は、子どもの生活圏から完全に切り離されてはいなかった。
娘への性の知識は、主に母や年長の女性から実用的に伝えられた。春画(嫁入り本)がその一例。
現代的な意味での「純潔」への強い執着は薄く、性は共同体の生命活動の一部として扱われていた。
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近代化とともに、西洋的道徳観と国家による家族規範が導入される。
性は「表に出してはいけないもの」「家庭の外に漏らしてはいけないもの」へと再定義される。
父は家の規範を体現する存在となり、母は家庭の「清潔さ」を守る役割を担わされる。
親の前で性を連想させること自体が「家の恥」とされ、親子間に強い沈黙のルールが生まれる。
ここで、「父=性から最も遠い存在(規範)」という構図が固まっていく。
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性は「純潔を守り、結婚し、子を産む」という義務的な文脈に限定される。
性そのものについて語られることはほとんどなく、「節制」「慎み」といった態度だけが教えられた。
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核家族化と個室化が進み、性は家庭内のさらに奥へと押し込められる。
恋愛と結婚が結びつき、「愛があるからセックスする」というロマンチックな物語が広まる。
親は子どもの性を「見ないふり」をし、子どもは親の性を考えないことで、「清純な家族」というフィクションを互いに守る。
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インターネットにより、性の知識は親を介さずに容易に手に入るようになった。
ただし家族関係だけは、昭和的な「無垢で清潔な親子像」を理想として引きずっている。
結果として、
「親も子も実態は分かっているが、その事実を互いに言語化しない」
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時代別まとめ(かなり粗い整理)
| 時代 | 性の扱われ方 | 父親 | 母親 | 娘の感覚 |
| --- | --- | --- | --- | --- |
| 江戸 | 日常・笑い | 距離を取る | 実用的伝達 | 比較的自然 |
| 明治・大正 | 恥・秘匿 | 規範の象徴 | 家庭の管理者 | 抑圧 |
| 昭和 | 義務・密室 | 沈黙の権威 | 代理管理 | 断絶 |
| 令和 | ライフスタイル | メタファー | 共犯的 | 気まずさ |
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結論:なぜ今、こんなに気まずいのか
現代は、
明治・昭和のように本気で性を「悪」と信じ切れている社会でもない。
実態としては自由なのに、親子関係の場面だけは「無垢な家族」という近代の様式美を演じ続けなければならない。
そのねじれが、増田に書かれている「父と彼氏の話題へのギクッとした感覚」を生んでいるように見える。
「彼氏はセックスのメタファーだ」と気づいてしまった瞬間に、その演技の不自然さが見えてしまった。
だからこそ、理屈では問題ないと分かっていても、感情だけが追いつかない。
歴史は韻(いん)を踏むというが、それは時に残酷なまでの既視感として我々の前に現れる。
一九一八(大正七)年、言論の自由を死守すべきジャーナリズムが国家権力という巨大な壁に膝を屈した「白虹(はっこう)事件」。
そして令和の今日、台湾情勢を巡る高市首相の答弁に動揺し、思考停止に陥る現代メディアの姿。
これら二つの事象は、単なる政治の混迷ではなく、一世紀を経てもなお変わらぬ、日本のマスメディアの本質的な「脆弱(ぜいじゃく)」を露呈させている。
白虹事件という言葉を知る者は、現代では稀(まれ)かもしれない。しかし、この事件こそが日本のジャーナリズムを去勢し、後の軍靴の響きへと道を開いた決定的な転換点であった。
当時、米価の高騰に喘(あえ)ぐ民衆の怒りは「米騒動」として全国に飛び火していた。
批判の矛先は寺内正毅内閣と、利権を貪(むさぼ)る政商へと向けられた。
同紙は一九一八年八月、米騒動の背後にある社会の矛盾を指摘する記事の中で、
「白い虹が太陽を突き刺す」――。
これは古代中国の天象解釈において、武器を持った臣下が君主を殺害する兵乱の前兆とされる。
太陽を天皇の象徴、白い虹を反乱の武器と見なした当局は、この記事を「安寧秩序を乱す」不敬な扇動であるとして、新聞紙法違反で起訴。
これに対し、大阪朝日の経営陣が選んだ道は「ジャーナリズムの殉教」ではなかった。
以後、同紙は急進性を失い、権力の顔色を伺う「翼賛」への道を一歩踏み出すこととなったのである。
翻(ひるがえ)って現在、高市首相が国会答弁で「台湾有事が存立危機事態になり得る」と踏み込んだ発言を行った際のマスメディアの反応はどうであったか。
中国政府が「一つの中国」という彼らにとっての「神聖な国体」に触れたとして猛反発し、経済的な威圧をも示唆した途端、
国内メディアの多くは、あたかも「不敬」を咎(とが)めるかつての内務省のように、その「不用意さ」を論い、緊張緩和を優先せよとの合唱を始めた。
「国家の核心的なタブー(=国体的な要素)」に触れた言葉に対し、メディアが即座に「静止」や「回避」のバイアスをかけるという構造そのものだ。
かつては「天皇の神格化」という国内の国体が言論を封じ、今は「大国への外交的配慮」という疑似的な国体が、事実上の報道の自主規制を強いている。
どちらも、国家や外部権力が設定した「虎の尾」を避けることを最優先し、事の本質――すなわち、国民が直面している真のリスクを直視させることから逃げているのではないか。
日本のメディアは、平時には些末(さまつ)な不祥事や揚げ足取りをもって「反権力の監視役」を自演する。
しかし、いざ国家の根幹を揺るがす安全保障や、他国とのパワーバランスといった真に重い論点、すなわち「現代の国体」と呼べる領域に話が及ぶと、突如として腰が引ける。
メディアの役割とは、国民が保有する「知る権利」を具現化し、権力の意志を透明化することにあるはずだ。
それが国内の権力であろうと、中国のような強大な外国の権力であろうと、そこに国民の命運を左右する「真実」があるならば、メディアは不敬や摩擦を恐れず、白虹となってその核心を貫かなければならない。
百年前、大阪朝日が社に掲げた「不偏不党」の看板は、弾圧を前に色あせた。
現代のメディアもまた、表面的な正義の裏側で、同じ轍(わだち)を踏んでいないか。
権力の意図を忖度(そんたく)し、タブーの前で立ち止まる存在であるならば、それはもはやジャーナリズムではなく、単なる「広報機関」への堕落である。
歴史の白虹は、今も我々の空を貫いている。
その下で沈黙を守るペンの罪深さを、我々は今一度、厳しく問い直すべきである。
こういう内容のコラム書いてってお願いすると書いてくれるのはやっぱりAIすごいなと思う一方で、
不偏不党は、白虹事件を機に成立したもので、「どの政党にも偏らない」という積極的な自由の宣言ではなく、
「政府と正面から衝突するような過激な主張を捨て、企業の安全が保証される範囲内で報道する」という、いわば「去勢」の宣言だったはず。
dorawiiより
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なぜか気になっていたが、説明してくれた。
「お袋も婆さんも1960年代にはゴミはきちんと洗ったりはさみを入れて出していた。」
「ゴミの出しかたでそいつの人徳や人格がわかるとお袋や婆さんから教えられた。」
と言うことらしい。
ただ、言っていることはその通りなので以来反省してきっちり出すようになった。
今でも「俺は公団出身だ。」と自慢げな話す。水洗トイレとガス風呂で驚いたかとか。
いや、親父の婆さんが言ってるってことは、戦前はおろか大正くらいまでさかのぼるのかもしれない。
徳のあることで。よごさんしたね。
親父は1990年には携帯たばこ入れを使っていて、喫煙所以外では吸わなかった。
1990年ごろは確かに男女参画社会基本法が可決成立施行したり、そういうリベラル時代だったのはわかる。
ただ、ゴミの捨て方にまでこだわるとはなんとも言えない。
それをきいて俺もゴミの出し方がすごい丁寧になった。
近世以前
日本において暦日を用いた新年の概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良の正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年の挨拶を伴った年賀状のルーツといえる[14]。
平安時代に入ると貴族間で年始の挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始の挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。
明治維新後になると逓信省の前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度が確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった[20]。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函が可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。
関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。
年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。
終戦後の1948年(昭和23年)12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。
お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(平成元年)からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。
イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。
一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月の風物詩となった。
2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。
2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった[28]。
2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。
また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に2024年10月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状はフタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である。企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30
以下は「『島国根性』という単語・概念はイギリスが起源だという“風説” についての整理と解説です。
■結論
『島国根性』という言葉も概念も、日本で作られたものであり、イギリス起源ではありません。
「英語にisland mentality のような語があり、日本語の“島国根性”はそれを輸入した」という説は誤りで、歴史的根拠がありません。
日本では「島国=孤立性・排外的」というイメージ分析の文脈で しばしばイギリスと日本が比較されてきた ため、
「イギリスにも同じ概念がある →日本語の“島国根性”の原型もそこから来たのでは?」
ただし、実際には以下のとおり:
英語の “insular” や “insularity” には「島国的」「視野が狭い」という意味合いがある
しかし英語に固有の定型句“island mentality/character” が歴史的に広く使われていたわけではない
まして日本語がそれを借用して作られたという証拠は見つからない
「島国根性」という言い回しは日本語の明治〜大正期に定着した表現で、
内向性・閉鎖性への自己批判として「島国根性」という言葉が使われ始めた、という流れです。
insular(閉鎖的)
ここから「イギリスにも島国根性がある」→「イギリス発では?」という誤解が広まった可能性はあります。しかし、
🔹言語的にも歴史的にも、日本語の「島国根性」と英語の“insular”や“Little Englandism”には直接の語源関係はない。
■ まとめ:風説の正体
イギリスにも“insular”“Little Englander”のような語がある
それが日本語の由来だ、という誤った飛躍
nonoさん、こんばんは。
最近、そのままにすると嫌に腐ってしまいそうな情動に振り回される経験をしまして、お目汚しになりますがここで風通しをさせていただきたいです。
こんなの、別によくある話だし、なんとも思わんのだが、なんでバズるんだ?
コメント見たら、https://x.com/_______nono00/status/1990055090837967277
・質問者さん、大正、昭和くらいの小説みたいな語り口ですごくよかったです。
・すごい、素敵だ。この方はきっと、文に起こした以上に苦しいはず。吐き出して少し発散できてるといいな。まだまだ30。一つの経験を経て、磨きがかかりますね。
みたいなコメントがある。
謎。
増田でこんなの書いてもバズらんだろうし、叩かれるだけだろ(ブクマカは喜ぶかもしれんが)
どう?
以前、「国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代の新撰組の扱い」という記事を書いた。
その続きとして戦前、特に新選組のイメージを覆したと言われる子母澤寛『新選組始末記』(1928年)前後の評価を探っていきたいと思う。
関連:新撰組は「悪役」扱いだったか?~彼らの「語られ方」の歴史を検証する - posfie
なお、新選組が登場するフィクションとしては、前回に紹介した講談を除くと、1913年から連載された中里介山『大菩薩峠』が一足早い。
そして前田曙山『燃ゆる渦巻』、大佛次郎『鞍馬天狗』、白井喬二『新撰組』といった人気小説が1924年に揃って出ている。
いずれも新選組が主人公というわけではないが重要な役どころで登場する。
また新国劇の舞台『新撰組』の初演も1924年らしく人気があったという。
それらを受けてか、1925年から新選組を主役とした映画が立て続けに公開されていた(参考)。
戦後になるが1959年の大井廣介『ちゃんばら芸術史』から、まとめっぽい記述を。
たとえば、小説では、白井喬二の独楽師の角逐というめずらしい題材をとりあげた『新選組』の遠景には近藤勇の池田屋斬込みなどが扱われ、大仏次郎の『鞍馬天狗』の最初の単行本でも、近藤勇がすこぶる活躍した。劇では、行友李風が新国劇に『新撰組』を書きおろし、沢正が近藤勇をやる。映画では、枚挙にいとまないという有様だった。このように、勤皇か佐幕かのチャンバラ、新撰組や近藤勇がしきりにでてくるようになったのは、『大菩薩峠』や『月形半平太』が既にあるにはあったが、『朝日』の『燃ゆる渦巻』が大々的に口火をきった。
と書きつつ鳶魚は「ヘボ剣の近藤勇」などと呼んでボロクソに貶している。
近藤勇といへば、維新当時、鬼勇とまでいはれた武勇伝中の一人で、今に尚、芝居や講談、読物によつて若い人たちの血を湧かして居るが、彼れは若い時分、近藤周斎の門に這入つて剣術を学んだ。
これは古今の剣術家らのエピソードを集めた子供向けの読み物らしい。そのうちの一篇として近藤勇が紹介されている。特に悪い書き方はされていない。
「芝居や講談、読物」によって、近藤勇がよく知られていたことが窺える。
『創作講談』は「近藤勇・宮本武蔵・一休和尚・猿飛佐助・清水次郎長・紀伊国屋文左衛門」という伝記のシリーズで、1925年に刊行されたようだ。
勤王、佐幕、そして今の世は勤王劇流行で、勤王で無ければ成らぬ流行中を、我が澤田は新撰組の佐幕劇を以てその隊長近藤勇で見えている
劇団「新国劇」についての論評。『新撰組』は新国劇の十八番で、たびたび上演されているとも書かれている。
そこで先づ目に映つたのは、此頃人気を呼んでいる新撰組の隊長近藤勇が、大阪の富豪鴻池善右衛門、加島屋作兵衛、辰巳屋文左衛門外十数名から金を用立てさせた「約定証書」は、鴻池の家蔵品として出品されてあつた。
大阪朝日新聞社主催・大阪市後援の「大阪市史料展覧会」のレポートらしい。
そういうイベントに鴻池家が新選組の史料を出している、というあたりに「此頃の人気」が窺えるのではないか。
続いて子母澤寛『新選組始末記』直後の1929年の新選組の評価をいくつか。
今日の大衆文学に行はれている赤穗浪士にしても由井正雪にしても近藤勇にしても、悉く正史よりも寧ろ外傳の史料に拠るものが多い。
剣劇に映画に大衆文芸に何百回となく描かれて居る一代の剣豪近藤勇も、明治元年正月幕軍の敗走以来、落目となつては為す事毎に齟齬し、四月三日越ヶ谷の官軍本営にて捕はれた。
時代は常に逆転す!チャンバラの本家は新選組だ!現代のチャンバラ全盛を地下の近藤勇は苦笑でもやつてるか?明治回天の大芝居の其花形新選組の後始末はサテどうなつたか!?
だが、近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしているから愉快である。後代の人気と云ふものは、その時代を作つた人に集らずして、その前代に殉じた人に集るやうである。
以上からすると、『新選組始末記』以前から、近藤勇および新選組は十分に時代劇のスターだったようだ。
維新志士の好敵手として設定されてはいても、しかし「悪役として嫌われていた」という感じではない。
特に1924年ごろからは一種の「新選組ブーム」と言っていいような状況だったのではないか。
ただ当時は、あくまで近藤勇の人気が飛び抜けて高く、次いで土方が知られていたくらいで、沖田などのキャラが立ったのはやはり『新選組始末記』以降だろうか。
(1929年には月形龍之介主演で『剣士沖田総司』という映画が作られたらしい)
「池田屋で沖田が病気により昏倒する」などのエピソードは、明治末の講談に採り入れられてはいたが、それ以降の作品にあまり引き継がれなかった。
そうした細かいエピソードをあらためて掘り起こして、当時大量に作られていた小説や映画に新たなネタを提供した、という点に子母澤寛の功績がありそうだ。
大正〜昭和は貧乏子沢山だったけど、あれは仕事があるから生んでたんだろうな。
実は江戸時代〜明治初期の農村部の出生数は意外と少なくて、これは農村人口をそんなに増やせなかったという事情による。
だから大事なのは、親に今カネがあるかどうかではなく、子供たちが成長したときに仕事があると思えるかどうかなんだろう。
氷河期世代は「大人になっても仕事が無いかもしれない」というマインドセットだから子供を作らず、また子供を産んでも子供たちに対して、親がいつまでも子を養えなければならないという洗脳をしてきた。
人手不足になって就職が売り手市場になって、そろそろそのマインドセットが切り替わるだろうし、それを後押しして早める必要がある。
日本は衰退し続けている。
このような反論が返ってくる
「衰退していない、緩やかに成長している」「ゼロ成長でマイナスにはなっていないのだから衰退ではない」
たいていの人はこのような認識だ
そして原因は「政治が悪い」。99.9%はこのように答える。
いやいやいやいや、民主国家で主権は国民にあるんだから国民の責任でしょ。
政治家に騙されたと言うが、何年騙され続けてるの?やっぱりバカじゃねぇか
かつ、毎回騙されてるのにちっとも反省しない、記憶力がヤバい。
小学生が急に成長が止まったとする、
とは言わない、諸外国が成長し続けてる、世界平均で年4-5%成長してて自国だけ30年間ゼロ成長なんだから
なにかが間違えてる、病院にでも連れて行くのが普通だが、お薬を飲もうとしないのが日本人。
そもそも日本人は自信過剰だ、我々民族は優秀、このような幻想を抱いている。
いやいやいやいや、自力で産業革命も民主化も成せなかった程度でしかない。そこらの土人と変わらん。
ギリ中世までは到達できたが、そのほとんどが中国や朝鮮からの盗用
独自の文化が花開いた、的な枕詞で賛美するが、江戸時代、科学的な成長や成果は皆無だ。
金銀銅、当時のレアメタル三種セットと主要エネルギーの石炭が廉価な労働力で無尽蔵に採掘できる国で
成長しないほうがおかしい、成長というても、余りある金で西洋から文化、科学を買ったにすぎない
大正から昭和初期、世界中で鉱山開発が進み、主要エネルギーが石油に転換し秒で斜陽、
かろうじて残っていた社会資本(軍事力他)をフル回転させアジア周辺国から搾取して生き延びていたわけだが
西洋から「そーゆーの、えー加減にせぇよと」、フェアにやろう、非人道的、不条理不合理な弱者からの搾取はもうやめよう。
植民地とかもうやめよう、ってかつて植民地のフィリピンをとっくに独立させていたアメリカが日本に突きつけたのがハルノート。
ハルノートを強欲なアメリカが理不尽な要求で日本を追い詰めた、という図式で解釈している奴がいるが、
中身読んだ?歴史勉強した?どうみても真っ当で妥当で正当性のある要求でしかない。
だが、国内で3500万人程度の食料しか自給できない国土にもかかわらず、無計画に人口増やし続けた結果、7000万人。
輸出して稼ぐにも天然資源はすでに国際競争力を失い、第二次産業、加工産業も長らく西洋の模倣しかしておらず
独自技術や先端技術は無いので西洋の製品に価格も性能も敵わない、外貨を稼げない。
大消費地の中国に近く、西洋に対して輸送コストのみが競争力だった。
だが、第一次世界大戦で船舶輸送技術が大幅に進歩し、地の利を失った。
そこに追い打ちのハルノート、戦勝利権、大昔の最恵国待遇とかいい加減に戻せ、フェアにやれという要求にすぎない
アホかと。
問題は人口なんだから諸外国に頭下げて引き取ってもらいながら人口減らすしかない。
だが、日本人は賢くて優秀、なんだそうだ。
そもそも焼け野原になどなっていない。ありゃアメリカが諸外国から手を引かせるためのプロパガンダにすぎない。
実際には工業力はさほど毀損していない、米軍はちゃんと狙って攻撃していたのだ。主要都市の主要施設、重要な橋や製鉄所は外していた。
かつ、アメリカは太らしてから弁済させる、計画だったのだろう。他の大国からは賠償権を放棄させ、小国には雀の涙で賠償を承諾させ、
全ての戦勝利権と国家制御権を手にしたのがアメリカで、経済成長全振りの社会政策、ハレーションや矛盾は無視。
で、いまだにチューチューされてるのに、低知能の日本国民はアメリカにべったり、
短期的経済成長全振りを80年やって社会矛盾が出まくりなのに認知できない。
中国が正当な戦後補償を求めていたらそもそも日本はとっくに消えて無くなっているのにね。
日清戦争で日本が被った被害と得た賠償金を調べてから、日中戦争で日本が与えた被害を比べてみ、無理ゲー
が
どんだけ神だよ
尖閣諸島が欲しい?
上げろwくれてやれ、差し上げなさいw
が、優秀な国民で輝かしい我が国は、領土は1平米も譲らん、なんだそうだ。
南京大虐殺は捏造とか言うてるの、それ以外で4,500万人殺してるのは事実だろうがよ
中国には経済力でダブルスコアで完敗、と思って調べたらすでにトリプルスコアだったw
それでも、日本人は優秀、政治が悪い、なにも変えない、変えたくない、省みることはない、正しい歴史認識!
言っとけカス
貧民や弱者を救おうってんなら宗教じゃなくて政治や事業をやれとは思っていたけど、いやまあ普通そうなるよな。そうだよな。
キリスト教徒だった賀川豊彦翁(1888‐1960)は,貧民窟に入って神の道を説き,弱者を救済しようとしました。
しかし,多くの困窮者を救うには,労働運動,農民運動,協同組合運動が必要と考え,
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治21年〉7月10日 -1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。
戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。
キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。