
はてなキーワード:大人の女性とは
先週の金曜日、会社の先輩に誘われて渋谷で合コンをした。相手は商社マン4人。こっちは私含めて事務職4人。年齢は25歳から28歳。
私は気合を入れて参加した。ネイビーのワンピースに上品なアクセサリー、控えめなメイク。清楚で知的な女性を演出したつもりだった。隣の友人も同じ路線で、落ち着いた大人の女性という印象だ。
しかし同じテーブルにいたもう一人の女性は全然違った。胸元がざっくり開いた赤いキャミソールにミニスカート、メイクは濃く、声も甘い。最初は少し下品だと思った。
最初は男性陣も私たち全員に興味を示してくれていた。仕事の話、趣味の話、旅行の話。知的な会話が続き、いい雰囲気だと思っていた。
ところが、彼女がグラスを倒し、わざとらしく胸元にかかるように拭きながら「ごめーん、びっくりしちゃったー」と言った瞬間、男性たちの視線が一気に彼女に集中した。
そこからはもう露骨だった。笑顔とポーズで挑発的に胸元を強調し、口元に飲み物を含んで恍惚の表情を作る。二次会のカラオケでは、曲に合わせて大胆に胸を揺らしながら歌っていた。
結果、解散の頃には参加した男性全員が彼女の連絡先を交換し、次のデートを約束していた。私ももう一人の清楚系の友人も、ほとんど存在感を失っていた。
家に帰ってから考え込んだ。なぜ安っぽいエロさが勝つのか。私は自分の知的アプローチが正しいと思っていたし、会話力にも自信があった。見た目だって悪くないはずなのに…。
翌週、勇気を出して彼女にLINEで聞いてみた。なぜそんな振る舞いをするのかと。
「だって男って結局それが好きなんだもん。清楚とか上品とか、本音では興味ないでしょ?ちょっとエッチな子の方が、心に残るんだよ」
「でもそれって、後で遊ばれるだけじゃ…?」
「最初はそうかもね。でもまずは振り向いてもらわなきゃ何も始まらないし、その後に本当の自分を見せればいいじゃん」
そこで私は気づいた。まずは視覚的な興味を引くことが大事で、その後に内面を語ればギャップとして魅力になるのだと。
次の合コンでは、私は控えめだが少しだけ胸元を強調するトップスを選び、ときどき甘えるような声を交えた。
結果、明らかに男性の反応が違った。会話も盛り上がり、連絡先を聞かれた。驚いたのは、その後の知的な会話もギャップとして受け入れられ、むしろ喜ばれたことだ。
つまり、彼女の言うとおりだった。まずは振り向かせるための“安っぽいエロさ”が必要で、その後に本当の自分を見せる。
これは悲しい現実なのかもしれない。男性はどうしても最初に見た目や色気で判断してしまう。内面に入ろうとするアプローチだけでは、興味を引きにくいのだ。
友人にこの話をすると賛否両論だった。「それは男を見くびりすぎ」という意見もあれば、「現実はそんなもんでしょ」という声もあった。
しかし一つだけ確かなのは、恋愛市場では“分かりやすいエロさ”が武器になるということ。そしてそれを戦略的に使いこなせる女性が、結果的に選択権を握るという冷酷な事実だ。
私は今も本当は内面で勝負したい。しかし理想だけでは現実は動かない。だから、戦略的に“小さなエロさ”を駆使して、まずは振り向かせ、その後に本当の私を知ってもらう方法を試みている。
それが女としての敗北なのか、現実を受け入れた賢い選択なのかは分からない。ただ、合コンでの成功率は確実に上がった。それだけは紛れもない事実だ。
今でもはっきり覚えている。ちょうどこの時期で、夏休み中の出来事だった。
中学生の頃、未来から来たのだと突然そんなことを言う人が家にやってきた。
夏の午後、部屋の窓を開けて漫画を読んでいたら母に呼ばれて玄関へ行った。
そこに立っていたのは三十代くらいの男の人。スーツなのにどこか古臭い、だけど妙にきれいに手入れされた生地で、少なくとも近所の営業マンとは雰囲気が違った。
そう切り出された瞬間、私は漫画を閉じることも忘れて固まった。
未来?女優?主演?頭が混乱して言葉が出てこなかったけれど、彼は落ち着いた口調で説明を続けた。
「未来ではタイムマシンが当たり前にあって、僕たちは映画の撮影のためにこうして過去に来てるんだ。きみは主演女優で、今はその映画の主演女優である君の過去のシーンを撮っているところなんだよ」
主演女優。その言葉に、心臓が一気に跳ねた。子どもの頃から芸能界やテレビに憧れはあったけれど、田舎の学校でそんな夢を本気で口にするのは恥ずかしくて、ずっと隠していた。クラスで好きな芸能人の話題が出ても笑って流すだけで、自分がそっち側に行きたいなんて言えるはずもなかった。
だけど目の前の未来人は、当たり前のように私を主演女優と呼んだ。冗談なのか詐欺なのか、それとも本当に未来の人なのか、そんなことより胸が高鳴って仕方なかった。
結局私は彼の言葉を信じた。信じたい、という気持ちのほうが強かったのだと思う。
撮影と称されたものは、ごく普通のデジカメと三脚を使ったものだった。未来から来たならもっとハイテクじゃないの?といったことを聞くと、彼は笑って未来でも昔の画質が必要なシーンがあるんだと答えた。妙に説得力があって、私はそのまま納得した。
シナリオらしきものを見せられて、私が中学生役を演じる場面がいくつかあった。制服姿で廊下を歩いたり、ノートに文字を書いたり。そこまではまだよかった。だけど途中から少し違った。
部屋に置かれたコップに水を注いで、それをワインだと思って飲む。大人の女性を演じるつもりで見つめ合い、少し顔を近づける。それから服を脱いだ。
嫌だった。それでも演じきろうとした。だって未来の自分は主演女優になるんだから。いまここで逃げたら、その未来を裏切ることになると思ったから。
カメラのシャッター音が鳴るたびに、私は未来に一歩近づいているような気がした。
撮影が終わると、その男は「ありがとう。これでシーンはそろった。君は未来で大女優になる」と微笑んだ。
本当に私、女優になるんだ……。その夜は眠れずに、未来の自分の姿を想像して胸を躍らせた。
けれど、それから何年経っただろう。高校に進学し、大学に進み、普通に就職して、普通に暮らしている。
あの日のような未来人は二度と現れなかったし、オーディションも受けなければ演技の勉強もしていない。
気づけばもう、あのとき想像した未来の主演女優とはまったく別の人生を歩んでいる。
それでも私は、どこかでまだ待っている。未来の自分がスクリーンに映る瞬間を。
待っているのだ。
生理用品を無償で公共のトイレに設置すべきか否か、話題になってますねー
子ども向けに何かそういったシステムがあったら、いいなぁと思ってます
初潮も小5だったため、私はまだ生理に全然慣れていなかった。生理周期なんてものが定まるほどの回数もこなしていなかった。
私は、一泊二日の宿泊学習の荷物に、生理用品を入れて行かなかった。
それは致命的なミスだった。
周りの友達に、「ナプキン貸して」なんて言えなかった。持っているかもわからないし、持っていたとしたらその子は生理中なんだろうから、私が使うわけにはいかないと思った。
「すみません、突然生理になってしまって、ナプキンがなくて…どうしたらいいですか。」
売店……
ナプキンを……買う………
…………
買えませんでした!!!!!
思春期すぎて、できませんでした!!
しょうがないのでトイレットペーパーを何重にもしてパンツにはさみ、
なるべくお股にギュッと力をいれて(効果は謎)、夜も眠れぬ一泊二日を過ごした。
あの日の女性教師の事を思い出すと、なんだかささくれた気持ちになってしまう
その経験から、現在の私は全てのカバンに常に生理用品を入れて365日過ごしている
誰か困っていたら、全然渡してあげたい
でも声かけるのも思春期なら勇気いるだろうから、人間を介さずに、急な事で困っている子どもが生理用品をゲットできるシステムがあったらいいなと思ったり
でも悪用とか考えると、なかなか難しいよね……
生理用品を無償で公共のトイレに設置すべきか否か、話題になってますねー
子ども向けに何かそういったシステムがあったら、いいなぁと思ってます
初潮も小5だったため、私はまだ生理に全然慣れていなかった。生理周期なんてものが定まるほどの回数もこなしていなかった。
私は、一泊二日の宿泊学習の荷物に、生理用品を入れて行かなかった。
それは致命的なミスだった。
周りの友達に、「ナプキン貸して」なんて言えなかった。持っているかもわからないし、持っていたとしたらその子は生理中なんだろうから、私が使うわけにはいかないと思った。
「すみません、突然生理になってしまって、ナプキンがなくて…どうしたらいいですか。」
売店……
ナプキンを……買う………
…………
買えませんでした!!!!!
思春期すぎて、できませんでした!!
しょうがないのでトイレットペーパーを何重にもしてパンツにはさみ、
なるべくお股にギュッと力をいれて(効果は謎)、夜も眠れぬ一泊二日を過ごした。
あの日の女性教師の事を思い出すと、なんだかささくれた気持ちになってしまう
その経験から、現在の私は全てのカバンに常に生理用品を入れて365日過ごしている
誰か困っていたら、全然渡してあげたい
でも声かけるのも思春期なら勇気いるだろうから、人間を介さずに、急な事で困っている子どもが生理用品をゲットできるシステムがあったらいいなと思ったり
でも悪用とか考えると、なかなか難しいよね……
やしな・う〔やしなふ〕【養う】1自分の収入で家族などが生活できるようにする。扶養する。「妻子を—・う」2 衣食などのめんどうを見ながら育てる。養育する。「孫を大切に—・う」3 食物を与えて飼う。「家畜を—・う」出典:デジタル大辞泉(小学館)
年収950万円の夫(小遣い月2万円)と専業主婦の妻。二人の子どもが居る。
こういう状況では普通、「夫が妻子を養っている」というのだろう。しかし、私の場合、「妻に養われている」という表現が非常に実感と合っている。主に、上記の2と3の意味で。
あなたも同意してくれるだろうか? 参考として、以下に、私のプロフィールを記そう。
一人暮らしをしていたとき、ゴミ出しを一ヶ月以上にわたって忘れ続け、部屋中がゴミ袋まみれになるのが日常茶飯事だった。
※私は優良な市民なので、決められた曜日と時間帯にしかゴミを出さない。しかし、チャンスは週に二日だけ、しかも早朝限定という条件は私には難しすぎた。だって、忘れたら終わりだし、ゴミ袋たちは部屋の景色と一体化しているので、そこに有っても全然気にならないし。
また当然、ベッドのシーツを洗濯するとか、トイレを掃除するとか、部屋に掃除機をかけるとか、ベランダを掃除するとか、棚のホコリをはらうとか、あらゆる排水口を清掃するとか、そのようなタスクはすべて基本的に意識の外にあり、衛生的にも大変挑戦的な環境で生活を送っていた。
(しかし、きちんと風呂には入るし、歯も磨くし、衣服の洗濯くらいはするので、こんな私でも知人からは真人間に見えていたらしい)
こんな生活能力の欠如は、教育の問題ではなく私の資質の問題である。私の両親はまともなので、半年に一度くらい(遠方である)私の一人暮らしの部屋へ訪問しては大掃除を敢行してくれていた。なお、大掃除の主力は私の父であり、一般的な男女論は適用外である。
昔から通知表に「整理整頓ができない」とか「忘れ物が多い」とか書かれていた気がするので、たぶん脳機能に何か軽い問題があるのだと思う。宿題とかも全然出していなかった。
大人になるにつれ、忘れ物をしなくなるのではなく、忘れ物をしても上手くリカバリーする方法ばかり身につけてしまった。水道代とかを払い忘れてもすぐに止められてしまうわけではないということも学んだ。
食事もまあ、粗末なものだった。スーパーとかコンビニで惣菜を買って、全然美味しくないなあとか思いながら適当に食べていた。いまほど物価が高くない時分なのに、月に5〜6万円くらいは食費に使っていた気がする。
そんな私でも曲りなりに生活できているのは、もちろん収入があるからである。昨年の源泉徴収票を確認したら950万円と書いてあった。同年代平均の2倍くらいは貰っているということになると思うので、これは大変ありがたい話だ。
なぜそんな高収入が得られているのかというと、それはもう、私が得意とする「過集中」の賜物である。学生時代から、一日に10時間以上ぶっ通しでコーディングをしたり専門書を読んだり論文を書いたりすることを、なんの苦痛もなく実行することができた。というか、過集中状態で頭をフル回転させるのは単純に「気持ちいい」ので、集中できないと言う人の気持ちが理解できないというのが正直なところである。
こういう気質と、専門性の高い仕事(研究開発職)が結びついた結果、仕事のパフォーマンスだけは高い、生活能力皆無男性が爆誕したというわけである。頑張って金を稼いでいるという実感は全く無い。こなすべきタスクや、出すべきアイデアが無数に存在するので、もぐら叩きのようにそれを一生懸命潰していっているだけである。たまたま、この「もぐら叩き」でハイスコアを出せる人間が周りにほとんど存在しないという事実だけに助けられている。
そんな私にとって、専門性の高い仕事をこなすよりも、家の中の仕事(いわゆる家事全般)をきちんとこなすほうが格段に難しい。というか、ひょっとしたら不可能なのではないかと思われる。子どもが幼稚園に通うようになって、それを尚更強く感じるようになった。
妻と出会わなければ、私は早々に身体を壊して、社会から(今生から?)リタイアしていた可能性も決して低くはない。
実際、独身時代、私は(未受診ではあるが)自律神経失調症ならびに適応障害と思しき動悸・下痢・腹痛・頭痛・めまい・耳鳴りなどの体調不良に見舞われていた。
※そんなときに優しくしてくれる女性(今の妻)が目前に現れ、それにより何が起こったかはご想像の通りである。
妻は専業主婦として、家の仕事を素晴らしいクオリティでこなし続けてくれている。
見方によっては、妻が社会で活躍する機会を奪っているという誹りを免れないと思うし、実際、子どもが幼稚園に通い始めるまでの数年間、妻はほとんど自由な時間を持てなかった(一人で食事をすることすらままならなかった)のだから、その厚意に甘え続けているのは人道に反する行いと言っても過言ではない気がする。
しかし、妻は自立した大人の女性であり、彼女自身の信念に基づいて、二人の子どもと出来損ないの夫を養育してくれているのである。これは彼女の選択であるのだから、同情とか憐憫とかというのはもちろん不適切であるように思える。
そう。実際、私は妻に「養育」されている。
美味しい食事を毎日与えてもらい、清潔な衣服を用意してもらい、掃除の行き届いた家で生活させてもらっている。何かの支払いが滞ったりすることもないし、私自身で金銭を管理する必要すらない。晴れた日には布団を干し、頻繁にシーツを洗濯し、水回りもピカピカである。食後にはデザート(主に果物)を出してくれるし、出勤時にはお弁当に加えてちょっとした間食も持たせてくれる。
私が出張に行く前には一緒に忘れ物チェックをしてくれるし、何やかんやと必要なものを買ってきてくれたりする。下着が傷んでいたら買い替えておいてくれるし、上着をクリーニングに出してくれる。
一緒に服屋へ行って服を選んでくれるし、子どものついでに散髪してくれることもある。
それに、妻による教育のおかげで、昔は出来なかった家事が、私にも少しずつ出来るようになってきた。妻が家事を処理する速度のおよそ20%くらいしかパフォーマンスは出ないので、これは通常の夫に求められる最低スペック要件を満たしていない可能性が高いが、しかし私にとって大きな進歩であるとも言える。
いずれにせよ、こんな文章をここまで読んでしまった諸賢には、もう明らかであろう。
生活能力が皆無である私は、「妻(専業主婦)に養われている」のである。
いまの世の中の流れには逆行しているかもしれないけれど、こんな夫婦も居るという一例として。
なお、この文章はanond:20190118204653 の後日談である。妻とは今でも仲良しです。
Permalink |記事への反応(13) | 18:04
ワイは勃起した。必ず、かのエッチデカチチのダイアママを見なければならぬと決意した。ワイには麻雀がわからぬ。ワイは、ミステリの読書人である。笛吹太郎、儚い羊たちの祝宴を読んで来た。けれども大人の女性が女児向けの服を着ているエッチなイラストに対しては、人一倍に敏感であった。
っていいよね
この展開をはじめて見たのは『モン・スール』だ
兄の友人も支えてくれている…が、実は兄の知らないところで友人は妹と肉体関係を持っていた
なんやかんやあって兄にバレて二人は破局するも、それでも友人を忘れられない妹
友人は「子供に手を出したのは人生の汚点。それを突きつけられたようで君を見ていると恐怖しかない。もう許されたい、帰ってくれ」と突き放す
相手に罪悪感だけを残す関係を結ばせてしまったのだと悟り泣きながら帰る妹
友人は今でも妹のことを愛しているが、自分のことなんか引きずるべきではないと思い敢えて突き放したというのが真意
ーーー
塾の先生と肉体関係を持った小学生のショタは、関係がバレて先生が逮捕され親に泣かれても、何故人を愛してはいけないのかわからなかった
ゲイ志向は先生との関係のせいで芽生えたのかはわからないがその後も続き、親は先生のせいだと過敏に反応し治すよう求めた
嗜好の矯正を求められながら苦しみ大人になった元ショタは、今でも恋しい先生を探し出し、家の前まで行った
先生は逮捕によって妻子を失ったが、出所後に新しい家庭を持ち昔を忘れて普通のノンケパパのように暮らしていた
かつての面影のない元ショタと目があうと「どちら様?」となにも気づかず微笑む
もうあの人の中には自分はいないと思い元ショタはなにも言わずにその場を去った
ーーー
『歌い手のバラッド』の単行本描き下ろしがタイトルのような話だからつらつらと思い出した
主人公には中学時代に両片思い状態の女の子がいたが、告白できないでいるちに、家庭の悩みなどを抱える女の子は変なおっさんの甘言に依存しおっさん相手に処女を捧げていた
おっさんは大量にハメ撮りを撮影し、それは後にネットが普及した後で全部流出し、女の子は本名も流されてもう二度と主人公が会えない人になった
主人公は女の子の動画で泣きシコする習慣ができ、動画の中の中学時代の女の子を思い女子中学生を甘言を用いて食い漁る成人男性と化し、逮捕され懲役5年の刑を受けた
まゆは関係を持った当時はタワマンに住み賢い私立中に通うお金持ちの子で、今は高偏差値大学の法学部に通っていた
思い出すだけで5年間オカズには困らなかったが、どんなプレイをしたかのエピソードは覚えているのにそれぞれの名前を思い出すのには時間がかかる
まゆは巨乳で骨盤も発達した恵体の大人の女性になっていた、主人公は勃起できなかった
Xで最近見かける「30代またはアラサーの女性がハイスペ年下くんにアプローチされた」というポストを見かけたことなないだのうか?
しかも、相手はただの年下ではなく、高学歴・高収入・高身長の“ハイスペ”な男たち。
「私、まだまだイケるじゃん」と舞い上がるのは自由だ。
しかし、なぜ彼らは20代の若い女性ではなく、30代の女性を狙うのか? そこには明確な理由がある。
そして、残念ながらそれは「純粋な好意」などという甘い話ではないのだ。
1. 「ハイスペ年下男性が30代を選ぶ理由」──手頃な“贅沢”を楽しみたいから
恋愛でも仕事でも選択肢が多く、20代の若い女性からも引く手あまたのはずだ。
では、なぜ彼らは30代女性に寄ってくるのか?
若くてハイスペックな男が20代の女性と付き合おうとすると、それなりに気を遣う必要がある。
20代の女性はまだまだ遊びたい盛りで、理想も高く、相手のスペックだけでなく「楽しいか」「ときめくか」を重視する。競争率も高く、手間がかかる。
一方、30代女性は恋愛経験が豊富で、少しのことでは動じない。
さらに、結婚適齢期というプレッシャーの中で「こんなハイスペ年下が自分に興味を持ってくれるなんて」と内心浮かれてくれるため、男側が少しリードするだけで関係がスムーズに進む。
要するに、ちょうどいい距離感で、手間をかけずに大人の恋愛ごっこを楽しめる相手として選ばれているのだ。
2. 「結婚を口にしても、本気では考えていない」──結局は若い方に行く
ハイスペ年下男性が30代女性と付き合うとき、「将来も考えてるよ」「年齢なんて関係ない」と甘い言葉を並べることがある。
むしろ、自ら率先して「結婚」について触れてくるケースも珍しくない。
これを聞いて安心する女性も多いが、実際に彼らが本気で結婚を考えているケースはどれほどあるだろうか?
結局のところ、20代のうちは「大人の恋愛を楽しみたい」というスタンスで30代女性と付き合うが、彼ら自身がアラサーになったとき、そのまま同じ相手と結婚するかというと話は別だ。
自分も30代になり、周囲の環境が変わり始めると、あっさり20代の若い女性にシフトしていく男は少なくない。
要するに、30代の女性に向けられる「将来を考えてる」という言葉は、その場の空気を良くするための社交辞令のようなもの。
「今は楽しい関係でいたい」「結婚を考えている風を装っておけば安心してくれる」くらいに思っている可能性が高い。
女性側は「この人は他の年下男と違って結婚を考えてくれてる」と期待してしまうが、いざ数年経ってみると、彼は涼しい顔で20代の若い女性と結婚していた──そんな話は決して珍しくないのだ。
3. 「若さへの投資」──30代女性は“自分磨き”を怠らない
30代になると、20代のころよりも外見に気を使う女性が増える。
スキンケアもファッションも、20代の頃より洗練され、結果として「年齢の割に美しい」女性が増えてくる。
ハイスペ年下男性は、そんな女性を「努力して維持された美しさ」として評価する。
20代の天然の美しさとは違い、30代の女性の美は時間とお金がかけられたもの。そこに魅力を感じる男もいる。
だが、それはあくまで「良く手入れされた大人の女性」を楽しんでいるだけで、本質的に「この先も一緒に生きていきたい」と思っているわけではないことが多い。
30代女性が年下男性にモテるのは、決して偶然ではない。そこには、男側の“都合のいい理由”があるからだ。
・努力して美を維持しているので、ちょっと贅沢な気分を味わえる
こうした理由を理解した上で、「それでもいい」と思うなら恋愛を楽しめばいい。ただし、「私、まだまだ若い子にも負けないくらいモテる!」と勘違いしていると、いずれ年下男性が20代の女性にシフトしたときに痛い目を見るかもしれない。
「30代になったら急に年下からモテる」という現象は、裏を返せば「若い頃にはモテなかった層がターゲットにされている」ということ。年下男性の言葉を鵜呑みにせず、本当に自分が何を求めているのかを考えることが重要だ。
https://anond.hatelabo.jp/20250213185758
・より優秀な異性
この「優秀さ」がどうやら年齢によって変わるんだよね
よく言われるのは
みたいな
参考:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1809/09/news016.html
この、「大人の女性に好かれる男性になるためには自己研鑽が必要になる傾向がある」というのは間違いではないと思う
では学生の恋愛はどうかと言えば、大して自己研鑽は必要ないというか、自己研鑽=モテるための努力よりも才能や資質が重視されてしまう傾向にある
なお、これは男女反転してもある程度成り立つが、男が何歳でも若い女子が好きという傾向があるから「自己研鑽してる女子はむしろ嫌い」という人も多く、考え方の不一致を起こす
ここで非常に面倒くさいのは
「今まで一人も付き合ったことがない非モテ男性の資質」についてだけど
まず若い女子からしたらプラスでもマイナスでもない、でも学生時代に非モテだった男性が今更若い女子からモテるとは思えない(例外は多々ある、後述)
大人の女性からしたらマイナスだ、他の女性からモテてないというのは自己研鑽できていない証とみなされる(だからむしろ既婚者がモテる)
というように1つの対象を2つの価値観で判断しているためおかしくなる
もちろん女性側からしたら「男は同年代の女性と付き合うべき」という発想が主だから、非モテの中年の資質を判定すべきは「大人の女性の価値観」によると思うだろうが
男性側からしたら若い女性もターゲットに入るから、反論が起こる
なお、非モテ男性は若い女性にワンチャンあるかといえば、実はある
男女限らず、若いほどクローズドなコミュニティに属しているため、その中で1位になれれば十分ワンチャンあるわけだ
(逆に大人はオープンワールドで暮らしてるから、社会的なスペックを気にし始める)
になるんだよね
残念ながら
___
書き足りなかった
非モテ弱者男性 と 非モテ強者男性 とでちょっと話変わるよね
まあわかるか
2025年の春先、突如としてガンダムファンの間で熱い話題となった新作アニメーション映画『機動戦士ガンダムジークアクス』。本作は “パラレル宇宙世紀” という新たな設定を掲げ、シリーズ従来の魅力を活かしながらも、大胆な再構築を試みた意欲作として注目を浴びている。公開直後から口コミを中心に爆発的な支持を獲得し、つい先日、興行収入が6億円を突破したと公式発表があった。いわゆる大御所監督やメディアのゴリ押しがあったわけでもないが、作品そのもののクオリティと話題性により、多くのファンが劇場へと足を運んでいるのだ。
そもそも “パラレル宇宙世紀” とは何なのか。ファーストガンダムをはじめとする既存の宇宙世紀作品と設定を共有しながらも、歴史や出来事が微妙に異なる――いわゆる「if」の世界線を描いているのが特徴だ。人類がスペースノイドとして宇宙に拠点を広げていく大まかな流れは同じだが、各キャラクターや組織の動き方が従来の宇宙世紀と少しずつズレている。そのズレが、物語やキャラ同士の関係性に大きな波紋をもたらし、ファンをワクワクさせているというわけである。
特に話題を集めているのが、シャア・アズナブルとシャリア・ブルという、かつてのファーストガンダムに登場した人物たちが “パラレル宇宙世紀” でどのように存在しているのかという点だ。本来、シャリア・ブルとシャアは原作では直接長い絡みがあったわけではない。しかし『ジークアクス』では、このふたりが初期から行動をともにし、“ニュータイプとは何か” を探る仲間として描かれている。この組み合わせの妙が、本作における新しい世界観を象徴しているとも言えよう。シャアは相変わらずカリスマ性のあるリーダー像を示しながら、シャリアは彼独自の透徹した感性を軸に、シャアとの対話を重ねていく。ファンの間では「まさかこのふたりがこんなに深く絡むなんて」「これまでとは異なるシャリアの魅力が引き出されている」と大絶賛の声が上がっている。
しかし、『機動戦士ガンダムジークアクス』の真の主役はあくまでも、声優の黒沢ともよさんがキャスティングされている “マチュ” という少女である。マチュは地球圏の片隅で暮らす普通の民間人として物語の冒頭に登場する。血筋も特別なものではないし、高い身体能力や優れた戦闘センスがあるわけでもない。そんな彼女が、思わぬ形で最新鋭モビルスーツ “ジークアクス” を託され、戦乱へと巻き込まれていく筋書きが、本作の大きな軸になっている。
マチュが乗り込む “ジークアクス” は、見た目こそガンダムタイプの意匠を受け継いでいるが、その性能は未知数。劇中では “人型決戦兵器” というよりも “人類の希望を託された船” のように描かれ、パイロットとの精神的リンクがとりわけ重要視される。モビルスーツなのに、まるで生き物のように、マチュの感情や思考に反応して形状を微妙に変化させる場面まであるというから驚きだ。このアプローチには、ニュータイプ論や人の意志と機械の融合といった従来のガンダムテーマが色濃く投影されているようにも見える。マチュが誰よりも純粋な思いで “何かを守りたい” と願うとき、ジークアクスの武装や機動力が一瞬だけ大幅に上昇するシーンは、観客からも「エモすぎる」と称されている。
一方、本作でもうひとつ異彩を放っている存在が “シュウジ・イトウ”である。従来のガンダムシリーズには登場しなかった完全オリジナルキャラクターだが、『ジークアクス』においては非常に重要な役割を担っていると語られている。作中では「ガンダムの妖精」のような存在感を持ち、光の粒子のようにマチュたちの前にふわりと現れる。そのビジュアルは「男性とも女性ともつかない中性的な容姿」「美しい光をまとった幻影のような姿」と表現されており、いわゆる “人ならざる存在” として描かれているのが印象的だ。
しかし、このシュウジ・イトウこそが “ジークアクス” の開発に深く関わっていた人物である――というのが物語中盤での衝撃的な事実となる。マチュやシャアたちは、最初こそシュウジのことを “どこからともなく現れる謎の人物” 程度にしか認識していなかった。しかしシュウジは、ガンダムタイプの研究者としての知識を豊富に持ち、さらにはニュータイプ論にも通じている節をうかがわせる。その存在意義はあたかも “作品世界そのものを導く道しるべ” のようで、ファンの間でも「彼はいったい何者なのか」「なぜ姿を消したり現れたりできるのか」という考察がにわかに盛り上がっている。
実際に映画を鑑賞したファンによると、シュウジ・イトウの描写は終盤にかけてますますファンタジックになるという。物理的な戦闘が激しくなるにつれ、シュウジもまたジークアクスのコックピットを取り囲むオーラのようなものに溶け込んでいくのだとか。通常のモビルスーツ戦とはひと味違う “精神世界での対話” の場面がいくつも挿入され、そこでシャアやシャリア、マチュそれぞれが “人類の可能性” をめぐる深い対話を交わす。ここには従来の宇宙世紀が孕んでいた “ニュータイプの到達点” に対する、ひとつの “パラレルな回答” が提示されているとも言えるだろう。
こうしたスケールの大きなストーリーに加え、声優陣の豪華さも『ジークアクス』の大きな魅力になっている。主人公のマチュ役には黒沢ともよさんが抜擢され、繊細でありながら力強い演技が高い評価を受けている。黒沢さんといえば少年少女役から大人の女性役までこなす幅広い演技力が魅力で、さまざまなアニメやゲームで活躍してきたが、今作で見せる “決して強くはないけれど、それでも守り抜こうとする少女” の声は、観る者の胸を打つ。マチュの心情が揺れ動くシーンは涙なしにはいられないという評判だ。
もちろんシャア・アズナブルとシャリア・ブルも、ファンにはおなじみの声優が担当している。オリジナルキャストの故人がいる場合には別の方が演じているケースもあるが、どちらも極力 “イメージを崩さない” 演技とキャスティングがなされているため、昔からのガンダムファンも安心して楽しめるだろう。パラレルとはいえ、ふたりが兼ね備える独特のオーラは健在で、特にシャアは「あの頃のシャアがもしも別の選択をしていたら……?」という “if” 的な魅力を存分に見せてくれる。一方で、シャリア・ブルが持つ透徹した思考と、どこか神秘的な雰囲気は、今回の世界観に大きくフィットしており、「もっと早くこのふたりの絡みを見たかった」と嘆くファンも多い。
さて、興行収入6億円突破というニュースが流れた際、SNSでは「こんな短期間でここまで伸びるとは」「まだまだ伸びるはず!」といった期待の声が相次いだ。元々はガンダムファンを中心に話題となった本作だが、いまでは映画レビューサイトや総合エンタメ情報番組でも取り上げられ、ライト層や普段アニメを観ない層にも少しずつ浸透し始めているようだ。「映像美がすごい」「色彩表現が繊細」「戦闘シーンのカメラワークが斬新で引き込まれる」といったビジュアル面の評価も高い。モビルスーツ同士の戦いはもちろん、宇宙の広大な空間や地上での風景表現も大きなスクリーンで堪能したいと思わせるクオリティだという。
制作スタッフ陣には若い才能が数多く参加している。特に監督のA氏は、これまでガンダムシリーズとは縁の薄い作品を手がけてきたが、そのぶっとんだ発想と映像表現へのこだわりが注目されてきた人物だとか。シリーズ構成を担当するB氏はライトノベルやゲームのシナリオで頭角を現した新進気鋭であり、ファンの間では「これまでの宇宙世紀観に捉われない、新しいガンダムを生み出せるのでは」と期待が寄せられていた。結果的に “パラレル宇宙世紀” という大胆な発想を取り入れながらも、しっかりと “ガンダムらしさ” を感じさせる物語を作り上げ、興行収入6億円突破という見事な結果を得ている。
今後の展開にも注目が集まっており、監督やプロデューサーがインタビューで示唆しているように、追加映像を盛り込んだ特別上映や、スピンオフ作品の制作が検討されている可能性もある。また公式サイトの予告ページでは、「ジークアクスはまだ変化の可能性を秘めている」という気になるテキストが掲載されており、今後さらに解き明かされるであろう “機体の秘密” にも期待が募るばかりだ。さらに「シャアとシャリアの関係はこれで終わりではない」というコメントや、「シュウジ・イトウに関してはまだ語られていない事実がある」という暗示など、ファンをやきもきさせる情報が続々と投下されている。
かくして、『機動戦士ガンダムジークアクス』は “パラレル宇宙世紀” という新たな器を得て、旧来のファンも新規のファンも巻き込みながら、ガンダムというコンテンツに再び光を当てている。その要因には、設定の斬新さや作画のクオリティはもちろん、主人公マチュの儚くも強い意志、そしてシュウジ・イトウという “妖精” 的存在のミステリアスな魅力が大きく寄与しているのは間違いない。シャア・アズナブルやシャリア・ブルという懐かしい顔ぶれも、かつてとはまったく異なるシナリオで姿を見せることで、ガンダムが持つ “深い歴史観” と “新しい世界の可能性” を同時に提示してくれている。
興行収入6億円という大台を突破し、さらなる上積みも十分に期待される『ジークアクス』。ガンダムシリーズの中でも、これほどまでに “世界観そのものを再構築” した作品は珍しく、さまざまな議論や考察がファンダムをにぎわせている。果たして、この作品はどこまでの高みへと達するのか。そして、パラレル宇宙世紀の結末には、どのような “希望” や “真実” が待ち受けているのか。今後も目が離せない、2025年を代表するアニメ映画のひとつとなりそうだ。観客やファンの声を背に、ジークアクスはさらに高く飛翔し、ガンダムシリーズに新たな風を吹き込むに違いない。
おかしい。
何も出てこない。
おかしい。
俺の想像では読み終わったオタクたちによる「日本のラノベだったらストラットは確実にロリキャラだった。銀髪か紫髪の。アクエリオンシリーズに出てくるような感じの。ホシノ・ルリみたいな外見もワンチャンある。でも設定的にはロリババァだった感じかな。中華ゲーだったらブローニャみたいな感じだったはずだろう。これが大人の女性であるって所がやっぱ欧米諸国と日本の文化の違いなんだろうな。日本だったら硬派なSFを気取っていても体だけロボットにでもして無理やりロリババァにしてたと思うぜ」みたいな会話が繰り広げられているだろうと信じていたのに。
おかしい。
俺はこの宇宙にたった一人なのか?
ヘイル・メアリーに一人取り残されたような気分だ。
だが、俺は諦めない。
出ない。
出ない。
なぜだ!
辛い。
本当にこの宇宙にただ一人になった気分だ。
なんでだ。
天気の子からたった5年しか経っていないのに、もうこの世界(インターネット)は俺の全く知らない場所に変わっていたらしい。
出そうで出ない!(僕のウンチの話ではない)
畜生!
お前らが散々「火星の人頭良すぎる!俺だったらウンチを直接食べて必死に飢えを凌いでたと思う!バナナうんこパクパクモグモグ」とか言ってたことに対してのファンサービスに対してさえこの仕打ちかよ!
なんなんだよこのインターネットは!
ウンチを食ってるんだぞ!
今度はウンチを本当に食べてるんだぞ!
作者が「ははは。今回はウンチを(利用して生み出したまともな食料品を)食べるシーンがなくて寂しかったかい?大丈夫!最後にとっておきのサプライズだ!」と最高に気を利かせてくれたんだぞ!?
もしかたら、火星の人を熱心に読み込んだ読者の中には文字を読み進めながら「まだだ!まだウンチがある!ウ ン チ 食 べ ろ!」と叫んでた人もいるだろうし、その人はきっとガッツポーズを取ってたはずだろ?
もう駄目だ。
俺は孤独だ。
この宇宙に無数の宇宙人がいるはずだと信じるような気持ちで、インターネットに無数の気持ち悪いオタクがいると信じて飛び出したことを後悔している。
誰も居なかった。
一人ぼっちだった。
駄目だ。
何も出てこない。
誰も俺と同じ世界観なんて持ってない。
ようやく少しは引っかかってくる。
でも俺がしたかった話とは少し違う。
美少女の命が儚く消えるメランコリックで耽美的な物語と、おじさん達がウンチを食べながら必死に生き延びる熱血友情ドラマの対比を語っている誰かに会いたかった。
分かるよ。
オタクの国でエロゲ黄金期の主戦場として萌え萌え言ってはキンモー☆されていた奴らが、この作品とどう向き合うのかを聞きたかったんだ。
苦しい。
俺は一人ぼっちなのか?
違うと信じたい。
俺はロッキーなんだ。
きっと誰かが遅ればせながらやってきて「おいおい、先人がいたのか。確率を考えれば確かにありえる話だ」とグータッチしてくれるって信じて待つんだ。
この冷たいインターネットの中、たった一人死んだように眠りながら。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。