はてなキーワード:因果とは
刺されても不思議ではない(これは「この女性の行動が誰かに刺されることを正当化する」とか「彼女が殺されるべきだと言っている」といった意味ではなく、単に彼女の行為が社会的な軋轢を生み特定の人々の怒りや怨恨を買う可能性があり、その結果として極端な行動を起こす者が現れたとしてもそれ自体は因果関係として理解できる範疇であり倫理的な是非とは別問題であるという話であり、そもそも「刺されても不思議ではない」という表現の意図は「これは当然の報いだ」とか「やられて当然」といった価値判断を含むものではなく単純に一定の条件下ではそのような結末が発生しうるという事実を述べているに過ぎず、したがってこの発言をもって私が加害者側を擁護したり被害者側に責任を押し付けたりしていると捉えるのは全くの誤読でありむしろ私はこの手の事件が起こること自体が社会の構造的な問題として考えられるべきだと思っているし、それを語る際に「この事件の被害者に全く非がない」という視点だけで語るのは現実に起きている因果の流れを無視することになりかねずそのような視野の狭い議論こそが事件の再発を防ぐことに繋がらないのではないかと考えているのであり、つまりここで言いたいのは社会においては一定の言動が特定の層の反感を買い、その行動が極端な結果を引き起こすことがあり、それ自体は驚くようなことではないという現象の説明をしているだけであって「彼女は死んで当然だ」というような価値観の押し付けをしているのでは決してなく、それを曲解する人々がこのような場面で感情的になり言葉の意図を無視して一方的なレッテル貼りをすることこそが議論を不毛なものにし真の問題解決を遠ざけているのではないかと思うわけであり、したがって「刺されても不思議ではない」と述べたことに対して「殺されて当然と言っている」と受け取るのはまったくもって論理の飛躍であり事象の客観的な説明を感情的に捻じ曲げる行為そのものであり、そもそも私は暴力を肯定する立場ではないしこうした事件が起こること自体を望ましくないと考えているが、それでも現実としてこのような事件が発生する以上そこには一定の因果があるという視点を持たなければ同じような事例が繰り返されるだけであり、それを避けるためには単純な善悪の二元論ではなくより冷静で客観的な議論が求められるのではないかと思うわけであり、したがって「刺されても不思議ではない」と発言した意図は決して加害行為を擁護するものではなくまた被害者に落ち度があると断じるものでもなく単に社会の構造や人間の心理の一側面としてこうした事件が発生する可能性があることを述べたに過ぎないのであり、その文脈を無視して感情的に「殺されて当然と言っている」と捉える人々こそが議論を不毛なものにし本来考えるべき問題の本質から目を逸らさせる要因になっているのではないかと考えているのであり、だからこそ私は「刺されても不思議ではない」と述べたに過ぎずそれ以上でもそれ以下でもないのである)。
大学まで九州で育ち、卒業後は仕事の都合で各地を転々とし、今は東京にいます。
自己紹介はこんなところにして、まず、うちの実家の話をさせてほしい。うちの実家は本当にひどかった。
私は子どもだったから料理はしなかったが、男衆のお酌係は任されていた。
男衆の美味しそうな料理に手をつけることは禁忌とされた。小学生の時に食べようとしたことがあったが、「これは男の食いもんだ」と酔った親戚に殴られた。殴った男が悪いのではなく、男のものに手を出そうとした私が悪いのだと母親に叱られた。
祖母や母は、男たちが散らかした食卓を片付けた後、おせちの余りものをつついていた。
ここまで読んで、「さす九」「やっぱり九州は男尊女卑が根強い」と思った人。
うちの家族は、両親も祖父母も、親戚一同、み〜〜〜んな関西出身です。
両親が仕事の関係で九州に移り住み、そこで私が生まれた。つまり、私の正月の経験に「九州らしさ」など一切ない。
もし私が最初に「これは関西の話だ」と言っていたら? このエピソードは「旧来の家父長制の悪しき名残り」「親戚にDVクソ男がいる」といった話として受け止められたはずだ。
しかし、ほんの少しでも「九州」の要素を出しただけで、話の焦点は「やっぱり九州ってやばい土地だな〜」にすり替えられる。
こうやって九州がスケープゴートにされる場面を、私は飽きるほど見てきた。
私は九州で男尊女卑を感じた回数よりも、他の地域で「九州は男尊女卑がひどい」というステレオタイプをぶつけられた回数のほうが圧倒的に多い。
そして、そのステレオタイプには常に「私たちの地域とは違って」という無意識的な見下しが透けて見える。
私は九州以外でも、九州にいたときと変わらず、女だからという理由で嫌な経験をした。
たとえば、中部地方にいたとき、当時付き合っていた男性に「九州の女だから男を立ててくれると思ったのに。なんで俺に意見するの?」と言われて驚愕したことがある。(なんでそんなダメ男と付き合ったんだと言われそうだが、最初はとても穏やかで優しく、外面のいい男だったのだ。)
これがもし九州出身の男の発言だったら、「あいつモラ男じゃん」ではなく、「やっぱり九州の男はヤバいんだな〜」と拡大解釈して語られていただろう。
友人の話もある。
友人の弟は東京の私大に進学し、一人暮らしを許されたのに、彼女は「女だから」という理由で、実家から通える地元の国立大学しか認められなかった。片道90分をかけて通学していたという。この手の話は他にも見聞きした。
もちろん九州の話ではない。
関東では、上司が女性社員にだけ「疲れた、肩を揉んでよ」「お茶淹れてきて」と平然と宣ったり、忘年会のカラオケでは酔ったフリでセクハラまがいの行為を試みていたり。当然ながら男性社員には一切そんなことしない。上司は東日本出身である。
都心部では、女性にだけわざとぶつかり続ける男性を見た。運よく私は被害に遭わなかったが、ナチュラルに女性をモノのように捉えている男性はいたし、女性の顔に一人一人点数をつける男性集団もいた。公共のトイレでは、盗撮を警戒して謎のネジ穴やペットボトルに気をつけないといけない。
他にも色々あるけど、ここら辺でさておき。
これらがもし九州で起こった話だったら、「さす九」に話がすり替わるのでしょう?
女性だけではない。男性が性別を理由に不当な扱いを受けることも、同様に。
でも、「さす九」という言葉は、ジェンダー不平等を糾弾するふりをしながら、実際には地域差別を正当化する作用がある。
「九州だから」と因果をつけることで問題が矮小化されているのだ。全国で起こりうる話なのに、まるで九州以外の地域では関係ないとばかりに、九州の男にすべてのカルマを押し付けている。
九州が話題になるたび、ネットには「九州の男にこんなひどいことをされた」という体験談が溢れる。
だが、それは九州でなくても起こりうることではないだろうか。
昭和のダメだった部分の価値観を引きずった人間は、どこにでもいる。
九州に住んでいる1200万人に後進的な価値観が刷り込まれているのではなくて、単にあなたの家族や、あなたが付き合っていた男がカスだっただけなのだ。
自分の嫌な記憶に納得のいく整合性を持たせるために、「九州のせい」と拡大解釈してスッキリするのはやめてほしい。
できるなら「さす九」とか言って九州を侮蔑するのではなく、日本全体に未だ残るジェンダー格差や家父長制の弊害に目を向けてほしい。
実際に致死率は大幅に下がる、怪我の程度も下がる。
鬱陶しいシートベルトは嫌だ
これらの施策で得をするのは誰か、そもそも誰がロビー活動したのか
ちゃぁんと得するやつがいて議員に金をばらまいて法律を作らせたのです
保険会社です
事故の被害程度が下がれば保険会社は補償金支払いが下がり利益になる
さて、そんな古き良き時代はステークホルダーと政策の因果相関が直線的でわかりやすかった。
複雑な現代は社会システムや利益エコシステムも多変数間接的で仕組みは隠蔽されがちなのだが
同じく保険会社です。
自動車対自転車の事故処理において従前保険会社は非常に不利な過失割合を強いられてきた
自転車側に相当の過失があっても保険会社はそれなりの賠償を払わされてきた。判例も固定化。
そこで電動キックボード緩和、頭の悪い連中は喜んで使う、自転車感覚
だけど事故を起こしたときに自転車と大きく異なる事故処理スキームに乗せられ大損することを知る
電キ側にもがっつりと過失割合が取られるの
日本では自転車に対して側方ギリギリの自動車による追い越しが黙認されている、
厳密には違反なのだが事故が起きなければ取り締まり対象にはならない
しかし事故が起きたときにはほぼ100%自動車側の過失として保険処理がされる
満額回答の賠償金が取れる
ところが電キ、まだ判例は積み上がってないが恐らく今後被害者側は非常に不利な判例、判決になる。
例えばヘルメット未着用、規定外のヘルメット、車体整備不良、ふらつき運転、後方確認不足、飛び出し、速度違反
従前、対自転車の事故訴訟でこれら過失要因を持ち出しても裁判官は一蹴していたのだが、
電キは話が違う
同じシチュエーションで電キだと様々な過失要因を立証され4:6だの5:5になっちゃう
保険会社は400万500万円支払額を減らすことができる、つまり利益になる
ウチの近所にも新しいもの好きちょい悪オヤジ風情のバカが違法電動やらをドヤ顔で走らせているが
バカの万能感は微笑ましい
100%の自由意志というのを信じていないというか、人間の行動ってその人の生まれた性質とか環境によっていかようにも左右されてしまうし運もあると思ってる(生まれつき善悪の区別や他人の心が分からないとか、物事の因果推論能力が不十分とか、辛い境遇で心を病んでしまったとか)。
人は、そういう初期条件や境界条件やランダム性の巡り合わせによって、やがて犯罪に至るのだと思うと、自分が何かの拍子でいつそういう振る舞いをするステージに踏み込んでしまうか分からない、もしくは生まれが違ったらあの人の場所には自分がいたかも知れない、と思うと、必ずしも相手を悪と断じることができないと思ってしまうな。
お互い別々の高校に進学したが、そこでもっとかわいい子に告白されたため、半ば強引に連絡を断って彼女との関係を終わらせた。
恐る恐る開けてみたところ、付き合っていたことへの感謝を綴った手紙と、手作りのクッキーが入っていた。
手紙はさっさと捨て、クッキーは食べるかどうか逡巡してる内にカビが生えてきたので生ゴミで捨てた。
なるべく彼女とは会わないように過ごしていたが、一度だけ彼女から「食べなかったんだね」と話しかけられたことがあった。
話しかけられた時はなんのことだか分からなかったが、後から「(お前が今も生きているということはクッキーを)食べなかったんだね」という意味なのではないかと気づいた。
確かに彼女の家は、家と病院がくっついているタイプだったので薬を手に入れようと思ったら手に入るのではないだろうか。
今となっては知るよしもないが、もし迷わずクッキーを食べていたらと思うとゾッとする。
Permalink |記事への反応(15) | 20:54
指原莉乃のスキャンダルがなかったら、今のKPOPはどうなっていたんだろう
指原スキャンダル→HKTに左遷→HKT大躍進→宮脇咲良が育つ→宮脇がKPOP挑戦→大成功→現在に至る
という流れがある
もちろん宮脇咲良はとんでもないバイタリティとアイドル適性を持つ人間なので指原がおらずともアイドルとして成功していたとは思うが、指原なしでは今の宮脇咲良は完成していないだろうし、そしたらIZ*ONEやLe Sserafimも存在しなかったのかもしれない
2021年〜2024年頃のKPOPを追うのは本当に楽しかった(最近はしんどいが)
なので指原の元カレが週刊誌にネタを売ったことに、我々オタクは感謝しないといけないのかもしれない
風が吹けば桶屋が儲かると言うが、そのような因果を今のKPOPにも感じている
良い会社は女性が活躍できる環境が整ってて最適人材をポジションに就けられるから業績も良い。
そのままの環境で「女性管理職3割」にしても良い会社になるわけない。
因果関係が逆では。
違う違う
そうじゃないよ
その余裕が生んだナニカが次代の(良い)仕事を生む
因果関係が逆だよ
業績が良くて余裕があるからホワイトになれ、良い会社になれたんだよ
余裕に支えられているだけかもしれない
そうならないように「誰かが」支えている
にも拘らず、余裕があるから業績がいいのだと因果関係を歪めてしまう
よくある勘違いだ
そうあるのが当たり前みたいに言うな
で
これ、本質的には男女の話ですらないんだよ
でも、女性活動家様が、空調のきいた室内の快適な仕事で女性の管理職が少ないのは差別だと宣ったから
ここだけ極端に数字が注目されるようになった
バスの窓からは憂鬱な沖縄が見える。ここは誰の島か、爆買い中国人か米兵か薩摩藩か。スコールが予報なしに降っている。可食部が猫の額ほどのこの島で、俺は何もせずに生きている。隣のクラスの不良黒ギャル(白いギャルは不良たり得ない)ですら妊娠しているというのに。あらゆる文化の衝突地点、将来的な紛争の緩衝地帯ど真ん中で漂い、すべてが他人事だ。北京で舞ったカチャーシーは、この南の島でレイプになる。俺は悪くない、俺は何もやってない、何もやってないから俺が悪い。
キウイ100個を6m持ち上げる、活動量の少ない女性8.64秒活動する、これを8回繰り返したところで何も変わらない。キウイは出荷され、女性は1分強生活する。
しかし、真鍮の筒に詰められたニトロセルロースに鉛で蓋をして、それがチクワ等の指向性のある銃身から放たれたらどうだろう。
歴史の本のどこを開いても虐げられてきた、翻弄、またこれを放埒とあげつらわれてきた、なんの力も持たない、俺の力になってくれそうだとは思うが、俺の無力な血筋が、どうにかなってくれるような──頼むからそうであってくれ──俺の前前前世からの長い長い負け癖をひっくり返す大番狂わせになってくれろ。
ここには俺の敵がすべている。気に入らない奴らが一直線上にいる。手始めにスライドを引く。空虚な薬室に無回転の革命が入り込んでくる。いいぞ、あとは引き金を引くだけで、キウイ10個を60m持ち上げるほどの力が放たれ、俺の革命が起こる。8回しか起こせないんだ、一発で3つ一気に串刺しだ。
ニトロセルロースは爆轟し、キウイ600個は凡そ1m吹っ飛び、何個かのキウイは学ランの襟を掠め喉を切り裂いた。
なんの因果か、トカレフは中国粗製、弾も然り、それらは飼い主の首を噛んだ。
哀れ学ラン、独り相撲、拾ったフンドシで。
オールドオーバーズの面白ポイントはまさにその部分なんだけどな。
・臭い
・嫌われ者
・嘘つき
この中高年絶望三種の神器を揃えたオッサンが未来ある若者に「境遇を理解していただく」という展開が感動的なんだよね。
そこに不貞腐れて繰り返した嫌われムーブ、更にはそもそもがメンヘラ気味で人格が破綻しているという事により完全に終了。
信頼関係を築くことはほぼ不可能となり、上っ面のしょーもない「僕ちゃん品行方正すぎて嫌われちゃうのよね」というしょうもない優等生アピールで生存政略。
いい年こいたハゲジジイのしょーもないいい子ぶりっ子はいよいよ嫌われの極みに達し、何かことが起きたら誰も庇ってくれない信用ランク最底辺の生きた生ゴミとなってしまう。
そんなクソジジイが何の因果かイケメンの気取ったヤングマンから「あんたも大変なんだな」って理解していただくというストーリーに、同じような境遇を抱えている世界中の負け組ジジババが涙してるわけ。
まあ人間って中年になれば自然と体が臭くなって、必死に朝シャンするとか香水つけるとかで必死に誤魔化しながらギリギリで人権維持してるんだけど、その状況に強いストレス抱えてるわけよ。
でもソレに対して「臭いからなんだよ!怒りっぽいからなんだよ!俺だって頑張ってるよ!」なんて叫んでも誰も同情してくれないし、ジジババ同士の間でさえそんなこと言っても説教されるだけ。
そんな特効薬のない社会的病に対して、ほんの短い時間だけど効果のある鎮痛剤をくれたのがこの映画なのよ。
主人公のオッサンに対して「可愛そうに……俺もなんか気づいたらワキとかマクラとか臭くて娘から汚物扱いされてて毎日泣きそうだよ……」みたいに共感したりする奴の人生が終わってるだけだもの。
人生がまだ終わってない奴にとっては、何の価値もない無価値な映画だ。