
はてなキーワード:埋没費用とは
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1.歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3.格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4.結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義:テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点:共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放):大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入:問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保:大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資:システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定:選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み:共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜:難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果:テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論:現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
生成AI以下の信用度しかない知恵袋がサ終しない理由と増田がサ終しない理由って経営側の心理に共通部分ありそう
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サンクコスト(埋没費用)とは、すでに費やしてしまい、何をしても取り戻せない費用のことです。
経済学では、合理的な意思決定をする際にはサンクコストを考慮すべきではないとされます。
学歴に関して言えば、多額の学費や時間、努力を費やして高学歴を得た場合、それがまさにサンクコストとなります。
学歴厨の学歴主義の背景には、このサンクコストを回収したい、あるいはサンクコストが無駄ではなかったと正当化したいという心理が働くのかもしれません。
例えば、「これだけ頑張って良い大学に入ったのだから、その学歴を活かさなければ」「高学歴だからこそ、良い職に就くべきだ」といった考え方は、投入したサンクコストに引きずられていると解釈できます。
結果として、学歴そのものに価値を見出しすぎたり、学歴が低い人を見下したりするような「学歴主義」に陥ってしまうケースもあるでしょう。
これは、本来であれば、学歴以外の個人の能力や経験、人間性などを公平に評価すべきであるにもかかわらず、サンクコストにとらわれて合理的な判断ができていない状態と言えるかもしれません。
もちろん、学歴を得るための努力や学んだ知識そのものに価値があることは間違いありません。
しかし、その価値を過大評価したり、過去の投資に固執したりすることで、視野が狭まる可能性も指摘できます。
この視点から考えると、「サンクコスト感の狂い」が学歴主義を強化する一因になっているというのは、非常に腑に落ちる分析だと感じました。
別に夫婦ともに親に学費を出してもらって大学を出て、結婚したけれど、そのころ自分の親が相手の親にちょっと喧嘩腰だったのを覚えている。
自分の学歴が実家から離れたところにある名門校の博士卒で、相手の学歴が家から通えるようなところにある学校の学士卒で、教育投資に差があるのが気に入らなかったみたい。
自分たちが5年分も多めに学費・生活費を出した分が回りまわって相手の家を利するというのが。
結婚が決まってから「男の子の親は損だ」と常々ぼやいていたのは覚えている。
「一家の大黒柱になれるようお金をかけて育て上げても結局はすべて結婚相手の女にとられるんだ」と。
この増田はその逆パターンで、その辺で損をしないようにしたらこうなるという話なのかもしれない。
彼氏親は受益者負担のつもりかもしれないけれど、増田としては納得しないだろう。
奨学金じゃなく、女高学歴、男低学歴パターンの場合も増田のようにぼやくんだろうな。
そういう愚痴を言われる当事者から見ると、それはけつの穴の小さい親にしか見えないかな。
自分が払ったお金は埋没費用として忘れるのが吉だよ。それは増田が払いたくて払ったお金でしょ?
自分も今や人の親になったけれど、子供の教育費用は正直親の自己満足というところも大きいから別に結婚相手に求めてはいけないかなって思ってる。
これはリアル育成ゲームの課金で、そのお金を使ったことで大卒の娘がいる増田という実績解除をしたわけでしょ?
そんな用語があるかは知らんがw
たぶん勘違いしてるよそれ
サンクコスト(埋没費用)とは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用のことです。したがって将来に関する意思決定をする場合、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断です。しかし、将来にわたって金銭的・精神的・時間的な投資をしつづけることが損失になることが明らかであっても、それまでの投資によって失った費用や労力を惜しみ、投資を継続することがあります。これがサンクコスト効果です。
人材だとしたら、シンプルに「これまでの投資育成費用・採用費用がもったいないから雇い続けてしまう」状態がサンクコスト効果で、「やめられたらもったいないから愛情を注ごう」(なんだそりゃ)ってのは、サンクコスト「予防」効果だと思う
まずい、これは失敗しそうだ
→でもここまで来たので今更やめられない……
→ええい、やっちまえ
→(予想通り)失敗
という経過を辿った有名な出来事の例って、何があったっけ?
これを考えるきっかけになったのは、無論GoToキャンペーンである。マジでやるのかこのキャンペーン。
失敗(感染拡大)に繋がりそうだが、政府は延期や中止する予定は全く無く、予定通り実施するらしい。
さっきtwitterに流れてきたツイートでは、政府関係者の発言として「(GoToキャンペーンを)今更やめられないという結論になった」としてある。(https://twitter.com/eigadorobou/status/1282849373781495808)
twitterでは「インパール作戦そっくりだ」という声も多い。最もバズってるツイートはこれかな?
誰かがGo Toキャンペーンを「令和のインパール」と呼んでて、うまいと思った。
日本人は相変わらず、間違ってるとわかってても一度動き出したものは止められない。誰も責任を取らない。しわ寄せが下に下に来る。
この手の話は日本でよく起きてそうだなーーと思った。
しかし具体的な出来事・事件として何があったっけ……? 以下2つしか思い出せない(それにコンコルドは日本の例ではない)。
「サンクコスト/埋没費用」という言い方もするけど、これは用語であって出来事・事件に基づくものではない。
https://anond.hatelabo.jp/20170803224032
「途中でつまらないとわかったのについ最後まで観てしまう」は、コンコルド効果の例として頻繁に引き合いに出されますね。ウィキペでも「埋没費用」の項目でこれが例に挙げられています。読むよろし。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8B%E6%B2%A1%E8%B2%BB%E7%94%A8
俺は映画館ではいつも中央付近の席で観るので、退場するには何人もの客の前を通らねばならず、それは気が引けるのでまあ最後まで観る。
どっちみち映画を観るのなんてほかにすることもなくきちんとヒマな時だしね。
ぼっちかつ趣味に対する情熱も薄いやつは、ギリギリじゃないとツライと言う話
これまで5年くらい社畜やら掛け持ちやらしてきたんだが
そういう風にいい方向に向かっているはずなのに、何故か気持ちはどんどん落ち込んでいく
まるで定年退職してやることが見つからないおっさんみたいだ(私はまだアラサー)
「ここまで投資したんだから、見返りが期待できなくても投資し続ける」という話で、「もったいない効果」とか言ったりする
私の状態も、これに近いのかもしれない
スキルアップの術も金の稼ぎ方も頭打ちが近く、これ以上そこに注力しても大した効果は得られない
これが行き過ぎると、今度は「中毒財」となるらしい(この前テレビで見た)
残業しすぎるのもこれだそうだ
例えばRPGゲームなんかでも同じだ
レベルアップのテクニックをひたすら磨いたあとに、Lvがカンストしたり、クリアしてしまって
創作なんかでも、そういうことに執着してしまうキャラはよく出てくる
「殺し合いゲームの生き残りが、なぜかまた殺し合いゲームに戻ってくる」ようなやつ
成長した主人公に「お前は俺と同じだあああ!」とか言いながら散っていくのがお約束だ
私はああ言うのを見て「こいつバカだ」と軽蔑していたが、私も同類だったようだ
艱難辛苦というのは当たり前だが苦しい
幸福度をマイナス100から0にする過程は、幸福度プラス100を知らない人にとって魅力的に感じてしまう
幸福度のプラスというのは、家族や恋人、仲間、あるいは趣味なんかで得られると思う
そういうものを持たない奴は、マイナス100から0まで戻ったあと、プラ転させるのが非常に難しい
マイナス100から0への回帰には必死に努力しなければならない
でも実際にプラスにもっていくには、心身ともに朗らかで、「適度な努力と共感」が必要なのではないかと思う
そうしないと「あいついつも怖い顔して怖い。いつも必死で何か嫌。笑わない」と思われてしまう
でもでも、無理に取り繕うように笑ったり明るく振る舞うのは、それも「必死な努力」に違いない
自然に笑えない時点で詰んでるのだ
ちなみに、0からプラスにしてくれるサービスというものは案外少ない
ギャンブルやソシャゲは当たり前だが中毒財だし、風俗も実はテクニックに対する中毒財だと思う
あるとすればせいぜい漫画やシミュレーション系のゲームだろうか。ギャルゲとかね
そういう意味で、金を無尽蔵に貯めても大した意味がない。これはRPGと似ている
そんなわけで、こういう輩が取れる選択肢はとても少ない
少しまとめてみる
思いつく選択肢
【頑張る】
・無理やりどっかに属してみる
・無理やり趣味を作ってみる
・必死に趣味や創作に打ち込み、そこから心から楽しめる人脈形成する
【諦める】
・諦めてボーっとする
・諦めてはてブをボーっと見る
【ズブズブ】
【強行パターン】
・「さすがに飽きた」とつぶやいて死ぬ
どれもこれもキツイし先がない
そしてできれば、多幸感に包まれるようなサービスやコンテンツがもっとほしいね
猫カフェとかどうなんだろ
つかそもそも何でこんなことになったんだっけ・・・あ、生まれつきか
しあわせになりたいね
______
追記:
感情移入しすぎてだめなのよ、かわいそうになる