Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「大坂城」を含む日記RSS

はてなキーワード:大坂城とは

次の25件>

2025-06-12

最終的に淀君家康に敗れた理由は?

淀君茶々)が徳川家康に敗れた主な理由は、複合的な要因が絡み合っています

1. **豊臣家の弱体化と求心力の低下:**

*豊臣秀吉の死後、幼い秀頼を抱える豊臣家は、内部の結束が弱まっていました。特に秀吉恩顧の大名たちが家康に味方する者が多く、豊臣家には浪人しかまらなかったため、組織的な統制が取りにくかったと言われています

*秀吉正室である北政所(ねね)との役割分担が明確でなかったことも、豊臣家の結束力を弱める一因となったという見方もあります

2. **淀君と秀頼の「母子密着」と家康要求拒否:**

*淀君は、息子である秀頼を深く溺愛していました。家康が秀頼に対し臣従を求め、江戸下向や淀君人質としての江戸在住などを要求した際、淀君はこれを屈辱的と感じ、すべて拒否しました。この母子の強い絆と、家康要求を一切受け入れない姿勢が、両者の対立を決定的なものにし、大坂の陣への道を開いたとされています

3. **政治手腕の限界情報戦での不利:**

*淀君は、向こう気が強く、豊臣家を守るために矢面に立っていましたが、政治家としての資質は不足していたという評価もあります。有能な家臣が不足していたため、自身政治の表舞台に出るしかなく、その重圧は大きかったとされています

* また、家康は豊臣家を滅ぼすための周到な準備を進めており、方広寺鐘銘事件のような言いがかりをつけて豊臣家を挑発するなど、情報戦心理戦でも優位に立っていました。

4. **圧倒的な武力大名の支持:**

*徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握しており、多くの有力大名たちが家康に味方していました。対する豊臣方は、寄せ集めの浪人衆が主体であり、軍としての組織力や統制力に劣っていました。大坂の陣では、徳川方が圧倒的な武力で豊臣方を包囲し、最終的に大坂城落城しました。

これらの要因が複合的に作用し、淀君と秀頼は徳川家康に敗れ、豊臣家は滅亡することになりました。淀君が「悪女」として描かれることもありますが、彼女は愛する息子と豊臣家を守るために必死に戦った悲劇のヒロインと見る向きもあります

Permalink |記事への反応(0) | 12:23

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**:淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**:豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**:石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**:関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**:関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

豊臣秀吉側室である淀君は、秀吉の死後、御曹司の秀頼を利用して、フィクサーとしてどのように権力をふるったの?

淀君淀殿茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。

###淀君秀吉の馴れ初め

淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江戦国大名浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々彼女人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。

1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政織田信長敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長保護されます

2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市信長の家臣であった柴田勝家再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。

3. **秀吉による保護側室入り**:茶々三姉妹は、母と養父の仇である秀吉保護されることになります秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています

このように、淀君秀吉側室になったのは、自身意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹秀吉保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります

###淀君秀吉側室だったか

はい淀君豊臣秀吉側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君特別存在でした。その理由は、彼女秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。

当時の秀吉は、正室北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君地位確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉自身後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。

###秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力黒幕になったか

秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります

1. **正室北政所引退淀君地位確立**:秀吉の死後、正室北政所剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的淀君が豊臣家の最高権力者としての地位確立します。

2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君意向が強く反映されるようになりました。

3. **対徳川家康方針**:秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。

4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍勝利し、家康事実上の天下人となりますしかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。

5. **大坂の陣での指導力**:家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました。しかし、結果的大坂城落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。

淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えますしかし、時代徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死努力であったとも評価できます

Permalink |記事への反応(2) | 12:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-15

大阪道路に「筋」「通」といった名称が定着している背景

歴史的都市計画独自命名体系が深く関わっています
江戸時代の町割りを継承しつつ、近代的な都市整備と併せて体系化された特徴的なシステムです。

命名ルール歴史的起源

豊臣秀吉大坂城下町整備**(1583年)が起点となりました。当時の都市計画では:


このルールは「道筋」という言葉に由来し、

堺筋=堺へ向かう道
松屋町筋松屋町へ至る道

といった実用的な命名法が発展しました。

近代的な体系化の契機

1970年大阪万博開催準備**を機に再整備されました:

1.1969年万博会場アクセス道路として17路線正式認定

-御堂筋四つ橋筋南北)/千日前通長堀通東西)など

2.1983年大阪城築城400周年記念で8路線追加

-大阪内環状線長居公園通など

3.1995年:なみはや国体開催前に14路線拡充

-鶴見通大和川通など

制定年 特徴 主な追加路線
1969万博関連御堂筋堺筋千日前通
1983環状線構想大阪内環状線住之江通
1995国体対応鶴見通海岸通



技術基準運用

大阪市道路認定基準では

1. 幅員4m以上かつ直線性

2.既存道路との接続義務

3. 地下占用許可可能

南北「筋」は地下鉄路線名と直結する特徴があり(例:御堂筋線・四つ橋線)、

道路整備と公共交通網が一体設計されています

他の地域との比較

京都の碁盤目状街区とは異なり、

大阪では

という機能分化が明確。

御堂筋(幅44m)のように、

元は6m幅の路地が拡幅され「逆転現象」を起こした例も特徴的です。

この命名体系は、歴史的経緯と近代都市計画が融合した大阪独自文化遺産と言えます

市民生活に深く根付いたナビゲーションシステムとして機能しています

Permalink |記事への反応(0) | 07:52

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-13

anond:20250112220238

大阪の陣の折には

カルバリン

セーカー砲

をはじめとして

国産の大筒などとも合わせて

大坂城北方備前島に100門以上の大筒と石火矢を設置して

本丸北側の奥御殿を集中的に攻撃したらしいからな。

文春が文春砲家康攻撃してくるなら、

家康はカルバリン砲で反撃するだろう。

戦国武将とはそういう生き物だ。

気性が激しかったとされる信長や、

海外出兵した秀吉などと

比較されたり、

乱世の世の中を最終的に治めた人物ということで、

なぜか穏健派一般的に考えられているふしもある家康だが、

もちろんそんなことはなく

他の戦国大名同様にえげつない面を多分に持ち合わせている。

町人かわら版で自らを批判するなどという無礼は許すはずもなく、

全員が市中引き回しのうえ、さら首になるだろう。

江戸市民たちはそれを恰好見世物として楽しむに違いない。

いや、このさらし首を見世物として楽しむという感覚

江戸市民だけではなく、

文春砲などと息巻いて、

思い上がりきったものたちが

市中引き回しのうえ、

さら首になる日を、

いつか、いつか、と自覚的に、

あるいは無意識に薄っすらとした期待に包まれつつ、

待ち望んでいる東京市民、

日本国民にも共通していることなのかもしれない。

Permalink |記事への反応(0) | 08:15

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-02

大坂」が「大阪」に改名された経緯を示す資料がなさすぎないか

浄土真宗門徒が開いたこからあの地域大坂といわれていた。

秀吉が建てた巨城の名前大坂城。

徳川幕府がはじまって大修復された城も大坂城と呼ばれていた。

町民文化が隆盛した元禄期も大坂城と呼ばれている。

その後、いつのまにか大阪城と呼ばれるようになった。

文献には「土が反るは不吉であるので大阪とよばれるようになった」と書かれているけど、これ、おかしいだろ。

地名が変更になったのであれば幕府公文書地名を変更した経緯が書かれるはず。なのにそれがない。

地元民が「不吉と思った」とかその程度の理由改名されるとか。まるでもともとの地名が不吉ということで名が変わった多摩プラーザじゃないかよ。

日本第二の大都市名前多摩プラーザレベルの軽薄さで改名されていいはずがない。

ぜったいにおかしい。

Permalink |記事への反応(3) | 11:40

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-03-02

15分拡大で放送された最終話・第48回「神の君へ」では、家康にとって最後の戦いとなった「大坂の陣」の顛末、そしてついに乱世に終止符を打った家康の哀しくも美しい最期が描かれた。茶々北川景子)や息子・秀頼(HiHi Jets作間龍斗)らが炎上する大坂城で迎えた壮絶な死にざま、北川と作間の迫真の演技が注目を浴びた前半から一転、後半では家康が死に向かう中で最も幸福だったであろう日の思い出が描かれた。

 後半のエピソードは、これまで随所に伏線が張られてきた家康の息子・信康と信長の娘・五徳の祝言の日に起きた鯉を巡るハプニング酒井忠次大森南朋)、石川数正松重豊)、本多忠勝山田裕貴)、榊原康政杉野遥亮)、鳥居忠吉イッセー尾形)、夏目広次(甲本雅裕)、本多忠真(波岡一喜)ら初期のメンバーも含む家臣団をはじめ、妻・瀬名有村架純)、母・於大の方松嶋菜々子)ら家康が愛した人たちが集結する大団円SNSでは大盛り上がり。「みんないる~(涙)」「初期メン勢ぞろい」「総出演ありがたい!」「まさかオールスター」など沸いたが、さら視聴者を驚かせたのがラストシーンだった。

 幼い信康と五徳の祝言えびすくいで盛り上げる家臣たちを見ながら幸せそうな家康瀬名。「なんと良き光景でしょう……。こんな良き日は二度ありましょうや」と目を細める瀬名に、家康が「わしがなしたいのは今日この日のような世かもしれんな」と未来に思いを馳せる。二人から遠ざかったカメラがとらえたのは高層ビルやタワーが立ち並ぶ光景。初めは「見間違いかと思った」という声も多くみられたが、戦国時代未来現代をつなぐ平和への祈りを表すかのような演出SNSでは「凄い」「技あり」「粋な演出」「印象的なラストカット」「面白い」「殿が平和な世を作ってくれたからこそ今がある」など、驚きやさまざまな解釈で盛り上がっている。

Permalink |記事への反応(0) | 15:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-10-17

anond:20231017171031

なんと大きな大坂城

Permalink |記事への反応(0) | 23:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-09-01

anond:20230901142833

なんと大きな大坂城

Permalink |記事への反応(0) | 14:33

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-25

世の中嘘ばっかやな

コロンブス地球が丸いという確信によって西回りした。→地球が丸い事はみんな知ってた。コロンブス地球の大きさを勘違いしてもっと小さいと思ってたから西回りした。

家康戦争したいか方広寺釣鐘いちゃもんをつけた→真意は諸説あるが、国家安康と君臣豊楽に家康と豊臣の字を入れたのは実際にわざと。

大坂冬の陣で外堀を埋めるという条件だったのに騙して内堀も埋めた→冬の陣の講和実質的に豊臣の降伏であり、内堀を含む大坂城の破却は最初から約束のうち。むしろ豊臣方がその後居座ったのが背信行為

世の中嘘ばっかやな。

Permalink |記事への反応(1) | 20:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-08-27

名将ですなあ

人物逸話

歌川芳虎「大日本六十余将」より『薩摩品津兵庫守義弘』

家康だけでなく秀吉島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟対立を煽ろうとしたが、島津兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。

敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山建設している。

祖父島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

許三官仕込みの医術や茶の湯学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。

義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。

三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。

九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国領地管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先である島津製作所の歴史に記されている[14]。

秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由西軍積極的に参加したとも言われており、最初東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

武勇と実直な人柄から福島正則武闘派武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原撤退戦においても松平忠吉井伊直政徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。

若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである

木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にの従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本生還した。この2匹を祀った神社鹿児島の仙厳園にある「猫神神社である[15]。

晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。

関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原合戦記』)。

義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。

戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。

茶の湯千利休古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。

Permalink |記事への反応(0) | 01:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-05-23

戦国こぼれ話】惨殺された兄弟姉妹。なぜ豊臣秀吉は厳しい処罰を下したのか?

渡邊大門

株式会社歴史文化研究所代表取締役

2020/11/10(火) 9:13

この記事についてツイート

この記事についてFacebookシェア

豊臣秀吉像。時代劇では明るくひょうきんな秀吉だが、実は残酷な男だった。(写真:アフロ

■当然あらわれた兄弟姉妹

 現在でも隠し子なるもの存在する。隠し子がいた場合、亡くなった親の遺産をめぐって争うことは決して珍しいことではない。非常に厄介な問題である

 豊臣秀吉といえば、弟の秀長などが有名であるが、知られざる兄弟姉妹が突然姿をあらわしたことがある。秀吉はどのように対処したのだろうか。

伊勢からやって来た兄弟

 秀吉兄弟姉妹については、以下に示す興味深い史料がある(フロイス日本史』第12章より)。

1人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった2、30人の身分の高い武士を従えて、大坂政庁大坂城)に現れるという出来事があった。この若者伊勢の国から来たのであり、関白秀吉)の実の兄弟自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。

 時期は、秀吉関白就任した翌々年の天正15年(1587)のことだ(秀吉は51歳)。この若者に関しては他に史料がないものの、秀吉兄弟であることを周囲の人々が確信していたとの記述は、興味深い。

秀吉対応

 秀吉は実の兄弟と称する若者に対して、いかなる対応をしたのだろうか。

関白秀吉)は、傲慢尊大、否それ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母(大政所)に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身とて、苛酷にも彼の申し立て否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。

 若者秀吉と面会した際に、何らかの身分的な保証を求めた可能性がある。秀吉があえて母・大政所若者のことを問うたのは、当然「知らない」と言わせるためだったに違いない。

 大政所秀吉との暗黙の了解のうちに、「若者のことを知らない」と答えた。大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。

残酷な結末

 母・大政所が知らないとなれば、若者権力者秀吉に嘘をついたので、苛酷な運命が待ち受けていた。続けて、同史料引用しよう。

その言葉大政所が知らないと言ったこと)を言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白秀吉)の面前斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかったのである

 母の大政所には、3回以上の結婚歴があったといわれている。貧しい大政所生活を維持するためには、仕方がなかったのだろう。大政所不特定男性関係を持ったのは確実で、当時としては珍しいことでなかったのかもしれない。

■姿をあらわした姉妹

 無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。次に、史料を挙げておこう(フロイス日本史』第12章より)。

その(若者が殺されてから)後3、4ヵ月を経、関白秀吉)は、尾張の国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。

 「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたとあるのは、血のつながりのない兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。秀吉自分の知らないところで、血縁者を名乗る人物を消したかったのだ。

■惨殺された姉妹

 さらに話は続く。

その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞に気が付かず、天からの良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて(都に)出向いた。(しかるに)その姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった。

 この姉妹はあまり気乗りがしなかったようであるが、最終的には使者の甘言にそそのかされたようである秀吉に会うためにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのであった。しかし、結果は史料にあるとおり、無残なものであった。おそらく首は晒しものにされたに違いない。

 秀吉といえば、明るくひょうきんなイメージがあるが、実は大変残酷で怖い男だったようだ。https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20201110-00207204

Permalink |記事への反応(0) | 21:52

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-12-11

箱根の坂ってディフェンス強そう。

大坂城とか、そういうのなかったよね。

なんか城さえなんとかすれば

あとはどうにもでもなるって雰囲気

家康の野心を刺激したんだと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 09:04

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2020-10-07

暖房便座は現代豊臣秀吉

「便座を温めておきました」

「その方、便座に座っておったな!」

「滅相もございません! 便座を内部から温める機能でございます!」

まり、便座を温める立場から総理大臣にまで上り詰めるのは便座を温めるAIだ。

ただし現代刀狩りすなわち言論統制喧嘩禁止する惣無事令現代の検地といえる租税徴収体制の強化、そして現代唐入り軍国主義化がセットになる。ネット政権批判を書いたら投稿者と近隣の住人すべてが警察逮捕され、即刻死刑になる。政権批判以外だと、ネット他人悪口を書くのではなくまずはお上相談することが義務付けられる。

この便座AIは強固なセキュリティシステムを構築し自身を守る。現代大坂城だ。これを破って新しい政治体制を築くことができれば現代徳川家康といえる。

いいこともある。

便座AIの軽量版が搭載された子機がヨドバシカメラで購入できる。これを使って人々は人生の諸問題について、いつでもどこでもAIの知恵を借りることができる。

OKヒデヨリ(軽量版AI名前)。匿名ダイアリーレスバを仕掛けられたんだけどどうすればいい?」

また、コロナ配慮してマザーコンピューターDMZに設置されるバーチャル空間バーチャル花見大会が催される。便座AIは派手好きだから面白いアバターで参加することが推奨される。

Permalink |記事への反応(0) | 23:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

Permalink |記事への反応(0) | 05:16

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2020-07-04

武士道批判序説(3)

現実武士の話をします。武士道を体現すべき人間は実際の問題を前に、どう振る舞ったか。それは、徳川幕府の鼻と尻尾残酷に現れてる」

「鼻と尻尾?」

「初代と15代」

将軍か。どっちもなかなかやんな」

「例の『国家安康』は、家康朱子学を講じた林羅山が考えた策。林家は代々、幕府大学頭を務めました。上野忍ヶ丘湯島昌平坂、全部林家が責任者

林羅山朱子学武士道て……系譜の根っこから腐ってるやん」

「その末端が東大。15代慶喜は戊申の時、大坂城から敵前逃亡をやりました。城内の兵に徹底抗戦を説き『最後の一人になっても退くな』言うときながら、自分は夜にこっそり船で江戸脱出

私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。〔……〕「卑怯を憎む心」を育むには、武士道精神に則(のっと)った儒教的家族の絆も復活させないと〔……〕(『国家品格』)

「真面目に反論してもしゃーない気はする。藤原正彦先生、こんなこと言うてはるし」

私は新渡戸〔稲造〕の『武士道』が好きです。〔……〕新渡戸の武士解釈に、かなりキリスト教的な考え方が入っていることは確かです。〔……〕しかし、大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、「武士道精神」を取り戻すことです。〔……〕近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです。

鎖国時代武士道の話と思てたら、いきなり『近代武士道』て。ここまでして武士道言いたい理由と言えば……」

鎌倉江戸……関東を『品格』に一口乗せたいからやろなあ」

Permalink |記事への反応(0) | 01:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2020-05-16

anond:20200516001731

はいはい大工さん大坂城つくって偉いエライ

Permalink |記事への反応(0) | 00:38

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2020-03-03

本拠地大坂城で迎えた徳川戦。

先鋒・後藤又兵衛大敗、援軍も勢いを見せず惨敗だった。

城内に響く浪人のため息、どこからか聞こえる「今日落城だな」の声。

無言で逃げ始める兵士達の中、日本一の兵・真田信繁は独り曲輪で泣いていた。

上田合戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる仲間たち・・・

それを今の大坂城で得ることは殆ど不可能と言ってよかった。

「どうすりゃいいんだ・・・」信繁は悔し涙を流し続けた。

どれくらい経ったろうか、信繁ははっと目覚めた。

どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい甲冑感覚現実に引き戻した。

やれやれ、帰って調練をしなくちゃな」信繁は苦笑しながら呟いた。

立ち上がって伸びをした時、信繁はふと気付いた

「あれ・・・兵士がいる・・・?」

曲輪から飛び出した信繁が目にしたのは、大坂平野まで埋めつくさんばかりの大軍だった。

千切れそうなほどに旗が振られ、地鳴りのように鬨の声が響いていた。

どういうことか分からずに呆然とする信繁の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「源二郎、出陣だ、早く行くぞ」声の方に振り返った信繁は目を疑った。

「ち・・・父上?」「真田の小倅、居眠りでもしてたのか?」

「た・・・太閤殿下?」「なんだ信繁、かってに関白殿下隠居させやがって」

「三成殿・・・」 信繁は半狂乱になりながら陣立てを見渡した。

一番備:福島正則

二番備:加藤清正

三番備:堀秀政

四番備:前田利家

五番備:小早川隆景

六番備:真田昌幸

七番備:大谷吉継

八番備:石田三成

九番備:豊臣秀吉

暫時唖然としていた信繁だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった。

「勝てる・・・勝てるんだ!」

猿飛佐助から兜を受け取り、戦場へ全力疾走する信繁、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった・・・

翌日、真田丸で冷たくなっている信繁が発見され、吉村村田は陣中で静かに息を引き取った。

Permalink |記事への反応(2) | 18:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2018-12-29

anond:20181229083612

秀吉怨霊でござる。帝国とか爆撃機とかなんのことやらサッパリからぬが、駿河国に攻めいったことは分かったでござる。大儀であった。

幼い秀頼の世話を申しつけたのに大坂城を燃やした家康狼藉は許せぬ。

敵味方どちらになるかは知らぬが、いずれ冥界での合戦で見ることもござろう。楽しみにしておりますぞ。

Permalink |記事への反応(0) | 11:29

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2017-12-14

anond:20171214133549

大坂城を作ったのは誰か

Permalink |記事への反応(0) | 13:37

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1仕官以前

1.2秀吉近臣時代

1.3郡山城時代

1.4秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4脚注

4.1注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

Permalink |記事への反応(0) | 13:24

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2017-04-26

[増田お嬢鯖部]

犬山市城とまちミュージアムに行ってまいりましたわ。

ここは犬山城城下町模型が目玉ですの。

どうやら明日の27日から長篠合戦小牧長久手合戦の屏風が展示される様子でしたわ。

インターネット簡単に事前確認できる情報からは分かりませんでした。

作業中のシャッターの隙間から少しだけ長篠合戦の屏風が見えましたわ

およよ・・・

代わりにデジタルで拡大して屏風絵をみれるタッチパネルを触ってきました。

兜を脱いだ姿はみんな髪型が同じですわ。

髪型キャラ付けはしないんですの!?

犬山城城下町模型一見とても堅固ですけど、

南側にある防備の甘そうな丘が気になりましたわ。

あそこに大砲を据えられたら大変なのでは?

そうでなくても木曽川の対岸に大砲を設置されると滅多撃ちですわね。

そういうところは規模は違えど大坂城に似ていますわ。

模型にあった城内の馬場で飼われている馬は二カ所あわせて17頭でした。

犬山祭りに使う山車解説もあり、「どんでん」と呼ばれる

180度ターンの説明を読んで、どんでん返しの語原に気づきましたわ。

という気になったけれど、検索したら忍者屋敷歌舞伎語源みたいですわね。

道を挟んで向かいには同じチケットで入館できる「からくり展示館」が

ありました。

木の歯車クジラの髭で複雑な動きをするからくり人形に驚きです。

自分操り人形操作してみれる展示があり、からくりサーカス

ふと思い出しましたわ。

あるるかぁあああん、ですわ!

Permalink |記事への反応(0) | 22:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2016-12-19

真田丸』ロスを噛みしめる

終わった。

終わってしまった。

この上なく終わってしまった。

毎週日曜日のお楽しみ。最初から最後までかじりついて見たのは『毛利元就』以来20年ぶり。いやー本当に面白かった。

だけど『真田丸』を見返そうとは思わない。ビデオ録ってないけど、録ってたとしても見返さないと思う。総集編も見ない。

なんつかこ物語は不可逆だと思うんだよね。

大坂の陣ってのは、戦国の終わりを告げる戦いだ。槍働き如何でいかようにも立身出世できた日本史上における最後の時を終わらせる、不可逆的な戦いだ。

関ヶ原で没落した連中が、夢よ今一度とばかりに大坂城へと篭って幕府抗うけど、時代はとうに転換していて、大坂方が勝つことは、泰平の世へと進んだ時代が許してくれない。戦国の亡霊たる大坂方が勝つということはまた戦国乱世の世に戻るということであって、それは許されることじゃない。連中は時代によって完膚なきまでに滅ぼされるべきなのだ

勝頼も、室賀も、氏政も、秀吉も、三成も、昌幸も、そして信繁も、時代の波に乗り切れなかった落伍者は、時代によって淘汰される。それは万物の理とでもいうべき不変の法則で、何人も逃れることはできない。

しかしながら敗れてなお名を残すことはできる。

死に様はどのように生きたかが決める。死したときその者の評価は定まる。

真田信繁人生ほとんどを歴史に埋没させながら生き、最後最後でひょっこり顔を出して歴史にその名を刻んだ。

それは信繁が成したことというより、戦国という時代の亡霊が、かくありたいと希い、信繁を依代として成したことと言えはしないだろうか。

戦場で華々しく死ぬこと。

天下人に向かって果敢に突撃し、その末に死ぬこと。

その馬印を倒し、日ノ本一の兵と讃えられるほどの奮戦の末に死ぬこと。

そのような死に様は日本史上において信繁を除いて絶無であり、みなが憧れるような最期だったからこそこぞってその戦いぶりと名を残そうとしたんじゃなかろうか。

そう感じてやまないのは、『真田丸』という物語が、時代に敗れていった者たちの生き方、そして死に様をいくつも積み重ねていったからだと思う。

真田丸』の信繁は決して完全無欠の勇将なんかじゃない。政治的センスに欠け、他者真正からぶつかることを避けて策を弄するような、敗れるべくして敗れるような凡庸さがあった。

から信繁が日ノ本一になれたのは彼の力というより、めぐり合わせ、言ってみればただの運だと思う。しかしそれは何千年という時の流れの中でようやく一回あるかないかというような奇跡

奇跡は眩しい。何度でも味わいたくなる。

でも、だからこそ消費し尽くさないで、たとえば夜空に一瞬またたいた流星をぐうぜん目にしたときのような鮮烈さを噛みしめるに留めるべきだと思う。

またいずれ真田信繁物語別に語られるとしても、『真田丸』は大坂の陣のような不可逆さとともに鮮烈な印象のまま留めるべきだと思う。

2016年という年号とともに『真田丸』は終わる。終わったままにしておく。

別れの時が来た。

ありがとう真田丸』。

さようなら真田丸』。

Permalink |記事への反応(0) | 12:40

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2016-11-02

三日月宗近が苦手

刀剣乱舞は事前登録をしていて、結構楽しみにしているゲームだった。実際、サービスが始まってからもそこそこやりこんだと思う。けれどどうしても三日月宗近の事が好きになれなかった。でも友人や周囲のひとは皆して「三日月かっこいい」「綺麗」「じじい好き」と言うものから、これは私の感覚おかしいのかなと悩む事もあった。ゲームキャラクターひとりに振り回されるのがバカみたいだなとも思ったけど。

三日月宗近(本物の刀の方ね)が天下五剣のひとつで、所謂「すごい刀」だって事くらいは知ってる。知ってるからゲームの中でもあれだけキーポジションと言うか、メインキャラみたいに扱われてる事も納得出来る。新しいグッズが出たら必ず三日月がいる。雑誌媒体になっても絶対にいる。それが当然で、仕方のない事なんだとも思う。

でも、やっぱり、私は三日月宗近が苦手だった。

作品の中で嫌いな立ち回りというよりも、得体の知れない不安みたいな、なんかそういう感じで三日月宗近が苦手なのだと思う。

ほぼ全ての媒体に出てくるものから避けようがない。私が好きな刀剣男士はそこそこグッズも出ていて人気もあるひとだったけど、そのひとを見たくても絶対三日月が入ってくる。それが嫌で嫌で仕方なかった。ピクシブツイッターで見かける漫画イラスト不特定多数刀剣が出てくる場合、必ずと言っていいほど三日月はその本丸にいる。メインとなっている刀剣審神者三日月が助言をする…っていうのも何度も見た。それもまた苦手だった。

アプリ版が配信されて、私は出先でも刀剣乱舞プレイ出来るのだと思うと嬉しくなった。ちょっと放置気味だった本丸に帰ろうと思った。アプリダウンロード特典だか事前特典だかは、レア太刀である三日月と小狐丸で、アプリアイコン三日月だった。まあこうなるだろうなってのは予測出来たけど、それでもスマートフォンの画面に三日月がいるのが嫌で、近侍や育ててきた刀剣たちに申し訳ないと思いながらもアプリを削除した。

ミュージカル刀剣乱舞の出来は素晴らしいとツイッターで何回も見た。好きな役者さんも出ていた。けれどやっぱり三日月宗近が当然のようにそこにいて、結局一度も観に行く事はなかったし円盤も買わなかった。加州加州単体なのにチーム三条と平安組がひとくくりにされているのが自分でも分からないけどイライラした。実際に観に行ったらイライラも解消されたかもしれないし、加州三条組の関係も好きになれたかもしれないけれど、でも無理だった。

ゲームが始まってからのろのろとそんな思いを抱えて、だらだらと大坂城を掘って、たまに公式写真を見て、と、ぶっちゃけ惰性になりつつあったと思う。

そんな中でアニメ化が発表された。大好きなあの刀剣男士が動くのだなと、嬉しかった。ちょっとやる気が出た。でもそれと同時に「どうせ三日月がメインなんだろうな」と言う気持ちが湧き上がってきて、そんな自分が嫌にもなった。

まあ案の定ufoアニメ三日月がメインのPVが出されて、そんなもんだよなと思った。でもきっと走り回って戦って主、って呼んでくれる私の大好きな近侍はかっこいいだろうから耐えたいなって思った。一方で花丸はアニメが始まるまで三日月の姿が出てこなくて、これはもしや、と思ってしまった。

三日月宗近がいないアニメが見られるんじゃないかと、期待してしまった。

実際どうだったかと言うと、花丸5話を見たひとはご存知だろうが三日月は出てきた。っていうかOP刀剣男士大集合!みたいな感じを出した時点で三日月が出てくるのは明白だったし、やっぱりか、と思う事もあった。それはまあ仕方ないよねと割り切りたかった。

それでも4話まではすごく、何の辛さもなしに、純粋テレビ画面を見ていられたと思う。加州が、安定が、燭台切が、乱が、次郎が、画面の中ではしゃぐ姿を見て、あぁ、こういうのだよ。だなんて思っていたような気がする。来週は三日月が出てくると知ったときも、この調子なら耐えられるんじゃないかって思った。

耐えられなかったから今これ書いてるんだけどね。

Aパートホスト風はすごく、すごく幸せでした。そこまでで限界でした。Bパート三日月が、言っちゃ悪いけど、明らかな三日月贔屓みたいな描写が、ほんとうに、心からいやでした。

三日月宗近からそりゃ当然かもしれません。

三日月の打ちのけがあって、瞳も特徴的で、性格にもインパクトがあって、プレイヤーほとんどが彼の事を好きなんだろう。だから需要に対して正確な供給なんだろう。視聴者プレイヤーが望む三日月宗近は間違いなくあれで合っていたのだろうと、思います

でも私は、私が苦手な三日月宗近が、私の苦手な形で顕現して、今後も花丸に出ずっぱなんだと思うと正直しんどいなと思います。そんな事言うなら花丸を見なければ良いだけなのかもしれませんが、それでも私の大好きな刀剣男士が動くところを見ていたいから、見ますCDBDも予約して購入します。

ただ5話(正確にはBパート)を見返す元気もなくて、ああそうだ、匿名ダイアリーなら吐き出してもいいかな、ツイッターじゃないしな、と思った次第でした。

Permalink |記事への反応(0) | 12:53

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2016-05-30

大坂城落ちた日本死ね!!!

何なんだよ日本

真田日本一の兵じゃねーのかよ。

日見事に大坂城落ちたわ。

どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

金バラまいて浪人集めて全国に激飛ばして豊臣の世を復活させてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

何が元和偃武だよクソ。

子供産んだはいいけど希望通りに天下継がせるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

内通してもいいし兄弟で別の陣営付くのもどうでもいいか軍勢増やせよ。

大仏で何百億両無駄に使ってんだよ。

梵鐘とかどうでもいいか城砦作れよ。

有名な坊さんに払う金あるなら城砦作れよ。

どうすんだよ自害しなくちゃならねーだろ。

ふざけんな日本

軍勢増やせないなら石高200万石にしろよ。

軍勢も増やせないし石高も65万石しかないけど徳川なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ

大名軍勢集めないでどうすんだよ。

金があれば戦うってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか出陣にかかる費用全てを無償しろよ。

内通したり徳川手紙送ってるやつ見繕って家臣団を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。

まじいい加減にしろ日本

Permalink |記事への反応(0) | 23:55

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp