
はてなキーワード:地元とは
ロングランと前評判で期待は高かった。チ。にどっぷりハマった者として、映画で魚豊さんの世界を浴びれるのは非常にありがたかった。しかし育児もあり中々映画に足を運ぶタイミングが掴めず、気付いたら地元のシアターでは上映が終わってしまった。県内を調べると、電車で30分の距離のシアターならやっていたので、タイミングを見つけてようやく観に来れた。
見知らぬ土地のため用意周到に早めに来ると1時間前だった。TSUTAYAに寄って本や文具を眺める。ゆっくり本屋を彷徨く時間も少なくなっていた私はその時間さえ愛しいものだったが、やはりここでも台詞回しが最高な魚豊さんによる腰巻が目を引く『スマホ時代の哲学』を手に取っていた。
まだ30分ある。スタバで軽くこの本を読んでから映画を観よう。結局まえがきしか読む時間は無かったが、思えばこの映画の”まえがき”としても非常に良かったのかも知れない。
さて、本題の映画『ひゃくえむ。』の感想だが、有り体に言うととても良かった。どのくらい良かったかと言うと、時間があっという間に感じたとか、涙が止まらないとか、明快かつシンプルな感情を伝える表現は色々あるけれども、私が体験した事実を書くと、この映画で初めて、終わった後に足に力が入らずフワフワと漂うようにシアターを出て駅へと向かい、ホームでこんな長文の感想文を書いていることだ。私は比較的映画を観る方だが、大抵はまずネタバレ有りの感想をスマホで検索し、表現に長けた人々の感想や考察を読み浸っては、ウンウンそうだよね、なるほどそういう見方、と情報と感情のやり取りをインターネットの向こう側の人にそれを求めた。だが今回は違った。何故なら『ひゃくえむ。』は自分の人生を観て、問う映画だった。
海堂の言葉「現実が何かわかってなきゃ、現実からは逃げられねぇ。」…私は現実を見てきたのか?私は何から逃避し、今ここにいるのか?トガシの言葉「ガチになるため」…私はいつからガチで生きてないのだろうか?いや、ガチのつもりだった。毎日毎日、精一杯生きてるつもりだった。正社員でワンオペ育児。それは毎日生きるだけでもガチではないか。いや、じゃあこの人生がガチだったとして”所詮こんな人生”…なのだろうか…?30代も後半になると、自分の人生の順位がぼんやり見えてくる。「あぁ、何者にもなれないのだな。」私は予選敗退。大学の時好きだったthe pillowsの大好きな歌詞が頭に流れる。「歴史には価値のない 化石の一つになるのさ」もはや、私は私の人生にガチになるより、もう、子供に託すべきでは?では私の人生とは一体ーーー?
トガシが公園で泣き崩れる場面で、私は自分のこれまでの人生を観た。小学校時代に転校して田舎のイントネーションを笑われたこと。中学でいじめに遭い不登校になったこと。勉強さえ頑張ればV字復帰できると信じて勉強に打ち込んだこと。第一志望だった大学ではろくに学ばずバイトや性愛に明け暮れたこと。それらしいコトを言って推薦で大手メーカーに就職したこと。新卒らしく生意気で尖った発言をしながら土日も仕事に明け暮れたこと。子をもうけ、感情ジェットコースターに苛まれること。女という性に生まれたことを恨み諦めたこと。そして今、”何者にもなれないなりに日々ガチで生きてる”と錯覚していたことに気づいたこと。
『スマホ時代の哲学』のまえがきだけの知識で言うなら、ニーチェ曰く「なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている」らしい。そしてこの映画はまさに自分の逃げと対峙させるための映画だった。『スマホ時代の哲学』では、哲学を人生で”経験”にするには蜂に刺されるような感覚を伴う必要があると(正しい表現でないです)。だから、『ひゃくえむ。』を観ただけでは、私が私の現実に向き合い、何にガチになり、何から逃避するかを決定することはおそらくできない。ただ、蜂が部屋に突然現れた時のような緊張が、確実にこの映画にはあった。蜂をうまく逃すのか、駆除するため奮闘するのか、刺された痛みに眉間に皺を寄せながらも、それでも立ち上がるのか。
人生は私の手の中にある。それを再認識させる映画だった。私は私の人生をガチで変えてやりたい。
おわりに、映画『ひゃくえむ。』は興収7億を突破したらしい。チ。に続き、人生を変えるきっかけをくれた魚豊さんに敬意を示すとともに、こんなふうに文章で自分の気持ちを表現するのは慣れていない(理系なのでと言い訳する)ため、ここまで感想を読んでくれた方に感謝します。『ひゃくえむ。』最高!とりあえずまえがきしか読んでない『スマホ時代の哲学』と漫画『ひゃくえむ。』を読むぞー!それに『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』も楽しみだー!!
人生に飽きてきた
6歳の時に父を亡くした、交通事故だった
中学を卒業してからは地元の先輩の紹介で現場仕事をしながら高校に通った
一番にはなれなかったが、後悔はなかった
母も地元の友人も喜んでくれた
母がパートの給料を10年間貯めてくれたお陰で週一は塾に通えた
家計が苦しいことはよく分かっていたので、試験で思うように結果が出ない時期は心が苦しかった
受験は東大を受けたが当然落ちた、結果を報告した時の母の悲しそうな顔は忘れられない
高校3年間働かせて貰った社長に受験の結果を伝えると、「ウチで働かないか」と言ってくれた
当時は免許を持っておらず仕事に支障をきたしていたこともあり、社長から卒業祝いとして免許を取れるだけのお金をいただいた
(先輩は学生時代に無免許でパクられており、数年間免許が取れなかったらしい)
先輩に近況を話すと「大学には行った方がいい」と熱弁された
お金のことや仕事のこと、社長への恩があるといいやんわりと断ったが、その日の夜には地元中から金を集めてきて「この金でもう一年やって東大行けよ」って言ってくれた
翌日、社長にこのことを相談したら「免許代のことは気にしなくていいからお前の好きなようにやれ」って言ってくれた
仕事の一服の時間に職場の先輩たちが予備校や塾を一緒に探してくれた
仕事のない日は予備校が開く前にドアの前で待ち、閉まるまで勉強した
東大には受からなかったが、関東の国立大学に受かることができた
合格を報告した時に母は泣きながら抱きついて喜んでくれた
職場の社長も、先輩たちも、地元の同級生・先輩・後輩、みんな喜んでくれた
恩なら報いなくてはいけないと思った
家賃光熱費携帯代学費税金、生きてるだけなのに口座残高がみるみる減っていった
飲食店バイトで生活を維持していたが、コロナが流行り、店が閉店した
化学系研究室はあるあるだろうが、とにかく時間拘束が厳しかった
土日も朝から研究室にいないと電話がかかってくるような研究室だった
コロナが明け、ようやくバイトが見つかってからは借金の返済に追われる毎日だった
地元には中々帰れなかったが、大学院を卒業して、祖父母も名前を知っている会社に入ることができた
新卒1年目は分からない事ばかりであっという間だったが、仕事を覚えて、残った借金を返すことに必死だった
幸い、給料は世間一般で言えばかなりいい方で、いつのまにか借金はなくなり、人並みに貯金が出来ていた
年末のボーナスで地元の先輩や現場仕事をしていた頃の社長に金を返してお礼を言えた
お世話になった人たちとご飯に行って、一丁前に伝票を持ったりした
関東に戻れば、朝起きて、働いて、帰って、寝るだけの生活が続く
月末には給料が入り、恩を返す
子供の頃は金がなくて欲しいものは買えなかったし、学生時代は仕事やバイトに追われて時間がなかった
でも、やりたいことも、行きたい場所も、食べないものも何も湧いてこない。
借金を返したり、恩を返したりすること以外自分には何もないことに気がついた
毎日食べるコンビニのご飯も、寝る前に惰性でするオナニーも、いつか喧嘩が絶えなくなるだけの恋人との関係も、勝っても高々数万の為に何時間も使わされるギャンブルも、現場時代の名残りで吸い続けていただけのタバコも全部飽きていた
何かが変わる訳でも、何かを変える訳でもない
恩を返す以外にオレは何をすればいいんだろうか
タイトルにも書いた通りずっとリベラルでそれはこれからも変わんないけど、とりあえず高市政権になってよかったかなってのが今んとこの感想。
もちろん理念的にはリベラルだし、これからも投票行動はそうしていく。(特に夫婦別姓はさっさと導入してほしいかな)
でも、自分自身は日本人男性だし、労働者より資本家側だから、別に彼女の政策方針で損しないんだよね、むしろありがたい。
顧みてよく考えると、自分って政治に関しては自分に直結する利益とは別にあるべき論を求めてたんだねって思う。人類の歴史を考えれば波はあれど、国家に集中していた権利が分散していく方向性は変わらないのだから一喜一憂しても詮無い
AIが発達して1984化ってのは恐れるけど、最早それは保守とかリベラルとかの話でもないような
それに中国の覇権主義的拡張傾向にはリベラルとしても安閑とはしてられないしね。とはいえ、この前の答弁は勇み足だと思うよ、あれは減点だし岡田を責めればいいってもんでもないでしょ。防衛省の役人が一番焦ったと思うよ
外国人系の問題については、排斥寄りの人の気持ちはまあ気持ちとしてはわかるし、湾岸のタワマンなんかもう中国人だらけなんで地元のスーパーも正直うっとうしいよ、日本人の中産階級より教養も品性も感じられない人も闊歩してるしね
でも、経済的には市場としての中国も、労働力としての外国人も欠かせないよ。日本人ってエリート主義よりも、現場主義や手技的な職人芸が好きだけどさ、それこそ製造業の工場の現場行ってごらんよ、外国人労働者いなきゃ回んないよ
このまま円安インフレ・財政拡張・労働者の権利抑制といった方針で行ってくれれば自分の経済的には良し。理念的な部分は後続の政権で確保すればいいやってのが今んとこの感想です
女性初の総理大臣ってのも意味があるしね、今後も頑張ってほしいです。寝ずに頑張ってるらしいし、トップがそういう姿を労働者に見せてくれるのも良いと思う
ずっと東京住んでいたが色々あり西側の廃れた県庁所在地に半年くらい住んでるがカスすぎる
飲食店が本当にまずい。コンビニより美味しい店が一つもない。地元民で並んでるラーメン屋とか行ったけど完食不可能だったぞ。田舎に行けば行くほど味音痴になるんか?昼飯は別に安くもない上にまずい。東京では半年存在することが許されないレベルの店が多すぎる。
飲食店でまずいカレー食ったの初めてだぞ。市販のカレールーで作ったカレー以下のものを店で出すな。そしてそんな店に地元民並ぶな。
田舎であればあるほど人の質も低いのが話がガチでつまらない。テレビの話と噂話と文句以外話題ないのか?話しててもクソつまらないぞ。主体性はないのか?
一応繁華街なんだけど、空気が暗すぎる。老人ばかりで活力がないし、地元企業の働き盛りの歳の人も目が死んでる。一番輝いているのは単身赴任の地元民じゃない大企業おじさんだ。こんな街に若者呼び込もうとするのは泥舟沈む速度を遅くするために若者の未来を捨てろというようなものだ。誰も巻き込まず、税金使わず勝手に沈んでほしい。
軽自動車で左折するときに右に煽ってからハンドル切るな。追越車線を制限速度以下で走るな。カーブではみ出してくるな。ダラダラ右折するな。
そこそこ中国人が来る半観光地みたいなトコ住んでるけど、あいつらで儲けてるヤツは基本的に地元民からは白い目で見られてるな。
きちんとしてる店は良いんだけど、基本的に店のロゴの入ったゴミとか普通にその辺に放置して掃除もしない
自治会や地元の商工会の集まりにも来ない(行くとやり玉にあがるから)
ウォルマート資本の強かった頃はEDLPを全面に打ち出し、平均の安さ=バスケットプライスとしてその存在感を打ち出すものの、だからといって安いだけに留まらず外資色の強みを活かして直輸入でダウニーが安かったり、PBの二本立てしつつNBとの共存も図るなど売場陳列の工夫が見てて飽きなかったものだ。
脱ウォルマートとしての楽天KKR主導により大久保政権が樹立すると「利益の出る食品スーパー」としての主張が強くなる。PB食の幸復活で高単価高利率の食品が出て、その一方で既存店の閉鎖、改装を進める。ここで多くのGMSを潰し、住居用品部門を大幅に圧縮。北海道や九州部門を地元(?)企業に売却、赤羽本社も売却し分散型オフィスに移行するなど経営をコンパクト、スリム化した上で資本投下のしやすさを優先した。
その後、イオン、パンパシ、トライアルが買収に名乗りを上げ結果としてトライアルが買収。本州進出に弾みをつけたわけだが、大久保副会長は早期に辞任。今後の方向性の大きな転換を思わせるが、ぶっちゃけてしまえば、どこが買収しても早期に辞任しただろう。買収先はどの企業もかつての西友がやっていたように手広く商品を取り揃えるGMS寄りの経営を強みにする。
すでにトライアルの衣料品新店舗が改装した花小金井にて出店予定だ。これも、価格帯機能性ともにかつて西友のGMSが取り揃えていた衣料品部門の焼き直し以上の価値はないだろう。西友に限らずイオンやヨーカドーの衣料品売場というのは実用重視で価格も手頃。同じ商品でも包が変わるだけで売れてしまうのが経済だったりするものだ。
大久保政権で企業を圧縮しなければ買い手はいなかったかもしれず、これは西友が再びかつての姿を再生するための必要な措置だったのかもしれない。
しかし299円のカツ丼はマズい。あれが売れてしまうというあたりが、国民の生活の貧しさを思わせてならない。
私は東大卒である。現役で東大に合格し、その後大学院まで出てから就職した。
東大と言うと、難関中高一貫校出身とか、ずっと塾や予備校通いで凄く先取りして勉強してたとかイメージされることも多いと思うが、私は全く違った。
私は地方の一般的な家庭出身(両親はどちらも大学に行ってない)で、中学は普通に地元の公立だった。というより先輩にも同級生にも中学受験をするなんていう人は一人もいなかったので、小学生当時の自分は中学受験というものの存在すら知らなかった。
高校も普通の公立高校だった。実家から自転車で通える距離で進学校というだけの理由だった。別に県内トップでもなくいわゆる「自称進学校」で、文武両道を掲げるけどどっちも中途半端みたいな地方によくある公立校だ。
だから有名な進学校のように高3までの内容が高2のうちに終わるみたいなのは全く無くて、むしろ科目によってはセンター試験が終わってもまだ全範囲が終わってないというレベルだった。
高校時代も1年生の間は勉強なんてせず部活ばかりやってた。別にレベルが高い部活じゃなくて(むしろ地区予選1回戦を勝てたらラッキーレベル)ただ友達と単に楽しくてやってただけで、テスト前の部活禁止期間でも隠れて練習してたり部室で駄弁ってたりしてた。
高2の夏になって急に勉強したくなってやり始めたが、それでも家ではやる気が出なかったので平日は放課後に学校に残って下校時刻まで1日2,3時間程度、土曜は学校の自習室で半日程度勉強してただけだった。日曜はリフレッシュ日として受験期までずっと勉強しない日に設定していた(なんだかんだ最後の方は模試とかで潰れたけど)。
予備校には模試を受けに行った以外は一度も通っていない。通信教育や家庭教師も無し。自分で情報を得て自分で市販の教材を買って勉強してた。
それでも現役で東大に受かった。点数も合格者の平均点を超えていたので結果的には余裕だったと言えるのだろう。
自慢とかマウントとか取られても別に良いけど、これが私から見た事実だし、私にとって「普通」の人生だった。
小中学校の勉強なんて授業さえ聞いていればテストで満点取れるのが当たり前、高校だって授業聞いて教科書読めば理解できないことなんて一つもないし、ネット上に転がっている勉強法や受験指南の情報を参考に勉強すれば誰に教わる必要もなかった。
だから小学生のころから毎日塾に通って寝る間も惜しんで勉強して中高一貫に進み、そこからも予備校に通ってずっと勉強・・・なんて本当に必要か?と思う。
とりあえず授業だけ真面目に聞いて普通について行けてさえいれば高校から自分の意思で勉強したって難関大ぐらい入れるし、むしろ子供の頃なんて沢山遊んで経験を積んだり体力を付けたりする方が受験の面でも得なんじゃないかな。
・・・いやまぁ実際は分かってるんだよ。世の中の人たちって別にみんな私と同じぐらい勉強ができるわけじゃないということは。
授業だけ聞いていればテストで満点を取れるというのが当たり前じゃないことも分かってる。真面目に勉強してても中々成績が伸びない子がいるもの分かってる。
それでも私は私の人生しか経験していないので、そうでない人の気持ちは本質的にはどうしてもわからない。分からないから、子供のうちから勉強勉強で受験戦争に巻き込まれる子たちが可哀想だなぁと素朴に思う。ただそれだけの話。
Permalink |記事への反応(27) | 10:56
わーくにの高市早苗首相の台湾有事の関する国会答弁に端を発し、中国が意趣返しして来た
【速報】中国主要紙、社説で沖縄の日本帰属を疑問視|47NEWS(よんななニュース)
https://www.47news.jp/13477637.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.47news.jp/13477637.html
https://opinion.huanqiu.com/article/4PCD9cRy1Gx
最近、福建師範大学が創設した先駆的な中国の「琉球学」学科プロジェクトが国家の承認を受け、正式に始動した。国内外で広く注目を集めている。沖縄諸島の地政学的位置、戦略的選択、そして将来の進路は、琉球自身の運命に関わるだけでなく、周辺諸国・地域の安全保障上の懸念にも直結する。近年、中国国内外の学界で琉球(沖縄)問題への関心が高まり続けており、研究成果も次々と現れている。そして今や学科体系の構築へと発展し、「琉球学」の成立は自然な流れである。
沖縄諸島は中国台湾島と日本九州島の間に位置し、中国福建省と海を隔てて向かい合う。1372年、明朝と琉球は正式に宗藩(冊封)関係を確認し、琉球は中国を正統と仰ぎ、中国は「厚往薄来」 (訳注:持っていかせる贈り物は多くし、持ってくる贈り物は少なくする。中国からの賞賜は厚くし、琉球からの進貢物は薄くすること) の政策で琉球を厚遇した。1609年、日本の薩摩藩が侵攻し領属に組み込んだが、琉球は一定程度、中国との冊封関係を維持した。1872年、日本明治政府は一方的に「琉球藩」を設置し、併合への第一歩を踏み出した。1879年には武力による脅迫で琉球藩を廃止し、沖縄県を設置、琉球王国は日本に正式に併合された。1945年、日本の敗戦後、米軍が沖縄諸島を占領し、行政機関や公式文書で「琉球」という名称を使用した。1972年、米日間の私的な授受によって琉球の施政権移譲が完了。その後、沖縄諸島は日本の管轄下に置かれ、「沖縄県」と改称された。1879年以降今日まで、沖縄諸島の主権帰属をめぐる歴史的・法理的争いは常に存在している。
「琉球学」とは、琉球の地理、政治、文化、中琉関係史、琉球の東アジア関係史などを総合的に研究する学科であり、中国学、韓国学、日本学と並列されるもので、単なる区分ではない。その核心は琉球の歴史、文化、対外交流など多角的な研究にある。歴史面では、琉球の起源、明清との冊封関係、日本による併合過程などを含む。文化面では、琉球語、服飾、建築、音楽、宗教信仰などを扱う。対外交流面では、経済往来、朝貢貿易、周辺国との相互作用などを含む。さらに近現代の「琉球問題」研究にも重要な意義があり、琉球の地位、社会現状、米軍基地など現実的課題の議論を支える。
「琉球学」は「スクラップ・アンド・ビルド」を兼ね備えた研究である。「建造」とは、中国と琉球の冊封関係の歴史的実相を体系的に構築し、東アジア伝統外交体制研究を補完・充実させること。「破壊」とは、日本が一方的に行ってきた併合史観の一面的な叙述を解体すること。例えば、日本の一部は「日琉同祖論」を大々的に宣伝し、琉球王国への武力併合を認めず、琉球王国を独立国家として認めない。また、日本政府は琉球に対して差別と同化を併行して進め、琉球が日本のために払った犠牲を「制度化」「正当化」しようとする。こうした誤った叙述こそが、日本が琉球に同化政策を実施する論理的基盤となっている。
現在、日米は沖縄諸島の「軍事要塞化」を加速させており、こうした動きは地元に「新たな沖縄戦」への深い不安を呼び起こしている。住民は自らの故郷が再び日本の「盾」となることを懸念している。「琉球学」の研究は現実的意義を一層増している。近年、中国と日本双方で琉球問題をめぐる重要な研究成果が相次いでおり、今後は東アジアさらには世界的な視野へと拡張し、戦後から現在に至る時間軸へも延伸するだろう。学科体系・学術体系・(:訳注政治的)言説体系の協同発展を推進することで、東アジア地域文化の共生・包容に新たな意味を注入する。
「琉球学」が「絶学(訳注:マイナーだが無くてはならない学問)」として国家レベルでの学科支援計画に選ばれたことは、中国学界が学術的理性をもって東アジア歴史叙述の再構築に参加していることを意味する。中国の「琉球学」研究はこれまでの散発的で断片的な状態を脱し、今後は体系化・融合化・国際化の方向へ発展するだろう。この研究の意義は学術的拡張にとどまらず、地域平和の持続的維持、歴史的正義の伸張、中国が複雑な地政学的構図の中で、(訳注:政治的)言説体系を構築することにも関わる。歴史の脈絡を深く掘り下げることで、未来に向けてより包容的で持続可能な共存の道を見出すことができる。
彼の出る舞台は必ず見に行くし、イベントがあれば必ずチケットを取って、グッズが出れば買って、雑誌もほとんどは購入している。所謂、強オタではないがそれなりに熱心なファンではあるだろう。
劇場に通い続けていればそれなりに知り合いも出来るもので、私の顔を知っている人もこの3年で随分と増えた。下手な地元の友人よりも会っている。面白くて、大好きで、信頼している最高の仲間だ。
隠してはいるが、芸能関係の裏方の仕事を私はしている。芸能人に会って話すことも多くあるし、下っ端の身でもコミュニュケーションを普通に取ることもある職だ。
勘違いはされたくないのだが、彼の近くに行きたくてこの仕事についた訳ではない。むしろ彼を好きになった方が後だ。(進路を変えなかったのは自分のため、咎められれば何も言えないが)
スタッフロールに名前が載るようになって、改めて自分で見た時に気がついた。
"私の本名を知ってるオタクにバレたら色々とまずいことが起きる"
俳優のオタクをやっているようなやつが俳優の近くにいて、普通に一緒に仕事をしているのだ。オタクからすればたまったものではない。嫌がる気持ちは私にも分かる。
スタッフロールを普通の人はほとんど見ないし大丈夫、と事情を知っている友人に言われたこともあったものの私がスタッフの名前をネットで調べるようなストーカー気質だったせいで変な怖さがある。今は下っ端でパンフレットの1番後ろにちょこっと名前が載るだけで済んでいるもののこの先もしもこの仕事を続けていくのなら、名前が前の方に出てくる可能性も大いにある。それが怖くて仕方がない。
自分の名前は珍しいものではないものの、漢字の当て方がかなり珍しく、その漢字の名前は自分しか見たことがない。本名を知っている人が見れば一発で分かる。
その上、この3年の交流で顔を覚えてくれている人も多い。地元でオタクの知り合いに声かけられた時は流石に驚いた。
私は人の顔を覚えるのがかなり苦手なため分からないが、覚えることが得意な人にとってはかなり私は覚えやすい顔らしい。本当に勘弁してくれ。
オタクの友人たちのことは大好きだ。劇場へ行って、友人たちと会って、観劇して、俳優の話をしながらご飯を食べて。そんな時間がとても好きなのだ。正直オタクの友人たちと会うために行っている現場も割とあるぐらいには。
けれど、自分がなんの仕事をしていて、どういう立場かバレればきっと友人たちとはこのままの関係ではいられなくなる。身の安全を考えれば、彼のオタクもしてられなくなる。
メンタルを崩した時に助けてくれたのも、就職が決まった時一緒に喜んでくれたのもオタクの友人たちで、そして、推しの彼の言葉や活動に救われた日が多くあって。
仕事はしんどいが、やめたいとはなかなか思えない程にやりがいはある。この先もずっと続けていたい。出世もしたい。
けれど、彼に魅了されて、何度だって会場に足を運びたくなって、オタクもしていたいと思ってしまうのも自分で。
だからこそ、いつか来る終わりが怖くて仕方がない。
大学で出るまで育った地元は寂れた片田舎って感じで、特に荒れているとか治安が悪いとかは聞いたことが無かった
そこで平凡に育っていたんだけど、ある時友人らと捨て猫を見つけ、興味半分で友人達と一緒にご飯を上げたり、段ボールで簡単な寝床を作ったりしていた
ある時、猫がいるであろう寝床に行くと、その猫が血塗れで殺されていた
思わずビビって逃げ出してしまったんだけど、当然猫が死んでいることは、狭い町だからすぐ事件になって分かったし
正直に、怖くなって逃げ出した事、見られたと思って犯人だと疑われると思うと怖くて言えなかったと正直に言った
それで納得してくれたのかどうかは分からないけど、以降警察の人は来る事は無かった
俺はすっかり猫殺し野郎という噂が学校中に出回って、無視され、イジメられる様になった
ある時、学校からの帰り道に同級生の数人に囲まれ、その中には殺された猫を一緒に育てていた奴もいて
その時に棒で強く殴られた片目は今でも悪く、失明こそしてないが極端に視力は悪い
同じく複雑骨折状態になった片足も、今でも軽く障害が残って、日常生活を送れない程では無いが早く走ったりは不可能
どっちも中途半端な状態だから、免許は取れないし足の問題で体を使った仕事も出来ず、日常生活から職業選択まで
かなりの制限があって苦労しているけど、障害認定はされず、不便な体で不便に生きている状態
そんな地元には嫌な思い出しか無くなったから、地元を出て以降はロクに近づかず、帰りもしなかったんだけど
先日、体を悪くした母がいよいよ危ない状態で、すぐ帰って来いって連絡が入った
連絡を受けた時、率直に「帰りたくない…」って思ってしまった
そんな事を思った自分に驚いた
俺は帰らなければならない筈なのに
地元には苦い思い出しか無いけど、母親の大事にすら帰るのと躊躇する程の苦手意識が強烈だった事に、我ながら驚いた
苦い思い出が地元への足を遠ざけている
さすがに帰らない訳にはいかないのだけれども……
26歳。高卒で地元に仕事がなくて、コロナの頃に東京へ出てフリーターをやっていた。だけど都内も物価が上がり続けて、家賃は高いまま。時給もあがったものの結局いまも正社員にはなれていない。年収は300万に届くか届かないか。いわゆるワーキングプアじゃない、と言い聞かせてはいるが、生活はギリギリだ。
実家は稲作農家だけど、昔から「農業だけでは食っていけない」って聞かされていた。農業収入は年間100万ちょいで、親父は工場で長年働き、おふくろはパートに出て、なんとか俺ら兄弟を育ててくれたらしい。子供に金がかからなくなったのと、地元の工場が再編で早期退職を募ったのが重なって、親父は60手前で工場を辞めた(ほぼ辞めさせられたようなもんだ)。今は稲作一本で、補助金を使って規模を少し広げて、年間200万くらい稼いでいるらしい。
だけど、親父ももう60過ぎだし、身体もガタが来はじめていて、最近は帰るたびに「そろそろ戻ってこい」って遠回しに言われる。
実家に帰るとしたら、年老いたじいちゃんばあちゃんに、もう65を越える親父とおふくろを、ほぼ一人で支えることになる。まわりを見ても同じような世帯ばっかりで、実家のある集落はついに“平均年齢60超え”みたいな状態になってしまった。耕作放棄地も増えていて、農地を守るために耕作できる若い人を探すなんて話が普通に出るくらいだ。
だからこそ、ここでいっちょ俺が戻って規模を増やしてやるかなんて考えなくもないんだけど、農家の息子とはいえ、農作業の実戦経験はほとんどないし、正直、自分一人で回せる気がしていない。これからはスマート農業だっていっても機械は高いし、補助金を使っても借金背負うのは事実だし、これからの先行きを考えるとどうにも踏ん切りがつかない。
コメだけで食っていくのは相変わらず厳しい。輸入は安いままだし、日本の人口は相変わらず減る一方で、国内の米需要は伸びる余地がない。実家のあたりが南魚沼みたいなブランド米産地ならまだ勝負になるけど、うちはただの地方の田んぼだ。北海道みたいにでっかい規模でやれば採算が合うという話もあるが、国際協定もどんどん進んでいて、農産物価格がさらに下落すれば北海道だって安泰じゃないのは、日豪EPAやTPPの議論で散々言われてきた通り。
じゃあ輸出するかと言われれば、安いカリフォルニア米やオーストラリア米には到底かなわない。そもそもアジアの新興国で食べられているコメはタイ米みたいな長粒種が主流で、日本米みたいな短粒種の需要はまだ小さい。国内の米価はバブル崩壊以降ずっと下がりっぱなしで、スマート農業技術が進んでもコストが下がらなきゃ意味がない。
結局、戦後の農地解放から食料増産の時代を経て、そのあとコメ余りになった中で、うちみたいな零細兼業農家は政治的に保護されながら温存されてきた。そのツケが、人口減と地方の崩壊で一気に噴き出してきているんだと思う。もしかすると、うちみたいな農家は、もうその役割を終えて静かに消えていく時期に来ているのかもしれない。
ちょっと前のhttps://anond.hatelabo.jp/20250930152558 とhttps://anond.hatelabo.jp/20240110155226 に感化されてバーに行ってみた。自分はアラフォーでバーに行ったのは初めてではなく10年ぶりくらい。
会社の人たちとの飲み会の後、駅でトイレに行ってそこで俺一人になった。あの増田を読んでバーに行こうと思ってたし駅の近くに気になっていたバーがあったこともあって行ってみた。気になっていたバーというのはトラックの荷台部分がバーになっているところでたまに通りかかって見ていた。
行ってみると2人連れの客2組と1人客が2人いてほとんど席が埋まっていたけど1人だったから座ることができた。
あの増田が1杯目にすすめていたカクテルのジントニックは飲んだことあって今まで飲んだことないものを飲んでみたかったので「ジントニックみたいな感じだけどジントニックじゃないもの」と言って頼んでみた。それで出てきたのがアブサントニックですごく美味かった。系列店も含めてこのバーではアブサンがたくさんあるということだった。
バーテンダーさんからいつもどこで飲んでるんですかとか聞かれて少し話をしたけど結構次から次に注文があったり会計があったり新しい客が入ってきたりしてバーテンダーさんも忙しそうだった。でも並んでいる酒を見たりカクテル作ったりしているところを見ていて時間をもてあますことはなかった。
次に飲みやすいシングルモルトを頼んだら出てきたのがグレンリベットというウイスキーだった。よくわからないけどこれも良かった。ちょっと高くなるけど地元の静岡蒸留所のもあるということだったので次は飲んでみたい。
この2杯で2500円くらいだったと思う(2軒目だったこともあって記憶が曖昧)。
思ってたっよりも良い経験だったのでまた行きたいし他のバーにも行きたいと思った。
広島。引き上げても8割がカラ。残り2割も不良が多く出荷できない。出荷できるのもSサイズ。
2年かけて育ててるから今年廃業せず乗り切っても来年も絶望。瀬戸内海だけで国内牡蠣の8割を生産してきたから年末の価格高騰する。
原因は水温の高さと濃度。気候変動とかもう努力でどうにもできない。そりゃモニタリングしてきたけどモニタリングしてもどうにもできん。
高温に強い品種を育てるとか完全陸上養殖とかすぐにシフトできなくて莫大な資金と年月がかかる。
農林水産省とか農水族とかって水産の要素弱すぎない?そりゃ地元の政治家は牡蠣のこと考えてくれてるけど基本あいつら農。
みんなで真面目に気候変動なんとかしようや。グレタさんが正しかった。マジでもう牡蠣だけじゃなくて日本の水産が終わる。気温ってどうやったら下げれるの?絶望。
8歳。
保育園の時から好きだった女の子がいた。おしとやかで、可愛らしくて、いつもニコニコ笑いかけてくれていた。小学校に入ると髪を切り、男に混じってドッジボールや野球をするようになった。絶望した。自分の好きだった彼女という概念がこの世から消滅した気がした。同時に「おしとやかで、可愛らしくて」という「属性」でしか彼女を見ていなかった自身の浅ましさにも気づいて絶望した。人は変わる。その変化が自分にとって好ましいかどうかなど関係なくエントロピーは増大し、覆水は盆に返らない。彼女も、自分も、家族も、世界のあらゆるものはいずれ形を変え、崩れていく流動的な現象に過ぎないのではないかと考えた。それは諸行無常の絶望、固定された幸福など存在しないという悟りだった。
留守番中、台所の包丁を腹に突き立てようとした。 刃先が腹に触れる感触がしたところに家族が帰宅した。当時は首吊りも飛び降りも知らなかった。ただ、腹を切ればこの流転する世界から一抜けできると信じていた。
15歳。
生きるのが少し上手くなったふりをしながら、内側から壊れていった時期だった。そこそこ勉強ができた。ただ、通える範囲に進学校と呼べるものはなく、地元の高校に進んだ。当然のように期末テストでは学年1位、模試では県1位を取り続けた。数字の上では順風満帆で友人もいたが、「友人」はいなかった。 周りを見下していたわけではないと思いたい。ただ、見ている景色の解像度が違いすぎたのだろう。自分が100の情報を処理して言葉を選んでいる間に、周囲は3くらいの情報量で会話を成立させている。それは親に対しても同じだった。部活で負った怪我がトドメになった。唯一身体性だけで繋がれていた世界すら断たれた。精神のバランスは音を立てて崩れた。ネットで稼いだ小遣いで、カフェインの錠剤を大量に買い込んだ。錠剤をコーヒーで流し込み、あるいは砕いて鼻から吸った。当然、睡眠のリズムは狂う。脳だけが異常に加速し、身体は鉛のように重い。そのちぐはぐな状態で、脳は刺激と情報を求めてネットの海へとのめり込んだ。
死ぬ勇気も生きる気力もなかった。空白を埋めるように過食に走った。深夜、家族に隠れてスナック菓子やアイスクリームを貪った。嘔吐恐怖症だから吐けない。けれど太って自己管理ができていないとバレるのはプライドが許さない。異常な距離を歩き、街の端から端まで自転車で疾走した。食べた分のカロリーを呪いのように消費した。食欲はさらに歪んでいった。パスタの乾麺をそのまま齧り、茹でる前の素麺を貪り、生の米を噛み砕いた。すり減った奥歯は戻ってこなかった。
そうして思考のノイズが限界に達したある日、どこかのビルから飛び降りたらしい。「らしい」というのは、この時の記憶が欠落しているからだ。何階から飛んだのかも覚えていない。結果的に無傷(ぱっと見は)で誰にも見つからなかったことから推測するに、おそらく2・3階程度だったのだろう。五体満足で生還した。しかし全身の打撲と擦り傷の痛みは長く続いたし、右膝の違和感は今も消えない。思い返すと飛び降りを決意させたと思われる決定的な出来事があったのだが、ここには書けないし書かない。
21歳。
もう書くのも面倒くさい。当時のことはほとんど覚えていない。前後数ヶ月の記憶が綺麗に抜け落ちている。気づいたときにはパソコンの充電コードで首を吊っていた。目が覚めたとき、首にはまだコードが絡みついていた。死ぬ気だったのか、発作的なものだったのか、それすらも分からない。ただ、目が覚めてしまったという事実だけがあった。
27歳。
命を投げ捨てるのは簡単なことだ。こんな簡単なことに3回失敗したのはこの世界から死ぬことを許されていないからだ。そう言い聞かせることで撤退戦のような人生を生きている。周期的に考えれば、そろそろ4回目の波が来てもおかしくない。8歳、15歳、21歳。これは「次」が来たときに同じ轍を踏まないための、あるいは衝動に飲み込まれないための、未来の自分へ向けた戒めだ。