
はてなキーワード:執筆とは
『銀河英雄伝説』の物語は、新銀河帝国初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの皇后にして、摂政・事実上の最高権力者として最後まで生き残った**ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ(ヒルダ)**によって、意図的に編集・捏造された歴史であるという仮説は、非常に魅力的です。
この仮説の根拠は、物語の語り口がラインハルトを絶対的な「英雄」として神格化する傾向にあり、その視点がしばしばラインハルトの最も近しい理解者であり、彼の死後も帝国を統治したヒルダの視点と一致する点にあります。彼女は、幼い皇帝アレク大公の母として、新帝国を永続させる責務を負っていました。
ヒルダが歴史を捏造した最大の動機は、ローエングラム王朝の正統性の確立と、帝国の安定にあります。
ラインハルトの神格化:ラインハルトを「完璧な勝利者」「救世主」として歴史に残すことで、アレク大公の帝位を磐石なものにする。彼の短命という弱点を、まるで天命を終えたかのような劇的な英雄譚で覆い隠す必要があった。
キルヒアイスの役割の強調:ラインハルトの「永遠の友情」を強調することで、彼の人格的な高潔さを印象付けた。
ヤン・ウェンリーの昇華:帝国最大の敵ヤン・ウェンリーを、帝国に刃向かった「反逆者」ではなく、ラインハルトと対等の「好敵手」として扱うことで、ラインハルトの偉大さを際立たせた。ヤンの死を、ローエングラム王朝が真に天下統一を果たした決定的な瞬間として演出した。
オーベルシュタインの処理: 彼の冷徹な功績を正当に評価しつつも、ラインハルトの死という悲劇の中で、地球教徒を道連れにして死なせるという「劇的な自己犠牲」の英雄として描いた。これは、彼の冷徹なイメージを和らげ、後世の帝国民の憎悪や疑念を回避するためだったかもしれない。
彼女が歴史の編纂に深く関わったことは想像に難くありません。公式の歴史書『ローエングラム王朝史』は、ヒルダの監督下で執筆されたと見てよいでしょう。物語の随所に挿入される歴史家的な考察や、ラインハルトの内面に深く立ち入る記述は、彼と最も長く親密な関係を維持し、彼の死後、その意思を継いで国政を担ったヒルダだからこそ知り得た(あるいは「創造し得た」)情報に基づいていると考えられます。
結果として、我々が読んでいる『銀河英雄伝説』は、ローエングラム王朝の正統性と、ラインハルトの英雄性を最大限に高めるという政治的目的をもって編纂された、一種のプロパガンダ的歴史書である可能性を秘めています。ヒルダは、歴史という物語を紡ぐことで、亡き夫の偉業を永遠のものとし、自らの統治基盤を固めた、最後の「勝者」だったと言えるでしょう。
はてなに書いてみたいと思った。
その子とは長年連絡を取り合ってなかったが、実は先日、親戚付き合いの時に出会った。祖父方にあたる親戚の家のダイニングで。
その時に思う事があって、増田をしたためることにした。増田はたまに短文を書くくらいである。
その子と初めて会ったのは、私が21才の時だった。当時は茨城県にある大学で電気工学を学んでいた。夏休みの帰省先である実家は、(秒速5センチメートルの聖地)隣の栃木県にあった。
ある夏の帰省時に……その実家から、ほどなくの距離にある親戚の家に行ったのだが、玄関に入った時に、はとこに当たる子がいた。
当時は「はとこ」という単語は知らなかった。誰がどの親戚筋にあたるとか、そういうことにも興味なかった。ただ「女の子がいるな」としか思わなかった。
その、はとこに当たる子なのだが、『野乃花』ということにする。プリキュアの方ではない。野乃花(ののか)は玄関口で私と目が合って、「こんにちは」と言ったのかな。それは覚えている。
帰省時に親戚の家に行っても、一応成人である私は暇を持て余していた。子どもの頃から何度も行ってるが、その時みたいに居間でくつろぐことが多かった。周りは子どもばかりである。
親戚の子どもたちは皆ゲームをしていた。スマブラというゲームだった。大乱闘スマッシュブラザーズ。
私は任天堂のキャラをほぼ知らなかった。ピンク色のあれがカービイって言うのはわかったけど、あとは知らないキャラだった。ピカチュウも辛うじてわかったくらい。
ゲームを一切しない子どもだった。家にスーファミもPS2もなかった。家の近くにある里山に出かけて、危険であろう山奥まで踏み込んで、昆虫やトカゲを捕まえて飼育するのが好きだった。日本にいるはずもないチンチラがいないか探そうとしていた。
親戚の子ども達は居間でゲームするだけじゃなくて、子どもらしい身体を動かす遊びもしていた。外での運動だった。まさにスマブラ。
居間でも、廊下でも、玄関でも、これでもかというほど広い庭でもそうだった。私は成人男性だったけど、元気のいい彼ら小学生の相手をすることもあった。
野乃花は、大人しい子……でもなかった。わーきゃー言って水鉄砲を打ったり、私に体当たりをしてゴロンとひっくり返っていた。溌剌な子だった。
野乃花はその時、7才だったはず。14才差なので。小学校に上がった年である。いい頃合いの年齢ということで、(私から見て)遠い親戚の人も、野乃花を本家筋の実家に連れてきたのだろうか。
それはそれとして、大学生であるというのに私は、毎年夏や大晦日になると……その親戚(本家筋)の家に行っていた。小学校~中学校の頃は、それこそ年に何度も。
うちの母親が私や兄弟を連れて行くと、祖母が漏れなく一万円をくれるのだった。うちの母親は、ことあるごとに其処に行っていた。子どもを連れて。ある種の集金システムである。
私は子どもながらに察して、祖父母にあざとくした。可愛い子だと見られようとした。今思えば浅ましい考えかもしれないが、毎回寄るだけで一万円をくれるのだから、それくらいは当然と思っていた。
中学生や高校生になると、親戚の家に行くことはなくなっていた。
しかし大学に進学すると、また急に行く頻度が増えた。私と祖父が同じ大学出身で、学群も同じ(祖父の時代は学部)だった。お気に入り度が上がったのだと思う。
20才になる年に入ると、祖父のとっておきの日本酒や焼酎を飲ませてもらった。あの頃はおいしい酒の味がわからなかった。モンテローザ系列の味に慣らされた舌には、明らかに上の味だったけど。
え、野乃花?あの子は、、、私が22才、23才、24才になる年も、毎年ずっと会い続けた。親戚の家に行く度に必ずいた。ほかの子はいないこともあったし、来なくなる子もいたのだが。
今思えば、懐いていたと思う。よく会話をしたし、ごっこ遊びにも付き合った。
夏休みや冬休みの宿題を私が教えることもあった。「増田くん。あたまいー!」とよく言ってくれた。私は漢字に弱かった。今でも書き誤りをすることがよくある。
野乃花に、「こないだの発表会でね、その旨(うま)をまとめて発表します」と読み間違えた話をしたが、さすがに理解してくれなかった。
ある日、曇天で雷が鳴っている時に、雷を素早く動いて躱せるのかという話になった。私が「雷はね。上から落ちてくるんじゃなくて、下から上に昇ってるんだよ」と伝えると、「うそ。ほんとー。今度試してみる」と言った。「絶対に試したらダメだよ」と釘を刺した。
野乃花について、はっちゃけた雰囲気の子を想像するかもしれないが、実際は年齢に見合わない利発な子だった。理屈っぽい私の話を、「へえ」と面白がってくれる唯一の人間だった。
夕食の時は席が大体隣だった。誕生日プレゼントをあげた時は抱き着いてきた。年齢差はあったけど、会話が弾んだ。
親戚の大人達が家にいない時だと、2人きりになることがあった。かくれんぼとか、鬼ごっことか、ノートPCでヤフーのポータル画面を開いて、いろんなことをググったりした。(ほかの親戚と一緒に)花火大会にも行った。水族館にも。遊園地にも。
彼女は明るくて溌剌としていて、私みたいな陰キャラとは違った。いわゆる"いい子"だった。はてなブックマークでいうと、女性ブクマカでトップコメに入りがちな、快活な方々がおられると思う。あんな感じの、知性やユーモアを伴った明るさである。
25才の頃は、新卒で入った茨城県にある電機メーカーに勤めていた。
親戚の家に行くのは、年に2回ほど。祖父は、私が社会人になっても毎年お小遣いをくれた。「早く技術士になれよ、期待してるぞ」って、行く度に祖父が言ってた。それから十年もかかったが、祖父と同じ電気分野で技術士の試験を通った。
それくらいの年齢になっても親戚の家に行ってたのは、野乃花のことが頭にあった。私に懐いてくれる女性というのは、それまでの人生で彼女しかいなかった。私はモテなかった。はてな語で言う弱者男性。
ある年の夏だった。自家用車で一人でその家に行くと、玄関口の廊下に野乃花がいた。靴を脱いで、家の廊下に上がったところに古い掛け時計があった。ずっと昔からあって、玄関に上がる時は時刻を見るクセがあった。
廊下に立っていた野乃花に近づいていって、野乃花の両肩に手を置くと、野乃花が唇を突き出した。キスをした。口にする方だった。
私は別に、ロリータの同人誌やアンソロジーを持ってたわけじゃない。そういうR18コンテンツに触れたこともない。当時の私は、社会人としての勤めや、理工学の勉強の日々の傍らに、読書をしたり映画鑑賞をする男だった。年少への性癖はない。ただ、孤独への性癖があっただけだ。
野乃花とのキスというのは、その時が初めてじゃない。鮮明でない記憶だけど、初めての時は、私が22~23才くらいの時だった。野乃花が8~9才くらい。
親戚の家の中ほどにある居間で、2人だけになってる時に、身体が不意にくっついて……その流れで、人生で初めてキスをした。少し大人になれた気がした。
それからは、2人になる度に、親戚の目がない時にキスをしていた。唇を合わせるだけの簡単なやつを。一日に何度も。別に理由はなかった。私も野乃花も、ただしたかっただけだと思う。
野乃花が小学校を卒業する年の2月だった。初めて2人だけで外に出かけた。それまでは、親戚付き合いの中で、花火大会とか水族館とか、飲食店などに一緒に行っていた。それが、野乃花が親に携帯電話を買ってもらい(青っぽいガラケー。私はスマホ)、LINEでやり取りするようになった。
デート場所は茨木駅周辺だった。茨城ってぶっちゃけ、鳥取~島根クラスに何もないところだけど、大きい駅の周辺では、ショッピング、グルメ、自然、文化体験など色々楽しめる。野乃花のいる栃木でもよかったけど、『秒速5センチメートル』ごっこになってしまうのでやめた。積雪で電車が止まるかもしれない笑
その日は、夕方まで一緒に何時間も過ごした。最後は美術館に行って解散した。帰りの電車賃は社会人だった私が出した。それ以外の、食事代とか入館料は割り勘だった。出そうとすると、野乃花が嫌だと言った。
電車が出る時間になってホームで別れる時、「楽しかったね」と私が言ったら、野乃花が「今日、一緒にいられない?」と聞いてきた。潤んだ瞳だった。吸い込まれる瞳ってどこかの小説に地の文があったけど、あれは作者の実体験だったんだと感じた。
「仕事あるからね。また今度ね」と言うと、野乃花は俯いて電車に乗った。最後に手で肩に触れて、「バイバイ」ってお互いに言った。野乃花は泣いていた。
あの頃は、年齢差のことを考えることがあった。私と野乃花の年齢差は、年度でいうと14年分。一番最初に会話した時は、小1と大3だった。
(以下閑話)※当時のメモを参考
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年齢差についての関数
年数をxとして、お互いの年齢の比をf(x)とすると、f(x) = (a+x) /(b+x)となる。年数xを経る毎に0<f(x)<1で単調増加で1に近づく(極限操作)。
お互いの年齢比が0.5になるときの経過年数は、式変形によりx=2a-bで表現できる。この比率をもっと一般的に表現すると……。上記のf(x) = (a+x) /(b+x)を微分すると、商の微分でf`(x) =(a-b) /(a+x) ^2
f`(x) =0になる極値は……?と考えると、残念ながら存在しない。
元の関数f(x) = (a+x) /(b+x)というのは、式変形すると、f(x)=1+((a−b)/(b+x))となる。これは、f(x)=a/(b+x)という直角双曲線をグラフ平面において平行移動させたのみである。
直角双曲線は微分可能であるが、極値がない。正負の値を関数に入れると、グラフ上で左右に分かれて存在することから、右極限と左極限が一致しない。
方程式 f`(x) =(a-b)/(a+x) ^2において、a−b=0が成り立つのは、a=bの場合のみ。導関数はゼロ。定数関数であり、傾きはない(定数関数が微分可能かどうかは流派による)。a≠bだと、導関数がゼロになるxの値が存在しない。
年齢算という算数を扱っている以上は、関数の形状はシンプルである。一番知りたい特定の値に向かって方程式に数値を入れるのみ。私は複雑な答えを求めたが、その行為自体が適切でなかった。つまり、二人の年齢差というギャップは、数学的には永遠に埋まらないという無慈悲な証明だけが残った。
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(閑話終わり)
野乃花が中学生になった年だ。私は茨城県にあった電機メーカーを辞めて、他業界のIT企業に転職した。広島市に営業所があるメガベンチャーだった。
仕事に忙しい日々だった。距離があるので関東に帰ることも無くなって、それで……野乃花とはそれっきりになった。LINEのメッセージも、いつの間にか途絶えた。既読無視をしたのは私の方だ。
今は独立して、都内でIT関係の下請けをしている。フリーランスだ。ハイクラスエンジニアでは決してない。うだつが上がらない日々だけど、いつかは1人社員の株式会社にしたいと思ってる。今の自営業の屋号は、結構厨二が入っている。実年齢よりも幼い人間なのだと感じる。
なぜ、この日記を書こうと思ったか。正月に野乃花と会ったのである。もちろんあの親戚の家で。あそこに行くのは久しぶりだった。
其処に行く途中の車内で、母に聞いた。あの家は祖父も祖母も亡くなっていて、今は叔父夫婦が住んでいるだけ。跡継ぎはいない。子どもはいたが、みんな自立したらしい。大きい家なのに勿体ないって、そんなことを思いながら親戚の家に着いた。
玄関を上がって、あの時の古い掛け時計が別のに変わっているのを見て、それから台所(兼ダイニング)に行くと、親戚が何人か座っていた。その真ん中あたりに……野乃花がいた。
野乃花と会うのは約15年ぶりだった。
私と目が合うと笑顔になった。ダイニングの隣にある小さい居間では、親戚の子達が皆で一緒にタブレットでアニメを観ていた(私はここ数年アニメを見てない)。少年の時、ボードゲームをしていたのが懐かしい。あの頃より人数が減っている。
話は変わるけど、もし『グノーシア』のボードゲームや、人狼ゲームがあったらやってみたい。一生叶うことはないだろうけど――もしアニメ化もされたら観てみたいと思う。
野乃花を見た後で考えた。
まだ夕方ですらなかった。これから何をしようか、どうやって暇を潰そうか。スマホを操作するだけでは勿体ないし、懐かしいその辺りを散歩しようと思った。
本当は野乃花と話したかったけど、連れていくわけにはいかないし、話せるだけの心の余裕もなかった。それに、野乃花は夕食の準備を手伝っていた。
近所の散歩が終わって、台所兼ダイニングで豪華な夕食を食べて、ビール瓶を何本も空けて、親戚連中の大人(あの頃の子ども達)とたくさん話をして、トイレに行ったり、親戚の子の遊びに付き合ったり、お年玉(※宿泊費)を払ったり、十数年ぶりの親戚の家は懐かしい。野乃花はずっと飲み会を手伝っていた。
飲み会の後、ダイニングでスマホをいじっていると、深夜が近づくにつれて親戚の数が減っていった。「そろそろ寝ようか」と思ったところ、廊下から野乃花が入ってきて、こちらに歩いてきた。私の隣の席に座った。結婚指輪はしてなかった。
「久しぶりだね」
と私が声をかけると、
「増田くん元気そうだね」
と返ってきた。
面影がすごく残っていて、懐かしい感じがした。
子どもの頃の就寝時間は午後十時だった。今は大人だから、あと一時間は起きていられる。野乃花と喋ってから寝ることにした。
思ったより多くの会話をした。卒業した学校とか、就職先とか、今の趣味とか、好きな本とか、最近観た映画とか。私はサブカルが好きだけど、野乃花もそうだった。アニメだと『ブルーロック』の話をした。エゴの塊みたいなキャラの話で盛り上がった。漫画・小説の話もした。吾峠呼世晴の初期短編集は2人とも読んでいた。
でも、野乃花が不意に言ったのだ。
心臓がドンって叩かれた。この時まで、悪いことしたという思いはなかった。
でも、この時になって、私があの頃、どういうことをしていたのかって、そういう思いが一瞬で頭の中を駆け巡って、後悔が襲ってきた。
「迎えにきてくれると思ってた。連絡がほしかった。私は増田くんに会いに行けないのに」
野乃花を見ると、涙を拭っていた。鼻もすすっていた。
それから沈黙が続いて、「ごめんね」と言った。そしたら確か、「増田君は結婚したの?」と聞いてきた。
結婚どころか、離婚まで経験していることを話すと、野乃花は爆笑していた。机に突っ伏して、本気で笑いを堪えている様子だった。話を続けると、野乃花も一度離婚を経験していた。
なんだか変な雰囲気になって、それからまた、さらに笑える話を(お互いに)続けて、そうこうしてると午後11時になった。LINEの連絡先を交換して寝室に入った。
読者の方は察してるとは思うが、私はいわゆる発達障害である。診断済みだ。
メガベンチャーに転職をして地方都市に引っ越した後、仕事の人間関係で苦労することがあった。明らかにおかしいと思い、精神科医に診てもらったところ、様々なテストの後に、そういう診断が出た。子どもの頃からの行動傾向を見てると明らかだった。
ある情報によると、発達障害の精神年齢というのは……実年齢×0.60~0.70らしい。青春期の、精神が最も発達する年代に脳が発達をしてくれない(脳発達のピークが30代にくる)。
一方で、一般的な女の子は、男の子よりも数才精神年齢が高い。ということは、最後に野乃花と会った時の精神年齢は……私だと26才×0.60~0.70≒15~18才ということ。野乃花が実年齢12才+2~3才とすると、14~15才ということだ。
あれ、なんだこれと思った。そういう視点で考えると、野乃花との年齢差があっても話が通じたことの合点がいった。
話は以上である。
我ながら恥ずかしい執筆体験だった。私の言葉で思い出を表現できてよかった。理屈っぽくて読みにくかったとは思う。
でも、言葉にしたかった。あの時、親戚の家のダイニングで、20代後半になった野乃花と再会した時の衝撃とか、それよりずっと前の、野乃花との楽しい日々の思い出とか。ここで、こうして吐き出すことができてよかった。
明日からは、また一人のはてなユーザーである。みんなの面白い日記を、また読ませてほしいです。ここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
ラノベをコミカライズしている漫画家だ。たまに小説の表紙イラストも描いている。
権利問題もそうだし、環境破壊も気になる。日本はまだ影響が少ないが、海外は酷い。わかってる。
でも、反対だと声を大にして言えない。
小説家が執筆にあたって、AIに校正させたり感想を出力させているから。
生成AIには反対です!という宣言は、何かしらの感情は抱かせるだろう。
原作者の機嫌を損ねて打ち切りになったコミカライズを多数知っている。
じゃあ、AI使ってる作家から仕事受けなきゃいいじゃんという話だろう。
それにコミカライズじゃなくても、表紙の仕事が減る可能性がある。弱小だから仕事が減るのは痛い。
大々的に生成AI反対宣言をしているイラストレーターなんて、AI機能を使ってる小説家/AI校正推進している編集部は避けたいんじゃないか?
それともイラストの生成AIと小説におけるAI校正は別物だと思っているから、そこは繋がらないのか?
そして反AIのオリジナル漫画家・イラストレーターの知人達が、「反AIを宣言しない絵師は信用できない」と言っていることを見かけることが増えた。
胃が痛い。言いたい。でも言えない。どこにも言えない。どこから漏れるか分らない。
はっきり言う。企業のTechBlog、もう全部やめてくれ!!!頼むから!!!!
いや、マジで。 今年もまたこの季節が来てしまった。アドベントカレンダーだ。QiitaだのZennだの自社ブログだので、TLに流れてくる「〇〇社のAdvent Calendar」。 これを見るたびに、俺は心の底からうんざりするんだよ。吐き気がするほどに。
はてなでも度々話題になるが、あえて言わせてもらう。 お前らの書くTechBlog、9割9分は無価値だ!!!!!!
「〇〇イベントに行ってきた。熱気がすごかった!」 「〇〇の新機能を試してみた。便利だと思った!」
……小学生の絵日記かよ!!!!!!!! 「すごかった」「便利だった」じゃねえよ!!!!
そんなもん、公式ドキュメント読めば3秒でわかることだろ!? わざわざ自社のロゴ貼り付けて、ドヤ顔で公開する内容か!? 本当に!本当に!!なんの!!!価値も!!!!ないんだよ!!!!!!
「うちは大丈夫」だと思ったそこのお前!! 曇りなき眼(まなこ)で、自社のブログを見返してみろよ!! そして社内のSlackを見てみろ!!!
記事の共有通知に、特定の「いつもの人」以外、リアクションしてますか!?!? してねえだろ!!!!!!
社員ですら「またなんかやってるよ…」って冷めた目で見てるんだよ。 誰にも読まれてないし、誰の役にも立ってない。 ただ「広報のKPI」のためだけに、エンジニアのリソースを食いつぶして、ネットの海にゴミを放流してるだけだ!!!
だから、頼む。広報担当、ブログ担当、エンジニアリングマネージャー。勇気を持って「撤退」を決断してくれ!!!!
ちょうど年末だ。全社集会とかあるだろ? そこで高らかに宣言してくれ。
ただ「無価値だから辞めます」とは言えないだろう。角が立つしな。 だから、AIのせいにしていい。AIを盾に使え。
「生成AIの台頭により、基礎的な技術解説記事はその役割を終えました」 「今後は検索ノイズを減らすため、またエンジニアの本質的な業務時間を確保するため、会社としての執筆依頼やKPI設定を廃止します」
「今までありがとうございました」って綺麗に幕を引いてくれ。 そうすれば、俺たちは心から拍手を送る。
エンジニアが書きたい時に、書きたい情熱を持って書く。 それだけでいいんだよ。会社が無理やり書かせる「宿題」みたいなブログは、もう金輪際見たくないんだ。
頼むから、俺たちのTLを、検索結果を、これ以上汚さないでくれ!!!!!!撤退宣言を待っている!!!!!!!!
もう一つ、最後にこれだけは言わせてください。
あなたたちが量産しているその記事は、AIの学習や検索にとっても有害なノイズになりつつあります。公式ドキュメントを薄めただけの劣化コピーや、文脈のない体験記事は、情報の検索性を著しく下げています。それは正確な一次情報への到達を阻害し、インターネット全体の価値を薄める行為です。
あなたたちは無価値な記事を量産するにあきたらず、今後人類全体の負債になります。
Permalink |記事への反応(38) | 08:14
私のISに関する知識はほんの少しだ。原作小説も読んでいない。
しかし、原作がラノベであることは知っている。キャラも少しわかる。
なぜかと言えば、ISはやる夫スレではおなじみの作品だからだ。
いま、やる夫スレ読者や作者がどれほどいるかわからないが、私は読者でも作者でもあったので、ISはちょっぴりわかる感じだ。
いまはやる夫スレからは遠ざかってしまった。創作活動もしていない。
そんななか、dアニでISを見つけた。
思えば本篇を観たことはなかったから、観てみることにした。そういう流れである。
いきなりだが、OPの「STRAIGHT JET」は聴いたことがある。
学生のころ、夜中まで勉強するときにYouTubeで「アニソンメドレー」と検索し、適当な動画を聴いていたのでよく覚えている。
さて、本篇。
ISはナントカ条約で軍事利用は禁止とのこと。なのに男女の権力勾配に影響を与えているらしい。
スポーツでしか使わないのにそうなるのは、ISスポーツは古代オリンピアなみに人気なのか?(ツッコミポイント+1)
2025年現在から見ると、暴力系幼馴染とか高飛車クラスメイトとかかなりベタだ。
それから14年でサブカルのキャラ設定も変化したことがわかり、感慨深いものがある。
そうは言っても、私はサブカル文化人などではないから、こういう意見はネットに転がっている言説の影響を受けていると思われる。
まあ、男が女の園に一人投げこまれたら、噂の中心になるのはあると思う。
ただ、男が女より弱いのが常識なら、なんで主人公をクラス代表に推薦するんだよとは思った。
なんだか総じて批判しかしていない気がするが、そんなつもりはない。
穿った目で観ているわけではなく、思ったことを垂れ流しているに過ぎない。
それで言うと、キャラデザは良いと思う。好みだ。
他者の考えではなく自分の考えをストレートに表現しようというのが、この感想執筆の裏テーマだ。
結果としては、とっ散らかった感想になってしまった。回数を重ねれば、洗練されると信じることにする。
次回、IS<インフィニット・ストラトス>第2話「クラス代表決定戦!」でお会いしよう。
https://anond.hatelabo.jp/20251015165420#
また話そらした 本当に負けるのがすきだなあ
https://anond.hatelabo.jp/20251015165514#
いきなり降伏とか言ってるお前がね
https://anond.hatelabo.jp/20251015174617#
18:45https://anond.hatelabo.jp/20251015184502#
https://anond.hatelabo.jp/20251015184734#
とりあえず何かレスしたら言い返した気になるいつもの馬鹿晒しじゃん
気絶寸前になるとおまえそういうレスするよな
18:48https://anond.hatelabo.jp/20251015184802#
また憶測でぺらぺらと
https://anond.hatelabo.jp/20251015185010#
どこが憶測?
18:51https://anond.hatelabo.jp/20251015185123#
「気絶寸前になると」ってとこ
18:55 気絶
19:02https://anond.hatelabo.jp/20251015190227#
dorawiiが5分以上書き込んでいない
気絶してしまったようだ。
本人は気絶の兆候が自分でわかってないから、本心から憶測だと思い込んでるんだね
かわいそうだね!
https://anond.hatelabo.jp/20250929184436#
だってお前の言ってることがハッタリかどうかを証明すれば俺の賛同者連れてくるまでもなくなるからな。
なんでお前のやり方に付き合わなきゃならんの?
https://anond.hatelabo.jp/20250929184528#
じゃあ俺もおまえのやり方には付き合わないわ
https://anond.hatelabo.jp/20250912225630#
具体的には、老化で衰えて物理的に助けられなくなるまで希望を持って助ける、と言う感じで言われたよ。
否定される、って言われたからその表現に釣られて否定されなかったと言っただけで、言葉のあやだね
このツリーのそっちのトラバがあとあと「やりすぎ」と評価される根拠として引用されるようにならなければいいね
悪を邪悪に仕向けるのが果たして独善とされるのか、dorawii取りがdorawiiになると語られるようになるのか、後世の評価に待つしかないけどね
もっともそっちは匿名性を笠に着て、自分がいじめてる人の肩を持つ人は全員いじめてやるってぐらいのカースト上位とかが持ちがちなメンタリティで周りからエゴと言われはじめようが、人は自分が正しいと思ったことをするしかないって考え方で突き進むタイプなのかもしれないけど
「希望を持って助ける」ってなんだよ
50代のこどおじがこんなことを言われてる時点で異常なんだよな
二人でサイクリングしてるときに○○があるとか言われたんだけどどこにそれがあるのかわからなくて、とりあえず自分が思い当たる○○を見てこれかなあと天を仰いだりしてきょどってたら、また呆れられた。
最初から何時の方向とか言ってくれればいいのにと苦言を呈したらそれではお前のためにならないとのこと。
普通の人間は発言者を見てその視線の方向を観察することで言及している対象の場所をつかみ取るんだって。
でも一つ気になったのは、なんで俺がきょどったりしているのかあのとき認識できたかってこと。
それに対しては視野は広いからとかいちいちそんなどうでもいいこと突っ込むな謙虚になれとか言われるんだけどさ。
いやいや俺がどうなってたか見えてるってことは発言した直後に既に俺の方を向いて観察していることになるかもしれないわけで、そうだったとしたらあのとき俺が相手を見てもその相手が見てるのは対象物とは無関係な俺の方向に過ぎず、発言者の視線がヒントになるって助言が破綻してることになるんだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20251020185257#
https://anond.hatelabo.jp/20251020185513#
表示領域せっっっっっっっっっっっっっっっっまwwww
1024x768?は?4:3?え?ブラウン管?w
世の中の最低基準で1920x1080だぞ?
スマホですら2340x1080とかざらにあるんだぞ?
めっちゃおもろい
https://anond.hatelabo.jp/20251015021253#
まだ起きてたのかアンチ俺に夢中すぎだろ
https://anond.hatelabo.jp/20251015022158#
https://anond.hatelabo.jp/20251014174115#
https://anond.hatelabo.jp/20251014174650#
10時間張り付いている常同行動を問題視されているのに、レスの内容が問題なければ良いという謎理論を持ち出すdorawiiしかもそのルールの意味不明
https://anond.hatelabo.jp/20251015165420#
また話そらした 本当に負けるのがすきだなあ
https://anond.hatelabo.jp/20251015165514#
いきなり降伏とか言ってるお前がね
https://anond.hatelabo.jp/20251015174617#
18:45https://anond.hatelabo.jp/20251015184502#
https://anond.hatelabo.jp/20251015184734#
とりあえず何かレスしたら言い返した気になるいつもの馬鹿晒しじゃん
気絶寸前になるとおまえそういうレスするよな
18:48https://anond.hatelabo.jp/20251015184802#
また憶測でぺらぺらと
https://anond.hatelabo.jp/20251015185010#
どこが憶測?
18:51https://anond.hatelabo.jp/20251015185123#
「気絶寸前になると」ってとこ
18:55 気絶
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dorawiiが5分以上書き込んでいない
気絶してしまったようだ。
本人は気絶の兆候が自分でわかってないから、本心から憶測だと思い込んでるんだね
かわいそうだね!
結論から言うと、増田は感情に欠陥があるどころか、その子にとって最高の親なので安心して育児して欲しい。
うちの子は確定診断こそ無いものの、学校側からすすめられて支援級(情緒級)に通っている。増田と同じくそれに関する絶望感はゼロで、毎日育児にワクワクしている。恐らく、私と増田は認知特性がかなり近いと思う。私も自分の感じ方は一体何なのと疑問を持って調べたのでここで共有したい。
・興味のあることを調べるのが大好き、ワクワクする
・興味対象に対して興味があるので驚異的な努力量だが、本人は楽しんでやっているので努力と感じない
・自分のこと関して(増田の場合は子供が発達障害の診断を受けたこと)は感情感度が異常に低い
つまり
という認知になる。このタイプは興味対象に対しては驚異的な理解と問題解決能力がある場合が多い。歴代の天才と言われているのもこの認知タイプである場合が多い。
言わずと知れた古代の大天才数学者。ローマ軍に攻め入られ、命の危機にある状態でも研究に没頭しローマ兵に「私の円を乱すな!」と激怒!反抗したためローマ兵に殺害されてしまう。つまりアルキメデスにとって
である。
歴代数学者でも最高の数学への貢献量があると言われる数学者。「世界一美しい数学の定理」と言われるオイラーの等式を生み出したとされる数学者である(諸説あり)。オイラーは失明したが、それでも自分の手で文字を書いたり、まわりに口頭で伝えたりして数学の執筆活動を続けた。オイラーにとっても
である。
数学・数学史大好きなので例が数学者ばかりになってしまったのは容赦してほしい。このような事例は枚挙にいとまがないが、あまり書きすぎると本題とずれるのでこれくらいにする。
次に、なぜこのタイプの人が自分のことに対する感情感度が低いかというと、問題解決能力が異常に高いため「問題が発生しても、それを深く理解すれば解決できる」と信じて疑わないからである。
普通の人:自分の子供が発達障害と診断される→永遠に変えられない、またはどう対応したらわからない→絶望
増田:発達障害を深く知りたい→どうすれば最適解なのか考える→突破口がある→楽しい、ワクワク
という違いがある。発達障害の診断に関して言えば
増田:診断の前から問題を認識→診断→発達障害の診断→発達障害について深く知れば突破口が開けるとわかる→我が子の人生の最適解を考えるのにワクワク
という認知の差がある。さらに言うと、増田のタイプは興味対象だけに集中する特性があるので、興味対象外に関してはガン無視する場合が多い。しかし、増田の文章から、我が子やその特性に関しては明らかに興味対象なので、放っておいても自らあれこれ調べて我が子を最適な方向へと導いて行ける親だと言える。
子供は親の考えている事を察する能力はとても高いし、長年一緒に暮らすので、親が本当に感じていることを隠し通すのはかなり難しい。絶望を隠しながらなるべく明るく接しようとする親よりも、心の底からワクワクしながら接してくれる親の方が子供にとっても良いだろう。だから、安心して子育てを頑張って欲しい。いや、増田は恐らく頑張るって思ってないから、安心して子育てを楽しんで欲しい。
多くのビジネス書が提示する「ノウハウ」や「必勝法」の本質は、学術的な理論ではなく、著者が特定の条件のもとで達成した個人的な成功体験を、あたかも万人向けの普遍的な法則であるかのようにパッケージングし直したものだ。
ビジネス書を著す多くの人物は、強い自己顕示欲と自己承認欲求を持っている。執筆活動は、彼らの自己の成功を「社会的な法則」として世に認めさせ、自身の権威性とブランド力を高めるための手段だ。
ビジネス書が書かれる真の目的は、読者に有益な知識を与えること以上に、以下の経済的・自己満足的な動機に集約される。
成功体験を絶対視するビジネス書は、人間関係を「指導者(上)」と「未熟な部下(下)」という垂直的な構造として描く。管理職は「教える立場にある自分は正しい」という上から目線を無条件で内面化する。
ビジネス書に傾倒する管理職にとって、部下は目標達成のための「人的資源(ヒューマン・リソース)」と見なされる。
この「資源」という捉え方が、「育成」という名のもとで、部下の尊厳を否定する失礼な態度を正当化する。資源は最大限効率的に加工(育成)されるべきであるため、「結果のためだ」「お前を育てるためだ」という大義名分のもと、人権を無視した侮辱的な言動が「マネジメント」として許容されてしまうのだ。
ビジネス書を盲信し、そのノウハウを「絶対解」として現場に適用しようとする管理職は、著者の自己顕示欲と独善的な思考を組織内で再生産しているに過ぎない。彼らは、書籍のノウハウを実行しない部下を「失敗」や「抵抗勢力」と見なし、指導の名のもとに自らのメソッドを強制する[[パワハラ]]を生み出す。
彼らが実践する「パワハラのノウハウ」は、特定のメソッドや厳しい規律、成果至上主義を絶対化するビジネス書という形態を通じて、広く社会に流通している。
ビジネス書が流通させているのは、単なる精神論ではない。それは、「部下の気持ちを完全に無視し、かつ反撃を喰らわない」ための、非常に具体的なパワハラ技術だ。
上司が求める「正解」は、論理ではなく上司の個人的な動機や前提に基づいている。上司は具体的なフィードバックを一切与えず、「違うな」「考えろ」を繰り返し、部下は正解に当たるまでリテイク地獄を強いられる。部下は上司の独善性に気づき、深い憎しみを抱える。
「感情論」を排し、「目標達成」や「数字」といった客観的な論理(書籍で学んだフレームワーク)で部下を追い詰める。これにより、指導の体裁を完璧に保ち、部下からの反論を封じ込める。
人目の多い場所で集中的に指導を行うことで、部下に対する見せしめや組織的な圧力として機能させる。また、「指導」という名目のもと、部下が逃げられない状況で長時間拘束する。これにより、組織のルールを守りつつ部下の精神的逃げ場を完全に奪い、逃れられない状況で追い詰める技術だ。
書籍の「成功は個人の努力」という論理を応用し、部下の失敗を「ノウハウの実行不足」「当人の意識の低さ」に帰結させる。これにより、上司の指導の責任を完全に免除する。
結論として、ビジネス書は「成功者の自伝」という体裁を取りながら、実際には「自己顕示欲を満たすための指導法」を権威付けし、組織における上から目線の構造を固定化し、パワハラを再生産・流通させる主要な経路となっているのだ。
あなたの周りに、あなたの尊厳を傷つける上司がいるなら、まず彼の机の上をチェックしろ。
パワハラの根源は、彼らの自己顕示欲が凝縮されたビジネス書にある。
https://x.com/nikitabier/status/1992820294864732411
ビーア氏の表記は他の記事では英語のまま、ビア氏などが確認できたが
Xのプロフィール欄で「◯◯◯◯年◯◯月からXを利用しています」をクリックすると所在地、接続元が表示される機能が導入された
ややコメント欄が荒れがちなことに定評のあるyahooニュースで見つけたのが以下の記事である
yahooニュース:https://news.yahoo.co.jp/articles/c21111c75ce8335b421c7fe87d673ad68ed2f269
恐らく元の記事:https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2511/24/news012.html
上記の記事を読んでいて初見だと誤解を生みそうだと思った点について書いてみる
記者の方の意図がこうかもしれないという補足情報を付けるのが目的である
誤解部分については知り合いが当該記事を読んでいたのでそれを参考にしつつ書いた
まずは記事中に次の文がある
だが、導入直後から表示内容の正確性に関する問題が生じている。例えば、米国のYouTuber、ハンク・グリーン氏の「アカウントの所在地」が「Japan」になっていたり、アイティメディアのNews編集部は所在地が日本なのだが、「国または地域は正確でない可能性があります」と表示されてしまったりしている
ハンク・グリーン氏とアイティメディアのNews編集部のアカウントは
次のURLでプロフィールの「~からXを利用しています」を押すと詳細が見れる
確かにそれぞれ「国または地域は正確でない可能性があります」と表示されているが
このアカウントはプロキシ(VPNなど)経由で接続している可能性があるという表示もある
こんな記事の書き方をしているとは思えないので何か締切に追われていたのだろうか
軽く説明しておくとプロキシやVPNというのはインターネット通信を中継するもので
例えば企業の通信の盗聴などを防ぐセキュリティ施策の一環として用いられる
これを用いた場合本来の自分の所在地を隠すことも可能であるが悪用などは当然厳禁である
「アメリカからVPNで接続している」ということなので表示に間違いはなく
「正確性に関する問題が生じている」と言うのは誤解を招きそうだと感じた
それを言いたいならVPN表示が出ているハンク・グリーン氏以外を選ぶべきではないだろうか
記事中で注意書きを引用しているのでこれがVPNを使用している表示であることはわかってるはずなので
ビーア氏は、「いくつか粗削りな点がある」と認め、こうした問題は火曜日(11月24日)までに解消される見込みだと説明している。また、表示されるデータに誤りがある場合は、利用可能な最良の情報に基づいて後から更新していくとし、その更新はプライバシーを守るため「遅延かつランダムなスケジュール」で行うとしている。
ビーア氏とはXのプロダクト責任者のNikita Bier(@nikitabier)氏だと考えられる
氏はXの上にアカウントを持っておりそこでXについて不定期に呟いている
どうでもいいが記事でこういう引用をするなら元の呟きや氏のアカウントを貼ってくれると嬉しい
Nikita Bier氏のアカウント:https://x.com/nikitabier
これだけ抜き出せば話の流れとして「粗削りな点がある」というのは
記事の最初で言った「表示内容の正確性に関する問題がある」ともとれる
しかし続きの文を見てみよう
同氏は別のポストで、「このアカウントについて」の新機能から、アカウント作成時の国など一部の情報をいったん削除したことを明らかにした。
原文
Why remove "registration country"?You can game the "account based in" through residential proxies that won't show up inVPN detection.
Fraudsters already do this tobypass certain security features in banking andfinance. TheApp Storeoneis just a matter of changingyourIOS billingaddress.
これは今まで議論していたアカウントの所在地に関するものではなく
「登録国」という変更できない固定の情報を付けて欲しいというお願いに見える
つまりは「機能の追加」のお願いであり「正確性に関する問題」ではないように見えるが解釈などを間違えていたら申し訳ない
更に続きの文を見てみよう
古いアカウントを中心にデータが「100%正確ではなかった」ためとしており、その点を踏まえて情報の扱いを見直していると説明している。
原文
Wehope tobringit backby Tuesday. The datawas not100% for old accounts.
該当の会話
正直重箱の隅かもしれないが大事だと思うので指摘する
「古いアカウントを中心に」と書いてあるが
「中心に」ではなく「古いアカウントで」というのが正確な訳に見える
Xの翻訳機能を使っても「古いアカウントのデータが100%ではなかったのです。」と書いてあり
ここの「for old accounts.」からどうして「中心に」という訳が出てきたのか教えてほしい
ただし私の英語力が不足している可能性もあるのでそうだったら申し訳ない
可能性を100%断言したくないという性格の人はいるためそういう手癖が出たのかもしれない
初見で記事の全体の流れを追うと次の流れのような誤解が生まれそうだと感じた
1.VPNに言及せず「アカウントの所在地」の信頼性に疑義があると指摘している
2. 「荒削りな部分がある」という部分に元のポストを引用していないため機能のバグだと思われる
3.「古いアカウントを中心に」と原文にはない「中心に」を勝手に加えており、
ここまでの記事の流れから「アカウントの所在地」に関するデータの不備に思われてしまう
「アカウントの所在地」に全くの信頼性がないと述べているように感じた
私の性格が細かいせいかもしれないが記事を読んでて誤解を生むと感じたので
アカウントの所在地の信頼性についての事実上公的なソースはビーア氏のポストしかなく
それが信頼できるか気になるという意見もあるが
それが誤解を産んでいい理由にはならないため補足を入れた
この記事について長文を述べたがそれでも私はこの記事が書かれた行為自体はやや好意的だ
というのも大手新聞社などの大きなメディアが現時点ではこの件に触れておらず情報が殆ど得られなかった
数社はあったが客観的に見て大手メディアとは言えないネットメディアだったと思う
政治・日常の両面で影響範囲が大きく調べきれていないのが原因だろうか?
偉そうに言っている私もその辺りは全然調べきれていない
個人的には内容は微妙だったがどんな意見でもネット上に早い段階で情報を出してくれたのはありがたかった
本来は多数のメディアからニュースが出て比較検討した上で判断されるべきである
メディアとは公正な真実を権力者におもねることなく信頼性をもって伝えるのが責務であるため
事実上のインフラとなっているXで起きているこの影響力の大きい事態について
休日明けである今日あたりから大手メディア等も調査を終え現状を伝えてくれると信じている
ぶっちゃけここに限らず大半のメディアが同じような書き方をしているので
元ネタ確認できるようにURLなどは常に貼ってくれると個人的には非常に嬉しい
「アンサイクロペディアの鉄槌」と呼ばれた事件から早5年。
このサイトもひっそりと好事家たちによって支えられるかと思いきや、またも重大な事態に直面していた。
2025年初頭、まだUCPではAI記事をぽつぽつ見かける程度であった。AIに記事を採点してもらうツールで自己顕示欲を満たしたり、そんな程度のふわりとした雰囲気で触れていたのだが、AIの進化は早いもので夏頃にはもう人間と見分けるのが難しいほどの精度にまで発展していた。
そんな中、ひとりのユーザーによって「実際これどうするよ?」という議論が起こり、「面白ければOK」という結論のもと、生成AI活用のためのPortalページが開設された。ちなみに議論の提起者およびPortalの開設者は、先の事件に「鉄槌」という名前を与えたその人である痴愚神信者氏、現・ノイマン氏だ。
いろいろと賛否は分かれるところだが、AIで書いたにせよ人力にせよ面白くなければ消せばいいだけの話なので、執筆中に詰まった時のアイデア出しだとか要改善テンプレートを貼られた時の対処法だとか、この時点では「みんなで有意義にAIを使っていこうね!」といった感じで前向きにAI活用を考えていたのではないかと思う。
受け入れた人もいれば、受け入れられなかった人もいる。
「AI技術をどんどん導入していくのは勝手だけど、UCPみたいな場末のサイトでそこまでやる必要があるの?」と思った人達は、UCPで活動することをやめ、他のウィキプロジェクトへと移っていった。その代表的な例が「知木ペディア」である。
元々AIが台頭する前からUCPユーザーのごく一部で運用していたwikiなのだが、「今のUCP、なんかちげーよな」と個人的に思ったユーザーたちがフェードアウトして自然と居着くようになった。AI記事も自己言及だとかユーモアのためにぽつぽつ作られる程度で、棲み分けとしてはうまいこと行ってたのではないかと思う。
AIがUCPで市民権を徐々に得ていくたびに、ノイマン氏の言動もだんだんと棘が見えていった。
当初は純粋に「AIがどれだけ通用するのか見てみたい」という技術者としての意欲が見えていたのだが、次第にマウントを取るようになったり、トークページで何度も何度も反論を繰り返し相手が納得するまで説き伏せることをやめなかったり、自分とは異なる意見を徹底的に嫌うような性分に変化していった。
そんな中、ある会話のなかで「ノイマンさんは知木ペを敵視してるの?」という質問が飛んできたのをきっかけに彼は突拍子もない行動を起こしてしまった。
あろうことか知木ペで、30分間そこらで十数件もの記事を濫造してしまったのだ。
知木ペは百科事典としての記事もユーモア記事も載せていい自由なウィキプロジェクトであったが、前代未聞の事態に管理者もこれを問題視し「AI記事を原則禁止にしませんか?」と議論を提起。ここでもノイマン氏は自らの持論を曲げずすべての規制意見に対して反論、規制派の神経を逆撫でして議論の立て直しにまで発展する事態となった。
ノイマン氏はそれでも満足できなかった。
明らかに知木ペの住民を揶揄している「反AI」という記事を作成したうえで、その記事内の表現を引用して持論を続けざまに展開した。
反AIとしてどれだけ「理論武装」しようと、ユーモア至上主義のUCPでは、究極的にはAIに勝てる/AIにはない面白さのある記事を書けない方の問題
書けないならここで反AIなんてことはせず、妄想でなければ消されることのない「やさしいウィキ」や、AI生成記事を大幅に制限する方向の「保護区」にでも行けばいい
知木ペに併設されていた掲示板でもボヤキを繰り返したり、もはや指摘通り知木ペを敵視しているとしか言いようがないレベルにまで達していた。知木ペ住人側も彼を揶揄してか「クリストファー・コロンブス」という項目を立て、コミュニティの破壊行為への批判を行うなど泥沼化。
彼の腹の虫が収まることなど当然なく、AIを使っているとはいえ執念ともいえる速度で知木ペへの陰湿な皮肉を込めた記事を何度も何度も執筆。最早知木ペの住人は執筆意欲の殆どを削がれることになり、疲れ果てた管理者の嘆きが残されているのみである。
今やアンサイクロペディアは、1か月間に作成された記事の3割がAIである。要改善テンプレートの貼られた記事はAIによって加筆され、評価基準さえAI採点に頼るユーザーまでいる始末だ。そして今日、実に4度目となるUCPでのAI規制議論が提起されることとなった。
現状がこのサイトにとって良いものなのか悪いものなのかは読者の判断に任せるが、ユーザーの暴走によって「本国」どころか「保護区」まで荒廃させられるというのは、ある意味鉄槌以上の災厄かもしれない。
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matterout of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
作者
谷口 菜津子(たにぐち なつこ、1988年[1]7月7日[2] - )は、日本の漫画家[1]、イラストレーター[1]。神奈川県秦野市出身[1][3]。夫は漫画家の真造圭伍[4]。
来歴
神奈川県にて誕生し[1]、秦野市で育つ[5]。多摩美術大学情報デザイン学科情報芸術コース(現・メディア芸術コース)出身[6]。在学時から漫画を執筆し、[要出典]エッセイコミックなどを手がける[1]。
ブログに掲載していた、自身の好物であるレバ刺しとの擬似恋愛を描いたウェブコミック『レバ刺しとわたし』がネット上で注目を浴びる[7][8]。掲載ブログを書籍化した『わたしは全然不幸じゃありませんからね!』の単行本の帯には、瀧波ユカリ、中村珍、峰なゆか、夢眠ねむがコメントを寄せた。