
はてなキーワード:夢想とは
本稿で提示するプロファイルは、10万件以上のブクマを有するidを対象に公開コメントをAIが解析し、その深層心理や思想傾向をモデル化した「テキスト・ペルソナ」です。これは実在する個人のプライバシーを暴くものではなく、言語活動に基づく批評的なシミュレーション(思考実験)です。特定の個人の社会的評価を操作する意図はなく、あくまでテキスト分析の一環としてお楽しみください。
世代・時代背景 (Generational Cohort):
生活圏・経済階層 (Habitat & Economic Class):
ライフステージ・役割 (Family & Social Roles):
専門性と認知スキル (Expertise & Cognitive Style):
情報摂取源とリテラシー (Information Sources & Literacy):
政治的・経済的スタンス (Political & Economic Stance):
「敵」と「味方」の認定 (Enemy &Ally Designation):
道徳的基盤 (Moral Foundations):
対人スタンス (Interpersonal Stance):
コミュニティ帰属意識 (Community Belonging):
「世界の全てを冷笑し、ワンルームの『コックピット』から呪詛を撒き散らす、孤独な氷河期サバイバー」
この人物は、現代日本が抱える「氷河期世代の棄民化」と「ネット世論の分断」が生み出した、悲しきモンスターです。経済的な停滞と社会的な孤立が、彼から他者への共感能力を奪い、代わりにネット上の過激なイデオロギーで空虚な心を埋めさせました。彼は社会に対して「復讐」するかのように冷笑的なコメントを書き込み続けますが、その刃は巡り巡って、誰とも繋がれない自身の孤独をより一層深めていることに、気づかないふりをし続けています。
浮浪する人々の行き場が失われると、まるで潮が引いた海が低きへ低きへと水を集めなおすように、社会の縁に沈殿をつくる。その底へ落ちた人々が、いま「反社会的勢力」とよばれる集団に流れこんでいる。弱者の受け皿とは、かくのごとき場所を指すのだろう。
M4を肩にかけた法の番人に追われることが、どれほど常軌を逸しているかを理解できず、「自分にもできる」と思いこむ。そこにあるのは愚かさではなく、むしろ哀しいまでの想像力の不在である。
もし彼らが、己の命を賭する代償として手に入れようとするものが、
せめて歴史を揺るがす何か、たとえばジャンヌ・ダルクの旗のように人を熱狂させる理想であれば、まだ語る価値もあろう。
だが、求めるものはたいてい、安手の幻想である。どこかの物語で見た、永遠に老いぬ美姫。
それを得れば、これまでの空白の人生が一挙に埋まると信じている。
彼らの理屈をひとことで言えば、
忍耐と理知。わずかな誇り。
それらを持たぬがゆえに、彼らは破綻した賭場に座り続けるのである。
彼らがたどり着いた先が、反社の末席というのは、ある種の歴史の帰結ともいえる。
哀れというほかない。
人類史が幾度も描いてきた「敗者の美学」を、かすかな影として宿している。
ただし、道を誤った敗者は、結局のところ敗者である。
もし、人生を変えたいのなら、
だが彼らは、それを「かっこ悪い」と笑い、自らを救う手を払いのける。
――歴史は、こういう者たちを多く見てきた。
詩にも残らず、石碑にも刻まれぬ名もなき敗者。
その生涯を塵と笑い捨てることはたやすいが、
人の世とは、その塵が積もってできている。
私はときおり考える。
彼らの愚行は、笑うためにあるのか。
それとも――
いろいろあり、30歳を目前にして貯金が一億近くある。
正当に自分で手に入れたものなんだけど、能力があって社会的に成功して稼いだ金という訳でもないから、なんとなくあるだけのものとして認識している。
親を含めた親しい間柄の人間に金銭的に搾取されてきた経験があるから、親孝行しようとか、困ってる知人友人を一方的に助けてあげようとか、見も知らぬどこかで困っている子供たちのために大きい額を募金しようみたいな気に全くなれない。(お世話になった人へのお返しとか、対等な関係での金銭のやり取りは除く。)
出不精だしコミュニケーションが苦手で友達がいない。作る気も積極的には起きない。
fireするには少し早すぎるし額が小さいと思う。
株などで増やすには脳が足りない。
小さいころ、宝くじで大金が当たったらと夢想した経験は自分にもあったが、実際使いきれないほどの金を手にしても持てあますだけだった。
むしろ、ゲームをズルして早々にクリアしてしまったような無力感にずっと苛まれていて、心療内科に行ったら適応障害を診断された。
鬱を経験したことがあるからあの時ほどの苦しみはないが、それでもぼんやりとした無気力感と嫌気に苛まれている。
生きていて楽しくないと思う。
お金があるおかげで生活に苦しむことはないが、味をあまり感じることができない舌なのでご飯を含めた生活のランクを上げるとかもしようと思わない。
お金が無かったり病気で仕事もままならず困っている人からすれば、働かなくてもしばらくは生きていけるだけの金がある自分は贅沢者に見えると思う。実際苦しくはないし、つらくもないが、ただ人生が楽しくなくて、無気力で、この先の死ぬまでの長い人生を思うと嫌になってくる。
AGIだのASIだの、AIが神になるだの言ってる連中はバベルの塔であると認識してねーの
あのね、電力を大量に食い散らかして持続可能だと思ってる時点でお里が知れんのよ
人類なんてのは、謙虚さを忘れたらただのゴミを発生させるだけの獰猛な獣でしかねーの
でさ、その獣どもが「次のステージだ!」って騒ぐたびに、俺は目を細めて「おまえら本当に塔を建てきれるのか?」って確認するわけよ
現実は、足元すら揺らぎまくってる。データセンターは熱を撒き散らし、GPUは悲鳴を上げ、電気代は天井知らず
そもそもさ、AIを神扱いするやつらって、塔の頂点から落ちる未来を想像できてないんだよ
塔を建てるなら、まず地盤を知れ、重力を理解しろ、資源の有限性を噛み締めろって話で
俺はね、そんな連中の夢想に付き合ってる暇はねーんだよ
ただ、冬が来る前に、生き残る準備をしてるだけ
風俗に行けば「女はこんなもん」「セックスは排泄行為に過ぎない」とある程度客観視できるが
セックス未経験のままだと性交への誇大妄想がエスカレートしてシャブや桃源郷であるかのように夢想した挙句、ポルノ知識と相まって実在の女を「発展場のホモのようなチンポ狂い」だと主張してまともな成人男性として扱われなくなる
彼らが「モテるチビ」として例示したがるジャニーズタレントは、10代の頃から女ウケするスタイリングや仕草や腐女子向け営業の研究に人生の大半を費やし、なおかつ事務者入所の時点から過酷な競争を繰り返し乗り越えている
低身長男性が夢想する「何もしなくても女に群がられる存在」とは真逆なんだけど
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
https://anond.hatelabo.jp/20250627104451
https://anond.hatelabo.jp/20240210015356
https://anond.hatelabo.jp/20250907140118
人間の善意ややさしさは、ときに逆説的に、魑魅魍魎を呼び寄せる。地獄とは死者の後にあるのではなく、生者の営みのなかにこそ現れる。
残されたIT会社の社員の人たちは、現場?に入ってる別のパートナー会社?というところの人たちが引き受けて業務は継続することとなったらしい。つまり、吸収のような形のようだ。俺はIT業界で働いたこともなければ、経営なんてしたこともないのでこれ以上の詳細はわからない。
webベンチャーで始まった会社は、兄の無法により傾いた会社をどうにか回すため、客先常駐業?を始めたらしい。それに反発して大量の社員が去っていった。後に残るのはわずか数人、というありさまだったらしい。兄もその「客先常駐」の一人としてよその会社に働きに行っていた、という。
ただ、どうも兄の葬式などの手続きで奔走している間、伝え漏れてくる奥さんや他の人たちの話を聞いていると、兄の会社が傾いた理由は、本業のITのせいではなく、兄が多角経営をしようと株(先物?)だとか、不動産だとかに手を出した結果、凄まじい損が出た結果らしい。
本人は「時代の潮流に乗る」と信じていたのだろう。だが歴史をひもとけば、一発逆転を夢見た者の多くは滅んでいる。兄がかつて憧れた15年前の意識高い系のインフルエンサーといった生物たちで、現在でも生存している人間はいるだろうか?彼らは当然の如く時流を見誤り、あえなく路傍に果てた。兄もまた、その群像の一人ではないだろうか?
当人は良かれと思ってやったのだろう。6年か7年前だっただろうか、「ネットを見てみろ、大体みんな投資やっているぞ」、「ある程度不動産も回さなければ安定した経営はできない」、「Xで有名な〇〇さんだって…」と実家に帰省した度に兄がよく自慢していた。
俺は口が裂けても言えなかった、「それ」は本当のことなのか?本当に儲かってる奴が儲かってるなどとネットで公言するだろうか?アポ電強盗さえ流行しているご時世に。
兄が憧れた「キラキラ生活」もそれだ。本当にキラキラした人生やキラキラした生活を送っている美男美女は、そんな自慢はしない、そもそも、ITベンチャーの社長などと名乗っている奴らが本当なのであれば、気〇いみたいにXなんかをしている暇なんかないであろう。少なくとも俺はそう思うし、業種は違えどそれほどの責任ある立場の人たちはみんなそうだった。忙しいのだ、単純に、世の中で暇な社長などいるであろうか?いたら見てみたいものである。
「キラキラした世界」で生きていたルカねえもそうだ、彼女は兄の様に見栄を張らなかった。ありのままに自然や世界を見つめていた。それは俺でさえ忘れてしまいそうな人間として当たり前の自然と調和した感覚なのではないだろうか?
…だがそんな中でも兄は「キラキラ生活」をやめようとしなかった、「いつか一発逆転ができる」…追い詰められた人間特有のありえない夢想は、かつて子供の頃の俺に「ITで世界は変わる」と語っていた夢が首を吊った時にヒリ出した糞と小便とザーメンで混ざり合って変質した思想だ。
当然、現実はそれを許さない。それを粉砕するように冷たく回るこの経済大国の社会の前に、心が折れた兄は首を吊って自殺した。
兄の自殺死体の第一発見者は奥さんだったようだが、学校が終わって帰ってきた娘も居合せたという。
生きている人間には絶対できないトカゲの様に舌をたらし、小便と糞便と精子を漏らし縊死して「てるてる坊主の様に(俺の父が形容するには)」になっている兄の姿を見て、娘はしばらくショックで意識を失っていたという。
俺はそれを聞いて、朴訥だったIT少年だった兄にまとわりついたITや情報化社会の「毒」が抜けて出た汚れが、首を吊っててるてる坊主になった下にたまった糞と小便がブレンドされた汚物なのだろうか、と思った。
兄の魂は天へ昇ったのではない、虚勢と見栄と業でがんじがらめになって、ネットの海と地の底の闇の世界へと、魂は糞と小便にザーメンに溶け混じった汚物と混じって堕ちていったのではないだろうか、その死に様を聞くたびに、そう思わずにはいられない。
今も兄の娘はトラウマと精神疾患で、精神科に通院をしている。音楽関係の母(兄の奥さん)を持つだけあって、芸術に素養のある血統があったのだろう、絵画のコンクールなどで受賞した利する程だった彼女は、とてもではないが形容できない闇の深い滅茶苦茶な絵をかいたり、黒く塗りつぶした様な絵だとかに変わっている、という。
それはまるで、兄が縊死した末に堕ちていった世界の一端を描いているかのようだ。芸術とは本人が意識せずとも、世界の裏側を映すことがある。兄の娘の病んだ絵は、父が堕ちていった闇を娘故に見えてしまったのかもしれない。
それだけのことをいうのにも理由がある。兄が死んでから暫くというもの、ルカねえの「音楽関係時代の知り合い」や「兄のビジネスパートナーの会社の社長」、「経営者友達」などと肩書だけは社長だと名乗る風体からして怪しい連中が押し寄せて、兄の娘を「芸能界デビュー」させようと、「おじさんに何でも相談して」等と明らかに性的搾取をするために下心丸出しで群がる様になった。電話、line、SNS、酷いときには登下校中の彼女に対して、性欲にギラついた性獣そのものの目を向けて兄の娘をそのいきり立った股座を隠すこともなくケダモノの様な獣欲でモノにしようと群がっていたという。その光景は、死にかけた草食獣に群がるハゲタカやハイエナを想起させた。(当然、即俺やルカねえや父たちは警察に相談して事なきを得た)
――兄の娘は、制服を見るだけでもそれを思い出して立てないくらい立ち眩みを起こして何度も吐く様になった、これを心身症という。日本社会の底辺に沈殿した悪意と欲望が、無垢の少女にまとわりついた結果である。
俺と父はそれに対処しながら、「本当にこんなエロ漫画やエロゲーみたいな種族が日本にいるのだな」と内心思っていた。これもまた、兄の見栄と虚勢と業が生み出した禍だ。
「あのルカねえのセンスを受け継いでてカワイイこの子がこの業界にこないのは人類の損失ッスよ!俺にプロデュースかませてくださいよッ」、俺たちの前で軽薄にチャラついて兄の娘に獣欲を隠しもせず艶めかしく気持ちの悪い目線を見せている、山師の様な連中、普通の人間であればしない臭いが鼻を突いた。後で警察官の知人に聞いたところによると、大〇を吸っている人間はそんな臭いをまとわせるのだという。不思議なことに、獅子舞の様にドレッドヘアーを振り乱して、制服姿の兄の娘をチラチラみながら軽薄と欲望と悪意と性欲を向けて喋る彼の顔が、俺にはかつての兄に重なって見えた。
何の罪もない感受性の強い14歳の娘に、社会の底辺からの悪意と性欲の手と邪眼の様ないやらしいマナコが常に体にまとわりついている。残されたルカねえと兄の娘にとって、これほどの地獄があるだろうか?(俺が14歳の頃といえば、こっそり家でネットのエロ同人でオナニーをして、昼休みはクラスで遊戯王カードでバトルが開始され、部活で汗を流し、職員室や校長室の掃除で教頭や校長と話をして大人の世界の一端を聞き、校庭の向こう入道雲と未来に思いをはせて大人に背伸びしていた気になっていたような年頃だ)
だがしかし、この地獄は兄一人の死から生まれたのではないと思う、虚栄と業に囚われた一人の男の末路が、時代と社会の病を照らし出したにすぎない、俺はそう思う。
時期はぼかすが、兄の娘が警察に補導された。学校にいてもほとんど「体調不良」で保健室にこもりっきり、周りともうまく合わせることが出来ず。彼女は流れ着いたトー横で警察に補導された。
間一髪だったと思う、しかし明らかにその様子は精神的にも異常だった。俺や父にまで肉体関係を結びたいとほのめかすような言動をしていた。当然母にいってルカねえと即心療内科へ連れて行った。彼女は社会の闇の部分の悪意に当てられて、身を守るために「女」であることを、まだ齢14や15で覚えてしまおうとしている、俺と父は背筋が凍る思いがした、人はこんな簡単に「壊れる」ものなのかと。
聞けば、ルカねえが精神科への通院をやめさせたらしい。彼女が最後に縋ったもの…それは自殺した兄と同じく根拠のない「願望妄想」の亜種であった。
精神科からの投薬でさらに精神状態が悪化したとルカねえは考えたのだろう。通院を辞めて怪しい漢方薬やら青汁やらといった民間療法に縋るようになった。娘がそんなもので心が治るはずもない、それさえもわからないほど心がすり減ってしまっているのだ。
気功、波動、そんな怪しい連中になけなしの金を払って縋り付いている。俺にはそれが腹立たしくて悲しくてやりきれなくて仕方がなかった…彼女たちは何も悪くないというのに。社会の底辺の悪意が彼女から弱った心に付け込んで、社会の底に漂う闇が、弱き心に牙を立てている。金も全てを奪い去ろうとしている。まさにこの世の地獄がそこにあった。
俺が暮らしていた府中の大国魂神社は、この地に古くから鎮まる武蔵国の総社である。神社はかつて人々の心をつなぎとめ、共同体の絆を保つ拠点であった。しかし近代の都市化のなかで、古き信仰は力を失い、かわって都市の片隅に怪しい宗派が芽吹いた。
トドメとばかりにルカねえの前に「例の壺売り」の亜種の様な連中やら似非神道や仏教やキリスト教の一派、様々な怪しい宗教がどこから聞きつけたのか搾取しようとやってきた。その姿は、山中に棲むヤマビルを思わせた。磨り減った心に吸いつき、血を啜ろうとする。もはやルカねえにそれをはね返す力は残されていなかった。
それでも俺の両親も、俺もどうにかこうにかマトモな生活ができる様に接し続けていた、助け続けていた。普通に生きてたら恐ろしくて相対することも怖い様な「墜落したUFOから這い出てきた宇宙人」の様な連中が夏の蚊の如くたかってくるのを追い返しながら、
思えば、それもまた兄が、ありもしない見栄や虚勢をネットとSNS,そしてITに見出して引き寄せた業そのものだ、ただ伴侶で、娘というだけで、日本人で普通に生きているのならば一生見ることもなく、また普通の人間なら見てはいけない世界や存在を業として背負わされている。
そこには10年ちょっと前のあの日、府中は分倍河原で見たプラネタリウムと、あの日の帰路の夜見た星空の様な綺麗な「夜」ではない。あのとき見た星は、清澄で、人の夢を誘うものだった。だが違う、これは悪意に満ちた「闇」である。そこに希望も夢もなく、ただ人の毒が漂っている。兄の娘とルカねえは、その闇に呑み込まれた。彼女らが何の罪も犯していないにもかかわらず。
夜と闇の違いがあるとすれば、そこに人の希望や夢があるかどうかであろう。闇に潜むしかない生まれや育ちの人間だって、確かにこの社会にはいるのかもしれない。しかし闇は、夢を赦さない。兄は本来、朴訥なIT好きの少年であった。
だがいつしか、踏み入れてはならぬ領域に足を進め、虚栄と虚飾に体と心を食い尽くされた。そこに群がったのは、毒虫のような人間たちであった。
――そんな中で記憶に残っている光景が一つだけある。ふとそんな雑輩の対処に父とおわれている時、土日の朝であったであろうか。仮面ライダーやウルトラマンがやっていたのを見た。銀幕の中で「悪の怪人、怪獣」と戦う彼らの姿を見て、俺と父は思わず鼻で笑った。
ウルトラマンも仮面ライダーも、現実には存在しない。彼らが戦うのは彼らと同じく怪獣や怪人といった架空の世界の存在だけだ。子供たちのヒーローは決して、俺たちが今戦っているようなグロテスクな社会悪…欲望と虚栄に塗れた人間たちとは理由をつけて戦わない。
「ヒーローの超人的な力はただの人間に振るってはいけない」だとか「どうしようもない存在に等しい力でとめるのがヒーローだ」と言いつつ。笑ってしまう、現実には彼らなど「警察官立ち寄り所」のシールが張られたコンビニ以下の抑止力しかない。そう、ウルトラマンはいないし、仮面ライダーは助けに来ない。それがルカねえと兄の娘の前に横たわった冷酷な現実だった。そして、それと戦っているのは今まで荒事などに遭遇したこともない、普通の人生を生きただけの牙も爪も持たぬ一般人である父と俺だった、仮面ライダーやウルトラマンといった存在ですら「理由をつけて戦わない程厄介極まる社会悪という敵」と戦う俺たちは、スペシウム光線も打てなければ空も飛べない、ライダーキックもできなければサイクロン号にものっていない。持っているのは柔道初段、乗ったことがあるのはスーパーカブだけ、戦闘技術らしきものといえば、大学の時夏休みを利用していった予備自衛官補の訓練だけだ。64式小銃を執銃するたびに指の皮がむけてバンドエイドを張り、分解結合は3分もかかった。的には実弾射撃で一発も当たらず訓練を終えた。そんな凡骨が、警察をも恐れず14歳の少女の瑞々しい肢体を欲望の毒牙に掛けようと闇から這い出てくる、犯罪を生業とする無頼の連中と、矢面に立って戦わされている。
実際は、俺たちの知っている「正義のヒーロー」など、企業経営のための利潤を求める売り上げ高のある「商品の一つ」にすぎない。ああ、立派な志を掲げて人々を守ると誓い、TVの画面の向こうで勇ましく戦ったにもかかわらず、今はマニアのオタクしか知らずにその活躍も存在も忘れ去られたヒーローなど幾らでも昭和の昔からいたではないか。秋葉原に行けば、かつて大志を掲げて戦ったはずの昭和のヒーローたちが、忘れ去られ、玩具の片隅に埋もれ、ショーウィンドーに忘れ去られた玩具として並べられている。
かつてTVの向こうで戦った英雄たち…ショーウィンドーや中古オモチャの箱に押し込められ、埃をかぶったその姿は、もはや仏像の破片の如く、往時の光を失っている。
そして、せめて闇に堕ちた兄が唯一這い上がれる救済の光を出し続けていたルカねえや娘は兄の引き連れてきた「黒い遺産」である彼らに闇の毒牙を突き刺され、心が壊れた。…壊れてしまったプラネタリウムはもう星空を照らさない。また直ることは決してない。
――弟である俺が言うのもなんだが、兄は地獄へ堕ちている、と思っているし、堕ちていなければならないと思っている。彼はそれだけのことをしてきたからだ。
俺のパソコンは窓側の後ろにある。目が疲れたら遠くの景色を眺めるためだ。
遠くには街の灯りがうっすらと見え、人の営みがまるで夜の闇に「プラネタリウム」のように輝いている。
…あの星の一つ一つには物語がある、人生がある、それらが輝き合って社会と世界を作っている。兄は、それに最後まで気が付かなかった。ネットとSNSとITの毒に当てられ、自尊心が毒虫の様に肥大化し、自分を一番星の生まれ変わりと信じようとして…星は無間の闇へ堕ちた。
PCの画面に向かう時、俺は兄が落ちたこの世の闇と地獄への入り口を同時に覗いているのだ。そう考えると背筋が凍る思いがした。
ただの0と1の数式で動く電気計算機でしかないPCは、社会の闇と地獄を、一生関わり合いにならない人たちを引きずり込むほどの魔力を手に入れた、それは皮肉にも、「ITで世界は変わった」と言えるのであろうか。俺達が想像した方向性での世界ではなく。暗い闇と地獄の窯として。
HDの上にはみんなで江ノ島に行ったときに水族館で200円のガシャポンで買った、青く透明のスーパーボールの中に、シロナガスクジラが入っている。
空とも海ともいえる闇とは無縁の蒼い世界を泳ぐ鯨を見て、闇と地獄が忍び寄る影が消え去っていくような気がした。昔、兄がやっていたPCゲーム「最終試験くじら」を思い出していた。内容は覚えていない。ただ曲と世界が綺麗だった。よく今はなきMDで曲を聞いたことをよく覚えている。繰り返し聴いたあの曲は、蒼い空と海を思わせた。そこには、ルカねえや娘に群がった下劣な人間たちの姿はなかった。ただ清らかな青があった。
ルカねえや娘、俺達に群がる石の裏をひっくり返した蠢くようなグロテスクな蟲の様な連中とは無縁で決してたどり着けない、青い空を泳ぐ鯨、どこかそれを思い出していた。
――こんな話を昔聞いたことがあることを思い出した。
ルカねえと兄のなれそめは、兄がiTunesの同期が上手くいかないからと、直したことがきっかけだったそうだ。
「すごいねぇ、こういうことできる人って、尊敬しちゃうな、人の役に立てる技術があって、それを他人のために使える人って、カッコイイよね」、ルカねえはそういったという話を実家での酒の席で聴いたことがある。
ああ、兄はひたむきに朴訥に「ITで世界を変える」のではなく「ITで人の役に立っていた」時期でとどまっておくべきだったのだと思うし、そういう仕事をすべきだったと、今にして俺は思う。
人の役に立つための技術であれば、彼もまた人を照らす星であれたはずだ。
…人の役に立つことを誇りとする。それ以上のものを望まずとも、兄は一つの星でありえた。
今兄はどこへいるのだろうか。首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に魂が溶け出して、娘を狙ってやってきていたIT業界だとか雑多な業界からの魑魅魍魎の世界で永遠に満たされない苦痛と地獄の中で、ルカねえと娘に暴力を振るった時の様な慟哭を叫び続けて泣き続けているのだろうか?
それとも、ITとネットとSNSで毒虫に刺されたように肥大化した自我を首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に流れて心が浄化されて、己のやってきたことを「壊れたプラネタリウム」の様な無間の闇の中で後悔しながら何度も答えが出ることもなく虚空の闇に魂が逡巡を彷徨い続けているのだろうか?
死んだ後の世界の話など、生きている俺たちは知りえることもない。ましてや、あまりにも見栄と虚勢と業に塗れた兄がいった世界など、想像しえるはずがない。
ただ一つ、確かなことがある。残された者の苦難は、死者のそれよりも長く、重いということだ。
俺は願っている。ルカねえと娘の心に、再び光が差すことを。
ただただ、ルカねえと残された娘の魂と人生の安らぎが戻ることを願うだけである。
鯨はただ、地獄の入り口であるモニターのブルーライトで照らされた青の中を泳ぐ。人の業を超えたその姿に、俺は兄が生涯見ることのなかった「青い世界」を重ねてしまうのであった。
パソコンの向こうのXで繰り広げられる、貧困、見栄、虚飾、性欲、憎悪、グロテスクな感情の数々と地獄の様な世界。あれらとは無縁の蒼い世界を、鯨は悠々と泳いでいる。
youtubeで調べて曲を見つけた、「ディアノイア」という曲だった。旋律はあの頃と変わらず。澄んでいた。あれを聴いていた日々だけは、今も青い光として心に残っていることを思い出した。
「想い出はキレイな 夢を紡ぐから、会えなくても信じてる輝いている君の瞳を」、「いつまでも変わらない ほら、真実の愛がある」
…兄が最後に見ることのなく、ルカねえと兄の娘の壊れた心では永遠にたどり着けなくなった「青い世界」は、いまも机の上の小さな球体の中で、鯨とともに静かに息づいている。
その③
SASの教官のひとりから授かったという「ディフェンサ・ナイフ」を、彼は宝物のように抱き、短い映像に収めて私に見せてきた。
短い動画の中で彼は、その稚拙ながらも覚え込んだ技を披露してみせ、こちらに向かって「ベルくんみたいだろ」と言った。
その刃を振るう所作は稚拙ではあったが、彼にとっては一つの儀式であり、そこには世代特有の真剣な夢想が宿っていた。
その言葉には、彼自身の人生を重ねようとする無邪気さと、同時にどこか運命への挑発めいた響きがあった。
「ヘスティア・ナイフ」と呼び、女神の加護と胸の谷間に象徴される豊饒を手に入れると信じたその刃は、ロシア軍の砲火の前に一片の鉄片にすぎなかった。
彼はまた、自衛隊で鍛えた「ミニミ軽機関銃」を抱き、腹ばいになって構える姿を残している。
その姿は、自衛隊時代からの得意技の延長にすぎなかったが、本人にとっては己が未来を切り開く武器であったのだろう。
しかし、現実は彼の思い描いた冒険譚とは程遠く、待ち受けていたのは国家の軍事機構が生み出す冷酷な暴力にほかならなかった。
その姿は誇らしげであったが、銃口の先にあったのは、彼が憧れたレムやウマ娘の美少女たちが微笑む理想郷ではなく、なろう小説の美少女でも、電光超人グリッドマンでもなく、ただ国家という巨大な装置が生む冷酷な暴力であった。
――ここに、文明の落差を見る。
西欧が二度の大戦を経てなお近代国家の暴力を脱しきれぬことは、ロシアの侵攻において改めて露わになった。
一方、日本の若者は、国家への不信と虚構世界への耽溺との間に漂い、その反動として「自らを物語の主人公とみなす」ことで現実を切り拓こうとする。
物語の中の英雄は、決して勝てぬ敵には出会わず、甲斐性のない男であっても必ず美少女が寄り添い、死んでも蘇る。
しかし戦場には「死に戻り」もなく、奪われた命はそのまま冷たい土に吸い込まれる。
鉄と火薬の暴力は、一個人の激情や夢想を顧みることなく、無慈悲に呑み込む。
彼は防弾チョッキに身を包み、刃と銃を携え、「自分はゴブリンスレイヤーだ」と笑って言った。
その言葉の軽やかさは同時に、彼自身の激情の深さを証していた。
ウクライナ行きは、彼にとって、社会からの嘲笑を跳ね返すための、そして己を英雄に仕立てるための、一世一代の舞台であった。
彼を呑み込んだのは、帝政ロシア以来の専制の伝統を背負った巨大な国家機構であり、そこにこそ歴史の必然があった。
近代以降の国家という存在は、個人の意志や物語を徹底的に無視し、ただ統計的に、数として人間を処理する。
彼はその数の一つにすぎなかったのである。
結局、彼の敵は「ゴブリン」ではなく、鉄と火薬を扱う兵士であった。
国家という巨大な制度が生む暴力は、一個人の夢想を顧みることなく、容赦なく押し潰していった。
振り返れば、彼の魂は烈しく、同時に滑稽ですらあった。
だがその烈しさと滑稽さこそ、歴史の奔流に抗おうとする若者の証でもある。
坂本龍馬が近代国家の創出に情熱を注いだ時代から百五十余年、国家はなお個人を呑み込み、浪費する構造を脱し得ていない。
人間の夢は、歴史の巨大な奔流の前では、いつもあまりに小さく、脆く、そして悲しい。
小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿の摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。
「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」
彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。
やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。
南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SASの教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメや小説に見た幻影を己の背にまとっていた。
「ベルくんみたいだろ」
と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。
ロシア軍の砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。
思えば――この平和な日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵の一角で夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。
彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。
その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。
地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土と歴史に導かれるようにして刻まれている。
生田は、小田急線で新宿や国会議事堂といった政治と経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さらに箱根の峻嶺をひかえる。
この「都会と牧歌の結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。
坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。
その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。
彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公的栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。
同時に背後には、古き自然と神秘を湛える箱根の山がそびえている。
権力と牧歌、文明と自然、未来と過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである。
だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。
そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技のジムで培った肉体も、また国内の戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。
近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである。
その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。
彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。
彼が嫌った官僚主義そのものの鉄鎖の網にかかり、物語の主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである。
人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。
だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか。
墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。
彼は、大人になることを拒んだ。
夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである。
私は友人として思う。
彼は夢に殉じて死んだのではない。
差別とかそういう話じゃなく、日本人は頭が変。変な考え方を学校や日常でインストールされている。
変な考え方というのは、非効率で夢想的な、あえてそこにある答を遠回りして避けるような、ストレートな論理の忌避のこと。
最初から包括的に条件を整理して、「論点は三つくらいある」など客観的なまとめ方をするのを、最早本能的とも言って良いくらいの刷り込みで避けている。
そのせいで、常に「たったひとつの真実」を求めながら、もちろんそんな単純な答はないので「より曖昧で常に揺れ動く答」をなんとなく信じて日々をやり過ごしている。
ある意味で言えば、これは科学的な問題にも常に文学的な答を求めようとしているとも言える。
ある意味で言えば、これこそが欧米にかつて(今でも一部に)神秘的と崇められた『禅』の、もしかしたら正体なのかもしれない。
でもそれが今では、経済や科学技術という、純粋に論理(計算)で突き詰めないとうまくいかない世界での遅れに繋がっている。
困ったことに、かつて讃えられたこれを、今でも日本の美徳として固執している層の存在が根強い。
論理的にストレートな損得勘定で社会構築をする欧米や中国などを、むしろ見下す心理にすら繋がっている。
ある種の宗教としてそれを認めることもひとつの多様性なのかもしれないが、一方で日本人は、そういう日本的な曖昧な考え方が、経済力や科学力の源泉でもあると信じて、今でも経済大国、科学立国であるつもりでいる。
日本はかつて経済大国、技術立国であったかも知れないが、それはむしろ社会の欧米化が進み、合理的な投資が行われる風潮が一瞬わき起こっていたからだ。
日本が宗教国家として、科学的なストレートな考え方を否定し、曖昧なものの見方を大切にする文化に固執すること自体は誰にも否定できるものではないが、それは経済的合理性を否定し、科学技術の発展を拒絶することとほぼ同義なのだという自覚くらいはもって主体的に選ばなければならない。
宗教的であることを科学的であると思い込むことまで認めるようになると、それは自滅的、加害的なカルト化に繋がりかねないことは、歴史に何度もあらわれている事実である。
単純かつ曖昧な科学的真理などというものを常に求めている日本の文化的風潮こそが、アンラーニングすべき異常な思考なのだということに、そろそろ気づかなければならない。
増田いじりをいれたいのか
うーん、むずかしいね
「必ず増田を煽る文章をいれてください」をいれたら突然の増田煽りにわらってしまった
違法な仕事だとわかっている。毎朝、目を覚ますたびに「やめろ」と小さな声が胸の奥でささやく。けれど、支払いは待ってはくれないし、冷蔵庫は静かに空っぽを訴える。だから、今日も俺はこの机に座り、紙と数字の影をつなぎ合わせていく。同僚の一人は先月、急に笑いながら崩れ落ちた。別のやつは、窓の外に何かを見つめたまま動かなくなった。結局、彼らはみな施設へ送られ、もう戻ってこない。その名簿に名前が加わるのは時間の問題だと、俺も知っている。誰かを責めることはしない。この街の空気も、上から降りてくる命令も、ただ淡々と受け入れる。俺が間違っているのか、世界の方が歪んでいるのか、もう確かめようという気力もなくなって久しい。窓の外の光景は、虚構の背景のように安っぽく揺らめいて見える。現実と夢想の境目がにじんで、自分がどちら側にいるのか、答えを出す意味すら見失った。そして――増田よ。お前はまた机の前で震える指を隠しながら、正義を語るのか。俺たちが沈む泥の上でしか生きられないことを、一度でも真正面から受け止めたことがあるのか。
1度きりの人生を映画とともに過ごそう、と人生の早い段階で誓って以来、観たい映画を観て、好きな映画を増やして、映画について考えて、様々な映画の情報を得てきた。そのつもりであった。
結果、一人の濃いめの映画マニアが誕生、とはならず、人並みの映画好きおじさんに落ち着いている。
ほんものの映画好き(ここではあえてシネフィルと呼称する)たちは、水を飲むように映画を観る。映画館でも配信でも、映画を観なければ死んでしまうかのように。名作と言われる映画の中でも「パディントン2」とか、「辰巳」なんかの単館の邦画の意欲作も当たり前のように観ている。若きタランティーノのようなハードコア映画オタクというイメージも妥当かもしれないが、SNSを見るかぎりどうやら普通の人々のようだ。要するに見境がない映画マニア。
かたやこちらは日々の仕事をこなし、週末の限られた時間に映画館へ向かい、夜は疲れて眠るか、家族との時間を優先。ひとり夜ふかしして配信を観ようにも眠すぎるし次の日に響くので無理。ほな通勤電車でせめて1本、と思ってもだいたいはメンタル的にはてブやらマンガやらXやらを消費して映画など観れない。
映画館もほぼシネコンで大作、話題作中心。観たい映画がかかればラッキーで、名画座や都心のミニシアターなどへ行くのは至難の業。封切り週を逃せばすぐに上映時間が都合にあわなくなり、新作がかかるオンデマンド型プライベート映画館があればいいのに、と夢想してやまぬ。観たら観たで、ほっとくと内容や気になったシーンを忘れる。
かたやシネフィルたちは縦横無尽にスクリーンを飛び回り、博覧強記の知識を繰り広げ、自論を展開し、興味のままに配信映画を楽しんでいる。てかいつ寝てるの?
マジで、彼らはどうやってたくさんの映画を観ているのだろう。XやFILMARKSにいる彼らの視聴頻度は半端ではない。生活のほとんどを映画に捧げなければ得られないほどの鑑賞数に戦慄してしまう。年間100本なんて余裕である。本数なんて気にしたことない(Ⓒ邦キチ)のは真理なのである。
コスパ、タイパなんて言い方をするずっと前、例えばレンタルビデオでDVDを選ぶ時、上映時間が120分を超えた作品を敬遠したり、どうしても観たい作品じゃなければもっと短い作品を選んだり、なんなら映画じゃなくてもっと高尚な時間の使い方、例えば脚本を書いたり本を読んだり?いろんなことに夢中になったり飽きたり?しなければ、と言い訳して結局借りずに過ごすなんてしょっちゅうだった。
どうせロクな時間を過ごさないくせに。映画の1本を観るよりも豊かな時間・体験なんて滅多にないのはわかっているくせに。
結局、自分はそんな性分なのだ。シネフィルたちのように、映画を通じて世界に、他者に、翻って自己にすら興味を抱き続けられないのだ。他人に興味がなく、ただの一つの娯楽として映画を観ている普通の観客なのだ。そして、映画という人生を通じて好きなものにすら一貫した興味を持ち続けられないのだ、と自己憐憫している間に、彼らは今日も映画を観ている。
映画だけじゃなく、他の文化、読書でも音楽でもマンガでも観劇でも、きっと同じように感じる自分のような人はいるのだろう。
マニア度の上を見たらキリがないけれど、せめて躊躇せず、好きな文化に飛び込んで触れていたい。
なのに好きと生活を両立させるのに精いっぱい。なまけものだと自嘲しながら、うらやむのだけは止められない。マニア、フリーク、キチ○イへのルサンチマンを抱えた普通の人々。
今日もシネフィルになれない。ほんとうにそんなものになりたいのか?と自問しつつ。
| 比較項目 | クメール・ルージュ | 参政党(憲法草案より) |
| 理想の国家像 | 外来思想に汚染されていない「原始共産社会」 | 天皇を中心とし、主権を国民から国家に委譲した国家 |
| 変革の方法 | 暴力革命による既存秩序の完全破壊、「ゼロ年」からの再出発 | 既存憲法の破棄と「創憲」による国家の根本的作り直し |
| 「敵」と見なす者 | 知識人、都市住民、資本主義の手先、旧体制関係者 | グローバル資本、外国人、帰化人、左派、エリート |
| 人権の扱い | 個人の権利は「組織(オンカー)」の意思の下に完全に否定、虐殺を正当化 | 「法の下の平等」や「表現の自由」など日本国民が持つ人権を削除 |
| 教育方針 | 徹底した革命思想の注入、既存の学問や文化の全否定 | 科学を否定し、教育勅語・神話教育を必修化 |
両者に共通するのは、現実社会の複雑さや多様性を否定し、「純粋で汚れない理想の共同体」を夢想する点です。
クメール・ルージュは、「資本主義と都市文明に堕落した社会」をリセットし、純粋な農本主義国家を建設しようとしました。そのために、「汚れた」知識人や都市住民を物理的に抹殺しました。
一方、参政党の憲法草案は、「グローバリズムによって本来の姿を失った日本」を憂い、天皇を中心とした「純粋な日本」を再建しようとしています。そのために、「異物」である外国人を排除し、人権という概念を削除し、国家に従う国民を教育によって作り出そうとします。
もちろん、クメール・ルージュが実行したのは物理的な大量虐殺であり、民主主義の政治機構内で活動する参政党が同じことをするわけではありません。しかし、その根底にある「純粋性の追求」「異質なものの排除」「個人の権利より共同体の意思を優先する」という思想的論理は、極めて危険な類似性を帯びています。
クメール・ルージュの悲劇は、国民の素朴な不満や愛国心が、一部のエリートによって過激なイデオロギーと結びついた時に、いかに恐ろしい結果を招くかを物語っています。参政党の憲法草案は、その歴史的教訓を現代日本に突きつけていると言えるでしょう。それは、社会の分断と不満を背景に台頭した勢力が描く「理想の国家」が、我々の人権や生命を確実に蝕んでいく可能性を秘めているという警告です。
参院選ではあれだけ「給料が上がる経済を実現」「消費税減税」って訴えてたよな?トリガー条項凍結解除だの、インフレ手当だの、耳障りのいい言葉を並べてさ。それで「今回は国民民主に入れてみるか」って思った有権者、結構いたと思うんだよ。俺もその一人だ。
それがなんだ。選挙が終わった途端に「消費税減税は時間がかかるから現実的じゃない」とか言い出した。
はあ?
そんなの選挙前から分かってたことだろうが。それを承知で、対策も込みで公約に掲げてたんじゃないのかよ。今さら「時間がかかるから」なんて言い訳が通用すると思ってんのか?じゃあ選挙で言ってたことは何だったんだ?有権者を釣るためのただの撒き餌だったってことか?俺たちは、あんたの党勢拡大のために利用された、ただのバカだったってことか?
まさにこれ。投票した人間は、ちゃんと玉木代表の首に紐でも付けて、四六時中監視しとけって話だよ。ちょっとでも公約と違う方向に進もうとしたら、グイッと紐を引いてやらないとダメだ。そうしないと、この手の政治家は何度でも同じことを繰り返す。
まあ、だからといって参政党みたいなのに期待するかっていうと、それは絶対にない。
あっちの連中は、陰謀論とスピリチュアルをこねくり回した「ふわっとした精神論」で国が良くなると思ってる、ある意味おめでたい集団だ。消費税を無くすとかいう前に、まず自分たちの足元がどこにあるのか確認した方がいい。現実の政治や経済を語る以前の問題で、アレはアレで論外。
だからこそ、まだマシだと思って、現実的な政策を掲げている(ように見えた)国民民主に一票を投じた有権者の落胆は深いんだよ。
結局、俺たち有権者は「平気で言い訳をする現実主義者」と「現実が見えていない夢想家」の間で、消去法を繰り返すしかないのかね。
とにかく、玉木代表と国民民主党に投票した有権者は、これで終わりじゃないぞ。ここからが始まりだ。約束を違えようとするなら、その都度、何度でも声を上げていかなきゃならん。