
はてなキーワード:圧縮とは
結論から言うと、「強くなりうるリベラル」は“優しい理想”を捨てて、“冷静な設計者”になる必要がある。
順番にいきます。
でも、有権者が欲しいのは👇
👉「それは分かる。で、制度はどうする?」に即答できる
ここが最大の分水嶺です。
と明確に言えること。
③「守るために切る」を言語化できる
これ、めちゃくちゃ重要です。
これを言った瞬間、信頼は落ちます。
結果👇
支持は急には増えないが、信頼は残る
「じゃあこう直す」を積み重ねる
👉変えるけど、壊さない
これを一貫して出せるか。
つまり👇
「正しい人」ではなく「任せても怖くない人」になること
次に行くなら
👉「日本でこれをやると、どこで必ず反発が出るか」
超弦理論を物理として理解しようとすると、だいたい途中で詰まる。
なぜなら核心は、力学の直観ではなく、幾何と圏論の側に沈んでいるからだ。
弦の振動が粒子を生む、という説明は入口にすぎない。本質は量子論が許す整合的な背景幾何とは何かという分類問題に近い。分類問題は常に数学を呼び寄せる。
まず、場の理論を幾何学的に見ると、基本的にはある空間上の束とその束の接続の話になる。
ここまでは微分幾何の教科書の範囲だが、弦理論ではこれが即座に破綻する。
なぜなら、弦は点粒子ではなく拡がりを持つため、局所場の自由度が過剰になる。点の情報ではなく、ループの情報が重要になる。
すると、自然にループ空間LXを考えることになる。空間X上の弦の状態は、写像S^1 → Xの全体、つまりLXの点として表される。
しかしLXは無限次元で、通常の微分幾何はそのままでは適用できない。
ここで形式的に扱うと、弦の量子論はループ空間上の量子力学になるが、無限次元測度の定義が地獄になる。
この地獄を回避するのが共形場理論であり、さらにその上にあるのが頂点作用素代数だ。2次元の量子場理論が持つ対称性は、単なるリー群対称性ではなく、無限次元のヴィラソロ代数に拡張される。
弦理論が2次元の世界面の理論として定式化されるのは、ここが計算可能なギリギリの地点だからだ。
だが、CFTの分類をやり始めると、すぐに代数幾何に落ちる。モジュラー不変性を要求すると、トーラス上の分配関数はモジュラー群SL(2, Z) の表現論に拘束される。
つまり弦理論は、最初からモジュラー形式と一緒に出現する。モジュラー形式は解析関数だが、同時に数論的対象でもある。この時点で、弦理論は物理学というより数論の影を引きずり始める。
さらに進むと、弦のコンパクト化でカラビ–ヤウ多様体が現れる。
カラビ–ヤウはリッチ平坦ケーラー多様体で、第一チャーン類がゼロという条件を持つ。
ここで重要なのは、カラビ–ヤウが真空の候補になることより、カラビ–ヤウのモジュライ空間が現れることだ。真空は一点ではなく連続族になり、その族の幾何が物理定数を支配する。
このモジュライ空間には自然な特殊ケーラー幾何が入り、さらにその上に量子補正が乗る。
量子補正を計算する道具が、グロモフ–ウィッテン不変量であり、これは曲線の数え上げに関する代数幾何の不変量だ。
つまり弦理論の散乱振幅を求めようとすると、多様体上の有理曲線の数を数えるという純粋数学問題に落ちる。
ここで鏡対称性が発生する。鏡対称性は、2つのカラビ–ヤウ多様体XとYの間で、複素構造モジュライとケーラー構造モジュライが交換されるという双対性だ。
数学的には、Aモデル(シンプレクティック幾何)とBモデル(複素幾何)が対応する。
そしてこの鏡対称性の本体は、ホモロジカル鏡対称性(Kontsevich予想)にある。
これは、A側の藤田圏とB側の導来圏 D^bCoh(X)が同値になるという主張だ。
つまり弦理論は、幾何学的対象の同一性を空間そのものではなく圏の同値として捉える。空間が圏に置き換わる。ここで物理は完全に圏論に飲み込まれる。
さらに進めると、Dブレーンが登場する。Dブレーンは単なる境界条件ではなく、圏の対象として扱われる。
弦がブレーン間を張るとき、その開弦状態は対象間の射に対応する。開弦の相互作用は射の合成になる。つまりDブレーンの世界は圏そのものだ。
この圏が安定性条件を持つとき、Bridgeland stability conditionが現れる。
安定性条件は、導来圏上に位相と中心電荷を定義し、BPS状態の安定性を決める。
wall-crossingが起きるとBPSスペクトルがジャンプするが、そのジャンプはKontsevich–Soibelmanの壁越え公式に従う。
この公式は、実質的に量子トーラス代数の自己同型の分解であり、代数的な散乱図に変換される。
このあたりから、物理は粒子が飛ぶ話ではなく、圏の自己同型の離散力学系になる。
さらに深い層に行くと、弦理論はトポロジカル場の理論として抽象化される。
Atiyahの公理化に従えば、n次元TQFTは、n次元コボルディズム圏からベクトル空間圏への対称モノイダル関手として定義される。
つまり時空の貼り合わせが線形写像の合成と一致することが理論の核になる。
そして、これを高次化すると、extended TQFTが現れる。点・線・面…といった低次元欠陥を含む構造が必要になり、ここで高次圏が必須になる。結果として、場の理論は∞-圏の対象として分類される。
Lurieのコボルディズム仮説によれば、完全拡張TQFTは完全双対可能な対象によって分類される。つまり、物理理論を分類する問題は、対称モノイダル(∞,n)-圏における双対性の分類に変わる。
この時点で、弦理論はもはや理論ではなく、理論の分類理論になる。
一方、M理論を考えると、11次元超重力が低エネルギー極限として現れる。
しかしM理論そのものは、通常の時空多様体ではなく、より抽象的な背景を要求する。E8ゲージ束の構造や、anomalyの消去条件が絡む。
異常とは量子化で対称性が破れる現象だが、数学的には指数定理とK理論に接続される。
弦理論のDブレーンの電荷がK理論で分類されるという話は、ここで必然になる。ゲージ場の曲率ではなく、束の安定同値類が電荷になる。
さらに一般化すると、楕円コホモロジーやtopological modular formsが出てくる。tmfはモジュラー形式をホモトピー論的に持ち上げた対象であり、弦理論が最初から持っていたモジュラー不変性が、ホモトピー論の言語で再出現する。
ここが非常に不気味なポイントだ。弦理論は2次元量子論としてモジュラー形式を要求し、トポロジカルな分類としてtmfを要求する。つまり解析的に出てきたモジュラー性がホモトピー論の基本対象と一致する。偶然にしては出来すぎている。
そして、AdS/CFT対応に入ると、空間の概念はさらに揺らぐ。境界の共形場理論が、バルクの重力理論を完全に符号化する。この対応が意味するのは、時空幾何が基本ではなく、量子情報的なエンタングルメント構造が幾何を生成している可能性だ。
ここでリュウ–タカヤナギ公式が出てきて、エンタングルメントエントロピーが極小曲面の面積で与えられる。すると面積が情報量になり、幾何が情報論的に再構成される。幾何はもはや舞台ではなく、状態の派生物になる。
究極的には、弦理論は空間とは何かを問う理論ではなく、空間という概念を捨てたあと何が残るかを問う理論になっている。残るのは、圏・ホモトピー・表現論・数論的対称性・そして量子情報的構造だ。
つまり、弦理論の最深部は自然界の基本法則ではなく、数学的整合性が許す宇宙記述の最小公理系に近い。物理は数学の影に吸い込まれ、数学は物理の要求によって異常に具体化される。
この相互汚染が続く限り、弦理論は完成しないし、終わりもしない。完成とは分類の完了を意味するが、分類対象が∞-圏的に膨張し続けるからだ。
そして、たぶんここが一番重要だが、弦理論が提示しているのは宇宙の答えではなく、答えを記述できる言語の上限だ。
だからウィッテンですら全部を理解することはできない。理解とは有限の認知資源での圧縮だが、弦理論は圧縮される側ではなく、圧縮の限界を押し広げる側にある。
その反論は文章の型を指摘してるだけで、中身の真偽には一切触れてない。つまり批判としては弱い。
たしかに「◯◯じゃなくて✗✗」構文はレトリックとして強い。対比を作って読みやすくし、論点を圧縮できる。だから雑な文章でも賢そうに見える効果がある。
これを「slop(中身の薄いAI文)」のサインとして警戒するのは理解できる。
でも問題はそこじゃない。
この構文が出た瞬間に内容が嘘になるなら、世の中の論理的説明は全滅する。科学も哲学も経済学も、だいたいこの形で進む。
例を出すと、
「原因じゃなくて相関」
「平均じゃなくて分布」
こういう対比は、概念の誤解を修正するための典型手法。むしろ知的作業の基本動作。
批判の皮をかぶった印象操作に近い。やってることが、まさに工作のミニチュア版。
さらに言うと、この手の「slopサイン認定」は便利すぎて、使った瞬間に勝った気になれる。
しかしそれは誤りを指摘したのではなく、語り口が気に入らないと表明しただけ。
「◯◯じゃなくて✗✗」の多用は、文章が浅い可能性を示す兆候にはなり得るが、反論にはならない。
選挙マッチングという仕組みは、一見すると民主主義の効率化装置に見える。
質問に答えれば、自分と政策的に近い政党や候補者がランキングされる。
政治を知らない人にとっては入口になり、情報格差を縮める便利ツールにも思える。
選挙マッチングとは、政策選好の測定装置ではなく、選好の生成装置である。
測っているように見えて、実際には作っている。
つまりこれは、統計的インターフェースを装った政治的誘導であり、より正確に言えば工作のためのプラットフォームになり得る。
工作という言葉を聞くと、多くの人は陰謀論を連想して思考停止する。
単に他者の意思決定を、自分に有利な方向へ動かすための設計を意味する。
広告も、マーケティングも、SNSアルゴリズムも、すべて工作である。
そして政治は消費よりも致命的だ。
つまり、政治における工作は、単なる情報操作ではなく、社会の支配構造を設計する行為になる。
しかしマッチングは、質問項目を通じて意見を低次元のベクトルに圧縮する。
ここで何が起きるか。圧縮とは情報の破壊であり、破壊される情報は設計者が選べる。
つまりマッチングは「この国の政治はこの論点でできている」というフレームを強制する装置になる。
政治とは本質的に「何を議題にするか」のゲームであり、「どう答えるか」は二次的だ。
しかも選挙マッチングは、その世界観を「中立な診断テスト」の形で提示する。
中立に見えることが最大の武器だ。これは医療診断の権威を政治に転用した詐術に近い。
人間は「あなたはこのタイプです」と言われると、それを自己理解として内面化する傾向がある。
つまりマッチング結果は、単なる推薦ではなく、アイデンティティの付与になる。
たとえば「格差を是正するために富裕層への課税を強化すべきだ」という問いは、一見公平に見えるが、すでに「格差は是正されるべきである」「富裕層課税は是正の手段である」という価値前提を埋め込んでいる。
問いは中立な容器ではない。問い自体が論理式であり、前提を含む。言語は常に誘導する。質問を作るとは、政治的現実の記述ではなく、政治的現実の編集である。
ここで「いや、回答者が自由に答えればいいだけだ」と言う人がいる。
しかしその反論は、情報理論的に幼稚である。人間の意見は、質問形式に依存して変化する。
フレーミング効果、アンカリング、選択肢の提示順序、否定形の有無、尺度の粒度。
つまりマッチングは、ユーザーの「元々の意見」を測定しているのではなく、質問に曝された後の「変形された意見」を測っている。
しかもマッチングは、最終的に「あなたはこの政党と一致度85%」のような数値を出す。
ここで人間は数値に弱い。数値が出た瞬間、それは客観的事実のように見える。
だがその85%は、設計者が定義した距離関数の結果でしかない。重み付けを変えれば順位は変わる。
質問の重要度を均等にするのか、特定争点を強調するのか。政策一致をコサイン類似度で測るのか、ユークリッド距離で測るのか。曖昧回答をどう扱うのか。未回答をどう補完するのか。
これらの選択は数学の衣を着た政治判断である。数値は政治的意思決定の上に乗っているだけで、政治判断を消し去ってはいない。
選挙マッチングが工作になる第二の理由は、二値化による思考破壊だ。
政治的問題の多くはトレードオフである。たとえば防衛費増額は安全保障を強めるが財政を圧迫する。
移民受け入れは労働供給を増やすが社会統合コストを伴う。規制緩和は成長を促すが安全性を下げる場合がある。
現実の政治判断は、複数の目的関数の同時最適化であり、パレートフロンティアの上での選択である。
ところがマッチングは、これを「賛成か反対か」の単純なビット列に変換する。
つまり政策を理解する能力ではなく、反射神経を測るテストになる。こうして政治が「道徳クイズ」へ堕落する。
利害調整、官僚機構の制御、外交交渉、予算編成、法案作成、危機対応。政策は宣言であり、実務は別物だ。
マッチングはこの現実を完全に無視し、「政策の一致度」という最も分かりやすい幻想だけを見せる。
これは、料理を評価するのにレシピだけを見て、調理人の腕も厨房の設備も無視するようなものだ。
ランキングは、人間の意思決定を強制する。上位にあるものは正しい気がする。これは認知心理学のヒューリスティックであり、探索コストを減らすために人間が採用する合理的なバイアスだ。
マッチングはこのバイアスを利用し、ユーザーの投票行動を数候補への収束に導く。
これが何を意味するか。選挙マッチングは、選挙市場における需要の誘導装置になる。検索エンジンの上位表示が商業を支配するのと同じ構造が、民主主義に侵入する。
そして最も危険なのは、マッチングの背後にある主体が不透明な点だ。
誰が運営しているのか。資金源は何か。質問は誰が決めたのか。政党の回答はどのように取得し、検証し、更新しているのか。候補者が嘘をついた場合にどう扱うのか。アルゴリズムは公開されているのか。重み付けは固定か。ユーザー属性に応じて変わるのか。
これらがブラックボックスなら、それは政治的レコメンドエンジンであり、事実上の選挙介入である。
しかもSNSのように露骨ではない。教育的ツールを装っている分、遥かに強い。
重要なのは機能である。システムが特定方向への誘導を内蔵しているなら、それは工作機械である。
旋盤が意図的に金属を削っているかどうかなど問題ではない。削る機能があるから旋盤なのだ。
同様に、選挙マッチングは意見を削り、争点を削り、候補者を削り、最終的に投票行動を削り出す。これは政治のCNC加工機である。
もしユーザーの回答履歴が蓄積されれば、政治的クラスタリングが可能になる。年齢、地域、職業、関心領域、回答パターンから、政治的嗜好の潜在変数が推定できる。
これは推薦システムの典型的応用であり、NetflixやAmazonがやっていることと同じだ。
すると次に起きるのは、パーソナライズされた政治誘導である。あるユーザーには経済政策を前面に出し、別のユーザーには治安を前面に出す。質問の順番を変え、回答を誘導し、結果を最適化する。
つまり「あなたの性格に合わせた政治プロパガンダ」が自動生成される。これはもう民主主義ではなく、行動制御の最適化問題である。
ここで反論が出る。「それでも政治に無関心な層が投票に行くならプラスでは?」。
だがこの反論は、民主主義を単なる投票率競争に矮小化している。
無関心層を動かすこと自体が善なのではない。どう動かすかが本質だ。
誘導された意思決定は、意思決定ではなく条件反射である。民主主義は、条件反射の総和を集計するための制度ではない。少なくとも理念上は。
選挙マッチングの最大の罪は、「政治とは何か」という理解を誤らせる点にある。
政治は、単なる政策の一致ゲームではない。政治とは、価値観の衝突を制度の中に封じ込め、暴力なしで調整する技術である。
さらに言えば、政治は時間軸を含む。短期の人気政策と長期の持続可能性は対立する。
インフレ抑制と景気刺激は対立する。社会保障の拡充と財政規律は対立する。現実は多目的最適化であり、単一の正解はない。
ところがマッチングは「あなたの正解」を提示してしまう。この瞬間、政治は宗教化する。正解があると思った人間は、対話をやめ、敵を作り、道徳で殴り始める。
そして皮肉なことに、選挙マッチングは中立ツールを装うことで、政治的責任を回避する。
推薦した結果が社会を破壊しても、運営者は「我々はただの情報提供をしただけ」と言える。
しかしそれは、銃を売った者が「撃ったのはあなた」と言うのに似ている。形式的には正しいが、本質的には責任逃れである。推薦とは介入である。介入は責任を伴う。
選挙マッチングは、政治の理解を深める装置ではなく、政治の複雑性を圧縮し、認知バイアスを利用し、意思決定を誘導する装置である。
ゆえにそれは工作である。工作とは「誰かが裏で悪意を持って操っている」という陰謀の話ではない。設計された情報環境が、個人の選択を体系的に変形するという、構造の話だ。
そして現代社会において最も危険な工作とは、強制ではなく、便利さとして提供される。
人は鎖で縛られるより、最適化されることを好む。摩擦のない誘導は、抵抗されない。選挙マッチングが普及すればするほど、人々は自分の政治的意見を「診断結果」として受け入れるようになる。
そうなったとき民主主義は、熟議ではなくレコメンドによって動く。これは政治の消費化であり、最終的には政治そのものの死である。
ClaudeCodeちゃんと使ったら確かに仕事2倍速くらいになったわ
ただ、雑に使ってもダメなのと
ClaudeCodeよくスタックするからビルドエラーに苦しむみたいなのが結局発生する、あとこいつじゃじゃ馬すぎる、OpenAIやGeminiに比べて
はやくCodex進化してClaudeCodeレベルになってほしい
実行時間が例えば人間のやる1/10くらいになったところで、精度があまかったり確認が必要になると、結局時間圧縮できてないみたいになるんだよね
MITの講義、Stanfordの資料、YouTubeの解説、arXivの論文、GitHubの実装例、オンラインジャッジ、オープンソースの教科書。
極端に言えば、ノートPCとネット回線があれば、線形代数から圏論まで、アルゴリズムから分散システムまで、形式手法から機械学習まで掘れる。
しかも、大学の講義よりわかりやすく、大学の教授より説明が上手い人間が大量にいる。
つまり知識それ自体はすでに市場でコモディティ化しており、値段はゼロに近づいている。
にもかかわらず、大学に行くために何百万円も払い、四年間も時間を捨てるのは、どう考えても合理的ではない。
書籍も高価で、論文にアクセスするにも壁があり、専門家に会うことも難しかった。
しかし現代では、ゲートは崩壊している。知識は空気のように拡散し、検索エンジンとLLMが圧縮して配布する。
学問の入り口に門番はいない。にもかかわらず大学だけが学びの正規ルートであるかのように振る舞うのは、情報流通革命の現実を無視した時代錯誤だ。
しかも数学とコンピュータ・サイエンスは、特に大学不要度が高い分野である。
証明を書けばよい。実装を書けばよい。競技プログラミングでスコアを出せばよい。GitHubにコードを積めばよい。論文を読んで再現すればよい。
個人の能力を示す客観的アウトプットが作れる以上、大学の単位や学位は本質的ではない。
学位は能力証明の一形態にすぎないが、その証明が過剰に高コストで、かつノイズが多い。
四年間を耐えたというだけで、思考力や創造性が保証されるわけでもない。
コンピュータ・サイエンスの実務世界は、ライブラリも設計思想もインフラも数年単位で変化する。
だが大学は制度として硬直しており、講義内容は更新されにくい。
学生が学ぶのは、現代の戦場で使える武器ではなく、過去の博物館ツアーになりがちだ。
もちろん基礎は重要だ。しかし基礎は無料で学べる。基礎を学ぶために大学という巨大な行政機構に参加する必要はない。
そして最大の問題は、大学が学びたい人間のための場所ではなく、学びたくない人間を四年間拘束する場所になっていることだ。
多くの学生は学問に興味がなく、就職のために在籍し、単位のために暗記し、卒業のためにレポートを書く。
その結果、講義は知的探究ではなく、脱落しないための事務処理へと変質する。
優秀で意欲ある少数の学生は、その空気の中でむしろ学びを阻害される。
学問とは本来、興奮と執念の領域であるはずなのに、大学はそれを出席管理と成績管理で薄める。
さらに残酷な話をすれば、大学に行く最大の理由は「自分が大学に行った方が安全だと思い込んでいる社会構造」そのものだ。
皆が行くから行く。行かないと不安だから行く。つまり大学は教育機関ではなく、集団心理によって維持される保険商品に近い。
これは合理性の皮を被った同調圧力であり、個人の学習とは無関係だ。
数学やコンピュータ・サイエンスのような分野で、真に強い人間は、学位ではなく成果物で語る。
証明、コード、論文、プロダクト、貢献履歴。そこには逃げ道がない。
大学の単位は「できるかもしれない」という曖昧なラベルだが、GitHubのコミットや実装は「できた」という事実だ。学問の世界では、事実だけが通貨である。
学位という紙切れに依存する必要はない。しかしもう半分の真実として、大学は知識ではなく、社会の信用システムとして機能している。
だから人々は大学へ行く。学びのためではなく、社会を攻略するために。
だがそれは同時に、現代の大学が知識の殿堂ではなく信号の発行所になってしまったことを意味する。
もし数学やコンピュータ・サイエンスを学びたいなら、大学の門をくぐる必要はない。必要なのは、静かな時間と、強烈な好奇心と、圧倒的な継続だけだ。
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
この問題は実は結果がでていて。おおざっぱに言うとこれである。
frantic87日本語と英語の言語学的距離の問題。FSIのカテゴリーでも英語ネイティブから見た日本語習得の学習時間は最高難易度に位置づけられている
ただこれだと東大に行けば人生よくなるぐらい具体性の無い話なのでもう少し具体的に述べよう。
問題はだいたい以下の二つに集約される。
大航海時代で大分かわってしまったが基本的に近くで使われてる言語はある程度に通っており、例えばドイツ語話者は英語を学習するのにそんなに時間がかからない。もともと同じような言語から分岐していたり、距離が近いので歴史的な交流があり単語が似かよってたりするからだ。これは日本語と韓国語にも当てはまる。
他方英語と日本語はこう言った違いが大きすぎて大分違うため日本語話者が英語をそれなりに話すには最低3000時間程度かかるので中高の1000時間だけでは普通に足りない。
2.表記構造や発音構造の違いにより認識周波数のずれが起こる。
いやお前何いってんだ。と言う人もいるかもしれない。題名を短くまとめたため分かりにくくなったと思うので順に解説する。
まず俺らの脳は最小の音単位で言語を認識する。日本語だとあーんのだいたい50音が該当するが英語は母音で終わらず子音で終わったりするのでその数万に近いと言われている。
例えばIlike thatは3音である。いやIはアイで2 音だし、like はライクで3音だし、thatはザットだから2音だろ?まとめてアイライクザットで7音だろ?と思う日本人は多い。違う。Ilike thatでまとめて3音である。
つまり英語は単位時間あたりに出てくる可能性の音がめちゃ多い情報量詰め詰めの言語が英語である。(単位周波数が高い)
逆に日本語は中身すかすかなので多少聞き逃したり通信品質が悪くても内容が類推しやすい。
I xxxyouのいみがわからなくても あxしてるだったらなんとなく類推可能なはずだ。
そして英語は音を日本語話者にとっては圧縮して話すように聞こえるためlike の末尾やthatの末尾は前の音に付随するような形で無理やり1音に納める。
通常日本語は1文字から複数音を生成し、(例、変態、へんたい、4音)、英語は複数文字から1音を形成する(例、fuck、1音)と言う特徴もあるため日本語の学習が間違った認識をもたらしてしまう。これが幼児期にしか英語が身に付かない理由である。正し理屈を分かっていれば年を取って耳が悪くなるまでは英語学習は可能だ。
【まとめると】日本人が予測する半分ぐらいしかネイティブは話してこない。ここで同期ずれが起こるのでそもそも何言ってるか理解できない人が多い。
少し難しく言うと日本人が単位周波数を低く見積もる一方。ネイティブは高い単位周波数をつかって、低い時間方向の周波数で会話する。
【付随】フェミから怒られそうだが言語はある程度努力でカバー可能だがやはり性差は存在して男は不利。そこは数でカバーするしかない。ちなみに俺は家系的にも言語能力が低いけど英語で専門分野の会議を何とかしてるくらいなので聴覚障害がなければ殆どの人がなんとかなると思う。(AIの進歩でもう無用かもしれないが)
ベタな生涯を送って来ました。
小中高公立で友達はそれぞれ5人くらい、親友と呼べるものが1人くらい。成績は中の上で、得意な科目一個だけ偏差値65くらいあるくらい。実家から一番近い都市圏の総合大学に進学し、プライム上場企業に入社し、大学時代にサークルで出会った公務員の妻と出会い、20代後半で結婚。30過ぎで子をなし、数年後にもう一人。35年ローンで戸建てを買い郊外に住む。40代くらいで管理職になり、上と下に挟まれ気を揉みながらもまあ許容できる待遇の中で定年までダラダラと働く。
好きな食べ物はラーメンと寿司。好きな酒はレモンサワー。タバコはメビウスの6ミリ(結婚を機に辞めた)。毎朝数キロランニングするのが日課。週末は地元サッカーチームの応援に精を出したり、子供をイオンモールに連れていく。夏はフェスに行き、冬はスノボに行くのが毎年の楽しみ。スマホはiPhoneを3年ごとに買い替える。車はプリウス。好きなアーティストは星野源とサカナクション。ストリートファイターではケンを使い、スマブラではマリオを使う。髪型は長めのツーブロ七三、服はユニクロGAPが主でたまにちょっといいものが欲しければ三井アウトレットパークでセレオリを買う。
要は評価が確立している癖のないものを好みがちで、私のような嗜好は他人軸に従う面白みのないものに映るだろう。実際社会の多数派ルートを穏当に選び続けているだけなのでその通りだ。
でも自分がベタだと思うことに迷わず全力ダッシュすることによって、選択するストレスは大分少ない楽な人生になったと思う。
普通な人生、じゃなくてベタな人生ってとこがポイントである。現代人はベタを目指そうとして「普通」に振り回されている。
そもそも日本語における「普通」ってのはordinary(陳腐)standard(標準),normal(規定),decent(常識的)plain(癖のない)average(平均的)authentic(正統)といった本来全く別のニュアンスの意味合いがごちゃ混ぜにされた言葉であり、実は「普通」を目指すと様々な物差しに振り回される生き方になってしまう。
これらのニュアンスからどれを評価基準とするかを選択したうえで、コミュニティ、社会的地位、時代背景、健康状態、知識、金銭的余裕、遺伝的要因などにより絶えず揺蕩う不明瞭な言葉、それが「普通」だ。
これが理解できていないと結婚して子供をつくるのはstandardか?身長170cmはnormalか?おにぎりでツナマヨを選ぶのはplainか?みたいな意味不明な評価基準を自分に課してしまい、結果何にも達成感や満足感を得られないことが多いのだろう。
だから、私は普通じゃなくてベタを選ぶ。すでに評価が定まったものに囲まれ、見えているレールに乗っかることで評価基準を選ぶコストを圧縮し、最小の労力で最大の達成感を得る。自分に軸が無いから他の軸を一本用意する感覚で生きてる。
まず言わせてくれ
-------------
ホットスナックとはコンビニエンスストアで買えるアツアツの揚げ物とか焼き物を言うんだ。
俺はほんとに、ほんとに金を貯められない。その理由の20%はヤツら、ホットスナックのせいだ。間違いはない。
ホットスナックの花形といえばフライドチキンであることを否定する奴はいない。
ことさら、辛いタイプのフライドチキンが不味いと思うならば少なからず自分の味覚が一般から乖離していることを自覚して欲しい。
辛いもの、特に大衆に向けて放たれる辛いものは往々にしてうまい。
そして、揚げ物であればうまがられる可能性はおよそ八割を必ず越える。
-------------
ローソンはおそらく、揚げ油をコク寄りにするよう指示しているだろう。
彼らの戦略を否定しないが、Lチキレッドはおかずにするにはどこか頼りなく、単体で食うにはどこか厚ぼったいのだ。肉はむしろ薄いのに、不思議だ。
ニューデイズにしかない。だから東日本管外の連中はしらないだろう。
ニューデイズにはまずフライヤーがない。だから連中は加熱水蒸気を使用したノンフライヤーを使用する。
そのため、ホットスナックに含まれる油分は冷凍前の揚げ油と鶏の持つ油分だけだ。
幾分ヘルシーであるにも関わらず、クリスピー感が強く、肉厚だ。
あんなものを簡単に調理できるノンフライヤー的な加熱水蒸気調理器は異常と言っていいだろう。
連中はあれで東日本を手中に収めようとしている。その判断の冷静さには脱帽だ。
-------------
ファミチキレッドは、満を持してファミリーマートが送りだす辛系ホットスナックだ。
ファミリーマートは長いことスパイシーチキンに辛味分野を任せてきた。
この判断は正しい。スパイシーチキンはファミチキより安かったからだ。
どこか圧縮肉的な肉感を盛っており、スパイシーチキンはどの店舗でも品質のバラつきが少ない。
バラスト性に優れると言い換えてもいい。
コショウをベースにした辛味も癖になるし、あの味わいはたぶん、小さく切って酢豚の揚げ豚代わりにしても成立する。
衣は厚くないしクリスピー感も程々だが、完成された味わいではあった。
言っておくがファミチキレッドをしょぼいファミリーマートで頼むな。
よいファミリーマートは端っこが固くなったファミチキを供することはない。
まずはいいファミマを探せ、お前の食べたいタイミングに合った揚げシフトをもつファミマを。
-------------
お前にできることはそれだけだ。もしなにか一緒に食べたかったら昆布のおにぎりにしろ。
ファミチキレッドの揚げ立ては半端ではない。ケンタッキーでも勝つことはできない。
あんなにうまいものが全国どこでも手に入りうることは、もはや国家転覆を狙ったテロである。
カリカリの衣と辛味のマリアージュを一度だけでいいから体感してくれ。
連中は逃げない。不味いファミチキを引くな。夕方や深夜の微妙な時間を避けろ。
-------------
おれは本当に仕事がつらいし、38にもうじきなるから腹周りの脂肪が気になる。
ファミチキレッドにはそれを捨てて、嫁の信頼と子供とのコミュニティーをないがしろにしても食うだけの価値が、残念ながらある。
ファミチキレッドとハイボールを買え。ちゃんと揚げ立てを出すファミマを探せ。
まず言わせてくれ
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ホットスナックとはコンビニエンスストアで買えるアツアツの揚げ物とか焼き物を言うんだ。
俺はほんとに、ほんとに金を貯められない。その理由の20%はヤツら、ホットスナックのせいだ。間違いはない。
ホットスナックの花形といえばフライドチキンであることを否定する奴はいない。
ことさら、辛いタイプのフライドチキンが不味いと思うならば少なからず自分の味覚が一般から乖離していることを自覚して欲しい。
辛いもの、特に大衆に向けて放たれる辛いものは往々にしてうまい。
そして、揚げ物であればうまがられる可能性はおよそ八割を必ず越える。
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ローソンはおそらく、揚げ油をコク寄りにするよう指示しているだろう。
彼らの戦略を否定しないが、Lチキレッドはおかずにするにはどこか頼りなく、単体で食うにはどこか厚ぼったいのだ。肉はむしろ薄いのに、不思議だ。
ニューデイズにしかない。だから東日本管外の連中はしらないだろう。
ニューデイズにはまずフライヤーがない。だから連中は加熱水蒸気を使用したノンフライヤーを使用する。
そのため、ホットスナックに含まれる油分は冷凍前の揚げ油と鶏の持つ油分だけだ。
幾分ヘルシーであるにも関わらず、クリスピー感が強く、肉厚だ。
あんなものを簡単に調理できるノンフライヤー的な加熱水蒸気調理器は異常と言っていいだろう。
連中はあれで東日本を手中に収めようとしている。その判断の冷静さには脱帽だ。
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ファミチキレッドは、満を持してファミリーマートが送りだす辛系ホットスナックだ。
ファミリーマートは長いことスパイシーチキンに辛味分野を任せてきた。
この判断は正しい。スパイシーチキンはファミチキより安かったからだ。
どこか圧縮肉的な肉感を盛っており、スパイシーチキンはどの店舗でも品質のバラつきが少ない。
バラスト性に優れると言い換えてもいい。
コショウをベースにした辛味も癖になるし、あの味わいはたぶん、小さく切って酢豚の揚げ豚代わりにしても成立する。
衣は厚くないしクリスピー感も程々だが、完成された味わいではあった。
言っておくがファミチキレッドをしょぼいファミリーマートで頼むな。
よいファミリーマートは端っこが固くなったファミチキを供することはない。
まずはいいファミマを探せ、お前の食べたいタイミングに合った揚げシフトをもつファミマを。
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お前にできることはそれだけだ。もしなにか一緒に食べたかったら昆布のおにぎりにしろ。
ファミチキレッドの揚げ立ては半端ではない。ケンタッキーでも勝つことはできない。
あんなにうまいものが全国どこでも手に入りうることは、もはや国家転覆を狙ったテロである。
カリカリの衣と辛味のマリアージュを一度だけでいいから体感してくれ。
連中は逃げない。不味いファミチキを引くな。夕方や深夜の微妙な時間を避けろ。
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おれは本当に仕事がつらいし、38にもうじきなるから腹周りの脂肪が気になる。
ファミチキレッドにはそれを捨てて、嫁の信頼と子供とのコミュニティーをないがしろにしても食うだけの価値が、残念ながらある。
ファミチキレッドとハイボールを買え。ちゃんと揚げ立てを出すファミマを探せ。
市場をハックできると思い込む者は、だいたい二つの誤解を同時に抱えている。
第一に、市場は誰かの設計物であり、裏口が存在するという誤解。
これは人間の知識の限界に対する無自覚、もっと露骨に言えば情報の分散性を舐めている。
市場は巨大な最適化装置だが、目的関数は誰にも明示されていない。
価格は命令ではなく要約統計であり、無数の局所情報が圧縮された結果にすぎない。
そこに攻略法があると考える時点で、もうモデルと現実の主従が逆転している。
連中は合理的期待を理解した気になって、実は自分だけが非合理になっている。
ハック屋が最初にやるのは単純化だ。変数を削り、摩擦を無視し、ノイズを敵視する。
これらを外生として葬った瞬間、そのモデルは分析装置ではなく、自己放尿になる。
フリードマンは「非現実的仮定でも予測が当たればよい」と言ったが、肝は予測だ。当たらなければ捨てる。
ところが市場ハッカーは、外れた瞬間に「環境が悪い」「規制が歪めた」「愚民が理解しない」と言い出す。
モデルは常に正しく、現実が常に悪い。この態度こそが、連中を自己放尿の檻に閉じ込める。
面白いのは、連中が嫌うはずの中央計画を、私的に再現している点だ。
自分の頭の中に小さな社会を作り、そこでは因果が素直に流れ、政策は即効性を持ち、人々は期待通りに動く。その小宇宙の中では万能感が得られる。
ここで起きるのが、自己放尿だ。予測は外れ、ポジションは逆噴射し、言説は後講釈に変わる。
連中の失敗は、市場の失敗ではない。政府の失敗でもない。単なるモデルの失敗だ。
しかも厄介なのは、失敗の原因がモデルの外にあると誤認する点だ。
結果として、規制批判・陰謀論・道徳説教が混ざり合い、最終的に知識、規律、検証のトリプル放尿に至る。どれも市場が最も嫌うものだ。
合理的期待仮説の冷酷さは、人間の善意を一切考慮しないところにある。
これを前提にすると、「俺だけは違う」という主張は、統計的にほぼ自己放尿だ。
長期的に勝てる戦略は退屈で、透明で、他人にも模倣可能だ。だから誰も語りたがらない。
最初は勇ましい言葉で始まり、次に数字が歪み、最後は世界観が壊れる。
市場は誰も嘲笑しない。ただ清算するだけだ。その無言の態度が、最大の教育効果を持つ。
市場や社会をハックしようとする前に、自分のモデルが何を捨て、何を仮定し、どこまで予測できるのかを点検しろ。
できないなら、余計なことはせず、価格に従え。
そうしない者は、いずれ自分の理論の中で溺れ、静かに自己放尿していく。
周囲をあっと言わせたあのゼロポットは、その次のバーレーンでの公開テストで初めて持ち込まれる。
この故事を踏まえても、メルセデスの今回(2026年のバルセロナ非公開テスト)持ち込んだマシンは完成形ではないのは間違いない。
2022年は結果としてゼロポットコンセプトは大失敗に終わったことからメルセデスにとって忘れたい記憶となったのだが、今回はどうなるだろうか?
今回も、あれほどの革新的な変更をするのだろうか?
それともコンサバティブにマイナーチェンジを繰り返していくことになるのか?
現状、規約の穴を見事についたことからPUの面ではメルセデス陣営(とレッドブル・パワートレインズ)が優勢なのではないか?
と言われている。
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規約ではシリンダー内のピストンが上限にある時の容積を1として、下限に来たときの容積がその16倍を超えてはいけないという規約だ。
その規約を監視する測定は当然、エンジンが停止状態のときに行われる。
そこが盲点だった。
メルセデスとレッドブル・パワートレインズ(レッド・ブルはメルセデスから開発者を引き抜いたことでそのトリックを知り真似しただけだが)はエンジンの稼働状態のときに、活路を見出した。
熱膨張を利用してエンジンが稼働しているときには、圧縮比が規約よりも高くなるようにPUを設計したとされている。
このことから他のメーカーに比べて優位に立ち、よりパワーの出るPUを持っていると推測されている。
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このような優位な状態で、さらにマシンが安定していて、テストでは圧倒的マイルを稼いでいる。
このことから、判断はあまりに時期尚早という枕はつくとはいえメルセデスはチャンピオン候補として有力視されている。
全てを知りたくなったら絶対に時間が不足し、不足した時間は生活や労働を切り詰めることで解決されがちだ。
「ネトゲのエンドコンテンツをクリアしたいから長時間労働の職場を退職して今は健やかに生活している」というほんわかしたエピソードも100個に1個ぐらいあるが、
100個に99個は「労働を犠牲にしてもオタク活動には足りなかったので生活を切り詰めた結果、全てが失われていった」というエピソードだ。
仕事と生活のレベルを下げてバランスを取る人は多くいるが、どこかで崩れがちだ。
遠征のある日に正反対の方向への出張が決まれば諦めるしかないし、最新情報が解禁されたタイミングが繁忙期と被れば睡眠時間を殺さない限りは致命的な出遅れを来す。
そして、大抵のオタクは睡眠時間を殺してしまい、睡眠不足で頭がおかしくなって社会的な死を迎える。
大体はどこかのコミュニティで他者と致命的な衝突をした結果としての追放である。
仕事とオタ活が領域を重ねることによって驚異的な圧縮が可能になるし、人生もシンプルになるし、生活を整える時間も取れる。
オタクコミュニティの中でもプロとしての下駄を履けるし、職場においても好きでやっているという強みを持てる。
良いことが本当に多い。
一部の落伍者が「仕事のトラウマでオタク活動も出来なくなった。アイドルのマネージャーにならなきゃ本当に枕営業してるなんて確信は持たずに済んだのに」みたいなことをのたまって警告をハッスルがそれは例外事象だ。
オタク活動と仕事を被せた人間の多くはそのことを後悔していないだろう。
後悔している人もレッドオーシャンな業界に飛び込んでしまったことを後悔しているのが大部分だ。
それがメジャーな分野でないなら尚更だ。
そうした方が幸せだ。
人間は仕事とオタクを両立できるほど時間を持て余してなんていない。
自分に時間があると思ってるなら部屋や自分をちゃんと見つめてから考え直せ。
掃除も行き届いてない部屋でインスタント食品ばかり食べて時間を無理やり生み出していないか?
だが、仕事に出来なかったならオタクであることはやめるべきだ。
そうじゃないなら今すぐ降りろ。
市場の相互接続性を断ち、比較優位のネットワークを自壊させ、価格シグナルを濁らせる行為は、主権の回復どころか資源配分の盲目化を招く。
問題は、ルールの恣意性と予見可能性の欠如、そしてマネーと財のフローを歪める国家介入の過剰だ。
自由貿易を極大化し、価格メカニズムに仕事をさせる。これが唯一の一貫した処方箋である。
関税・数量制限・原産地規則の濫用は、消費者余剰を削り、生産者を保護の檻に閉じ込め、技術進歩の速度を落とす。
短期の政治的利得は得られても、長期の生産性は確実に毀損される。
自由貿易は道徳的美辞ではない。情報を圧縮した価格が、分散知識を集約する計算装置として機能するための制度的条件だ。
自分で自分の靴を濡らし、寒さを市場のせいにする愚行に等しい。
幼稚産業保護は永久化し、ロビイングは収穫逓減を隠蔽し、規制は参入障壁に変質する。
自由貿易を極大化するとは、国境を消すことではない。ルールを単純化し、予測可能にし、裁量を削ることだ。
通商政策を貨幣政策のように、安定的で機械的な枠組みに押し込める。裁量は誘惑を生み、誘惑は歪みを生む。
通貨の話をしよう。為替操作と貿易制限を同時に弄ぶのは、為替と関税のダブル放尿だ。
これで競争力を語るのは、測定器を壊してから実験結果を誇るようなものだ。
フリードマンは一貫して、安定した貨幣ルールと自由な財の移動が補完関係にあると見た。
貨幣が中立に近づくほど、貿易の利益は透明化し、政治的介入の余地は縮む。
再訓練、移転、税制の中立性。ここで必要なのは精密なスキャルペルであって、通商という大動脈を塞ぐハンマーではない。
貿易制限で雇用を守るという物語は、一般均衡を無視した部分均衡の錯覚だ。
雇用は守られず、価格だけが上がる。消費者は沈黙のうちに課税される。
グローバリズムを否定して内向きに縮こまるのではなく、自由貿易を極大化し、ルールを薄く、安定的に、予見可能にせよ。
国家の役割は、勝者を選ぶことではない。審判を公正に保つことだ。
自己放尿をやめ、為替と関税のダブル放尿を断ち、価格に語らせよ。
そこに、成長と自由の同時達成がある。
まあ、植物はまだ良かったよ
痛みとか苦しみを感じないから
ただ動物
てめーはダメだ
痛みや苦しみを生んだんだから
不幸の始まりって「痛み」「苦しみ」なんだよ
痛み苦しみによって動物をコントロールし、生き残ろうとするシステムなんだろうけど、このシステムがクソ
パワハラなんよ
令和の時代に合わない
仕事中ずっと考えてたんだけどさ
動物が生まれなかったら、痛みも苦しみもないから、平和だったんだよ
それをさ、微生物とか魚とかに進化してさ、痛みや苦しみを覚えてさ、どんどん進化したのが本当にアホなんだよ
仮に進化するにしてもさ、「痛み」「苦しみ」がない方向性に進化するべきだった
いやそうじゃなくて、痛みや苦しみがなくて、喜びだけ感じるような生命のシステムを構築すべきだったんじゃないの?
それができないんだったら、そもそも論として、この宇宙がクソだわ、
この宇宙が生まれた時点で、生命の誕生や痛み・苦しみの存在が予定されていたのなら、本当にクソ過ぎる
俺がタイムリープして、ビッグバンの時点で法則を塗り替えたいよ
神がこの世を作ったとかは全く信じてない
そうではなくて、宇宙誕生の時点であらゆることが決まっていた(もしくはその可能性を内包していた)ことに腹を立てている
なんで宇宙が生まれたのかは謎だけどさ、そういう仕組み自体を変えないと、人間っていつまで経っても辛いままなんだよな
病気になるし、老いるし、死ぬし、争うし、憎しみあうし、良いことないじゃん
そう思わないか?
日本の自称成功者界隈を観察していると、奇妙な自己放尿の悪臭が立ち上ってくる。
本人たちは高級な香水を振りかけているつもりだが、実態は自己放尿で床を濡らし、その上にブランドロゴのマットを敷いて「成功」と呼んでいるだけだ。
連中が好んで語る人間関係論は単純で、付き合いの基準は年収、会食の単価、使える金額、紹介できる肩書。
「古い友人は成長を阻害するノイズとして切り捨てろ、昔の縁は生産性が低い」という助言がドヤ顔で流通する。
これは合理性の仮面をかぶった、計測可能なものだけを人間に還元する粗雑な思考であり、思考停止だ。
効率化と選別を履き違え、関係資本を短期の交換価値に圧縮した結果、残るのは同質な人間の集積と、相互に利用し合うだけの乾いたネットワーク。
連中がやっているのは、合理性と拝金主義のダブル放尿で、自分の足元を濡らしながら他人に成功論を説く滑稽な儀式にすぎない。
対照的なのがユダヤ教的な世界観だ。ユダヤ教は成功者選別ゲームを美徳としない。
中心にあるのはコミュニティであり、契約であり、時間を貫く責任だ。
ツェダカーは単なる慈善ではなく正義で、持てる者が持たざる者を切る免罪符ではない。
むしろ共同体の健全性を維持する義務であり、関係を断ち切る自由よりも関係を引き受け続ける重さが重視される。
ピルケー・アヴォートが繰り返すのは、知恵は行為に裏打ちされて初めて価値を持つという一点で、会食単価や肩書で人を測る軽薄さとは真逆の倫理だ。
安息日は生産性を止め、効率を休ませ、人を人として扱う訓練装置である。
ここには「成功者の輪に入れない者は捨てろ」という発想が入り込む余地がない。関係は最適化の対象ではなく、継承される資産だ。
日本の自称成功者が勘違いしているのは、選別が洗練だと思い込んでいる点だ。
だが選別は最も安価な思考で、数字で切れるものしか見ない態度は人間性の劣化を加速させる。
古い友人を切り、弱い縁を捨て、金で測れる関係だけを残す行為は、短期的には摩擦が減って気持ちよく見えるが、長期では信頼の厚みを失い、予期せぬショックに脆弱になる。
それを理解せず、成功者基準で人間関係を再編せよと説く日本の自称成功者は、自己放尿で足元を濡らしながら合理性を語る未熟さを晒しているだけだ。
人を金で測るたびに、連中は自分の世界を狭め、共同体という長期資本を切り崩している。
この主張の核心は、「『甘え』は厳密な規範語ではなく、日常的な軽い評価なのだから、そこまで問題視するのは過剰だ」という点にある。だが、この理解こそが論理的に破綻している。
まず、「甘え」は学術語ではない、という指摘自体は正しい。だがそれは免罪符にはならない。むしろ逆だ。日常語であるからこそ、その言葉が実際に何をしているかを見なければならない。日常語の評価は、軽いから無害なのではない。説明なしで使えるからこそ、発言の正当性を下げ、相手に応答のコストだけを押し付ける力を持つ。「配慮してないよね」「自分都合だよね」という圧縮表現は、まさにそのための言葉だ。圧縮されているということは、判断の根拠が省略されているということでもある。
ここでこちらが言っているのは、「評価するな」ではない。「評価するなら、少なくとも評価として扱え」ということだ。「甘え」という言葉を使いながら、「これはただの感想だから正当化は不要だ」と言うのは、自分にだけ都合のいい二重基準である。評価語として使いたいなら、それが評価であることを引き受けるべきだし、引き受けたくないなら、感情表明にとどめるべきだ。
次に、「義務が明文化されていなくても、空気が読めないと評価されるのは普通だ」という反論について。これも事実だが、論点はそこではない。問題にされているのは、評価が存在することではなく、評価が正当性の根拠を持つかどうかである。「普通にそう言われている」「よくある」という事実は、「それが正しい」「それが妥当だ」という規範的結論を一切導かない。慣習があることと、批判が免責されることは別問題だ。
また、「ケース依存で線引きできないから、雑に『甘え』と言われる余地がある」という主張は、論理的に完全に逆である。線引きができない、判断が分かれる行為だからこそ、雑な評価語で処理することが最も不当になる。判断が難しい領域では、行為基準を丁寧に扱う必要があるのであって、人格や姿勢を指す言葉で一刀両断してよい理由にはならない。「難しいから雑でいい」という発想は、評価の放棄でしかない。
さらに、「『甘え』は人格否定ではなく行為評価だ」という点も成り立たない。なぜなら、「甘え」は行為そのものではなく、行為の背後にある態度や性向を指す言葉だからだ。「その行為は多すぎる」ではなく、「それは甘えだ」と言った瞬間、評価は行為から主体へ滑っている。軽く使われていようが、日常的であろうが、その構造は変わらない。
そして、「評価や批評まで説明を求めたら萎縮が起きる」という懸念について。これも誤解だ。説明を求めているのは、すべての発言ではない。説明を求められているのは、「相手の正当性を下げる評価」を投げる行為だけだ。これは発言の自由を狭める要求ではない。むしろ、「強い言葉を使うなら、その分の責任を引き受けろ」という、ごく当たり前の対称性を求めているだけである。
最後に、「再投稿しただけで規範的に劣位に置くな、という主張は強すぎる」という点について。これは強すぎるのではなく、弱く、限定された主張だ。「評価するな」とは言っていない。「嫌がるな」とも言っていない。ただ、「再投稿という形式だけで、主体の姿勢や人格まで下げる理由にはならない」と言っているだけだ。周囲の主観が存在することと、その主観が正当化されることは同義ではない。
結論は変わらない。
嫌がられる自由もある。
「甘え」と言う自由もある。
だが、「甘え」という言葉を使って相手の正当性を下げるなら、それは感想ではなく評価であり、評価である以上、批判に耐えなければならない。
それを「日常語だから」「よくあるから」「説明すると重くなるから」と免責しようとする態度こそが、実は一番、言葉を雑に使い、相手の発言空間をコントロールしている。
これは理想論ではない。
•過去の人格攻撃・誹謗中傷と、現在の制作過程や説明責任への具体的批判を同一視する
• 「ずっと同じ攻撃が続いている」と語り、現在の論点を検証不能にする
•事実確認や手続き上の指摘を「叩きたいだけ」「悪意がある」と動機批判に変換
• 明らかに過激・不適切な投稿を取り上げ、批判全体の代表として扱う
•過去に存在した深刻なバッシングを根拠に「今回も同じ構造」と断定
• 具体策が提示されない
• 界隈外での信用が低下する
その文章、すごく丁寧に書いてるんですけど、結局「評価と言うな、説明しろ」って言ってるだけなんですよね。
でもそれって、現実の言論空間の使われ方を無視してると思うんですよ。
まず、「不快」と「甘え」は別物だ、って言ってますけど、別に誰も「甘え」という言葉を学術的な規範判断として厳密に使ってないんですよね。
多くの場合、「それ、周りに配慮してないよね」「自分都合だよね」っていう日常語の圧縮表現なんですよ。
そこに「どの義務に違反したのかを明示しろ」とか言い出すのは、正直、言葉の使われ方に対する要求水準が高すぎます。
次に、「再投稿をしてはならない義務は存在しない」って点ですけど、これも論点がズレてて。
義務が明文化されてない行為でも、「やりすぎ」「空気読めてない」「自分本位」と評価されることは普通にありますよね。
それ全部「論理的に不可能」と切り捨てるなら、人間同士のコミュニケーションの大半が成立しなくなるんですよ。
あと、「スパムや荒らしとは違う、害がケース依存だ」って言ってますけど、これ、むしろ不利な主張で。
ケース依存で「うざさ」や「占有感」が発生するからこそ、雑に「甘え」と言われる余地が生まれるんですよね。
明確な線引きができない行為だから、評価語で処理されてるだけで、それ自体は不思議でも不当でもないです。
「人格評価に飛んでいる」と言いますけど、「甘え」って人格全否定ですか?
多くの文脈では「その行為、甘えてない?」っていう行為評価でしかなくて、人格を劣位化するほど重い言葉として受け取ってるのは、書き手側の解釈がだいぶ強いと思います。
これも一理あるんですけど、じゃあ逆に聞きたいんですよね。
誰かが「それ甘えだと思う」って言う自由まで封じたら、それはそれで別方向の萎縮じゃないですか?
評価や批評まで「説明が足りないから不当」とすると、発言コストが跳ね上がって、結果的に何も言えなくなる人が増えるだけだと思います。
「再投稿しただけで規範的に劣位に置くな」という主張も、実はかなり強いんですよ。
なぜならそれは、「周囲がどう感じたかを理由に評価するな」と言ってるのとほぼ同義なので。
でも評価って、基本的に他人の主観から逃れられないものなんですよね。
最後の
って部分も、きれいな言い方ですけど、実際の言論空間では完全に分離できないです。
それを全部「説明不足だから無効」と扱うのは、理想論としては分かるけど、運用論としては無理があります。
要するに、
嫌がられる自由もある。
「甘え」と言われる自由もある。
それを「説明が足りないから不当だ」「沈黙の強要だ」と一段高い場所から裁こうとする態度こそ、
実は一番、他人の言葉遣いをコントロールしようとしてるんじゃないですかね。
高等教育への支援が日本を復興させる、と会田誠がXで書いていた。
日本の戦後の復興は、戦後に「偶然」起きたのではない。むしろ戦争そのものが、復興のための下地を、皮肉なほど周到に準備してしまった。戦争は破壊であると同時に、国家をひとつの巨大な工場に変える。資源配分、計画、規格、物流、品質、そして何より、人間の配置と訓練。これらが「総力戦」という名のもとに、暴力的に、しかし異様な密度で組み上げられていく。技術開発とは、研究室の机上で美しく完結する知の遊戯ではない。目的が与えられ、期限が切られ、失敗のコストが極端に高い環境で、試行錯誤を反復し、設計・製造・検査・運用までを一気通貫で回す能力の総体だ。戦争は、その能力を、恐ろしい速度で社会の中に注入した。
戦時の研究開発は、単なる発明ではなく、システムの構築だった。たとえば「技術者」という語は、ひとりの天才の顔を連想させがちだが、実体は違う。設計者がいて、解析者がいて、材料の供給者がいて、加工の技能者がいて、検査の手順を作る者がいて、現場に落とし込む監督者がいる。部品表があり、図面があり、仕様があり、誤差の許容範囲があり、標準化がある。つまり、工学的知識と組織的運用が結びついて、初めて技術は社会に実装される。戦争は、その結び目を強制的に太くした。しかも、若者を大量に吸い上げ、時間を奪い、睡眠と健康を削り、失敗に対する許容を奪うことで、訓練を「圧縮」した。倫理的には呪うべき圧縮だ。しかし能力形成の観点だけを冷酷に抜き出すなら、戦争は、最悪の形で最高効率の訓練装置になり得た。
そして戦後。御存知の通り日本は完膚なきまでの敗北を喫した。当然だ。しかし瓦礫と飢えと混乱の中に、奇妙な資産が残った。焼けた街ではなく、焼け残った手だ。軍需のために鍛えられた設計思考、現場の段取り、試験と改善の習慣、そして「とにかく動かす」ための執念。戦争目的が剥ぎ取られたあと、その手は、民生に向けて仕事を始める。工場は鍋を作り、ラジオを作り、やがて車を作る。品質管理という名で統計が導入され、カイゼンという名で現場が賢くなる。輸出という名で世界と接続され、稼ぐという名で生活が安定する。高度経済成長は神話ではなく、忌まわしき制度と虐げられた技能の合成体・キメラだ。そして、その合成の触媒として、あるいは淘汰圧として、戦争という毒が、過去に撒かれていた──そう言ってしまうと、気分が悪いほどに筋が通ってしまう。敗北はしたが、敗北するためには戦わなくてはならず、戦うためには戦えなくてはいけない。奇妙なことに戦えてしまったことが呪いであると同時に祝福でもあった。真珠湾攻撃は、無条件降伏を経て、米国中を所狭しと走り回るトヨタに至った。まともな経済感覚をもっている米国人は一時期まで日本車を買うのがあたりまえだった。
だからこそ、戦後日本の次なる課題は、戦争なしに繁栄を継続することだった。ここが本丸だった。戦争が供給するのは「目的」と「緊急性」と「資源の集中」であり、その果実として新しい「産業」が結ぶのだ。平時の社会では、それらが自然に生まれない。目的は分散し、緊急性は個人の都合に解体され、資源は合意形成の手続きに溶けていく。ゆえに、平時の繁栄には、別種のエンジンが要る。暴力や強制ではなく、自発性と創造性によって、産業の餌を自分で狩りに行くエンジンだ。そこで登場したのが、大学院という高等教育の訓練装置だ、という物語をわたしたちは信じた。研究という名の訓練。論文という名の競技。専門性という名の武器。産学連携という名の橋。これらを通じて、戦争の代わりに「知」が繁栄を準備するはずだ、と。
だが、いつの間にか装置は、別の生き物を量産するようになった。保身に東奔西走するばかりの大学教員だ。大学院が、主体性の発火点ではなく、依存の温床になったとしたら、それは制度設計の敗北だ。研究費、評価指標、採用、任期、ポスト、学会、査読、ランキング。こうした外部条件が、大学教員個人の内側に「餌は上から降ってくるものだ」という反射を植え付ける。申請書の書き方は教えるが、産業という新しい鉱脈の掘り方は教えない。論文の体裁は矯正するが、社会の問題を嗅ぎ分ける鼻は鍛えない。安全な問いを選ぶ癖、失敗しない範囲での最適化、既存の潮流に寄り添うことによる生存。そうした行動は合理的だ。合理的であるがゆえに、群れは同じ方向にしか動かなくなる。
そしてSNSだ。SNSは思想の市場であると同時に、承認の自動給餌機になった。群れは、空腹そのものを叫ぶことで、誰かが餌を投げてくれると学習する。「分かってほしい」「評価してほしい」「誰かが何とかしてほしい」「政府は間違ってる」。鳴く。鳴くことが生存戦略になる。しかも鳴き声は可視化され、数値化され、増幅される。いいね、リポスト、フォロワー。これらは、栄養ではなく興奮剤だ。満腹にはならないが、空腹の感覚を麻痺させる。やがて、いつまでも上から餌を与えてくれるのを求めて、ぴいぴい鳴き続けるトッチャンボウヤのような元雛鳥の群れができあがる。外敵に襲われない巣の中で、口だけが上を向き、翼は畳まれたまま、眼球だけが光る。自分の脚で地面を蹴るという最初の行為が、いつまでも始まらない。
自分の地位が脅かされるときは自分が悪いのではなくいつも政府が悪い。省庁が悪い。国民の教育水準が、頭が悪い。外で何が起きているのか少し頭を働かせてみようともしない。誰かが群れから外れたことを言ったときは袋叩きにして火にくべる。その結果、誰もが同じことばかり言い続けている。
だが、はっきり言っておく。お前が新しい産業という餌を捕るんだよ。お前がやることになってたんだよ。餌を「作る」のでもいいし、「掘る」のでもいいし、「盗む」のでもない形で「奪い返す」のでもいい。つまり、価値を生むという行為を、制度の他人に外注するなということだ。もちろん少子高齢社会は強力すぎる逆風ではあるが、それさえも誰かのせいに陰謀論めいて帰着させる前に一度よく考えてみたらどうか。産業は勝手に湧かない。誰かが、失敗の責任を自分で引き受け、見えない需要を言語化し、未熟な技術を鍛え上げ、供給網を組み替え、法や倫理の地雷を避け、顧客の怒りと無関心の中で立ち続けた結果として、ようやく姿を現す。論文の引用数のように、キーボードを叩けば増えるものではない。獲物は森にいる。森に入った者だけが、血の匂いと風向きを知る。
お前たちは選択と集中ではなく研究者の自発的な興味や関心が大事という。
では聞くが、お前たちはお前たちが学生だった頃の自分たちに恥じることはないだろうか。
お前たちは、お前たちが知りたいと思ったことを、お前たちが知りたいと思ったかたちで、明らかにしつつあるのか。
わたしは大学の門をくぐったとき、自分が畳の上で安らかに死ねるとは思わなかった。畳の上で死ぬというのは、単に死に場所の話ではない。生が、社会と和解しているという感覚だ。努力が見返りに接続し、未来が計算可能で、家族が暮らし、老いが制度に回収されるという約束だ。だが、あのときのわたしには、その約束が見えなかった。見えなかったというより、最初から信じる気がなかった。自分は、本と論文と電線の塵芥の中で、目を開けたまま息絶えるのだと思った。研究室の片隅で、半田の匂いと紙の埃にまみれて、未完成の仮説を握ったまま、呼吸だけが止まるのだと。
なぜそんな死に方を想像したのか。たぶん、それは恐怖ではなく、ある種の誓いだったのだろう。畳の上の安寧を最初から目標にしない者だけが、森に入れると。森に入るとは、制度の外側に一歩出ることだ。誰も餌をくれない場所に行き、自分の手で何かを捕まえることだ。捕まえられなければ飢える。飢える可能性を引き受ける者だけが、捕まえる可能性を持つ。そういう単純な力学を、大学に入った頃のわたしは、たぶん予感していた。戦争をする国家という本質的な暴力装置に大学そのものを重ねて見ていた。
戦後の復興が戦争によって準備されたのだとしたら、戦後の次の繁栄は、戦争ではなく、わたしたち一人ひとりの「狩り」によって準備されなければならない。制度は餌箱ではなく、森へ向かうための靴であるべきだ。大学院は巣ではなく、飛び立つための筋肉を作る場所であるべきだ。SNSは鳴き声の競技場ではなく、狩りの情報を交換する地図であるべきだ。そうなっていないなら、装置を叩き壊すか、装置の使い方を変えるしかない。鳴くのをやめて、翼を伸ばして、地面を蹴るしかない。
最後に、あの想像に戻る。目を開けたまま息絶える、というのは、救いのない悲観ではない。目を閉じる暇も惜しんで見ていたかった、ということだ。世界の配線の仕方、言葉の連結の仕方、仮説の跳ね方、そして価値が生まれる瞬間の、あの微かな火花を。もし本当にそういう最期が来るなら、せめて塵芥の中に、誰かの餌になる小さな骨を残して死にたい。鳴き声ではなく、獲物の痕跡を。上から落ちてくる餌ではなく、自分で森から引きずってきた何かを。畳の上で死ねなくてもいい。だが、巣の中で口を開けたまま死ぬのだけは、御免だと。
お上を叩くのは簡単だ。叩いても腹は減らないからだ。制度を呪うのは気持ちがいい。呪っても給餌は止まらないからだ。君たちの批判は刃物ではない。換気扇だ。臭いを抜いて、建物を延命する装置だ。君たちは自由の名で柵を磨き、純粋の名で鎖を正当化し、公共性の名で自分の安寧を公共財にすり替える。いつまで巣の縁で鳴くのか。餌は捕れ。捕れないなら黙れ。黙れないなら巣を出ろ。——平和の繁栄は、配給では続かない。
中国の浙江大学では超重力装置の「CHIEF1300」が稼働しており、2025年12月22日から「CHIEF1900」の設置も始まっています。
CHIEF1300では1トンの物体に1300倍の重力、CHIEF1900では1900倍の重力をかけることが可能で、「超重力場を形成して時空圧縮効果を実現できる」とアピールされています。
http://www.kepu.gov.cn/news/2025-09/29/content_409935.html
100年かかる汚染物質の移動プロセスは3.65日に『短縮』できます。
この『時空圧縮』効果は、科学ミッションの実施や工学プロジェクトにおける新技術の研究・検証に寄与するものです」とアピールされています。