
はてなキーワード:坂崎とは
カクヨムでは以前から公式の百合コン企画が開かれていたが、賞金アリで書籍化を目指す公募は今回が初となる。
これまで百合小説を百合小説として評価してくれる賞といえば基本的にpixivの百合文芸コンテストしかなかったので、今年度はこれに加えて零合の百合文芸コンテスト、そしてカクヨムの百合小説コンテストが追加されて、百合小説の投稿先の間口は大幅に広がったと言えよう。
また、ここ数年、芥川賞候補にもなった坂崎かおる氏をはじめとして、南木義隆氏、カスガ氏などpixivの百合文芸で存在感を示していた作家が各所で活躍しており、文壇に認められつつある。さらにライトノベルの分野でも百合作品は増え、もはや百合ラノベの大家と化した入間人間氏の作品がまたヒットするなど百合界隈の明るい話題は多い。
しかし、百合小説の市場がイケイケドンドンかと言うとそうでもない。
先述したpixivの百合文芸は以前は複数の出版社などが参画して開催されていたが、今年度は百合姫編集部とpixiv編集部だけの体制となり、百合文芸マンガ原作コンテストへとリニューアルした。もともと回を重ねるごとに参画する出版社が変わっていったことも鑑みると、残念ながら百合小説の出版そのものは目覚ましい成功というレベルに届かなかったと考えられる。
そして今回の本題のカクヨムの百合小説コンテストだが、こちらも百合小説が置かれている微妙な立ち位置が垣間見える。
カクヨムの百合コンの応募要項が発表されたとき、度肝を抜かれたのは各賞の渋さである。なんと受賞枠は大賞が1作品、3つの部門賞も各1作品。これだけである。該当作なしの可能性も注記されているので、受賞する可能性があるのは0〜4作品。これ、「複数作品」としておいて結局1作品や該当なしでも怒る人はいないのだから、とりあえず余裕を持って複数作品としておいても損はないのでは……? と思うのは素人考えか。
さらに、大賞は「出版を検討」。部門賞は出版の「し」の字もない。つまり1作品も出版されない可能性もある。また、1次審査通過作品とかも公表されず、受賞作だけドンという発表体制であることもわかっている。百合という比較的ニッチなジャンルの賞とはいえ、なかなかの渋さというか、景気の悪さだ。
賞金額も景気が悪い。大賞が賞金5万円、各部門賞はアマギフ1万円。これはpixiv百合文芸の大賞が10万円、零合百合文芸の大賞も10万円であることを考えると、まあ、単純比較で少ない。それに、商業化のスキームが盤石とはいえないpixivやほぼ同人誌のようなところからスタートしている零合に対して、天下のKADOKAWAが賞金額で後塵を拝するというのはメンツ的にどうなのか。
いや、別にKADOKAWAの面子を老婆心で気にしてあげているわけではなくて、メンツを保てる程度の予算すら回せてもらえていない様子の(カクヨム百合コンを企画する)ファンタジア文庫『GirlsLine』の体制が心配になってしまうのだ。まあ、GirlsLineは若手の百合好き編集者が運営しているようなので、もしかするとまだまだ熱意先行のベンチャー企画という不安定な位置付けなのかもしれない。
こういう風にいちいち悲観的な見方をしてしまうのにはもう一つ原因があって、GirlsLineの立ち上げ時から宣伝されていた『放課後の教室に、恋はつもる。』が「売上が2巻発売の基準に至らず、一旦ここで打ち切り」(https://kakuyomu.jp/users/hibi_tsuzuro/news/16818093090391672268)ということで、紙の書籍としては1巻打ち切りとなってしまったことがある。
このことが百合コンの渋さに影響したかどうかは当然わからないが、やはり百合というだけで一定の売り上げが見込めるほどの市場にはなっていないことが可視化された感がある。もちろん、この出版不況で百合に限らずどんな作品でも打ち切りの憂き目に遭うのは珍しいことでも何でもないが。
色々と前途多難が透けて見えるものの、とにかくこのコンテストが成功して、百合小説の市場としての確立が進むことを願ってやまない。
明治時代に新撰組が庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌の記事だとか読み物だとかを抜粋していく。
『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄と明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士近藤勇」とある。
近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。
同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。
このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。
まずは近藤勇について。
近藤勇は武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる
新徴組と間違えられとるやんけ!
新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。
土方歳三も紹介されている。
土方歳三は幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。
新撰組について何も触れられてねえ!
とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。
『汗血千里駒』は坂本龍馬を主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬の暗殺犯として近藤勇が登場する。
縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと
近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品に踏襲されていったようだ。
当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん
時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。
偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん
お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。
こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。
近藤勇の話
江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。
武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護の干将莫耶とは成りたりけり。
めっちゃ褒めるやん。
土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。
国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。
コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。
著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。
是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三のことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。
として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三の少年時代」が掲載されている。
婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇の知名度は高かったのだろうか。
花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。
かっこいい。
松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組を講談の主人公とした最初期の人物だったという。
巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体に成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇と海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱。
本編では、坂本龍馬を暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸で近藤勇と坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。
『少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌に掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。
人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷、大久保、坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中、龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。
として近藤勇と土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。
前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司や永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組十勇士伝』には登場する。
ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。
芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹、伊東甲子太郎との敵対、池田屋事件などのエピソードはある。
また、こちらでは龍馬暗殺が近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。
京都見廻組の佐々木只三郎らが龍馬を暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。
京都の観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組に言及がある。
節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇、土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない
当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派の武装集団なので新撰組とは正反対の存在である。
単なる勘違いなのか、それとも庶民のあいだでは混同されていたのか。
松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。
こちらには沖田総司・永倉新八・斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、
中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした
とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。
同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『近藤勇』(デジタルコレクションには1975年の復刊版である『新選組実戦史』しかない)にも同様の記述がある。
そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。
・明治の始めにはまず「近藤勇」個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。
・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬を暗殺した男」として近藤も知名度を上げた。
・近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。
・近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。
・しかしエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。
・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇を主人公とした講談が演じられるようになった。
・明治末にはさまざまな証言や資料が揃ってきてディテールが深まり、近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。
メシ通と言えば、はてなブックマークに毎日エントリが上がってくるメシテロサイトだが、
その魅力はなんといっても、”その界隈のプロ”らしき謎のマニアたちの存在である。
メシ通にはうどん、カレー、そば、ラーメンと様々なジャンルのマニアが出てくるが、
いずれの記事にも共通するのが「消費量」によってマニア度を訴求してくる点である。
彼らは「年間300杯」のうどんを食べたり、これまでに1000軒の飲食店を訪問していたりする。
ウェブで目を引くタイトルを作るときは、数字で具体例を示すのがセオリーだ。メシ通もそのセオリーにのっとっているのであろう。
しかしまあそんなマニアによる記事をたびたびはてブで見ていると、なんだかその数字のアピールも含めてなんだかおもしろくなってきた。
いったいメシ通にはどれだけのマニアがいるんだろう。
調べられる範囲でまとめた。スクレイピングとかよくわからないから「年間」「杯」「軒」とかで検索してまとめた。
基本的にはマニアが紹介する記事をメインでまとめているので、ライター自身がマニアを自称していたり、
「マニアにはたまらない」「マニアの間で有名な」といった紹介記事は無視している。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/cocolo/19-00036
年間だと500杯くらいですかね。1日2〜3食とか、1食程度のときもあって日によっていろいろですが、毎日食べています。地方に行ったら1日で10軒回ることもありますよ。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/_futsukayoinotakahashi/19-00265
週に3日そばを食べる人ならわりとその辺にいる気がしないでもないが、これまでに回った店を2000軒データベース化しているという。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/sobattodan/18-00238
学生時代からそばを食べ歩いているというマニアが、""格式張らず、手軽に食べられる、家庭料理の延長のようなそば"である「大衆そば」を紹介する記事。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/another/19-00004
ケバブ、美味しいですよね。
うどん、そばのマニアと比較すると若干訪問件数が少なく感じる気もするが、
日本におけるケバブの立ち位置を考えるとこんなものなのかもしれない。
この方がケバブ歴40年に達したころの日本のケバブ事情がどうなっているのか、気長に待ちたい。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/soryusizm/19-00099
「お肉博士」と「お米ソムリエ」の資格を持ち、グルメエンターテイナーとして年間でおよそ1,000店舗ものお店を自腹で食べ歩き
特定のジャンルを偏食しているわけではないが、1日3食、すべて外食らしい。
胃もたれしないのだろうか。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kentaro-takaoka/19-00014
おそらく今年の8月に餃子継続1000日目を達成しているだろう。
ぜひともこのまま40年間続けてみてほしい。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/oishiisekai/18-00172
測量の仕事で全国を飛び回って外食しているうちに、ハンバーグ縛りプレイをすることになったマニア。
この手のグルメマニアは外回りの仕事からそのままマニアになっていく展開が多い気がする。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/masayoshi-hayashi/19-00234
そこからずっと年間200個ペースで食べ歩きしながら、いつか店やりたいなー、って
食べ歩きは多分16、7年ぐらい続けてたんですよね。そう考えると3,000食ぐらいっすかね。
バーガー店の集まりでインタビューしている記事。ライターも年間300食以上ハンバーガーを食べる、とマウンティングを返している。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/editorial/19-00235
泊まったホテルはのべ120軒以上。バイキングのメニューから、味、サービス、その他気づいたことなどをつぶさに記録している
記録し始めたのが今から3年ほど前です。
ビジホの朝食なら営業マンのオッサンでも詳しそうな気がしないでもないが、
こうやって記録して残せる人がマニアとして有名になっていくのだろう。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/oishiisekai/18-00314
人に借りた軽バンで日本全国200軒ほどのドライブインを巡り、知り合いの編集者と書籍化も模索したが、そのときは出版社に企画が通らなかった。
ドライブインの自費出版誌の著者に対して食事をテーマにインタビューした記事。
テーマがテーマだけに、ほかのマニアの記事とは少し毛色が違うが、硬派で味がある。
ttps://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/maiko-kudou/19-00103
こちらもマニアとはちょっと毛色が違う記事だが、「伝統工芸かつ営業力に困っている産業」のために、
専門店を立ち上げる経緯が書かれている
以上。
「年間数千杯」系のタイトルが目を引くので多いと思ったが、そういうわけでもなかった。
カレーやラーメンといったメジャージャンルのマニアが未登場なのも以外だった。
(東大のスパイス研究家の記事は食べ歩き系のインパクトがなかったので割愛)
元々の意味は「(相手の気持ち、望むことを)思いはかって」行動するというものなので、
決してマイナスなことだけではないはずだけれど、
大物政治家やら、大手芸能事務所やら、権力を持つものに迎合するような
正直良い印象を感じることは少ない。
そんな中で、昨夜、思わず「ナイス忖度!!」と叫びたくなるような出来事があったので記しておきたい。
一日中、そのテーマに関する音楽をかけ続けるマニアックな番組だ
ラジオを聞かないという人でも、なんとなく知っているという人も多いかと思う。
今春までNHKの朝のニュースの顔であった阿部 渉アナウンサー
実は学生時代からのガチなオフコース、小田和正ファンでもあるらしい。
通常、この〇〇三昧というシリーズでは、
そのテーマやアーティストにまつわるゲストがスタジオに多数登場し、
昼から夜までほぼ出ずっぱりで、
その他のゲストは一切なし!!
年に一度、TBS系で放送される「クリスマスの約束」を除いては、
が、そんな番組にもかかわらず、
その曲にまつわる話をしていく
さらに同時代に活躍した元チューリップの財津和夫さんといった音楽仲間
心地よい歌の数々に癒されながら、
仕事を続けていたら、
終盤にさしかかった夜9時前
オフコースとして1982年まで一緒に活動した鈴木康博さんが登場したのだ。
これはだ。
例えるなら先日のabemaTVにおける元SMAP3人と森くんの"21年ぶりの邂逅とでも言おうか・・。
当時は大学進学率も低く、
音楽の道で夢を追って生きていくなんて・・とかなり咎められたそうだ。
当時のインタビューによれば、
そうした親や周囲の反対を押し切って進んだ道だからこそ、
絶対に「成功しなければならない。」という意識を強く持っていたそうだ。
全てを投げうって音楽の道をまい進する決意を固めた二人は、
二人組として活動した。
「眠れぬ夜」、「愛の唄」など今もよく聞かれている名曲もたくさん生まれているし、
それなりにファンもいたのだが、
「(当時)よく一緒にライブに出ていたが、オフコースの方が先輩にもかかわらず、
(さだの)グレープの方が先にヒット(精霊流し)して有名になってしまい、
前座のような状態にさせてしまって恐縮していた。」というような話が出てきていた。
苦労時代が長く続いたあとで、
一気にブレイクを果たした。
長く続いた二人時代は二人の関係は対等で、作品もそれぞれ作っていた。
(男二人にかかわらず)
である。
私はそれを言うなら、本来、日本のレノン=マッカートニーだろ!!と思うのだが、
それこそ同時期に、同じ東芝レコードに在籍したチューリップのレコードに、
財津和夫さんが「和製ポールマッカートニーを自認」と書かれているので仕方がなかったのかもしれない。
それはさておき・・
事実、1982年6月の武道館コンサートを最後にバンドから離れ、ソロへと転向する。
結局1989年にバンドを解散し、その後、本格的にソロ活動を開始。
そして「ラブストーリーは突然に」を手始めに、
「ヤス(鈴木さん)が抜けた時点で、もはやオフコースではなかった」と認めており、
「僕らではヤスさんの抜けた穴は埋められなかった」と語っている。
脱退後、二人の間では交流はなくなった。
もともとは同級生で友人だったはずだが、
飲みに行ったり、一緒に出掛けたりといったこともほとんどなかったという。
実際、脱退の直後には、
鈴木さんが「別に友達ではない。電話番号も知らない」的なことを言っていた時期もあった。
そこだけ切り取ってよく不仲という見方もされるが、
どちらかといえば、仲のいい友達同士というよりは互いに一目置き、
切磋琢磨して、真剣に音楽に向き合ってきたライバルであり、仲間だったのだろう。
(そのへんもなんだか、最近のSMAPの一件と重なって見えないこともない。)
とはいえ、
小田さん・鈴木さんの両者と仲がよく、共演するミュージシャン仲間がいたりもして、
実際に数年前、TBSの「風のように歌が流れていた」というテレビ特番の中で、
暗にオフコース再結成は「もう、ないよ」と否定する発言もしている。
誰かが再びくっつけてくれることを、
ファンとしてはどこかで期待していたのだけれど、
それがまさに昨日で、
事前に小田さんにはまったく知らせていなかったらしく、
本当のサプライズであったようで、
「すごいところをついてきた」、「消化するのに時間がかかる」と動揺を隠せず、
そのあと思わず涙がこぼれていたようだ。
オフコースとして一緒に音楽をやっていた時代が今では「宝物」に思えるとし、
あの澄んだ歌声や才能が羨ましかった、たくさんのことを教えてもらったと、
当時どんな想いで小田さんとその音楽を見つめていたかを振り返りながら、
最後は(お互いにいい年となったけれども)
「もう一度いっしょにやろう、再結成しよう」みたいな発言は一切なし
それでも・・・、雪解けというか、
35年もの間、伝えられなかった気持ちが伝わった瞬間というか、
人の気持ちを思いはかることはとても難しい。
でも誰かが動かないと、
昨日はそんなことを考えることができた。
(ごめんなさい。)
『ドラゴンボール』シリーズの大ファン[7]。漫道コバヤシ「映画ドラゴンボールZ 神と神公開記念!出でよ神龍!!SP」(2013年3月24日)にも出演した。野沢雅子が孫悟空の声で吹き込んだ目覚し時計を使用し、ベジータや孫悟空のイラストを書くのが得意だという。月刊TVnaviにて野沢と対談した際、野沢が悟空・悟飯・悟天の会話を実演した時は興奮しながら「対談テープください!」と雑誌記者に頼んでいた。作中のキャラクターを演技の参考にすることもしばしばで[7]、『新選組!』の土方はベジータ、『華麗なる一族』の銀平はピッコロ、『陽炎の辻〜居眠り磐音江戸双紙〜』の坂崎磐音は、普段の温厚さと戦う時の強さとのギャップとかっこよさから、孫悟空を参考に役作りをしているとのこと[8]。
ハぁ?
交響詩篇エウレカセブン 2期OP「少年ハート」より。
http://www.dailymotion.com/video/x2rqdu_eureka-seven-opening-2_fun
ラップ部分で人物紹介、クルーの大半は並べるだけ、ありがちな作中への伏線カットもガン無視、引きすぎ、人物とかストーリーとか最高にどうでもいいのが丸分かりな村木マジクール
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「咲かそう咲かそう」で松田サーカスを空中に咲かせるという常人には出来ない発想
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サビ頭でまさかのマクロス壁撃ちパロを敬史に振るという村木以外には思いつくことすら不可能な神采配。
ちなみにブルージェンダーのOPの時には鴨川に壁撃ちパロを描かせているので、よほどあのOPの板野背動に思い入れがあるらしい
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こだわりに満ちた柿田爆発。柿田と綿密な打ち合わせがあったらしい。溶解した部分と駆動部に分かれた爆発を必要以上にたっぷりと見せる
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とどめの金子サーカス。これを金子に描かせるのが目的だった言わんばかりの神作画。
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コンテ・演出:村木靖
橋本敬史 柿田英樹