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はてなキーワード:多摩丘陵とは

2025-10-25

町田市100名山

山岳名標高見どころ
戸山(くさとやま)364m町田市最高峰。「一年山」とも呼ばれる。南高尾山稜の一部で、ハイキングコースが整備されている。
七国山(ななくにやま)128m多摩丘陵一角。七国山緑地保全地域として、里山自然が残る散策路がある。
多摩丘陵北部丘陵 100mちょっと鶴見川の源流域を含み、谷戸(やと)と呼ばれる谷間の地形や雑木林が広がる、里山原風景が残るエリア
三ッ目山公園168mレトロ感満載の遊具がおいてある

Permalink |記事への反応(0) | 13:00

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2025-09-04

anond:20250904152356

夜を超える夢、夢を超える夢――その言葉を、私はいまも生田緑地の丘に立つとき思い出す。

 小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。

 「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」

 彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。

 やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。

 南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SAS教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメ小説に見た幻影を己の背にまとっていた。

 「ベルくんみたいだろ」

 と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。

 だが、現実戦場は烈しい魂を顧みはしなかった。

 ロシア軍砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。

 思えば――この平和日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵一角夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。

 彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。

 その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。

ウクライナ多摩江ノ島相模湾箱根

地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土歴史に導かれるようにして刻まれている。

生田は、小田急線新宿国会議事堂といった政治経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さら箱根の峻嶺をひかえる

この「都会と牧歌結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。

多摩は古来、武士団発祥地でもあった。

坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。

その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。

彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。

同時に背後には、古き自然神秘を湛える箱根の山がそびえている。

権力牧歌文明自然未来過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである

だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。

そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技ジムで培った肉体も、また国内戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。

近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである

その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。

彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。

しか現実は、近代国家という冷たい怪物であった。

彼が嫌った官僚主義のものの鉄鎖の網にかかり、物語主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである

人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。

だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか

墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。

彼は、大人になることを拒んだ。

夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである

だが時は残酷で、人を少年の心のまま中年にしてしまう。

その矛盾の痛みが、彼を戦場へと駆り立てた。

私は友人として思う。

彼は夢に殉じて死んだのではない。

彼は、時代のもの矛盾を背負わされ、その果てに命を燃やし尽くしたのだ。

そう信じるほかに、友として彼を悼む言葉を持たない。

Permalink |記事への反応(1) | 22:02

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2025-05-14

anond:20250514111135

川崎市内の山岳地帯比較標高が低く、ハイキングコースとして整備されている場所も多いですが、それでも遭難事故は発生しています

過去遭難事例:

川崎市内にも、多摩丘陵などハイキングに適した山域があります。これらの山は標高が低いですが、道迷いや転倒などのリスクはあります

生田緑地:

桝形山などがあり、手軽なハイキングが楽しめますが、一部通行止めになっている箇所もあるようです。

多摩自然遊歩道:

小沢城跡などを含むコースがあり、健脚向きとされています

よこやまの道:

多摩丘陵尾根道で、縦走可能です。

登山をする際の注意点:

川崎市内の低山であっても、事前の準備をしっかり行い、無理のない計画を立てることが重要です。

地図コンパスGPSなどの携行: 道に迷わないように、必ず地図コンパスを持参し、GPSなどがあればさら安心です。

十分な装備:

天候の変化に対応できる雨具や防寒具、ヘッドライト、食料、飲料水などを準備しましょう。

無理のない計画:

自分の体力や経験に合ったコースを選び、余裕のある計画を立てましょう。

登山道の状況確認:

事前に最新の登山道の情報確認しましょう。

体調管理:

体調が優れない場合は、登山を中止する勇気必要です。

家族や知人への計画共有:

登山計画家族や知人に伝え、万が一の際に連絡が取れるようにしておきましょう。

川崎市内の山を楽しむ際も、これらの点に注意して安全登山を心がけてください。

Permalink |記事への反応(0) | 11:16

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2024-05-02

anond:20240501193312

多摩ニュータウンは、東京都西南部多摩丘陵位置する、八王子町田多摩及び稲城の4市にわたる総面積2,853ha、東西14km、南北2~3kmの地域です。」(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/tama/top.html

Permalink |記事への反応(0) | 02:24

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2023-06-12

anond:20230608070702

オレ氏婚約中に旦那実家実家旅行にいったら

稼働中の五右衛門風呂につけこまれてさ

え、土の上にシャンプー流すのこれ?って宇宙猫になったよ

今はユニットバスになったから遠慮無く行けばいいよ

それでもお店よりストレス値は高いかアレルギーもちはきをつけろ

 

ちなみにそのあとトトロみたらタイル張りの五右衛門風呂だったので

自分のみたやつより相当進歩的で、さすが東京(あれ多摩丘陵舞台だろ)はおしゃれだとおもったよ

 

いやとまるからには風呂をつかえっていわれて入った(一人ずつしか入れないし)

けどほんと五右衛門風呂ってドラム缶と大差ないんよ

あと土間というか台所にあったんよ

30年くらい前の話

今みたいにスマホもってたら全部写真とったのにな

あと1000年前くらいからの墓石といわれる全く読めない丸い石もあったか写真とればよかったとずっとおもってる

フィルムの📷で墓石とったらなにかうつりそうで怖くてうつせませんでした

Permalink |記事への反応(0) | 03:09

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2020-08-03

anond:20200803050916

横だけど、たとえば多摩丘陵って言葉知ってる?

都心自転車乗りたちがアップダウンを求めて多摩まで来る程度には起伏に富んでるよ。

Googleマップ地形図モードってのがあるから見てみ。

Permalink |記事への反応(1) | 11:32

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2020-07-29

anond:20200728192435

庄野潤三夕べの雲

宅地造成がすすむ前の緑豊かな多摩丘陵にすむ一家の何気ない日常をえがいた短編集。

(もとは日本経済新聞連載小説だったそうな)

エッセイのような軽い雰囲気小説だけど、第三の新人世代らしく、簡潔かつ端正なよく練られた文体なので、文章のお手本として何度も読み返した作品です。

Permalink |記事への反応(0) | 15:46

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2020-05-15

anond:20200515213652

キチたぬさんには多摩丘陵の開発もお願いしたいんだなも!

このたび、ニュータウン計画が立ち上がりましたなも。

Permalink |記事への反応(0) | 21:40

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2018-02-28

多摩丘陵へ行った

久しぶりに平成狸合戦ぽんぽこを見て、多摩丘陵って今もあるのか?と思って調べたらあったので行ってきた。

小野路町小山田緑地を歩いた。

「ほえ~東京にもこんな所があるんだ」と思った。

が!

すぐに「いや、田舎に行けばいくらでもこんな景色あるだろ。東京にもってなんだ」と疑問に感じた。

東京なのにこんな所が~なんて思う私はうんこマン

ごめんなさい。

Permalink |記事への反応(0) | 17:40

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2017-05-02

http://anond.hatelabo.jp/20170502183820

多摩丘陵より向こうはともかく、今でも東京町田市を除く)とか東京消防庁稲城市を除く)だから多摩川が境になってるよ

Permalink |記事への反応(0) | 19:17

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2015-04-06

ヴィパッサナー瞑想とはなにか

瞑想とは何か・・・上座部仏教徒にとって、瞑想とはなにかというテキスト的な役割を果たすのは清浄道論です。しかしながら、より実践的な瞑想方法を学ぶためには他の仏典が参照されることもあります。今回は清浄道論でない仏典を参考にしつつ、より具体的に、瞑想とはどんなことをすればいいのかを見てみましょう。

さて、ヴィパッサナー瞑想の詳しい紹介に入る前に・・・そもそも、ヴィパッサナー瞑想はなぜ行われるのでしょうか。それに関して、例えば古代仏典であるMaha-satipatthana Sutta(大念住経)にお釈迦様の言葉があります

以下はブログ多摩丘陵林住記様による和訳版より抜粋

比丘たちよ、ここに一つの道がある。その道とは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である

・この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)受であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むことである

すなわち、ヴィパッサナー瞑想をすることによって、知恵(insight あるいは understanding)が強まり、「自身」という存在をより正しく知ることができるのです。そして、その道を極めることによって、最終的には悟りすら得られる瞑想です。

それでは、ヴィパッサナー瞑想とはどんな瞑想なのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想・・・といったときに、もっとも有名なのが呼吸を対象とする瞑想です。この呼吸瞑想はどこで紹介されているのかというと、やはり古代仏典である、ānāpāna-sati(アーナパーナサティ)に記されています。このānāpāna-satiは、日本では安那般那念という名前で知られています

wikipedia - 安那般那念

Anapanasati Sutta(Thanissaro Bhikkhuによる英訳版)

さて、安那般那念の該当部分を見てみましょう。ここにはこう書いてあります。(以下はwikipediaから抜粋

Breathing in long, he discerns, 'Iam breathing in long'; or breathingout long, he discerns, 'Iam breathingout long.' Or breathing in short, he discerns, 'Iam breathing in short'; or breathingout short, he discerns, 'Iam breathingout short.' He trains himself, 'I willbreathe in sensitive to the entirebody.' He trains himself, 'I willbreatheout sensitive to the entirebody.' He trains himself, 'I willbreathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I willbreatheout calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。

これは呼吸瞑想を紹介する部分です。

しかし、瞑想について具体的に紹介しているのはānāpāna-satiだけではありません。Maha-satipatthana Sutta(大念住経)にも瞑想方法が紹介されています。ここには呼吸瞑想以外の瞑想方法が紹介されています。それを引用してみましょう。以下は英訳版Maha-satipatthana Suttaから引用と、私による(英文の)和訳です。

"And howdoes a monk remain focusedon thebody in & ofitself?

では、比丘たちよ、比丘はどのようにして、体そのもの気づきを保ち続けるのでしょうか?

"There is thecase where a monk — having gone to the wilderness, to theshade of atree, or to anemptybuilding — sits down foldinghis legs crosswise, holdinghisbody erect and setting mindfulness to the fore [lit: the front of the chest].Always mindful, hebreathes in; mindful hebreathesout.

ここにある比丘がいます — 彼は森へ行き、木の陰へ行き、あるいは空家に行き — 腰を下ろして足を組みます。背をまっすぐに伸ばし、そして気づきを(胸の)前部へと向けます。そして、常に気づきをもって、彼は入息します。気づきをもって、出息します。

"Breathing in long, he discerns, 'Iam breathing in long'; or breathingout long, he discerns, 'Iam breathingout long.' Or breathing in short, he discerns, 'Iam breathing in short'; or breathingout short, he discerns, 'Iam breathingout short.' He trains himself, 'I willbreathe in sensitive to the entirebody.' He trains himself, 'I willbreatheout sensitive to the entirebody.' He trains himself, 'I willbreathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I willbreatheout calming bodily fabrication.' Justas a skilled turner orhisapprentice, when making a long turn, discerns, 'Iam making a long turn,' or when making a short turn discerns, 'Iam making a short turn'; in the same way the monk, when breathing in long, discerns, 'Iam breathing in long'; or breathingout long, he discerns, 'Iam breathingout long' ... He trains himself, 'I willbreathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I willbreatheout calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知ります。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練します。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練します。あたかも熟練したろくろ工、あるいはその弟子が、ろくろの紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知るように。これと同じように、比丘が長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります・・・「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。

"In this way he remains focused internallyon thebody in & ofitself, or externallyon thebody in & ofitself, or both internally & externallyon thebody in & ofitself. Or he remains focusedon the phenomenon of origination with regard to thebody,on the phenomenon ofpassingaway with regard to thebody, oron the phenomenon of origination &passingaway with regard to thebody. Orhis mindfulness that 'There is abody' is maintained tothe extent of knowledge & remembrance. And he remainsindependent, unsustainedby (not clinging to)anything inthe world. This is how a monk remains focusedon thebody in & ofitself.

このように、比丘は内部から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、外部から体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、内部・外部両方から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、比丘は体に関する現象の発生に気づきを保ちます。体に関する現象の消滅に気づきを保ちます。あるいは、体に関する現象の発生と消滅に気づきを保ちます。あるいは、比丘の「体が存在する」という気づきは知識と想起(注1)の範囲で保たれます。そして比丘独立を保ち、世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when walking, the monk discerns, 'Iam walking.' When standing, he discerns, 'Iam standing.' When sitting, he discerns, 'Iam sitting.' When lying down, he discerns, 'Iam lying down.' Or howeverhisbody is disposed, that is how he discernsit.

さらに加えて、比丘が歩いているとき、この比丘は「私は歩いている」とはっきりと知ります。立っているとき、この比丘は「私は立っている」とはっきり知ります。座っているときには、「私は座っている」とはっきりと知ります。横たわっているときには、「私は横たわっている」とはっきりと知ります。あるいは、体がどのような状態になるのであれ、はっきりとその状態を知ります

"In this way he remains focused internallyon thebody in & ofitself, or focused externally... unsustainedbyanything inthe world. This is how a monk remains focusedon thebody in & ofitself.

これが比丘が体そのものを内部から、あるいは外部から、あるいはその両方から気づきを保つ方法です。そして・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when going forward & returning, he makes himself fully alert; when looking toward & lookingaway... when bending & extendinghis limbs... when carryinghisoutercloak,his upper robe &his bowl... when eating, drinking, chewing, & savoring... when urinating & defecating... when walking, standing, sitting,fallingasleep, waking up, talking, & remaining silent, he makes himself fully alert.

さらに加えて、比丘が前に進むとき・戻ってくるとき、この比丘自身に完全に注意を払います。何かに目を向けるとき・目をそむけるときも同様に・・・手足を伸ばすとき・曲げるときも同様に・・・自分外套コートなど)を運ぶとき自分の上着・お椀を運ぶときも同様に・・・食べるとき、飲むときに、噛むとき・味わうときも同様に・・・排尿するとき・排便するときも同様に・・・歩くとき、立つとき、座るとき、眠りに落ちる時、起きるとき、話すとき沈黙するとき比丘自身に完全な注意を払います

"In this way he remains focused internallyon thebody in & ofitself, or focused externally... unsustainedbyanything inthe world. This is how a monk remains focusedon thebody in & ofitself.

これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。あるいは体そのものを外部から・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。

基本的には上記がヴィパッサナー瞑想だと考えればよいでしょう。このヴィパッサナー瞑想近代指導者たちに、さまざまに解釈されています

注1 ここで、「想起」という言葉は「思い出す」という意味です。

http://surleconomiejp.blogspot.jp/2015/04/blog-post_5.html

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