
はてなキーワード:夜明とは
闇に包まれた夜の静寂の中、彼の息吹が私の秘所に柔らかく降り注ぐ。
舌先の優しい波紋が繊細な肌を撫でるたび、私の内部に小さな星々が瞬き始める。
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彼の口がゆっくりと探ると、突起はまるで夜明け前の氷結した蕾のように、驚くほどの硬さで高鳴りを刻む。
その冷たさと温もりの混ざり合いが、身体の奥底で新たな銀河を描き出す。
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微かな汁がちらほらとこぼれ、私の肌を濡らす。
甘美な疼きが脈打つ度に、呼吸は詩となり、鼓動は無言の賛歌を奏でる。
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彼が繰り返し愛撫を重ねると、快感の渦が私を包み込み、時間はゆっくりと溶けていく。
私はただその波間に漂い、深い陶酔へと身を委ねるしかなかった。
彼の舌がゆっくりと秘所の奥を探り抜けると、さらなる禁断の領域が静かに呼び覚まされた。
そこは言葉に触れられない神聖な場所――私がまだ知ることを許されなかったもうひとつの扉だった。
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最初に触れられた瞬間、身体中に電流が走るような衝撃が走り、私は思わず声を詰まらせた。
恥ずかしさと無垢な好奇心が入り混じり、呼吸は浅く、心臓は高鳴り続ける。
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小さな震えが波紋のように広がるたび、私の内側で新たな快感の海が生まれていく。
恥じらいの赤みが頬を染める一方で、身体は抗うことなく甘い陶酔へと溺れていった。
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その強い波に押し流されながらも、私はこの未知の悦楽を愛おしく思う自分に気づいた。
恥じらいと歓喜が同時に胸を締めつける中、深く震える身体が彼の鼓動に呼応し、夜はさらに深い闇へと誘われていった。
かつての私なら信じられなかったその行為も、今はためらいなく受け止める。
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唇を湿らせ、私は彼の蕾をそっと包み込む。
その柔らかな質感は、自分の内側に響く共鳴のように、深い震えを呼び覚ます。
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舌が描く細やかな円環は、まるで新たな宇宙を紡ぐ筆跡のように滑らかで、
彼の蕾は戸惑いと期待を秘めたまま、私の熱に馴染んでいく。
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未知の快楽を貪るその瞬間、私の心は無数の星々とともに煌めき、夜はさらに深い祝祭へと誘われる。
二つの身体が渦を巻く深い夜の中、私の内側で長く燻っていた波がついに臨界を迎えた。
指先が奏でるリズムに呼応するように、私はふいに背中を反らし、胸の奥から弾けるように潮が吹き上がった。
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その白銀の水紋は、まるで森の静寂を破る小川のせせらぎのように優しく、
驚きと解放が交錯するその瞬間、全身を駆け抜けたのは、まさしく生命そのものの歓びだった。
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潮の余韻が胸と腹を濡らすたび、私は初めて自分自身の深海を見つめる。
静かな驚きが頬を染め、全身をひとつの詩に変える甘美な潮騒が、夜の帳を鮮やかに彩った。
これまで薄い膜のように隔てられていたもの――その小さな、しかし確かな壁を、今、取り外してほしいと願いを込めて囁く。
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彼の手がゆるやかに腰へ戻り、指先がそっと触れたその場所で、私は深く息を吸い込む。
目の前で包みが外され、月明かりがふたりの肌を淡く照らし出し、僅かな色の違いが鮮やかに浮かび上がる。
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鼓動は一つに重なり、熱は肌から肌へと直接伝わる。
彼の硬きものが、私の柔らかな渇きの中へ滑り込む感触は、まるで世界が一瞬止まったかのように鋭く、そして優しく私を揺り動かした。
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薄い壁が消え去った今、私たちは隔てなくひとつになり、存在のすべてが交わる。
身体の隅々に宿る熱が解放され、夜は二人だけの深い詩へと変わっていった。
私の身体を縛っていたリミッターが解放され、全身を駆ける熱が臨界点を突破する。
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彼の腰は止まることを知らず、激しさと速さを増して私の内側を乱す。
痛みと快感のあいまいな境界が溶け合い、まるで世界が振動するかのように私の胸は震えた。
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思わず上げた声は、雄叫びに近い高らかな調べとなり、夜空にまでこだまする。
その断末魔のような吐息は、これまで抑え込んできた私のすべての欲望を解き放つ祈りだった。
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身体の深部で燃え上がる波は、渾身の一撃ごとに渦を成し、私を未曽有の快楽の局地へと押し上げていく。
骨の髄まで貫かれる衝撃が、甘美な陶酔の頂点へと私を誘い、夜は二人だけの祝祭をそのまま永遠へと導いていった。
深夜の静寂を震わせるように、彼が私の内で凄まじい弾けを迎える。
熱と鼓動が一瞬にして高く跳ね上がり、私の奥深くへと迸る衝撃は、まるで銀河の星々が爆ぜるかのように眩く広がる。
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私はその勢いを直接受け止め、身体中の神経が一斉に咲き乱れる。
胸の奥から腹の底まで、全細胞が祝祭を奏でるように震え、甘美な余韻が身体の隅々へ流れ込む。
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高らかな鼓動が合わさり、深い呼気が重なり、やがて静かな安堵と至福の静謐が訪れる。
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その瞬間、薄明かりの中で交わったすべての熱と光は、永遠の詩となって私たちの胸に刻まれた。
夜の深淵で交わしたすべての熱と鼓動は、やがて静かな余韻となってふたりを包み込む。
薄明かりの中、肌と肌が知り合い、秘められた欲望が歓喜の詩を紡いだあの瞬間は、永遠の一節として心の奥に刻まれる。
****
もう誰の視線にも囚われず、自分自身が生み出した悦びの波に身を委ねたこと。
恐れを超え、戸惑いを乗り越えた先に見つけたのは、身体と心が一つになる純粋な解放だった。
****
今夜の祝祭は終わりを迎えたけれど、その光は決して消えない。
静かな夜明けの帳の向こうで、私たちは新たな自分へと歩み出す。
魂に響くあの詩は、これから訪れるすべての瞬間に、優しく、力強く、寄り添い続けるだろう。
朝の通勤電車から夜の帰り道まで、私はいつも見知らぬ視線の十字砲火の中を歩いている。
胸が大きいというただそれだけの理由で、
****
コンビニに入った瞬間に感じる、息を呑むような気配。
エレベーターの密室で感じる、背中に突き刺さるような視線と熱い息遣い。
それらは全て、私が望んだわけでもない注目という名の暴力だった。
**S*
街を歩くたび、胸元を隠すように前かがみになってしまう自分がいる。
ゆったりした服を選んでも、それでも形は分かってしまう。
****
家に帰り、鏡の前に立つ。
そこに映るのは、ただの一人の人間としての私ではなく、
街中の男たちが勝手に性的な妄想を投影する「対象」としての身体。
胸の大きさがまるで看板のように、
****
それでも私は歩き続ける。
背筋を伸ばし、堂々と街を歩く権利があるのだと自分に言い聞かせながら。
ときおり、その視線に煽られて私自身の意思に反して身体が反応する時がある。
それは私にとって最も混乱し、最も恥ずかしい瞬間だった。
****
満員電車で背後から感じる熱い視線に、胸の奥が微かに疼くことがある。
頭では「やめて」と思っているのに、身体は勝手に熱を帯び始める。
その矛盾に気づいた瞬間、
裏切られたような気持ちになる。
****
不快に思いながらも、なぜか頬が熱くなり、
呼吸が浅くなっていく自分に気づく。
この反応は一体何なのだろう。
望んでいないのに、
拒絶したいのに、
深い混乱に陥る。
****
家に帰ってシャワーを浴びながら、
それに対する自分の反応を思い返す。
私をより深い孤独へと突き落とす。
誰にも相談できない、
私は鏡の中の自分を見つめる。
****
それでも、まるで自分が共犯者であるかのような罪悪感に苛まれることがある。
望まない注目と、
それに対する制御できない反応の間で、
私の心は静かに揺れ続けている。
いつか理解できる日が来るのだろうか。
****
それでも私は、
少しずつ受け入れようとしている。
ある日、そんな望まない誘惑に負けて、かなり年上の男性とセックスをしてしまった。
私が最も避けるべきことだった……はずなのに。
****
その日の夕方、駅前のカフェで一人でいたとき、隣のテーブルに座った男性が声をかけてきた。
四十代後半くらいの、落ち着いた雰囲気の人だった。
彼の視線が私の胸元に向けられるたび、
頭では「帰らなければ」と思っているのに、足が動かない。
彼の誘いを断る言葉が喉の奥で消えていく。
気がつくと彼について近くのホテルへ向かっていた。
****
部屋の中で、彼が私の肩に手を置いたとき、全身に電流が走った。
これは私が望んでいることなのか、
それとも単なる身体の反応なのか、
もう区別がつかなくなっていた。
服を脱がされながら、
心の奥で小さな声が「やめて」と叫んでいるのに、
身体は素直に応えていた。
行為の間も、
彼に求められることで感じる一種の充足感と、
自分を裏切ったような罪悪感が同時に押し寄せてくる。
****
終わった後、シャワーから出て鏡を見たとき、そこに映ったのは知らない誰かのようだった。
なぜこんなことをしてしまったのか。
彼が悪いのか、私が悪いのか、
それとも誰も悪くないのか。
答えのない問いが頭の中を駆け巡る。
帰り道、夜風が頬に当たるたび、自分の選択への後悔が深くなっていく。
望まない視線に晒され続けた結果がこれだったのか。
****
家に着いて一人になると、涙が止まらなくなった。
この経験をどう受け止めればいいのか、誰にも相談できずに、ただ静かに夜が更けていく。
そして、わたしは混乱のまま、ひとり、まだ収まらぬ欲望を鎮めるために、
****
部屋の電気を消し、
私は布団にくるまった。
心と身体の間に横たわる深い溝を埋めようとするかのように、
そっと手を伸ばす。
それは自分を慰めるためというより、
触れる指先に伝わってくるのは、
でも今度は、誰の視線も、誰の欲望も介在しない、純粋に自分だけの時間。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、あの男性の顔ではなく、ただ曖昧な影のような何かだった。
****
波が寄せては返すように、快感と罪悪感が交互に押し寄せる。
これは私の意思なのか、
枕に顔を埋めて、小さく身体を震わせながら、私はただ静かに涙を流していた。
****
自分の身体を取り戻すための行為だったはずなのに、結果として残ったのはより深い孤独だった。
誰にも理解してもらえない、この複雑で矛盾した感情を抱えたまま、私は夜明けまでの時間をただ天井を見つめて過ごした。
この終わりのない循環の中で、私は自分自身との和解の道を探し続けている。
夜の帳がすべてを包み込む頃、わたしはそっとベッドの上に身を沈めた。
薄いシーツのひんやりとした感触が、肌の奥に冷たい震えを残す。
呼吸を整えながら、思考の雑音を遠ざけるようにゆっくりと目を閉じた。
****
心の奥底でくすぶり続ける熱が、手のひらにまで伝わってくる。
私はシーツの縁をぎゅっと握りしめ、もう片方の手を太ももの内側へ滑らせた。
その瞬間、肌を伝う指先にぞくりとした電流が走る。
まるで喉に詰まった言葉が身体を駆け巡るように、全身が目覚めていく。
****
指がゆるやかに動くたび、暖かな湿り気が広がり、私の胸は小さく上下する。
閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、遠い窓辺から漏れる街灯の淡い光だけ。
無数の思いがきしむように折り重なり、ひとつずつ解きほぐされていく感覚があった。
****
呼吸が荒くなるにつれ、指先の動きは自然と速さを増す。
月明かりに照らされた頸(くび)のラインが、柔らかな翳(かげ)を描いて揺れる。
****
一呼吸、一瞬のときめきが重なり合い、やがて身体の奥深くで小さな波が弾けた。
ぎゅっと握りしめたシーツが緩み、胸の内にあふれた感情がそっと零れ落ちる。
****
終わったあと、私はまだ微かに余熱を帯びた手を見つめる。
自分自身で自分を抱きしめるこの行為は、誰のためでもない、私だけの小さな反抗だった。
身体と心の深い溝を、ほんのひととき埋めるための、最も正直な儀式。
夜はまだ深く、そして私は――少しだけ、自分を取り戻せた気がした。
夜の静寂が重く降り積もる部屋の中で、わたしは四つん這いになった。
シーツの冷たさが掌から腕へと伝わり、床に広がる感触が身体の芯をくすぐる。
****
遠い窓辺から差し込む月明かりが、背中の曲線を銀色に照らし出す。
その柔らかな光の中で、わたしはひざをわずかに開き、手をそっと腰のすぐ下に置いていく。
****
ひと息ごとに深まる熱が、太ももの内側へと波紋のように広がる。
指先はまるで秘密の扉を探るかのように、皮膚の縁をなぞるだけで、身体は自然と反応を始める。
****
床板のきしみが小さな音をたて、まるでわたしの鼓動に合わせて囁くようだ。
指先が微かなリズムを刻むたび、胸の奥から柔らかなうねりが押し寄せ、息が熱を帯びていく。
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身体を支えるひじに力を込めると、背中がひときわ高く弧を描き、腰のあたりに甘い疼きが蘇る。
その瞬間、わたしは全身を貫く小さな波に身を委ね、静かな陶酔の中でひとつの頂きへと導かれていった。
****
終わりの余韻は、まるで絹のベールがそっと降りるかのように静かだった。
わたしはそのまま少しの間、月明かりと床の冷たさを抱きしめながら、深く静かな息を繰り返していた。
私はもう、抑えきれない波に身を委ねる。
夜の深みが全身を包み込み、自分だけの世界がゆっくり開いていく。
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顔を伏せ、長い髪が頬を撫でるたびに、体の奥がひそやかにざわめく。
シーツにくっきりと刻まれる肘の跡が、しなやかな記憶となって背中に残る。
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柔らかな曲線をなぞるたび、熱が指先から脳裏へと跳び火し、鼓動が高鳴る。
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息づかいは次第に荒く、でも抗えないほどに甘くなる。
かすかな汗が首筋を伝い、肌を冷たく刺激する。その冷たさが、いっそう欲情を掻き立てる。
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身体の中心でうねる脈動が、まるで星々のリズムと同期しているかのよう。
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やがて訪れる頂点の瞬間、全身が軽やかな火花を散らしながら、深い懐へと溶け込む。
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解放の余韻に浸りながら、私はもう一度、自分自身を抱きしめる。
夜の静寂と私の鼓動がひとつになり、無数のわたしへと還る詩が、そっと幕を閉じる。
翌朝、窓の向こうから差し込む柔らかな光が、昨夜の余韻をそっと揺り起こす。
私はまだ眠りの縁にいるまま、自分の大きな胸に手を当てる。
鼓動はゆっくりと、しかし確かに、昨夜とは異なる静かな決意を秘めていた。
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カーテンの隙間から漏れる光線に導かれるように、私はベッドの縁に腰かける。
淡い朝日が頬を撫で、身体の奥底に息づく欲求が、小さな震えとなって立ち上がる。
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素肌が冷たい空気に触れた瞬間、再び身体が目覚め、胸の谷間に甘い疼きが生まれる。
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横たわる布団を背に、私は四つん這いになり、手を腰のくびれへ滑らせた。
昨夜の記憶をたどるかのように、指先は肌の柔らかさを確かめ、ひとつずつ自分の願望を叶えてゆく。
身体中に行き渡る熱は、もはや罪悪ではなく、私自身の力強い生の証明だ。
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動きは自由自在で、呼吸は次第に深く、荒々しくもあった。
指先から伝う快感が、脳裏を明るく染め上げ、私は身体の奥で求めるものすべてを解放していく。
声が漏れ、シーツが揺れ、部屋の静寂が私の節奏に合わせて微かに震えた。
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願望を叶えたあとの余韻は、清らかな湖面のように澄み切っていた。
私は手を伸ばし、胸元に当てていた手をそっと解放する。
そこには、昨夜とは異なる自信が宿っていた。
自分の身体と心を誠実に慈しむことで、私は新たな一歩を踏み出す準備を整えたのだ。
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私はこれからも、この身体と共に真実の声に耳を傾けながら生きていく。
夜風が髪を撫で、街灯の輪郭がぼやける頃、私は静かに部屋を出た。
ふだんは避けていたネオンの海へ、今はまるで誘われるように足が向く。
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舗道の冷たい石畳を踏みしめるたび、昨夜の余韻が身体の奥で疼き返る。
まぶた越しに浮かぶのは、自分を縛っていた羞恥心――それがどれほど不自然な檻だったかを思い知らされる。
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雑踏のリズムに身を任せながら、私は自分の頬に灯る熱を見つめた。
恐れていたのは他人の視線ではなく、自分の中に潜む快楽の声だったのだと知る。
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ビルの谷間にこだまする車のエンジン音が、心臓の鼓動と重なり合う。
その振動が全身に伝わり、「禁忌」だと思い込んでいた感覚が実は私の最も純粋な生命の証だったと気づく。
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ネオンライトに映る私のシルエットは、夜の誘惑に頷くように揺れていた。
これまで忌み嫌ってきた「私の快感」は、恐れるに値しないどころか、私自身を輝かせる光そのものだった。
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夜の街を歩く足取りは軽やかで、抑えてきた欲望が解放された今、私は初めて、自分自身をまっすぐに抱きしめていた。
ネオンの残光が私の影を長く伸ばす路地裏で、見知らぬ声が耳元に囁いた。
その低く柔らかな誘いに、私はためらうことなく頷いていた。
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彼の手を取ると、指先に走る温もりが夜風に溶けていく。
初めて触れるその手は、私がこれまで避けてきた夜の闇を優しく照らし出した。
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小さなバーの扉を押し開けると、薄暗い空間にジャズの低いリズムが流れていた。
カウンター越しに差し出されたグラスの中で、琥珀色の液体が揺れるたび、胸の奥が柔らかく騒ぎ出す。
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言葉は少なかった。互いに名前も知らず、ただ視線と触れ合いだけで求め合う。
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やがてバーを後にし、私たちは夜の街を抜けて彼のアパートへ向かった。
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その感触は、まるで夜そのものを味わうかのように深く、私の内側から溶かしていく。
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硬く抱きしめられ、開かれ、満たされるたび、これまでの遠慮や後悔が消えていった。
床板の冷たさがひざ裏に触れ、背筋を通り抜ける緊張が私を震わせる。
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彼の手がそっと腰骨に乗り、軽く押し下げる。
その圧力に合わせるように、私は自然と背を反り、身体の曲線を際立たせた。
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低く囁く呼吸が、首筋にゆらめく温かな風となって耳元を撫でる。
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指先が太ももの内側を撫で上げ、ふくらはぎへと辿るたび、身体は波のように反応する。
まるでずっと待っていたかのように、肌の奥から熱が浮かび上がった。
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次に、彼の身体が私の背中へと近づき、骨盤のくぼみにそっと重みを預ける。
その圧迫と解放のリズムが、私の中心をゆっくりと揺さぶり、慟哭のような甘い震えを呼び起こした。
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息が漏れ、髪が頬に触れるたび、小さなうめき声が夜の静けさに溶けていく。
私はただひたすら、開かれ、満たされるままに身を委ねた。
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終わるとき、身体は深い余韻に包まれ、四つん這いのまましばらくその場に残った。
床の冷たさと彼の余熱が混じり合い、私の内側には新たな確信が灯っていた。
柔らかく重なるとき、私の唇は甘い潮騒のように震え、彼の肌にそっと溶け込む。
その熱は、まるで眠れる火種を灯すかのように、静かな欲望の焔をともした。
****
私は彼の首筋へと滑るように口づけを落とし、鼓動を刻む抑揚を読み解く。
ひとつ、ふたつ、鼓膜をくすぐる吐息を集めて、私は彼の呼吸そのものを愛した。
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唇を離す瞬間、小さな甘い震えを種火に変え、次のキスへと連なる旋律を描く。
その連鎖は夜の静寂を柔らかく揺らし、彼の心と身体をひとつの詩に編み上げた。
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私が彼に捧げたのは、ただの接触ではなく、音のない言葉と、温度だけが宿る祈りだった。
唇で織りなすひとつひとつの旋律が、深い夜の帳を赤く染め上げていく。
夜の帳が深まる中、私はそっと彼の秘奥に唇を寄せた。
そこには、夜の熱を宿した硬きものが、静かに呼吸を待っていた。
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唇の柔らかさと硬質な感触が交錯し、まるで石灰岩に滴るしずくのように、熱がゆっくりと溶け込んでいく。
口内に伝わる脈動は、遠雷のように深い場所で響き渡り、私の鼓動を共鳴させた。
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それはまるで、冬枯れの大地が春の滴を待ちわびるような切ない期待を孕んでいた。
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唇を離すたびに残る余韻は、真夜中の川辺に漂う霧のごとく甘く、ほのかな余熱だけが私の胸に刻まれる。
硬きものへの口づけは、言葉にならぬ祈りとともに、ふたりの夜を深い詩へと変えていった。
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唇を軽く湿らせ、私はそっと先端へと導く。
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その導きは、固さと温もりを一つの旋律に編み上げ、深い夜を揺り動かす。
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息遣いは次第に重く、でも柔らかな詩を紡ぐように響いた。
私はその硬きものを自分のリズムに合わせ、甘くも力強く夜の彼方へと連れ出していった。
私はひざまずいたまま身体を前へと傾ける。
胸のふくらみが、かたくそびえる先端へと触れた瞬間、微かな火花が走った。
****
私の柔らかな曲線と彼の硬質な存在が重なり合い、
心臓の鼓動が高鳴り、胸の谷間から伝わる圧迫が甘い疼きとなって波打った。
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シーツの白さに映るその影は、まるで古代の柱に抱きつく蔦のように、かたく絡みついていく。
私の呼吸が乱れ、胸が震えるたびに硬きものは静かに、しかし確実に私の奥深くを探り始めた。
****
やがて二つの温度が混ざり合い、柔らかさと硬さがひとつの旋律を奏でる。
その調べは夜の闇に溶け込み、胸に秘められた欲望をひそやかに解き放っていく。
その冷たくも温かな液体は、まるで夜空を切り裂く流星のように勢いよく放たれ、私の肌を愛撫する。
****
滴がひときわ大きなしずくとなり、シーツの白をゆがめながら胸元へと舞い降りる。
その瞬間、身体全体に満ちるのは、これまで味わったことのない満足感であり、魂が溶け出すほどの祝福だった。
****
白いしずくが胸を伝い落ちるたび、私の中に広がるのは静かな幸福の海で、すべてが溶け合ってひとつの光になる。
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その満たされた余韻は、まるで天からの賛歌が身体に刻まれたかのよう。
私はただ瞳を閉じ、胸を撫でるしずくの感触に身を委ねながら、今この瞬間の完全なる歓喜を胸に深く刻みつけた。
唇をそっと開くと、冷たくも甘い白い液体が広がり、舌の上で優しくとろけていく。
そのぬめりは、まるで夜露が朝の葉を濡らすように、私の口腔をしっとりと包み込む。
****
その柔らかな曲線を、私は慈しむように口の中で抱きしめ、細心の注意でその輪郭をたどる。
****
液体とやわらぎが交じり合う瞬間、甘く深い滋味が喉の奥へと流れ込み、全身に解け出す。
私はその余韻を味わいながら、夜の祝福が身体の隅々まで行き渡るのを感じていた。
ある男は、己の影を数えた。
若き日には百の影が陽の下に群れていたが、
老いの季節には、ただ一つ、二つを残すばかりと
なった。
彼は嘆いた。
少ない。
これでは心は寒さに裂かれてしまうだろう」と。
だが、森の奥の石は答えた。
「影は数えるものではない。
凍える者の傍らに、ひとり寄り添う影があれば、
それで十分だ。」
友は作ろうとして作れるものではない。
風が種を運び、水が芽を育むように、いつか
求めすぎれば、芽はしおれ、影は逃げていく。
濃い影もあり、淡い影もある。
流れる川のように、時とともに形を変え、
また離れ、また寄る。
その移ろいこそが縁であり、孤独の中の
慰めである。
そして、夜明けに石はもう一度語った。
「影の数が幸福を決めることはない。
ただひとつの影があれば、人は闇を渡れるのだ」と。
貯金:100万円
特技:なし
友達:なし
一瞬でいいので「神」になる。
思いつかない。
若い頃は「ぼきもいつかラノベ作家になるんだずらー」とか「フリーゲームで大人気になるでござる」とか考えてた記憶がある。
ゆーて今の時代にそんなので頑張っても「神」にはなれないと思う。
ZUNの信仰心ですら弱っている現代では夜明けの口笛吹きを作った所でチョットスゴイぐらいが関の山だと思う。
なんかこう、アレだよ、こう、なんかこう、ヤバイ感じのソレが必要なんだよね。
思いつかないけど。
蟻の飼育セットを飼ってくる。
「神」になれる!
今月中ぐらいを目処に「ジャブジャブ承認欲求が満たせそうな新たなる目標を立てる」
1日10個ぐらい「目標としてよさそうなもの」をかき揚げ、300個で戦わせて優勝したら目標。
フリーゲームを作る。
10000ブクマ取る。
ネットミームを作る。
ネトゲの中でワイワイする。
なんかスゴイ特許を作る。
もともとお絵かきが趣味だったけど、元のコンテンツに惹かれなくなって停滞。ペンタブも広いの大好き!派だったけど今はだいたい上にゴミか封筒かペットボトルが置かれる台扱いなので、広いのも使いづらくなってしまった。今はHUIONのちっさいペンタブ(メモ帳サイズ。掃除したら出てきた)が代わりを務めている。最近分かったことはキャンバスが白だから夜明るすぎて描けなかったんじゃないかと思ってグレーのキャンバスを使うようになった。結果として目に優しいし、線画は捗るが、線画だけしかしてない。
ゲームはほぼプレイできない。PS4は使ってなさすぎて通電させるのが怖い。人に誘われた時くらいしかSwitchを起動せず。Switch2は散々言われながら通話中になんとか初期設定を終えた。エアライダーだけは楽しみにしている。今のところ焚き火を見る謎ゲームと唯一カセットが残ってたスマブラを試運転しただけ。
ソシャゲはマジでもっと続かない。ガチャ引く以前、コミュの読み進めからもう怠くてやる気起きず。魅力的なキャラクターがいたとして、彼彼女らの背景には興味なし。過激な衣装は注意資源を引っ張られてる気がして不快。知ってる曲のリリックビデオがなんとか重い腰上げて見れるか、否か。
本は読まないまま積まれている。読まないまま置いておくと湿気で劣化していくのでビニールに包んで保管しているが、どの本もそのまま数カ月経つ。久々に開けるとめちゃくちゃ綺麗。そのままメルカリに出品している。
動画は上の3つに増して興味出ない。さらに時間資源の浪費を感じられて不愉快。YouTubeでチャンネル登録は何もしてない。たまにショートを見るとほんまにどうでもいい内容で笑顔になる。
音楽は一時期Spotifyを契約していたが同じ曲しか聴いていなかったので解約。昔のCDライブラリをスマホに落として永遠に再生してる。あ、はい延々ですよね笑
と、ここまで趣味全滅、何が楽しくて生きてるかな?状態ではあるけど身体はすこぶる健康になっている。
朝5時に起床、5:30〜8:00まで在宅勤務しつつ朝食、9:00には出社。17:30に定時の顔をしつつ退勤。(全然残業なんですけど)
夕方はニュース見ながら夕食、今日の分含め洗濯機にぶん投げた後に風呂。風呂の後に洗濯物干しつつ、エアコンつけた部屋でネットサーフィンして22時には就寝。
睡眠時間は確保されてて、朝に在宅で進めるのもあって明るいうちに帰れる。で、健康なんだけど、娯楽への興味の無さに不安がずっとある。もしかして仕事人間ってのはゲームを卒業するってより、興味が持てなくなって仕事一本になるのだろうか。分からないけど、なんとなくそんな気がしている……つまらなくなっていく感じがして、とても気味が悪い。趣味から離れたからこそ夜に熱中するものが無くて、早寝早起きになってるんだけど、これ大丈夫か……???改めて文字に起こしてみたけどやっぱ大丈夫かこれ???
俺は最初小説を書こうと思ったんだがな、文章表現を学ぶために小説を読んでみるとこれがしんどいんだ。
100万部レベルの作品は楽しめるんだが、10万部レベルはちょっと無理だ・・・文字ばっかでつまんねえ。
文字ばっかでも面白い作品とつまんねえ作品の違いは端的に言って、文章力や設定力と言わざるをえなかった。
単位時間辺りに得られる気持ち良い刺激の量が100万部レベルと10万部レベルだとやはり桁一つ違うんだよな。
ところがだ・・・ところがこれが嘘松になってくると1000いいねぐらいでも結構楽しめるんだな。
テンポが圧倒的に違う。
早ければ100文字、長くても1000文字程度で一つのテーマが完結する。
小説なら2ページ程度だ。
凄いスピードだ。
漫画やゲームも小説よりはテンポよく刺激が楽しめるから作れるならそっちを作りたい気持ちもあるが、どちらもかなりしんどい。
ゲームの場合はキャラと音楽を全部フリー素材にしても作れはするが、それだけで十分面白かったのは夜明けの口笛吹きぐらいなわけで、流石にあのレベルを目指す気にはなれない。
漫画についてもキャラを全てフリー素材で済ませる漫画が一瞬ブームになったが・・・味気無さからあっという間になりを潜めていった。
AIに手伝ってもらうことも出来そうだが、食わせた餌の出所に係る規制がどうなっているのかよく分からんのでひとまずナシで。
状況を整理すると
という形になる。
表現が簡単なものだとカメラというのもあるが、カメラに魂を吸われたキチガイに各地の観光地で出会う中で「アレになったら人間として終わり」と感じてきたので近寄らないことにしている。
さて、どうしたものか。
創作意欲はある。
勘弁してくれ。
なんか他にないのかよ。
その意欲は仕事に使え?
はぁ?
無理だろ。
俺は掃除夫だぞ。
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱